第9話ひとりあればぞ月を友

 「姉ちゃん」

 「大丈夫だよ、松ちゃん」

 「絶対だね。本当に、本気に絶対だよね?」

 「本当に、本気に大丈夫だよ。必ず帰って来るよ」小梅は保証ほしょうした。

 それでも松ノ屋の主人松太郎は小梅のたもとりすがり、「嫌だ、嫌だ。やっぱり、姉ちゃんがどこかへ行っちゃうのは嫌だ!」人目もはばからず手放しでオイオイ泣いている。

 小梅の長期不在の理由がこれであった。

 したっていた姉がある日突然姿を消したという経験は、幼少の頃の松太郎に手痛ていたい傷を残したのだろう。少しでもその時の事を思い起こすような事象じしょう遭遇そうぐうすると、彼は途端とたんに子供返りをして手が付けられなくなるのだ。

 小梅は何も今から長旅ながたびおもむくという訳では無く、隣の在所ざいしょにある檀那寺だんなでらへ、チマの回向えこうを頼みに行こうというだけなのである。

 とんだ愁嘆場しゅうたんばだ。

 「大丈夫ですよう、旦那様。女将は明日、かえでの間にお泊りのご隠居さんを山の足湯あしゆにお連れする約束をしなすっているんですから。女将が約束をたがえるなんて事ァありませんよ」古参こさん仲居なかいが適当にでっち上げて助け船を出した。

 「ええ、そうなのかい?」

 納得した松太郎はケロリと機嫌きげんを直し、快く小梅を送り出してくれた。

 「まったくねぇ。あたしが出掛けるとなると、毎度々大変な騒ぎでサ」小梅は溜息をついた。「き行きかさねて行き行く…、会面安かいめんいずくんぞ知るべけんや、とでもいうような有様だよ」古詩がさらりと口をいてこぼれ出す小梅の教養は、なるほど昔日のお嬢様暮らしをしのばせる。

 「小梅さんはもうずっとこっちに暮らすんですか?」

 「その事なんだけど」小梅は駿太郎に愁眉しゅうびを向けた。

 これほど長居をする事になるとは小梅自身にも予想外だった。長くても2、3日と見積もっていたからこそ、手習いに来ている子供たちにたくしてチマを置いて出たのだ。

 それが10日ち、20日が過ぎて月をし、そしてどういうめぐり合わせか駿太郎達がチマをともなってやって来た。

 「チマもかたがついちまったから、帰ってもあたしひとりきりだし。それにもうお隣は駿ちゃんじゃないだろう?宿屋の仕事は忙しくって退屈している暇が無いから、好きな仕事だよ。それに、あたしのしょうにも合っていると思うんだ。だから、いっぺん戻って家の始末をつけなきゃあとは考えているんだけどねぇ…」

 はぁと一段と深いため息がれた。

 小梅は故郷に骨をうずめる覚悟を決めたらしい。

 「よしよし偉いぞヤタ。お前は本当に賢いな!」

 まるで別世界から聞こえてくるような環の歓声がやかましい。

 猫バカの顛末てんまつとしては、結句、彼はチマを見つけ出す事は出来なかった。その代わりに巣から落ちて死にかけているカラスの雛鳥ひなどりを見つけて連れ帰って来た。それ以来、親鳥さながらに子ガラスの世話を焼いている。

 名前の由来は八咫烏やたがらすからきているものだろうか。神様の使いの名前をそのまま使うのは如何いかがなものか?悪戯おいたをした時には “ヨタ”と呼び換えてしかっているのが聞こえる。神罰しんばつが下りそうな気がするが、まあ、今のところ環の身には何の異変は無いらしい。

 黒い毛玉のような鳥が環の頭にふんわりと乗っかり、甘える様子は可愛らしかった。

 駿太郎が近づくとヤタは急ぎ環をけ下りて、地の上を転がるように逃げて草薮くさやぶに隠れてしまった。

 「駿さん。ひょっとして、俺の見ていないところでヤタをいじめてでもいるのかい?」

 「滅相めっそうも無い。それにそんなすきがあるとも思えない」

 常に環の目が光っているのだ。「野生の鳥だから、面倒を見てくれる人間しか信用していないんだろう」

 「まあ、そりゃあそうだね」

 ところが、チョッチョッと小梅がねず鳴きすると、やぶの中からこたえが返って来た。次いで小さな黒い頭が覗いた。真っ黒でつぶらなまなこまたたく。ヤタは差し出された小梅の手の上に喜び勇んで飛び乗った。

 単純に、嫌われているだけだったようである。

 「ほら。駿さんは普段ふだんきく屋の方に居るし、見慣れていないから。人見知りしているんだよ。きっと」

 そう言って環がなぐさめてくれたが、小さな生き物にいとわれるのは正直落胆らくたんするものだ。

 道々みちみちそんな場面もありつつ、他愛たあいも無いお喋りにきょうじながらもさくさくあゆめる三人は予想よりも早く目的の寺に辿たどり着いた。

 駿太郎達は今日のこの件に関して源信には声も掛けていない。医者は何かに気を引かれると足が止まり、何やかやと周囲を巻き込んで講釈こうしゃくを始めるので面倒臭めんどくさい。加えて、不可知ふかちなものは丸ごと無き者と考えているので神も仏も信じていない。さらに猫などに興味は持たない。

 内村については、危ぶまれていた腰痛が案の定再発し、昨日から自室にせったまま身動き出来ないで居る。彼も取り立てて猫に関心が有る向きではない。しかし心優しい彼は、甥の可愛がっていた猫の供養に際していくばくかのお布施ふせを出してくれた。

 ―猫の供養くよう

 生き物に親しまない人々から見ればまったく馬鹿馬鹿しい話だろう。それでも。そもそもお弔いとは、死者の為だけのものではなく、死者と生者の両方を慰撫いぶするものである。執着と思慕に区切りをつける為の大切な行事なのだ。

 良く心得ている住職は優しく丁寧ていねいぐうしてくれて、駿太郎達一行は良き日を終えることが出来た。

 帰り道は心持足を早めて松ノ屋へ帰った。

 「姉ちゃん、お帰り!」

 松太郎の満面の笑顔に迎えられた。

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 「よっぽどくやしかったのかねぇ。松ノ屋を追い出された時に、行きがけの駄賃だちんとばかりに松ノ屋の什器じゅうきの中でもわざわざそろいであつらえさせた家宝の様な皿の一枚をお母ちゃんが盗み出して来ていてね。あたしに自慢気じまんげに、してやったりみたいな顔をして見せたものさ。松ノ屋の名物だった皿なんだ。大切なお客。それも家族と変わらない位に、馴染なじんだ人達の食膳しょじゅぜんには必ずこの皿が乗っていたっけね。その皿が一枚でも欠けると、それはもう出せないんだよ」小梅はほぉっと深いため息をつきながら、膝元ひざもとに置いた小皿のふちをそっとなぞった。

 檀那寺の往復の道々、そう言えばと小梅の急な里帰りの理由について駿太郎はたずねてみた。

 「ああ。その事ならもう、いいんじゃないかねぇ…。だって今更確かめようも無くなっちゃった事だしさ」小梅らしくも無い要領を得ない答えが返ってきた。そしてそのまま話題は他に移った。

 それきりになるかと思いきや、松ノ屋に帰り着くなり「やっぱり駿ちゃんには見てもらって置こうかねぇ」と言い出した小梅が持ち出して来たのが前述の小皿である。

 白地が少しくすんで見える蛸唐草たこからくさの小皿だ。

 「ほら、覚えているかい。春先に常次郎ちゃんと3人でこんな色柄いろがらの皿を見ていただろ?アレ、見た途端とたんに欲しくって欲しくってたまらなくなったんだけど、よくよく考えたら、あんな小皿1枚半端はんぱにあったところでどうしようってのさ?自分でも何でだろと思った。それで思い出したんだ」

 お母ちゃんの盗んだ皿。あれはその後どうなったのだろう?

