第4話堤長うして家遠し

 しばらくの間お互いに言葉も出ず、互いに睨み合っていた。

 「それにしても酷いナリだな」口火を切ったのは駿太郎の方だった。

 痩せて小柄な身体には不釣り合いなシャッにズボン、型の崩れた背広。

 「古着屋の有り合わせだ、贅沢は言えない。それに家出するのに着飾る馬鹿は居ない」

 これで家出人であることは判った。

 「それにその頭…」駿太郎がはなっから少年と思い込んだのは、男のように短く切られた髪のせいだ。「髪は女の命とか、よく言うだろう」

 「邪魔だから切った。放っておけば、また勝手に伸びる。そんなトカゲの尻尾みたいなもの、命でも何でもない」

 「…」駿太郎は文字通り閉口してしまった。これまでこんな口のきき方をする婦女には出会ったことが無い。「お前、本当に女なのか?」

 「さて、正体もばれてしまったことだし、このへんでおいとますることにしよう」抱えていた炭俵をつと足元に下すと、くるりとこちらに背を向けた。「ああそうだ」行きかけて、ふと立ち止まった。「夕餉はもう出来ているから鍋を火に架けて温めなおせばいいだけだ」

 駿太郎はほっと息をついた。そうだった、こいつには一日半でも、賄いを任せていい程の料理のたしなみがあった。多少変わっているにせよ、女に違いない。

 「行くあてはあるのか?」

 「心当たりがない訳じゃない」

 「ここから近いのか?」

 少年(やっぱり女には見えない)は振り返って眉をひそめた。

 「夜中に外をほっつき歩いているのは物盗りばかりじゃあないぞ。人さらいだって居ないわけじゃない。勝手に家を飛び出してきたヤツなら、連中にはいいカモだろう。何せ足がつきにくい。サッサとどこかに売り飛ばしてしまえばもっと安心だな」

 少年は無言でジイッと床を見つめ、逡巡し始めたのが分かった。

 「出て行くのはお前の勝手だが、それは明日にしろ。急いだからって何か変わるのか?どうせなら、おもてが明るくなってからどこへなり、心当たりの場所へ行けばいい」

 少年は返事をする代わりに無言で夕餉の膳を整え始めた。

 駿太郎の膝に上り込んだチマが満足げに喉を鳴らしている。

 こいつが化けた方がまだしも可愛げがあるだろうな。猫の顎の下を撫でてやりながら駿太郎は、ぼんやりとそんなことを考えた。


 これはひょっとすると、非常に不味まずい状況なのではないか?と思い始めたのは、母屋よりも広い物置に床を延べて横になってからだった。

 何故、自分の家なのに遠慮して物置なんかに床をとらなくてはいけないのか。それは同じ屋根の下に、家族でも何でもない若い女が居るからだ。

 相手が未婚だか既婚だか寡婦やもめだかは知らないがともかく、駿太郎が若い女を家に連れ込んでしまった事に変わりは無い。どんな理由があるにせよ、この場合、圧倒的に男の方が分が悪い。常次郎に居候の「い」の字も漏らさなかったのは、今となっては僥倖ぎょうこうである。

 当人が出て行くと言った時に、そのまま行かせた方が良かったのではないか?その方が人目に付かずに済んだではないか。いやいや、手前てめぇが言った通り、世の中は思っている以上に物騒なのだから、これで良かったのだ。本当に何かあった時には一生寝覚めが悪い。くだくだ云々。

 寝苦しい夜は、長いようで開けるのが早い。ほとんど眠らぬうちに空が白んできてしまった。それでも夜明け方と言うのは急に眠気がさしてくるもので、うとうとするうちに勝手の方から物音が聞こえ始めた。まったく、気立てが良いやら悪いやら、さっぱり分らない。

 今朝も昨日と同じく、禅寺の粥座しゅくざ(朝食)のごとく沈黙の中で朝餉を済ませた。

 昨日の朝と何一つ変わらない少年の振る舞いに、昨夜聞いたあの声は空耳ではなかったかと思われてくる。本当は常次郎の清めの酒の誘いに乗って、一杯機嫌以上に酔って帰ってきて…。

 まあ、そんな事はまず有り得ない。

 それでは今朝、物置に延べた床を片付けている理由がつかない。

 お勝手の始末をつけた後、猛然と家中の掃除を済ませた少年は、頭陀袋を抱えて駿太郎のところへやってきた。

 「行くのか?」

 応えは返って来ない。

 無言のまま少年が背を向ける。

 「…。ちょっと待て」

 勝手口の戸をそろそろと開ける。

 右を見る。誰も居ない。良し。

 次は左を…。

 「お早うございます、駿太郎さん」

 頭から氷水を浴びせられたような衝撃が走った。

 「美耶子っ、さんっ?」声が裏返りそうになるのを必死で押さえつつ、声の聞こえた方角をどうにか見定める。「あっ、はっはっ、おはっ、よう、ございます。けふもいひ日和ひよりで」

 「こんなに朝早くに、申し訳ございません」

 相手は駿太郎の挙動不審な様子には全く気付いていないようだ。そこで心を強くして、駿太郎は平静を取りも戻すことに成功した。

 「春掘りが手に入ったので駿太郎さんにも、と清子様が」美耶子の差し出したざるの中には立派な山芋が二本横たわっていた。

 「これは結構なものを。後で改めてお礼に伺いますと、清子さんに伝えてください」

 「あらっ、そちらの方は?駿太郎さんは一人住まいと伺っておりましたが」

 婦女子の目聡さと言うのは、神業である。都合の悪いところを狙いたがわず突いてくる。近所の諏訪神社の神でさえ怖気おぞけを振るうに違いない。

 「ああっ!コイツは小平治こへいじと言って、この二、三日の間手伝ってくれた小僧で…」

 “小平治”は一瞬眉根を寄せた後、素直にぺこりと美耶子に頭を下げた。

 「まぁ、そうでしたの。小平治さん、それはご苦労様でございますね」

 鈍いのか?と思わないではないが、始終もの柔らかい受け答えに、駿太郎は初めて美耶子に好感を持った。

 「コイツには今、お使いを頼んで送り出してやるところだったんです」勢いでの頭をくしゃくしゃと乱す。「それで、融の様子はどうですか?」

 「融様は庭の大楡の樹のことをひどく気にされているようです」

 「大楡?」

 「立派な樹ですのに伐ってしまうんだそうですね。まだお身体も本調子ではないのに、毎日長いこと大楡の樹の下を散策されています」

 そう言えば、そんなことを聴いたような気もするが…。

 そうこうするうちに、無事にの姿も消え、駿太郎の元には二本の山芋だけが残っていた。昨日引かされたくじによれば、俊太郎の出番は13番だ。奪衣婆のところへ出掛けていくのは八つ時やつどきで充分に間に合う。届け物も二、三あるから、それを片付けながらのんびり行けば、時間もつぶれてちょうど良いだろう。


