第8話山人は人也かんこどりは鳥なりけり

 結局のところとうげみつえてようやくに辿たどいた内村の郷里きょうりは、谷間の底のまり水の様な小さな集落しゅうらくだった。

 夜の明けめる気配けはいが南の山頂さんちょうきざしている。とは言え、いまがそれほど早朝そうちょうというわけではなく、日の光が谷間の底に届くまでにしばらく時間をようするのだ。

 それをぼんやりとながめる駿太郎は肩先かたさきまですっぽりと湯にかっていた。ほかにも朝湯あさゆを楽しもうという者がいくらかあり、湯気ゆげの向こうには内村の顔も見える。

 日が落ちるか落ちかかるかの刻限こくげんには連日れんじつ、へべれけになっている源信は案外に規則きそく正しい生活をしており、酔いどれ医者はとっくに朝湯あさゆ仕舞しまって今時分いまじぶんには朝食ちょうしょくませているだろう。

 人というのは分らないものだと駿太郎は思う。

 「あたしはさぁ、この里で一番の宿屋のお嬢様だったんだよ。父ちゃんにはそりゃあ可愛かわいがってもらった。まさにおぃ様さ。でも女になんか生まれたばっかりにこれ、このとおりなのさ」

 しばらくりに有った小梅は元気そうだった。血色けっしょくも良く声にもりがあり、ちょっと若返わかがえったようにも見えた。ひざの上に丸くなった小さな猫をゆっくりとでつつ、彼女はしかしにがそうに笑っていた。

 そんな小梅のまわりで―そろそろ日が落ちてきた。寒くはないか?腹は減っていないか?と、―この集落で一番大きな温泉宿松ノ屋の主人が、なにくれと細目こまめに立ち働いている。

 「大丈夫だよ。松っちゃん、ありがとうねぇ」

 彼女が苦い顔をそのまま向けると、松っちゃんは何も言わずに退出たいしゅつして行った。

 「弟だよ」そんな言葉が小梅の口からころがり、続いて「腹違はらちがいだけどね」付け加えて言った。

 小梅の父に当たる先代せんだいの松太郎には子が無かった。それでめかけに入ったのが小梅の母いちじくだった。玄人筋くろうとすじの、すぐに言えば商売女だ。

 松太郎の本妻は本気の箱入りで世間知らずな上に、その分しつけの厳しい狭量きょうりょうながちがち娘でもあり、のっけから商売女とは気が合うはずも無く、当初から反目はんもくしあう間柄あいだがらであった。

 妾に先をされてにわかにいろめき立った…かは、どうか分らないが、小梅の誕生を契機けいきに松太郎の本妻はお百度ひゃくどんだり、冬季の水垢離みずごり敢行かんこうしたり、占い師を手当てあたり次第しだいおとない続けた結果、見事みごと跡取あととりとなる長男を産み落とす事に成功した。それが今の当主とうしゅの松太郎である。

 大人の思惑おもわくなぞ関係無く、小梅と松太郎は本当に仲の良い姉弟していとして暮らしていたのだが、先代の松太郎の頓死とんしと同時に妾とその子は本妻に松ノ屋を追い出されて困窮こんきゅうすることとなった。暮らし向きが変わったとは言え、一度は土地の大家たいかの“おはら様”を張ったいちじくとしては元の商売にかえく気は毛頭もうとう無く、同様に大家の“お嬢様”である娘を他人に使役しえきさせるなぞがんとして受け入れなかったからだ。

 「一体どういう料簡りょうけんだか。馬鹿らしいったらない。ひもじい一方で付き合い切れやしなかったよ」

不甲斐ふがいない母親にごうやした若い娘はおのが身をさっさと遠方えんぽうへ売り飛ばし、初めてみずからかせぎ出したおあしをソックリそのまま母親に投げつけるようにして渡すと、郷里を後にした。

 「あたしは日に三度のご飯を満足に頂けりゃあ、どうだって良かったし。それに面白いじゃないか、きびしいとか言われている世間の風とやらに真っこうから当たってみたかったんだ。いまにして思えば、あれは手切れ金ってヤツだったんだろうね。あたしは二度とここには戻らないつもりだったんだし。母ちゃんは母ちゃん、あたしはあたし。それだけのことなんだからさ」

 そんな小梅がなぜ急に、そしてあたかも失踪しっそうするかのようにして郷里に戻ろうと思ったのか。駿太郎が疑問を口にするより先に、小梅が問いを投げてきた。

 「ところで駿ちゃん、そちらの別嬪べっぴんの兄さんはどちら様なんだい?」

 駿太郎の隣には菩薩ぼさつき美しい微笑を浮かべた環が、手にした猫じゃらしをしっかりとふりながら鎮座ちんざしている。駿太郎にくっついて来たというよりもチマを追って来たのだ。

 「この人は目下の俺の家主やぬしと言うか…」

 環の紹介もね、これこれしかじか、古道具屋の不意ふい焼失しょうしつからの経緯けいいを説明した。

 「ええっ!?何だって!!」唐突とうとつに上がった小梅の大声に、おびえたチマが両の耳をぺったりと頭にり付けて膝の上からそろそろと逃げ出した。「どうしてそれから先に言わないのさ。それで大丈夫なのかい、どこか怪我けがとか、火傷やけどなんかしてやしないかい?」

 火災が今さっき起った出来事でもあるかのように、小梅は膝を乗り出して駿太郎の身体をあらため始めた。

「清子ちゃんも余程寿命よほどじゅみょうがちじまっただろうさ。まあまあまあ。戸締とじりは別に良いとして、(古物屋だしね)火の用心はゆめゆめおこたるものじゃあないよ!」

 おくればせの説教が始まり、それからそれへと話がうつって気がついたら三人と一匹の小宴しょうえんとなっていた。目覚めてみれば老舗しにせ温泉宿松ノ屋の座敷にかれた布団の中だった。

 湯殿ゆどのの開いた窓からは、まだ充分に山の涼気りょうきんだ風が吹き込んできて心地良ここちよい。いつまでもこうして居られそうな気がするが、“湯あたりする客はおおむねそう考えるのだ”とせんに内村から釘をされている。それに駿太郎達は純然とした温泉客という訳でも無い。駿太郎は湯から肩を抜いた。