 えきも無い事に気付いてもとに帰したろうか、それとも流してしまったか。

 一度思い出すと、そればかりが気になって仕様しようが無い。

 小梅は確かめる為に里帰りしてみるにした。

 小梅の母、いちじくは10数年前に流感りゅうかんかかって世を去っていた。しくも松ノ屋の本妻も同じ頃に同じ理由ではかなくなっている。不仲ふなかそろみとは皮肉なものである。閻魔庁えんまちょう往生おうじょうしたに違いない。

 それはさて置いて、いちじくの遺した数少ない遺品の中には件の皿は見つからず、今も不揃ふぞろいのまま使われなくなった食器は蔵に寝かされたきりになっていた。

 「いつか、おまんまの為に手放したんだろうよ。それがいつ、どこに行っちまったものやら。書付け1枚残っていなかったってんだからしょうも無いよ。それでも、もしやもしや、そんな事はあるまいとは思っても、春先に見たあのお皿と見比べてみても損は無いと」思いついたんだけど、松ちゃんがあの通りだから…。

 帰宅の機会をうかがって日延べしている内に災禍さいかに遭って身の上の変わった駿太郎と再会した。

 小梅の許しを得て、駿太郎は松ノ屋の逸品いっぴんを手に取りじっくりと眺めてみた。

 よく分らなかった。

春先に常次郎が持ち込んで来た蛸唐草の小皿の事は、怪異かいいの方に気を取られていたせいで、その物については余り記憶にとどめていない。

 「別嬪べっぴんの兄さんの話じゃ、一切合財いっさいがっさい燃えちまったんだろう?じゃあ、春先のあれは今更しょうがないよねえ。これから駿ちゃんがどうするのか分らないけどさ、また古道具屋さんをやろうって事だったら、これを覚えておいて、似たような物を見かけた時には教えておくれよ」

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 春先に見たあの小皿は―今や時すでに遅し―火災の際に失われたものと、小梅は素直にそう信じているようだ。

 これは駿太郎にとって好都合。

 あんな訳の分らない怪異を現しているものを、たとえ一時の事としても小梅には持たせたくない。説得をするまでもなく、不可抗力ふかこうりょくを理由にとうにあきらめがついているものなら、このままにしておいても問題はないだろう。が、しかし…。

 たとえそれがどんなに些細なことであっても、人の命をかすめ取るような事をしてはいけないのですよ。

 そんな言葉が耳の奥底から、りんと響いてきた。

 あの日もべた凪で、セロファンの表面にも似た一様な熱気で空気がり固まっていた。

 安西氏が駿太郎に助力を求めたのは、接客だった。

 客と一口ひとくちに言っても、自分の足で歩いて来られる者もあり、そうではない者もある。

 後者の場合はこちらから先方へおもむかなければならない。ことに商い物が骨董などの希少品きしょうひんであれば、顧客は方々に散らばりがちな上に気難しい手合いも多く、気軽に行き来が出来るものでもない。顧客との約束が一定期間中に2件以上重なるとお手上げになってしまうのは必定ひつじょうなのである。

 駿太郎に振られた仕事は店にとどまって来客を待ち、その相手をするというものであった。

 「あんたにだったら、安心して任せられそうだ」言うなり、安西氏はさっさとどこかへ出掛けて行ってしまった。

 どのような人物が、いかなる用向ようむきでいつ訪れるのか、といった説明は一切無かった。安西氏が元々そのような気質なのか、本当に安心しきって丸投げしたものか、それとも単にうっかり忘れただけなのか、それは分らない。駿太郎としてはともかく、可能な限り善処ぜんしょするよりほか無くなった。

 午前中に訪れた客は喪服の女だった。

 女客の用向きは、不要となった文箱ふばこを引き取って欲しいというものであった。

 当の文箱はこれと言った特徴も無い、それどころか如何いかにも廉価品れんかひんとも言える、何の装飾も面白味も無い単純な長方形の木製の箱である。しかしちょっと変わっているのは、箱のふたの中ほどが少し湾曲して沈んでいるように見える事だった。

 「買取りをご希望ですか…。でしたら、大変失礼ですがこちらでお引取りした場合はいくらにもならないでしょう」使い込まれたらしい木箱の色合いにはそれになりに味はあるものの、骨董としての価値は見込めない。「当方よりも、古物商を当たられては如何ですか?」客の身なりから遺品整理であろうと当たりをつけて、そう提案してみた。

 「いいえ、そういう訳には。それに買取りなど望んでいません。ただ、お願いしたいのはこればかりでは無くて、懺悔話ざんげばなしをひとつえてお引き受け頂きたいのです」

 いわく付きの品であるらしい。

 「はあ…」

 駿太郎のるわぬ返事に客は眉をひそめた。

「わたくしは帰山きやまさんの紹介でこちらに参りました。こちらはこういった品について専門なのでしょう?そのように伺っておりましたが」

 ―帰山?

 安西氏の仕事仲間だろうか。仲間の頼みだから断り切れなかったと言う事か。

 いずれにしろ雇用主の顔をつぶすわけにはいくまい。

 「承知しました。こちらのお品はその懺悔話とやらと一緒にお引き受けしましょう」

 ああ…。

 そのように聞こえたような気もするが、さだかでは無い。客はただ、溜息をついただけだったのかも知れない。

 それでも次の言葉からは、深い安堵あんどの気持ちが感じられた。

 「それを聞くばかりです。有難うございます」

 一体どのような話を聞かされるものか想像もつかないが、駿太郎としては雇用主である安西氏に逐一ちくいち報告する義務が有る。「では。よろしければいつでもお話しを始めて下さい」居住いずまいを正して先を促した。

 客はまるで自分の内側をのぞむかのように眼線を落とし、しばらく沈黙した後、つと目線を上げて言った。

 「その前にひとつ。もしもあなたの望みが叶うとしたら…それをまず心に止めておいて下さいまし」

 望みという言葉自身の持つ光が、チカリと瞬いた。

 そうして客が語り始めた物語の中にはしかし、そのようなきらめきを見つける事はなかなか難しかった。

 くだんの文箱は、客の母親がする際に実家から持参した物なのだという。

 「勿論もちろんこのような粗末な品が、嫁入り道具であったわけがありません。これは元々母の祖父、わたくしの曽祖父に当たる人の持ち物で、母が家を出る時に遺品の中からこっそり持ち出して来た品なのです」お祖父ちゃま秘蔵の大事の文箱。「年若くして嫁いだ母にはまだまだ娘気分むすめきぶんが残っていたのでしょうねえ。これといった思惑おもわくがあったわけではありません。…先程わたくしも申しましたとおり、これこのとおりの粗末な品なのですが、曽祖父そうそふはこれをいた珍重ちんちょうして家族の目にも滅多には触れさせなかったようです。ですので、当の曽祖父が亡くなったからといって、急にぞんざいに扱われるものでもありませんでした。母としては悪戯いたずら半分のふとした思い付きだったのだと思います」

 誰にも気づかれない悪戯は詰まらない。さりとてなかなか探しに来ない鬼にれ、自分から隠れ場所を飛び出すのも不甲斐ふがい無い。そのうちにまたこっそりと返して、何も無かった事にしておけば良い。そう思い決めてみたところで日々の生活は思いのほかあわただしく、取りまぎれているうち、ついついそのままとなった。

