第2話月は東に日は西に

 寒いと言うだけなら、取り立てて心配は無い。

 どうしても耐え難いとなれば、自分が場所を移せば良い。簡単なことで済む。

 しかし、ここに小梅と言う要素が入って来ると、途端にややこしくなる。

 それでなくとも、まだ、駿太郎がどうするのかも決まっていないのだ。

 時間さえ稼げば良い案が浮かぶと言う保証はないが、ともかく急場の「一時的」解決策として、駿太郎はこの場から逃げ出すことにした。

 行く先は知れたこと。望月家である。

 小梅と清子は特に不仲と言うこともないのだが、小梅は素人の、それも生粋のお嬢様である清子には遠慮があるから、ここに逃げ込めば絶対に追ってくることは無い。

 「本当に良かったわ、俊ちゃんが来てくれて」

 この家はいつだって駿太郎を歓待してくれる。

 それでも夕飯≪ゆうはん≫時に人の家を訪ねるのは無作法と言うものだろう。自宅の座敷では凍えながらも深く考え込んでいたので、今が何時かなんて気にもしていなかった。

 「望月のおじさんは?まずは挨拶をしないと」

 「今日は家に居ないのよ。お仕事のお付き合いで、今晩のお食事は外で済ます予定だから。それでこちらも、本当なら融とわびしく二人きりのお夕飯のはずだったんだけど、嬉しい番狂わせね」

 本当に喜んでいる様子の清子を見るのは、駿太郎としても嬉しいが、良心がちくりと痛んだ。子供の頃のように無邪気に遊びに来たわけではないから、どうしたって後ろめたい。

 「たくさんお上がりなさいね。遠慮などしてはいけませんよ。さっきお玉に茶碗蒸しも拵《こしら》えるよう言いつけておきましたからね」

 駿太郎の子供の頃の大好物だ。またも良心がちくりと痛む。ここに逃げ込んだのは、果たして得策だったかどうか…。

 融はと言えば、食卓の会話を一手に駿太郎に任せて端然と、独り静かに箸を運んでいる。清子も自分が息子に煩がられているのは承知しているから、駿太郎が居なければ、あたかも通夜の夜食のような様子だったかもしれない。そう思うと、駿太郎の良心の痛みも少しだけ和らいだ。

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 「それで、今日はどうしたんだい?」

 「どうしたって、何が?」

 「それを聞いているのはこっちだよ、駿ちゃん。いつもだったら、母さんが泊まっていくように言っても遠慮して逃げるようにして帰って行くのに、今日は二つ返事でさ。家に帰りたくない何かがあったんだろうと思ってね」

 「今日の昼間に常次郎のヤツが来てな」

 「ああ、また面倒事を持ってきたわけか、なるほどね」

 「またって、何だよ。常はいいヤツじゃないか」

 「やれやれ、駿ちゃんはホント、あきれるほどに優しいねぇ」融の口ぶりでは、駿太郎が“優しい人物”である、と言うよりも、“しょっちゅう他人に良いようにカモられているお人良し”でもあるかのように聞こえる。「常ちゃんもいい加減、独り立ちすればいいのにねぇ。もうお嫁さんだって居るんだし」

 「同業なんだから、相身互いなんだ。仕事向きで相談を持ちかけられれば、知らんぷりするわけにはいかない」

 「ふぅん…」

 身体の弱い融は、仕事に就いていない。資産家の息子だから、それで生活に困るということもない。将来的にはどうなるか判らないが、目下のところは高等遊民の生活を送っている。仕事関係の話は融にとって不明の分野である。

