第6話きのふの空のありどころ

 「おや、駿太郎さん。どちらに?」

 飛んで来たお玉の声に、後ろ髪をわしづかみにされて駿太郎の忍び足が止まる。

 「確か、酢が切れていたようだから、買って来ようと思って」

 「お酢、ですか?」

 元々、駿太郎の家に酢は常備していない。実質、内生蔵家の台所の実権を握っている小梅が、酸味の有る料理を好まないからだ。

 「別にお酢など無くてもようございますよ」

 「いや、俺が食いたいんだ。酢の物とか。こっちで勝手に作るから、そっちは気にしないで下さい」

 小梅と違って駿太郎には好き嫌いは無い。

 「そうですねえ。そろそろ暑くなってきましたから、酢の物など有るとさっぱりしますよね」美耶子がおっとりとした調子で駿太郎の加勢に回った。「それにしても、駿太郎さんはご自分でお料理をなさるんですね」

 「そりゃあ、駿太郎さんには、奥様とこのあたしの二人がかりで仕込みましたからねえ」お玉が得々と昔話を始めた。

 敵の関心が逸れた隙に、駿太郎はチマを見習って、細く開けた玄関戸の隙間からするりと外に逃れ出た。大きくてした時と違って、ほとんど物音が立たない。

 大川端まで来て、駿太郎はようやく息を付いた。

 今日は朝からお玉と美耶子が押しかけて来て、掃除やら炊事やらの家事に精を出している。

 「これまでは、わたしの方から一方的に駿太郎さんの事を拝見しておりましたので、これからは、わたしの事もご覧いただかなくては不公平でしょう?」

 それは美耶子の自発的な意向なのか、それとも清子の意向なのかはさておいて、どうにも気詰まりでいたたまれない。こういう時に限って、店先には客の影も差さず、どこからも仕事のお呼びは掛からないし、差し迫った用事も特に無い。ようやく当たり障りの無い口実を思いついて、こうして逃げては来たが、その内容があまりにも些細ささい過ぎて有効期限もそう長くは無い。

 まあ、それでも一息つくぐらいの時間は取れる。

 河原の草原くさはらに降りて、ごろりと横になった。

 青空が円く広がっている。天辺てっぺんも果ても定かでは無く、ただ一面の広がりでしかないはずなのに、見つめ続けていると不思議と奥行きを感じて、知らず空に落ちていくような錯覚を覚えた。

 もし、本当にそんな事が起ったらどうしようか?

 「さあね。どうもしないよ」頭の中で子供の声がした。「まだ何も起ってない先から、そんな事考えたって、どうにも仕様が無いじゃないか。そんなの、起ってから考えれば良いんだよ」

 その通りだ。「その通りだな」もっと何か聞こえるかと思い、目を閉じてみた。

 川のせせらぎと、時折頬をさらう川風が心地良い。

 久し振りに寛いだ気分になった駿太郎は、空に落ちる代わりに眠りに落ちて行った。

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 時節は初夏に向かっているとはいえ、日が落ちれば夜はまだ寒い。

 うっかり河原で寝込んでしまった為に、身体がすっかり冷えてしまった。

 しかしそのおかげで、駿太郎には目指す我が家にともったあかりがことのほか有難く感じられ、お玉の小言も全く気にならなかった。「一体どこで油を売って来たんですか。若いお嬢さんに夜道を歩かせるわけにはいきませんからね、美耶子さんには一足先にお屋敷に戻って頂きましたよ」

 「はぁ、そうですか」まるで耳を貸さないとまではいかないまでも、今の駿太郎の関心事は、まずは暖を取りたいという一点のみだった。「それはそうと、あれはどこにやったか…」

 駿太郎の生返事に、お玉はハッと息を吐き、いつまでも手の掛かる“もう一人の坊っちゃま”の為に熱いほうじ茶を淹れた。

 ようよう物入れの中から引っ張り出した褞袍どてらをひっかぶり、熱い茶で人心地ついたところで、駿太郎は茶箪笥の上に見慣れぬ風呂敷包みが置かれている事に気が付いた。

 「ああ、駿太郎さんが留守の間に、ひねもす堂の使いとかいう方がいらして置いていったんですよ。何でも、長い間お預かり頂いていた件は無事に片付きました、との事でした。そう言えば分ると仰っていましたが?」