 「そうして七年が過ぎたある日、父と母は―恐らくは互いに手を取り合って―水の中へ身を沈めたのです」

 「心中…、という事ですか。それはまた何故?」

 「さあ。当時その理由に思い当たる人はひとりも居ませんでしたし、遺書のようなものも残されておりませんでした。救い出された父が一心不乱と握っていた女物の手鏡から、母も一緒であったのだろうと…知れたと申しますか、誰もがそのように想像した。それだけが根拠となっているのです。父だけは辛うじて命を取り留めたものの、人の形を残すばかりのうろのようになってしまいましたから、正確なところも詳しい事情も知れぬままとなりました」

 母親の姿は影も形も見つからなかった。それ以降、空似そらににしても、それらしき姿を見かけたと言う者も出て来ない。当然、想像通りの経緯けいいによって亡くなったものと判断された。

 年老いた祖父母にとっては幼子おさなごひとり残されただけでも手に余るというのに、更に輪を掛けたような息子の存在は難物以外の何ものでも無かった。  眠っているとも覚めているとも知れず、うつらうつらと日を過ごし、木偶でくとしか見えないにも関わらず息子は確かに生きている。木偶だから意志も感情も無く、人が介助かいじょしなければ行動も起こさない。いずれにしても放置すれば死滅する存在がふたつ残されたのだ。

 幼子は迷わず母親の実家へ追いやられた。

 息子の身柄は、それまで散々恩を売っておいた親類の家に押しつけた。

 「これはわたくしがまだ三歳になるかならずやの頃の出来事です。母方の祖父母、つまりはわたくしの養父母ようふぼは、父方の祖父母を嫌っていたようですから、どこまで信じて良いかは分りませんが、そのように申しておりました」

 ほどなくして、父方の祖父母の心中死体が見つかった。

 今度は遺体が二つ揃っていた。

 ここで駿太郎は苦しくなり、「疲れませんか?宜しければ、少し甘い物を入れましょう。お茶も替えます」席を立った。

 これまでのところ客が語っているのは身の上話の域にとどまっており、一向に件の文箱が登場する気配は無い。

 あの文箱は本当に曰くつきの品なのだろうか?

 実際はそれを口実として、再び相見あいまみえる心配のない相手を選んで心のおりを吐き出そうという手合いなのではなかろうか?それならそれで気が楽になるというものだ。

 湯を沸かし直しながら、黒吹くろふきの小皿に買い置きの干菓子ひがしを並べる。菓子の淡く優しい色合いにほっとする。


 中座ちゅうざしている間に潮目しおめが変わったものか、軒下のきしたるされた風鈴が時折さえずり始めていた。

 「これまでは人伝ひとずてのお話でしたが、ここからはわたくしのお話を致します」

 甘味で一息入れた後、客はおもむろにそう切り出した。

 「わたくしが初めて父と対面したのは、わたくしが15歳を迎えた冬の事でした」

 三歳になるかならずやの頃に父母と別れ、父方の祖父母も一度に失くした。そんな行く立で、本来であれば近しいはずの人々の記憶もことごとく持ち合わせていない。

 それはそれとして、自身が生まれ生きているのであれば父母があるのがことわりである。だから、この人がそうですよと示されたのなら、然様さようですかと受け入れるより他に無い。

 「父は…何と申しますか。息をしている珍しい人形でした」

 人形と言うのは、美しいと言う意味合いも含めて、と客は付け加えた。

 「美しいと一口に申しましても様々。辛抱苦労しんぼうくろうを積み重ねて本来の歳よりも老けて見えても美しい方はいらっしゃいますし、単純に天然自然の顔立ちが美しい方もいらっしゃいます。父の場合は何と申しますか…、後者に加えて玻璃はりの儚さを思わせました。何も無ければピンとなめらかに張っていて美しいけれど、一度石を投げつければ粉々に砕け散るもろさを感じました」

 一目で嫌いになりました。

 「誰にも言いませんでしたが、わたくしの印象として父は実に不吉な気配を持った人でした」

 不快な会見を手早く済ませた後は勉学にはげみ、憧れていた職業婦人も少しだけつとめて見合い結婚。孫娘の晴れ姿を見届けて安心したのか、養父母を務めた母方の祖父母は相次あいついでこの世を去った。

 まるで兄妹けいまいのように仲の良い円満えんまんな夫婦の元には一姫二太郎いちひめにたろうの順で家族も増え、夫も順調に出世して絵にかいたような幸せな家庭生活を過ごしていた。

 開け放しの窓から風が渡る。

 真夏だと言うのにうそ寒い、冷たい風が座敷を通った。

 「お父さんとは、それきり二度と会わなかったのですか?」

 「いいえ。一月ほど前に父の病院から、不治の病で余命いくばくもありませんという連絡を受けて、わたくしは世間の目を気にして出掛けて行きました」

 父親の病室に行くと先客らしい人影が有った。

 「わたくしは少々近目ちかめが入っておりますので、顔ははっきりとは見えませんでしたが、身なりから小柄な男性と当たりをつけて訪いを入れました」

 眼を上げた先客はしばらくこちらをジッと見詰めた後、真っ直ぐとこちらの名前を言い当てた。しかしそれよりも何よりも驚いたのは、その声が女性のものであった事である。それも聞き覚えのある。

 近くへ寄って確かめ、更に息が止まるかと思うほど驚いた。

 りし日の祖母にそっくりだった。

 「それも祖母の若い頃に…。と、言ってもわたくしが生まれた時には五十の坂に差し掛かった頃なのですけれど」

 「それはもしかして、亡くなったとされていたお母さんですか?」

 「そうでもあり、そればかりではありませんでした。その人の話を信じるならば、ひとつの身体にふたつの心を収めて両親がそこに居たのです。わたくしの名を呼んだのは父の方でした」

 状況が飲み込めずに絶句する駿太郎に微笑を向けて客は続けた。「わたくしも、最初は何が何やらまったく分りませんでした。ですが…」

 先客の言葉遣いや声の調子、何気無なにげな所作しょさは男性のそれであり、作り物には見えなかった。それどころかしばらく話をしていると姿も声も亡くなった祖母と生き写しであるにも関わらず、男性を相手にしているという認識がいや増すばかりであった。

 「僕はもうすぐ死ぬようだから、もうお前のお母さんに返さなくてはならない。それで帰って来たのだよ」その人は寝台に横たわる形ばかりの父の身体に、ひたと視線を向けながらそう言った。

 「それはどういう…?」

 「お前には本当に済まなかったね。でも、僕は思いのままに生きてみたかった。それでお前のお母さんの人生を借りてしまった。本当に素晴らしい人生であったよ。最後にお前の顔を見て声を聞き、お前の今が幸せである事を確かめる事も叶ったのだから、もう充分だ。ありがとう、…さようなら」

 今も寝台の上の父がしっかりと握って誰にも取り上げる事が叶わなかった手鏡を、その人はあっさりと摘み上げ、思いきり床に叩きつけた。

 手鏡は粉々に割れて散った。と、同時に鏡を割った当人があっと声を上げて蹲った。

 一体いま、何が起こったのだろう?