 「それにしても駿ちゃん。そんな大変な最中に何だってこんな山奥に来ようなんて思ったんだい、それどころじゃないだろうにさ?」

 「…―ん。大変…?」

 駿太郎の他人事を聞くような薄い反応に少しくあきれたのか、小梅はそれきりその話はしなかった。

 さて、駿太郎の現状は文無し家無しの居候いそうろうである。内村の厚意こういによって温泉宿に滞在する事となったとは言え、状況は何ら変わらない。環の部屋に転がり込んでいた頃は三度の飯の差し入れも有ったが、ここではそれもない。タダ飯を食わせてもらうつもりは無かった。ついでに少々お足も稼ぐ必要があるだろう。幸いここは温泉宿がのきを連ねているから、下働きの口には困らぬはずだ。

 湯から上がった駿太郎は、内村と差し向かいで朝食をった。

 献立こんだては白飯に漬物と卵焼き。季節の山菜のおひたし。あぶりたての海苔のりと熱い味噌汁。これだけでも充分にご馳走ちそうなのだが、嬉しい事に川魚の塩焼きまで付いておろし大根がえられていた。

 久し振りに気力も充分じゅうぶんだ。

 慣れぬ仕事がかえって有難かった。見様見真似みようみまねで何とかこなしていく。あっと言う間に時間が過ぎて行く。くたくたに疲れた身体は布団ふとんたおれ込むと同時に、夢も見ない深い眠りの中に沈み込んでいった。

 そのような日を3、4日も過ごしてみると、宿の仕事の時間割が何となく分るようになり、仕事のコツもつかめるようになってきた。そうして気がつけば、源信と共に朝湯をびるのが日常となり、今朝も医者の背を流していた。

 「ううっ、ふぅ…極楽極楽。こっちにこのまま住みつくってのもいいのぉ…。どうだ、私の弟子になる気はないか?今までそんな面倒めんどうな者を置こうと思った事は無いが、お前さんならあれこれ役に立ちそうだ」

 「それ、本当に弟子ですか?」

 「うう…ん。違うか」

 「俺は百歩譲るまでもなく、半歩も医者に興味はありませんよ」ザッと勢いよく 医者の背に流し湯を浴びせた。

 「おお、さっぱりした。良い頃合いに腹も減って来たし、とっとと上がって飯にしよう」

 源信の食膳しょくぜんはきく屋の女将おかみが手ずから給仕きゅうじをしていた。源信が山間さんかんの集落には貴重なお医者様であることがそうさせているのだろうが、そればかりでもないようであった。

 「やっぱり。男の子はこうでなくっちゃねぇ」

 健啖家けんたんかの源信と若い駿太郎の二人がかりなのだから、飯櫃めしびつはみるみるうちに空になる。それがいかにも小気味こぎみ良いとばかりに女将は上機嫌じょうきげんでしゃもじをかまえている。息子の内村は四十を超えているだろうから、女将もそれ相当の年頃だろう。彼女から見れば源信も男の子のくくりに入るらしい。

 「それで女将、今日はどんな塩梅あんばいかね」医者は梅干を一粒落とし込んだほうじ茶をすすりながら、食膳の後片付けに余念よねんの無い女将に水を向けた。

 「沢尻のご隠居さんが昼前には来られるとか言っていましたよ」

 「他には?」

 「その時になってみなきゃ、分りませんねぇ」えいやっと、とりまとめた食器を積んだ盆を持ち上げ、さっさと座敷ざしきを引き上げる女将の受け答えの最後はすげなく響いた。

 「それなら、昼までそこらをぶらぶらして来よう」医者はおもむろに腰を上げると、その中身には頓着とんちゃくもせず、年季ねんきの入った往診鞄おうしんかばんをぶら下げて外へ出掛けて行った。酔いどれ医者は日没にちぼつまでは素面しらふの医者をやっている。

 内村も持病じびょうの腰痛を理由に実家である温泉宿の手伝いはせずに、ここでも代筆屋をしながら過ごしている。「あたしの取り得はこれだけですし、これしか出来ませんしね」

 まるで取るに足らぬ事でもあるような口ぶりだが、内村は町場に居る時よりも忙しそうだった。時候じこうの挨拶にしろ品書しながきにしろ、悪筆あくひつよりは能筆のうひつの方が求められる。それに、内村の手蹟しゅせきはそのご面相めんそうからは想像もつかないほど優美ゆうびでもある。

 避暑ひしょを求めて出掛でかけた先で、多忙をきわめるのは如何いかがなものかとチラと思う。内村の場合、座り仕事が延長えんちょうすればこれまで以上に腰にさわるのではないかともあやぶまれる。がしかし、別に療養りょうように来たわけでも無いのだ。

 駿太郎もきく屋が用意してくれた弁当を手に、そろそろ出掛けることにした。

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 駿太郎はきく屋の勝手口から外へ出ると、宿の裏手うらてのようよう日の光が届き始めた山の斜面しゃめんを登って行った。斜面とは言っても見た目に判然としている訳では無く、足を踏み込んでみればそれと分る程度のゆるい勾配こうばいのついた丈高たけたかやぶの原にもぶり込んで行くと言う方が正しいかも知れない。

 繁茂はんもする植物のひとつひとつの名称めいしょうなど分らない。駿太郎は雑多ざったり交ざって空に向かって高く伸び上がる緑の穂先ほさきかし見た。色味の違いを認めた方向へ歩を進める。しばらく行くと、竹竿たけざおの先に古手ぬぐいをくくり付けただけの簡易かんい旗印はたじるしが見つかった。この行程こうていを繰り返しながら、藪の先へと分け入って行った。

 「ほーい、ここだ。ここだぁ」不意ふいに藪の向こう側から、おどけた様な男の声が上がった。「いやあ、いいねえ。兄さんは立端たっぱがあるから、熊やら狸なんぞと見誤みあやまる気づかいが要らない。ありがてぇよ」

 きく屋の下働きの鶴次郎だ。この人がもっぱらに駿太郎の面倒をみてくれている。

 「鶴さん、朝飯!」

 駿太郎が頭上高くかかげて見せた風呂敷包みに向かって、鶴次郎は飴色あめいろに日焼けた顔をほころばせた。

 きく屋の屋号やごうにはいわれが有る。

 「兄さんは今までこんなン、見たことあッかね?」

 鶴次郎はたっぷりと海苔を巻かれた握り飯を頬張ほおばりながら、足元に大量にころがされているものへあごをしゃくった。

 「ショウガに似ているようですが、違うんですか」

 「ソイツはなまでもイケるから、ひとつかじってみてもええぞ」

 うながされて駿太郎は水筒すいとうの水で軽く表面の土を落とし、かじってみた。

 確かにからくはないが、その正体は皆目かいもく見当もつかなかった。いて言えば梨の様な歯ざわり。そして果実よりはずっとひかえ目なほんのりとした甘みと土の香りがするだけだった。