 「それはそうと駿ちゃん」融は何気なさを装って、話題を転じることにしたようだ。「あの木、伐ることになったのは知ってた?」庭の方を指さした。

 「思い出のある木だし、なんだか淋しいよね」

 「あの木って、どの木のことだ?」

 「ほら昔、駿ちゃんが登って降りられなくなった庭の大楡だよ。余程に古い木みたいで、近所でも話題のひとつにはなっているけど?」

 「あぁ、あの木か」話は合わせるが、実はまったく覚えていない。こういうことが、ままある。祭りや葬式、町内の寄り合いなんかで人が集まって酒が入りだすと、思い出話に花が咲き、気がつくと駿太郎の子供時代の逸話が肴にされている。駿太郎自身は身に覚えのない話ばかりなのだが、まさか近所の小父さん小母さんが示し合わせて嘘を言っているなんてことは考えにくいから、適宜、話を合わせておいて受け流すことにしている。われながらそんなに物覚えが悪い方でもないと思うのだが…。悩んだところで、どうなるものでもないから不問としてある。「それで、何で伐ることになったんだ」

 「それがさ、もうひとつ離れ屋を建てるんだってさ。それも母屋とは繋がっていない独立した一軒家。それで楡の木が邪魔になるんだって」

 「へえ。そんなモン作ってどうすんだ?」

 望月家はそれでなくとも充分に広い。

 「さあね。ひょっとしたら、駿ちゃんとお嫁さんをそこに住まわす気なのかもね」

 「はあぁっ!?」

 あまりにも想像の範囲を超え過ぎていて絶句する。

 「嘘だよ。本当にそうなら母さんは大喜びだろうけど。お嫁さんの監督をしたり、昔みたいに駿ちゃんの面倒をあれこれ見たり、でもこの話はこの前破談と決まったんだから、もういいじゃない」

 そう。

 だからこそ、今日の避難場所も安心して望月家を選んだのだ。駿太郎は、清子と小梅の双方に対して、等分に良心の呵責を感じた。

 「それにこれは父さんの言い出したことだしね。家一軒分の客間を造るんだってさ」

 「そいつは豪儀だな。賓客ってやつだ?」

 「うん、商売の話は僕にはさっぱり解からないけど、相当に扱いの難しいお客さんなんだろうね」

 「そういうのは、大事なお客と言うんだ」

 「どっちにしろ、こちらに弱みのある相手なら、厄介なことには変わりない」

 「まあな」

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 洗面を済ませた後、駿太郎は清子に挨拶をしようと台所へ向かった。望月家の奥さまは朝寝などしない。女中達と早起きして朝餉の支度をしているはずだ。

 什器の支度をしていた女たちの中のひとりが、駿太郎に問うてきた。「あのぅ…。融様は?」

 見たことのない顔だった。

 「融は朝が弱いから、昼近くになるまでは顔を見せないよ」

 新入りの女中なのだろう。この家の決まりごとに通じていないようだから、まだ日が浅いに違いない。

 「おはよう、駿ちゃん。朝ご飯はもちろん、うちで済ましていくんでしょうね?」

 「おはようございます。清子さんの朝ご飯、ありがたくいただきます。ところで今朝は望月のおじさんは…」

 「さあ。昨夜は遅かったから、融と一緒でお昼頃にならないと顔を見せないんじゃないかしら」清子はうららかに応えた。

 帰りの“遅かった”望月のおじさんを出迎え、その後も何やかやと世話を焼いて、清子が眠ったのは何時ごろなのだろう。それほど眠っていないのではないかと思う。それでも、疲れた様子も寝不足の陰りも微塵もない。