 寝台の上の父親を見やると、どうやら息をしていないように見受けられる。医者を呼ばなくては。きびすを返しかけて、うずくまったその人がそのまま床に貼り付くようにしている事に気がついた。


 残念ながらお母様の容体ようだいも思わしくないようですね。

 「面差おもざしが似ていたからでしょう。医者は迷わずにその人をわたくしの母親であると断じて、そのまま入院させるよううながしてきました。是非ぜひもありませんでした」

 促されるままに入院の手続きを取り、差し当たって優先順位の高い案件の方から手をつけた。父親の葬儀の手配だ。直系の親族といえば、もはや自分だけなのだから仕方が無い。それにしても形だけでも弔問ちょうもんに訪れようという親族が驚くほど少ないのには憤慨ふんがいしたと言う。こうして弔いの祭儀は呆気ないほど簡単に終わり、いよいよ疑問符だけでくくられた案件に取り組まねばならなくなった。

 必要と思われる日用品を整えて病院を訪れると、またしても先客の姿が有った。肩幅が広く、どっしりとした身体つきの男性らしい。訪いを入れるより先にこちらに気付いた男性は人懐ひとなつこい笑みを浮かべながら、「あなたは―もしかして…」こちらの名前を言い当てた。 「そうですか。そうですか。わたしはこういう者でして」

 差し出された名刺には帰山とある。肩書は無数に有り、よく分らないが何やらの学者のようであった。

 「今日は別の友人を見舞うためにこちらに来ていたのですが、病室の中にまた別の見知った顔を見つけたのですから驚きましたよ。わたしはあなたのご両親とは年来の友人です」

 ここには母一人しか居ない。それにも係わらず、この人は両親と言った。

 どうやら事情の大筋おおすじを知る人物らしい。

 「彼らは長い間ふたりでひとり、ひとりでふたりの生活を送って来たのです。それが急に別たれたのですから、しばらくは口を利くことも難しいかも知れません」

 その人は寝台の上に身を起こしているとはいえ、悄然しょうぜんとうな垂れ、地の底を覘きこんでいるかのような眼差しには光が無かった。


 「お近づきの印にここはわたしにご馳走ちそうさせて下さい」

 帰山氏の勧めるままに駅のカフェに場所を移した。

 「こんな形でお会いするのは少し残念な気もしますがね、予定通りでもあったのですよ。かねてから、自分の身に何かあった際には宜しく頼むというのが彼の口癖でありましたからね」

 「あのう…。彼とおっしゃっているのは、その…。さきほどひとりでふたりとも仰ったようですが、それは一体どういう?」

 「そうですな。そう。お訊ねになりたい事は山ほどもありましょうが、ここはひとつずつお話ししていく事と致しましょう」

 帰山氏は元よりそのつもりだったのだろう、いまふたりが差し向かいに腰を落ち着けているのは周囲の耳目じもくを気にしなくとも良い個室である。別料金が掛かるのに勿体無もったいないと思ったりしたものだが、氏の気遣きづかいによるものであったらしい。

 「彼、もとい彼女と申し上げた方が宜しいか。彼女の中には明らかに別個の人格がふたつ確認されました。ですから、ひとりでふたりと申し上げたのです」

 「本当にそのような事が有り得るものなのでしょうか」

 「現にわたしはふたりと親しく交わって来たのですから、そういうことも有り得るのですとより他に申し上げられません。いまだ見つかりませんが、海の向こうの文献を丹念たんねんに探せば似たような症例も有るのかも知れない」

 …―症例。

 「それは病気であると?!」

 この場合、最も簡潔かんけつで明瞭な解答と思われるものに迷わず飛びついた。

 「その可能性もあります」

 まずまず納得のいく帰結きけつであった。すっかり安堵あんどした後は、帰山氏との歓談かんだんに時を過ごしてその日を終えた。

 病気であったと言うのであれば誰のせいでも無い、致し方ない事では無いか。それにしても母とは年来ねんらいの友人と名乗る帰山氏は何と魅力的な人だろうかと思った。学者の肩書を裏切らぬ博識はくしきぶりと、人をらさぬ機知きちに富んだ話も楽しかった。

 今朝は玄関から外へ踏み出そうというだけでも、まるで漬物石でもくくり付けられたかのように重かった足が、いまは軽い。

 あのような見識けんしきの高い人と親交を持てたのであれば、たとい奇病を患っているとはいえ、母は幸せに過ごしていたのでは無かろうか。不思議な満足感を覚えた。

 その日仕事から帰宅した夫を捕まえるなり、帰山氏との邂逅かいこうについて怒涛どとうのように語り聞かせた。

 「お前がその様に手放しでめる人物があるとは珍しい、私もその人物に会ってみたい」

 夫は目をパチクリさせながらそう言った。

 帰山氏の投宿先とうしゅくさきは聞いている。早速に使いを出して面会の座を持った。

 交歓の場は旨く行き、「お前の言うとおり、愉快な人だね。人品骨柄卑じんぴんこつがらいやしからず、徳の高い人物と見受けられる。交際するに問題無かろうよ」夫のお墨付すみつきも得られた。

 とは言え、ずっと年上の人物を相手の友達づきあいは憚られた。せいぜいが、母を見舞った際に帰山氏と行き会えば、気兼ね無く言葉を交わすという程度に収まった。

 そんなある日、母が見慣れぬ化粧着けしょうぎを身に着けていた。気がつけば身の回り品も増えている。それも自分が選んで揃えた物よりも数段上等で、石鹸などはどう見ても高価な舶来品はくらいひんであるようだ。

 帰山氏からの見舞いの品だろうか。

 趣味の良い化粧着は母に良く似合っている。友人であればこそ、母の好みも把握しているのであろう。心づくしが感じられた。

 ―それにしても。

 ひとつだけ不可解な品も含まれていた。

 古びた文箱。それも元々余り良品りょうひんとは言えないような…。


 「それが、こちらの品だったんですね?」

 「ええ。この文箱です」


 「ああ、それは恐らく番頭が手配したのでありましょう。わたしは一切知りませんよ」

 見舞い品の礼を述べた時に帰山氏から聞かされた返事がこれだった。

 「番頭?」

 「彼…、もとい彼女は勤め人の様ではありませんでしたから、何か事業を起こして成功した方なのだろうと、わたしはそのように断じていました。そうして実際、何不自由の無い身の上であるようでしたな。わたしが知っているのはそれっ位です。何しろわたしは算盤そろばんがらみの話は苦手ですからね。それに友達づきあいをするに当たって生業なりわい風向かざむききがどうかなんて然して重要でもありませんしね」

 風邪や胃痛に頭痛と言った一般な病気については、=身体の不調ととらえられる。しかし、母の場合には、病気=狂と頭の中で自動的に置き換えられていた。

 果して、そのような人に事業を起こせるものか。しかも成功させるとは?いやしかし、これは帰山氏の憶測おくそくに過ぎない。それでも確かに、異装いそうであったにしろ身に着けていた衣類や持っていた手回り品は決して安物ではなかった。

 「その、番頭を務める方の連絡先はお分かりになりますか?」

 「知りません。そのようなお付き合いでもありませんから」

 素気無そっけない返事である。

 「学者さんであればそんなものだろうよ」

 夫の見解けんかいもこれまた素っ気無い。


 「それで、どうされました?」

 「どうするもこうするもありませんよ。母はぼんやりしているばかりで全く口を利きませんから、何ひとつ聞き出せませんし、看護婦や受付に聞いても、忙しくて覚えていないの一点張りでらちが開きませんでしたし。ならば、その番頭とやらを直接捕まえるより他ありませんから、それらしき人が現れるのをひたすら待ちました」

 聞きたい事、確認したいことを覚え書きとして便箋びんせんに書きつらね、その時をとららえたならすぐさま取り出せるようにと件の文箱に入れて置いた。

 「その帰山さんという人は、お母さんとは年来の友人との事でしたが、本当に自分の友人の暮らし向きなど一切合切知らなかったと言うのですか?」

 「何でも帰山さんは若い頃から山の温泉地に避暑に出掛けるのが習慣だとか。母ともそこで知り合ったとの事です。奇しくも母も同様の習慣を持ち合わせていたので、示し合わずとも毎年そこで落ち合う事になります。顔を合わせれば友達づきあいの楽しい時を過ごしていたようです」

 友達づきあいというものをどう捉えるか。大人の解釈では多岐に渡るだろう。では、子供なら?

