第3話遅き日のつもりで遠きむかしかな
そう言えば、このところ小梅の顔を見ていない。そう思いついたのは、清明も過ぎた頃だった。
隣家に小さな子供が出入りする光景は、それほど珍しくない。小梅が近所の子供を集めて習字の手ほどきをしていることは知っている。一人暮らしの退屈しのぎに始めたようだから、堅苦しいことは何も無く、大層賑やかな日もしばしばある。
子供の姿を見かけるのは相変わらずなのに、隣家からはこそりとも、物音ひとつ聞こえてこない。そして、集まって来た子供たちも、すぐに帰って行くように見受けられる。
「お
子供のことだから、どこへ行ったのかという詳細については要領を得なかったが、小梅がしばらく留守にするつもりで出かけたことは判った。
「
「小父さんには商売があるからな、忙しいんだよ」言いながら、先刻から駿太郎の足元に熱心に
チマと言うのは小梅の飼っている猫の名前である。小さなトラ猫だが、子猫ではなく、もうずいぶんな老猫で動作もゆっくりとしている。毛皮のしましまと、小さくちまちました動きとをかけて小梅がそう名付けたのだ。
「一人ぼっちで寂しいなぁ、チマ。家に来るか」
ついでに餌の面倒も見ようかと言い出したところで子供たちから猛反対の声が上がった。
チマの世話をしなかったばかりに、ご褒美の「お土産」を貰えなくなることが心配らしい。餌だけは今までどおりに子供たちが面倒を見ることで話がついた。
猫を伴って家に戻る道すがら、駿太郎はさっきの子供の問いかけを反芻していた。
隣に住んでいるのに、どうして気づかないのか。確かに、痛いところを衝いている。
小梅と言えば、三日にあげずに古道具屋に顔を出すのが普通だし、わざと作り過ぎた惣菜をおすそ分けと称しては勝手口から乗り込んできて、内生蔵家の台所を占拠するのも日常茶飯事だ。
今回は単なる不在と知れたから良かったものの、もしも急病であったら…。
にわかにぞっとして鳥肌が立った。腕の中に丸まって喉を鳴らしているチマの温みが有難い。
家の中でも日当たりの良い一角を選んで
改めて家の中を見回してみると、命あるものと言えば自身と、小さな猫一匹だけだった。他と言えば、庭の雑草と、たまに飛び込んでくる虫ぐらいだろう。
金魚や小鳥を飼うような趣味は無い。花を飾る柄でもない。鉢植えを育てる心境などもよく分らない。
別段それで淋しいと思ったことは無い。
それどころか、この家は賑やか過ぎるとすら、駿太郎は思っている。
ひょいと縁側の片隅に目をやれば、そこに置いた覚えもない
モノが動くのはそれほど珍しい現象ではない。案外にこれらは自由気ままに動き回っているのだが、一般には「そんなことはあるはずが無い」と信じられているから、有っても無いことになっている。
その場にそぐわぬものがあるのを見つけたとしても、何かの間違いだろう、自分が置き忘れたのだろう、誰かが置き忘れたのだろう、どこからか落ちてきたのだろう。理由はいくらでもつけられる。それぞれが自動的につじつまを合わせてしまうだけなのだ。
今そこにある鴨徳利は、対で揃っていて盃も付いているから、駿太郎の店では上物の部類に入る。店頭の一番見栄えのする棚の上に無ければおかしい。
何故そんなことが起こるのか?と、問われたとしても駿太郎には答える術は無い。
駿太郎にとっては太陽が東から昇って西へ沈むのと同じくらい普通のことで、ただ、そうなのだから、そうなのだ、としか言えない。「当たり前」を説明することほど難しいものはない。
そう言えば昔、もっと有無を言わせぬ旨い言い回しの説明を自分で言ったか、誰かから聞いたような気がするが、今は思い出せない。
徳利はそのままにして店の方へ戻ることにした。
どうもあの徳利は、前の持ち主に甘やかされていたクチのような気がする。あまり構ってやらないほうがいい、その方が次の買い手も早くつく。
店の内に人影が在った。
「どうも、相済みません。お待たせしました。お客様のご用向きに
「何だ。おまえ、ここの主人だったのか」
「あ」
嫌われ医者の源信だった。
「先日はとんだ不調法を…」
「今日は望月の病弱息子のところに呼ばれて行った帰りだ」
圓山へ気の早い花見に出掛けたのは、半月は前のことだ。融のかかりつけの医者はどうしたのか。温泉に出掛けて、まさかその地で頓死でもしたのか?