 居候の件だろう。「ああ、分かった。ありがとうお玉さん」それにしても“使い”と名乗るような人物に心当たりは無いが…。「―それでウチに来たのは、もしかして痩せて背の高い、年配の男?」

 「いいえ、女の方でしたよ」

 「女っ!?…っゴホッ」茶が変なところに入って、せてしまった。

 誰だ?まさか小夜子ではあるまい、が、もしそうだったら珍しいものを見逃したような気がして、河原で昼寝をして過ごしてしまった事を少しだけ悔やんだ。

 「駿太郎さん」

 じっとりと駿太郎を注視しているお玉と目が合った。

 「ひょっとして、その女の方にご興味がおありじゃないですよねえ?」

 「いや、その…の方に心当たりが無いから考えていただけで、その、ひねもす堂さんの所には女中の一人も居ないし」

 「まったく、女っ気も無ければ、火種になりそうなご縁の一つも無いんですねえ」お玉が魂までも吐き出しかねないような溜息をついて、しみじみと言った。「この前は変な気を回しちまいましたが、よくよく考えてみれば、駿太郎さんにその方面の才覚がおありなら、奥様もあんなに気を揉むことなんてありませんものね。改めて、疑ったりして悪うございました」ぺこりと頭を下げられた。

 駿太郎としては名誉が保たれたのか、男としてはけなされたのかの判断が付かず、複雑な気持ちだった。

 気を取り直して風呂敷包みを解いてみると、中身は立派な桐箱入りのカステラだったので、お玉の帰り際にそのまま持たせてやることにした。

 「望月のおじさんには珍しくもない物かもしれないけど、たまには俺の方からも何か贈っても罰は当たらないでしょう、お玉さん?」

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 居候はもう、ここへは戻って来ない。となれば、置きっぱなしになっている忘れ物も、なるべく早く届けてやった方が良いだろう。そうは思うものの、ままならない日が続いた。

 お玉に菓子折りを持たせて帰した翌日には、さっそく望月家にお茶に呼ばれ、その翌日には、またしてもお玉を従えた美耶子が花を生けにやって来る。そして今日はたまたま、近所の諏訪神社の縁日という事もあって、美耶子と一緒に早々に家を追い出された。

 「お客様がいらしたら、お買いになった物と、その方のお名前とお住まいをちゃんと控えておきますから、ご心配無く」お玉が力強く請け合った。

 「…じゃあ、宜しくお願いします」他に言い様があるだろうか。美耶子を疎んじているような素振りを見せるわけにもいかないし、また、そのように思わせる事も避けたい。美耶子には何の非も無いのだから。


 「まあ!駿太郎さん、あれは何でございましょう?」

 「ああ、あれですか。あれは…」美耶子の指差す方を見ながら、駿太郎がいちいち説明をする。聞けば美耶子は縁日に出掛けるのは初めてだと言う。

 「父はわたしが外に出掛ける事をあまり好まないものですから」

 小夜子の座敷牢といい、世の父親は、そんなに娘を閉じ込めておきたいものなのか。よくぞ男に生まれけり。駿太郎は変なところで安堵した。

 「あら、あちらは何やら賑やかですねえ」

 二人が立ち止まった目の前には風鈴売りの屋台が有った。ガラス製の色とりどりな風鈴が、風になぶられて、涼しげな音を立てている。

 「美耶子さんは、何色が好きですか?」

 「そうですねえ…、わたしは白い色が好きです」

 適当に選んだ白色の風鈴に駿太郎が手を伸ばす横で、美耶子も同じように手を伸ばした。

 美耶子が選んだ風鈴は、白地に黒い出目金の遊ぶ絵柄の物だった。

 白と黒。水草の緑も挿してあるにしろ、寂しい絵柄だなと駿太郎は思った。「美耶子さんはひょっとして、水墨画などが好みですか」

 「えっ?」美耶子が驚いたように目をしばたたく。「ああ、これのことですか」差し上げた黒出目金の風鈴が、りりーんと音を立てた。「お年寄り臭いかしら、やっぱり?あまり派手な物を持たないようにと、子供の頃から父に戒められているうちに、何だかこのような物ばかり身のまわりに集まってしまって」言いながら、おかしそうに目を細めた。

