春夏秋冬ひねもす堂
@Aomi_kins8149
第1話ひねもすのたりのたりかな
あるところに、一人の男ありき。
彼は驚くほどに若くもないが、さりとて、年寄りでもない。
ヒント。
彼はいまだ未婚で独り身、そうして、取り立てて身体の不調を自覚するような年代でもない。
まあ、これをたまたま目にしたあなたが、誠に好きな年代を想定して問題は無いということを最初に申しあげておこう。
そもそも、必ずしも身体の古くなった順から「あの世」への片道切符を手渡される訳ではないことは周知の事実であるし、それに、必ずしも年長の者がいつも賢くて正しい訳でも、若年の者がいつでも愚かで間違っている、という訳でもない。若いの中年だの初老だのと細かいことにこだわることに何の意味があるのか?との作者の手前勝手な意向でもあるので、切にご容赦願いたい。
さておき、彼の名は
生業は古道具屋。
今でいう、リサイクルショップ、または骨董屋にも当たるだろうか。その時々に扱うモノにもよるから、明確な境界は無い。彼の店はそこそこ繁盛している方だと思う。商売のおおまかな内容をいえば、古物を仕入れて、それを買いたいと思う客に売る。それがすべてだ。
ただそれだけの話では、いかにもつまらない。作者も、そう思う。
だから、ご安心あれ。それだけでは済まさない。
彼には、本人が望むと望まざるとに関わらず、ある特殊な才能が隠されている、と言うことにする。
ところで、お立合い?
あなたは「モノ」が好きだろうか。 新しいモノ、古いモノにこだわらず、モノに関して“フカク、カンガエタコトハ、アルダロウカ?”。
これは、そんな物語である。
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駿太郎の目の前には、今、土器が有る。
縄目の文様がほの見えるから、縄文式だろうか?
なにしろ古い時代の土器である。
「骨董」方面にあたる品だろう。ウリはその非常なる素朴さだろうか。そして、その古さ。
骨董の世界には伝世品なる言葉がある。簡単にいえば、代々大切に保存されてきたモノのことを指す。何十年、何百年、ときには何千年と人から人の手に渡り、その時々の持ち主に大事にされながら、結果、今に至る品。
骨董を好む手合いはおおむね、この、時代の超越感をも含めて買い取るつもりでいる。そんなことは、実際には無理なのだが、夢が有るとは良いものだ。
だから年代の古さを盾に、法外な値を吹っかけて一儲けしたって、誰からも不満は出ない。そもそも需要ありきでの商売だ。それに、骨董品は高値こそが逆に箔ともなる。
「何があっても、お前はそこにいるんだな」
今、駿太郎の前には、縄文土器が有る。
案外にきちんと片づけられている店先には、駿太郎よりほかに人影は見えない。
「そっちだってあっちだって似たようなモンだろうに、何としてもこっちがいいって訳か」
駿太郎の前には、土器より他に、それらしき対象は見当たらない。どうやら土器を相手に喋っているようだ。孤独な人間は、得てして独り言が日常になる傾向があるというから、彼もその
「ああ、解かんねぇな。解かりたくもねぇ…なっ、何だと、も一遍言ってみやがれ!」
今度はひとりで、いや、土器を相手にいきりだした。当人は真剣に土器を相手にしているらしい。正気の沙汰かどうかが疑わしくなってきた。
駿太郎、柄も大きく声もでかい。店の前をツイと通り過ぎる人々が、おやと足を止めたようだから、表までも声は届いたようだ。
「もう決めた!鬱陶しいお前ごと、こんなガラクタはきれいさっぱり売り払ってやるからな!」
「駿ちゃん、駿ちゃん。仮にも古物屋が自分ンとこの大事な商い品を、がらくた呼ばわりするのは外聞が悪いよ。表に聞こえてるよ」
店先にふらりと入ってきた人影が、優しく落ち着いた声で駿太郎に話しかける。
駿太郎よりもひとまわり小柄で、華奢な身体つき。人をホッとさせるような、穏やかな空気を纏った、様子の良い気配に似つかわしく、小奇麗な身なりをしている。どこぞのお金持ち様なのだろう。一方、駿太郎といえば、全体的にシワが寄ったナリをしており、いかにも放ったらかし。この二人、見た目からして、非常に対照的である。合縁奇縁というやつか…いや、年代は駿太郎と同じくらいだから、おそらく竹馬の友というやつだろう。「駿ちゃん」なる親しげな呼びかけも、それで納得がいく。