「この辺りに縁が出来るのは久しいから、懐かしくなって、ひとつ
「は、せいあどう?」
「おや、知らぬのか。まあ、名前の由来の
「それで、青蛙堂、…ですか」源信の語るような物はここに在ったのだろうか?
それはいつの話か。源信はそれほどの年寄りとも見えないから、父の代か、辛うじて祖父の晩年の話だろうか。この辺りで古道具屋と言えば駿太郎の店以外無いだろう。だからこそ、屋号も必要ない。
その時突然、床が大きく
「どうしたね?」
問いかける源信の声は落ち着いている。異変を感じているのは自分だけらしい。
「いえ…」
「ふむ」源信は生返事をしている駿太郎の手首をむんずと捉えて脈を診る。下まぶたを引っ繰り返す。「口を開けて見なさい」
診断結果はしごく簡単明瞭だった。「顔色が悪い。貧血だろう、若い娘でもあるまいに。そんな立派な体格をしているのに、飯はちゃんと食っているのかね?よく分らなければ卵でも魚でもいい、滋養のあるものを必ず食うことだ」
小梅が居ないのに気づいたのは今日だが、いつから居ないのかは分らない。食事が充分じゃないと言われれば、医者殿の仰るとおりに違いない。
「時に、そこの棚の、あれ。あれは、如何ほどか。
棚の上には、鴨徳利がきちんと対で乗っていた。
「あれなら寝転んでいても一杯やれるな」
そもそも徳利自身が寝転んでいる。ぽってり膨らみのある胴体から、すいっと伸びた注ぎ口が、首元からくいと天を向いている。その姿が鴨に似ているから鴨徳利の名がついている。
「よければ、あれは先生に差し上げますよ。この前のお詫びと、今日の謝礼も兼ねて」
「本当かね」源信は相好を崩して喜んでいる。
源信が酒好きなことは、初めて会った時に知れている。何しろ半月前のあの日は、日付の変わる時間まできこしめして一杯機嫌の千鳥足で歩いてくる源信を、力まかせに引っ掴んで、無理やりに望月家へ引きずって行ったのだから。
ほくほく顔で徳利の包みを受け取った源信は、本当に上機嫌だった。
「君への処方としては」
「おまえ」から「君」に昇格している。
「早く嫁さんを貰うことだな」
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半月前の大安吉日、望月家の離れに昼食の座を設けて…の話は、その前日に望月家の跡取り息子が病に臥せった為に当然、お流れとなった。
事情が事情だから、先方の家からも文句は出なかったはずだ。しかし、その後一向にその件での音沙汰がない、というのはどういうことなのか。まあ、実は先方はそれほど乗り気ではなかったから、この機を幸いと断りを入れてきたのかもしれない。それならそれで良い。
気になるのは融の方だ。思ったより状態は悪いのではないか?
見舞いに行ってみれば存外、加減は良さそうに見えた。それでも、長い間起きているのは疲れると言って、寝たり起きたりを繰り返しているようだった。
子供の頃から融は、
だからと言って、ひょっとしないとも言い切れない。
それこそがこのところ駿太郎の関心が小梅から逸れていた理由だった。
清子の様子には変わったところは見られない。望月のおじさんも相変わらず不在がちにしているようだ。自分の息子が重篤な状態だったらまさか、気軽に家を空けることなどしないはずだ。そう自身に言い聞かせて、何とか納得しようとは努めているが、何かが異を唱えてくる。駿太郎の中の深いところに凝り固まった何か。
「駿太郎様、お茶のお代わりは?」
変わったところと言えば、ひとつだけ。新しい女中の
「嫌ですよぉ、駿太郎さん。あたしだって人間ですからね、年を取ってきたら少しは、楽もしたいものなんですよ。それをまだまだ、こき使おうとなさるんですか」そう言うお玉の言葉には、まったく信憑性を感じられなかった。先日も意識不明の融を軽々と抱き上げて、二階に運び上げたのはお玉だったのだから。このように少しずつ代替わりしていくのだ、そう思った。
「その駿太郎様ってぇのはよしてくれ。俺は望月家の人間じゃないし、それほど立派な家の出でもない。だから、融みたいに駿ちゃんでも、お玉さんみたいに駿太郎さんでも、どちらか呼びやすい方で呼んでくれ」