 「昔は豚いも…とか、言うちょったかな。すぐに言えば家畜かちくの食い扶持ぶちだったモンだ」

 おっと、女将さんに聞かれたら事だなと、鶴次郎は急いで“菊芋”と言い直した。

 きく屋の“きく”はこの菊芋きくいもを使った料理を宿の名物としているところから来ている。

 「里から来たモンには余程よほどに珍しいんだろうなあ。それこそ、里に居りゃあ今まで食った事も無かろうしな」客にはそこそこ評判が良いのだと言う。  「里にはもっと美味うまいモノがいくらでも有るだろうに…」世の中と言うのは分らんよ。鶴次郎は話をそうめくくると、いかにも美味そうにのどを鳴らして水筒をあおった。

 きく屋でも女将と鶴次郎しか承知していないと言う秘密の貯蔵ちょぞう場所から取り出された大量の菊芋を無事ぶじに宿の台所に運び終えた次は、主に湯治とうじ客達の使う共同宿舎と共同浴場の清掃だった。この施設は集落全体の共有財産であり、月番つきばん制の持ち回りで管理されている。今月はきく屋が当番に当たっていた。

 管理と言ってもそう難しい事は無い。ここを使うのはほぼ近在きんざいの人々で、彼らにとっても大切な施設であるから、無理無体むりむたいな態度をとる者も狼藉ろうぜきを働く者も居ない。たまの苦労と言えば、経年劣化けいねんれっかによる施設破損の修繕にまつわるあれこれくらいだ。

 「そんなん、月番の責任じゃろ言うて、金をしぶるごうつくばりも居るんだ」にわか眉間みけんが割れたのかと思われるような深いしわを寄せて鶴次郎が語って聞かせてくれた。

 「そこは大店ですか」まさかに松ノ屋では無かろうと思いつつも、小梅不在の松ノ屋を知らない駿太郎は恐る恐るいの手を入れた。

 「んな、威勢の良くねえ宿なんぞには福の神も滅多に足は向けねえなぁ。ずーっと振るわないから、本当は金を出したくとも出せないんさね」鶴次郎の渋面じゅうめんがさらりとほどけて眉間もつるりピカリと照り返った。

 もしも本当に源信がこっちに移住して来て、本気でここに骨をうずめる気なのなら、弟子と言う名の単なる下僕げぼくに身をやつしても良いかなと、駿太郎は思った。

 湯治場は自炊じすい利便りべんの為に、宿場を少し離れた沢沿さわぞいにある。

 男の足だから、しゃんしゃん歩めばほどなく行き着く。決して遠い距離では無いのだが、日暮ひぐれが早いこともあり、途中どこかに腰を落ち着けて弁当を使うなどという暇は無い。だから歩きながらの中食となる。この辺りではふつうに見かける光景だ。大抵たいていひと口か、ふた口でけりのつくいなり荷ずしが用いられる事が多い。果して、きく屋で持たせてくれた弁当も稲荷ずしであった。

 これには最初、駿太郎は面食めんくらった。歩きいなど、これまで行儀ぎょうぎの悪い事とされていたのだから。それが所変ところかわれば事情も変わる。ここいらではいくら行儀が良くとも、日のかげる前に用事がせなければ“あてに成らぬ者”とされて大いに信用をく事になるのだ。世の中とは本当に分らないものだ。

 沢のせせらぎの音が近くなってきた。

 「ありゃ。何事だ?」思わずといった風のつぶやきが鶴次郎の口から洩れ、歩調ほちょうも俄に早まった。

 まだ日は浅いとは言え、駿太郎にも異変は感じ取ることが出来た。この時分じぶんならいつも、湯治客は各々おのおの晩のおかずを採りに山に入って宿舎から出払ではっているはずである。なのに今日は賑々にぎにぎしく人声がしている。時折ときおりどっと笑っているような響きも混じっている事から、急病人という訳でも無さそうであるが…。

 「このねえさんが、ここでイチから商売を始めたいんだと!」

 「何でもここが気に入ったから、家移やうりしてくる事に決めたんだとさぁ」

 それで皆で知恵を出し合ってけていたのだと言う。

 見渡してみれば、湯治客ほぼ全員の顔ぶれがそろっている。その輪の真ん中に、くだんの姐さんの顔があった。

 年の頃はよく分らない。最初見た時には、小さな女の子が居るものと錯覚を覚えたくらいに溌剌はつらつとした表情が辺りを照らす様に輝いている。小鳥のさえずりにも似た声もまた愛らしかった。しかし髪にちらほら混じる白いものからして、それなりの老婦人であるに違いない。

 「あら、それならやめた。だってあたし重い物なんて持てないもの」

 「まだ始めてもいないのに、もうやめるのか。辛抱しんぼうらんのぉ」

 「辛抱ならずうっとしてきし、もう沢山たくさん。だからそんな話はよしてちょうだい。そんな、おでこに皺を寄せた顔も嫌いよ。見えないようにかくしてちょうだい」

 嫌われた嫌われたとはやす楽しげな声が、湯殿ゆどのまでれ聞こえてくる。

 「いいね。あの姐さんは花があるよ。芸者だったら大した売れっ子になれる。けど、それには品が良すぎるかなぁ」

何となく気持ちが浮き立っているのだろう鼻歌はなうたじりに、鶴次郎はそんな事をらした。 得体は知れなくとも姐さんの身なりの良いことは一目で分る。まとっている空気がはなから違うのだ。

「姐さんはどこの宿だね。もう直に日が陰って暗くなる。帰り道のついでに送ってやろう」

 帰りがけに件の婦人に声を掛けると、迎えが来るからとあっさり断られた。

 「鶴さんもフラれたね」

 また一頻ひとしきり座がいた。

 「御免ごめん下さい」

 おとなう声に打たれたように座が静まった。

 見れば宿舎の入り口に、はこもの物らしきものを包んだ風呂敷をげた男がひとり立っている。

 駿太郎はその男に見覚みおぼえが有った。

 気配けはいさっしたのだろう。男の視線がつと動いて駿太郎の上で止まった。

 しかしどうと言う事も無く、男は提げてきた風呂敷を解くと大ぶりの重箱を取り出した。

 「本日は皆様に大変お世話になりました。宜しければおよろ礼かたがた。ほんのお口汚しではありますが」

 相変わらず男の羽振はぶりは良いらしい。

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 男は確か安西と言う名であった。別の土地で骨董を商っているという人物だ。

