第10話己が身の闇より吼えて夜半の月

 髪が伸びたな。

 最初の印象はそれだった。

 ひねもす堂に連絡を取り、応諾おうだくを得て事前に知らされていた到着予定日に松ノ屋で待ち構えていると、お嬢さんぜんとした小夜子が独りでやって来た。

 彼女の実家である倉島家はそれなりに裕福だと聞いている。若い娘の遠出にも関わらず、誰も付き添ってはいないところをみると、今もひねもす堂に身を寄せたままなのであろう。

音在おとざいさんは?」

「伯父様は暑気中しょきあたりで動けないから、わたしが名代みょうだいとして来た」

 名代とは言うけれど、小夜子がたずさえているのは手回り品に限られているようで、駿太郎のかねて依頼の品とおぼしきものが見当たらない。それを指摘すると、「二、三日中には到着するだろう。理由は分らないが、伯父様は私が手ずから持ち運ぶ事をがんとして忌避きひして小包で送ると言っていたから」

 然もありなん。

 あんな訳の分らんモノ。自身で持とうという者も居なければ、血縁者に触れさせたいなどと思うはずが無い。

 駿太郎がだくでも無く、いなでも無く、黙っていると、「気に入らないのなら、わたしは帰る」小夜子はあっさりと言い放った。商売事の何たるかを知らない部分はなるほど、お嬢さんには違いない。

「誰もそんな事は言っていない、簡単に決めるな」

 小夜子の眉間にたて一本線のしわが刻まれた。

「まあま、おかまいもしないで、大変申し訳ございません」

 女将おかみを先頭にどやどや仲居なかい一同が小夜子の部屋へ挨拶に参じた。

 本来なら、この屋の主人である松太郎がこの場に居るはずなのだが、彼の姉が帰還して以来、表に立っているのはもっぱら小梅だ。

 女将が名乗りを上げたところで、間髪かんぱつ入れずに小夜子が反応した。

「あなたが、小梅様ですか?」

「はい?」

「小梅様ご自身がご存じ無い事は重々じゅうじゅう承知しております。ですから、これは藪から棒のようなお話でしょう。ですが、わたくしは、わたくしの人生の危機に直面するに当たり、こちらの方の進言しんげんによって、はからずもあなたのご助力じょりょくを頂戴した者でございます。そのせつは誠にありがとうございました」

 畳に頭をこすり付けるようにして、小夜子が深々と頭を下げた。

 まったく常識の無い手合いでは無いのだ。

 “こちらの方”とは、勿論もちろん駿太郎の事であるが、大層な口上こうじょうの割に、駿太郎にはさっぱり重きを置かれていないのが小癪こしゃくである。

 ところで、小夜子の唐突で訳の分らない申し出に対して、一瞬、不得要領ふとくようりょうなへのへのもへじ顔を駿太郎に向けはしたものの、さすがは年の功、小梅はビクともせずに涼しい顔で応じた。

「さて…それは。あたしが知らないお話となると、詳しくはお食事の時にでもゆっくりとお伺いさせていただきますよ」

 女将はにこやかにその場を収めて座を立った。しかし客間を下がり際、小梅はあやまたず駿太郎の襟首を捉えて座敷の外、廊下へ引き摺り出して問い質してきた。

「駿ちゃん、あの娘があんたのお嫁さんかい?」

 咄嗟とっさに何の事を言われているのかが分らなかった。だから即座に応じる言葉も出ず、駿太郎は横着にも目頭で問い返した。

「だって、先に駿ちゃんの縁談話があったろう?そんな事でも無けりゃあ、駿ちゃんにあんな可愛らしいお嬢さんの知合いがあるはずもないじゃないか」

「ああ…」

 そう言えばそんな事もあった。

 今となっては我が事ながら隔世かくせいの感が強い。

「あの人は、日頃お世話になっている老舗の骨董屋の親戚筋の方なんですよ。今回はご主人が体調不良との事で、代理でお越し頂いた様です」

「そうかい…。ま、ともかくは駿ちゃんのお客と言う事には変わり無いんだね?だったら、気合を入れておもてなしさせて頂くだけさね」

 小梅はヒソヒソ話に丸めた背中をすっくと伸ばすと、パンとひとつ力強く帯を叩いて胸を張った。

 驚いた事に女中一同もそれに倣って背筋を伸ばし、一斉に帯を叩く。小梅の女将っぷりが従業員の尊敬を集めている明かしなのだろう。そう思うと突然と嬉しい気持ちが湧き上がって来た。

 さて、それは良しとして。

 小夜子とはまだ話が終わっていないような気がして、彼女の居室と定まった牡丹の間に取って返した。

「なんだ。まだ何か用か?」

 小梅の言う“可愛らしいお嬢さん”の口から例のごとくの乱暴な言葉が飛び出した。

「出掛けるのか?」

 わずかの時間に彼女は男物のシャツとズボンに着替え、かろうじて肩先をかすめるくらいに伸びた髪をひっつめて一つに結わえていた。

「見れば判るだろう」

「どこに行く?」

「さあ…。まだ決まっているわけではない」

 どう見ても、“お嬢さん”が避暑地で土産物みやげものをひやかしながらのんびりブラつこうといういでたちでは無い。

「じゃあ、俺がここいらを案内しよう。幸い今日は他に用事も無い」

「別にいい、案内なぞ要らない」

「そうはいかない。この辺りは町場と違って一度山側に踏み迷えばそのまま帰って来られなくなることもある。否が応でも俺はついて行くからな」

「あんたの好きにすればいい」

 小夜子は木綿の大きな頭陀袋ずだぶくろを肩からたすきに下げ、つば広の麦わら帽子をつかむと、こちらに背を向けながらそう言った。

「おい、上っ張うわっぱりは絶対に持って出ろよ!」

 フイと振り返った小夜子は眉をひそめつつも、

「分かった」

素直に請け合った。

 音在氏宛には予め、この地の谷底地形と朝日の到来の遅延具合と早過ぎる夕暮れという地域条件について知らせてある。それをどこまで小夜子に伝えられているかは不明ながら、彼女の到着間もない今はまだ午前九時を少し過ぎたばかりだ。窓外の景色は未だ薄闇の水底にある。初秋とはいえ、山の空気は既に充分すぎるほど冷ややかだ。小夜子の細い肩先と薄い背中が余計にうそ寒く感じられて、ついつい口煩くなってしまった。これではまるで心配性の兄と、野放図のほうず無頓着むとんちゃくなその妹という図ではないか―。とは言え、気に掛かるのだから仕方が無い。駿太郎は口のはしまでり上がる溜息を無理やり折り畳んで胸の内に押し戻し、小夜子にくっついて松屋の玄関を出た。

 出がけに松ノ屋の女中が小夜子に差し出したのは、どうみても弁当の包みだった。何時いつの間に注文していたのかは分らない。ともかく彼女は日暮れまで戻るつもりは無いらしい。

 うっかり息をついてしまった。

「あんたの都合で、いつでも居なくなって構わないよ」

「今日は他に用事は無いと言ったろうよ」

「そうだったな」

 小夜子は旅先の珍しい景色を描こうという心づもりのはずだ。駿太郎はそんな予測を立て、それは正に大当たりで、しかし、どの拍子で彼女が立ち止まり、画帳がちょうを広げて鉛筆を取り出すのかは全く予想の付けようも無かった。

 小夜子とは無遠慮な応酬おうしゅうが有るとは言え、気安い仲であるとは言えない。最初は気を使って少し離れた場所から彼女を見守っていた。少しずつ近寄って、彼女の手元を覗き込んでも嫌がる気配が無いことを確かめた後は、紙の上に現れる景色にすっかり魅了されてしまった。

