第5話公達に狐化けたり宵の春

 「あんた、変わったな」

 まじまじと駿太郎の顔を見つめながら、小夜子がポツリと言った。

 普段こちらに関心を向けてくることの無い相手なだけに、話しかけられていたことに気付いたのは、しばらく時間が経ってからだった。

 「あ…」

 ひねもす堂の主人が、ゆったりと上体を屈め、駿太郎の方へ耳を傾ける仕種しぐさをした。

 「いえ、何でもありません」

 今日はひねもす堂の主人の助役すけやくとして、供に客の接待をしている。

 ひねもす堂の主人の所望で、と言うことでは無く、逆に駿太郎の方から売り込んでのことだ。

 ひねもす堂は、少し町を遠ざかった畑地の片隅に、俗世を離れた隠居宅のような趣で店を構えており、主人より他に従業員はおらず、主人一人で切り回している。「一人では何かと不便な時もあるでしょう。その時には遠慮せずに言ってください。お手伝いしますよ」

 実は、ひねもす堂にだけではなく、萬字堂を始めとする他の同業者にも、同様に触れ回っている。

 そう言うわけで、このところの駿太郎は、にわか便利屋として、毎日あちこちでき使われる日々を送っていた。日が暮れる頃には、くたくたに疲れ切り、夕餉ゆうげの途中で前後不覚に眠り込んでしまう時もしばしば有る。それが小夜子の関心を引いたのだろう。

 居候に気を使う義理などは無い。今の駿太郎にとっては、毎日、何も考えずに済むに越したことはないのだ。ジッとしていると、思い出したくない事の方へ、心が勝手に滑り出してしまう。

 今だって、気がつくと中途半端に蘇った記憶のへりをなぞりながら、物思いに沈みかけた。ひねもす堂の奥座敷では、客と音在氏の歓談が続いており、駿太郎は手持無沙汰だ。今日は魚石も、どこかに仕舞われており、気を紛らすような物も無い。

 「さて、無駄話が過ぎたようで。そちらの…駿太郎さんを、すっかり退屈させてしまったようだ」

 客に見透かされていた。「大変失礼致しました」おかげで、号令をかけられたように、頭が切り替わった。

 「何の。どうも話が長くなりがちで、わたしも、この先の戒めとすることにしましょう。」石崎と名乗るその客は鷹揚に応えた。

 「それでは石崎さん、ここからはようやく本題ということになりましょうか。実を申しますと、わたくしも、今か今かと痺れを切らしかけておりました」

 「これは、至らず。誠に申し訳ない」言いながら、ひねもす堂の主人にせがまれた事で却って嬉しそうに、石崎氏は急ぎ、持参の風呂敷包みを解き始めた。

 風呂敷包みの中から出て来たのは、細長い箱だった。軸物らしい。「出所については、差支えが有るので、申し上げるわけにはいきませんが、このような物をふと手に入れまして」軸が広げられると、雲竜の図が現れた。

 「これは、見事なお品でございますね」

 全く以って見事、と言う他は無い。

 「あの。先ほど、出所についてはと仰っておいででしたが、一つだけ。これは、どなたか個人の方の持ち物だったんでしょうか?」

 石崎氏がほおと目を細めて駿太郎を見つめた。「それは、どういう?」

 「これは、普通のお宅にあるような物ではないような気がしまして」青い光が身体の側を掠めるごと、ちりちりと肌が波立つように感じる。熱気と言うのではなく、何か微弱な力に引っ張られるような、そんな感触である。「…何と言うか、大きなお寺の宝物庫にでも在るのがふさわしいような」

 「そう、恐らくこれは盗品でしょう。これを持って来た男も、同じ事を申しておりました。幸いなことに、わたしはこの掛軸の詳しい来歴については知らない。伏せたいのは、これを持参した男についてだけです。そして、まさに今日、こちらに伺った理由もそれです。これは、わたしが持つには、荷が勝ち過ぎる品だ」

 誰か、と言うよりも、“どこか”これを護持するにふさわしい相手を見つけて、譲り渡したい。ついては、ひねもす堂に取り持ちを任せたいとの意向だった。

 石崎氏が掛軸を広げると同時に、扇子を広げた事に、駿太郎は気づいていた。以降、石崎氏は、始終扇子をひらめかせている。それは暑気を払うというよりも、寄り付く小虫を払うというような仕種に近かった。そして、が石崎氏に近づくと、一層ばたばたと大きく振り扇ぐので、一度じかにぶつかり、何かが座敷の隅に弾き飛ばされていくのが見えた。

 「それにしても、駿太郎さんはさすが、音在さんのお弟子さんだ」今日はそういう触れ込みで、この座にはべっている。「こちらの意向を伝えるのに、随分と手間が省けました。これからも、その調子で精進なさい。音在さんも先が楽しみですね」

 「ありがとうございます。それでは、この件、確かに手前どもで承らせて頂きます」


 さて、助役として呼ばれては来たものの、今日は一体、自分はどんな働きをしたのだろうか?駿太郎が自問自答するに、導き出された答えは、何もしていない。だった。

 それで、ひねもす堂の主人が「些少ながら」と、差し出してきた謝礼を固辞した。

 「とても、頂くわけにはいきません。今日は私もお客さん然として、ただ座って居ただけですし、結構な品まで見せて貰って。謝礼を払わなければならないのは私の方かも知れません」

 「さようですか。石崎さんには、お喜び頂いたようでございますが。…それでは」ひねもす堂の主人はおもむろに立ち上がると、先ほど何かが弾け飛んで行った座敷の隅へ向かった。何かを拾い上げて戻って来る。「今朝、掃除した際には、このような物はございませんでしたので、恐らく石崎さんの忘れ物でしょう。どのような価値が有るかは分りませんが、今日のお駄賃として頂いておいても、宜しいかと存じますよ」

 差し出された手の中に在ったものは、薄く延べたビードロのように見えた。

 手の平に乗せると、重さを感じない代わりに、肌に吸い付くような感触が有った。そして、紙一枚ほども厚みが無いにも拘わらず、非常に硬い物で出来ているようだった。

 形状を見る限り、これはうろこだ。そう思った。

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 「近頃は一体、どうしちゃったのさ、駿ちゃん。日銭ひぜにを稼がなきゃなんないほど、困っていたなんて初耳だよ?」

 「はあ?何だって?!」常次郎に言われた当の本人こそ、それは初耳だった。

 「困ってんだったら、そうと言ってくれれば、助けない事なんて絶対に無いからね」

 “川端町の古道具屋が死にもの狂いで働いている”よって“暮らしに困窮している”に違いない、との噂が流れているらしい。

 「そんなんじゃ、ない」

 「じゃあ、何さ?」

 「それは、…そのー…」本気で心配してくれているからこそ、なかなか勘弁してもらえない。それは有難くも、苦しいものだった。「ほら、この前の油壺、あれが大当たりしてさ。正直、お前が持ち込んで来た時は、こんな物って思ってたんだ。それで、俺もまだまだ勉強が足らないなと思ったから、よその店のやり方を見て、見習えるところは見習ったりとか…しようかと」駿太郎としては、ぎりぎりまで頑張っての申し開きだ。

