第7話行々てここに行々夏野かな

 果して隠れる必要など、あっただろうか?

 鼻先をわんわんと飛び交うぶゆ辟易へきえきとしながら、駿太郎は今さらながら藪の中で思案していた。

 先ほどまでの駿太郎はすっかり動転していた。それで、突然聞こえてきた人声にひるんで、咄嗟に手近の藪の中に身を潜めたのものの、明らかに闖入者である小夜子は別として、駿太郎には隠れなくてはならぬ理由など一つも無い。とは言え、これから突然藪から現れ出て行くとして、どのように申し開きしたものか…。

 「毎日こちらにいらっしゃって、本当にこの樹がお好きなんですね」

 美耶子の声だ。

 小夜子がどこに居るのか、駿太郎にも分らない。気配すら感じない位だから、旨く隠れているに違いない。

 「僕は別に、この木が好きなわけじゃありませんよ。それに多分、この木が伐り倒された後もここに来るだろうと思います」融の声が応えて言った。「そうだな…。むしろ僕は、この木が嫌いだからこそ、毎日ここに来ているんですよ」

 美耶子は沈黙しているようだ。それはそうだろう、こんなコンニャク問答のような事を聞かされて、答えようもあるまい。

 それにしても―。

 何かが引っ掛かった。融の口調はいつものように穏やかではあるが、今日はどこかけんが有って、ない。駿太郎はそう感じた。藪を透かして、どうにか二人の姿を見られないものか。どうやらもう、ここを出て行く機は逸してしまっている。

 「ですから美耶子さんには、毎日お付き合い頂かなくても結構ですよ」

 「あの…もしかして。わたしは、ご迷惑だったのでしょうか?」

 「すぐに言えば、そういう事になります」

 「それは大変失礼致しました」

 会釈をしながら発せられたのだろう、美耶子の声が少しずつくぐもっていくように聞こえてきた。続いてさくさくと草を踏む音が遠ざかって行った。

 何とも、妙な具合だった。

 美耶子は飽くまでも望月家に滞在している客であって、使用人ではない。二人の様子を目の当たりにしていたわけでは無いとは言え、まるで主従の会話のように聞こえてきた。まあ、美耶子の振る舞いが万事控え目なせいかもしれないが…。

 召使の様な妻というのでは堪らないな。

 駿太郎はふと、そんなことを思った。

 がさり。隣の藪が大きく音を立てた。「突然のご無礼をご容赦ください」すっくりと立ち上がった小夜子は言いながら、藪を分けて出て行った。「よそ様のお宅である事は承知致しておりましたのでここに隠れておりましたが、小虫に責められて余りに切なく、堪らなくなってまかり出て参りました」

 あれよあれよという間の出来事で、駿太郎は呆然と行く末を見守るしかなくなった。

 「これは、賊と呼ぶには頼りないようにお見受けしますが、どちら様ですか」融のよそ行きの声が問いかける。「そして、当家の敷地内で一体何を?」

 「倉島小夜子と申します。失せ物が出まして、それを探しておりました」

 「失せ物?」

 「はい。わたしの犬が、ここの敷地に迷い入るのを見ましたので、致し方無くそれを追いました」

 「それで、犬は見つかりましたか」

 「それはまだ。ですが、アレは先ほどあなた方の気配を察して、この辺りで身を潜めたのではないかと思われます」しばらく沈黙があった。「ご用心ください。かなり大きな犬で、アレはわたしの言う事しか聞きません」小夜子は急に声を潜めて続けた。「それに、身体は大きくともアレは気の小さいところがありますので大変危険です。そのおつもりではなくても、見知らぬ人が近づけば危害を加えられるものと勘違いして攻撃をしてくる恐れがあります」

 風が鳴った。

 「それで、あの、先ほど女の方が一人で戻って行かれたようですが、付き添って差し上げた方が宜しいかと存じます。気の小さい者は多勢に無勢という事は心得ておりますので、賑やかにしている限りは寄り付きません」

 小夜子の提案を潮に、草を踏む音が心持こころもち気忙きぜわしげに遠ざかって行くのが聞こえた。

 「行ったよ。もう、姿も見えなくなった」

 わずかな時間だったが、不自然な姿勢を保っていたせいで、立ち上がる時に身体がきしむように感じた。

 「何故、隠れたりしたんだ。あんたにはその必要は無かったろうに?」

 駿太郎の知っている“いつもの”口調に戻っていた。小夜子のがどちらなのか分らないが、駿太郎としては勿論こちらの方が有難い。

 「案外に気が小さいんだな、あんた」

 「俺はお前の逃がした犬じゃない」頭の中では色々な言葉が浮かんでいたが、それだけ、言い返した。

 