「それでは駿太郎さんとお呼びします」
「ああ、そっちの方がいいな。それと、俺はほうじ茶の方がいい」
「お菓子の方は?」
「そちらはもう一つ」
美耶子が火箸に似た道具を使って、駿太郎の皿に一つ取り分けてくれる。
「
融の方は洋生には一切手を付けずに、緑茶を飲んでいる。
普段なら、あまり腹に溜まらず軽く食べられる菓子類は融の好物だ。今はそんなものさえ煩わしいのだろう。
ほうじ茶のおかげで口の中もすっきりと濯がれた。
「どうも、ごちそうさま」
「あれ、駿ちゃん。もう帰るのかい?」
長居することで融を消耗させることは、駿太郎の望むところでは無い。
「小梅さんが今、留守なんだ。で、俺がチマを預かって面倒を見ている」
「ああ、ちまちまのチマちゃんか。猫のお守をしに帰るの?似合わないね」
「小梅さんが帰ってくるまでの間だ。また来るよ」
帰りがけに清子から、しっかりと洋生の包みを渡された。
ふと、これをタネにしてひねもす堂を訪ねてみようかと思い立った。
ひねもす堂は別に、気後れするような厳めしい店でもなく、主人の音在氏にしても駘蕩としていて、気難しいところも無い、付き合いやすい人物だと思う。しかし、ひねもす堂の敷居は高く感じてしまう。
例えて言えば、弟子とその師のような関係か。慕わしいけれど気軽に付き合うわけにはいかない存在。
それに、先日訪ねてみて驚いたのは、ひねもす堂は看板を表に出していないことだ。在る事は在るが、玄関の片隅にぞんざいに立てかけてあった。
看板が出ていなくても客は来る、その位に名の知れた格式の高い店なのかと思えば、屋号すらなく小さな町屋で小商いをしている古道具屋とは雲泥の差を感じずにはいられない。商談なんて、とてもじゃないがチラと考えてみただけでも気持ちが負けてしまう。
珍しい菓子を携えて、それをタネにご機嫌伺いなら。それならイケそうだ。
猫を口実に望月家を辞した駿太郎だったが、その足取りは家路を大きく逸れていった。
元より猫に世話が必要だとは思っていない。あれらは自分の面倒ぐらい自分で見られる連中だ。目が離せないのはむしろ人間の方だろう。
「おや、これはこれは。よくいらっしゃいました」
音在氏は、まるで旧知の間柄の人を迎え入れるかのように快く請じ入れてくれた。
今日は茶の間らしき座敷に通される。魚石を見られないのは残念だったが、こちらの方が気楽でもあるし親しみも感じる。
「洋生ですか、これは結構なものを。さて、それではしばしお待ちを」
ここでも紅玉色のお茶を供される。しかし望月家のものとは少し違った。
「このお茶は、…いい匂いがしますね」
「いつもではございませんが、たまさかお客様からお土産にと、今日のようなお菓子を頂戴することがございましてね。あちらのものに関しては作法も何も存じませんから、適当に渋茶を添えておりましたら、それを見かねた他のお客様より、いろいろと教えて頂きました。この茶葉もその方から分けて頂いたものでして」
「それに、甘くない」
「それは、人には好みということがございますから。好きなようにいただくのが宜しかろうと。もし、甘い方がお好みでしたら砂糖をお持ちしますが」
「いえ、菓子だけで充分に甘いですから」
このような茶菓を持ってくるような客は、駿太郎の常連客の中には居ない。常次郎がたまに持参する、みはる屋謹製の栗の入った羊羹が最高峰だろうか。やはり段違いだ。
「ところで今日は、音在さんに訊ねてみたいことが一つあります」
「どのようなことでございましょうか」
「青蛙神というものを知っていますか」
「
「怪談ですか?何か妖怪の類ですか」
「わたくしも詳しい訳ではございません。物語の中の話では怖い祟りをなすこともあるようですが、お祭りしている分にはご利益もあり、縁起の良い福の神ともされているとか」
縁起物の類か。
「つい昨日、古い客だと言う人がウチの店に来まして、そんなようなものがウチに在ったと。俺…、私はそんなものが在ったかどうか覚えていないんですが。見たことも聞いたこともないもので」