 「ふーん…」もっとももらしさに大きく欠ける言い訳に、常次郎の目が疑わしげに細まる。

 「この前だって、ひねもす堂さんのところで勉強させて貰ったんだ」

 「ひねもす堂さんで?」常次郎がぱっちりと目を見開いた。「それは良いね。駿ちゃんの為になるよ、きっと」

 何が常次郎を納得させたのかは分らないが、とにかくこれで解放されたようだ。

 「それで、常。これが、例のヤツなのか?」

 年数を経て飴色に艶めいた薬箪笥の上に、それとは不釣り合いな真新しい桐の小箱が乗っている。蓋を外した箱の中を覗くと朱色の繻子しゅすが敷いてあり、真ん中に鎮座しているのは、これまた不釣り合いな…。

 「そ。そいつが東大寺とうだいじ

 「へぇ、こいつがねェ。俺には縁のない物のせいか、ただの腐った木の欠片かけらにしか見えないな」

 「そんなの当たり前だよ。だって、ただの腐っただもん」

 「つまり、偽物ってことか」

 「人聞きが悪いよ、駿ちゃん。ウチでは、そいつに東大寺ってを付けているってだけのこと。本物も偽物もありゃしないよ。これこそは、天下無双の蘭奢待らんじゃたいでございなんてことは、誰にも、一言も言ってないしね」

 蘭奢待とは、天下第一の名香を持つと謳われている、香木の名称である。東大寺とはその雅名がめい。本物ともなれば、その物自体の古さもあって、かなり珍しい物ではあるが、これほど珍重される本当の理由は、天下人だけの香りと言われている処にある。

 「ウチに来るお客さんだって、そんなのは先刻承知で遊びに来るんだから、そんな野暮は言いっこなしで、宜しく頼むね、駿ちゃん」

 今日は萬字堂での顧客の接待だが、その性質は、ひねもす堂の場合とは大きく異なる。

 萬字堂では年に数回、常連客を招待しての懇親会を催しており、それはさっき常次郎が言った通り、純然としたお遊びの世界だから、招待客の面々も今日と言う日を、面白おかしく騙し通されることを期待してやって来る。

 さすがに今日は、常次郎と平四郎だけでは手が回らない為、駿太郎が接待係“イ”として呼ばれたのだ。他には“ロ”と“ハ”が来ており、それぞれに仕度したくを進めていた。

 今日催される会の進行内容については、まず萬字堂主人の挨拶と本日の趣向の説明から始まり、次に会食、一時ほど休憩を取って座が和んできた頃に、本日の催しの主眼である聞香会もんこうかいとなる。

 ごしき屋の奪衣婆にはガラクタ組に分類されているらしい萬字堂は、なかなかどうして、大きな店を張っているだけのことはあった。会食に供される松花堂弁当にしても、名のある仕出し屋を使っているし、会場となる座敷のしつらえについても、花や軸物など飾り物一つ一つにまで神経が注がれている。

 それにしても。

 それにしても、何故こんな恰好なりで、客の接待をしなくてはならないのか?

 垂纓冠すいえいのかんむりに、直衣のうし指貫さしぬき。駿太郎は今、神社の神主のような衣装を着せられた上に、視野の狭い能の面を付けてギクシャクと、休憩時に振る舞う茶菓の仕度をしていた。

 平四郎を始め“ロ”と“ハ”は手慣れたもので、衣装の着付けから立ち居振る舞いまで、一貫して優雅にこなしている。幽玄の世界にはほど遠くとも、非日常の世界はかもし出している、のかも知れない。

 汗だくになりながらも、どうにか休憩時間をやり過ごし、お待ちかねの聞香会となった。既に仕度の整った別室に移り、各々が着座するのを待つ。ここからは常次郎の独り舞台となるから、駿太郎たちが動く必要は無い。

 どかりと座り込まぬよう、平四郎や“ロ”と“ハ”の動作を見真似て、駿太郎はゆっくりと腰を降ろした。

 やれやれ。

 名香“東大寺”を収めた桐の小箱が、客から客の手へと渡され、部屋の中を回っていく。箱の中身をめつすがめつする客の顔は、いずれも真摯で、浮ついた様子は微塵も無い。客層だけを見ると、ひねもす堂と通じるものがあるのが、駿太郎には不思議だった。

 と、その時。

 先ほどまで駿太郎達の居た座敷に続くふすまが、パシリ、音を立てて開け放たれ、そこには、駿太郎、平四郎、“ロ”と“ハ”と同様の垂纓冠、直衣、指貫姿の人物が一人、鬼の面を付けて立っていた。

 これからどんな趣向が始まるのかと、息を詰めて観衆が見守る中、滑るような足取りで鬼面が常次郎に近づいて行く。

 凝り過ぎだぞ、常。

 「だっ、旦那さまっ!」平四郎が飛び立つように立上り、常次郎の元に駆け寄っていく。

 えっ?

 見れば“ロ”と“ハ”も立ち上がり、鬼面を取り押さえようと、ジリジリと追い詰めにかかっている。しかし、恐らくこれは相手が悪い。かさばる衣装を着けているにも拘わらず、右に左に、何の苦も無く立ち回っている。

 軽やかな身のこなしで“ロ”と“ハ”の追撃をかわした鬼面は、あっという間に常次郎の傍まで近づき、邪魔立てする平四郎に当て身を食らわした。平四郎の身体が九の字に曲がってくずおれる。

 「ヒッ!」それまで呆気にとられた顔つきで事態を眺めていた、常次郎の口から悲鳴がこぼれ出た。

 「常っ!?」

 常次郎の手から東大寺の小箱をもぎ取った鬼面が、早、逃げを打とうと振り返ったところへ、駿太郎は迷うことなく身を投げ出した。狙い違わず、諸共に倒れ込んだ。

 「泥棒だあっ!」事ここに至って、常次郎がやっと叫び声を上げた。

 すわ、と満場の客が一斉に立ち上がり、辺りは騒然となった。

 駿太郎の加勢をしようと駆けつけた男客達が、互いに組みついたまま転げまわる二人になかなか近づけずに、興奮してあれこれはやし立てる。女客達からの声援がさらに姦しく、部屋中を満たした。

 こいつが盗ろうとしているのは、単なる腐った木の欠片だ。そんな物はくれてやって、全然良い。大した間抜け野郎だ。のしを付けたら、そちらの方が断然、値が張っている。許せないのは、奇人である以外は人畜無害の平四郎に危害を加えた事と、何より、常次郎が丹精を凝らした催し物をぶち壊しにしたことだ。その間抜け顔を、皆に晒してやる。

 鬼の面に指をかけて引き剥がす。

 途端に、水を打ったように部屋が静まり返った。

 駿太郎は、眼下に、ふっ、と、こぼれるような笑みが涌き出すのを見た。

 何をどうしたのかは分からない。次の瞬間には駿太郎は跳ね飛ばされており、跳ね起きた賊はその場でトンボを切って退路を広げ、その勢いを殺さずに、庭に続く障子戸を突き破って逃げて行った。