「駿ちゃん、またやっているのかい?昔っから、変な癖だねえ、それ。それで、今日はその壺がなんて言ってるんだい?」
どうやら、駿太郎には常日頃、命無きモノに話しかける癖があるらしい。
「コイツには先ごろいい買い手がついたんだ。だけどコイツ、売られたくねぇ、って頑張ってんのさ。売られたくない商いモノなんか、ガラクタ以外の何モンでもねぇや」
「おや、その壺、ゴネているのかい。面白いね」
「面白くなんかない」駿太郎の眉間に縦の線が刻まれる。「で、
「ああ、日取りが決まったから知らせに来たんだよ。早く知りたいだろうと思ってさ」
「日取りィ?」
駿太郎の見上げた先の、融の顔の片側が、不自然な薄笑いにゆがむ。意地悪気な、腹黒い満足を覚えているような笑み。駿太郎にひらめくものがあった。
「…まさか、その日取りってぇのは、この前の…」
「母さんの気合の入りようは、尋常じゃあないからね。何しろ大のお気に入り、駿ちゃんの縁談だ。東奔西走して…」
「その話、断ったはずだろ?お前だって脇で聞いてたろが」駿太郎の眉間には、今や額がバックリ割れそうな深い縦の線が刻まれている。
融、それには一切取り合わず。「日取りは三日後、お日柄も良く大安吉日。時は、お昼ごはんを頂きながらの座を設けるから…仕度も考えて早めに来なきゃダメだよ。場所はうちの離れを使うからね。もしかしたら、僕が迎えに来させられるかもしれない」一息に通告を果たした。
「三日後って…そんな急な、俺の心だって決まらない」
「善は急げってね。駿ちゃんの心が決まっちゃ困るのさ。そしたらまた、断るだろう?母さんは奇襲作戦を仕掛けるつもりなんだよ。そう簡単には逃げられないかもしれないね。うっかり応援したくなるような張切りぶりだったし」融の綺麗な顔から、いびつな薄笑いがさらりと解け落ち、自然な微笑が浮かんだ。「さあ、これで必要なことは全部伝えたよ。後で母さんが乗り込んで来るはずだから、少なくとも今だけは心の準備ができた訳だ」
駿太郎、それを聞いて
古今東西、縁談といえば吉事と決まっている。しかして、駿太郎にとってはあまり嬉しくない状況のようである。その理由はまだ判からないが、彼のように変人の部類に入るような人物のところに、もしかしたら嫁入ることになるかもしれない相手の方こそ、よほど嬉しくない話だろう。
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「まあ!まあ!まあ!ほら、やっぱり、思った通り。融の借りものじゃあ、丈も幅も絶対に足りないわ!」
要件を済ませた融があっさり帰って行って程なく、かねて予告どおりの敵襲…もとい、融の母・
駿太郎の方はといえば、宙に架けられた見えない十字架に磔になっているような有様で、座敷の中央に案山子のように突っ立って、息まで殺してジッとしている。何しろ清子とその女中・お玉とが、それぞれ巻尺やら物差しやらを手に、すっかり彼を包囲しているのだった。
「奥様、駿太郎さんには融様のより、旦那様のお召し物の方が合うかもしれませんねぇ」
「そうねぇ、その通りだろうけど、洋服じゃあ主人のものだと年に見合わないし…、和装じゃあ紋が違いますよ。新調するにも日が無いし、どうしましょうねぇ」
実は内生蔵家急襲よりこっち、この女人ふたりは、事の当事者はそっちのけで、ああでもないこうでもないと、ずっと話し込んでいるのだ。もう、かれこれ1時間以上はこの調子で、駿太郎にしてみれば、すでに半日は経ったような心地であった。
なんとか噛み殺したあくびが、涙となって眼の端にうっすら滲み出た。
ふと気づくと、座敷が静まり返っている。
恐る恐る、眼だけで清子を見下ろせば、駿太郎の顔にひたと目を据えた清子の顔があった。
「駿ちゃん、あなた仮にも古道具屋さんなんだから、まさか古物を捨てたりはしてないわよねぇ?」