「まったく、お心当たりは無いのですかな?」
「今聞いた限りでは縁起物のようですから、
「なるほど。そう言えばわたくしの方も内生蔵さんにお訊ねしてみたいことがございます。不躾な内容となりますから、ご不快であればお答えいただかなくて結構でございます。あなたがまだ幼い頃に、先代の、お父様を亡くされたことは承知しております。それから、そのまますぐにお店を継がれたことも。そこで不思議なのは、まだ幼いあなたが、何故他の商売を選ばなかったのか、ということでございます。ある程度大人になってからのお話であれば、家業を継ぐのはごく自然なことと感じられますが、若いうちは移り気なもので、あれこれ試したいと思われるものではないかと」
そう言われてみると、そうなのかもしれない。常次郎だって萬字堂に収まるまでは試行錯誤をしていたのを覚えている。それでも駿太郎に関しては古道具屋以外を考えたことは一度も無い。不思議と言えば不思議だ。
「そうかもしれません。私が店を継いだのは十歳でした。今考えると、我ながら驚くほどに、随分と子供です。それでも何の不自由も感じませんでした。おそらく、父がそのように私を仕込んでくれたのでしょう。天命のように、その頃からこれが自分の商売だと信じていましたから、他に目をくれたことはありません」
肝心の父のことは、たった今天罰が下ったとしても納得がいくほど、何も覚えていないというのに、商売のこととなると一点の曇りも無い。これは本当に不思議なことだ。
「さようですか。
「そのようです」
「ご商売をなさる中で、どんなことを面白いと思われますかな?」
「そうですね、例えば、お客は自分が品物を選んでいると思い込んでいますが、大体いつも買手を選んでいるのは品物の方です…と言うか、そう思うことがしよっちゅうです」
「ほぅ、わたくしも、そう思うことがしばしばございます」
それからは商売談義に花が咲き、知らず時を過ごした。
「今日は本当に楽しゅうございました。宜しければ、駿太郎さん。またいつでも遊びにいらっしゃい。お待ちしておりますよ」
駿太郎も今日は存外に楽しかった。
それで、この前嘘をついたことを本当に恥ずかしく、済まなく思った。
「ひねもす堂さん、この前のお話ですが、実は見込みのあるお客を一人だけ見つけました。しかしその人は目下、他出中でして。戻りましたらまたお伺いします」
言ってしまった。
「さようですか。それでも何にしろ、先ほどのお話でもございませんが、皿の方でその方を選ばなければ破談でしょうなぁ。モノも人もご縁ですから」
少し気持ちが軽くなる。
小梅には蛸唐草の“無難”な他の皿を買い与えてやるのが良いだろう。
小梅の知らないところで、散々、口実や言い訳になって貰っているのだから。
「照りもせず、曇りも果てぬ春の夜の、…
毎年春の夜の小宴ともなると、
中天には鏡のようにくっきりとした月が懸かっていた。
ひねもす堂は町中より少し離れた閑静な場所に在り、町中とは違って隣家との間も広い。その間を畑が埋めているかのように見える。辺りからは土の匂いが力強く立ち昇っていた。何も知らなければ、看板も出していないひねもす堂は、既に家業を退いたご隠居さんの、俗世を離れた侘び住まいとしか思えないだろう。
そう言えば、この前は奥座敷に通されたから気にも留めなかったが、今日は主人が手ずからお茶を淹れていた。今日がたまたまそうなのか、それとも、
それで寂しくはないのか。
駿太郎は自分のことは棚に上げてそんなことを考えながら、春の夜の底を歩いていた。
と、その時、背後から急に何か重たいものが落ちるような音が聞こえて駿太郎は飛び上がった。
見渡す限りに畑と言っても良いくらいに目立ったものは何も無く、人が出歩くような時分でもないので誰とも行き会わなかった。ひねもす堂からここまで、人影はおろか犬一匹すら見ていない。今のような音を立てるものなど、とっさには考えもつかない。
このまま後ろは見ずに一目散に走って逃げることも出来るが、その場合どうだろう?