 何の目印もあるわけではない白い紙の上を無造作に鉛筆の先が行ったり来たりしているだけなのに、たちまち森や林が、町場の様子がつぶさに映し出されていく。筆記用具を操る小夜子の顔には悩む様子も迷う気配も見られない。以前に読んだ本の中で彫り物師の手際を眺めていたある男が、あれは木の中に元々埋まっている造形物を掘り出しているだけなのだと言うくだりがあったが、まさにそんな感じだった。それぐらい簡単そうに見えるし、自分にも出来そうな気がしてくる。だがしかし、だまされてはいけない。物語の続きでは、男の言葉を真に受けた主人公がやっぱり試してみるのだが、空っぽの木にがっかりして終わる。確かそんな結末だった。

 ―しかし、まあ。そんなものを引き合いに出さなくとも、頭っから自分には無理だということは良く分っていた。何しろ駿太郎には小夜子が何に気を留めるのかも不明なら、開いた画帳の紙面いっぱいに描いている時もあればそうでもない時もあり、克明こくめいに景色を写しているかと思えば、道行く人の姿をちゃちゃっと形を取るだけで終わらせる行動全体が不可解なのだ。あんな真似まねは到底出来やしない。

 ともかく。そのような具合で、駿太郎は一時たりと退屈を覚えなかった。それどころか、あっという間に時間が過ぎていく。秋の斜めの光が北の斜面を照らし始めたら昼時だ。驚いたことに弁当は二人前用意されていた。駿太郎の同行を渋った小夜子の注文ではあるまい。小梅が気を回したものだろう。

 さすがに妙齢の令嬢に歩き食いをさせるわけにはいかない。適当な場所に敷物を延べて弁当を広げた。

 食事の間中も画帳に向かって夢中で鉛筆を走らせている小夜子と言葉を交わすという場面は無い。しかしそれにはとうの昔に慣れっこだったし、あまつさえ今の身の上となっては懐かしくさえあった。

 昼食を済ませてしまえば日暮れは早い。特にこの土地では、つるべ落としなどというのんびりしたものではなく、問答無用と頭から袋を被せるように夜のとばりが降りてくるのだ。小夜子も俄に手元が暗くなってきたことに気付いたのだろう、ごねることなく宿へ戻ることに同意した。もっとも、不平がましい小夜子など、駿太郎には想像もつかないのだが。

 どちらかと言えば彼女は我慢がまん強い方で、いよいよこらえきれなくなった時に普段の様子からは思いも寄らない行動に出る性質たちなのではないかと、別に根拠は無いのだがそう思った。

 ―いや。これは思い込みと言うものではなかろうか。女はなべて我慢強いものであると決め込んでいないか。

 思い返せばかつて駿太郎の友達に女兄弟の有る者は居たためしがない。女性の知己ちきと言えば清子を始め、お玉に小梅と分別盛ふんべつざかりの年配者ばかりだ。耐え忍ぶことにかけては年季がものを言っているはずで、我慢など当たり前の域に達しているだろう。

 かろうじて知っている(と言えそうな)若い娘は美耶子と小夜子だけ。

 前者は自身の意向などそっちのけで他人の意のままに、あっちへユラユラこっちにユラユラと、まるで風に吹かれる柳の枝の様な娘だった。心の在処ありかが定まらない者に我慢の二文字があるはずもない。

 小夜子は―…。

 やっぱり謎だ。

 何か書くものさえ与えておけば、放っておいても問題無いというところまで知っているつもりだったが、今日目の当たりにした様子から推して、屋内に留めている限りは問題無いが外に出すと危ない。どうも彼女は紙と鉛筆を握ると、虫を追う子供並みに視野がせばまるように見受けられる。気を引かれるままに崖っぷちから谷底へ転げ落ちたり、沢にはまったりしないよう見張っておく必要がありそうだ。



 駿太郎は翌朝も早くに松ノ屋へ赴いた。小夜子に勝手に出歩かれてはたまらない。それに、依頼品の見当が外れてしまったこともある。

 てっきり手練れの骨董屋主人が持参すると思っていたものが別便となると、宿泊先の所番地しか知らせていないのだから、当然荷物は松ノ屋に届く。遅ればせとなったが、届いた荷物にはくれぐれも気をつけ、安易に手を触れないようきつく言い聞かせておかなくては。逗留客ではない駿太郎は勝手口の方へ回る。

 従業員通用口では折しも、松ノ屋の年少の女中が小包郵便を受取ろうとしているところだった。

「あっ!」

「あらぁ。お早うございますぅ」

 こちらに顔を向けていた女中は、のんびりと挨拶を寄越した。駿太郎の声に驚いて振り向いた郵便配達は、宿の知り人と心得ると軽く会釈をした。

「それっ…」駿太郎は女中の手の中の包みを指差した。遅きに失したかと動転して言葉が続かない。

「昨日の朝到着したお嬢さん宛のお荷物ですよ」女中は一抱えもある包みをちょっと持ち上げてみせながら、すたすたと歩み寄ってきた。「丁度良かったわぁ、お嬢さんとこに訪ねていらしたんでしょう?持って行ってくださいな」駿太郎へホイと渡して寄越した。

 客ではないから、小娘みたいな女中にも気軽に使われる駿太郎であった。

 宿の逗留客ではないとは言え、他所から訪れている者には茶の一杯ぐらいは供される。しかも女将の懇意とくれば、茶菓だって付いてくる。

「ああ、やはり今日届いた」

 小夜子がようやく荷物の方をかえりみたのは、菓子鉢の中身が食べ尽くされ、茶も飲み干されて尚、しばらく経ってからだった。

 女中から手渡された荷物は予想外に持ちおもりのするものだった。どうも駿太郎の待ち受けているブツではないようだ。安心してそのまま牡丹の間へ持ち込むことにした。

 座敷の中では例のごとく鉛筆を構えて画帳にかぶりつく小夜子の背中があった。

しかしそれだけではなく、その背中に更にかぶりついて、その手元を食入る様に覗き込む環の背中もあった。

「凄いなあ。いや、本当に凄いなあ」

 感心しきりと環が見下す、畳の上に広げられた画帳の中には乙に澄ました八咫の姿が納まっていた。

「お気に召しましたなら、これは差し上げます」

「ええっ、いいのか!?」

 小夜子は鴉を描いたページを切り離すと環に差し出した。

「うわあ。そっくりだな。見てみろよ、八咫!」

 床の間に、まるで気配を殺すかのように小さくなった八咫の姿があった。どうも駿太郎が近くに居ると、いつもこんな感じなのだ。

「わたくしはこれらに厭われているようで、これまでこんなに近く寄る事が出来た例がありません。稀有けうな機会を頂き、誠にありがとうございます」

「そんなのお安い御用だ。またコイツの顔が見たくなったら、いつでも言ってくれればいいよ」

 有頂天の環は気づかないようだが、小夜子の口上はなかなかに不穏ふおんだった。彼女は今までこれらへの接近を試みては、その都度逃げられてきたようではないか…。

 小夜子の鴉を追い回す姿が、ありありと脳裏に浮かんだ駿太郎は思わず頭を抱えた。

「さてと、いつまでも油を売っているわけにはいかないな。何かあったらすぐに声をかけてくれよ、お嬢さん。それじゃあ」

 環は新しい家宝を諸手もろてささげ、黒い相棒を引き連れて上機嫌で退室していった。

「ご苦労様です」

 言葉遣いについてはさておいて、今日の小夜子は身支度みじたくからしてお嬢さん然としており、出掛ける様子はないようだ。

 彼女が屋内に居る限り、見張っている必要は無い。しかし音在氏の送り出した荷物の到着は待たなければならない。さりとて、松ノ屋の中をうろついて暇潰しをするわけにもいかない。