言うが早いかいそいそと、内生蔵家の店の奥、母屋よりもずっと広い物置に飛び込んだ。そうして、ひとつも迷うことなく、駿太郎の父親の遺品の入った行李を探し当ててきた。実際に古物の山をかき分け、掘り起こして運び出したのは、忠臣お玉の功績だったが。
「奥様、これならイケそうですよ!」
駿太郎の父親の物であった紋付で、どうやら今回の急場は凌げそうだということで女人ふたりは意見の一致をみた。これでようやく自由の身になれるかと思いきや、駿太郎、再び座敷の案山子となり、今度は遺品の紋付をあっちに当て、こっちに当てされながら今しばらく、女人ふたりと時を過ごすことになった。それでも今度は具体的なモノがあり、駿太郎には見当もつかないような目安をもって、女人ふたりはテキパキと判断を下していく様子だった。
「お玉、この辺りはこう。そうそう、そんな感じで」
「奥様、ここはこうでしょうねえ?」
さらさらいう衣擦れの、音の合間に交わされる会話は、必要最小限のことを伝え合うだけで、ひそひそと静かである。外は陽炎の立つ春の陽気で、春まだ浅いとはいえ、火の気は無くとも屋内は充分に暖かい。知らず知らずのうち、うつらうつらしていたものか。
「さっ、駿ちゃん。もういいわよ」
背中をポンと叩かれて、駿太郎はハッと、今夢から覚めたような気がした。
「随分長居しちゃって、すっかり商売の邪魔をしちゃったわね。…それにしても、駿ちゃんは良く育ったわねぇ。お父さんを追い越していましたよ」
清子の顔からこぼれだした笑みは、喜びとも哀しみともつかない複雑な色合いを帯びていた。
駿太郎は何と応えて良いか解からず、だから、何も言わずに、ただ振りかぶるようにして頭を下げた。
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本当に、随分長居をされていたように感じていた。
にも関わらず、案に相違して日がまだ高いことに気付いた駿太郎は、本気で驚いてしまった。
綿菓子のような雲が、ゆっくりと青空を渡っていく。
駿太郎はほっと息を吐くと、店の玄関先に「本日休業」の札を立てて戸締りをし、そのまま往来に出て歩き出した。
道なりに行くと徐々に地面が持ち上がってきて、勾配の急な坂道となった。
上りきれば大川の土手に出る。そうと分かっているが、この坂を上がるたび、駿太郎はいつも、天を目指して上っていくようだと思う。歩いて天に上がれる訳も無し。上がれたところで、どうしていいか分からないだろうに、とも思う。そういえば、いつだったか、この坂の途中で猫の一列縦隊に行き会ったことがあった。母猫を先頭に、子猫がきれいに一列に並んで付いていく。
小さな尾っぽをピンと立てて、にゃおにゃお賑やかに通り過ぎる様子は、小旗をふりふり晴れの日を祝っているようだった。母猫率いる連隊が坂道の向こうに消えた時、まるで天の隙間に飲み込まれていくように見えた。
ああ、そうか。それでか。
「なんでアイツら並んで付いていくのかな?」
「動物は力関係が厳しいからだろうさ」
「ちから、かぁ。だからおっ母さんが先頭なのか?」
「その後は体の丈夫な順だろうね」
「弱っちいのはダメってことなのか?弱いのを先にして、守ってやったりはしないのか?」
「…駿ちゃんは、本当に優しいんだねぇ」
土手を上りきり、大川を見下ろす。
案の定。
駿太郎はすぐに見つけ出したお目当ての人物目指して、土手を下りて行った。
「融、やっぱりここに居たか。お前があっさり帰るなんておかしいと思ったんだ」
「母さんがお玉を連れて、意気揚々と駿ちゃんの家に乗り込んでいく様子は面白かったし、満足して帰っていく姿も見物だったよ。駿ちゃんの家の中がどんなだったかを想像して、もっと面白かった」
おっとりと構えながらも、話している内容は意地が悪い。それでも、それでこそ融なのだ。
「大体、お前が、自分のおっ母さんを放っぽらかしにしているから、俺にお鉢が回ってくるんじゃねぇか!」
「いいじゃないか、昔っから、駿ちゃんの方が母さんと気が合ってたんだし、僕は子供の頃から母さんとは気が合わない。今更どうにもならないよ」