 人には誰しも、名前も正体も不明ながら、共に居てただ々ひたすら楽しく遊んだ記憶だけが鮮やかに残る友人の思い出がひとつくらいは有るものだ。帰山氏の言うそれはそのような、まるで子供の様に無邪気な関係である。

 現実味が無いが嘘も無い。

 「いかにも学者さんの在り様でしょう?益々ますます帰山さんの身分が保証されたようで安心ではありましたけれど、正直、何とももどかしくもありました」

 待てど暮らせど、母親の病室で見かける来訪者の姿は自分と帰山氏より他に無かった。

 「然様ですか。はてさて…」帰山氏は思案顔しあんがおあごでさすりながら天井を見上げた。

 今や行きつけとなった感のある駅のカフェであった。

 今日は停車場側の窓辺で差し向かいに席を占めている。床に視線を落とすと、駅前側の窓にまれたステンドグラスが色とりどりの光をき散らしていた。

 「思い付きですが、山のホテルに問い合わせてみましょう。わたしもお母様も同じホテルを定宿としていましたから。宿帳やどちょうというものがありますので、少なくともその当時の住所は分りましょう。それが何かの手掛かりとなるはずです」

 「お手数ですが、宜しくお願い致します」

 ―ところで―

 深々と頭を下げる耳に、少し困惑気味こんわくぎみな帰山氏の声が入ってきた。

 「あなたは一体何を知りたいと望まれているのですか?あなたのお話によると、その生死は元より、何十年も消息不明であったお母上とこの度再会された。しかし、共に居られる時間は短い可能性がある。現状を整理してみるとそれで宜しいですな。それならば、今この時をお母上と一緒に過ごす事が一番重要なのではありませんか?」

 眼を上げるとそこには心底不可解といった表情の帰山氏の顔が有った。

 「今ならその言葉の意味が分りますけれど、その時のわたくしには帰山さんが一体何を仰っているのかさっぱり分りませんでした」

 頑是がんぜない頃に別れてそれっきりの不詳ふしょうの母である。何でも知りたいと思うのが当たり前ではないか。釈然しゃくぜんとしないまま帰山氏と別れた。

 「もしあなたがこれを我が事とした場合、どのようにお考えになります?」

 ねえ、骨董屋さん

 客の呼び掛けに、駿太郎はハッと眼の覚めるような心地がした。

 別に上の空で居たという訳では無い。どこか自分と似通った客の境遇を思わず知らず“我が事の”すぐかたわらまで手繰たぐり寄せて感慨かんがいふけっていたのである。

 駿太郎には実母の記憶は一切無い。その代わりその場所にはすっきりと清子が収まっているので、その事実によって幸いにも憂いを感じた事は無い。しかし実父については不詳である。十歳の夏までは共に暮らしていたはずなのに、ぼんやり霞がかったように記憶が曖昧あいまいだ。実際には有り得なくとも、いつかひょっくりと父が帰って来たとして、ああそうかなと受け入れてしまうだろう気がする。

 「私はどちらかといえば、その帰山さんという人と同じ意見です」

 せっかく帰って来た父に、今までどうしていたのかと問う事はしないだろうと思う。もしかして父がある時点で食うに困っていたり、病に伏せっていた事があるにしろ、“今”からそこへ手を差し伸べる事は叶わない。すぐに言えば知るだけ無駄である。

 駿太郎の応えに客はふっと短く息をついた。

 「やはり男と女では分別ふうべつのつけ方が違うのでしょうねぇ。宅の主人も帰山さんやあなたと同様の意見でしたもの」

 それは果して男女の違いだけに収まるものなのだろうか?

 そうした駿太郎の無言の問いに応えるかのように客は続けた。

 「でも、そうではなかったのですよね。帰山さんも夫もあなたも、結局はわたくしがどうしたいのかを問うていました。よくよく考え合わせてみれば、わたくしは単純に、母が邪魔だったのです」

 物心がついてからこっち、母親の所在はいつも不明だった。

 幼い頃には、お前の母は遠くへ出掛けているから今ここに居ないのだよと言われ。もう少し成長してきたところで、お前の母は病を得て死んだのだと打ち明けられた。

 お前の母は残念ながら、もうこの世のどこにも居ないのだ。

 打ち寄せる波のように繰り返し々そのように言い聞かされてきた。なのに中年を過ぎた頃に突如とつじょと実母が出現した。

 「わたくしがどうしたかったのか?それは、どこかに決定的な不具合を見つけて、あの人をわたくしの生活から弾き出してしまいたかったのです。わたくしと同様の境遇を生きるような人はそうそう居ませんから、わたくしの気持ちをくみ取ってくれる人は希です。それが今更痛いほど分りました。お母さんとは無条件で愛される存在のようですけれど、わたくしには分らない。だって、その人はわたくしの人生の中に最初から居なかったのですから」

 これはやはり、今後二度と会うことのない人間を相手の語り捨てで、こちらも誰にも語らず聞き捨てにすべき話であるようだ。

 「そろそろ少しお疲れでしょう。形ばかりですが軽食も用意してありますので、宜しければここいらで一度休憩を入れませんか」

 安西氏の手配した仕出し弁当を広げつつ駿太郎も小休止に入った。

 曰く付と称する品を持ち込んで来る客は皆こうしたものなのだろうか。いや皆までとは言わないまでも、圧倒的にこの手合いが多いに違いない。安西氏は恐らく逃げたのだ。駿太郎としては報酬が用意されて以上、文句をつける訳にはいかないのだが。

 「それでその後、帰山さんの請け合った宿帳の件はどうなったのですか?」

 「あれはもう、そのまま手詰てづまりとなりました」

 宿帳に記された住所を調べてみると、そこはまた別のホテルの所在地だった。それもかなりの格式を持ち、敷居も高い宿であったため、過去の泊り客に関して問い合わせたところでやんわりいなされて相手にもされなかった。

 「それでも確かに母は裕福な暮らしをしてきたのだろうと言う事だけは分りました」

 平静な声で話しながらも、客の膝元に置かれた両のてのひらが互いに互いをしぼろうとするかのように組み付いている。余程に無念であったろう事が駿太郎にも知れた。

 「ですからわたくしは、今度は直接母に聞くことにしたのです」

 「えっ」駿太郎は素直に驚いた。「それまでお母さんに話しかけた事は無かったんですか?!」

 「当たり前でしょう。姿だけなら知り人に似て懐かしくとも、まったく知らない人ですし、誰とも確と…、あの年来の友人であるはずの帰山さんともまともに顔を合わせようともしなければ挨拶ひとつすら交わそうともしないのですから、あの人はわたくしにとっては息をすることが出来る珍しい幽霊でしかありませんでした」

 前にも聞いたような言葉づらが飛び出した。明らかな怒りを感じるものの、一体何に対する怒りなのか、駿太郎には全く分らなかった。

 ―さりとて、相手が有っての事を一人決めしたところで、捗々しい首尾など得られるはずも無い。それは計算の内である。

 まずは意中の相手の関心を引く為に、当の息する幽霊に向かってあれこれ話し掛ける事に努めた。

 身支度をさせながら。食事の給仕をしながら、一等分り易いその日の天気の話から初めて近頃新聞紙上に取り上げられている世上や事件など、手当たり次第に喋りまくった。

 けれど、俄の思い人は一向に応えてはくれない。

 しかしこの女客も簡単には諦めなかった。

 それならそれで、日々気がついた事を記録に留めて相手の気を引くような話題をひねり出してやろうと奮闘した。

 たまたま満腹になったから食べ残したのか、嫌いだから除けたのか分らないお菜や、“幽霊”の目線がふと触れた先に有った光景だとかを帳面につけ始めた。

 帳面はまたあの文箱に収めておけば分り良いだろう。そう思い粗末な木箱の蓋を開けてみると、以前確かに入れたはずの覚え書きは一枚残らず消えており、宛名の無いハガキが一葉入っているばかりだった。