 いつもなら単純に道順を追って訪問先の順番を決めていくところだが、最初から終着点が決まっている以上、今日に限っては念入りに吟味する必要がある。

 例えば橋元の棟梁とうりょうのところ。話し好きの好人物だが、訪うごと毎度思いのほか長く引き止められるのが困りものだ。近頃は俳句にりだしたとの噂も聞くから、捕まったが最後だろう。それは御免こうむりたい。さすれば今日は、棟梁が湯に出掛ける頃合いを狙って行くのが得策か。近所のご隠居連中と、飽くまで一番風呂をり合っている棟梁だ、その時分になればスッパリと解放されるに違いない。それから次の難物と言えば…。という具合に熟考を重ね、駿太郎は万難を排した順路を考え出した。はずだった。

 過去から学び、未来の予測を立てるということは、決して愚かな方法ではない。それどころか、ごく一般的な手続きと言えるだろう。駿太郎の考えが足りなかったり、詰めが甘かったりしたせいではない、現実の方が奇想天外過ぎたのだ。


 いつもはろくに口もきかないお花の先生のところへ竹花入を届けに行くと、日頃は毅然きぜんとしている老婦人が半狂乱になって泣き騒いでいる。理由を問えば、「火鉢が急に割れちゃったんだよッ!」絶叫でもって返事が帰って来た。見れば、どうすればこうなるのかと感心するほど、一抱ひとかかええもある火鉢が見事に真っ二つに割れている。

 「夜はまだ冷えるっていうのに、それどころか夏だって手足が冷え切っていて節々ふしぶしが痛むんだよ!火鉢が無くっちゃあ、あたしは来年の桜を拝むのだってままならないよ、きっと」手繰たぐり寄せた着物のたもとに顔を埋め、先生はわっと泣き崩れた。

 火急のこととて駿太郎は走って家に引き返し、代わりの火鉢を先生に届ける事となった。


 次は神社の裏手にある長屋のおかみさんに糸巻を届けに行った。何でも自分で決めないと気が済まない性分の割に、なかなか物事を決められない人で、とにかく迷いに迷う。これと決めて買った後にもまだ迷う。今日の用向きは品物の交換である。

 難物の一人としてあれこれ手立てを考えてみたが、こればかりは致し方のないことで、妙案が浮かばなかった。ある程度のお付き合いは覚悟して、とにかく各種取り揃えて箱に入れて持って行ったのだが、今は実家に帰っていて不在との事。

 「実際に使ってみて、いいと思ったものを選り分けてください。残った分は二、三日中に取りに来ますから、差分のお代もその時で結構です」

 少々拍子抜けしつつ、仕立屋の亭主に糸巻の入った箱を預けてさっさと引き上げた。

 一度家に戻っている分、少し時間を食っている。ここでその分は取り返したかもしれない。しかしここは大事を取って、と神社の境内を抜ける近道を使うことにした。すると…

 「…おぉーーい…、おおぉぉーーーい…」

 駿太郎を(?)呼ぶような声が微かに聞こえる。

 あたりに人影はない。

 ひょっとして狛犬こまいぬか?それが本当なら、それは珍しい。駿太郎は今まで、人の手にじかに接することのない物が喋るのを聞いたことが無い。

 残念なことに狛犬ではないようだ。

 こいつでなければ、神とか、か?

 何気なにげに天を仰ぎ見たのだけは、神慮しんりょによるものだったかもしれない。

 屋根の端っこから真っ赤な顔を覗かせた神主が、必死に片腕を振っていた。

 「あああ~、死ぬかと思った」

 近くのくさぱらにうち捨てられていた梯子を架けて神主を助けに行くと、陽にあぶられた瓦屋根はかなり熱を帯びていた。火傷するほどではないにしても、たちまち喉がカラカラに乾いて声が出なくなったのだと言う。

 「ウチの屋根にたこが引っかかったと言って子供が騒いでおりましてなぁ。五、六人もの子供がいつまでも騒いでいるのがあまりにやかましいので、梯子を架けて取ってきてやることにしたんですわ」

 仏頂面ぶっちょうづらの神主が嫌々そうする様子がしゃくに障ったものか、神主が屋根に上ったのを見極めると、子供たちは梯子を外し、歓声を上げてちりぢりに逃げて行った。

 「大人げない所業に神罰が下ったんでしょうな、おそらく」

 神主の懺悔話ざんげばなしまで聞かされて、稼いだ時間がフイになった。

 

 次に赴いたのは代筆屋。その名の通り手紙や公的な文書の代筆をする商売…のはずだが、何故かこのところ細々こまごまとした飾り物の注文が多い。今日届けるのも白磁の小香炉だ。同じ磁器なら筆筒ふでづつの方が実用的だろうに、と余計なことを考えながら、当の代筆屋に足を踏み入れた駿太郎は、その理由を即座に理解した。

 上がりかまちのすれすれ、こちらとあちらの境界のように置かれた文机に、片肘を付いてこちらを向いて座っている男。

 駿太郎が記憶している代筆屋は、閻魔えんまの親戚のような顔じゅう髭だらけのいかめしい中年男だった。しかし今、駿太郎が目の前にしているのは年の頃も体格も閻魔の半分くらい、つるりとした色白の頬には勿論髭など一本も見当たらず、伝説の女形もかくやと思われる美貌の、男なんだか女なんだかよく分らん人物だった。

 横幅一間、奥行も一間(約1.8m)無い店内にはぎっしりと、老若取り混ぜた婦女子で混雑している。

 そうと分って店内を見回してみれば、無意味に洒落た装飾品が所狭しと置かれていた。

 ここの注文は見合わせた方が良い。どうせ長続きしない。

 決然と店を出て行こうとする駿太郎の背に浴びせられたのは、「ひょっとして、駿さんかい?まぁ、よく来ておくれだねぇ」妙に艶っぽく、不穏に心地のいい低音だった。

 その瞬間、一斉に部屋中の女達の視線が駿太郎に突き刺さった。視線で人を殺せるのなら、駿太郎は百八回以上は死んでいるだろう。

 人垣を掻き分けて男なんだか女なんだかよく分らん人物がいそいそと近寄って来る。

 「古道具屋の駿さん。噂通りのいい男なんで、すぐに分かりましたよ」

 噂?