「気が合ってたなんてことじゃあ無ぇよ。子供の頃からお前はすげなかったよな。だからお前の代わりに、俺が清子さんに合わしてたんだ。お前はそれを全部知っていて、ほんとにタチが悪い奴だな!」
「…駿ちゃんは、本当に優しいんだねぇ」
しれっといわれて、駿太郎は黙ってしまった。いつも、こうだ。言葉では敵わない。
それでも、融に手を出すわけにはいかない。
融は蒲柳の質である。
今はあまり使われない言葉なので解説すると、体が弱い人のことである。
融の母、清子の理想的な母親像は、丈夫で元気で、手を焼かされる子供を育てながら笑顔を絶やさぬ存在だった。清子の母もそんな人だったのかもしれない。とまれ、つまり清子は、色々と他人の世話を焼かされながらも、それを喜ぶような人物ということだ。
融は、体が弱い分、慎重で思慮深い質で、どちらかといえば、孤独を好み、他人に構われたくない性格だから、清子のような人物は天敵とも言えよう。
一方、駿太郎といえば丈夫で活発で、思慮難分別などあの世に置き忘れてきたような性格だから、ちょいと目を離した隙に、屋根に昇っては転落して骨の一本も二本も折り、あくる日には、池にはまっておぼれ死にかけ、またある時には、登っちゃいけないよとキツく注意されている庭の楡の木に登って、降りられなくなり、隣近所を巻き込んで大騒ぎを引き起こす。と、次から次へ問題を起こしては手間をかけさせる存在で、他人にあれこれ構われること位、特に意に介さない子供だった。
ほとんど問題らしい問題を起こさない融よりも、問題だらけで手の懸る駿太郎の方が清子の贔屓になっていったのは必定だった。
「優しいとかでも無ぇよ。清子さんには、本当のおっ母さんみたいに世話になりっぱなしだったんだしな」
駿太郎の実の母は、早々にこの世を去っている。ぼんやりとした面影さえ記憶に無いから、最初から居なかったのと同じだ。それでも、清子が実の母ではないことは区別がついていた。
「じゃあ、駿ちゃんは全部納得ずくだったってことになるよね。何がどうなっても、僕は別に文句を言われる筋合いじゃあないよね?」
融の声が微かだが少し高くなり、口調も早くなった。このことに関してはもう、話したくないという融の合図だ。
「まあ、そうだな」
駿太郎としては、言いたいことも色々あるけれど、清子のことは確かに、ずっと慕っているし、融のことも理屈抜きで大切に思っている。だから、いつもの言葉を口にして、仕舞いとすることにした。
「融、これから特に用事もないなら、ウチでゆっくりと、一杯やろうか?」
それはそうと、うちには今、肴になるようなものは何かあったっけか?
「いいね、駿ちゃん。そう、来なくっちゃ!」
まあ、肴くらい、何とかしよう。
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家に帰ってみると、酒の肴の心配は、たちどころに解消した。
常になくざわついている隣家の気配をいち早く感じ取った、古道具屋の隣に住む寡婦小梅(こうめ)が手ぐすね引きつつ、隣家の敷居を跨ぐ口実に、ちょっとしたご馳走(口実の名は、お裾分けと言う)を仕立てて駿太郎を待ち構えていた。
この御仁、もとは玄人筋で芸名はぽん太と言う。
三味から小唄、踊りと一通りの芸事もさることながら、料理に関してもなかなかの腕前を持っている。決して美人とは言えないが、人柄に艶がある。そこを見込まれて人妻の身分となり、今は気楽で退屈なやもめ暮らしをしている。生来、気さくで明るい性格のせいか、過去がどうのこうのと後ろ指を差す者は皆無である。いずれにしろ、随分と昔の話だから、周りが覚えてないだけの話かもしれない。
駿太郎の父がまだ少年だった頃から隣に住んでいるから、彼女は駿太郎のことなら何でも心得ているし、逆に駿太郎の方も自然と彼女のことをおおむね心得ている。
「あたし一人だっていうのに、ついつい作り過ぎちゃってねぇ」
ついつい、の、域か?
筑前煮くらいなら、その範疇かもしれないが、なますや焼き物はどうなのか?蒸し物だってあるようではないか?油断していれば、お吸い物さえ供されるような品揃えである。
一晩徹してでも、人ン家の騒動を堪能しようと言う魂胆が、触れそうなほど見え見えではないか?