 他に致し方も無く、駿太郎は小夜子が荷解にときをする様子をぼうっと眺めていた。

 荷物の中身は、少し張り込んだ菓子折りぐらいの大きさの木箱がふたつ。小夜子がひとつずつ蓋を開けて中身を丁寧にあらためている。

「何だ。それも絵の道具なのか?」

 小さな容器や紙包みの間に筆も見えたから、そんな見当をつけた。

「こちらはそうだが、こっちは伯父様が用意したわたしの仕事道具だ」

「仕事道具?」

「伯父様は度々わたしに仕事を与えるんだ」

 ああ。

 じゃあやっぱり、地獄絵の屏風を二束三文にそくさんもんにしたのは小夜子だったのだ。―とすると、小夜子の用向きは名代ばかりではないことになる。

「お前は一体、ここでどんな仕事をするんだ?」

 駿太郎が待っているのは蛸唐草たこからくさの小皿一枚だ。もしかしたら小梅の母親が松ノ屋の蔵の中からかすめ取ってきたものかもしれないという品で、首実検ならぬ皿実験として、小梅に一度だけ確かめさせる為、取寄せてみようと思い立ったのだ。

 駿太郎が小梅に(皿は火事で焼失したという)嘘をつき続けに済み、小梅も真贋しんがんを見極めてすっきりするなら、これほど良いことは無い。

 モノは陶器なのだから、紙と違って絵描きが一筆くれてどうこう出来るというものではない気がするのだが?

「さあ…。それは知らされていない。状況によるということらしいから。けど、その時になったら必ず分るはずと、伯父様は仰っていた。なら、そのとおりなんだよ。あんたは伯父様の荷物を待っているのだろう?伯父様はあんたがそうするはずだし、それは間違いなくそうした方が良いと言うことだった」

 ふと駿太郎の心が和んだ。

 さすが大先輩はお見通しだとの思いもあったが、それよりも自分を知る人の存在を身近に感じたことの方が大きかった。小梅と源信を除けば、まだまだ付き合い薄くほとんど見知らぬ他人に囲まれての生活は予想以上にこたえるものであるらしい。

「だから今日以降はあんたを付き合せる訳にはいかない。わたしは宿にジッと留まって、荷物が届いたら誰にも手を付けさせずにそのまま直ぐ知らせるようにする。あんたにだって他に仕事も有るだろうから、自分の宿に戻ってくれて構わない」

 ありがたい申し出だ。なのに、駿太郎はきく屋に戻らなかった。それは久しぶりに触れた音在氏の気配に、妙に人心地ひとごこちが付いてしまったせいかも分らない。






 隙間すきま無くぴっしりと塗り籠めたような、真っ黒な闇だった。

 自分はどうしてこんな処へ来てしまったろうと、そんな事ばかりが頻りと気に掛かった。

 おかしな事だった。

 だって今はそれどころではないはずなのだ。もの凄い勢いで後ろに引っ張られていて、どうもそれが、誰かに力を加えられているというものではなく、どこからか落ちて行く途中のようなのである。かと言って、どうしたら良いのかさっぱり分からない。止まったら良いのだろうか。いやいや、一度落ち始めたら、落ち切るまでは止めようがない。

 そこで唐突に気がついた。

 下に着いたらどうなるか。

 ここまで随分長いこと落ちている。

 そういうことなら、止まったところで助かりはせずに死ぬではないか。

 ―タスケテ、ダレカ!


 まえにもこんなことがあったわ

 ずっとずっとまえに


「えっ?!」

「どうしたの、あなた。急にそんな大きな声を出したりして」

 窓から差し込む西日で茜色に染まった台所。逆光の中に菜箸を構えた割烹着姿の人影が見える。影はこちらを振り返り様子をうかがっているようだ。

「ああ、お母さん。なあに、あたしがどうかした?」

 そうだ、母と一緒に晩のご飯仕度をしていたんだっけ。

「もうすぐお嫁入りだと言うのに、いつまでも娘気分でいたのでは、ゆくゆくあなたが困りますよ」

「はぁい」

 ちょっと前まで叱責される際の枕詞まくらことばは“嫁入り前の娘が”だったけれど、縁談がまとまってからは“もうすぐ”が付け加わった。一年前から“もうすぐもうすぐ”言われてきてみれば、この頃ではいい加減耳タコでまともに耳を傾ける気にはなれなくなっていた。それに、特別に選ばれた人だけがそうすると言うならまだしも、お嫁入りなど誰でも当たり前にしているではないか。そう大層なこととも思われない。夜に口笛を吹くと蛇が出ると同じでんで、昔はそれらしい迷信がくっ付いていたものが、いつの間にかそれが失われて意味不明になったのかも知れない。そんな風に高をくくっていた。

 しかし実際に他家に入ってみて、その言葉の意味を思い知る事となった。息子が妻を娶ったとは言え、相変わらずの若輩者であるから、一家の方針を握るのは引き続き舅姑きゅうことなる。何日何ヵ月何年と寝起きを共にしたところで、ここは舅姑が居なくなるまで他人の家だ。

 嫁いびりをされたからという訳ではない。それどころか、子供は息子ひとりきりという家庭だったため娘が珍しく、かつ不慣れであるという事情から、こちらが気の毒になるくらいの気の遣いようなのだ。それが少々息苦しいけれど、恨み辛みといったものは無い。 

 では何が問題なのかと言うと、風習…いや、家風?その代表例たるものとして、当家にてはいま方違かたたがえなるものが励行れいこうされている。

 方違えとは、外出の際にはいちいちその方角の吉凶を占い、凶と出たなら一旦真逆の方向へと向かい、一泊してから目的地へ赴くという、女学校時代に教養を身に付ける為として読まされた王朝文学の中に山ほど出てきたアレである。女学生当時は、昔の人は何と暇であったろうとの印象しか残らなかった。それが、意外や意外実践している人々が今も居て、それも本気でやっているとなると、実に興味深く面白かった。

 ところが事はそれだけに収まるものではなかった。日々の生活のことごとくが舅姑によってあらかじめ決められてしまうのだ。朝の献立はこれこれで、昼はあれ、夕食はこうすべき。今日の身支度はあれとこれとそれ。それは今日中にすべき、そっちは日が悪いから明後日に日延べしなさい。細かく指示されてその通りにやれば良いだけなので、楽と言えば楽だが退屈だった。

 ある日の夕方、夕餉のさわらを買いに行く魚屋の方角が凶と出た。

 さすがに一泊と言うのは現代的ではない。逆方向へ行ってこれを食べなさいと飴玉をひとつ渡された。食べるという行為が邪を払うのだと、しゅうとめが眉間に皺を寄せて真剣に言う。

 そんなものかと、飴をしゃぶりつつぶらぶら出掛けた。家から出てしまえばこっちのものである。途中で駄菓子屋へ寄ってカリントウを買った。

 その道すがら、勤め帰りの夫にばったり出会わした。

 大学出の白皙はくせきの美男。確かに風采ふうさいは良いけれど、ただそれだけ。度量が大きいとか、茶目っ気が魅力的なんて事は一切無い。でもこれが、自分の今後の人生として定めた事のひとつなのだ。文句を垂れたところで時間の無駄である。

「今日もご苦労様で御座いました」

 深々と頭を下げたところで、「それは何?」 夫が聞いてきた。

 駄菓子屋の親父がねじって閉じたわら半紙の小さな包み。揚げ菓子の油が染み出している。

「買い食いかい?」夫の若くてつるつるした眉間に姑とそっくりの皺が寄った。

 何故この人はこんな顔をするのだろう?

 ほんのひと口かふた口くらいの、豆腐一丁よりも安く贖ったおやつに何の罪が有る?