 店の中に知った顔は無い。それに“駿さん”なんて呼ばれようも、今が初めてだ。誰がどこで、一体どんな噂をしているのか見当もつかない。

 「えーと…。もしかして、あんたとはどこかで?」

 「お初にお目にかかります。アタシはここの主人の甥っ子のたまきと申します。叔父はここしばらく湯治とうじに出掛けておりまして、その間の留守をアタシが預かっている次第で。古道具屋さんのお噂は叔父の方からかねがね…」

 「はぁ」

 代筆屋との付き合いなど店先で二言三言、話すか話さないかだと思っていたが…。

 不意にキュウッと手を握られて、駿太郎の全身が粟立った。

 「大ッきい手だねェ。古道具屋さんはさぞ、力仕事も多いんだろうねえ」何がおかしいのか、くふふと小さく含み笑いを漏らしながら、握った手を更に両手に包んで撫でさすり始めた。

 その後は何がどういう経緯いきさつで進行したのか、よく覚えていない。

 気がつけば、そのまま持ち帰るつもりでいた小香炉は取り上げられ、お代の方は今持ち合わせが無いからと、次に“逢う”約束まで取り付けられて代筆屋を後にした。

 一気に百年は年を取ったような気分だった。

 今日はもう、商売に振り向ける気力がほとんど尽きてしまった。

 どうにか気を取り直してもう一軒行くとして、ここから一番近いのは橋元の棟梁の家だが、湯屋の開く刻限にはまだ大分時間がある。少し考えを巡らせただけで残りの気力が干上がってしまいそうだ。

 駿太郎の心づもりとしては、早く用件の済む家と、少し手間取りそうな家とを一組として都合三組、六軒回る計画だった。それが半分回っただけで、へこたれてしまうとは。

 「あの、駿太郎さん?」

 一瞬、“駿さん”と呼びかけられたように勘違いして、身体が強張った。が、しかし、今のは間違いなく低音ではなく高音だった。

 美耶子が不思議そうに駿太郎の顔を見上げていた。

 「お昼前から何度も家の前を通られますのに、一向にこちらにお寄りになる気配も無く通り過ぎて行かれるのが気になって、ずっと外を見張っておりました」

 何度も同じ道を通る…。確かにそうだ。今も気がつけば望月家の門前に居る。

 駿太郎の立てた計画とは、案件を処理する為の所要時間だけを気にしていて、距離と言うものを一切無視している。移動することに要する時間も、そしてその為の労力すら含まれていない。どおりで足が棒のようだ。つまりは、元々無茶な計画であった可能性もある。

 無茶をしていたのなら、半分の行程で音を上げたとしても無理からぬ事だったのかも知れない。

 「何だか、酷くお疲れのご様子でいらっしゃいますね。宜しければ、これを」

 「キャラメル…!これはありがたい。どうも、頂きます」

 蠟引ろうびきの小さな紙に包まれた、更に小さな四角い菓子を口に含むと、ほんのり香ばしく優しい甘みが口いっぱいに広がった。懐かしい味だった。

 「駿太郎さん!?あれっ!」

 急に切迫した調子に切り替わった美耶子の声に驚いて、その目線の先を追うと、目立たない色合いの服装をした男が四、五人で一人の小柄な人物を取り囲んでいた。

 遠目とは言え、今は見慣れたちぐはぐな扮装。あれは小平治(仮名)に違いない。

 特に理由は無い。理由をつけるとすれば、多分、状況を整理したくて、なじみのある美耶子の姿を確認したかっただけだ。

 美耶子がスウッと大きく息を吸い込む様子を見ていた。

 「あああーーーーれえぇーーー人攫ひとさらいでございますうぅーーーっ!どなたかッ、どなたかあぁーーーっ、お助け下さいましいぃーーーーーーーーーーっ!!!」その優しい姿からは想像もつかないような大音声だいおんじょうで呼ばわった。

 時ならぬ女の悲鳴に、隣近所の家と言う家の戸が開け放たれ、男達が飛び出してきた。

 皆が一様に駿太郎をねめつける。

 見知った顔を確認したところで、怪訝けげんそうに美耶子に目を移し、「あれにございます!」その指差す方に目を転じると、一斉にまなじりを逆立てた。

 「何かと思えば、こんな真っ昼間っから、大の男が寄ってたかってそんなヒヨっこ相手に何をしていやがる!」ときの声を上げた男達の群れが、波を打って同じ方向に動き始めた。

 小平治を取り囲んでいた男達が、異変に気づいてすくみ上がるのが見えた。

 それはそうだろう、見ているだけの駿太郎でさえ足が震えた。それで、美耶子に負けないくらいに声を張り上げる為には、しこを踏まなくてはならなかった。

 「小平治ッ!今日は暮れ六つ頃には帰るからなあぁぁっ!!」

 聞こえたかどうかは分らない。明後日あさっての方向に一人で逃げていく小平治の姿を確認しただけだった。

 「美耶子さん、その、アイツの為にありがとうございました」

 「いいえ。あの方、どこか融様に似ていらっしゃるものですから、放っておけなくて。どこか…、寂しげなところが少し」

 こすられているわけではないのは分っているが耳が痛い。もう少し頻繁ひんぱんに望月家に顔を出すようにしなくては。

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「こちら方は青蛙堂せいあどうさんと言って、日頃から懇意にさせて頂いております」