 「楡の木を見た後に、あんたの家に寄るつもりだった」

 「そうだったのか」

 望月家の非公式な裏口から敷地の外に出た二人は、大川べりの道を辿たどっていた。駿太郎も滅多に通らない道だ。いつもなら、近道を選ぶ。今日はと言うより、今は、小夜子にこのあたりの土地勘が無いのを良い事に、わざと遠回りな道を選んだのだ。

 何の為にかと言えば、望月家の敷居をまたぐのを、少しでも先延ばしにしたかったからだった。

 やれやれ。我ながら意気地の無いことだな。

 知らず知らずに溜息をついてしまったような気がして、駿太郎は慌てて顔を上げた。またしても、自分のつま先を見つめながら歩いていた。

 「急な事だったとは言え、世話になっておいて挨拶の一つもせずに辞してしまった事がずっと気になっていた」

 小夜子が言った。

 「それだったら、気にすることは無い。音在さんによると、どうやらおまえの家から挨拶があったみたいだ。立派な菓子折りも貰ったし」

 「…それに、わたしは忘れ物も取りに来たかったんだ。そっちの方が、もっとずっと気になっていた」

 「ああ、そうか」それなら俺への“挨拶”など、単なる口実ではないか。やはり癇に障るヤツだ。「おまえの持ち物はひとまとめにして音在さんに預けたはずだけどな」

 「それに関しては礼を言う。でも、まだ有るんだ。これはあんたが知らなくても当たり前だから、別にあんたに落ち度があったなんて思っていない」

 もっと他に言い様があるだろうと思いながらも、気兼ね無く話せるというのは有難かった。座敷牢の有る家の娘だけあって、きちんとした格好なりをしている今の小夜子は間違いなく“令嬢”に見える。先刻の様なかしこまった言葉遣いでは、まともな会話など出来なくなってしまう。

 小夜子によると、懸念の忘れ物は小梅の家に置いてあるのだという。

 「そいつは気がつかなかった」

 「この家の人は、いつ戻ってくるのか、あんた知っているか?」

 「いや。便りが無いからには、特に困った事にはなっていないのだろうと思うだけだ」

 「もし戻ってきたら、その時には改めてお礼に伺わなくては…」

 「そうだな。その方が喜ぶかもしれないが、そうしなくても気にはしないだろう」

 「そういう訳にはいかない」言いながら、小夜子は駿太郎の袖を掴んだ。「少し拝借してしまったから」

 小夜子に連れて行かれたのは、小梅が子供たちに書道を教える教室として使っている部屋だった。

 「ちょっと前まで逃げ隠れしていたヤツが、一体何をくすねたんだ?」

  駿太郎の袖を離した小夜子は、違い棚の下に置かれた重箱様の立派な文箱を開いた。

 「紙があったから、つい…」

 「紙?」

 小夜子は文箱から取り出した分厚い紙の束を、両手で差し上げるようにして、駿太郎に差し出した。

 「へぇ…」

 そこには、独り(?)勝手にかくれんぼうを仕掛けてくる蕎麦猪口が描かれていた。

 紙をめくると、駿太郎にさえその用途の分らない、謎の道具が現れた。

 コイツはずっと物置に放り込んだままだ。それでも、道具としての、その姿の緻密さが美しい。

 次々と紙をめくっていくと、どれもこれも駿太郎の家の物置に追いやられた、役立たずで得体知れずの、“在庫”の連中が現れた。最後の方にはチマが現れて、伸びをしていたり、あくびをしていたり、安心しきって伸びて寝ている姿が現れた。見ているだけで自然と口の端が上がってくる。

 「物置に一人で籠って何をしているのかと思っていたが、おまえはずっとこれを描いていたのか?」詳細な絵ではない。筆と墨で描かれた、単純な線で表現された図形だ。それでも、一枚残らず、そこに描かれているものが何なのか駿太郎には分かった。