 「いやあ、盛況。盛況。ここ何年かの内で、今日は一番だった」

 上機嫌の常次郎が差し出す祝儀袋を、各々、押し頂きながら受け取っていく。

 平四郎、駿太郎、“ロ”、“ハ”、そして、賊役を演じた環。

 「…全部、芝居だったとはなあ」

 「駿ちゃんみたいに、コロッと騙された人なんか、他に居ないよ。だから良かったんだけどね。平四郎が環さんに小突かれた処までは、みんな疑っていた」芝居だったのだから勿論、平四郎はどこも痛めてはおらず、今はみさきの用意した稲荷ずしを、元気にパクついている。「その後に駿ちゃんが血相変えて突っ込んできて、そこからお客さん達も、これはもしや、ってんで、盛り上がったんだ」

 ―盛り上がる…。友達付き合いは古くとも、理解に苦しむ事は多々ある。

 「さすがの俺も、あの時は驚いたな。あんた、俺よりも上背は有るし、重いし」

 驚いたのは駿太郎の方も同様である。鬼の面を引き剥がしたら、そこに見知った顔が有った。それも、あまり好ましいとは言えない記憶のおまけ付の。混乱して一瞬頭の中が真っ白になった隙を衝かれて、環に跳ね飛ばされたのだ。

 「それにしても、環さん。本当に迫力有ったよねえ。内村さんに聞いたけど、色々な武術をやっていて、かなりの使い手なんだってね」内村と言うのは代筆屋の事である。「良かったらまた、お願いしたいと思うんだけど、どうかな?」

 「いえ…。今回は急いで幾らか用立てる必要があっての事で…」環はふと、受け取った祝儀袋に目を落とし、ちらり駿太郎を掠め見てから言い直した。「そうですね。考えておきます」

 どうも、やっぱりコイツは苦手だ。今の目つきは何だったのだろう?全般に得体が知れない。

 それからは、しばらく和やかな時を過ごした。

 “ロ”と“ハ”は芝居を本職としているが、いまだ台詞の一つも貰えない身の上なのだと言う。二人とも萬字堂の懇親会の常連で、“勉強”と小遣い稼ぎを兼ねて、「毎度、お世話になっております」との事だった。


 打ち上げの座が跳ねた後の帰り道で、駿太郎の後を追いすがってくる者があった。

 「どうも」環だった。

 「家は逆方向なんだけど、あんたに謝っておこうと思ってさ」

 こちらから問う前に、向こうから切り出してきた。

 「この前の、叔父貴の店での事だ。あんたの事、からかったりして悪かった」

 あれは、からかうと言う段の出来事だったのか。

 沈黙したまま、何も応えない駿太郎の事を誤解したのか、環は続けて言った。「俺も悪かったけど、あんたにだって非は無い訳じゃないんだぜ?」

 「?」

 「あんた、あの時、俺の事値踏みしたろう」

 「あっ」

 「俺は見ての通り、このご面相だから、慣れっこじゃあるけど、だからって平気なわけじゃないのさ。特にあんたみたいなヤツから、見くびられたりすると、かなり頭にくる」

 「あの時は済まん、悪かった」駿太郎は本心から、そう思った。「それは、あんたが謝ることじゃないよな、俺の方が謝ることだ」

 「そうでもない。あんたをからかって、気が晴れたかと言えば、そうじゃなかったし。ずっとモヤモヤしていた。さっき、あんたを跳ね飛ばして、少しはスッとしたけど、俺はあんたの為にじゃなくて、自分の為に謝るんだ」そう言った後、少し間が有った。「…それにしても、良いな、あんたは。それだけ身体が大きければ、女に間違えられる事なんて、まず無いだろうな」

 「それは、無い」

 「こればっかりは、いくら身体を鍛えたところで、どうにもならなかったよ。おっと、愚痴になったね。悪い。じゃあ、俺はこれで」行きかけて、環がくるりと顔だけをこちらに向けて言った。「じゃあね、駿さん」ニヤリと笑うと、来た道を駆け戻って行った。

 頭の後ろ側の毛がざわりとそそけ立つのを感じたが、今度は嫌な気はしなかった。

 名実ともの羅陵王らりょうおうか。

 面が取れた時に部屋が静まり返ったのは、そういうことだ。醜い面の下から現れた花のかんばせに、人々は沈黙した。

 女も羨むような美貌が、当人にとっては疎ましいだけとは。

 もしも、自分の望みを誰かの望みと、取り換えっこ出来たなら、全ては丸く収まるのだろうか。独りの帰り道を、そんなことを考えながら歩いた。

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 へぇ、まだこんな物が家に有ったのか。

 駿太郎自身がそれをどこかに仕舞ったかどうか、と言う記憶は曖昧あいまいで、よく分らない。仕舞ってあるとしたら、どこだろう?と考えた方が、早く答えに辿り着きそうだ。

 「ここは確かにあんたの家で、こっちは居候している身だ。だから本来、つべこべ言える立場には無いが…」それにしても、と、今、駿太郎は居候に、つべこべ言われている最中だった。

 居候の膝元には、様々な意匠の矢立やたてが四、五本も置かれている。前時代の携帯筆記用具だ。

 「大きなお世話かもしれないが、これはあんたの商売道具なんだろう?だったら、もっと丁寧に扱えと言うんだ。そこら中に放り出しておいて。壊れたからって、それはわたしの知った事では無いからな」

 目下のところ、駿太郎の家の家事全般は、一切を居候の小夜子が引き受けている。駿太郎が居候を置いているのは、完全にひねもす堂に対する厚意の表れだから、それによって何ら得をするということは無い。それで、小夜子がせめてもの恩返し…と、思っての事かどうかは知らないが、自然とそうなっている。そこで、くだんの矢立がどうしたのかと言うと、「片付けたと思ったら、また出しっ放しになっている」のだそうだ。

 何故今、こんなものが家の中をうろつき出したのかは分らない。意志を持たずとも風は吹くのと同じことで、駿太郎としては有るがままに認識するだけだ。

 そこのところを、小夜子に説くか?いや、それは自信が無い。

 “散らかした”張本人として、説教を受ける方を選んだ。

 「まあ、そうだな。俺の商売道具の一つだ」一応は。記憶に在る限り、店に並べたことは無かったはずだが。「ところで、ソイツが何だか知っているか?」

 「矢立だろう。中に筆と墨が入っていて…、昔祖父が使っていたのを何となく覚えている」居候は過去を遥かに望むように、中空を見つめながら言った。

 「それ、お前にやるよ」

 居候がどう思ったかは、その眉間に寄せられた皺の具合で、駿太郎にはなんとなく予想が付いた。

 面倒臭いから、所有権ごと管理義務を居候に丸投げした。そんな風に思っているはずだ。

 そんな思惑が全くなかったとは言わないまでも、駿太郎としては、それほどいい加減な判断を付けたと思っていない。

 いつでもそれが目について、ついには家主に苦言を呈する程、腹に据えかねる迄になるとしたら、それは間違いなく「わざと」だ。目に留めて欲しいからこそ、はわざと居候の目につくところに転がっていた。そういう事だ。