 それらしく威儀いぎつくろいつつ頭を下げながら、言葉とは恐ろしいものだなと駿太郎は思った。正確なことを言わない代わりに、嘘も言っていない。結局は相手の受け取り方を、言葉の使い方によって旨く導くことで如何様にもなると言うことだろう。

 「音在おとざい先生のご同業の方?」

 「さようでございます」

 ゆるりと応えるひねもす堂の主人の様子には、なんら悪びれるところもなく、事が露見した際を気構える気配も無い。

 まあ、これから悪事を働こうというのではないのだから、あのくらいの気楽さで居てもいいのかもしれない。


 中途半端に空いてしまった時間を望月家で過ごしても良かった。

 しかし、今日の半日をことごとく不測の事態に費やした駿太郎としては、残り半日は手堅い方を選びたかった。多少待たされるぐらい何ほどのことか。それは今日初めての大当たりを引く判断となった。

 「おやっ、駿太郎さんではありませんか?」

 奪衣婆の屋敷の前でひねもす堂の主人とばったりと出くわした。

 「ひねもす堂さんもガラクタ掃除に呼ばれたんですか!?まさか!」

 「ガラクタ…、掃除ですかな?」少しの間考えを巡らせたひねもす堂の主人は、ほんのりと苦い微笑を浮かべた。「珠代さんも、なかなか抜け目のない方でいらっしゃいますからねえ」

 「…タマヨさん…、とは?…ひょっとして奪衣婆ッ!?」口に出してしまってから、駿太郎は自分の軽薄さを恥じた。目上の人の前で他人をあだ名で呼ぶことは、決して行儀の良いことではない。

 「これは旨いことを仰いますね。言い得て妙とはこのことでございましょうねぇ」

 ひねもす堂の主人の見上げた先には、「佛具ごしき屋」の看板が下がっている。

 今は亡き川向こうのご隠居の家業は仏具店だ。

 「いえ、これは私が言ったんじゃ、ありません」慌てて否定する。仏具店のおかみさんが奪衣婆とは、これは冗談にしてもキツ過ぎるかもしれない。「誰が言い出したのかは忘れましたが、この近辺の同業の連中にはすっかり広まったでしょうね」

 「わたくしも気に入りましたよ。その、奪衣婆とやらが」

 それから、ひねもす堂が呼ばれている“遺品整理”に同席しないかと誘われたのだ。

 「しかし、私はの方ですし、私がくっついて行ったりしたら、ひねもす堂さんの心証も悪くなるのでは?」

 「ご心配はご無用。わたくしが望んだことで、その結果何が起ろうと、それはわたくしが引き受けることでございます。そんなことよりも、ごしき屋さんのご隠居はかなりの目利きで、滅多には見られない逸品が揃っているとの評判を耳にしておりますよ。駿太郎さん、ご覧になりたくはありませんか?」


 「音在先生の親しいお知り合いと言うことであれば、信頼できる方なんでしょうね。よくいらっしゃいました、本日は宜しくお願い致しますよ」

 奪衣婆こと珠代はにこりともせずに、ひねもす堂の主人と駿太郎に茶菓を勧めた。

 見るからに高価そうな干菓子が供されているが、表情の無い木石のような人物から勧められると黄泉戸喫よもつへぐいのようで、とても口にする気になれない。口にしたが最期、この世に戻って来られなくなる。

 それは言い過ぎだ。

 重々分っているが、どうしても心はそちらに引っ張られてしまう。

 ひねもす堂の主人がどう感じているのかは分からないが、そちらも出された茶菓に手をつける気配は無い。

 「おや、お口に合いませんかね」

 「先ほどから勝手に拝見しておりましたが、そちらのお作は大変なものでございますねぇ」

 何代も続いている老舗仏具店にしては、簡素と言うよりも殺風景と評した方が当たっているような貧寒とした奥座敷の中で、ただ一点の色彩を添えているのは、地獄絵図を描いた一帖の屏風だった。仏具屋にふさわしいと言えば、…ふさわしいのか?

 「ああ、それですか」にわかに木石の顔にヒビが入る。あれが笑顔なのだろう、多分。「それで、如何ほどの値がつくものなんでしょうかねぇ?」

 「さて、あたいを付けるにしても、難しゅうございまして。わたくしが拝見します限りでは腕の確かな絵師の手によるものかとは思われますが…」

 「無名じゃ、安く買い叩かれるってェことですか」皆まで聞かず、ひねもす堂の主人の言葉にかぶせるように珠代が詰問する。

 「そうではございません。歴史的価値というものが付けば、さらに価値が上がると言うお話でございます」ひねもす堂の主人は鷹揚に応える。

 「それは…どういう…?」

 「古い物の場合、保存状態が良い物であれば、もっと良い値がつくかも知れないと言うことでございます。珠代様のご存じの限りでお話を伺いたいと存じますが、宜しいですかな?」

 珠代は居住いを正して大人しくなった。

 一流とはこういうものか。駿太郎は感心しながら傍観していた。

 とてもじゃ無いが、自分はこんな風には立ち回れないだろう。

 「その屏風については創業の頃、初代の頃から在ると聞かされておりますので、少なくとも三百年は経っているものです。それで、それだと幾らの値が付くんです?」

 ご隠居の遺品整理ではないのか?

 「ほぅ、それは家宝とも言えるお品でございますね。しかし、わたくしは先代の遺品整理と伺っておりましたが?」

 「わたしは、この店を閉めるつもりでおります。ですから先代に限らず、代々の当主の遺品の整理も望んでおります」

 それからはごしき屋の使用人が一つずつ、奥座敷に“代々”の遺品を運んできては鑑定し、それが終われば次の品という手順が繰り返され、珠代とひねもす堂のやりとりは屏風の時と似たり寄ったりで進行していった。