「カリントウ。召し上がる?」

 間違いなく大人のはずの我が良人りょうじんが、急に頼り無くあどけない子供の顔つきとなった。その愛らしさに思わず釣り込まれる。

「くれぐれも、お義父さんとお義母さんには、内緒にして下さいね」

 暗黙の内に自分は口をつぐみますよと宣言した。ずるいなと思わなくも無い。真田紐の押し売りよろしく夫の鼻先へ紙包みを突き出す。

 恐る恐るカリントウを口に入れた夫は「美味しい!」と一驚し、それこそ花が開いたような笑顔を見せた。

 ―いみじう美しきちごのいちごなど食ひたる

 何て美しい顔なんだろう。

 それにしても、夫の笑顔を見るのはこれが初めてだ。役所なぞと言ういかにも窮屈で退屈そうな仕事が務まる位なのだから、そもそもが朴念仁ぼくねんじんなのだと決めつけていたが、本当にそうなのだろうか?好奇心がむくむくとふくれ上がった。

 共犯と言うきずなを結んだあたしたちは、程なく無二の親友となった。それは舅姑にとって大きな誤算だったろう。何しろあたしは厳しい校則のあみの目をかいくぐり、時にエスケイプと洒落込しゃれこんでもしれっとおとがめなしを勝ち取って来た百戦錬磨の跳ねっ返り娘なのだ。女学校出という銘柄を気に入ってあたしを嫁に決めてくれたふたりには、お生憎様とより他に言い様も無い。

 なかなか娘気分の抜けないあたしと、大人となっても自分の好きな色さえ判断のつかない代わりに頭脳明晰な夫とは、お互いに良い相棒だった。

 それにしても、学生だった頃は教師よりも生徒味方の方が圧倒的多数だったから、大抵のことは容易だった。でも、今は二対二の互角。舅姑を出し抜くのに苦慮するあまり、時折破れかぶれに暴走しそうになるあたしを、まあまあと押し留めつつ彼が示してくる妙案には毎回舌を巻いた。

 驚嘆し賞賛しつつもそのうち、負けん気が顔をもたげてきた。そんなに何もかも理詰めで答えが出るもんかしら?

「これが、そうなのかい?」

「そう。お祖父ちゃま秘蔵の、何でも望みの叶う魔法の文箱よ」

 あたしが得々として風呂敷から取り出したのは、古ぼけた汚い木箱がひとつ。

 実に酷い代物で、塗りは剥げ切って元を想像するのも難しく、形もたわみがちですっきりした長方形には見えない。

「鍵を掛けられるようになっているんだね」

 文箱にはそのお粗末な姿に似合わぬ、立派な装飾を施された金属製の錠前と鍵が付いている。

「箱にしまった大事な願いが盗まれてしまわないように、鍵を掛けておくのよ」

 出任せだ。でも、あたしはずっとそうに違いないと信じてきた。だから、半分は本当だ。

「なるほど…」

 我が良人が本当に賢い人なのだなと思う理由のひとつとして、彼は決して頭から否定することがないというのがある。今も彼は素直に納得し、感心の溜息を漏らしていた。

「それで。これはどうやって使うのかな?」

「手紙を書くのよ、勿論」

「…手紙。ああ、文箱だからだね。でも誰に向けて何を書けば良いのだい?」

「一番の願いを自分宛に書くのよ。それなら嘘は書けないでしょう?この文箱は本気の望み以外は叶えてくれないんだから」子供の頃から空想し続けてきた事をすらすらと口に上せる。

 あたしたちはそれぞれ手紙を書き、文箱に収めてしっかりと鍵を掛けた。

「今日からきっかり十日後の真夜中に箱を開けるわ。そしたらもうその時には今入れた手紙は消えていて、その代わりに願いを叶えるためにどうしたら良いか返事が入っているはずよ。でも、もしも嘘の手紙を入れていたなら、空っぽのまま」

 この文箱は、あたしが嫁に来た時に実家からこっそりと持ち出した祖父の遺品のひとつだ。願いが叶う云々は祖父の言によるもので、当然ながら家族で信じる者などひとりも居ない。あたしも信じてはいない。ただ、あたしには思い出があった。

 それはあたしが小学校中学年の頃の事で、もう簡単には大人に騙されなくなっていた。

 だいたい頭に“魔法の”と付いた途端にもう怪しいし、箱が何かをするのではなく、箱の中身がモノを言うのだろうと睨んでいた。そしていつかその正体を掴んでやろうと虎視眈々こしたんたん、機会を狙っていた。

 中に入っているのはダイヤモンドとか真珠といった宝石だろうか、それとも金や銀とか?今思い返してもばかばかしい妄想も逞しく、意気揚々と開いた木箱の中はすっからかんの空だった。

「危ないッ!」

 あたしは逆さにして振っていた木箱をからりと取り落とした。祖父は後ろからあたしを抱き上げると、急いで木箱を蹴り飛ばして飛び退すさった。

「これはどんな望みも叶えてしまう箱なのだよ。だから、何の覚悟も心得も無い者が気安く触ってはいけない」

 物静かなはずの祖父の大声と、いつもあれほど大切にしている木箱への異様な振る舞いに、あたしは縮み上がった。

 あの時祖父は真剣だった。

 それ以降も相変わらずあたしは木箱の力など信じなかったけど、その代わり空想の世界で奇跡の力を楽しむようになった。

 心だけはいつだって自由だ。理屈なんて要らないし、虚実だって関係無い。空も飛べれば、深い海の底を散歩することだって出来る。けれど如何せん、この楽しさを余人と分かち合うことは出来ない。何故なら、自分の心は自分だけのものだからだ。

 これまで何ひとつ自分で選ぶことも決めることもしてこなかった夫にこの方法は難しい。これはあたしたちには不向きだろう。そう思ったから、今までこの案は持ち出さなかった。

 でも、理路整然たるものに対抗するなら出鱈目しかないだろう。試してみることにした。 ごっこ遊びのつもりだった。

「鏡だね。どういう意味だろう?」

 文箱の中には、女持ちの手鏡が一枚入っていた。

 手の平に収まる大きさの、持ち手も無い真ん丸の鏡。どこかで見た覚えのある様な。どこでも売っていそうな、ありふれた作りだからそう思うのだろうか。自分なら絶対に選ばない様な飾り気も素っ気も無い…お義母さんのかしら?まさか!箱の鍵にはひもを通し、この十日間ずっと首から下げて肌身離さずしてきた。でもじゃあ、手紙はどこへ消えたの?

 すとん

 何かが落ち込む気配に、ハッと我に返った。それは丁度、ウトウトし掛けた時にびくっと来る、あれに似ていた。思案を廻らしているつもりが、居眠りでもしていたのだろうか。夫の方を見やると、彼は鏡を握ったまま眠りこけていた。

 その途端、言うに言われぬ歓喜があたしを包み込んだ。

 わあ、本当だった、本当だった

 願いを叶える魔法の文箱は本当だった

 これは、夫の声だ。しかし我が良人はすぐそこで眠っているし、寝言を言っている様子も無い。

 鏡を見てごらん

 やっぱり。夫の声に間違いない。夫の手から取り上げた鏡を覗いてみた。そこにはあたしの顔ではなく、夫の笑顔が映っていた。

 僕は別人になってみたかったんだ

 父さんにも母さんにも見分けられないように

 でも良く知らない他所の人では嫌だから、君になってみたいと願ったんだよ

 こんな事ってあるかしら、思わず指を当てた唇が勝手に動いていた。ああ、分かった!喋っているのはあたし…ではなくて、あたしの口を借りて夫が喋っているのだ。

 …それは分かったが、このままでは困る。鏡を覗いたらあたしになれたのだと夫が言った。それではと、試しに眠っている(様に見える)彼の顔を鏡に映してみたら元に戻った。

 ともあれ、何でも望みの叶う魔法の文箱は本物だった。

 本気の望み以外は叶えてくれないと言うのは、あたしが勝手に考え出した嘘んこだから、あたしたちは最初に掟を決めた。

 一つ、魔法の文箱は二人だけの秘密とする事

 一つ、魔法の文箱に叶えて貰う願いは、ふたりで良く吟味して決めた事に限る

 一つ、決して他人をどうこうしようなどと願わぬ事

 みっつめが最も重要な決まりだ。だって、どんな願いも叶うと言うのなら、病気や事故その他あらゆる不幸も思いのままになるはずだから。

―何の覚悟も心得も無い者が気安く触ってはいけない―

 全くその通りなのだ。

 それからのあたしたちはコソコソすることなく、正々堂々?魔法の文箱に―だいたい月に一度―願いを懸け続けた。他愛のない願いばかりだった。例えば初物の桃が食べたいだとか、サーカス見物をしてみたいなど。そうすると思いも寄らぬ方面から到来物があったり、舅姑にも無下に断れない筋からご招待を受けたりした。ささやかだけど、あたしたちはそれで幸せだった。