 「あんたに矢立を貰って、何でもいいから描いてみたくなって、でも、その為の紙が手元に無かったから、ここの家から拝借してしまったんだ」

 「小梅さんに、これをこのまま返せば良いじゃないか」

 「えっ!?」

 「良く描けている。あの人は俺の身内みたいな人だから、何が描いてあるのか分るはずだし、分るから多分、喜ぶ。絵になるとこんなに立派なように見えるもんなら、面白がるはずだ。おまえ絵が上手いんだな」

 「そんな事は知らない。わたしは描きたいから、描いただけだ。あんたみたいに喜ぶ人が居るなんて思った事も無かったよ。だから、有難う。だから、有難う。でも、そんな物、何の役にも立たない」

 「役に立つかどうかなんて、どうでも良い事だ。これは俺が預かっておくぞ」言いながら駿太郎は、紙束を掴んだ手を頭上に持ち上げた。駿太郎の手から紙束を奪い返そうと伸ばされた小夜子の手は、せいぜい彼の耳元までしか届かなかった。「これはこれで面白いから、やっぱり小梅さんに渡しとくさ」

 「好きにすれば良い。それじゃあ、わたしの用件もこれで終わりだ」浮かない顔で手を降ろして小夜子が続けた。「でも、この家の人が帰ってきたら、それは必ず教えて欲しい」

 「音在さんに知らせれば良いか?」

 「ああ、それで良い」


 小夜子があっさりと帰途につき、駿太郎は一人小梅の家に残された。

 元より話の弾む相手ではないから、当然と言えば当然なのだが、何故だか駿太郎は物足りなく、味気ない思いを味わっていた。

 絵心など持ち合わせない駿太郎だから、絵心のある人間の心など解りはしない。それでも、自分の描いた絵を“何の役にも立たない”などと言う事などあるのだろうか?小夜子の気持ちははかかねねた。

 「描きたくて描いたんなら、絵が好きなのだろうになあ?」言葉が思わず、口からこぼれ出る。「やっぱり変なヤツだ」

 小夜子の用件が終わったという事は、同時に駿太郎の役割も終了したという事で、小梅の家の戸締りを済ませたらすぐに、望月家に引き返さなければならない。

 小夜子の絵は、彼女がそこに収めておいた、小梅の文箱の中に戻せば良い。…が、しかし。

 「こういうものは、脇からひょいと出て来るのが面白いんだよな」

 駿太郎は小夜子の絵を元のように収めると、文箱ごと自分の家に持ち帰る事にした。つまらない用事を足して、時間稼ぎをしている事は自分でも分っていた。

 「そうそう、その通り」

 疚やましさから、自分だけからは承諾を得る。

 玄関の戸を引き開けると、身体を屋内に持っていくよりも先にチマの小さく細長い身体が足元に纏わり付いてきた。

 「そうそう。お前にも飯をやらなきゃならなかったっけな」

 「にゃー」チマが二つ返事で請け合った事で、駿太郎の心は少しだけ軽くなった。

 玄関の三和土たたきに一歩足を踏み込んだところで、駿太郎は何とも言えぬ違和感を覚えた。

 襟足えりあしの毛がざわりと逆立つような、異様な気配がした。

 「チマ?」

 猫の身体はつるりと駿太郎の足元を抜け、玄関の外に止まっている。

 「ほうほう、これで事の次第がはっきりしたわ」

 家の中に目を移すと、いまだ買い手と都合がつかずに預かったままの縄文土器が、そこには間違っても置かないだろう、上りがまちに鎮座していた。これだけでも常には無い事だった。普段からもろく壊れやすい事を自ら誇っている土器は、滅多に動き回る事は無い。

 「お主、蛙との約束を破っただろう?」

 「蛙?約束?何だ?」

 気の遠くなるような時を過ごしながら人と交わって来たモノとならば、ある程度すじの通った話をする事が可能だ。そういうモノの中では縄文土器が筆頭で、少しいる爺ィを相手にしていると思えばそれなりに話が出来る相手だったが…。