 実母ではないにしても、このような人が母親代わりだったことは幸せだったと駿太郎は思う。

 「今朝は、お玉さんは?」

 いつもなら、駿太郎の朝餉の給仕をするのはお玉のはずだが、今日はさっきの新入りの女中が、見るからに不慣れな様子で務めている。

 「お玉には、ちょっとお使いを頼んだのよ。なあに、何かお玉に用事があったの?」

 「用事と言うほどでも。が、ちょっと昨日の茶碗蒸しのお礼は言っておこうと思いまして」

 「それはお玉が喜びますよ。あたしからお玉に伝えておきましょうね。…あらっ!?まあ!」清子が突然、驚いた顔で目を見張った。

 何事か、と、駿太郎と新入り女中もつられて、清子の目の先の方に顔を向けた。

 そこには、ぽかんとした表情の融が突っ立っていた。

 身支度は済ませてある様子だから、薬や水を求めて起きて来たということでもなさそうだった。

 「何だ、融。こんな朝早くから起きてくるなんて、驚くじゃないか」

 「そんなに驚くことなのかい、僕がいつもより早起きしたからって?」

 「夏のさなかに雪が降るのを見たくらいには驚く」

 「それじゃあ、天変地異みたいで縁起が悪いってことになるみたいだね」

 「そこまでは言ってないぞ、融」

 言い方を間違えたらしい。

 駿ちゃんは縁起の悪いものを見たわけだから、気を付けた方がいいよ」融はくるりと背を向けると「小梅さんの占いが大外れするとか、覚悟したらいいかもね」言い置いて、すたすたと廊下の先へ歩いて行ってしまった。本当に今日はたまたま体調が良くて、いつもより早く起き出しただけなのだろう。

 「あの、融様の朝ご飯は…」新入り女中のおずおずとした声で我に返った。

 「ああ、融は食べない」

 「あの子は、朝は何も喉を通らないのよ」

 駿太郎が先だったか、清子の方が少し早かったか、ほぼ同時に応えていた。

 病弱な人間が常とは違う振舞をするのは、周囲の人間からすれば、本気で夏の雪ぐらいに気遣わしいものなのだ。本人が無頓着なのがたまに憎らしくなるが、立場が入れ替わらない限り、おそらくは、お互いの気持ちなど解かりっこないのかもしれない。

 「小梅さん、占いをなさるのねぇ」気を取り直した清子が話題を変えた。「初耳だわ。当たるのかしら?それで駿ちゃんの卦はどうだったの?融の口ぶりじゃあ、吉とでたような…」

 「あんなものは気の持ちようですよ」触れられたくない話題だった。よりによって、こんな話ネタを置いていくなんて、融は意地が悪い。「おみくじと同じで、凶なら枝に結んで帰るし、吉でも枝に結んで神仏に無事を祈って帰ってくるし…」うろたえ過ぎて、自分でも何を言っているのか分らなくなってきた。

 「うふふ、そうね。吉と出たら覚えておいて、凶と出たら忘れてしまえばいいものね。駿ちゃん、食が進んでいるようだから、あじの干物、もう一枚あぶりましょうか?」

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 一旦は自宅に足を向けたが、考え直して萬字堂へ向かった。

 どうせ、ますぐと家に帰ってみても、小梅が待ち伏せているばかりだろう。

 一晩経っても案の定、名案なんて浮かばない。あの皿は手に余る。短絡だが、「とてもじゃないけど無理でした」、と言うことで返してしまうのが一番賢い選択だ。常次郎にはそう告げるつもりだ。

 そして、こんな変なものを商おうという人物をもう一度じっくりと観察してみたいとも思った。だから返却に赴く際には同道したい旨も、常次郎に話そう。

 萬字堂へ向かう途中で菓子屋に行き当たる。みはる屋。ここの「きんつば」は常次郎と、その妻みさきの共通の好物だ。昨夜は慌てて家を飛び出し、今日は思いつきでこちらに足を向けたから、持ち合わせは少ない。小さな菓子を二つだけ包ませて友人宅へ向かった。


 常次郎の店は、商店の立ち並ぶ賑やかな界隈にある。

 それがこの店にはよく似合う。と、「萬」の一文字を白く染め抜いた、紫色の派手やかな大暖簾を眺めつつ駿太郎は思う。周りが雑多だからこそ、それなりに収まりかえって見えるが、駿太郎の古道具屋のある近辺ならば、いかにも怪しげに見えて、周囲から浮いてしまいそうだ。

 萬字堂の暖簾をくぐると、すぐさま番頭の平四郎が現れる。

 なかなか、独特の雰囲気のある人物である。

 「おや、駿太郎さん、お早うございます。こんな朝早くから。主人と何ぞ、お約束でもありましたかな?」

 「お早う、平四郎さん。特に約束はしていないが、常のヤツなら何の要件か承知しているさ」

 「へぇ…、さようで」平四郎は元より細い目をさらに細めて、とくと駿太郎の顔を眺めると、「こんな日もあるんですなぁ」ほとんど歯の残っていない口をぽっかり開けて声のない笑い(?)を漏らした。