 そのうち娘をひとり授かり、ふたりは益々上げ潮に乗った心持ちだった。

「ちょっと」

 ある朝あたしは、朝食を終えた夫を仕事に送り出した後、舅姑に仏間へ呼びつけられた。唐突に夫との離縁を申し渡された。

 一体どうして?!これと言った粗相はないはず…。

「家を継ぐのは直系の男の子でないと正しくない」

 しゅうとがぼそりと言った。

「でも、世間では良く一姫二太郎とか申しますでしょう?」

「あれから三年待った。だけどアンタは未だ次の子を身籠る気配も無い。早く次の手を打たないと手遅れになるからね」

 あたしの“でも”にカチンと来たのだろう、ムッとしながら姑が応えた。

 あれからとは、あたしたちの娘が生まれてから、の意だろう。舅姑の言い分にも分らないではないところもある。娘を授かるまで四年、それから三年音沙汰無し。一人っ子で終わってしまう可能性の方が大きそうだと、あたしですら思う時がある。だからって、嫁を取り換えましょうとは…。

 このふたりはあたしにとって、全くに意味不明だ。永遠にそうに違いない。

 そもそも、正しいとか正しくないとか言う価値観が理解不能だ。何もかもが一時で決まるものではない。大失敗して身も世も無いほど落胆したとして、数分後か翌日か、何か月後か、それとも何年何十年も時が過ぎても、あれはあれで良かったんだと思えたり、場合によってはあのお蔭で助かったんだと分ったりすることだって有る。あたしは子供の頃から親族の家でそんな懺悔ざんげ話を笑い話としていっぱい聞かされてきた。人間万事塞翁が馬であたしは育った。

 そう言えば、この家には親類縁者が訪ねて来た事が無い。

 この人たちの相手は面倒臭い。

「承知しました」と彼らの意を受取ったふりをして、その日は普段通りに過ごした。

 帰宅した夫が夕食を済まし、ふたりして夫婦の部屋へ引き上げてから、この事を彼に話した。どうせあのふたりは自分の息子には一言だって相談はしない。あたしを追い出した後で初めて、これこれの事情でこうしたと告げるだけだ。

 案の定、夫は何も知らされていなかった。

 子供の頃から何度も繰り返されてきた事だったから彼は驚かなかった。ただじっとあたしの話を聞いていた。

「それで君はどうしたい?」

「あなたと一緒に年を取りながら暮らしていきたいわ」

「ありがとう」彼はほっと息をつき、「少し待って」と虚空を見上げた。

 これはあたしと夫が同盟を締結して以降から現れた癖で、考え事をする時には何にも無い空を見るのだ。彼のこんな顔、あたし以外は知らない。

「ああ!」夫の顔が輝いて、衣紋掛えもんかけに吊るした背広の隠しから大事そうに何かを取り出してきた。

「これを覚えているかい?」

 夫の手の中で随分と小さく見える真ん丸鏡。

「勿論。隠れ鏡」

 天狗の隠れ蓑ならぬ、隠れ鏡。それは身体を隠すのではなくて、魂を他所へ隠してしまう鏡。手に入れたものの、使い様が分らずに持て余して、それでも夫はずっと大切なお守りとして持ち歩いていた。

「明日の朝が君との最後の別れとなるだろうから、これから直ぐに出掛けよう」

 娘は置いて出た。どのみち、あの子はあたしの実家にやられるはずだ。あたしの母に託されるなら、あの子は絶対に大丈夫。

 あたしたちは街道の方へは向かわず、浜を目指した。

 砂浜にわざとあたしたちの足跡を残しておいて、後はふたり手をつなぎ、時々足を取られながら波打ち際を延々と歩いて浜を横切って進んだ。やがて夜光虫が瞬き始め、闇が徐々と深みを増していった。ふたりとも口を利かなかった。恐かったからじゃない。悲しかったからでもなく、後ろめたくもなかった。無敵の魔法の文箱があるから大丈夫というのとも違う。どちらも先の事なんか考えていなかった。不思議と生きた心地がして、今この時の何ひとつ見逃すまい聞き逃すまいとふたりしてきょろきょろと辺りを見回しては、顔を合せて微笑みを交わした。それで充分だった。

 足元をさらえる海水は冷たく、ほとんど浸けっ放しで歩くうち爪先がかじかんで、そのうち何も感じなくなってしまった。けれどそんな事よりもあたしは、波頭の青い光が寄せては返す美しい眺めにすっかり魂を奪われ見蕩れていた。とても現し世のものとは思われず、しかし夢にも見た事の無い光景…。

 …いやいや、やはりこれは夢に違いない。

 だってほら、あんな処に人が居る。

 少し離れた海上にその人は立って居た。どうせこれは夢なのだから、何の不思議も無い。

 けど。こちらに背を向けてすっくと立ったその姿には見覚えが有った。胸の底がすっと冷えた。

 そんなはず―。繋いでいたはずの手はいつか離れて空しくなっていた。

じゃあやっぱり、あれはあの人なの?

 再び海上へ目を戻そうとして、それは叶わなかった。真っ黒な闇が何もかも塗り潰した。それはあたしの眼を奪うだけでなく、喉の奥まで流れ込み、叫び声まで塗り籠めてしまった。

 あああああ。

 後ろから物凄い力で引っ張られた。上も下も分らないのに、確信が有った。

 ―墜、チ、ル!


 先にも有ったわね、こんなこと


 泡沫ほうまつの様なつぶやき。

 直ぐに消えてしまったけれど、あたしはそれに取りすがった。

 誰ッ!?

 ああ良かった、間に合った!

 懐かしい声が聞こえると同時に、青い光が瞬き始め、気が付くとあたしは独り、浜辺に立っていた。

 分るかい?

 あたし、戻って来たのね

 違うよ、これはついさっきまでの僕の記憶だ

 あたしはどうなったの?

 君はまったくに人事不肖となってしまってね、医者の話では身体を冷やし過ぎたせいらしい

 お医者?

 ここから二町ほど離れたところの町医者に、君を預けてきた

 あら嫌だ、それじゃあたしは今、死にかけているの!