面識はあるといえ、親しみは無い。安西氏にしても駿太郎を覚えているかどうか…、と胡乱うろんな間柄である。

 えて挨拶に出向く必要もあるまい。

 判断した駿太郎は安西氏には特にかまわなかったのだが、彼の母親と思しき件の老婦人とは方々で行き会う事が増えて行った。

 機嫌良くさえずっている彼女がどの場面でも輪の中心に居るらしい。それが駿太郎には少し意外であった。駿太郎がおぼろな記憶にとどめている安西氏の印象いんしょうはどこかほの暗い。しかとこれこれと理由は立たないが、忌避きひしたくなるような雰囲気ふんいきが有った。例えば人通りの少なく薄暗いうすぐら路地裏ろじうらなど、“何となく”けてしまうものだが、それに似ている。

 まあ、気性きしょうの違う親子などそれこそ世間せけんにはいくらでもあることだ。思い直しつつも見かける毎に駿太郎は首をひねっていた。

 「おいコラ、そんなところで突っ立ったままねむるな!」

 飛んで来た医者の声がピシリと決めつけた。

 「別に眠っちゃいませんよ」

 「嘘をつけ、その証拠にさっきからぴたりとお主の手が止まっておるわ」

 「是非ぜひも有りませんよ、先生。タダ働きじゃ、やる気も出ない」

 「だからそれは後できっちり払ってやると言っとろうが」

 「一回だけタダでてくれるってやつですか?そんなの一体いつになる事やら…」

 「安心せい!人間は皆いつか必ず死ぬ。お前だっていつかはあちこちガタがくる。その時になったら今この時の事に感謝して涙するはずだ」

 「じゃあ先生、きっと俺よりも長生きして下さいよ」

 「ああっ、馬鹿。それじゃない、そりゃただの雑草だ。その横のそれ!オオアマドコロはそっちだ!さっき教えたろうが、居眠りなんぞするから手元がぶれるのだ」

 昨夜、入浴も兼ねた湯殿掃除を終えて駿太郎が部屋に戻ってみると、つねに無く悄然しょうぜんと背を丸めた医者が往診鞄おうしんかばんのぞき込んでは“ぬかったぬかった”としきりとぼやき続けていた。

 嫌な予感は有った。

 とりあえず打遣うちやって布団ふとんを敷こうとしたところで、駿太郎は余計よけいな事に気がついた。

 よいもとうに過ぎたというのに、源信お気に入りの鴨徳利かもどっくりの姿かたちがどこにも無い。

 これは何やら一大事なのではと感じた駿太郎は、今やこれ見よがしに大げさな溜息を連発している医者に、うっかり声を掛けてしまったのだ。

 うかつであった。

 常と様子が違っていると言う事は、そこには何かしらの異変が起こっており、罠が待ち受けているという事なのだ。

 ―薬品切れ。

 源信が持参していた薬が思いのほか早くそこをついてしまったのだと言う。生憎あいにくとこの近辺きんぺんには薬をあきなっている店など無い。ならば可能な限り現地調達ちょうたつをするまでよと、実質無報酬じっしつむほうしゅうで駿太郎は薬狩くすりがりにり出されるはめとなった。

 これが、退屈たいくつきわまりない。

 そもそも薬草の知識など持ち合わせない駿太郎の作業は、源信がこれと示したあたりの草をるだけなのだ。それも一気に広く刈り取るというのなら清々すがすがしくもあるだろうが、あっちへ行ってちょこちょこ刈ったり、こっちへ移ってぽつぽつ引っこ抜いたりと、草薮くさやぶの中をのろのろ移動している時間の方が明らかに長い。時たま記憶が飛んでいるから、源信の言うとおり時々本当に居眠っているのかも知れない。

 「ねえ。さっきから一体、そこで何をしなさっているの?」

 鈴の音にも似た声が響いた。

 気がつけば山道さんどうがすぐそこに有る。

 日傘の下から好奇心できらきらしたあどけないひとみがふたつ、真っ直ぐにこちらを見ている。

 「薬狩りですよ、奥さん。なにしろここいらには薬屋も無いときている。自前じまえで何とかしなけりゃいけない」

 「あらぁ、そうぉ?」医者の言葉にふたつの瞳が一層いっそう輝きを増した。「じゃあ、あたし。お薬屋さんになれば良いわね!?」彼女は持っていた日傘ひがさをそこらに放りだし、“お薬の事、教えてちょうだい”と、草薮くさやぶの中へ飛び込んで来た。

 「さっき、そこで貰ったの」と、彼女は手提てさげの中から五つも六つも取り出したゆで卵を「召し上がれ」と源信に差し出した。報酬もきちんと前払いである。勿論むろん駿太郎もご相伴しょうばんにあずかった。

 地からき出した湯で湯がいただけの卵がなぜこれほどまでに美味いのか?

謎である。

 三人が三様さんように満足の溜息を洩らした後に続行ぞっこうした薬狩りは、本当に楽しかった。

 「これ?この黄色いお花のついているやつ?」

 「そう。それはキンミズヒキ。ソイツは血止めや痛み止めにもなる」

 心なしか医者の対応がぐっと丁寧になった様な気がする。

 「これは?これで良いかしら?」

 「ああっ!!それはバッチいからさわっちゃいかん!おい蛙、お前が行け!」

 「ええ?一応あれも薬草なんでしょう?」

 「猛毒だ。それも、どこもかしこも全草ぜんそう毒だから心して行け!毒消しなんぞ無いから覚悟しておけ」

 「げええええーっ!?」

 「事あれば、待ちかねた一回タダがすぐにも実現するのだ。文句はあるまい?まぁ、看取みとることしか出来んがな。奥さん、こっちを手伝っておくれでないかね?」

 「はぁーい」

 爾来じらい、安西氏の母親はきく屋に日参にっさんして来るようになった。

 「そもそもがな。薬と言うのは、全部毒なんだ。それを人間の都合の良い様に塩梅して、薬としている。それだけの事なんだよ」

 安西氏の母は几帳面きちょうめんに持参の帳面に書きつける。

 「塩だとか砂糖だとかも、大きく言えばあれも薬品だ。調味料なんぞというもので収まるものでは無い。その証拠に、多量に用いれば人も殺せる。醤油なんかもそうだな」

 きちきち帳面に書きらねられていく。

 「まあ、話はなかなか面白いが。あいつはれっきとした医者なのか?」

 母親を迎えに来たついでに、ふと興味を覚えたものか、今日拾ってきた内職に手を働かせている駿太郎の隣にどっかりと腰をえた安西氏が問いかけてきた。

 「俺の子供の時から居るお医者ですよ。飲んだくれだけど、腕は良いらしいです」

 「古道具屋さん、あんたが言うなら間違い無いだろう」

 安西氏は駿太郎の事を覚えていたようである。

 「忘れようがあるもんかね。あんたは知っている側の人間だから良い話し相手になる」

 覚えめでたいのも相手に寄りけりだ。見込まれて嬉しい相手ならおめでたいが、そうでない場合はご愁傷様である。心の中で自分自身にくやみをべながら、駿太郎は仕方しかたなしに口を開いた。「こちらには買い付けで?」