「やれやれ、勇ましいことだねぇ、駿ちゃん。その
融の声がありありと聞こえてくるようだった。
いずれは融や常次郎、小梅などに今日のことを話すこともあるだろう。その時に仔細も確かめずに逃げ帰ったなんて話をするのは御免だ。それに、幽霊の正体見たり枯れ尾花などとも言うではないか。
「一、二のぉ、三っ!」意を決して振り返った。
地べたに、人がひとり落ちていた。
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「にゃーお」
「おまえは小さいのに意外と力が強いなあ」
チマが半ば頭突きでも喰らわすようにして、ぐいぐいと駿太郎の
「よしよし、飯だな、飯?忘れているわけじゃないぞ」
さっき思い出したのだから、今は嘘ではない。
そうは言っても物事には順序と言うものがある。今は拾ってきたものから順に、何とかしようと考えていた。
道に落ちていた、もとい倒れていたのは、まだ身体の線も細い少年だった。声をかけてみたが蚊の鳴くようで要領を得ない。
子供の頃から生傷は絶やしたことが無いが、患いついた経験のない駿太郎が直接知っている医者と言えば、今のところ嫌われ医者の源信だけだ。さあこれから算段をし始めようか、というところで腹の虫が盛大な鳴き声を上げるのが聞こえた。さては、腹を空かせ過ぎて目を回したらしいと思い至った。
「にゃー…」
「…チマか。遅くなって悪かったな」すぐに飯にしてやるからな、と言いかけて言葉を飲み込んだ。米を炊くところから始めないと、今、
米を炊き上げてみて、猫は良いとして、人様が飯の
滋養とくれば卵だろう。この時分に卵が手に入ると言ったら蕎麦屋だろうか…。蕎麦屋と言えば、一番近いのは角の
土鍋を火にかけて、適当に切った鴨肉を放り込んでしばらく炒りつけた後、これも適当に切ったネギを放り込んだ。少し焦げ目が付いてきたところで酒とみりんと醤油を適当に垂らし込み、煮立ったところで溶き卵をかけ回して、ゆっくりと五つ数えて火から下した。
飯を盛りつけた二つの丼に、鍋の中身を半分ずつ流し込む。
「さあ、食え」
鍋から甘辛く香ばしい匂いが立ち始めたあたりから、少年が正気を取り戻していたことには気づいていた。その辺から彼の腹の虫がかまびすしく泣き始めるのが聞こえていたからだ。力無く薄っすらと開いた少年の目の前に丼を突き付けてやると、彼はひったくるようにして素早く丼を受け取り、猛然と詰め込み始めた。
問いただしたいことは山ほどある。どこの誰なのか?なぜ、あんなところで行き倒れていたのか?そもそも親は居るのか?
しかし、丼に半ば顔を
飢餓状態には無い駿太郎は、ゆっくりと堪能しながら食事を終えた。
少年の方はと言えば、とっくに丼を空にした後、その場にひっくり返って軽くいびきをかきながら眠り込んでいた。
寝冷えしないように蒲団をかけてやる。
「にやあぁぁ、おーーーぅ…」チマが擦り寄ってくる。
「ああ、もう遅いからな。もう寝ようなぁ、チマ」
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家の中に他の人間が居るというのは、こんなものなのか。
“こんなもの”とは“どんな”ものか?それは旨く説明できない。
ある時は気詰まりなようでいて、またある時は然程でもないように思えたり、くるくるころころ変わる気分は捉えどころが無く、とても“これ”とは決めかねる。
駿太郎が子供の頃をほとんどそこで過ごした望月家にだって人は大勢居るし、そのほとんどは通いではなく住み込みだ。なのに今回のような気持ちを味わったことはかつて無い。何が違うのかと言えば、望月家の人々には一人残らず名前が有って、その役割も決まっている。もしもその中の一人でも欠けたら、
いまだに彼のことは一切分らない。
しかし、先手を打たれてしまった以上は彼を咎めるわけにもいかない。
彼を拾った翌日、チマに起こされて茶の間に行くと、朝餉の用意がすべて整っていた。どうやら昨日の少年が用意したものらしい。そう思ったのは、駿太郎の姿を認めた少年が三つ指をついて土間に平伏していたからだった。
一宿一飯の恩義は感じていると言うことだろう。
少年はいくばくかの金を持っていたらしく、食膳には魚も上っていた。それで何故、飢えて行き倒れるのか?聞いてみたが答えは返って来なかった。
「つまり、
そうは言ってみたが、何となく子供の頃から、他の人間と自分は違う、と感じている駿太郎にはいまひとつ自信が無い。ここで本気で相談されたとして、それで本当に他にやりようをみつけられるのか?