 もう大丈夫だよ

 そうね、そうだわね

 ほら、もうすぐ夜が明けるよ

 ―直に目も覚める…


「ほらほらっ、これって今朝方のあの男の人の事でしょう?」

「やはり彼は自殺志願者であったか」

 卵を落としたおかゆを夢中でむさぼっているあたしのすぐ脇で、夕刊を囲んだお医者とその家族が騒いでいる。

「幸い命は取り留めたようよ。人助けのご利益ってヤツかしらねぇ」医者の娘なのか単なる手伝いなのかは知らないが、あたしと同じくらいの年恰好の若い女がチラとこちらに目線を投げた。

 どうやら夫が無事発見されたらしい事にあたしは内心安堵し、一方で、

 僕はそんな風に見られていたのか

 心の中で密やかにぼやく彼に吹き出しそうになった。

「ああ、ほら。慌てて食べるから、ヘンなところに入ってしまうんですよ」

 この一家の主婦らしい年配の婦人が、むせるあたしの背中をさすった。

「でも。これだけ元気なら、あなたは心配無いわね」

 ええ、あたしたちに心配なんか無用です。まだ若くて気力は充分だし、なにしろ、身はひとつでも心がふたつ有りますから。

 本復した後、取り立てて計画の無いあたしたちはしばらく医家の手伝いをしていた。

 医者とは、土地の名士なのだ。重要な行事には必ずお呼びが掛かるし、様々な有力者が患者としてだけではなく、手土産片手にしょっちゅう訪ねて来る。そのうち、議会のなになに先生たらがあたしたちを見い出し、何かにつけ珍しい人種が居ると吹聴してはあちこち引き回してくれた。おかげであたしたちは知己が増え、それに連れて知識や知恵も付き、気が付けば、そこそこのお金持ちになっていた。

 ここまでのところすべて成り行き任せで、魔法の文箱はすっかりお茶を引いていた。だってあたしたちは、今や何でも自分たちで選び決められるのだ。

 とは言え、あたしたちにもどうにもならない事がひとつだけ有り、その一点だけは死守しなければならなかった。それは、あたしたちには普通の暮らしは出来ないと言う事。あたしたちはさほど愛想が悪い方ではないと思っていたけれど、医家の仲間からは遠巻きにされていた。それどころか、

  ―アノ人キモチ悪イ

 との評判で持ちきりだったようだ。

 そもそもあたしたちは普通じゃない。仕事ぶりや能力に問題は無くとも、急に立ち止まって、ぶつぶつと独り言をつぶやいていたり、無鉄砲かと思えば思慮深く、不器用な割に機転が利いて度胸がいい、と全体にちぐはぐで、予測のつかない言動をする奇人というところだろうか。ごくごく一般的な勤め人で、固く暮らしている人達からすれば、あたしたちなど異様でしかない。

 生来自由気ままで、どんな規則も“命までは取られまい”と、平気で破って罪悪感など一切無い。そんなあたしに恐れをなしつつ、好奇心で寄り集まった友達はいっぱい居たけど、真の友達なぞひとりも居なかった。あたしは、実は一匹狼だ。

 そんなあたしが出会って縁を結んだ夫は、生まれてこの方、訳の分からない決まりに縛られていて、自分の好きな物も、自分がどうしたいのかも分らずに育ってしまった人だった。

 運命と言うものが有るのか無いのかよく分らないけれど、ふたりの間ではぴたり帳尻ちょうじりは合っている。とは言え、何もかもが旨く行くはずも無く、あたしたちはどうにも収まり処が難しかった。だからと言って、あたしたちは、誰かに遠慮するような肩身の狭い暮らしはしたくなかった。そんな理由からあたしたちは医家を辞した後は居を定めずに、世に名立たるホテルを転々と渡り歩いて暮らした。

 人付き合いが限られており、ひとところに留まる時間が短ければ、あたしたちもそれほど目立たない。それにそういう場所には大抵、毎日が日曜日か、毎日をお祭り騒ぎで暮らす富裕層が集まっている。彼らはいつも機嫌良くあたしたちを受け入れてくれた。何故なら連日遊び暮らすというのは、楽しそうでいて実は辛い。すぐに飽きてしまうからだ。だからいつだって新しい刺激を求め、まだ見知らぬともがらを求めている。そういう人々からすれば、あたしたちの異様さは珍しくて面白いのだ。先にあたしたちを連れ回してくれた議員先生もこの辺りの事情に通じていて、あたしたちを口実として方々へ渡りをつけ、なかなかの人脈を手に入れた模様だった。

 ところで、一口に富裕層と呼ばれる―お金をたくさん持っているとされる人々は、今まで身近ではなかったせいもあって、こちらとしても興味津々たる対象だった。その点では彼らもあたしたちもおあいこで、お互い好奇心でもって親交を重ねた。そのうちあたしたちは、当たり前だけど、彼らが十把一絡じっぱひとからげの存在ではなく、様々な人種に分かれるという事に気が付いた。それをきっかけにあたしたちは単純な人間観察から人種研究に専心するようになった。

 あたしたちは以前の暮らしに戻るつもりは毛頭無い。ならば、難無くあたしたちを受け入れてくれた彼らの世界に溶け込んで暮らしていくより他に無い。そしてそのためには、お金儲けの方法を始めとして、言葉遣いから立ち居振る舞い、必要とされる教養等々見習うべきこと学ぶべきことが山とあった。幸い彼らには親切な教え好きと言う手合いが多い。但し得意分野はそれぞれだから、何を誰にご教示きょうじ願うのか慎重に吟味する必要がある。そこで研究が要となるのだ。

 研究と称すると御大層になってしまうのだけど、夫に理解しやすく、あたしも了解できる共通の言葉がこれだったのだから仕方が無い。研究の主導はあたしだ。何たって昔取った杵柄、ぐいぐい成果を上げていった。

 あの人は見栄っ張り、この人は小心者、その人は二枚舌云々。その根拠はこれこれで、対応方法はこうである。あたしの眼に狂いは無く、百発百中だ。

 凄いな君は…、女学校では人間洞察も教えるのかい?

 まあね

 いやいやこれは、教師の眼を盗んだり、好き勝手になんだりかんだりしたい都合からあたしが自発的に行っていた“研究”だ。それがこうして役に立つ日が来るなど、当時は夢にも思わなかった。

 研究にひと段落ついたら、次はそれを踏まえての実践となる。ここであたしは、もうひとつの習慣も復活させることにした。

 直ぐに言えばそれは、役割分担だ。

 中身はあたしと夫のふたりでも、外身そとみは女のあたしひとりだから、着物や宝飾品の話に花が咲く機会が多い。これは夫の興味を引かない話題だ。逆に時事関連や商談といった細かい数字が入ってきたり、込み入った難しい話題になると夫の興味が向き、今度はあたしが退屈することになる。

 餅は餅屋だ。必ず眠くなる科目はそれを得意とする級友に任せて後でノートを写させてもらい、ついでにそのに勉強を教わる方が断然効率が良かった。あたしは昔どおりややこしい話は夫に任せ、その間居眠りを決め込むことにした。

 …君は本当に器用だね

 性分しょうぶんとして居眠りの難しい夫は最初呆れていた。やがて自分の出番でない時には考え事に集中する事を覚えると、折に触れてあたしを褒めてくれるようになった。

 これは実に名案だよ君、上出来だ

 でも、実際に手柄を立てているのは夫の方なのだ。あたしが眠りこけてその時間を無かった事としているのに対し、彼はその時間を使って知り得た情報を分析し、思索を深めてふたりにとってより有利に着実に物事を進めていた。到底あたしには真似出来ない、実に有意義な時間の使い方だと感心していると、

そればかりでは無いよ、興味の無い話を振ってくる相手と言うのは結局、自分とは相性の良くない人物なんだ

更に驚くべき知見が披露された。

 なるほど言われてみれば夫が受持つ人々は全員、あたしが苦手とする人ばかりだ。なら、あたしの受持ちも夫にとってはそうなっているという事か。

 これは思った以上に旨いやり方のようだ。

 役割分担が旨く回り、あたしたちふたりお互いの交友関係など一顧だにしなくなって久しくなった頃、夫から意外な申し出が有った。

 ぜひ君を紹介したい人物が居るのだけど

 どういう意味だろう。言葉どおり素直に受け取るなら、そういう事になるが。

 その人に、あたしたちの事を話したとか?