 「まさか。こんなど田舎なんぞに、うちの買い物など無いさ。たまさかに義理のできた婆さんのお供をしてやっているだけだ。きびだんごを貰っているとはいえ、我ながら健気だよ。毎日毎日退屈でいけねぇや」

 「安西さん、お待たせ」

 お迎えのお迎えが来て、話はそこで打ち切りとなった。

 「ではこれで。そのうちにまた」

 いつのそのうちになるものやらゾッとしない申し出だが、少なくとも謎の一つは解けたのだ。彼らは血縁関係者では無かった。似ていなくて当たり前だ。

 「おい、青蛙堂せいあどう。お主、あの御仁ごじんと知り合いなのか?」

 「知っていると言えば、まあ。それほど親しい訳ではありませんけどね。何ですか急に、そんな変な目つきまでして?」

 「いやあ、また妙な取り合わせだと思ってな。ありゃあ結構けっこうな金持ちの家のぼんだぞ。いや、富豪ふごうと言った方が良いか…。なにしろ大臣なんかも出すような家柄だしな」

 絶句する駿太郎をよそに、医者は少しでも想像のはしっこを引き伸ばそうとつとめ始めたようだ。

 「蛙と龍が一体どこで出会うものかのう。水の中か?だったらどうして龍が蛙なんかを気に掛ける?余程珍奇よほどちんきな蛙だったら気になるものか?分らんなあ」

 ひとり興に乗ってわっはわっはと撒き散らかされる医者の同魔声どうまごえの隙間から、ちりんと涼しげな音が鳴った。今宵もそろそろ寝そべった徳利がお出ましになる頃合ころあいだった。


 「何だ。エラく驚いているようだが、どうかしたのか?」

 わりと直ぐに林道を抜け、つい先ほどまで車輛しゃりょうの中から遠く望んでいたはずの町屋が徐々に近づいてきた。大仰にではなく、素直に“下界”に降りて来た感じがする。

 「ああ、そうか。あんたらは反対側からあの集落に入ったのか。あっちは大変らしいな、行った事が無いからよく分らんが。話に聞いた事は有る」

 全く。小半時(約二時間)と掛からずにこうして町中に出たのだ、内村が毎度まいど使っているのは大変な迂回路うかいろらしい。

 「それにしても。あんた大変だったんだってな。店も家財かざいも丸焼けで、あの役者顔の兄さんがたまたま通り掛かってあんたを助け出さなきゃ、あんたも焼け死んでいたかもしれなかったそうじゃないか?」

 覚えの無い武勇伝ぶゆうでんがひとつ付け加わっているようだ。

 「俺は昔から悪運だけは強いらしいです」

 さらに強運だったら、今こうしていないものをと駿太郎は思った。

 源信によると大変なお大尽である安西氏は、無論むろん宿場一の温泉宿松ノ屋に投宿とうしゅくしていた。

 彼は案外なところで駿太郎を見かけ、そぐにその人と分かったのだが、分らないのは温泉客として過ごしているのではなく、どうやら方々で下働きをしているらしいその理由だった。安西氏は早速に宿の女将小梅に問い合わせてみた。

 小梅は事のあらましを話し、そこへ盛大な尾鰭おひれを付けて駿太郎の“窮状きゅうじょう”を熱心にうったえかけたのが環らしい。猫におぼれて松ノ屋にはまり込んだきり、まったく姿を見せなかった環が珍しくきく屋にやって来たかと思えば、用件ようけんは安西氏から駿太郎への仕事依頼であった。

 「この辺みたいな半端はんぱ仕事じゃ無さそうだから、一稼ひとかせぎにはなるぜ。駿さん」得意満面とくいまんめんといった顔つきで環は言った。

 元より善意から発したものとなれば無下むげことわる訳にもいかず、こうして安西氏と水入らずの道行みちゆきとなったのだ。

 「さて、と。野暮用やぼようから片付けておくか」

 安西氏はまず生薬きぐすり屋に寄り、医者からたくされた書付かきつけ店主てんしゅ手渡てわたしした。

 「ソイツを2、3日中に谷のきく屋に届けて欲しい。配達にはあんたがじかに行ってくれ。もしかしたら追加の注文や、特別なあつらえが必要かも分らんからな。小僧風情ふぜいじゃあ、モノの役に立たんだろう。足が必要なら安西の家から車を出すから遠慮なく言ってくれ」てきぱきとソツ無く指示を飛ばす。

 安西氏がここに来るまでの道々みちみちに教えたとおり、この辺りが彼の地元らしい。そうして土地の名士めいしであるというのも本当のようだ。生薬屋の主人の鯱張しゃっちょこばりようは見ていても気の毒な程だった。

 「あーあ、面倒な事は終わったな。この町の連中はみんなあんな調子で、堅ッ苦しくて気詰きづまりだよ。小さかろうが大きかろうが、店の主人を張ってんだったらもっと胸を張れってンだ、忌々しい」

 氏素性うじすじょうがものを言うのであれば、そこには権力も存在しているはずであり、無理からぬ事と思われる。ただ、駿太郎の良く知る望月家などは単純な金持ちで、清子にしても融にしても単なる良い家の奥様と坊ちゃんの範囲はんいおさまっているから、それがどのようなものなのかは想像も付かなかった。

 どう受け答えたら良いものかと駿太郎が考えあぐねていると、存外ぞんがい安西氏は応答おうとうなど求めていなかったようだ。「さあ、うかうかしていれば日が暮れるのはどこも同じだ。先を急ごう」彼は何処いずこへかに向かって車が発進させた。