 平四郎の話は、ほぼいつも始まりも終わりも無いから、何のことを言っているのか解からないのが普通だ。それで一体、番頭が務まるのか?と言うと、この怪しげな店には彼の得体の知れなさがぴたりとはまっていて、何の不思議も感じない。非日常へのとば口にふさわしい人物とも言える。

 構わず店奥へと入っていくと、目指す常次郎と、融が居た。平四郎が言っていたのはこのことか。

 魚や野菜、日用品を扱っている店ならいざ知らず、半分は幻を売っているような店に、朝っぱらから約束も無く、立て続けに来客が続くのは確かに稀有なことだ。

 「駿ちゃん、いらっしゃい」常次郎が丸々した顔に満面の笑みを浮かべて駿太郎を歓迎する…かと思いきや、いきなり吹き出し、更には畳の上にひっくり返って大笑いしている。

 「何だ、融?」

 [何でもないよ。常ちゃんは、駿ちゃんに逢えて大喜びなだけだよ]

 何でもない訳がない。それは分っているが、とりあえず「そうなのか」答える。

 「常。あの件なんだが、あれは、返そう」

 真顔に戻った常次郎が答える。「無理かい?」

 「無理だ」

 「分った」

 「何だ、朝からまた仕事の話なのかい?今日も良い日和なんだし、これからどこかに遊びに行く話でもすればいいのに」

 「あのなぁ、融」

 「いいねえ、融ちゃん。それ。これくらいの時間からなら、みさきに弁当を詰めさせて…、そうだねぇ、ゆっくり行っても昼頃には圓山に着くだろうさ」いきなり常次郎は乗り気のようだ。「花の見ごろにはちょいと早いだろうけど、三人で出かけるなんて何時ぶりかな。滅多にない機会かもしれないね。ねぇ、駿ちゃん?」

 駿太郎ははっと胸を衝かれる思いがした。

 ここ数年、訪ねて来るのはもっぱら融の方からで、駿太郎の方から融を訪ねて行くことはほとんど無くなっている。別に仕事がそれほど忙しいわけでもない。しかし日々、何くれとするべきことはあるから、それと気づかずに取り紛れてきたのだ。これと言った理由を見つけるのは難しいが、何となく融とは何かが隔たってしまっている。

 融は左うちわの結構な身分とは言え、体の自由が利かない。

 日がな一日、独りで過ごすことも多いだろう。

 俺はやはり、それほど優しくもないし、気も利かない。常次郎の方がずっと優しいではないか。


 今日の融は始終上機嫌で体調も良さそうだった。

 「常、あれは何だったんだ?」

 「あれって?」

 「今朝、俺の顔をみるなり馬鹿笑いしていたろうが」

 「ああ。あれ」常次郎の頬が含み笑いでぷっくり膨れる。

 「そんなに面白いことなら、俺にも教えろ」

 自分にとっては決して面白い話ではあるまいと予感しつつ、駿太郎は常次郎に詰め寄った。

 「だめだよ駿ちゃん。融ちゃんに、絶対に秘密を守るって約束して、教えてもらったんだから」

  常次郎は必ず約束を守る。それが良いことか、悪いことかの区別はつけずに請け合う。ただ、闇雲に何でもかんでも約束はしないから、周りの信用も硬い。常次郎がだめと言うなら、聞き出すのは無理だ。

 「でもねえ、どうせそのうち駿ちゃんにも分ることだから、楽しみにしていなよ」

 何が待ち受けているかは、神のみぞ知るということだ。

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 その日も朝から太陽が燦然と輝き、世界は光の大洪水だった。

 たかが一晩夜なべしたくらいで、こんなにも陽の光が疎ましく感じるものなのか。目つぶしの砂のように降りかかる光に目をしょぼつかせながら、駿太郎は今朝もまた、望月家の朝の食卓についていた。