 思わず手に取り、裏を返すとそれは絵ハガキだった。

 「まぁ…海」

 取り立てて珍しい物でも無かったが、ああ実家のすぐ傍の海岸の風景に良く似ていると思ったら自然と声が出た。

 呟いた言葉に反応して、幽霊がこちらを見た。

 ひたと眼が合ってドキリとした。

 女学校時代の友達の誰かにそっくりな真っ直ぐな視線。

 「本当に?」幽霊が初めて口を利いた。

 先にお前の父だと称して話し掛けてきた時とは音色も調子も違う別人の声だった。

 ―彼女の中には明らかに別個の人格がふたつ確認されました―

 帰山さんの言葉の意味はこういう事だったのかと、今度はしっかりとに落ちた。そうして今更ながらに、自分が相手している人物の得体の知れなさにぞっとした。

 「…何が?―ですか」問い掛けに応える問いの言葉はかすれていた。

 「今、うみって」

 じ気て言葉が出ず、ぺらりとハガキをひるがえして絵の中の海を見せた。

 「そう。解かったわ」

 幽霊はくたりと寝台に横になると、そのまま眠ってしまったようだった。

 ようやくに“幽霊”の関心を捕らえて言葉を交わす好機こうきが巡って来たというのに、急に湧き上がってきたおびえによってそのままやり過ごしてしまった。

 「それでわたくしは自分の本心が一体どこに在るのかが、すっかり分らなくなりました。今更ながらにわたくしは、本当には何を望んでいたのでしょう…」

 ものの数分か数秒間の出来事だったのだが、その寸の間に魂が干上ひあがってしまったかのように頭の中といわず胸の内からも、あらゆる感情の色彩が姿を消した。知能が働かず何の考えもまとまらない。つい先程まで感じていた恐怖も今は消し飛んでいて、心は平べったく伸されたように動かない。それでも、身体だけは動かす事が出来た。

 病室を出て階段を一階まで降り、また階段を一段ずつ踏んで最上階まで上がった。当ても無く各階をぐるぐる歩きまわって一階まで降りて行き、またぐるぐる歩きまわりながら最上階へ上がる事を繰り返した。そうするうちに少しずつ心の表面が波打ち始め、自分の周囲を忙しげに往来する病院職員の姿に目がいくようになった。そうして外の雨にも気がついた。

 今日は雨具の用意などしていない。病院で貸してくれるかしらなど、ぼんやりと考えていると、血相を変えた様子の看護婦長がまっしぐらとこちらに走って来た。

 “お母様はどちらにいらっしゃいます?ご不浄でしょうか、それとも軽くそこらをお散歩がてら歩きまわっていらっしゃるんでしょうか?”

 意味が分らない。

 「母なら部屋で眠っていると思いますけど?」

 今にも舌打ちをしかねない看護婦長の渋面じゅうめんを眺めながら、のろのろと自分の受け答えのちぐはぐさに気がついた。

 母が大人しく自室で眠っていたのであれば、看護婦長がこんなに形相ぎょうそうを変えるはずが無いではないか。

 では、母は今部屋に居ないのか…。

 ―じゃあ、きっと海だ。

 真っ直ぐにそう思った。

 病院を走り出ると、風がついて激しさを増した雨が万遍まんべんなく顔を打ってきた。

 それでも別に槍が降ってきたわけでは無い。なりふり構わず雨に打たれながら走りに走った。海岸まで出るとそれらしき人影を見つけた。

 痩せて小柄な身体に雨に濡れた襦袢じゅばんがべったり貼り付いている。その姿を目にするだけでも、ただ、ただ空恐ろしい。何をどうするつもりでそうしているのかが、全く想像もつかないからだ。

 細く小さな身体の向こうには、信じられないほど大きく膨れ上がっては跡形も失く砕け、砕けては更に大きさを増していくような大海原が見えた。

 危ない。そっちに行っちゃ駄目、行っちゃ駄目、止まって!

 でも、どう呼び掛けて伝えたら良いのかが分らない。

 チョットあなた。ねえっ、アンタ。おおー…い、そこの人―。どれも違う。

 「お母さんっ!」

 人影がくるりとこちらを振り向き、口を開いた。

 が、雨と風の音と、海鳴りにさえぎられて声すら聞こえない。

 見る間に母の後ろの海が天に吊り上げられるように持ち上がり、あっという間に母の姿を呑み込んでしまった。

 「うわあぁあああっ!!?」

 人のものとも思われぬような、野太い絶叫が耳を打った。

 こんな声は今まで出した事も無ければ、出るとも思った事は無かった。

 困惑と混乱の最中、母をさらった水の地獄にも似た真っ黒な絶望が何もかもを呑み込んで、何も分らなくなった。

 「後聞きによれば、わたくしその時母の後を追って海に入って行こうとしたそうです。それをわたくしの後を追って来た病院の方たちが必死に押し留めて―、それでもわたくしはそれを振り払って海に入って行ったのだという事でした。辛くもわたくしは命を取り留めましたが、それから十日の間わたくしは一度も目覚めなかったそうです」

 駿太郎は改めて客の喪服に眼を留めながら、「では、お母様は…」多分これ以上の言葉は要らないであろうと予測しながらも、敢えて問い掛けた。

 「身罷みまかりました。今日が初七日です」

 「ご愁傷さまで御座います」

 「いいえ」

 意外な返事に眼を上げると、喪服の女はすっきりとした晴れやかな顔をしていた。

 今までのやりとりを思い起こせば、不穏ふおんな表情である。端的に言えば、“邪魔者”が居なくなったからもうこれで安心だ。そこには、そのような満足が含まれているのではないか。

 しかし、目の前にいる喪服の女の表情は優しく穏やかに落ち着いている。駿太郎の想像した世界とは縁が無いように見受けられる。余りにも不思議だったので聞かずには居られなかった。

 「お母様が亡くなって、悲しいでしょう?」

 「いいえ」女は微笑さえ浮かべた顔を左右に振る。

 駿太郎としては手詰まりとなって、この後どのような声を掛けて良いのかが分らなくなった。

 喪服の女客はひとつ頷き、ひたと駿太郎の顔に眼を据えた。

 「わたくしは最初に、もしもあなたの望みが叶うとしたら、と申し上げましたね?わたくしはそれが、叶ってしまったのです。ですから悲しい事などひとつも御座いません」

 駿太郎は首を傾げながら、「叶ったと仰るのは。あなたの望みが、と言う事ですか?私は思い出せる限りで、それを聞いた覚えはありませんが」

 「ええ、そう。そのとおりです。わたくしが今申し上げたのはそこに辿り着くまでの道筋を端折った結論だけなのですから、あなたにはさっぱり訳が分からないでしょうね」

 何しろわたくし自身にも、母と共に遭難して一時でもこの世を離れてみるまでは、自分が何を望んでいるのかが分らなかったのですからね。

 喪服の女は一瞬空の果てを見通すような、或いは地の底を割るような鋭い視線を足元に注いだ。

 そうして喪服の客はさらに“この世を離れていた十日間”について語り始めた。

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 それはとても小さくて、密やかな音。

 そのもろくも細く小さな身体つきを見ていると、誰もが勝手に子猫だろうと判断してしまうが、チマは実は大変長生きなお婆さん猫だ。

 朝方の、それも早い時間にはチマの足音が確実に聞こえる。

 安心しきって安楽に生きているからなのか、加齢によって身体がゆるんでいるせいなのか、チマの爪は出しっ放しだ。老いたる猫が座敷を渡る時には、爪がイグサに当たってチリチリかすかな音を立てる。

 野良連中の事はいざ知らず、人と共に暮らしている猫が次に取る行動と言えば、人の顔に鼻面を近づけてきてウム?フム!匂いを嗅ぐのが常套じょうとう。それをやられると、あっちの鼻面を飾る髭がこちらの顔にこそこそ当たってむず痒いからどうしても目が覚めてしまう。

 まだ肌寒い時節であれば、布団に入れろ!の合図だし、それ以外であれば単純に、独りでは退屈だから起きろ!の意味だ。

 今は夏だから後者だろう。見当を付けて待ち受けていたのだが、チマの気配は一向に近寄って来ない。

 どうした、チマ?