「どこにも行くアテが無いってんなら、しばらくはここに居てもいい。それで…、気持ちに決まりがついたら、気が向いた時に出て行ったっていい。そん時やぁ、いちいち俺に挨拶なんかしなくてもいいからな」
何とも尻すぼみで、投げやりな提案となって終わった。
今朝も少年は居た。
料理の心得は有るようで、どれを食っても美味い。
このまま家の賄い方として雇い入れても良いような気もするが、彼は少し融に似ている。そこがちょっと
それ以外で彼に関して感じることは、とても静かであるということだった。
昨日から三食とも一緒に食事をしている。
その間も一切言葉は交わされない。にも関わらず、違和感はまったく無い。相手が自然とそうしている場合は、こちらも気詰まりは感じないものだ。
用意された菜も美味いから、飯のお代わりを何回も重ねる。
その度に駿太郎は声を発する訳ではない。
いち早く気配を感じ取った少年は、差し出された飯椀を当たり前として受け取り、飯を盛ってくれる。奇妙なようでいて、自然な流れが出来上がっている。
それで、駿太郎は彼に財布を預けることにした。
「いつでも出て言って良いからな」念を押しつつ、賄いも預けた。
融が知ったら目くじらを立てるだろうが、役割をつけてやることで駿太郎の中で彼の存在についてやや納まりのようなものがついた。
今日は川向こうのご隠居さんの本宅へ行くことになっている。ご隠居さんと言って、つい先日
四十九日が済んでからでもよかりそうなものなのに。と、駿太郎は思う。
他人から見ればただのガラクタかもしれないが、当人にとっては大事の宝と言うこともある。まだこの世に残っている方のご隠居は、草葉の陰から自分の生前の宝物が買い叩かれるのを見てさぞかし悔しい思いをするだろう。
「今日は時間がかかるだろうから、夕方まで帰らない」言い置いて家を出た。
「何だ、常。お前も呼ばれていたのか」
常次郎だけではなく、三々五々集まって来た同業者は顔見知りが多かった。
「何でも、一銭でも高値を付けて売り払いたいんだそうだ。ほれ、あそこに居るのが
亡くなったご隠居の山の神だそうだ。見知った相手ではないが、一番事情に通じているらしい男が教えてくれた。
なるほど、いかにもという面構えをしている。そこの河原に立たせておけば大川だって三途の川に見えてきそうだ。
それからは丸一日、狭い蔵の中で押し合いへし合いしながらの作業となった。それも例の奪衣婆が、耳かき一本すら無断では持ち出させまいとして、厳重に蔵の出入口で張っていたせいだった。
作業が無駄に難航させられ、とうてい今日一日では済みそうもないとの結論に達したところで、事情通の男が奪衣婆に談判を持ちかけた。
その結果、全員がくじを引いて明日の割り当てを決められる事となった。
明日は引き当てた数字の順番で蔵に入り、与えられた時間内に品物を見極めなければならない。
良い考えと言えるかどうかは判らないが、くじ引きならば時の運。あとは持ち前の運しだい、となら言えそうだ。
すっかりくたびれ儲けの帰りがけ、駿太郎はひねもす堂の主人の姿を見かけたような気がした。
「あ~ぁ、けち臭い人間に付き合うと、こっちまで背が
常次郎に話しかけられ、気が逸れた隙にそれらしき人物を見失ってしまった。
見間違いだったかもしれない。あたりはもう黄昏に呑みこまれようとしている。
「悪いが常、それはまた今度にしてくれ。帰ってチマに飯を食わしてやらないと」
「チマ?小梅さんとこの?へぇ、まだ生きてたんだ。そろそろ化けそうかい?って、そりゃ、まあいいや。何で駿ちゃんが面倒見ているんだい」
「小梅さんが今、留守なんだ」
ついでに居候の話をしてもいいような気もしたが、それは伏せたままで常次郎と別れた。虫の知らせと言うヤツだったのかもしれない。
家に戻ると、真っ先にチマが飛び出してきた。
喉を鳴らしながらもにゃおにゃおと賑々しい。飯をねだっているだけなのは分っていても、帰宅したことを歓迎されているには違いない。
「どうした、チマ。飯はまだ貰っていないのか?」
家には灯りも点いていなかった。
落胆したような、安心したような変な気持ちだった。わずか一日半と言えど、居たものが居なくなればこんなものか。それでもしばらくすれば、慣れて元通りになるだろう。
灯りを点けようと手さぐりで進んでいるうちに何か、柔らかいようで硬いものを蹴飛ばした。
灯りの下で見るとそれは、行き倒れていた少年がしっかりと抱きかかえて離さなかった
「触るな!」
目を吊り上げた少年が炭俵を抱えて立っていた。燃料が切れて、調達に出掛けていたらしい。それにしても…。
「お前、女だったのか」
響き渡った声は、駿太郎が予想していたものよりずっと高く澄んでいた。
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