 「皆それなりに己の面倒は見られるから安心せよ。後はお主がお主の面倒を見れば良い。それ、そこの獣でさえ己の身の振り方を知っておるわ」

 「お前、何を言っている?」

 「もそっとこの家には世話になりたかったが、行くべきところへ行こうぞ」

 戯言めいた土器の言葉に耳を傾けながらも、駿太郎は座敷の中でほのめく光に目を留めた。

 にわかに家の外が騒がしくなった。

 「火事だーーっ!!」

 「あれは、火元は古道具屋だ!」

 「戸が開いているぞ、オーイ、誰か居るかあっ!?」

 「居た居た、古道具屋っ、もたもたするな!」

 それが誰だったのかは分らない。あまりの事に動転した駿太郎にはほとんど覚えは無い。一人だったのか複数だったのか、何者かの手によって無事に外へ引きひきずり出され、気がつけば地べたにへたり込んで、勢い良く天衝く炎に呑まれゆく我が家を、呆然と眺めていた。

----------------------- 

  ほんのわずかの間で、駿太郎の境遇は一変してしまった。

 住居兼店舗を焼け出された事で、宿無し職無しになり、少し先の未来(と思われたもの)の一部も失う事となった。

 少し先の未来とは、美耶子との縁談である。

 いくら望月家と言う後ろ盾が有ったとして、路頭に迷っているような男の処に娘をす様な間抜けは居ない。正常な判断だろう。早々に無期延期とされ、美耶子は実家へと帰って行った。この件については当人同士を始め、誰しもが納得していた。

 この件については、という事は、他方に収まりの悪い事柄が有る訳で、については大きなしこりが出来上がり、それは今後も継続して残り続ける見込みである。

 「どうしてさ、駿ちゃん。せっかく望月のおじさんが助けてやろうってするのを断ったりしたのさ?」

 普段は出来たての大福餅のように穏やかな常次郎でさえ、渋面を作って駿太郎をなじって来た。

 「そうはいかないんだよ、常」

 「何がさ!」

 「もう、いい大人だからって事ではないですかね、萬字堂さん?」横からくちばしを入れたのは環だった。

 常次郎は踏んづけられた大福餅のように顔を歪めて黙り込んだ。

 例の火事の折、常次郎は近所の寄り合いで不在であった為に大きく出遅れてしまった。

 どういう巡り合わせか古道具屋の火事場に行き会った環が、常次郎よりも、また望月家よりも早く駿太郎の元に駆けつける事となり、目下のところ、駿太郎はそのまま環の下宿に転がり込んでいる次第である。これも常次郎としては面白くない。

 どうして幼馴染の自分を頼ってくれないのか?それどころか、大恩人の望月のおじさんの援助までも跳ね除けて、最近ぽっと出の顔見知り程度の人間なんかを頼ったりするのか…。

 「分ったよ。駿ちゃんて、案外に薄情だって事が、今初めて分かった!」

 「そうだな…。そういう事になるのかな」

 腹立ち紛れに勢いよく立ちあがった常次郎は憤懣ふんまん遣る方なしとばかりに、どすどすと出口に向かった。それでも最後に、締め切られたふすま越しに聞こえてきた常次郎の声はいつものように穏やかだった。「駿ちゃん、いつでもウチに来てくれて良いんだからね」

 「望月って、あの馬鹿デカい屋敷に住んでるお大尽だいじんの事かな?」

 「至って普通の人だけどな。俺の親代わりみたいな人だ」

 「いいね、駿さん。そういうの俺好みだな。親みたいなもんだから、いつまでも甘ったれてベタベタしようなーんて料簡りょうけんは、あんたには一切無い。気に入ったよ。だからいつまでだって、ここに居てくれて構わない」言いながら環は、常次郎が退散すると同時に箪笥たんすの隙間から滑り出て来た、チマを相手に熱心に遊んでいる。“気に入った”以下云々うんぬんは、ひょっとするとチマに向けられた言葉かもしれない。

 「礼を言うとすれば、何よりも環さん、あんたが猫好きだったって事にかな」

 「え?みんな好きだろ、猫」

 自分の容姿に悩みを抱いている位だから、周囲に無頓着むとんちゃくという訳ではあるまい。それならおそらく、超ド級の猫バカという事なのだろう。この下宿の女将はどう転んだって猫好きとは思えない。

 環に伴われ、初めてこの家の女将おかみに挨拶をした時、彼女はいち早く駿太郎の腕の中の獣に目を留め、まなじりを吊り上げた。

 と、その時―。

 「ほら、女将さん。この仔はチマちゃん。ね、可愛いだろ?」

 駿太郎の腕からもぎ取るように猫を抱き取った環は、無邪気に猫の背を頬ずりながら微笑した。

 「んまあ、おほほほほ。環さんのお友達の、本っ当に、可愛らしいお供ですことね」

 五十より下には絶対に下らないであろう年配の婦人の口から、一体どこから?と思われるようなキンキラ声が噴出した。

 とりわけ駿太郎を圧倒したのは、年甲斐も無く華やいだ声を上げている女将の顔が、下半分には笑くぼをたたえつつ、上半分は雀に狙いをつけた猫のように鋭い殺意をたたえていた事だった。