 そう言えば出会った最初に、駿太郎が女中と見誤ったのは、美耶子が随分と地味なこしらえをしていたからだ。今日は清子が見立てたのだろう、若々しく華やかな装いをしている。

 「似たり寄ったりの物ばかりでは退屈でしょう、俺の買ったやつを美耶子さんに上げますから、そっちは俺にくれませんか?」急いで代金を払い、花火の絵柄の風鈴を美耶子に手渡した。「まさか贈り物は叱られたりはしないでしょう」

 「まあ、とても綺麗ですねえ。ありがとうございます」

 美耶子は本当に嬉しそうだった。屋台をひやかして歩きながら、少し疲れたところで甘いものを食べながら、時折思い出したように取り出した風鈴を日に透かし、わざと鳴らしてみては子供のように無邪気な笑顔を浮かべていた。

 女の幼馴染が居たら、こんな感じだったのだろうか。想像を膨らませているうちに、こういう考えは清子もお玉も歓迎しないだろう事に思い至って、駿太郎はうしろめたい気持ちになった。どうしても縁談と言う方向には考えが向かない。「留守番のお玉さんにお土産でも買って、そろそろ帰りましょうか」

 美耶子は名残惜しそうに縁日の賑わいを振り返りながら「そうですね。そろそろ帰りましょう」素直に同意した。

 厳しく躾けられたお嬢さんは、昔から、いつもこんな風に聞き分けが良かったのだろう。

 「お玉さんには何がいいかな。そうだな、今川焼が好物だったかな」

 「あの、それでしたら、もうずっと前に通り過ぎてしまいましたから、引き返さないと」

 「じゃあ、引き返しましょう」

 駿太郎と美耶子は縁日をもう一巡してから、帰途に付いた。

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 「常の時はどうだったんだ?」

 「どうって、何が?」半分は上の空で常次郎が問い返してきた。

 「何がって、その、みさきさんと最初に有った時の事とか、だよ」

 「ああ、縁談の話ね」常次郎は顔を上げることなく、くふふと笑い声を上げながら言った。「駿ちゃんの話、進んでるんだってね」

 「進んでるって、誰がそんな事言ったんだ」駿太郎はぎくりとして常次郎を問い詰めた。

 「別に誰も。ただ、そうなのかなあ、と思ってさ」先ほどから手こずっていたの身を、ようやく殻から引き出した常次郎は満面の笑みで頬張った。

 萬字堂の主人は代々、氏子総代の役目も担うことになっている。とは言え、何人か居る総代のうちの一人だから、それほど任は重くない。常次郎は今日の縁日の後始末を終えた後、思いがけず手に入れたつぶ焼を手土産に駿太郎の家に寄ったのだ。「余り物ですけど、どうぞって貰ったんだけど、ウチに持って帰ってもみさきも平四郎も下戸だし。それじゃあ、せっかくのつぶもつまんないだろう?」そういう常次郎も上戸の部類にはほど遠い。酒は舐める程度しか口にせず、もっぱらつぶに懸かりきりになっている。

 「ウチはさあ、店を継ぐ条件が嫁を取る事だったから、特に何も思わなかったよ。ああ、この人がお嫁さんなんだなあっていう位でさ」

 「それだけだったのか?」

 「うん」今度は自腹で買い整えた醤油だれ団子にかぶりついた。「融ちゃんもそうだけど、駿ちゃんも何でもかんでも考え過ぎなんだよ」

 確かにそういう嫌いは有るかも知れない。考えているうちに、何が何やら分らなくなる事もまれでは無いことは認める。

 「そうだな。そうかも知れないな」

 「そうだよ」

 ふと思いついたことが、そのまま口を衝いて出た。「なあ、常。女が嫁に行きたがらない時っていうのは、どういう理由なんだろうな?」

 常次郎は目を真ん丸に見開いて、今日初めて駿太郎に注目した。

 「何、それ?」

 「何って…」何だろう?「…まあ、そんな娘が居るって言う話をちょっと耳にしたことがあって、気になったのを急に思い出したんだ」

 「よその話?」

 「よそだ」駿太郎自身には全く関係無い。

 「あああ、びっくりした。駿ちゃんがいきなり袖にされたのかと思っちゃったよ」本気で驚いたらしく、準下戸の常次郎がグイと酒をあおった。「そんな女だったら、こっちから願い下げだよ。何だったら、清子おばさんに掛け合って、そんなヤツ追っ払ってあげようか、駿ちゃん?」ほんの一口の酒で、既に常次郎の目は座っている。