 ふと我に返った。

 かろうじて足先にからまっているなつが掛けの感触に、ああ目が覚めたんだなと思う。

 下駄げたの鳴る音がしている。こちらに近付いてくる。

 がらり引き戸を開ける音はもっと近かった。

 ここだ。

 ね起きた駿太郎の目の先―とは言え、間には襖をふすまった座敷をひとつへだてている―に安西氏の姿が有った。

 首に手ぬぐいを引っ掛け、片手には青物あおものがはみ出たかごをひとつぶら提げている。

 「目が覚めたかい、古道具屋さん」

 ちょいと上がった先に湯屋ゆやが在るから、行って来れば良い。かわいた手ぬぐいを渡され外に追い出された。

 つづらおりに下る石段の先は、眼下に広がる海に続いているのだろう。下は漁師町だろうか。上に向かって石段を三ツ四ツ上がっていくと、駿太郎の見慣れた雰囲気の町場が現れる。高い煙突が見え、安西氏の言う湯屋はすぐにそれと知れた。

 昨日は何の未練も無く安西氏の地元を離れた後、一度食事の為の小休止しょうきゅうしを取った他はずっと車中の人として過ごした。一日中られていたせいか、小さな“り”がまだ身体中にまばらにっている様な気がする。湯に浸かりながらぐるりと大きく首を回す。と、上からポツリ冷たいしずくがうなじに落ちかかり、駿太郎の身体を一気に縮上ちじみあがらせた。

 安西氏のいとなむ骨董店に屋号やごうは無いらしい。加えて表札ひょうさつすら出ていない。

 しかし彼の住まいはあやまたず直ぐと分る。

 何故なら、玄関先に巨大なおたふくの面がぶら下がっているからだ。

 「ああ、ありゃあ冷やかしよ。叔母が開店祝いに贈って来た。直ぐに言えば嫌がらせだな。けったくそ悪りィから店先に飾ってやったんだ」

 言いながら、安西氏は手ずから飯をよそった茶碗を駿太郎に手渡した。

 “手狭てぜまだから”女中は置いていないと安西氏は言った。

 通いでも問題無かろうと思われるが、そうもしていないと言う事は、余人よにんそばに居るのがうとましいのだろう。それを押してお招きに預かったとは、光栄とも言うべきなのだろうか。

 「しばらく空けていたからな。まずは風を通さないと」

 朝飯が済むと自然な流れで家内の大掃除となった。

 「やっぱり二人も居るとはかが行くなあ」言いながら、安西氏はついでに障子紙しょうじがみも張り替えるつもりなのだろう、マス目のひとつひとつに勢い良くこぶしを突っ込んではビリビリやっている。まさかこの為に呼ばれたのでもあるまいが…。

 高い所のちりを払いつつ、ふと窓外に目を移すと青く遠く海原が広がっている。

 海をながめながら暮らすとはどんな気分だろう。今まで思いつきもしなかったのが不思議なくらい、あれこれ想像するのは面白かった。

 昼前までは丁度ちょうど良い具合に海から吹き上げていた風が、いつの間にかぴたりと止んでいた。

 「べたなぎってヤツだ。夏場なつばはこれが一層キツイ」

 海辺に住むのはなかなかに検討けんとうようするものらしい。

 安西氏と一緒に穂紫蘇ほじそを薬味にそうめんをすすり込みつつ、汗をぬぐいながら駿太郎はそんな事を思った。

 「古道具屋さん。何なら、そっちの部屋に行ってみな」

 「部屋?」

 安西氏のし示す方には確かに細い引き戸がひとつ有る。念入ねんいりな大掃除の間も一顧いっこだにされる気振けぶりが無かった為、駿太郎は勝手に押し入れだろうと決め込んでいた。

 「あそこはまだ手を付けていない。これからですか?」

 「いや、あそこは放っといて良いんだ。どういう訳かほこりが溜まらないからな。覗いてみれば分る」

 引き戸を引くとすっと滑らかに開いた。納戸なんどの様だ。造り付けの棚には大小様々の箱がきちんと収まっている。なるほど蜘蛛くもの巣ひとつ見当たらない。一歩中に踏み込み、ぞわりとした。急ぎ後ろ飛びに敷居の外に飛び出すと、駿太郎はぴしゃり納戸の戸を閉めた。

 「なッ、綺麗きれいなもんだったろう。おまけに涼しい」

 「…って、安西さん。ここはもしかして?」

 「ああ。祟り神は全部そこに収めてある。やっぱりさわりがあるんだろうよ。掃除をしなくともちっとも汚れないってのは、やっぱり怪異かいいだしな。別に怖くも何とも無いが」

 けろりと言い放つ安西氏に、駿太郎は呆気あっけにとられて言葉も出なかった。

 「ああ、そうだ。夜寝苦ねぐるしかったら、そこで寝てもかまわ…」

 「それは遠慮します!」皆まで言わせずおっかぶせて断った。

 「はは、冗談だ。こちらとしてもお勧めはしない」そうめんの器を取り片づけながら気も無くのんびりと氏は言う。安西氏は恐らく、自分で一度ためしてみたに違い無かった。

 ふと。

 「安西さん」洗い物をしている彼の背中に問い掛けた。

 「あぁ。何だ」振り向きせず返事をする。

 「安西さんの店じゃ、あの手の物しか扱わない。そういう事なんですか?」

 「だったら何だ」

 「いえ、だからどうと言うのでは。何となく聞いてみたくなっただけですよ」

 今度は黙り込んで答えない。怒らせただろうか。

 洗い物を済ませ、こちらに向き直った安西氏が濡れた手をぬぐいながら、おもむろに口を開いた。「よく分らん」

 「へッ?!」

 「だから、よく分らんのだ」

 “たたりり神”或いは“掘り出し物”は「その気があれば本当にいい金になるんだ」客によってはで売れるのだと安西氏は言う。「だからこればかりあきなっているのだ、と言えば分りやすいだろう。だがな、どうもそればかりじゃあ無い。うまく言えないが、そんなのは余禄よろくみたいなものなんだろうと思う」

 「余禄…?」

 「本筋ほんすじはああいった物がこの世の中に在る理由と言うか。そんなもんだな。人が物を選んでいるように見えるが実はそうじゃない。物が人を選ぶ…、いや、ちょっと違うか。…―共鳴きょうめい。そうだ。響きあうからかれ合う。あれはきっとそう言う事だ。それで馬鹿みてぇな言い値にも首をたてるんだな」