 今朝はしかし、昨日とは様子が一変しており、膳に並んでいるのは大皿に盛った握り飯の山と、これもまた大皿に盛った香の物だけである。さながら避難所の炊き出しの様相を呈していた。

 昨日は常次郎と駿太郎との三人で、圓山まで少し早目の花見に出かけ、珍しく食も進んでいる様子だった融の体調に異変が起きたのがいつだったのか、誰にも分らなかった。

 まだ早いと思われていた花見も、実際に訪れてみれば、このところ続いている陽気のせいか、山ぜんたいが薄っすらと口元をほころばせているような優しい風情があり、意外に人出も多かった。すっかり人々の賑わいに釣られ、引き上げてきたのは既に日が傾き、そろそろ風も冷たくなってきた頃だった。

 もっと日も高くて暖かいうちに引き上げるべきだった、いや、それよりももっと融の様子に気を配るべきだった、と、いつも後になってからあれこれと考え始める。考えたところで、もう遅い。分っていても堂々巡りは一向に止まらない。

 帰りの途について常次郎と別れた後、さすがに疲れた様子をしている融を背負って望月家まで送り届けたのは駿太郎だった。途中まではまだ気分も良さそうで機嫌良く、あれこれ喋っていた融が急に黙り込んだのを、眠ってしまったものと勝手に思い込んでいたが、望月家に到着してみると、融は高熱で意識を失っていた。

 そうと分ればじっとしては居られない。

 まずは融のかかりつけ医の家まで走り、「あいにく遠方へ他出中」との返事を聞けば、思い当たる医者の家を片っ端から当たってみた、が、不思議なことにどこも同じ返事が返ってくる。ようやく子細を正してみることを思いついたのは八軒目を当たった時だった。

 「同業の人たちと温泉にね、出かけているんですよ」

 よりによって、それが何故、この日この時なのか。昨日だって明日だっていいではないか。膝から下の感覚が無くなり、駿太郎はその場にくずおれそうになるのをぐっと踏みとどまり、弾みをつけて駆けだした。

 近所でも名高い嫌われ者の医者!あいつなら、絶対に誰からも温泉なんぞには誘われない!あいつなら、今この時も在宅のはずだ!

 と言うのはまったく甘い見通しだった。

 何故なら、誘われようが誘われまいが、人は自由にどこにでも歩き回れるからだ。

 嫌われ者らしく連れ合いは無し、弟子も居ず、気ままな独り暮らし。一旦ふらりと外に出ていけば、その行く先は誰も知らず。駿太郎がやっと嫌われ医者を見つけ出したのは、深更に及ぶ頃だった。

 走り回ってる最中も堂々巡りの物思いは続いていた。望月家に医者を引っ張っていく間も、そして一晩中まんじりともせずに望月家の家中の気配に耳をそばだてている間も、思いはぐるぐると同じところを回り続けていた。

 明け方に融の部屋から出て来た嫌われ医者は、むっつりとした顔で真っ直ぐに駿太郎のところへやって来た。「人間というものは勝手に病気になるが、治る時も勝手に治る。そういう風に出来ている」そう言うと、他の誰にも挨拶することなく、勝手口から外に出ていった。戻ってくる気配はないから、そのまま帰って行ったのだろう。駿太郎の頭の中のぐるぐるが解けて消えていったのはその時だった。

 特に食欲は覚えなかったが、皿から一つ、握り飯を取り出して一口頬張ってみた。

 美味かった。

 塩が利いていて、飯粒の甘みが増している。二つ、三つと手は止まらず、次々と飲み込みように腹に納めていく。四つ、五つ、六つ…。皿の上の握り飯の半分は駿太郎の胃袋の中に消え、いつの間にか膳の上に据えられた湯飲みを手に取った。