 「常、これはよその話だから、そんな事はしなくて良いんだよ」

 「どうせ、そんななあ、とっくに変な虫がついてるまがいモンなんだ」

 「分かったから、常。ほら、まだまだつぶがこんなに残っているぞ」

 あれこれなだすかしているうちに、常次郎は唐突にコテンと横になると軽くいびきを掻き始めた。明日目を覚ましたら、二日酔いで頭を抱えるはずだ。

 「変な虫か…」ピンと来ない。

 どこかの隙間からそろりと出て来たチマが、おっかなびっくり常次郎に近づいて、首を伸ばして匂いを嗅いでいる。

 「チマ、常の事は放っておけ。どうせ酒臭いだけだぞ」

 常次郎に蒲団を掛けてやりながら、明日こそは忘れ物の始末をつけようと思った。

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 「駆け落ち!?」

 「こちらにいらっしゃった時の倉島さんは冷や汗を掻いていらっしゃいました」

 それはそうだろう。もう少しで自分の娘に、とんだ恥をかかせるところだったのだから。

 小夜子の縁談の顛末とはこうだった。

 お互いに子の縁談に頭を悩ませていた親同士が出会い、意気投合して勝手に取りまとまった縁組。そもそもだれの縁談なのかというところが、全くお留守になっていた。

 小夜子の方は今も謎だが、実は先方には既に思い決めた相手が居り、お見合い直前に手に手を取って出奔し、今も行方はようとして不明だと言う。先方が支障の詳細を伏せ、日延べの期限も知らせてこなかった理由はここにあった。ぼつぼつ噂も立ち始め、最早もはやここまでと思い切った先方が、破談の申し入れと同時に詫びを入れてきた事で全てが露見する事となった。

 「それで小夜子さんは今、先方の強いご希望で、謝罪を受ける為にそちらに出掛けております。ですのでお届け下さった荷物につきましては、一旦わたくしの方で預からせて頂きます」

 「お届けするのが遅くなって済みませんでした。宜しくお願いします」

 「それを仰るなら、こちらこそ失礼致しました」ひねもす堂の主人が深々と頭を下げる。「倉島さんがいらっしゃった時はちょうど、わたくしも所用で出掛けるところでしたので、駿太郎さんには何の連絡もせずに過ごしてしまいました。申し訳ございませんでした」

 駿太郎は、ひょいと先だっての菓子折りの事を思い出し、音在氏に礼を述べると、「菓子折り?」ひねもす堂の主人には心当たりが無いと言う。「ですが、この件を承知しているとなれば、倉島家の方でしょう」とりあえず、使いの者は小夜子ではない事だけは分った。

 「では、音在さんはずっと留守にされていたんですか?」

 「ええ、例のごしき屋さんの宝物を引き受けて頂けそうな方が見つかりましたので、しばらく先様の所へ出掛けておりまして、昨日の夕方に戻って参りました」

 「あの屏風の、ですか」ごしき屋といえば、駿太郎の中にはあの地獄絵図の事しか残っていない。

 「何故、そう思われるのですかな?」

 「あれは、この前の軸物と同じで、あまり普通の家に置いておくような物ではないように思われたので、気になっていました。それだけの事です」

 あそこの主人もなかなかの狸だからな

 安西の声が耳の中に蘇ってきた。

 「まあ、それも含めてという事にはなりましょうが、こちらも縁談と同じで、まずはお見合いをしてみなければ何とも申し上げられません」

 音在氏のもの柔らかな微笑の中には、腹黒さなど微塵も見つからない。

 嘘つきは、どんな些細な嘘でも見破るという。狸は狸を見破るのだろう。商売となれば多少は駆け引きもしなくてはならない。それも高価な品の取引となれば尚更だろう。だから、その件については駿太郎もそれほど気にしていない。それよりも、ひねもす堂の主人が、実際にはどのような人なのかが気に掛かる。