 「ああ」そういう話であれば駿太郎にも見当がつく。「無理に縁組えんぐみさせたヤツはあとで帰って来ますからね」

 安西氏がうなずいた。

 「で、だ。ウチで扱っている連中は飛び切り我儘わがままなんだろう。惹き付けたら簡単に放しはしない。その反面余計はんめんよけいなものは一切いっさい寄せつけない。あの納戸にはちりも寄らなければ蚊帳かやも必要無い」

 やっぱり試したことがあるようだ。

 「そのような力がどこまで及ぶものなのかが分らん。こちらが商っているつもりでも…」

 「商わされているのかも知れない。そう言う事ですか」

 安西氏はフッと短く息をついた。

 「やれやれ。こんな阿呆あほな話が、あんたは本当に分るんだな」

 「商っている物の性質たちが違うから、想像のつく範囲はんいに限られますけどね」

 安西氏と言葉をわしながら、駿太郎は初めてひねもす堂を訪れた日の事を思い出していた。あの時とは随分と様相ようそうが違う。と言うか、変わってしまった。それほど前の事でも無いのに恐ろしく昔の様に感じる。

 気がつけば高かった陽もかしぎ、海の上には今日の名残なごりの光がまたたいていた。

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 きく屋に帰着きちゃくした駿太郎は、用意した手土産をたずさえすぐに松ノ屋へ向かった。がりなりにも仕事の斡旋あっせんを受けたのは事実だから、環には挨拶をしておく必要がある。

 「それがねぇ…」

 小梅が溜息をつきながら言うには、環は山に分け入ったままもう3日ほど戻って来ないのだと言う。

 「ひとりで道に迷っているんじゃあ?」

 「違う、違う。チマを探しているんだよ」

 四日前からチマの姿が見えなくなった。目につくところは探し尽くしたが見つからない。それで、さてはと山に探しに行ったものらしい。

 「チマはああ見えても、もういい加減お婆さん猫だったから、あたしにはとっくに覚悟が出来ていたけどねぇ。別嬪の兄さんには、さ」

 「あ。ああ、そういう事か…」

 「気が済むまで。したいようにさせておくしか無いのさ」

 時は無常と移り行く。

 それが人であろうと猫であろうと慣れ親しんだ者が去って行くのを知る時には、どうとも旨く言い表せない気持ちになる。そんな寂寞せきばくとしたものを胸に抱えているせいなのか、きく屋の部屋もどこか陰気でうら寂しい。

 「おや、古道具屋さん。お戻りでしたか。下界の様子はどうでした?」

 内村の言い様が面白い。ここだって谷底で、決して高い所に有る訳ではないのだ。

 「空気が全く違いますよ。まだまだ地獄の窯のように煮え立っていて、団扇うちわが手放せませんでしたよ」

 「おおぅ。くわばらくわばら」内村は大袈裟に肩をすくめて見せた後、声を一段低めた。「それで、先生の様子はどうですかね?」

 「先生の様子?いや、まだ見かけていないから何とも」

 それを聞くと内村は太い溜息を洩らした。ここでも溜息に出くわすとは、一体どういう事なのか。

 「いえね。古道具屋さんが出掛けた次の日に、町の生薬屋が出張って来ましてね」

 「ああ…」確かに安西氏がその様に指示をしていた。

 「それで先生、そでにされてしまったんですわ」

 「ソデ?」

 「ほら、あの薬の勉強に通っていたご婦人ですよ。本職が来たというので、さっさと弟子入り先を鞍替くらがえして先生を見限っちゃったんです」

 それ以来、源信は昼間宿に居る間はずっと押し入れに姿を隠してふて寝をしているのだと言う。

 「今はお部屋に居るはずなんですけどねえ」駿太郎が見かけなかったと言う事は、つまり。「今日も天岩戸におかくれですか」

 言い得て妙である。それこそ天鈿女命あめのうずめのみことにでも気合を入れて押し入れの前で踊り狂ってもらわなければ、昼間に医者の気を引くのは難しいだろう。医者の気を一等引くであろう酒の出番は夕暮れ以降だ。源信は昼日中には決して一滴も飲まない。

 駿太郎が留守にしたのは、ほんの四、五日位のものだ。

 なのに状況が一変している。

 今浦島いまうらしまか。

 いや、そうではあるまいと駿太郎は思い直した。

 環や源信に限らず、目の前の内村だって、変わらぬように見えても時を過ごした分だけ確実に歳を重ねている。駿太郎にしても出掛ける前よりも見聞が広がっている。万物流転、誰もが思わず知らずに変転し続けているのだ。


 安西氏は手狭だから女中は置かないなどと言っていたが、建物自体は廃業した宿屋の建物をそのまま流用りゅうようしているので普通の家より部屋数が多かった。

 富貴ふうきの出の者から見れば手狭なのか、ただの言い訳なのかは定かではない。

 元々二階部分が客室で、今も二階が店舗に当てられていた。

 恐る恐る安西氏の店の中を覗いてみると、さすがに常次郎の店よりもずっと値の張りそうな物ばかりだが、ごく普通の骨董品が飾られていた。駿太郎は多少拍子抜ひょうしぬけしつつ、深く安堵あんどした。

 「掘り出し物と言ったところで畑の作物でもあるまいし、数ある物では無いから主流はこっちだよ。まあ、他所よりもウチに流れてくる場合が多いけどな」

 不在の間に薄っすら溜まったほこりを手早く払いながら安西氏は苦笑した。

 駿太郎もまさか自分を真っさらの善人とは思っていないが、瑕疵物きずものと知れているものを商って対価たいかを得るというのはどうにも承服しょうふくねる所業しょぎょうである。

 不服ふふくが顔に出ていたのだろう、駿太郎の顔を見た安西氏が先刻承知せんこくしょうちとばかりにニヤリとした。

 「古道具屋さん、面白いものを見せてやろうか?」

 通されたのは二階の納戸だった。一階とは違って天井の隅に埃が積もって襤褸ぼろのようになった蜘蛛の巣が引っ掛かっている。

 これだ、と安西氏が隅の方から引っ張り出してきたのは一帖の屏風だった。開くと地獄絵図が現れた。

 「これが?」

 一見して凡作ではなさそうだが、取り立てて面白いと感じるものでもなかった。

 「コイツの出処は、例の奪獲婆だつえばばあのごしき屋だ」

 「えっ!?」

 佛具ごしき屋の奥座敷で接見した時はありありとした地獄を映し出し、かたわらでは飲食もままならぬ様な代物だった。それが今は木と紙で出来たありふれた調度品ちょうどひんに変じている。