 運び込まれる品はどれも、確かに一見の価値有る品には違いないのだろうが、芸術品の鑑賞と言う世界からは遠く隔たっていた為に酷く味気ない印象しか残らなかった。


 「今日は眼福がんぷくを得るなどとはほど遠く、駿太郎さんには却って申し訳ないことを致しましたね」

 「相手が奪衣婆では仕方ありませんよ、ひねもす堂さん」

 既に日はとっぷりと暮れ、正確には何時なんどきと分らなかったが、そろそろ二更か三更にでもかかるのではないかと思われるほど、疲れても居たし、腹も減っていた。

 長時間引き止められたのだから、食事が出なかったわけではない。しかし、食事が供されたのがかの奥座敷で、地獄絵図の屏風の前ともなると、おいそれと手を付ける気にはなれなかった。唯一、とっくりと鑑賞できた眼福が地獄絵図とは、何とも言いようが思いつかないが、あれは本当に“大変なもの”に違いなかった。

 針山血の池その他様々に責苦を受けている亡者達と、そして地獄の沙汰を行使している獄卒達は沈黙していたが、地獄に燃える不滅の炎はちらちらと揺れ、金臭い匂いや、その他細かいことは一切考えたくもないような異臭が、屏風の絵の世界から漂い出て来ていた。あれを描いた人物は、確かに地獄を見たのだろう。何を疑うことなく、そう信じられる。

 世の中にはああいう物も在ると言うことも然ることながら、それを平気で所持している人間が居るのも驚きだ。駿太郎としては珍しい物が見られたことで満足していた。

 「それにしても、お腹は空きませんか」ひねもす堂の主人も出された食事にはほとんど手を付けていなかった。「私はもう倒れそうです。そこの更級で蕎麦でも?」言いかけて、チカッとひらめくものがあった。「あ」

 「どうなさいました?」

 大切なことを忘れていた。

 「チマ」

 「ちま?」

 「隣人から預かっている猫です。いい加減食事を与えなくては」


 「すみません、猫一匹のことで。家はすぐそこで、ちょっと行って来ますので先に行っていてください」ひねもす堂の主人と別れ、一人我が家の方へと急ぎ向かった。

 玄関の引き戸を開けても予想していたような反応は無く、家の中は妙に静まり返っていた。家全体が息を潜めているかのようにしんとしている。

 駿太郎の住居兼店舗では、こういうことはまず有り得ない。たいていはいつも、家全体が低いうなり声に揺れている。本当に揺れているのではなくて、モノ達が人知れず移動している気配とか、ひそひそと囁いている声がそのように感じられるのだ。それらが一切静まっていると言うことは、何か異変が起こったか、これから起りつつあると言うことだ。あとは、泥棒でも入って家の中の物を一切合財掻っ攫って行ったか…、だがそれは一番考えにくい。

 (仮想の)敵はさっきの玄関を開け閉てする音を聴いていたはずだから、駿太郎の存在に気づいているはずだ。それは分っている。にも拘らず、自然と駿太郎の足運びは抜き足差し足となり、音を立てずに家の中を進んで行った。

 順番としては、まず灯りを点ける。それで何が起こるかは分らないが(何も起こらないのが一等良い。)、もし負傷するようなことが起ったとしても、ひねもす堂の主人は駿太郎がここに居ることを知っているから何とかなるだろう。大雑把に考えをまとめる。

 ギシッ。

 家が静まり返っているだけに余計、床のきしむ音が大きく響いた。と、その時―

 「こぉのっ、小童こわっぱめが、止さんか、離せっ、離せっ、割れるっ!止めんかーーーっ!?」

 思ったよりもすぐ後ろの方で声がした。そしてその声の移動具合で、が上に向かってゆっくりと振り上げられるのが分かった。

 「小平治、やめろ。そいつはお前が思っているよりずっと値打ち物なんだ、もう買い手だって付いている」

 ようやく探り当てた灯りを点ける。いつの間にか家中が低いうなり声を立てている。足元を何か柔らかいものが当たっては離れ、当たっては離れしている。チマが駿太郎の足元と、縄文土器を抱えて座り込んでいる小平治の間を行ったり来たりしながら、せわしげに背中を擦り付けて回っていた。

 「ウチに戻って来たのか」

 「自分の家なら、もっと賑やかに入って来い。泥棒かと思うだろう」

 「灯りを点けておけば泥棒なんか入らない」

 またしても睨み合いとなった。まったくなんて女だ、いや、昨日、当の土器が愚痴っていたように小童にしか見えない。

 “まったく、あの小童ときたら、なよなよとして、手なんか小娘のように柔らかい。あれで有事の折には弓を引けるのか”水で拭かれたことに憤慨して一日中ブツブツとこぼしていた。有事は有るかも知れないが、今時弓を引くヤツは居ないと言い返しても意味は無いので、そのまま言わせておいた。

 馬鹿馬鹿しくなって駿太郎の方から先に睨み合いを抜けた。そんなことより腹が減っていて堪らない。

 「飯はもう食ったのか?良かったらお前も一緒に来い。角の蕎麦屋に行く」

 さっき灯りを点けろと言った手前、駿太郎は普段は点けたことのない門灯を苦労して点けた。

 「ああ、駿太郎さん。灯りを点けて頂いて、本当に宜しゅうございました。更科さんはもう店仕舞いとの事でしたので、それで…」

 ひねもす堂の主人の声がふっつりと途切れた。

 「音在の伯父様」

 急にしおらしく優しい声を発した小平治(仮名)に、駿太郎は目を見張った。

 「やはり、小夜子さんでしたか。わたくしはこれから、こちらの駿太郎さんとお夜食を頂くところですが、小夜子さんもご一緒にいかがですかな?」

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 夜食は、店仕舞い間際の更科が分けてくれた蕎麦を茹でて台所に転がっていた山芋を添えたものと、そしてこれも同じく更級に分けてもらった売れ残りの種物たねものが数種類。考えようによっては、なかなか贅沢な食卓が整った。

 ようやくありついた熱い蕎麦をたぐりながら、言葉とはつくづく恐ろしいものだと駿太郎は思った。言葉遣いが少し改まるだけで、さっきまで小憎らしかった小童がいじらしい小娘に見えてくるのだから恐ろしい。

 小平治こと倉島小夜子が語る家を出た理由とは、次のようなものであった。

 年頃になっても縁談話の「え」の字にすら関心を向けることなく、それどころか、年数を経るごとに抵抗するようにまでなってきた娘に業を煮やした小夜子の父親は、この春強硬手段に出た。親の心配をよそに好き勝手に暮らしている放蕩娘を座敷牢に押し込めて自由を奪った後、勝手に縁談をまとめてきてしまったのだ。