 非常に突飛な結論のように思われるかもしれないが、それなら、ほとんど不在にしている人間がのべつ部屋を散らかしていると、どうしたら考えられるのか?そちらの方が余程に不思議だろう。

 「それじゃあな、チマ。今日も遅くなるからな」

 日向で熱心に毛繕っている猫にだけ、声を掛けて家を出る。別に居候への嫌がらせではない。駿太郎が戻る頃には居候は小梅の家に移っているはずだから、家で待っているのは猫一匹だ。それに、居候にも聞こえるように言っているつもりだ。


 やっぱり、あのやりようは少し投げやりだったかもしれない。

 今日の仕事先へ向かう道々、駿太郎は徐々に後悔し始めていた。

 特にそれを望んだわけでもないのに、このところ駿太郎の身辺は急に賑やかになった。

 小梅はいまだ不在のままだが、その代わり家に帰ればチマが飛び出してきて大歓迎してくれるし、三日にあげず美耶子が果物や菓子の包みを持って顔を出し、気が向いた時に源信が立ち寄っていくことも有る。まあ、人間の場合は、訪ねて来る頃合いによっては、顔は合わせず仕舞いになる事が多くなってしまっているのだが、ともかく、人の行き来が増えて、挙句の果てに半同居人まで置くようになってしまった。

 この、同居人の存在が、駿太郎には思いの外こたえる。

 相変わらず乱暴な口のきき方をしていて、不快ということも有るが、それはもう慣れた。では何が?と問われれば、あの無関心さと沈黙ということになるだろうか。それが、どうしても耐え難いとまでは言わないが、一向に慣れることが出来ない。向こうは駿太郎の家には遊びに来たのではなく、隠れに来たのだから、それらしいと言えなくもないのだが。

 昔、子供の頃に駿太郎自身が同じような態度を見せた時は、清子にこっぴどく叱られたことを思い出す。座敷牢の有るような家の娘なら、そのくらいの礼儀作法は身につけていて当たり前と思われるのに。(そんなものを富裕ふゆうの尺度とするのはおかしいが、並みの家にそんなものは無いのも事実だ。)

 それが今日は、滅多に無いことに居候の方から働きかけてきたのだ。駿太郎のやりようによっては、もう少しマシな状況に変えることだって出来たかもしれない。それなのに、結局は丸投げとしか思えない方法で決着を付けてしまった。

 「何だあ。薬の温泉いでゆでも治らない病にでもかかったのかい?」

 「え?」

 「さっきから、溜息なんかついて。もう仕事に飽きたとか、言わないでくれよ?どうせなら病の方にしてくれよな。こっちも少々、嫌気がさして来ちまってるんだから」

 「ああ」

 今日は、先日ごしき屋で会った情報通の男の手伝いをしている。面識が無かったのは当たり前で、遠方からわざわざ出張してきた同業のこの男は、安西あんざいと名乗った。

 安西氏の羽振りは良いらしく、駿太郎の他に地元の同業者が三人も手伝いに呼ばれていた。こちらは顔見知りで、今声を掛けてきたのはその中の一人だ。

 安西氏はこの町の寺の住職とは懇意なようで、今日は本堂の広い空間を貸し切りにして貰って作業をしているのだが、それはまあ見事に、細々とした品物ばかりがごっそりと並べられていた。ごしき屋だけではここまでは揃えられないだろうから、この町を拠点として方々を歩いたのかもしれない。駿太郎達が任されているのは、単純な分類作業。器物、飾り物、きれに軸物、文房具に娯楽道具に装身具、その他いろいろ。

 種々雑多で、その上、小さくて膨大な分量の品物をただ黙々と仕分けるだけというのでは、確かに嫌気もさしてくる。

 声を掛けて貰ったことで、頭が現在の方へ切り替わった。

 駿太郎は、改めて広い空間をざっと見渡してみて、違う興味を覚えた。

 ここに並べられている物たちには、個別の興味だとか好み、傾向のようなものが一切見られない。大概ならここには、これらを選んだ人物―安西氏―の人となりを映し出すような、法則性のようなものが見えるはずなのだが、それが無い。つまりは、のっぺら坊だ。これも嫌気がさす要因の一つだろう。人は無意識のうちに、人を探してしまうものだ。

 これだけ多く集められた物達の中の、どこにも安西氏は居ない。

 もしも安西氏を直接知っていなければ、どんな人物像も浮かばないに違いない。

 安西氏の人物としての特徴と言えば、せんにごしき屋で披露済みの、少し毒を含んだユーモアの持ち主であることと、羽振りが良ということになるだろうか。取り立てて他に目立つ特徴は無く、至って普通とも言えるが、駿太郎にはどうしても尋常の事とは思えない。何の感興かんきょうも無く、関心も持たずに、見立てなど出来るものなのだろうか?そうでなくては、今目の前にしている様相の説明もつかないのだが。

 日暮れて手元も暗くなってきた頃に、今日の作業は仕舞となった。まだ手も付けていない品が山と残っているから、それはまた明日の作業となる。

 日当を貰ったらそれで解散と思っていたのが、案に相違して、そのまま別室に呼ばれて夕餉まで馳走になった。

 生臭寺の陰口どおり、住職秘蔵の般若湯はんにゃとうまで持ち込まれて座は大いに盛り上がり、日暮れ前から辟易としていた他の手伝いの面々はすっかり元気を取り戻したようだ。安西氏の「皆さん、明日も宜しく頼みますよ」との言葉に機嫌良く応えている。

 もし日当だけを渡して追い払っていたら、この中の何人が明日も来るだろう?

駿太郎はちらりとそんなことを思った。

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 「あんた、今日はまだ時間があるか?一つ教えて欲しいことがある」

 「ああ。どうした」応えながら、駿太郎は素早く雨具の所在について思いを巡らしていた。二日も続けて居候の方から話しかけてくるとは、雨以外のモノだって降る可能性はある。今日の命運は天に任せよう。

 「昨日あんたに貰った矢立のことだ。汚いから洗ってみたけど、水が漏るんだ」

 「ふむ」

 水で洗うのは不味まずい素材のものも有ったような気がするが、今度はこっちが、くれてやった物につべこべ言うわけにはいかない。

 「水が漏るくらいなら、墨はどうやって入れておくんだ?それだけが分らない」

 なるほど。

 矢立の構造というのは、まず筆を一本収める為の筒状の胴体があり、その先端に墨を収めておく壺状の容器がくっ付いている。見た目は蓋つきの柄杓ひしゃくのような形をしている。

 駿太郎は、小夜子から受け取った矢立の墨壺の蓋を開き、そこへ綿を詰めて墨汁を垂らした。

 「この綿にひたした墨に、筆をつけて書くんだ」

 「なんだ、そんな簡単なことだったのか」居候は目を丸くして墨壺を見つめている。

 「お前、そんなもの本気で使う気なのか?」

 「使う。これはかなり使えるから」

 こいつは、実は能書家とか、なのか?居候の関心はすぐに矢立に移ってしまった様子なので、そこまでは聞けなかったが、それなら矢立に付け狙われる理由も立つ。謎が解けたような気がして、今朝は気分が良かった。