 「お化け屋敷の名前を借りて、あの家が秘蔵していた遺品はウチで全部引き上げたんだ。それが、最後の最後になって奪獲婆の奴がコイツだけは代々の家宝だから売れないと騒ぎ出した」

 音在氏の言っていた見合い相手とは安西氏であったらしい。そう言えば火事騒ぎに紛れてうやむやになってしまっていた。それにしても世話になった相手をお化け屋敷呼ばわりとは。

 「生憎とこちらの一番のお目当てはコイツだったから、揉めに揉めて。結局、音在さんがおさめた。流石さすがはお化け屋敷だ、ウチとは格が違うって事を思い知らされたよ」

 お蔭でこの有様だけどな。安西氏は屏風の画面を指先で軽く弾いた。

 「珠代様、僭越せんえつながら申し上げますと。わたくしの拝見したところ、こちらのお品には少々障りが有る様にお見受け致します」もしお持ちになり続けるのであれば…と、音在氏がひとつ条件をつけた。「後々の禍を治める為に、当方にて少々手を加えさせていただく事をご承知いただけますでしょうか」

 人をおどかして伝来でんらいの家宝に傷をつける気かと奪獲婆は息巻いきまいいた。

 「とんでもない事でございます。しかしこればかりはわたくしもゆずるわけには参りません」

 キッパリとだんじた後、安西氏に引き渡す場合でも条件は変わらないと音在氏は言った。

 手元に戻っても戻らなくても、いずれにしても“傷”がつく事に変わりないのだ。不承不承ながら奪獲婆は折れた。

 「その、傷と言うのは何ですか?」

 「これだよ。音在さんが若い女の絵描きを連れて来て、描き加えさせたんだ」

 小夜子か?

 安西氏の指差した先には、地蔵菩薩じぞうぼさつが描かれていた。絵の事には詳しくないが、絵具がまだ新しいせいだろう、くすんだ画面の中に一点光が差したような姿だった。静かな表情で地獄の亡者に慈悲を与えている。

 「そうしたら急に婆ァの態度が一変してなあ。よくよく見たら陰気で縁起の悪いこんなものは要らんと言って、あっさりこちらに投げて寄越してきたんだ。その時はこっちもこんなものに用は無かったが、まあ最悪、焚付たきつけには使えるからな」

 焚付け…。

 「投げて寄越してたと言っても、代価は払ったんですよね?」

 家宝ともなれば安くはなかったはずだ。

 「ああ。キッチリとな。だが今回は勉強代だ。そう思えば安い安い。婆さんに貰ったきびだんごとはそれさ」

 「え?」

 徐々じょじょと言葉の意味を理解するうちに駿太郎の口が自然、あんぐりと開いた。思わず叫び声が洩れた。「えへぇつ!?」

 駿太郎の発した情けない声に安西氏が吹き出した。

 「あんたも見たもんなぁ、奪獲婆の顔!見違えたろう。と言うか、分らなかったか?あの婆さんはごしき屋の珠代さんだ!」

 駿太郎は憮然ぶぜんとして、安西氏の笑いの発作が治まるのを待った。

 「婆さんに屏風が障っていたものかどうか、確かな事は分らん。が、憑き物が落ちたような感じはするな。ま、関わりは有ったんだろうよ。それを涼しい顔で除けてみせるんだから、やっぱりお化け屋敷はあなどれん。良いものを見せて貰ったよ」


 畏怖いふ畏敬いけいの念、そして羨望せんぼうの入り混じっての“お化け屋敷”。安西氏の声が、まだ耳の底に残っている。

 「それで珠代さんは今どこに?」

 「あのご婦人はタマヨさんとおっしゃるのですか?もうここには居らんでしょうなあ。あの生薬屋は下の町の者ですから」

 おや。内村は迂回路以外も知っているらしい。

 「確かにあちらからの方がここに近いし、便利でありましょうが、あたしは安西の地には足の小指も下したくありませんな!」

 つつましくとも多少気色けしきばんだ内村を初めて見た駿太郎は、少しだけ安西氏を憐れんだ。氏自身の心の中にも、内村と同じ色合いろあいを見た事を思い出したからだ。


 安西氏の店は近隣の人々から“おかめ屋”と呼ばれていた。まあ、あれだけ大きな面がぶら下がっているのだから当然だろう。店のあるじの不在がちな事から、小売りはせずに行商が専らで、そして恐らくぐすりを扱っているのだろう思われているようだった。

 たまに見かける店の主とは挨拶を交わすし、二言三言天候の話をする事もある。それ以上の付き合いは無いから人となりまでは分らない。土地での氏の評判は可も無く不可も無い。

 別に詮索せんさくした訳ではない。べた凪のたびすぐに汗みずくとなる駿太郎が日に何度か湯屋に通う内にぽつりぽつり耳に入ってきたのだ。

 君子のまじわりはあわき水のごとしなどという言葉もあるが、果たして安西氏は如何いかなるものか。

 そんな事を考えながら“おかめ屋”の引き戸を開け、玄関の三和土たたきに足を踏み入れた。と、駿太郎の脇を人影が横切るのが見えた。目のはしだったが、女物のたもが見えた様な気がする。

 おや、来客が有ったのか。

 「失礼…」

 そちらに目を移すと、姿見すがたみえられてあるだけで他には何も無かった。

 「…あっ、安西さんっ!?」

 「うん?」

 柱の陰からひょっこりと顔を出した安西氏は、駿太郎のし示す方を一瞥いちべつすると、「ああ、見たのか」事もなげに言った。

 「見たのかって…」

 「女が居るらしいんだ。しかと見た者が無いから、らしいと言う曖昧あいまいな話だが」

 「そんなものをこんな玄関先に置いといて良いんですか?」

 「ソイツは人の目の端を狙って横切るばかりで他に何もしない。まあ、放って置いても問題無いさ。あんたの事が珍しくて見に来ただけだろう」

 危うきに近寄らずという気配は全く無い以上、君子のたぐいではあるまい。

 「…古道具屋さん。それでソイツの顔は、やっぱり見えなかったのか?ふぅん…。余程ブサイクなのかねぇ」

 何やら心底しんそこ残念そうな口ぶりだった。人付きあいをうとんじてみたところで、他所よそで何かしらの関わりを心待ちにしてしまう。それがあまり好ましく無いものである場合は…。

 人とは面倒臭めんどうくさいものだなと駿太郎は思った

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