 石崎氏が広げた雲竜図から立ち上った青い光の帯を、音在氏も見ていたのではないか。

 そうでなければ、石崎氏の扇子が弾き飛ばしたうろこ在処ありかへ真っ直ぐに進む事など出来ないはずだ。音在氏もあれを見ていたに違いない。

 確信はあるものの、どう切り出して良いのかが分らない。

 もしも万が一、音在氏が安西のように、ぼんやりとは感じるけれど、正確にはよく分らないという手合いだった場合は、駿太郎は正気の怪しい人物として、遠ざけられてしまうかもしれない。そう思うと、つい口をつぐんでしまう。

 音在氏は、駿太郎の父が生きていれば、ちょうどこの年頃だろうという年代だ。

 望月のおじさんも、二人目の父として仰ぎ見ている存在には変わりないが、どうしても自分とは住む世界の違う人という気持ちがぬぐえない。望月のおじさんは、目に見えるもの以外は信じないだろう。だからこそ実業家として成功している。

 「音在さん。もし宜しければですが、そのお見合いの席には俺…私も立ち会っても良いでしょうか?」

 「勿論でございます。駿太郎さんにはぜひ立ち会って頂きたいと、わたくしも思っておりました。先に仰って頂いて有難うございます」


 これにて一件落着。と言うか、一件だけ落着と言う方が正しいか。

 別に、日々思い悩みつつ暮らしていると言うわけでは無いが、今まで先送りにしていたもののツケがいよいよ回って来て、その支払いに窮しているという感じだ。

 駿太郎もまさか一生独りで過ごそうなどと思っていたわけでは無く、と思っていた。

 その「いずれ」が、ついに来てしまったのだろうという事にして、さりとて、あっさりだくの返事は出て来ない。美耶子が嫌いだと言うのなら話が早いが、そんな事は無く、それどころか好感さえ持っている。何がどうという事でも無く、ただ、駿太郎の気持ちがうなずかないのだ。

 それならさっさと断ってしまえば良い。

 一度会ったきりであったなら、気に入らないという理由一つで簡単に断ることも出来ただろうが、美耶子とは親しくなり過ぎてしまった。この縁談を断るのなら、それなりに納得のいく理由が無くてはならない。美耶子の為にも、望月家の人々の為にも、そして自分の為にも。

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 日が長くなった。

 毎年縁日を過ぎた辺りから日差しが変わるように感じる。

 これまでは季節の境目を行きつ戻りつしていた天候も、ここまで来てようやく先に進む覚悟を決めるのだろう。

  駿太郎の方はと言えば、未だに逡巡しゅんじゅんの行きつ戻りつを繰り返している。後にも戻れず先にも進めず、近頃は自分自身に苛立ちさえ感じるようになってしまった。

 美耶子は美人の部類には入らないまでも可愛らしい笑顔を持っており、性格も穏やかで言葉遣いも柔らかく、駿太郎が一番重視している“人をほっとさせる”空気をふんだんに持ち合わせている。生涯の伴侶として、間違いなく及第点以上の相手だと思う。そう、いくら自分に言い聞かせてみても、相変わらず承服は得られない。

 それでは、何が不満なのか?と自分を探ってみたが、不満など、どこにも見つからなかった。

 それで駿太郎は、今日も白でも無く黒でも無く曖昧あいまいなままに、重い足取りで望月家へと向かっていた。昨日は美耶子が駿太郎の家に来て夕餉の仕度をしてくれて、今日は望月家の夕餉に呼ばれている。言葉に出して急かされているわけでは無いが、駿太郎の返事が待たれている事には違いが無い。そう思うとさらに足取りは重くなった。

 縁談の件を除けば他は至極順調で、今日は常客の家を顔繋ぎに回って来たが、一所ひとところに長く引き止められるような事も無く、思った以上の軒数を稼いだ事で、そこそこに注文も受けて帰って来た。