 「あの、駿太郎様…」

 初めて見る顔だった。

 そう言えば、昨日も同じことを思ったことに考えが至り、思い出した。新入りの女中だ。

 「あの、ありがとうございました。融様の為にお医者様をお連れ下さって」

 「何、そんなのは当たり前だ。礼を言われることなんか一つも無い、あんたはまだ何も知らないんだろうけど、俺と融は血は繋がっていなくても兄弟みたいなものなんだ」

 「兄弟ですか」

 「ま、追々分ってくるさ」

 「駿ちゃんが居てくれて、本当に心強く居られましたよ」相変わらず疲れた様子は微塵も見せずに清子が汁物を手ずから運んで来た。「何か有った時に、男の人が居てくれるというのは心強いものなのよ。ねぇ、ミヤコさん」

 このところ、望月家の主人は家を開けがちなようで、昨夜も望月のおじさんは不在だった。商売繁盛は誠に結構なことだと思うが、その分内助の苦労は増すに違いない。昨日久方ぶりに逢った清子の髪に白いものが増えているように感じたのは決して気のせいではなかったようだ。

 いつまでも何も変わらない、永久不変のものなど無いことは駿太郎だって承知している。こうして知らないうちに少しずつ何かが変わっていくのだ。それでも今少しだけ。もう少し今のままの生活をしていたい。

 「清子さん、俺はそろそろお暇します。もう丸一日以上も家を空けているし」

 「そう。昨日はすっかり融の世話をさせてしまって、ごめんなさいね。ありがとう駿ちゃん。もう、ここらで解放してあげなくちゃね。お家に帰ってゆっくりとお休みなさいね。ところで、駿ちゃん。源信さんが見当たらないのだけれど、見かけなかったかしら」

 「は?ゲンシンさん、ですか?」

 「清子様、源信様でしたら、今朝がた勝手口から出て行かれるのをお見かけしましたから、そのままご自宅へお戻りになられたのではないかと」新入りの女中が応えて言った。

 誰のことかと思ったら、嫌われ医者の名前らしい。

 「そう、では後で使いを遣らないと」

 「それじゃあ清子さん、これで。朝ご飯、ご馳走様でした」頭を一つ下げてから立ち上がった。

 「駿ちゃん、気を付けてお帰りなさいよ。そして、しっかりとお休みなさいね」


 家に帰りついて見ると、予想に反して隣家から待ってましたとばかりに小梅が飛び出してくる気配もなく、少々拍子抜けしてしまった。しかし、玄関の戸を開けた瞬間、こちらは予想通り、極寒の空気が漏れだしてきた。慌てて家の中に駆け込み、冷気の根源を外に出し、家中の開口部を開け放った。とは言え、とてもじゃあないが、冷え切った座敷には長く居られたものではなかった。それほど広くはない庭に出て、日当たりの良い場所を選んで座り込んだ。

 帰りがけに清子が持たせてくれた包みを開くと、握り飯に香の物、卵焼きまで添えてあった。今朝はいくらでも腹に入る。自覚は無いが、それだけ腹が減っていて、疲れてもいるのだろう。清子が言うようにしっかりと休みたいところだが、そうもいかない。

 「まずは、おまえをどうにかしなくちゃな」天日に晒した小皿に向かって話し掛ける。

 小皿は何も応えなかった。

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 「さようですか。この皿を商うのは難しい、と。そう仰る。さて、それはどのような理由からなのか、お聞かせいただいても宜しいでしょうかな」

 「理由ですか」

 「はい。当初、わたくしが相談を致しましたのは萬字堂さんでした。それが今はあなたのところに回っている。その件については何も申し上げることはございません。店にはそれぞれ色合いと言うものがございますから、ご自身の店では合わないと思われたのなら他所よそに相談するのは理に適っておりますし、萬字堂さんが内生蔵さんのお店を選んだのも良いご判断だったと思います」

 駿太郎は今、たった一人でひねもす堂の主人音在辰之進おとざいたつのしんと対峙していた。

 小さな皿を一日半放置しただけで、自宅は氷室と化してしまった。もう半日同じことをしたらどうなることか…。この件はさっさと片付けるに如くはなし。と、今日再び萬字堂を訪れてみれば、あろうことか常次郎まで熱を発して寝込んでいた。