 別に秘密にしてきた訳ではない。話したところで、頭がおかしいと思われるのが関の山だから黙っているだけだ。

 特段そんな話はしていない、ただ試してみたいと思ってね

 何だか良く分らない。

 その人物はノブレスオブリージュの処の書生のひとりだよ

 それならまず身元に間違いは無い。

 ノブレスオブリージュとはあたしたちのつけたあだ名で、慈善事業に情熱を燃やす資産家のお爺さんの事だ。あたしと夫と、唯一ふたり共通で親しくしている。夫が言うのは恐らく、ノブレスオブリージュと同等のお付き合いの出来る―あたしと気の合う―相手かどうかを見極めたいという事なのだろう。

 紹介と言って、先方からすればあたし独りきりなのだから、あたしたちには面倒な手続きは必要無い。頃合いを見て夫と交代するか、代わり番こで会話を進めるか、それだけだ。

 その人って、あたしも見知っている人かしら?

 さあ、どうだろう

 その人物はいつも図書室に居て、他で見かけた事は無いのだそうだ。あたしたちのうち図書室へ赴くのは夫の方だけで、それも大概調べ物をする時に限られる。彼が小難しい本と格闘している間、あたしは例のごとく夢の世界へ退散する事にしている。だったら多分、あたしはその人の影すら知らない。

「ご機嫌よう。いつも勉強熱心でいらっしゃいますね」

 夫が呼び掛けたその人はあたしたちと五歳とは違わぬと思しき青年で、明るい目が利発そうに輝いていた。

「こんにちは。わたしはこれでも学者の卵を自負していますからね、勉学より他にすることなどありませんよ。また、そうでなくては先生にも申し訳が立ちません。それで、今日はどのような調べ物です?」

「いえ。今日は…」夫が言い淀んだので透かさず後を引き取った。「ご一緒にお茶でも如何かしら」

「お茶ですか」

「先日ご紹介頂いた文献が非常に役立ったから、そのお礼方々」

 夫が立て直し、それなりの理由を付けた。そういう間柄なのか、ふむ。

「そういうことなら、喜んでお言葉に甘えましょう」

 新しい友人は屈託の無い人柄で、口跡も鮮やかだった。

 あたしは色々と質問したくてうずうずした。が、思いつくのがどれもこれも初対面の時に投げ掛ける様なものばかりだったので、黙っていることにした。夫の方はそぞろな歓談というものが不得手なため、自然と黙りがちだった。にも拘らず、喫茶室で過ごす午後は楽しくて、あっという間に過ぎ去った。

 何と魅力的な人だろう。学者を目指すと公言するだけあって博識で、人を逸らさぬ機知に富んだ話しぶりは…何故か懐かしい気がした。知り人の誰かに似ているということだろうか?思い当たりそうで、思い当たらない。不思議な気分はしばらく続いたが、そのうちどうでも良くなってしまった。

 あたしたちは一軒のホテルに滞在する期間を長くて一カ月半と決めていた。但し、一年経ったらまた同じ宿へ戻って来る。あたしたちが飛び込む事に決めた世界に住む人々は案外保守的で、おいそれとは見知らぬ土地を旅したりはしない。決まった季節に定宿を訪れ、決まった期間滞在することを習慣とする向きが多い。あたしたちもそれに倣ったのだ。才気煥発さいきかんぱつな書生さんが、いつまでノブレスオブリージュの元に居るものかは分らない。来年には独り立ちして、もう会えないかも知れない。それなら短い期間中、思い切り楽しむ事の方が重要ではないか。

 他では風変わりな人として遇されるあたしたちに、彼だけはごく普通に接してきた。それがあたしと夫を、三人の友人同士として時を過ごす気分にさせた。

 あたしたちは彼が何処の人なのかは知っていたけれど、彼の名前までは知らなかった。でも敢えてそのままに、書生さんと呼ぶ事にした。あたしたちも改めて名乗る事はしなかった。お互い名乗ってしまえば、世に出る名前はふたり分。三人ではなくなってしまうから。子供の頃に戻ったつもりで、名前を知らない遊び仲間。それで充分。

 とは言えあたしたちは大人で、本当は子供の頃になど戻れるはずは無い。日を追うごと親しく気の置けない間柄となっていくにつれ、名も告げずに別れるのが辛くなってきた。

 僕たちのことを話してしまおうか。彼ほどの人なら理解してくれるはず。いやいや、あまりに荒唐無稽な話に呆れられるに違いない。これまでがすべて御破算になってしまう。逡巡しゅんじゅんするうち、書生さんの方から急な別れを告げに来た。

「先生に所用が出来まして、わたしも一緒に明日発つことになりました。突然のお話で、非常に名残惜しい。もしご迷惑でなければ、今夜食事をご一緒していただけませんか」

 あたしたちは一も二も無く承知した。

 晩餐の招待者は彼の先生、ノブレスオブリージュだとばかり思っていた。ホテル外の立派な料理屋の個室へ招じ入れられた時、書生さんと差し向かいであることを知って驚いた。

「勿論ツケですよ、ツケ。出世払いという事で、先生がお名前も貸してくれまして。でなければ今日の今夜で、こんな立派な店の部屋など取れませんからね」

 今日はおふたりにたってのお願いがありまして、ここまで足を運んでいただきましたと、彼が続けた。

 ああやっぱり、この人は悟っていた

 心の中で夫がつぶやいた。

「あなたがおひとりだと思うからエキセントリックに見える。ふたり居るとの理解なら辻褄つじつまが合う。あなたの中には明らかに別個の人格がふたつ認められるのです」

 ―ああ、思い出した。帰山きやまさんだ!

「いかがでしょう?わたしにおふたりのお名前を教えてはいただけませんか」


 ―帰山さんよ、帰山さんにそっくりなんだわ


 あなたが試したいと言ったのは、このことだったの?


 ―えっ、何。今のは誰?


 君は気づかなかったのかい?彼はずっと僕たちそれぞれに受答えしていたじゃないか

「どうです、いけませんか。それともわたしの仮説はまるっきり外れていましたか」

「ねえあなた。他人に名前を訊ねるのなら、まずはご自分からでしょう?」

 

 ―まったく置いてけぼりになっている、あたしは一体誰?



「そこで、わたくしは目が覚めました。と、申しますか、生き返りました」

 女客は淡々と語る。

「あれは何だったのか、どのような作用によるものだったのか、どなたにも説明はつけられないでしょう。もっともわたくしはこんなおかしな話、他の誰にも聞かせるつもりはありませんけどね。ですがそうしてしまいますと、いつか知らない内に忘れて、それきりとなってしまうでしょう。それが嫌さにどなたかに語り置きたいと思ったのです。もしもわたくしが忘れてしまっても、この話を知る人がこの世にもうひとり居ると思えたら安心なのです」

「それであなたの望みと言うのは、何だったのですか?」

 何とも言えない話の余韻に浸りながら、駿太郎は女客に訊ねた。

「わたくしの二親ふたおやが、どうしてこんな破目になってしまったのか」

 何故、両親は自死を選んだのか?

「しかも、あろうことか片方は失敗して廃人となってしまった。それがくやしくって、しょうが有りませんでした。わたくしはずっとずっと腹を立て続けてきたのです。今となってみるとそれが良く分ります」

「年来の怒りがやっと解けた、という事でしょうか」

「はい。お蔭様で」女客が晴れやかな笑顔を見せた。「さあこれで。わたくしの懺悔話もお終いと致します。あれはただの夢です。母もただの病人でした。わたくしは凡人ですからね、そう言う事にします」






「何故、私にそんな話をするんだ?」

 小夜子が言った。

「お前がどう思うか知りたかったから、かな」

 本当は他に思いつく話題が無かったせいだ。

「夢の話なのだろう?」

「まあ、そうだ」

「見たと言うのなら、その通りだろうから特に何とも思わない」

 にべも無い。

 が、小夜子の言うとおりではある。天気の話をした方がましだったかも知れない。しかしそれでは一瞬の会話で終わってしまう。いい塩梅に時間が潰れたところで、駿太郎はきく屋に引き上げることにした。