 とは言え、顔も知らない相手に嫁がせるのはあまりにも不憫ふびんである、と言う母親の進言を入れて嫁入り前に形ばかりのお見合いの席が設けられることとなった。

 善は急げとばかりに一番近い吉日を選んで準備を進めている最中さなか、肝心の先方に支障が生じて見合いの話はあえなく延期となり、その後、いつまで日延べするのかを先方の家もはっきりとは伝えてこない。

 無期限に娘を閉じ込めておくわけにもいくまい、という親心の隙を衝き、ここぞとばかりに小夜子は逃げ出してきた。

 何やらどこかで聞いたような話だが、人情話とは大概似たり寄ったりのものだ。だからこそ、最初から嘘話と分っているお芝居や小説でも人々は涙を流すのである。

 それで、何故彼女がここに居るのかと言う理由については「最初は音在の伯父様を頼ろうと思ったのです。ですが、もしも先に父の使いが来ていたのであれば…」家に連れ戻されるに違いない。そう考えて躊躇しているところへ、音在家から出てくる駿太郎を見かけた。夜分遅くまで留まっていたのなら、叔父と親しい間柄なのだろうと思い、声をかけようかどうしようかと間合いを計っているうちに空腹に目を回して失神した。

 「さようでしたか。相手が駿太郎さんで宜しゅうございましたね」

 これまでのところ、小夜子はひねもす堂の主人に向けて話をしていた。急に自分の名前が出て来たことで駿太郎はどきっとした。

 夜道で実際に小夜子に声をかけられていたら、どうだったろう?小僧にしか見えないのに高い声。にわかに昼間のたまきを思い出す。女顔に低い声。多分アイツよりはマシだった。

 「ですが、いつまでもこちらにお世話になるわけにもいきませんので、お昼間に伯父様の家を訪ねようと外に出たところ、父が差し向けたらしい人達に見つかってしまいました」

 「ああ、じゃあ。昼間のあの連中がそうだったのか?」

 「その際にも駿太郎さんに助けて頂いたのですね」

 「いいえ、懇意にされているらしい女の方が助けて下さいました」

 それは本当に違いないが、わざわざ言い直すところが可愛くない。こんな身勝手な小娘の為に昼間の連中はどんな目に遭わされたことやら。

 「それにしても、人を雇ってまでと言うことになりますと、倉島さんもかなりご立腹のご様子…」

 「今捕まって家に連れ戻されてしまったら、わたしは話も聞いてもらえず、座敷からも簡単には出して貰えなくなるでしょう」

 こんなはた迷惑な人間は閉じ込めておくに限る。空腹のおかげで無暗矢鱈むやみやたらと美味に感じるちくわの磯部揚げを頬張りながら駿太郎は心の中で毒づいた。

 「わたくしが間に立ってお話をして差し上げても宜しいのですが、これは時期をみる必要がありそうですね。さて、どう致しますか。遠からずその方達はわたくしを訪ねてくるでしょうし…」

 金で雇われているなら、問答無用と自分たちの仕事をやり遂げるだけだろう。

 「しばらく隠れていたいと言うのなら、ちょうど今、ウチの隣の家が空いていますよ」ひねもす堂の主人に向かって提案する。「空き家というのではなく留守宅で、このチマの飼い主の家です」

 「そう仰って頂くのは有難いことではございますが、人様のお宅をそのように勝手に使っては…」

 「大丈夫ですよ、ひねもす堂さん。隣の婆さんはそんなに度量の狭い人じゃあ、ありませんから」心の底からそう言える。

 話は決まった。


 「やぁだ、ちょっとこれ見て」二人連れの女の片方が、もう一方の女の肩先を小突いて立ち止まらせた。

 小突かれて立ち止まった女は、連れが指し示す方にひょいと目を向ける。

 「あらぁ、まあ、可愛らしい!」

 確か、それが始まりだった。の、ではないかと思う。

 今日も二人連れ、三人連れ…、ともかく、ひとまとまりの女客が何組か駿太郎の店にやって来た。女達のお目当てはこぞって、店先のがらくた箱である。

 がらくた箱とは、駿太郎がこれはどうも売り物にはなるまいと判断を下した半端物や傷物が放り込まれている箱のことで、バラ銭一枚で贖える有象無象うぞうむぞうが詰め込まれている。

 今現在、駿太郎の店のがらくた箱の内容の大半を占めているのは、油壺である。

 それは、二、三日前に常次郎が持ち込んできた物だ。

 「こいつを見た時、駿ちゃんの店向きだと思って、押さえておいたんだ」

 常次郎は満面の笑みで言った。

 「これが、か?」

 油壺とは、一時代前に整髪に使われていた、俗に言う鬢付びんつけ油、椿の香油を収めておく為の容器のことである。

 わざわざ収集したものなのか、それとも、捨てられずにいて溜めてしまったものなのかは分らないが、かなりの数だ。形も大きさも様々。丸も四角もあり、手の平に納まる小ぶりな物から業務用とおぼしき大ぶりな物まで有った。

 油壺の平均的な形状は、普通の徳利を頭からぐぐっと押さえ込んだら、こんな形にもなるのかな?と思われるような水平に広がった扁平な胴体、その胴体の中心から、ちょこんと伸びた首の先に、おちょぼ口がポカッと開いている。見ようによっては妙に愛嬌がある。ちょっと面白いとは思うが、実用的には既に用済みの品だろう。

 その場では一応礼を言ったが、結局はがらくた箱に放り込んだ。

 さすがに常次郎には秘密にしていたが、ごしき屋の本当の秘蔵品を目にしている以上、同じ家の倉から出たとは思えないような品を目にした駿太郎に、侮る気持ちが無かったとは言い切れない。それが今、駿太郎の案に相違して女達の評判を取っている。軍配は常次郎の方に上がったということだ。

 それにしても、何がそんなに女達を引き付けるのかが、駿太郎には分らない。

 がらくた箱を取り囲んで、女達がしきりと口にするのは「可愛い」という言葉なのだが、それが全くの謎なのである。油壺の中には美しく絵付けされたものもあるが、特にそれが人気の品とも言えない。

 どういう基準で選び出されたのかが解らない“逸品”を包みながら、駿太郎の気持ちは釈然としなかった。

 釈然としないと言えば、居候のこともある。

 懇意のひねもす堂の主人が、困惑をしている様子を見かねて引き受けた。それだけで他意は無い。居候自身のことなど元より、駿太郎とは無関係だ。それでも、膨れ上がってくる“何故”の気持ちにはあらがえない。

 女にとって、嫁入りとは目出度いことではないのか?どう考えても、吉事と言うことより他に思いつかない。女が縁談を遠ざけるというのは、どういう理由によるものなのか?