 一晩明けて酔いも醒め切ってみれば、昨日の上機嫌はどこへやら。今日の作業を始めてしばらくも経たない内に、本堂の空気は倦み始めていた。

 それで、誰が言い出したということもなく、今日は全員がうろうろと歩き回っている。座っている場所を移れば見える景色が変わり、手元の品物の景色も変わり、少しの間は気が紛れる。そうやって気分転換を図っているのだ。

 勿論、安西氏は別で、さすがに彼だけは自分の持ち場に腰を落ち着けて仕事を続けている。それでも時たま、本堂の中を見渡すようにしているから、周りの様子は知っているはずだ。人が移動すればその間は作業が中断することになり、余計に時間がかかることになるのだが、安西氏は何も言わない。

 今回のような事は特別なことではなく、各地を巡って仕入れた品が手に余るようになってきた所で手伝いを頼んで、自分の店に送る手配をしているという話だったから、手伝いの人間がどのような反応を見せるかは承知しているのだろう。

 それにしても安西氏の営む店とは、どんな店なのか。駿太郎には全く想像もつかない。取り扱っている品に何の傾向も無く、特徴も無い店…?それなら、萬字堂の方が遥かに魅力的かも知れないと思う。

 先日の萬字堂での田舎芝居が客に大いに受けたのは本当で、あの後、駿太郎は見知らぬ人に声を掛けられることが多くなった。それは残らず懇親会に招待された人々で、常次郎を助けに向かう際に、咄嗟に視野を阻む面を外した事で、彼らに駿太郎の顔を知られてしまったのだ。どの人も旧知の間柄のように親しげに、楽しそうに話しかけてきた。これまでは萬字堂を怪しい店としか考えてこなかったが、この頃は、常次郎が先代から引き継いで守っている“萬字堂の遊び心”の大切さが、少しだけ分ったような気がした。

 今目の前にしている光景の中には、心の片鱗すら見えない。

 ―いや、それは言い過ぎか。前の持ち主のものらしい気配は、薄っすらと感じられる。

 そう言う意味合いで改めて見直してみると、好みや傾向の違いがくっきりと分かれて見え始めた。今は所在無げに歩き回っている同業の面々も、そのうちこれに気付いて、自分と相性の良い傾向を持った品々に取り組み始めるだろう。

 それにしても、やはり疑問は残る。

 以前の持ち主の色合いの違いが、これほどはっきり分かれて見えるとなると、一カ所から、かなりまとまった点数の品を買い取っているということになる。

 ここに並べられている品々の出所は知らないが、例えば、ごしき屋の時のように蔵の中の古物処分に呼ばれたとして、実際に買い取るのはその中の一部にも達しないのが普通だ。駿太郎だったら、飽くまでも古道具屋として実用性重視が基本に来て、あとは馴染み客の好みも頭に入れて見立てをするから、蔵一杯の品の中から買い取りは一点だけとなったり、もっと悪くすれば、何も無しという事だって有り得る。

 実は安西氏は見立てなどせずに、出されてきた物を丸ごと買い取っているのではないだろうか。それならここに、彼の気配を感じられないことも納得がいく。

 しかし、何故そのような買い付けの仕方をするのだろう?何の利点がある?

 臨時雇いとは言え、一度に四人も雇える位に羽振りが良いとなれば、それなりの固定客も付いていて、それなりに格のある店を経営しているはずだ。それならもっと、厳選した見立てでもって買付をするものではないのか?考えれば考える程に、疑問が湧いてくる。

 次々と湧いてくる疑問をあれこれ吟味しながら、機械的に作業をこなしている内に今日の日は暮れた。

 他の面々は駿太郎の予想通り、自分向きの座を見つけて作業に取り組んでいたようで、今日も店仕舞いとなった時点で誰も昨日ほど疲れた顔はしていなかったし、それどころか、活発に安西氏に小売りの交渉を持ち掛けていた。

 安西氏は案外に快く応じているところを見ると、業者相手の商売もしているようだ。

 それで、ああいう買い付けの仕方になるのか?

 古道具屋と骨董屋。似たようでいて、それでも、やっぱり畑は違う。常次郎には急場の言い訳として、他の店で“勉強”している様な事を言ったが、本当に勉強になっているかも知れない。

 今日の分の日当を受け取って外に出ると、暮れ色と言うにはまだ闇が浅く、吹く風も柔らかかった。

 ふッと思わず、ため息とも何ともつかない息が漏れた。

これから家に帰ったとして、居候はまだ駿太郎の家の方に居るだろうが、小夜子が話し相手になるはずも無く、チマを相手にいつまでも一人で喋って居られるわけでもない。知らず知らずのうちに物思いに耽ってしまわないように、どうやって気を紛らしたら良いものか。どの家もそろそろ夕餉の仕度が始まる時分だから、常次郎のところに行くのも気が引ける。

 望月家は―…。

 あれ以来、駿太郎の中では一種の鬼門となっている。記憶の端切れのようなものをチラリを思い出した事で、何故これほど怯えた気持ちになるのか、駿太郎自身にも分らないのだが、一切を不問として考えないようにしている。いずれこの気持ちが薄れていけば、また以前のように顔を出すことも出来るようになるだろうし、それまでは何も考えたくないし近付きたくも無かった。

 更科の前を通った時、ふと「酒」という字が思い浮かんだ。

 駿太郎は一人で飲む酒を楽しいと思ったことは無い、しかし、誰かが一緒だったらどうだろう?まだ少し明る過ぎる時間帯だが、そんなことは全く気にかけずに、誘いに乗ってくるだろう人物に心当たりがある。


 飲み処を覗いて回って、三軒目で源信を見つけた。

 先に家の方を訪ねたら、すでに“出陣”した後と知れたが、まだ日も暮れ切らない内からもう上出来な様子だった。

 「おお、青蛙堂じゃないか!こっちへ来い、こっちへ来い」空いている腰掛けの座面を叩いて大騒ぎである。これで医者としての腕は悪くないと言うのだから、人は見かけに寄らないものである。

 「今晩は」源信の差し向かいに座っている、代筆屋の内村が駿太郎に挨拶をした。

 確か、酒を飲み過ぎると落とされる地獄も有ったような気がするが、違ったか?違ったとしても、今目の前にしているのは、閻魔に詮議されている飲兵衛の図以外では無かった。思わず小さな笑いが漏れた。