 夢うつつの中、にわかに聞こえた風鈴の囀りで、醒めた意識にともった。

 ああそうだった、ここは家ではないのだ。眼を開く。

 日の出の直前というところか、部屋の空気はほのかに明るく、うっすりと青みを帯びて静かによどんでいる。

 軒先に眼をやる。この家の風鈴は一風も二風も変わっている。何でも安西氏の従弟いとこが南方の島を訪れた折の土産物だとか言っていた。乳白色で半透明な“まる”が幾重いくえにも連ねられており、飾り物としても洒落ていると思う。ただその音色については、どちらかと言えば駿太郎の好みではない。風を受けるとカラカラころころ、てんでに音を立てる様子は雀のお喋りに似ていてやかましい。そんな事をつらつら考えつつ貝の風鈴を眺めていた。

 そのうち風鈴は揺れずとも、継続して何らかの音が聞こえている事に気が付いた。

 起き出して外の様子を確認する。

 「雨か…」

 雨脚は然程強くは無いようだ。しかし、すぐには止みそうにも無い気配だった。

 まるで金魚鉢にでも放り込まれたような水の気配に辟易へきえきとした。

 昨日の客の話を思い出すではないか。着地点としては、決して嫌な話では無かったのだが、何ともこう…釈然としない内容であった。

 それはそれとしてひとまず置き、今日も来客が有るやらどうやらは分らない。この家の主である安西氏はいまだ帰還していない。

 とりあえずは一通りの掃除は済ませて、いつでも客を迎えられる準備をしておくことにした。

 遊びが有る…と言うよりもむしろ遊び一辺倒いっぺんとうの常次郎の店とは違って、いかにも高価そうな品物がずらずら並んでいるような“おかめ屋”の中をうろつくのは、なかなかに緊張を要するものであった。僅かであろうと埃の気配を払い落とす為に、心持ふんわりとはたききを掛け、慎重に品物の間を縫って棚を乾拭きし、窓硝子に磨きを掛ける。硝子と鏡の曇りはだらしの無い家の極みだろう。

 こうして、いいだけウロチョロしているのにも関わらず、駿太郎に話し掛けて来るモノは皆無だった。

 格式の高い店で扱われている品物はそれだけ気位も高いのだろうか。

 骨董店とは貧寒ぴんかんとしたものだなと思った。

 古道具屋に流れてくる輩にはお喋りな向きが多くて、よく駿太郎に絡んで来た。

 面倒ではあったが、相手をしてやると過去の人々の暮らしぶりが色々と分って面白かったのは確かだ。

 駿太郎は、付喪神云々つくもがみうんぬんは一切信じていない。

 何しろそんなモノに出くわした事は一度も無いのだ。

 それにしても、あれは一体何なのだろうと思う。

 かつての主を慕って嘆く道具も居たが、道具類達との交渉とはほとんど一方通行で会話など成立するのは希だから、その主とやらが百年以上前に存命だった人物なのか、直近何年から何十年以内に慣れ親しんだ人物なのかも全く不明だ。そもそも、生きても居ない輩の記憶とは一体何なのか?駿太郎にもよく分らない。

 ただ、命らしきものを宿して(いるように感じる)、その上、独特の声まで得て駿太郎に関わって来ようとするモノが居るのは知っているというだけである。

 とりわけ“曰く付品”については問答無用として不問に伏す。理由は分らないが身体が本能的に反応して回避を望むのなら、触らぬ何とかには祟り無しである。

 ―その点でも昨日の話は全く持って腑に落ちない。

 例の品は客の持ち込んだいかにも女好みの愛らしく華やかな色柄の風呂敷に包んで玄関先の下駄箱の上に放ってある。どう見ても単なる古びた汚い木箱で、それ以上でもそれ以下でも無い。

 そのようなモノに何が成せるだろうか?

 もしも駿太郎の店に持ち込まれたのであれば、二束三文で引き取った後は速攻、芋でも焼く為の焚付たきつけに使われてこの世から消え去っていたであろう。

 しかしここは安西氏の店であり、駿太郎の店は先ごろ焼失してこの世から消え失せた。そこは、今はどこにも無い場所だ。

 そんな事を考えていた矢先。唐突に、

 ごめんください

 階下でおとなう声が聞こえた。

 「いらっしゃいませ」出来る限り明るく明瞭な声音で応えて、駿太郎はトントン階段を降りて行った。

 階段の終着点である玄関先で出会ったのは身形の良い小柄な男で、駿太郎の姿を認めると無間断むかんだんの微笑を浮かべたまま眼を丸くしていた。「どなたです?」

 「留守番の者です」

 「安西さんが、あなたに留守を預けたのですか?」

 「然様ですね」

 「ああ、あのような方にも、やはりお友達に類するような方がいらっしゃるのですね?それは安心しました!」そう言いながら、小柄な男は手にしていたコウモリを玄関脇に片寄せて立て掛けると、許可も求めずさっさと靴を脱いでおかめ屋に上り込んだ。骨董品をあがなおうと言う向きには見えないし、コウモリ以外は手ぶらな処から、売り込みと言う手合いでも無いらしい。安西氏とは気安い間柄の人物なのかも知れない。

 「僕はこういう者です」

 差し出された名刺には紅蛇楼とある。

 「―こう…だろう、さん、ですか?」

 紅蛇楼は無間断の微笑のまま、大きくうなずいた。

 これはごうであって、人名では無い。

 「ひょっとしてあなたが、帰山さん?」試しに呼び掛けてみた。

 「は?」

 違うらしい。

 「ああ…、」

 紅蛇楼氏と相前後して帰還した安西氏が、紅蛇楼氏の姿を認めて開口一番漏らしたのは、いかにもうんざりした調子の溜息だった。「コイツはなぁ、すぐに言えばやっかいな野次馬だ。だからコイツの話は丸ごと聞き流して、決して乗らない方が安泰だ」安西氏は当人を前にして、はばかる事無く公言こうげんした。

 「酷いなぁ。それは余りにも酷い言い様ですよ、安西さん。僕は飽くまでも学術的興味を持って、これまでと同様この先も怪異の探求に邁進まいしんする所存なのですからね。そこの処、分って頂けないものなのかなぁ?」

 「積極的に分りたいとはサッパリと思わんな。だがな、分りたくも無いのに分る事はある。こうさんの用向きはコイツだろう?」

 紅さんなる呼び掛けには親しみの色が有った。好悪を超えた腐れ縁とやらで結びついている相手の様だ。

 紅蛇楼氏は安西氏の突き出した風呂敷包みにガバリと取り付いて、いそいそと結び目を解き始めた。実用一辺倒で余計な装飾ひとつ無く、使い込まれてややくたびれ気味の布地の間から、大人の男の片手の平をうんと開いた位の大きさの方形ほうけいの桐箱が出て来た。

 「この中に、例の品が?」

 「ああ。多分は国産品のカパーラが一口入っている」

 「えっ、河童ですか?!」

 一瞬、紅蛇楼氏の無間断の微笑に隙間が入り、思わずと言った失笑しっしょうが漏れた。…ような、気がした。安西氏には変化はない。

 「河童じゃあ無くて、カパーラだ。ヒトの頭の骨の、はちの部分をかして作ったさかずきだな」安西氏が人差し指でトントンこめかみの辺りを叩きながら、事も無げに説明した。

 それを耳にして理解が至った時に自分がどのような顔をしていたのかは、勿論駿太郎自身には分らない。

 「ところで紅さん、せっかく流れてきたカパーラだ。何か有ってもいいよなあ?」

 安西氏の呼び掛けに紅蛇楼氏はニヤリと笑い、玄関先に置いたコウモリを引っ掴むと勇んで表に飛び出して行った。

 「嘘だよ。探してみればそんなもんもどこかに有るのかも知らんが、ありゃあ偽物だ。それであんたを雇う事になったんだ」

 髑髏どくろを用いた盃とは不気味ではあるが、希少品には変わりない。嘘か誠か、その信憑性は不明ながら、好事家こうずかの間ではこのところ話題になっていた品だったのだと言う。