 「家出するほど嫌がるってことは、何か。本当は借金の形に、無理やりヒヒ爺のところにでもらされるとか、そういう話なのか?」

 ややしばらくの沈黙の後、「なるほど、その筋書きだと非常に分りやすいな」ぽつんと応えた小夜子は、それきり駿太郎を黙殺した。

 気分を害したと言う気配は無い。有体ありていに言えば、全く相手にされなかったと言うことだろう。

 言いたくない事であれば、愛想笑いの一つも浮かべて、うやむやに流せば良いではないか。その方がいくらか、気分がマシだ。或いは憤慨された方が、もっと分りやすい。

 「ほぉら、チマ。飯だぞー」

 近頃は猫にまで話し掛けるクセがついてしまった。

 「にゃー」

 猫の方だって、こうして返事を返してくるのだ。

 良く考えもせず、安請け合いした己が悪い、と言えばそれまでだが、それにしても、日に交わす言葉が挨拶だけとは如何なものか…。

 ぴったりと閉じている物置の戸を眺めながら、駿太郎はふっと溜息をついた。

 隣の小梅の家には、今もたまに習字塾の子供達が通って来ている。最初の頃より数は減ったが、チマに餌をやったり、思いついては掃除を始めたりするから、小夜子は昼間の内は駿太郎の家に居て、一通りの家事をこなした後は物置の中に隠れている。

 日がな一日、物置の中に一人籠ってどう過ごしているのか。

 今は飯皿の中身より他に、余念の無い猫の背を撫でる。

 チマはアウアウくぐもった唸り声を漏らしながら、尻尾をびゅっと、横に一振りした。邪魔をするなということだろう。

 「お前の言いたいことの方が、よほど分るぞ。なぁ、チマ」

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 前回来た時は満員御礼の活況を呈していた代筆屋は、今日は閑散としていた。

 その理由はすぐに分かった。

 今日机に向かっているのは、環ではなく閻魔大王だ。

 客層も一変しており、地味なこしらえではあっても、仕立てが良いと一目で分る衣服に身を包んだ物堅そうな男達が、静かに順番を待っている。代筆屋的には、むしろこちらの方が活況と言えるのかも知れない。

 所狭しと置かれていた飾り物も、一切合財姿を消していた。

 先日のことは、もしや夢であったかと思われるほど、何もかもが違っていて、一瞬、白磁の小香炉の代金はどうなることやらと危ぶむ気持ちが湧いてきたが、代筆屋の主人は何事も無く支払いを済ませてくれた。

 「あの、今日は環さんは?」

 「生憎、今日はこちらにはおりませんが。環に何かご用でも?」

 閻魔の甥っ子と言う話は、嘘ではなかったようだ。

 「先日は失礼致しましたと、そう、お伝えください」

 適当に言い繕って代筆屋を出ると、砂埃を巻き上げて冷たい風が立った。ここしばらく春とは思えない寒い日が続いている。

 融はどうしているだろう?

 思わぬ評判を取った油壺の余禄よろくとして新規の客が増えたことで、駿太郎が望月家を訪れるのも、益々間遠になっていた。

 今日は久しぶりに、望月家の近くまで来ている。と言うか、今歩いている道なりに続く白い石塀の向こうは、もう望月家の敷地だ。道に少し傾斜のついている辺りで、伸びあがって中を覗けば…。

 びょうと唸りを上げて耳元を掠めた風に、伸ばしかけた首をすぼめた。

 今日の出がけ、襟巻をすることも考えた。しかしすぐに、面倒臭いと判断して、そのまま出掛けることにしたのだ。駿太郎の家では、目につくところに無い物は、すべて物置に収まっている。

 伸び上がって何を見ようとしたのかは、忘れてしまった。

 寒風に追い立てられるように、駿太郎は足を速めた。

 「まあ、駿太郎さん。よくいらっしゃいました」

 出迎えた美耶子の顔を見た時、それほど久しい気がしなかった。

 美耶子とは、ちょくちょく顔を合わせている。到来物やら、取寄せ物、或いはその時々で清子が思いついたお裾分けを持って、美耶子がよく駿太郎の家を訪ねて来るからだ。

 以前この役目を担っていたのはお玉で、それほど頻々ひんぴんの事でも無かったような気がするが、近頃急に望月家への付け届けが増えたということだろうか。それなら、望月のおじさんの事業が旨くいっていると言うことだ。今日だって不在らしい。

 「外はお寒かったでしょう。今、温かいものをお持ちしますね」

 通された居間の洋卓テーブルの上に、小さな一輪挿しが飾ってあった。良く見ると、それは先日、古道具屋の店の方へ顔を出した美耶子が、やはり「可愛い」と言って贖って行った油壺だった。活けられた花が優しく辺りを照らし、灯りを燈した小さなランプのように見える。なるほど。こうしてみれば、少しだけ「可愛い」の意味も分かるような気がする。

 「あらっ、まあ。駿太郎さん、いらしてたんですねぇ。まぁっ。まぁ、何もお構いもしていないようで」

 お玉の声を酷く懐かしく感じる。望月家に久しく足を向けていなかった事を、改めて感じた。美耶子と顔を合わせていると、感覚が鈍くなるのかもしれない。

 「いや、それは今、美耶子さんが」

 「さいですね。それなら、ようございました」言うなり、お玉はすぐに居間の入り口まで取って返し、「奥様っ、奥様、駿太郎さんが遊びにいらしてますよッ」廊下の先の方へ呼び掛けた。