「えっ。…これ?」

 松ノ屋の勝手口の前で駿太郎は絶句し、しばし呆然とたたずんだ。

 でかい。

 駿太郎の心づもりでは、きく屋まで軽々と持ち運べる大きさを想定していた。

 何度も差出人と宛先を確かめるが、間違いなさそうだった。モノがモノだから、厳重に梱包されている事ぐらい見当はつく。が、しかし、でか過ぎやしまいか。荷を解いた時に仏壇が現れても驚かない大きさだ。小皿一枚がここまでかさを増すか。これだと大八車が要るし、積むだけでも人手が必要だ。

 生憎そんな暇は無い。

 荷物の大きさをあなどっていた為、松ノ屋からの連絡にすぐさま駆けつけたのではなく、いつもの仕事をこなしてから、のんびり歩いてやって来た。既に昼を過ぎている。

 仕方が無い。ここで開けるか。

 イの一番に中味を検めるのが、この商売の鉄則だ。それにコイツは一晩たりと放置する訳にはいかない。駿太郎の承知している事より他に、どんな障りが有るか知れないからだ。

 小梅に断りを入れ、その場で荷を解き始める。さながららっきょうの皮むきで、どんどん包みを取り払っていく。その奇妙な様子が気になるのだろう、小娘女中がちょいちょい作業を覗きに来た。さすがに小梅のしつけは徹底していて、無駄口は利いて来ないから放っておいた。そのうち、荷物の嵩が半分に減った頃からしきりと「寒い」と言い始め、ついには勝手口の窓もぴったりと閉めて顔を見せなくなった。

 なるほど。仏壇一基をくくるぐらいで丁度良かったのだ。そろそろ弁当箱位の大きさに近付いてきた。荷物から滲み出る冷気で指先が痛い。ここまでくれば中味は確定したも同然だが、大事な預かり物に万が一の事が有ってはならない。更に包みを取り除いていく。

 とうとう思った通りの大きさの桐箱が出てきたその時、パラパラ小雨が落ちてきた。急ぎ箱の蓋を取り、お勝手から漏れる明かりの元で品物を検める。そうこうするうち雨脚はみるみる速まり、土砂降りとなった。

「駿ちゃん、まだそこに居るのかい?!今晩はウチに泊まってきなよ!」

お勝手から小梅の怒鳴る声が聞こえてきた。

「小梅さん、今夜はきく屋に戻ります!明日また来て、俺が片付けますから、ここはこのまんまにしておいてください!」

 怒鳴り返しながら桐箱を懐へ突っ込み、踵を返して走り出した。

 雨の槍衾やりぶすまにずぶ濡れとなりながら駆け続け、きく屋の手前で藪の中に潜り込んだ。コイツをきく屋に持ち込む訳にはいかない。懐の上から桐箱に手を当て、おやと違和感に気が付いた。暮れ始めた山の冷気は感じるが、走ってきたせいもあって然程寒くはない。

 雨に気を取られていたので、箱を懐へ収めた時にどうだったかを覚えていない。身震い位はしたような、しなかったような。じっとりとした木箱はただそれだけの物で、何の変哲も無かった。試しに箱を開けてみた。

 途端に凄まじい冷気が吹き出し、慌てて蓋を閉め直した。

 ああ、そうか。水が封じてくれるのだ。きく屋の勝手口に回り、盥を見つけた。水を満たして桐箱ごと漬ける。これでひとまず問題は無さそうだ。

 恐らく音在氏も思い至らなかった対処方法を見つけたが、問題が解消したわけではない。小梅に見せた後はどうするか。縁もゆかりも無い別物ならそれで良し。もし松ノ屋の揃いの品の一枚だった場合は―…、その場の状況に任せよう。ともかく、小梅に返す事は出来ない。それだけははっきりしている。

 実際にその場で起った出来事は、駿太郎の予想をはるかに超えるものだった。

 盥の中を覗き込んだ小梅が目を瞠った。次の瞬間には、水の中から小皿を掴み出し、手近にあった沓脱石くつぬぎいしに向かって思いっきり叩きつけた。

 キン。

 皿が鳴った。石に当たったはずなのに、割れなかった。それが更なる逆上を招いたものか。

「こんな物、こんな物ッ!」

 地面に転げた小皿を、小梅が足蹴あしげにし始めた。それでも一向、皿は割れない。

 皿がそんじなかった事に安堵あんどしたら良いのか、落胆したら良いのか。取りあえず大宿おおやどの女将のこのような振舞いは見場みばも悪ければ、外聞がいぶんにも差し障る。小梅を止めようと一歩踏み出した駿太郎の袖を小夜子が掴んで後ろへ引っ張った。音在氏から仕事を託されている小夜子もこの場に立ち会っていたのだ。

「小梅様、何がそのように悔しいのですか?」

 小夜子が静かな声で訊いた。吐く息は白くなり、異様な寒気に身体も小刻みに震えているのに、声は震えていなかった。

「あたしのお母ちゃんはねぇ、見栄みえと命を取り替えっこするような、ろくでもない莫迦女ばかおんなだったんだよ」ガッガッ皿を踏みつける。「そんなんだから実の娘にも見切りをつけられるのさ!ざまぁ見ろってんだっ」

 小梅の口から白く吐き出されているのは息ばかりではなく、怒りと後悔の念とその他の区別の難しい諸々の想いなのだ。この場は小夜子の判断したとおりに治まるまで見守り、見届けるのが正しいだろう。

 おーかーみっ!

 何故そうなのかは分らないが、大声よりも押さえ気味のひそひそ声の方が耳に立つ。そんな声がして、小梅に駿太郎と小夜子の三人は一斉に振り返った。

 松ノ屋のお仕着せを着た恰幅の良い中年の女が手を合わせて拝みつつこちらに何度も頭を下げている。

 間髪入れずきく屋の空気が変わった。

 うわあぁーん、姉ぇちゃーん

 どたどたという足音と共に、まごう事無き松太郎の泣き声が近付いて来た。

 駿太郎は確かめるように小梅の顔を見た。小梅もこっちを見ていた。今はもう毒気が抜けて、しっかりと正気に戻っている。

「ごめんね、駿ちゃん。あの子、知らせが来た時に丁度、朝風呂に入ってたんだよ」

 弟の風呂上りを待って、それなりの理由を付けて出て来たのならこんな事には成らなかったのだが、お母ちゃんの皿と聞いたからには、小梅も気が気では無くなってしまったのだ。

 きく屋の勝手口の戸が、木端微塵こっぱみじんとなりそうな勢いで開いた。ぐっしょり泣き濡れた松太郎が顔を突き出した。

「姉ぇちゃん!」

「松っちゃん、どうしたえ?」

「ああ、ああ。姉ちゃん居た。良かった。姉ちゃん」姉の姿を確認して安心した松太郎はその場にへたり込んだ。

「あれっ、姉ちゃん。それ」松太郎が足元に転がる小皿に眼を留め、指差しながら言った。「いち母ちゃんのお皿だね」

「何で松っちゃんに、そんな事分るんだい?」

「だってほら、そこの隅っこの模様がぼよぼよしている。一枚だけ染付が失敗しているよって言って、いち母ちゃんの大のお気に入りだったヤツだよ」

「ええ!?」

 ここに有るのは一枚きりだから、どこがどうぼよぼよしているのか良く分らない。けれど、事情を知らないはずの松太郎がひと目で言い当てたのだから、その通りなのだろう。

「そうか!お皿が戻って来たから姉ちゃんが迎えに来たんだね?いち母ちゃんのお皿、お帰りよ」

 まっ白な息を吐きながら松太郎がにっこりと笑った。

 パリッ。

 つい先程まで小梅から散々な目に遭わされても割れなかった皿が、真っ二つに割れた。

 小夜子がさっと歩み寄り、小皿を拾い上げた。

「わたくしがぎましょう。こんな事もあろうかと、伯父から言いつかっております」

 小夜子の吐く息は、もう白くなかった。

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