 それを先ごろ安西氏の懇意にしている人物が射止めたのだが、それからいくらも経たずに偽物である事が判明した。憤懣遣ふんまんやる方ないが、それを他所よそに漏らせば日頃目利めききでらしているおのが不名誉になるばかりだ。そこでその人物は安西氏を呼びつけて、密かに八つ当たりを敢行かんこうする事に決めた。

 おかめ屋は一人で切り回している店だから、八つ当たりに付き合っている間は商売が完全に棚上げになる。いつもの通り閑古鳥を良いだけ鳴かせていられるのであれば問題は無かったが、こんな時にこそ、狙ったように外せない依頼が舞い込むものなのである。

 「帰山さんには甥っ子が随分と世話になっているからな、あっさり無下とは出来なかったんだ。お蔭で助かったよ」

 助かったのは駿太郎の方だ。安西氏の提示してきた報酬は、なるほど環が得意満面に鼻先を高々とげるに足るものであった。それを口にしようとした時、 「まいど様でござりますぅ」酒屋がやって来た。「何でもお祝い事があったとの事で、誠におめでとうござりますぅ」と、角樽つのだるをひとつ置いて行った。

 「古道具屋さん、あんたイケるクチかい?」

 「―まあ、多少」


 真夏の盛りに地獄の如き鍋が煮えている。

 とは言え、これは暦の上だけで判断した場合の話である。

 駿太郎の知る限り夜明け前から降り始めていた雨は、正午を過ぎた今も休む事無く生真面目に降り続いていた。戻り梅雨と言うには季節に間が空き過ぎているが、このうそ寒さに理由を付けとするのなら、他に納得の付く答えは見つけられそうに無い。

 まあともかく、今日は熱い、が=美味いに直結してしまう様な天候なのだ。

 角樽の次に八百屋が、その次に魚屋が訪いを入れ、それぞれが酒屋と同様の口上こうじょうを述べて何やかやを置いて去って行こうとするのを安西氏が掴まえて、二三追加注文をした。

 気候を鑑み、献立を決めて実際に包丁を振るったのは安西氏である。

 安西氏は今、紅蛇楼氏が手ずから持ち込んだ葛餅に好きなだけ黄粉を振り掛け、好物の黒蜜をたっぷりと注いでご満悦の様子である。意外にも彼は下戸なのだそうだ。

 「それで、達磨だるまさんはどうだったんですか?具体的にどのようなさわりが有ってあなたを呼んだのでしょう」

 安西氏が懇意にしている人物は通り名を“達磨さん”と号しているようだ。

 「障りの部分については口外を差し止められているから、紅さんにも話すわけにはいかないが、まぁ、大変だったな。見た限りの事を話せば、たつの字の旦那は泣くは喚くは、脈絡も無い暴言を吐くわ。何のきっかけも無しに急に取り乱して自分の頭をカチ割ろうかという勢いで壁に額を打ち続け始めたりでなぁ、大変な騒ぎだったよ」

 達磨さんの八つ当たりっぷりはなかなか盛大なものであったらしい。

 「あの、温厚な達磨さんがですか!?」

 「紅さん、にぎばし行儀ぎょうぎが悪いぞ」

 息を飲んで安西氏の話に聞き入っている紅蛇楼氏の手は箸も折れよとばかりに硬いこぶしに握られていた。今、彼の頭の中では、髑髏の呪いにてられた“あの温厚な達磨さん”の惑乱わくらんする様子がありありとうつし出されている違いない。

 ―それにしても。

 まったく日常的ではない、それどころか人の生活にはまったく不要と言っても良いような事に向けられる関心とは、一体どこから湧いてくるものなのだろう?

 角樽の中身を消費しているのは専らに紅蛇楼氏である。彼だけが頻々と用を足す為に中座していた。

 「安西さん。俺は今まであんなような人と付き合った事がありません」

 紅蛇楼氏に嫌悪の気持ちを感じている訳では無い。単純に不思議だった。

 「うん…」もぐもぐ。

 安西氏はしばし葛餅を楽しんで呑み下した後、「あれを見ろ」夏座敷の果て、玄関先の姿見を指し示した。「アイツがあんな風な理由の一つは、多分あれだろう」

安西氏の言を借りれば、積極的に見たいとはサッパリ思わないがともかくそれを見た。今日は覆いが掛けられているようで鏡面が見えない。

 「良く見ろ。あれは、あっち側から覆いが掛けられて居るんだ」

 「ええっ!?」背中が粟立った。

 「理由は分らんが、紅さんはアイツ等に酷く嫌われているようなんだ」安西氏はもうひとつ葛餅を頬張った。咀嚼そしゃくの合間に「ほっか」もごもごとつぶやいた。「あれはアレで見物みものかもしれんな」安西氏がニッカリといかにも人の悪い笑顔を浮かべた。

 用を足し終えて戻って来た紅蛇楼氏に、安西氏はとある“余興よきょうを”所望しょもうした。

 「えっ…。それは―…」

 余興とは何の事は無い。祟り神を押し込んである小部屋への入室だった。

 駿太郎なら金輪際こんりんざい免蒙めんこうむるところだが、紅蛇楼氏のような趣味を持つ人物にとってはやすい事だろうに、何故か躊躇ちゅうちょしている様子だ。

 「そうするとこちらの古道具屋さんが、本日仕入れたて。ほやほやの不思議話を聞かせてくれるそうだ」安西氏は駿太郎の業務報告をそのまま景品に当てるつもりらしい。

 途端に紅蛇楼氏の双眸そうぼうがギラリと強い光を放った。

 「はばかりながら、ぜひとも披露させていただきます!」


 開かない。

 開かずの間とは、本来こうあるべきだ!との見本のように。

 紅蛇楼氏は脂汗を掻きながらも奮闘している。

 まるで、内側からつっかえ棒でもかられている様ではないか?想像してゾッとした。

 鏡のあちら側の仕打ち…。“サッパリ”考えたくない事柄である。

 「古道具屋さん、コイツは当たりだ」

 葛餅を平らげた後、安西氏は次の好物である瓜に取り掛かっていた。今いているのは確か三つ目だ。二つ目までは水っぽくて思わしい甘味が得られなかった。直ぐに言えば、不味まずかった。

 ほい、と差し出された瓜の一片を受け取って口に入れると、優しい甘味が体中に染み渡った。

 「紅さん、それまでだ。もう良い」

 サッと立ち上がった安西氏が祟り部屋の引き戸に手を掛ける。

 アッサリと引き戸が開いた。

 「古道具屋さん、アイツらは紅さん相手だとこう来るんだよ」

 安西氏に名指しで呼び掛けられて、不承不承ふしょうぶしょうに祟り部屋を覘き込んで、駿太郎は天地がひっくり返る勢いで驚いた。

 そこは、もぬけの殻だった。

 「アイツら、一体どこに行っちまうんだかなぁ」

 紅蛇楼氏は落ち込みのあまり、一回りも二回りも身体を縮めて蹲っていた。

 安西氏は本当に人が悪い。

 「喜べ、こうさん。あんたが唯一、目にすることが出来る怪異じゃないか?こちとらだって、滅多には眼にする事は無いんだぜ」

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