何しろ猫は所構わず爪を研いだり粗相をしたりと、家を傷める。住環境が何よりウリの下宿屋にとっては、猫なんぞと言うものは招かれざる客と言うよりも、排除必至の悪霊に匹敵するものに違いないのだ。

 もしも環が猫好きでなければ、あの女将はさっさと憎き獣を箱に詰めて大川に投げ込むか、猫イラズを使ってより確実な始末をつけているだろう。駿太郎はそう確信している。

 「それで駿さん、これからどうするんだい?」

 「そうだな…。差当さしあたっては、同業の知人の店でも手伝いながら―」

 「チガウ。違うよ、駿さん」

 「え」

 「そんな生真面目な算段さんだんじゃなくって、何か今まで出来なかった事で、やってみたい事なんかは無いのかって事。どうせ店はきれいさっぱり焼けちまったんだ、しばらく遊び狂ってたって立派な言い訳が立つじゃないか。ゆくゆくはそこに舞い戻るにしたって、そうすぐに戻る事ぁ無いさ。古道具屋がどんな商売なのかはよく知らないが、あんた今まで埃臭ほこりくさ古物ふるものばかりの辛気臭い店にこもってたんじゃないか?」

 言われてみれば、そうかも知れない。

 閉じ籠っているとはいかないまでも、言われて顧みれば己の行動範囲はかなり狭いと断じざるを得ない。

 「ああ…」

吐息ともつかない相槌あいづちを打ったきり絶句している駿太郎を見て、環は苦笑した。

「やれやれ。思った通りの真面目一本槍まじめいっぽんやりなんだ、駿さん」

「にゃー」

 思わずうつむいてしまった駿太郎の鼻先に、チマの鼻面はなづらが伸び上がって来た。小さな猫の顔はほんのり笑っているように見えた。

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 「さあ、もうじきですわ」

 「じきだ、直だと言って、一向いっこう人気ひとけも何も無いではないか。大体おぬしは、一時いっとき前も同じ事を言っておいて、また私をだます気か」

 「騙したからどうだと言うんです、先生?さあさあ、本物の出湯いでゆと山のさちがお待ちかねですよ。ほらほら、しゃんしゃんと歩いて行きましょう。そうすれば尚一層、目的の地も近付きますよ」

 「ほうら、チマちゃん。山の空気は清々すがすがしいだろう。お宿に着いたら美味しい岩魚いわなを出して貰おうねえ」

 丈高たけたかそびえる杉の木が枝をかわし合い、昼間も暗い山道を、多少ちぐはぐなりとも賑々にぎにぎしく進んで行くこの一行は、顔は怖いが気の優しい代筆屋の内村を先頭に、口の悪い名医(自称)の源信、次に美貌の猫バカ環と猫のチマ、そして殿しんがりは、丸焼けとなった古道具屋の主人の駿太郎である。

 よりによって、何故この取り合わせなのかと言えば、ひとえに天の配剤はいざい

 到来とうらいと同時に未曽有みぞう酷暑こくしょとなったこの夏、内村は郷里きょうりの山の緑陰りょくいんがれ、その甥である環は何かしらの非日常を味わう手立てを模索もさくし、源信は暑さも忘れるほどの深酒の相手を必要としていた。

 内村が里を逃げ出す為の荷づくりを終えた丁度ちょうどその時、甥の環がこれという策は無くとも絶対に必要な“先立つモノ”の無心にやって来た。

 実は甥っ子にはめっぽう甘い内村だが、「それで、如何いかほど必要なりや?」と問うたのは、年長者として当然の事であった。

 そして一銭でも多くせしめたい心づもりの甥っ子が、尤もらしい言い訳として、最近大変な災難にったの古道具屋をダシに使ったのも無理からぬ事だろう。

 そこへ既にぼちぼち聞し召した源信がふらりと紛れ込んだから、ひとたまりも無い。

 「ふむ、話は分かった。お前は(内村を指し)涼を求め、そこのは(環を指し)人助けを思案し、青蛙あおがえるいやしを必要としておる。そして、この私は酒と肴の有る処ならば、何いずことて文句は無い。皆でまとめて旅に出るのが良かろう。これで一挙四得いっきょよんとくとなるではないか!」