 「何だあ、何がおかしいんだ、蛙の分際で?」

 「いえ、お二人は飲み友達で?意外な取り合わせだったもので」

 「選べるものなら、絶世の美女ばかりを選んどるな。コイツは私の患者だ」

 「あたしは腰をヤッてるもので、先生にはお世話になっております」

 「日がな一日座ってばかりいるから、そういう事になるのだ」

 「しょうがないですよ先生。あたしは職業柄、座っているのも仕事の内なんですから」

 「言っておくがな、いくら湯に浸かったところで、ふやけるばかりで腰は治らんッ」

 「はいはい、分りましたよ先生。この次は先生も連れて行きますよ」

 「何、それは誠か?それなら少しは出湯の効果も出るかも分らん」

 自分の患者をこいつ呼ばわりするし、言っている事も無茶苦茶で、とてもまともな医者の言動とは思えない。とは言え、源信の酒は、湿ったところの無い明るい酒だ。一緒に飲んでいる間中、軽快でとんちんかんな掛け合いが続いた。

 「そう言えば、古道具屋さん。屋号が有ったとは存じ上げず、今まで大変失礼致しました」

 源信を自宅に送り届けた後、帰る方向が途中まで一緒なので内村を同道していた。

 「ああ、源信先生の言っていたあれですか?あれは先代の時にそのように呼ばれていたみたいですが、今は特に屋号はありませんよ」

 「そうですか、なら安心しました」内村も見かけに寄らず、大人しく礼儀正しい人物だった。「ところで、つい昨日環から手紙が届きましてなあ。古道具屋さんに見繕ってもらった飾り物は、えらく評判が良いみたいですよ。改めてお礼を申し上げます」

  駿太郎には特に見繕ったという覚えはない。代筆屋から使いに寄越された小僧の持って来る書付の、やけに細かい指示を見て、適当に選んだ物を持たせて帰していただけだ。そして、評判とはどういう事か。

 「環さんは今どちらに?」

 「これは失礼。あたしが留守の間に買い集めさせておいた飾り物を、郷里に届けさせたんです。アイツは今そこに居ます」飾り物を注文していたのは閻魔だったとは。駿太郎は幾重にも環を誤解していたらしい。「あたしの実家は温泉宿を営んでいましてね、湯治と言ってもほとんど里帰りが目的なんですわ。それで、この前帰った時に相談を持ち掛けられまして。何でもこの頃の客は出湯の良し悪しよりも、美食だとか、洒落た座敷などで宿を選ぶんだそうです」

 そこで思いついたのが、少しでも見栄えを良くするために“洒落た”飾り物を座敷に置く事だった言う。

 「特に女客の評判が良いそうです」

 ああ、何となく分かった。環は代筆屋にたむろしていた女客に、お伺いを立てていたに違いない。後から知った環の性格と、書付の細かい指示とが結びつかない。

 「それは良かったですね」

 「それはそうと古道具屋さん、この頃何か有ったんですか?替えの硯がもう一石欲しくて、あちこち見て回っておりまして、お宅にも何度か立ち寄ったんですが…」

 いつも店が閉まっている。「まあ、少々訳が有って忙しくしていまして。宜しければ、これから見に来ますか?」明日も引き続き安西氏の手伝いで、店を閉めて家を空ける。

 「おや、これは可愛らしい!」硯の棚に案内する前に、内村から感嘆の声が上がった。

 駿太郎は奥の間から飛び出して来たチマの事だろうと思ったのだが、内村の顔はがらくた箱の方を向いていた。

 「これなど、特に愛らしい」がらくた箱の中から、まさかの油壺が取り出された。

 「ですか、それ。ウチの奉仕品ですので、良ければ差し上げますよ」

 閻魔は相好を崩して喜んだ。

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 居候の不在に気付いたのは、朝になってからだった。

 茶の間の卓袱台の上に、昨夜の夜食用に拵えたのだろう、味噌を付けて焼いた握り飯の皿に添えて、書置きがあった。

 おそらく昨日の昼間に、代理の者か、或いは音在氏が直接来たのかは分らないが、誰かに“火急の”要件を伝えられて、小夜子はひねもす堂へ出掛けているらしい。

 久し振りに、一人の朝飯だ。握り飯を椀に移し替え、ほうじ茶を注いで掻っ込んだ。

 茶の間がやけに広く感じられる。

 どのような相手であれ、居ると居ないとでは、見える景色も大きく変わるようだ。

 あっという間に食事を終え、「ご馳走様でした」空になった飯椀に向かって、駿太郎は手を合わせた。


 仕分け作業は、昨日であらかた片が付いている。今日からは、手の付けられる所からぼつぼつ、梱包作業も進めていく事になった。

 荷造り作業とは端から見れば簡単そうに見えるが、得意とする者とそうではない者とに、はっきりと分かれる。駿太郎は後者の方だ。人の邪魔にならないよう、隅の方へと除けていくうちに、自然と安西氏をけて作業をするような形となった。安西氏は仕分けの時からもずっと、本堂の隅に陣取って一人黙々と作業を続けていた。

 「鮮やかなものですね」無駄な隙間を作らずに、箱の中に次々と品物を嵌め込んでいく安西氏の手つきに、駿太郎は賞賛の声を上げた。「コツの様なものはあるんですか?」

 「さぁねえ。考えたことも無いから、慣れと言うヤツだろうな。次は…そこの、ソイツを取ってくれ」先ほどから、安西氏の指し示す品物を、駿太郎が床から取り上げて手渡すという作業を繰り返している。「次はそっちのそれ」

 「…―!」手に取った後からその気配に気付いて、危うくそれを取り落としそうになった。「済みません。手が滑りまして」駿太郎は左右の前腕の間に挟み込んで受け止めたそれを、そのまま安西氏に差し出しながら詫びを言った。

 安西氏は特に何も言わずにそれを取り上げて箱に詰めた。

 駿太郎は箱の中に収められたそれを、もう一度だけ覗き見た。

 箱に詰める際に、安西氏が手早く薄紙に包み込んでいるから、直接それを見ることは叶わなかったが、微かに薄紙の擦れる音は聞こえてきた。

 金漆きんしつ塗の金属に似た光沢を持った印籠と、同様の仕上げを施された蛇の根付ねつけ

 駿太郎がそれを手に取った時、根付の蛇がとぐろを解いて伸び上がって来た。深く切れ込んだ蛇の口中には牙も舌も揃っており、気づかぬままであれば、指先を食い破られていたかも知れない。そう思わせるほどに、険しい気配を感じた。

 あんな物が混ざっているとは。

 安西氏に告げたものか、どうしようか。

 「良し。この箱は今のところ、ここまでだ。次はそっちの箱を詰めるぞ」

 安西氏に促されて次の箱に移った。

 次は小間物の、くしかんざしこうがいに化粧道具。駿太郎の店ではあまりお目にかからないような品々だ。安西氏に指示されながら、一つ一つ丁寧に薄紙に包み込んでいく。今駿太郎が手に取っているのは、安西氏が一人で仕分けていた品々だから、目にするのは初めての物ばかりだった。そしてこれらには、厳選された物という印象が有った。

 あらかじめでり分けておいて、然程さほどでもない品を他人に任せるというのが、安西氏のやり方なのかも知れない。

 「あんた、古道具屋だったけな。どうだい、この辺の品を扱うような事はあるかい?」

 「まれには。でも女物の品は、私にもよく分らないので、知り合いの骨董店に丸投げしています」

 「そうかい。こいつらは使いようによっては良い稼ぎになるぜ」

 「はあ」

 包み終わった小間物を、これも商い物のはこのなかに収納していく。それから、その匣を梱包する。「こうすれば、荷物を一つ減らせるからな」

 匣は数点有り、元の用途が何かまでは知らないが、それぞれに意匠が凝らされていて、眺め渡すだけでも面白い。と、その中に一点だけ、絹と見える布に包まれた匣が有った。ただそれと認めただけで、駿太郎は何故かぞっとして総毛立った。