 いつもなら上機嫌で眺めるだろう望月家の長い石塀も、今日はどこまでも続いて尽きなければ良いと思ってしまう。

 ふっ。

 気が付けば溜息をついている。気が付けば自分のつま先ばかりを見つめている。そう気づくたびに駿太郎は慌てて姿勢を正していた。

 ―と。

 「おい、そこのあんた。そこで何をしているんだ」

 駿太郎の歩いている少し先の、道に傾斜けいしゃのついている辺りで望月家の白い石塀に手を掛けている人影が在った。そこだけ石塀がわずかに低くなっているから、乗り越えて中に侵入しよういう魂胆は直ぐに見て取れた。しかし…。

 袴姿に長いおろし髪。

 駿太郎に声をかけられて、ぱっと石塀から手を離した手首は細かった。

 「あんた、何をしていたんだ?」

 再び問う駿太郎の姿を認めると、相手は深々と頭を下げて言った。「その節は、大変お世話になりました」

 その声には聞き覚えが有った。

 「こんなところで何をしているんですか、えっと…、小夜子さん?」

 「こちらのお宅のお庭に在る、大楡の木をもう一度だけ拝見したくて。ですが、これで見納めにしようと思っておりますのでご心配は無用です」

 はあぁ?!

 「楡?」様子が一変している小夜子自身にも戸惑うが、返って来た答えもこれまた困惑の材料にしかならない。「楡の木が見たい。そういうことですか?」相手はそう言っているのだから、これは不必要な念押しだ。

 「はい。そのように申し上げました」

 急に髪が伸びるはずも無いから、あれはかもじなのだろうな。何故か駿太郎はそんな事を考えていた。「楡の木ぐらい、見たければこの家の人にそう言えば良いでしょう」言ってしまってから、駿太郎は胸につかえるものがある事に気付いた。

 「本当にそれで宜しいのですか?この家にはわたしの顔をご存じの方もいらっしゃいます」

 そうだった。美耶子だけは“”を見知っている。


 「以前に一度こちらには来ておりますので、案内などは不要です」

 固辞する小夜子の声をよそに、駿太郎は石塀を探っていた。「まさか、そういうわけにはいきません」色々な意味で。「確かこの辺りに…」それに何か事が有った場合は、望月家にも音在氏にも相応に申し訳が立たない。ここで小夜子を見かけてしまったが百年目。「有った有った、ここだ!」

 小夜子を引き連れて来たここは、望月家の広い敷地の外れ。塀の向こう側も、母屋から一番遠く離れているだけに、ほとんどうっちゃらかされており、今頃は雑草の天下になっているはずだ。塀のこちら側もほぼ手入れはされていない。それどころか、生い茂った藪の陰で塀の一部が崩れている。いつからそうなっていたのかは分らないが、これは融も常次郎も知っていて、三人だけの秘密という事になっていた。勝手に小夜子を四人目にした事を、駿太郎は心の中の天神様に密かに謝った。「ここから楽に入れますよ」

 崩れた塀を乗り越えてみると、予想どおり荒れ放題だった。いや、それは基本が“庭”であった場合の話で、原生林として見ればこんなものかという感じだ。

 木も草も自然のままに置かれてある、が、良く見れば野鳥の為に巣箱が備えられていて、これが計画的である事が分った。もしかすると、仕事に疲れを覚えた望月のおじさんが時折ここを散策して、気晴らしをしているのかも知れない。子供の頃の駿太郎は、仲良しの仲間とここを秘密の場所として、立入る為の合言葉まで作ったりして遊んでいたものだが、今は大人となった目で見直してみると、様々な考えが浮かんできて感慨深かった。そして―

 いつから、ここに来なくなっただろう?思って、記憶を照らしてみた。

 素直な心の動きだった。

 但し、その反響は尋常では無かった。

 急に心臓をぎゅっと掴まれたような痛みを覚えて身がすくんだ。

 何だこれは!?