その証拠に、ごくごく自然な成り行きで、酒の肴にこの婆ぁが込みになってしまっている。
いかがしたものか、と、思案しつつ駿太郎はだし巻卵を頬張った。絶品だった。
「小梅さん、お久しぶりですね。壮健なご様子で何よりです」
融は良家の子息らしく、如才ない。
「あんた、清子ちゃん家の子だろ?大っきくなったねえ。で、あんた、今もおっ母さんのことは嫌いかい?」
駿太郎の息の根が、一瞬停止した。
「大嫌いですね」
融はさらりと言い切った。
「そうかい」小梅は何の抵抗もなく、受け入れた。
その後で、融がほっと息をつく気配を感じた。
小梅が人に好かれるのは、どんな事でも一度は必ず受け入れるからだ。
自分のお母さんが大嫌いだなんて、自分自身でさえ、許せないかもしれない。気安く話せる相手だからこそ、「大嫌い」なんて言葉がすらりと出てくる。融にとっては、小梅の方が、心情的には実の母に近いのかもしれない。
実の親子だといっても、血肉を分けた間柄と言っても、人の付き合いはそんなに簡単なものでは無いようである。
早々に二親とも無くした身の上から言えば、両親ともが生きて側に居てくれるだけで果報と言えるのに、と、れんこんと鯛の蒸し物に箸を伸ばしながら、駿太郎は思う。
「それで、清子ちゃんは、今日は何の用事だったんだい?」いきなり、くるりと駿太郎に向き直った小梅が、ずばり聞いてくる。小梅に遠回しは無い。
「駿ちゃんの縁談ですよ」
今しがた、口いっぱいに食い物を頬張ったばかりの駿太郎が返答に詰まっている隙を突いて、融がサクッと答えた。
「へえぇぇぇっ!そりゃぁ、いいねぇ、おめでたい話だよ!」
「母さんの気の入れようと言ったら、そりゃぁ尋常じゃありませんから、この話は間違いなくまとまるでしょうねぇ」
駿太郎にとって、新情報である。
一気に膨らむ怒りも、蒸し物の鯛の美味さに押し戻されて、悔しくも一言も言葉が出ない。
「どんな娘だい?あんた一目でも見たのかい?」
「ええ、一度家に挨拶に来ましたから」そこで言葉が途切れ、融は少し考え込んだ。「どんな人だったかと言うと…」
「美人だったかい?」
駿太郎もそこで少し考え込んだ。相手の美醜なんて、まったく、考えなかった。 ただ、ひたすらに、新しい家族なんて想像もつかなかっただけだった。融が居て、清子さんが居て、隣の小梅婆さんが居て、顔見知りの常連客の面々が居て、今までと変わらない生活がずっと、永久に続くのが理想だった。駿太郎は今の生活に満足している。
「そうですね…、あえて言えば、懐かしいような気がする人、でしたね」
「…そうかい」
懐かしい?
「何だそりゃ?古臭い顔をしてたってことか?」
「それこそ何だか分からないよ駿ちゃん。古臭い顔って、何だい?」
「さぁ…。お前が分からないんじゃ、俺にだって分からない」
「この話はまとまらないよ!」小梅が突然宣言した。
「清子ちゃんには可哀そうだけれど、この話は清子ちゃんが思った通りにはならないだろうね。…―ただ、清子ちゃんがどうするかだ。そこが肝だよ」眉間に皺を寄せた小梅の顔が、駿太郎と融の顔を交互に睨み付けた。
小梅がそう言うのなら、絶対にそうなる。
駿太郎も融も、それは経験的に知っている。
駿太郎の縁談は壊れ、そして、清子次第で何かがどうにかなるらしい…。それが何なのかは良く分からないが。それでも、今の一言で駿太郎の憂いの曇りはきれいさっぱり吹き飛んだ。
「小梅さん、これ最高に美味ぇよ!」
「そうだろうよ!今日はいつもより、一層よりをかけたからね!」
お裾分けに、よりをかけるような奴はいねぇよ!と心の中で言いかえしつつも、駿太郎は満足だった。これで、何の心配もない。
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翌朝目が覚めると、きちんと寝巻を着て布団にくるまれていた。
まだ陽のあるうちから始まった酒宴が、いつ跳ねたのかは覚えていない。
酒器や皿、小鉢の類もきれいに片付いているところを見ると、小梅と融が万事取り仕切ったのだろう。小梅は元玄人だし、融はああ見えて実は酒豪だ。あの華奢な身体のどこに消えるのだろう?という量を飲み干して、一度も崩れたところを見たことが無いし、翌日もけろりとしている。
駿太郎も、別に酒に弱いという向きではないつもりではあるが、記憶が飛んでいるような日の翌日は頭が重い。
―少々やり過ぎた。
と、思う。
小梅が駿太郎の破談を予言してから後は、上機嫌でよく食い、よく飲んで、はしゃいでしまった。その自覚は残っている。
そして、融はというと、少し、しょげてしまったように見えた。
如才なく小梅を盛り立てつつ、無理やりに座を盛り上げているような振る舞いも目に付いたことを覚えている。
融は、何を望んでいるのだろう?