 さすがに常次郎の場合は意識不明の重体ということは無く「まいっちゃったよ、駿ちゃん。ここいらへんのお医者さん、みんなして温泉に行っちゃってて誰も残っていないみたいでさ。滋養を摂って自分で治さなきゃあ」卵を二つも落とした鍋焼きを旺盛にすすり込んでいた。

 治る時も勝手に治る。

 唐突に嫌われ医者の言葉を思い出した。なるほど。常次郎なら、もう半分くらいは治っていそうである。とは言え、病人を伴っての訪問は避けるべきだろう。そんな訳で今日は駿太郎一人でひねもす堂を訪ねることとなった。

 「理由と言われましても…」

 常次郎なら何か旨い言い訳の一つもひねり出すのだろうが、駿太郎にその才は無い。話す方はまったくの不得手だ。口喧嘩だって、いつも融に負けている。

 「言いにくいことですか」

 「はぁ、まあ」

 畳の上に置かれた件の皿を見つめる。今は、開け放たれた連子窓れんじまどから差し込む陽の光を浴びて普通の皿にしか見えない。

 本当の理由など、言うわけにもいくまい。売り物になどならぬと頑としてゴネる土器やら、しょっちゅうどこかに隠れて見えなくなる悪戯好きの蕎麦猪口そばちょこの話など、駿太郎とは付き合いが長いからこそ、融と常次郎になら半信半疑でも信じて貰える。

 それに今回はよその店の商い物だ。言いがかりにしても、内容が薄気味悪過ぎるし、悪くすればこちらの正気さえ疑われるだろう。

 「では、こうしては如何でしょう。この皿は引き取らせていただきます。ですが、わたくしはこの皿にかなった買手を探しております。それは変わりません。それをお心に留め置いていただき、折々にでも内生蔵さんのお客様にお話しいただいて、もし是非にと仰る方が居らっしゃれば、ご紹介いただく。これでは?」

 すでに「是非に」の方はいらっしゃる。しかし、それは。

 その時ふと、何かが目の端をよぎったような気がした。

 ひねもす堂の主人の後ろにある、違い棚のあたりだ。

 とろりとした滑らかな肌合いの石が置いてある。手の平よりも少し大きく、空豆に似た形をしている。石ではなく玉だろうか。自ら発光しているような優しい乳白色の石。

 見ている間に、石の表面をチラリ、何かがよぎった。どこからか反射した光が当たったものか?

 いや、石の表面ではなくて、「中に」何かが居る。

 そう悟った途端に、曇りが果てるように石から色が抜けていった。

 小さな魚が優雅に身を翻して、出口の無い、透明な器の中を泳ぎ回っている。そのように見えた。

 「如何なさいましたかな?」

 ひねもす堂の主人の声で我に返った。

 石も元通りに戻っていた。

 「その、違い棚のそれは、もしかして玉でしょうか?」苦し紛れに言葉を絞り出した。

 ちらと違い棚の方へ眼をやり、振り返ったひねもす堂の主人は、とても優しい微笑を浮かべていた。

 「これですか?これは、ただの石です。手前どもでは、これを魚石さかないしと呼んでおりますが」

 「魚石?それは…、どう言った理由で?」

 「この石を耳元で振ってみると、微かに水音がすると仰るお客様がいらっしゃいます。また或いは、それどころか石の中を泳ぎ回る魚を見たと仰るお客様もいらっしゃいました。ある時に学者先生にお尋ねしたところ、この石が、石になったのは何千年も前だと教えて頂きました。それで、石の中に水の溜まっていることくらいは有るかもしれぬ、とは思いましたが、何千年も生きる魚は信じられませんから、この石はよく魚の夢を見るのです、と、そう、お客様にはご説明致しました」

 「石につけたあだ名。そういうことですか?」

 ひねもす堂の主人は声を発すること無く、ただ、微笑で応えた。

 面白い。この人の話をもっと聞いてみたい。そう思った。

 「先ほどのお話は承りました。これという方が居たら、必ずご紹介致します」

 駿太郎は、生涯初めての嘘をついた。

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