 それが何かは知らずとも、直感が“これは不味い”と告げている。「あの、安西さん」

 「どうしたね?」

 「そこの、一つだけ包んである匣ですが…」

 「あーあ。あれは譲れないぜ」

 「ああ、いえ。そうではなく」さっきの根付といい。何と説明したら良いんだ。「あれは多分、身近に置いといてはいけない物だと思いますよ」

 「そりゃあ、また、何でかね?」

 「何で、でもです」ままよ。「それから、さっきの蛇の根付の印籠もそうです。あれも自分で持つのも人手に渡すのも、さわりのある品だと思います」

 安西氏はしばらく何も言わず、駿太郎の顔をつらつらと眺めていた。「へぇ。言い当てたねぇ。そう言えば、お化け屋敷はこの近辺に在るんだったっけな。あんた、もしかして、そこに何か係わりのある人かい?」

 「お化け屋敷?」

 「ひねもす堂っていう、結構有名な骨董屋だ。あそこには、そこに有るもんなんて、まるで目じゃねぇような代物がごろごろして…、おや、そこまでは知らなかったってわけか?あそこの主人もなかなかの狸だからな」

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 「…うーっ!」

 固くて動かなくなった引き戸を、それでも前後左右に揺すりながら、どうにかこうにか横向きでなら、すり抜けられる位にずらせる事は出来た。

 「こらぁ、早いところ大工を呼んだ方が良いぞ古道具屋」敷居をしげしげと覗き込みながら植木屋が言った。「二人掛かりでこれっぱかししか開かないんだ、だいぶん建てつけが狂ってきてるんだろうよ」

 駿太郎が久し振りに店を開けようとしたところ、玄関戸が開かない。内からが駄目なら、外からと、店の前で難渋しているところを、通りがかりの植木屋が手伝ってくれたのだ。

 「ここまで開けたは良いが、今度ぁ閉まらないだろう?ついでだから、今日中に来てくれるよう、俺から棟梁に声を掛けておくよ」

 結局、玄関戸は取り外しておく事となった。

 確か、一昨日おとついまでは支障は無かった。居候が居なくなった頃だ。構う人間が不在となったから、この有様なのだろう。

 命の有るわけでもない“モノ”が、割と好き勝手に振る舞っている事については説明も付かないし、誰も信じないだろう。しかし、誰も住まなくなった家の屋根が、僅かな時間で朽ちて自然に崩れ落ちる事については、同じく説明が付かないにも拘わらず、誰もが経験的に知っているという理由から、広く世間に容認されている。

 家は「建物」、“モノ”の範疇に入る。モノの一番の不思議は、人と係わる間は生きているように見え、人との係わりが切れると死んでいくように見える事だと、駿太郎は思う。

 先日、この不思議を説明する必要の無い人物に初めて出会った。

 「どうだい古道具屋さん、ここには他にも“掘り出し物”は有るかい?」

 掘り出し物?「いえ、他には特に無いようです」

 「そうかい。まあ、そんな気はしていた。総浚そうざらえしても、そんなところだな」

 安西氏は自分のを頼りに“掘り出し物”を引き当てるのだと言った。「ピンと来たら、総取りに買い取って、後でその中からお宝を探し出すんだ。ま、カンだから、当たる事も有れば外れる事も有る。けどな、さっきの、あんたの当てた匣だけは違う。あれは一目でこれだと思ったから、一点買いで済んだ。ありゃア、相当なモンなんだろうな?」

 安西氏が何を目当てとして、「相当」の基準の決めているのかは分らない。駿太郎としては相当に危険な物という意味で「そうでしょうね」同意した。

 「さっきも言ったが、ああいうのは使い処によっていい金になるんだ」

 他人のやり方が自分の気に食わないからといって、口を出すわけにはいかない。釈然としない気持ちは自分の内に留めて、昨日ようやく安西氏の仕事から解放された。

 今日はどこからも、駿太郎にお呼びは掛かっていない。

 常次郎の言う“日銭”をいくら稼いでもらちも無いことは自分でも重々分っている。飽くまでも駿太郎の本丸は店だ。今日は店の手入れをした後、顔繋ぎに常連客を訪ねて回ろうかと考えていた。それが、今日中は店の玄関戸の修理を待つはめになってしまった。

 今日一日、どうやって気を紛らわそうか?

 大切だと思う事は、暦にも大書きする。それでも忘れてしまう事が有る。

 それなのに、嫌だ嫌だと思う事は、どこにも書き留めもしないのに、絶対に忘れない。

 この世は本当に不思議に満ちている。

 駿太郎は取りあえず、必要も無い家中の大掃除をしてみる事にした。

 忙しく立ち回る駿太郎の後を、ちりちりと鈴の音が追いかけて来る。一度暗がりでチマを踏みつけてしまい、鈴を付けてやる事にしたのだ。

 チマには駿太郎が遊んでいるように見えるのだろう。そのつもりになった猫が、物陰に隠れていて急に駿太郎の脛にしがみついてきたり、背中に飛び乗っては爪を立てたりと、ちょっかいを掛けてくる。

 「つっ痛てぇ!勘弁しろよ、チマ」駿太郎は仕方なく片腕に猫を抱え、空いた方の片腕で作業をする事にした。おかげでそれほど広くも無い家の中の掃除に、余計手間が掛かる事となった。チマは満足そうに喉を鳴らしている。

 居候の居る間、ほとんど開かずの間だった物置に、久しぶりに足を踏み入れた。

 きちんと片付いている。居候の来る前からそうだったかどうかは、覚えていない。ふと見ると、小夜子の頭陀袋が、片隅に寄せて置かれたままになっていた。

 と言うことは、居候は一時不在にするとしても、ここに戻ってくるつもりで出掛けたのだろう。実際には既に二日は経過していて、音在氏からも何の連絡も無い。暇を見てひねもす堂に届けてやれば良いだろう。

 それにしても、中身は一体何なのか?以前に俊太郎がちょっと手を触れただけで、居候が目を吊り上げたのを覚えている。最も有りそうな答えは金品なのだが、一度だけ触れた時、指先の感触としては、方形の何か堅い物が入っているようだった。