実際、実の息子そっちのけで、よその子供の縁談に心血注いでいる母親を見るとは、どんな気持ちなのだろう?
駿太郎には想像するしかないが、本当なら自分を見つめているはずの母親が、よそを向いているとすれば、悲しく寂しい気持ちだろうと思う。その「よそ」が「壊れる」となれば、爽快ですらあるかもしれない。
それ、見たことか。「実の子」をないがしろにしたんだから、罰が当たったんだ、当然の報いだ!
くらいのことは思ったとしても、駿太郎的には不思議ではないし、そうだったとしても自分は絶対に融を許すだろう。しかし、融はそんな人間ではない。融は、どちらかといえば…。
あれこれ考えているうちに、うとうとと、また寝入ってしまったようだった。
次に目が覚めたのは、正午過ぎに萬字堂が訪ねて来た時だった。
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萬字堂とは、駿太郎の同業者の屋号である。
とは言っても、古物を扱っているという部分だけが共通項で、駿太郎の店とはまったく性質が異なる商いをしている。
駿太郎の店は純然とした古道具屋で、懐具合によって間に合わせの品を購う客あり(こちらが圧倒的に多い)、時たま、どうして紛れ込んだのかと思われる、「趣味人」と称して法外な値段でガラクタを購う客あり(金にはなるが、注文がうるさくて面倒くさい輩)。
まあ、いずれにしろ、どちらも有難いお客様には違いは無い。
それに、前者は世事に長けており、すぐさま役に立つ知識を授けてくれるし、後者については学問を授けてくれる。どちらの客も面白い。
萬字堂が狙い定めているのは、真っ向から後者の客である。
だから、萬字堂の店頭に並んでいたり、店奥に秘蔵されているのは値打ち物の書画骨董の類が主である。
つまりは、一流店と二流以下の店の違いなのか?と思われるかもしれないが、そうとも言い切れない。
萬字堂の店奥には、
駿太郎の店を、実用と趣味の店とするなら、萬字堂は趣味と幻想の店と言える。
読者がどう判断するかは、もちろん読者に預けるが、本来なら萬字堂を引き受けるはずだった跡取りは、この店がよほどに嫌いだった様子で、大人になると同時に軍隊に志願して、現在は遥かに遠い、海を越えた向こう側、大陸の駐屯地に居る。逃げも逃げたり。極端の極みとも言えるが、嫌だというものは仕方がない。
そんな訳で、現在萬字堂の主人を務めているのは、その弟に当たる池田常次郎と言う、駿太郎と同級で融とも共通の、仲良しの友達である。
気難しい融が気を許している人間は、そう多くは無い。
それに、駿太郎にとっても特別で、大事な友達であった。
「へぇ、そんなことになっていたんだ?」
常次郎、自ら持参した“手土産”の桜餅を盛大にパクつきながら、ふんふんと駿太郎の話に耳を傾けている。
典型的男所帯で、気の利いたものは何も無い駿太郎の家では、こういう光景は日常茶飯事である。この家では自分土産を持参しない限り、茶は(さすがに)出て来ても、茶のアテは出て来ない。無類の甘味好きの常次郎としては、茶が有って、茶請けの菓子無いなどと言う状況は絶対に許せない。かと言って、“自分土産”を独り占めすることを旨としているわけではない。
食に関して、全く好き嫌いの無い駿太郎と、甘味を共に楽しむのを幸せとしている常次郎としては、今朝(すでに日は午後に傾いていたが)は、甘味に対して食指が動かないと駿太郎に宣言され、その仔細を問うていたところであった。
元は十個、包んでもらった桜餅の残りは、あと一個である。
常次郎、駿太郎の淹れたほうじ茶をずいっと飲み下して、「でも、小梅さんによれば、駿ちゃんは無罪放免、お咎めなしで済むわけだ」結論を付けた。
常次郎の吐き出したげっぷの音を聞きながら、駿太郎はこくり頷く。
「そんなに、嫌だったんなら、良かったじゃない」
「でも、俺は清子さんが可哀そうなのは嫌だ」
「やれやれ…相変わらずややこしいねぇ。それじゃあ、一体、どうしたら良いのやら。でも、駿ちゃんらしいね」常次郎はひとつため息をつき、続けた「駿ちゃんは昔から優しいからねぇ」