 「まあ、駿ちゃん。外は寒かったでしょう。すぐに温かいものを用意させますからね」

 「それなら今、美耶子さんが」

 「まあ、そう」清子がちらとお玉に目配せた。

 「えらい歓待ぶりだな。どんな色男が来たのかと思えば、なんだ、青蛙堂か」

 清子の後から源信が現れ、その後から融のかかりつけの医者が両手に鞄を下げて付き従ってきた。まるで源信の鞄持ちのようだ。

 「あら、源信先生。懐かしいことを仰いますねぇ。青蛙堂なんて、今の今まで忘れていましたよ」言いながら、お玉が手早く茶菓の支度を整える。

 「本当に。その名前を聞くのは何年ぶりかしら。懐かしいわねえ、ねぇ、駿ちゃん」

 「フン、懐かしいか。ふーん、…お前、ひょっとして、あの駿太郎か?」

 「あたしはさっき、ちゃーんと、そのように申し上げたはずですけどねぇ、源信先生?」

 「へぇ、見違えたな。まるで気がつかなかったぞ。あの意気地の無い、ちびすけの駿太郎か!よくも、そんなに育ったもんだな」

 「まぁた、そんな口の悪い。そんなだから源信先生は嫌われるんですよぉ」

 「私のモットーは、好かれる藪より嫌われる名医なんでな」

 「まさか迷っている方の、迷医めいいじゃ、ございませんでしょうね」

 「それにお前さんも、人の話は良く聞け。今は見違えたと言って、誉めているではないか」

 「まあっ、ホントに憎ったらしいったら、ありゃしませんね。それで、いつまで工藤先生に鞄持ちをさせる気なんですかっ!?」

 「お玉、先生の先生が診てくださるなんて、有難いことなんですよ。それに、源信さんを連れて来てくれたのは、駿ちゃんなんですからね」

 「患者を放ったらかしにして遊びに行くような者は、医者じゃない。それも、私から直々に引き継いだ患者を粗末に扱うとは、先生と呼ばれる価値も無い。工藤はまた、一からやり直しだな」

 源信がそんなに望月家と親しい間柄だったとは知らなかった。と言うか、全く覚えていない。

 こういう事はよくある。だからと言って、どうと言うことは無い。

 清子やお玉が楽しそうにしている限り、しばし蚊帳の外に追いやられていようと、駿太郎は満足している。

 「そういえば、源信さんはいつ、こちらにお戻りになってらしたんですか」

 「先生は確か、先方の偉い先生と大喧嘩して、三年も経たないうちに医学校をお辞めになったんですよね」それまでは駿太郎と同様、沈黙を守っていた工藤が、いきなり話に割り込んだ。

 「んまぁ。じゃあそれから何年も、どうされていたんです?」

 「自由の身となりゃ、こっちのもんだ。風の吹くまま気の向くまま、気に入れば四、五年も住みついて、飽きたら次に行って、また二、三年。こっちに戻ったのは、去年の暮れ辺りだったかな」

 「源信さんらしいですわね」

 「それならそうと、連絡ぐらい寄越しても、良さそうじゃありませんか。口ばかりじゃなく、人付き合いも悪いとはねぇ。呆れて物も言えませんねぇ」

 「医者と坊主は、そうそう呼付けずに済んだ方が良かろうが」

 「そんなだから、飲み友達にすら寝転ねこかしにされるんですよッ。せんだっても、道端で寝ていて、行き倒れと間違えられたそうじゃありませんか」

 思わず吹き出して、源信にじろりと睨まれた。

 「そう言えば、ちょうど私が医学校に呼ばれた頃だったなあ。ほれ、この家の庭に在った、あのバカでっかい木」

 「大楡の木。まだ、ございますよ。近いうちに伐ってしまうんですけどね」

 矛先をこちらに向けさせてしまったようだ。そして、またぞろ大楡の木の話。やっぱりか。源信がその頃の、融のかかりつけ医だったのなら、覚えていなくて当たり前だ。

 「そう、その木に、ここの病弱息子が昇って、大騒ぎになったっけなあ。身体は弱いくせに向う意気が強くて、変に度胸が良くって」

 「何を仰るやら。まだ耄碌もうろくするには早いんじゃございませんか、先生?大楡に昇ったのは、ここに居る駿太郎さんの方ですよ」

 「そんなはずは無い、何せこの目でしかと見ていたんだからな」

 「ああ、さようで。それで、何でその時止めなかったんです?」

 「子供にはいくら口でダメだと言っても無駄だ。やらせてみれば一発で意味が分かろうから、やらせておくことにした」

 「なんて乱暴な。ひょっとしたら、駿太郎さんは今ここに居なかったかも知れないって言うのに」

 「だから、木に昇ってたのは病弱な方だったと言ってるだろう」

 「駿ちゃん?」

 気がつくと、深くうな垂れていた。目を上げると、清子が眉をひそめて、駿太郎の顔を覗き込んでいる。

 「清子さん、今日は融は?」

 「さっき休んだばかりだから、今日は…。ね」

 予想通りの答えが帰って来た。駿太郎が来ているのに融が顔を見せないという時は、眠っているか、起き上がるのも困難な時だ。後者の場合は、すぐに融の部屋に通されるが、今日はその気配も無い。

 「今日は仕事の都合で、近くまで来たから立ち寄ったんです」じっとりとした汗が、足の裏までも覆っていた。感触でそうと知れる。「まだ、用事が半分ほど残っているので、俺はこれで…」

 「まあ、大変。引き留めてしまって、ごめんなさいね、駿ちゃん。そう、ちょっと玄関でお待ちなさいな」


 吹き付ける風が、汗ばんだ身体に尚いっそう冷たく、張り付いてくる。帰りがけに清子が手渡してくれたインバネスを羽織り、前を掻き合わせた。

 源信は、耄碌なんかしていない。

 源信の言うとおり、大楡の木に昇りはじめたのは、融の方だ。

 記憶の破片が、目の前に鮮やかに閃いた時、足元から世界が歪んだ。

 だめだ、思い出したくない!

 思い出すな思い出すな思い出すな思い出すな…。

 清子の声が、苦しい葛藤を吹き消してくれた。だから今も、駿太郎は安らかな忘却の中に居る。それでも、蘇ってしまった記憶の欠片は、そのまま残ってしまった。

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