 と、その時。「御免下さいませ」母屋の玄関の方から、訪う声が聞こえてきた。


 まさかこんな形で再会する事になるとは。

 せめてもの慰めは、通されたのが離れではなくて、居間の方だったことだ。

 母屋から独立した座敷である離れは、戸を立て切られてしまうと、閉じ込められているようで息苦しくなる。それでなくとも充分に息苦しいのだが。

 普段とは見違えるようなあでやかな振袖姿に、思わず息を飲んでから、駿太郎の呼吸はおかしくなっている。意志の力を発動しなくては息も吸えず、吐けもしないような…。

 「おめでたいお話をいつまでも先延ばしにしておくのはどうかと、ずっと思っていましたよ。でも、一度きっかけを逃してしまうとねえ。このところ駿ちゃんも忙しくて、なかなかお家に居ないようだったし」清子の声は相変わらず、明るく辺りを照らすようだ。「それでも、諦めずに待ち受けていれば、その日は必ず巡ってくるものね」声に張りと華やぎが加わって更に明度を増した。

 「聞けばもう既に親しい間柄なんだそうだな、駿太郎?」

 「まあ、あなた。そのような言い方をしては返答に困るではありませんか」

 今日は珍しく望月のおじさんも顔を揃えている、と言うより、必要な顔ぶれが揃ったから望月家に呼ばれたのだ。そして今日は、たまたま駿太郎の身体も空いていた。

 「親しいと言うほどの間柄でもありませんが…」見慣れた相手だから気兼ねはしないというだけだ。「驚きました」

 「それは見れば判るさ、駿ちゃん。さっきから顔も上げられない位にカチカチにかしこまっちゃって、そんなに驚いちゃったんだ?」

 「うるさい、融」睨みつけた先にある融の笑顔は、意地悪気に片頬が歪んでいる。「あ」急に合点がいった。前に常次郎が馬鹿笑いしていた理由。

 「それにしても、きっかけを逃すというのも、それほど悪い事ではないかも知れないわねえ。しっかりとお相手を見定められたでしょう、ねえ美耶子さん?」

 「はい。そうですね、清子様」

 当初予定されていた見合いの席が流れたきっかけは融の急病だったが、予定を変更して一方的な形で見合いが敢行される事となったきっかけは、駿太郎の勘違いだった。

 見合いの日取りよりも早目に望月家を訪れていた篠原美耶子は、行儀見習いのような形で清子の手伝いをしながら立ち働いていた。それを駿太郎が女中の一人と勘違いして気安く接してる様子を見たお玉は、さっそく清子へご注進に及び、更に今回の策略も提案したらしい。

 「いずれにしろ、こうして二人を揃えてみるとなかなか良い取り合わせだな」

 「勿論ですとも。あたしが選りすぐって決めたお嬢さんなんですからね」

 望月氏は実父の如く、清子は実母の如く、それぞれ満足そうに駿太郎と美耶子を見比べては微笑んでいた。

 「それで、結納はいつになるんだ?」

 二人に釣られて微笑んでいた駿太郎の顔が、瞬時に引き攣った。見ると融が必死に笑いをこらえている。

 「まあ、あなたはせっかちですこと。これは商談ではないんですよ」

 「あのっ、俺はもうそろそろ店に戻らないと。いつまでもお玉さんに店番をさせておくわけにもいかないので」言いながら駿太郎の腰はもう浮いている。

 「まあ、まだ良いでしょう。駿ちゃん?」

 「そうだな。いつまでも自分の持ち場を離れているというのは良くない。私もそろそろ時間切れだ」望月氏がサッと立ち上がり、取り出した時計を確認してから元に収めた。「ではな、駿太郎。久しぶりにお前の顔を見られた事も嬉しかった。では、失礼」後のは美耶子に向けられた言葉だった。

 望月のおじさんの後に付き従って、清子も居間を出て行った。

 「じゃあ、美耶子さん。俺もこれで失礼します」

 下げた頭を上げきらぬうちに美耶子に背を向けて、駿太郎はそそくさと居間を後にした。融が後を付いてくる。「つまんないな。駿ちゃん、もう逃げ帰っちゃうんだ」

 「今日は本当に店を閉められないんだ。お玉さんに客の相手までさせるのは忍びない」

 「ふぅん…。分かったよ。じゃあね、駿ちゃん」

 融向きの話題ではないからだろう、あっさり引き下がって駿太郎を解放してくれた。


 駿太郎が店に戻ると、修繕の済んだ玄関戸と、眉を八の字に寄せたお玉が待っていた。

 「駿太郎さん!もしも、ご自分から奥様に言い辛いのであれば、このお玉が駿太郎さんの力になりますから、安心して下さいな!」

 「はっ?」

 謎の気合を込めて詰め寄るお玉に、駿太郎の眉まで八の字になり、眉間にしわが寄った。

 お玉は鼻からフン!と力強く息を吐くと、何やら駿太郎の鼻先に突き出して見せた。

 素材は鼈甲だろう、とろりとした艶の有る飴色に、それよりも少し淡い色のの入り具合が絶妙で美しい。ただ、形状としては不格好な気味がある。烏賊いかの耳の部分と足の部分が直結しているような、頭でっかち尻すぼみ。それでも、烏賊の耳に当たる部分には壮麗とも言える繊細な唐草模様が空き彫りにされていて、思わず見惚れてしまった。

 「これが?」

 「これはスペイン櫛ですッ。近頃若い娘さんの間で流行はやっている。駿太郎さんのお店には絶対に有るはずの無い物が、どうして有るんですか?もし、駿太郎さんにはもう、心に決めた方がいらっしゃると言う事ならば、このお玉に、正直に仰って下さいませッ」

 一応、居候も若い娘だった。アイツの持ち物なのか?あの散切り頭には不要な物だろうに?今朝掃除した時に、そんな物有っただろうか?様々な考えが一気に頭の中を駆け巡る、がどれも駿太郎自身の疑問の域を出ない。今必要なのはお玉の疑惑を解消する答えだ。

 「えっと、その…」病気らしい病気もした事の無い駿太郎のみぞおちに、キリキリとした痛みが走った。「お玉さん、それはー…、そう!小梅さんのですよ。多分、きっと」本当のところは駿太郎にもよく分らないが、これが一番、そうな答えだ。

 「小梅さん?」駿太郎の顔をしげしげと見詰めながら、お玉はしばし沈黙した後、やっと眉を開いた。「あぁら、いやぁだ!アタシったら、変な誤解をしちまったんですねェ。まあ!小梅さんなら、若向きだろうが何だろうが、流行物はやりものを見逃したりしませんものねぇ」

 お玉は何事も無かったかのように、あれこれ陽気に喋りながら駿太郎の為の夕餉の仕度を終えると、望月家に帰って行った。

 ちりりと鈴の音がした。

 開け放された物置の中から外へ、外から中へと行ったり来たりしながら、チマが戸口の柱に背を擦りつけている。人見知りの猫は、お玉がいる間中物置に潜んでいたのだろう。

 「良し良し、そこに隠れていたのか?おまえにも飯だな」小さな猫を抱き上げながら、何とは無く物置の奥の鴨居に目が行き、心臓が跳ねた。

 鴨居に引っ掛けられた衣紋掛えもんかけから、明らかに女物の衣類がぶら下がっている。

 但し駿太郎はその名称を知らないばかりか、見るのも初めてで、寸法から見て女物と判断しただけだ。居候が身に着けていたとすれば、人目につかない衣服の下?…。

 最悪だ。目聡いお玉が、あれに目を留めなかったわけがない。

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