 気を紛らす為に、口から言葉を絞り出した。「小夜子さんは…」結構、口にしづらい名前だ。「何故、楡の木なんか見たいんですか?」小夜子に対して改まった言葉遣いをしている事も、全くしっくり来ない。

 「…質問に対して、質問で返す事をご容赦下さい。失礼ですが、あえてお伺い致します。あなたは大楡の木をご覧になった事は御座いますか?」小夜子は真っ直ぐに駿太郎を見つめてきた。

 御覧になった事はあるはずだ。何しろ、その木に昇ったは良いが、降りて来られなくなって周囲を巻き込んで大騒ぎしたのだ?か、ら?

 「よく、覚えていない」そう答えるより他に無かった。

 さっき見当違いの方向へ行こうとした駿太郎は「そちらではありません!」すかさず小夜子にたしなめられていた。

 「どうしてもわたしに同行されるという事であれば、わたしが案内致しますので、付いて来て下さい」

 そういうことで今、駿太郎は小夜子に連れられて歩いている。おかしな具合になったものだ。小夜子について歩きながら、駿太郎は不思議な気持ちで子供の頃の自分の遊び場を眺めた。

 昔、池の有った辺り。ずっと前に埋め立てられて今はもう、ちょっと目には分らないが、草陰からほんの少し頭を覗かせている石灯籠がその目印になる。あの下には悪い三人組が埋蔵金と称して埋めた、駿太郎の店からくすねてきた古銭がそのまま在るはずだ。向こうの奥まったところに見える、あの木には確か根元にうろがあって、そこに一時いっとき迷い犬を住まわせていた事があった。餌の世話は幼馴染三人の持ち回りで、融の番の時に当の本人が熱を出してすっぽかしてしまい、その日を境に犬は消えてしまった。それから、あちらに見えるあれは…。

 燭台から燭台へと灯りを移していくように、ぽつぽつと駿太郎の記憶に火が灯っていく。今まで思い出すことも無かった記憶だが、ずっとここに置き放してあったのなら、それはそれで納得のいく話だった。もしかすると楡の木の記憶も、そのままそっくり、そこに有るのかも知れない。

 駿太郎の足が止まった。

 ここから先には行きたくないと思った。

 大楡と言って、たかだか木を見に行くだけではないか。それだけの事で何があるというのか、そう思うのに、根が生えたように足が動かなくなった。

 小夜子に断ってここから引き返そう。そもそも彼女は最初から駿太郎の同行など望んでいなかったのだから、一人になったところで特にどうとも思わないはずだ。

 また知らず知らずうつむいていた駿太郎が顔を上げると、小夜子も立ち止まっていた。

 「どうしました?」

 「どう、とは?」振り返った小夜子が、またしても問いかけに問を返してきた。

 「立ち止まっているので、疲れたのかと」

 「これ以上先に進む必要は無いでしょう?」小夜子は怪訝けげんそうに眉をひそめた。「あなたが何を仰っているのか、わたしには解かりかねます」言いながら彼女は駿太郎に背を向けると、大きく振り仰いだ。

 小夜子は何を見ているのか?

 そこはぽっかりと間の開いた空間で、見るべきものなど、何も無かった。足元を見れば、その辺りだけ下生えが引き剥がされたように地面がむき出しになっている。

 そう言えば。

 「少し遅かったようですね、小夜子さん。楡の木はもう、伐り倒されてしまったのでしょう」

 再び振り返った小夜子は、今度は探るようでいたわるように駿太郎を見つめた。「申し訳ありませんが、わたしにはあなたが何を仰っているのか解かりません」

 「私…」丁寧な言葉はまどろっこしい、言いたい事の半分も伝わっている気がしない。「俺にもさっきからお前が何を見ているのかが分らない。こんな何もないところで立ち止まったりして、何がしたいんだ?」言い終わらないうちに、つかつかと小夜子が側に寄って来た。「おい、何だ?」いきなり小夜子に手首を取られて、驚いた拍子に足が前に出た。

 「ここに在る」言いながら小夜子は、駿太郎の手を何も無い空間に導いた。「ここに楡の木が在る、分るか?」

 駿太郎の手の平に、確かに木肌の感触が伝わってきた。全身からどっと汗が吹き出す。何が、どういう事なのか、全く判らない。

 と、その時、少しずつ近づいてくる人声が聞こえてきた。

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