医者の言葉と言うのは、何故だか有無を言わさず、人を従わせるだけの威厳がある。

 駿太郎は思わず知らずに巻き込まれたていだが“こう言うのも悪くない”と、案外にこの状況を楽しんでいた。

 それほど親交が深いとは言えない面々と、ひとつ目的に向かって進んでいる不思議さ。それが面白い。

 そして、心なし緑色を帯びているような空気はしんと涼やかで、胸に染み渡る様だ。半時はんとき前に済ませた昼食も、いつもの何倍も美味く感じたのはそのせいかも知れない。

 そこまで考えた時、ふと喉元が詰まる気がした。

 今朝、朝も早い出立の時に弁当を持たせてくれたのは、お玉だった。食事を済ませた後は、そのまま捨てられるように、竹細工の粗末な破子わりごに四人前、しっかりと風呂敷に包んだものを駿太郎に渡してくれた。

 「駿太郎さん、行ってらっしゃいませ」

 まるで今生の別れと言うような悲壮な顔つきをしていた。

 駿太郎は別に、望月のおじさんを突っぱねた訳では無い。家も商売も焼失した後、望月のおじさんが駿太郎に持ち掛けた提案とは、要約すれば、ゆくゆくは望月家の事業を引き継ぐ為の経験を積んでみないか?と言う内容だった。すぐに言えば、跡継ぎにならないか?という事だ。

 そこまで信頼を得ていると言うのは、やはり嬉しい事だ。

しかし、融は?おじさんの実の息子である融は?

 そう思ったし、何よりも、駿太郎は古道具屋の仕事が好きであった。

 「おじさん。俺も、もう一人前の大人です」

 「そうか」望月のおじさんは寂しいような、嬉しいような笑みを浮かべて、ウンとひとつ頷いただけであった。

 ここから先はお玉の話である。

 「旦那様は、今後一切駿太郎さんに構うなと仰いました」

 それを聞いた時、駿太郎としては望月のおじさんに認められた気がして嬉しかった。「やれるところまで、やってみろ」と言われたような気がしたのだが、女衆おんなしゅうの考えは違うらしい。

 「まあまあ、何を旦那様におっしゃったんですか?気が気ではない奥様に代わって、お玉が参りました。幸い、ウチの旦那様は女中の気まぐれにまで口を出すようなうつわの小さい方では御座いませんからね」

 そこからお玉の日参が始まった。

 駿太郎の三度の食事を、お玉が差し入れる。

 1+1=2的に素直に考えると、居候の食費が浮いて、宿の女将も大喜びであろうと言う事になるが、実際はそう単純な話では無い。

 三度三度持ち込まれるお玉の重箱の見た目と内容の豪華さは、宿の女将の気概きがいを大いにそこねたらしい。

 とりわけ、環の歓声と、彼の美味い美味いの賞賛の声は、いたく女将を傷つけた、と、駿太郎は見ている。

最初に宣戦布告を告げたのは、チマに供される猫飯ねこめしである。

白飯に白身魚を丁寧ていねいにほぐしたものを混ぜ込んで、宿の女将は環の賞賛を勝ち取った。

お玉は元より環などは眼中には無い。しかし…。

「良かったなあ、チマ」

何気な駿太郎の言葉一つで戦争は勃発したのであった。

駿太郎があっと思った時には既に遅く、止めども無い争いは日々続いていった。

それでも今は、後に残したものであってみれば、他愛も無く可愛らしい。

駿太郎の喉を詰まらせたものは、卵焼きだった。

あれは清子の味がした。

子供向きに砂糖を余計に加えた、あまい味。

山道をもくもくと歩んだ面々には疲れを癒す妙薬みょうやくでもあったであろう。美味い美味いの好評であった。

―どうだ、ウチの母さんが作った卵焼きは美味しいだろう!胸を張って言いたかった。

しかし、清子は融の母であって、駿太郎の母ではない。

「あっ!!」環が声を上げた。

「おや?…チマ?チマなのかい!?これはどうした事なのさ!」

続いて懐かしい声が聞こえてきた。

これぞ、正に天の配剤?



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