これは駿太郎の癇に障った。
融にしろ常次郎にしろ、口をそやして駿太郎を「優しい」と評するが、駿太郎としてはその真意が分からない。取り立てて自分が優しいなどとは思ったことが無い。居心地が悪いので話題を転じることにした。
「それで、今日は何の用事だったんだ」
残り一個の桜持ちをひっ掴んで、無理やりかぶりついた。
「ああ、忘れてた」夢から覚めたように常次郎の顔が引き締る。
仕事向きの話だ。
「多分、あれは相当にまずいと思ったから、玄関に置きっぱなしだよ」
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玄関の脇に置かれた小さな風呂敷包みからは、凄まじい限りの冷気が噴き出していた。駿太郎は歯が鳴るような冷気に耐えながら、“それ“を見つめた。
それから、すぐ隣に居る常次郎の吐き出す息が白いのを目に留め、この幼な友達も、この異常な状態を体感していることを認めた。
「とにかく、外に出せ。良く見たい」
今日は昨日に引き続き、いい陽気である。陽炎が立っているぐらいだから、今日もお日様の天下だ。
何故だか良く分からないが、こうした怪異は陽の下≪もと≫では力を失う。
駿太郎は、春の陽の力強い光と、熱に助けられながら件の風呂敷包みを見据えた。
「なぁ。常、こりゃあ…、一体、何だ?」
「やっぱり、変かい?」
「変なんてものじゃないよ、コイツに魅入られたら、死んじまうだろうな」
常次郎が解いた風呂敷包みの中から出てきたのは、一枚の蛸唐草の小皿だった。
「どっからこんなモン仕入れたんだ?」
「仕入れたわけじゃないんだ。ちょっと相談を受けてね」
「相談?」
「ひねもす堂さんから」
「ひねもす堂!?」
ひねもす堂と言えば、業界では名の聞こえた名店である。
何故名店なのかは、駿太郎は知らない。
とにかく、そうなのだという評判しか聞いたことがないからだ。
それに駿太郎が思うところとして、まず、格が違う。ひねもす堂は確固として骨董品を扱っている店で、しかも、萬字堂のような詐術は用いずとも固定客がついて居る。そう聞いている。
本物の目利きで趣味人ということなのだろう。
骨董品を扱うなら、それなりの学も要るから、知識人でなくてはいけない。
随分前の骨董業界の寄合の席で、一度だけひねもす堂の主人に会ったことがある。長身痩躯で、品の良い人物。
第一印象がそうだったし、話している間に、駿太郎の店が単なるガラクタ屋だと分かった(と、思う)後も、一切態度を崩すこともなく、始終丁寧な態度で遇してくれたからだ。
一流の人とは、こういうものか、と、感心したのを覚えている。
だから一度しか会ったことが無くとも、ひねもす堂の主人には一目置いていた。
ただし、次の言葉を聞くまでだったが。
「この皿を買ってくれる、好い客は居ないものかと」
「これを、買う?」
有り得ない。
「これも、なかなかの品だから一揃い、揃っていれば、それなりの値をつけて捌けるんだけど、このとおり一枚きりの半端モンだろ?ひねもすさんとこのお客さんには相手にもされないらしいんだ」
駿太郎は、唖然としてしまった。
ひねもす堂は、そんなにがめつい店なのか?
自分だったら、どうするだろう?
単純に、買い手が付きそうにない物なら、まず、ひと山いくらで売るか、バラ銭一枚で購える値をつけて店頭のガラクタ箱に入れる。それでもだめなら、他の品のおまけにつける。それも旨くいかなければ処分するだろう。
―しかし、これは…。
「常、何でコイツを俺のところへ持ってきたんだ?」
「何でって、これを見た時から何やら気色が悪くってさ。背中の方から頭のてっぺんまでざわざわして落ち着かないんだ」
アブナい店の主人ですら、何かを感じるのだ。ひねもす堂の主人は案外、大したことのない人物なのかもしれない。
「駿ちゃんなら、何か分かるかと思って」
「何かを、分かるか分からないかは、はっきりとは言えない。けどな、こんなモノを持っていると病気になるかも分からん。それだけは言える。だから、これはウチに置いていけ」
「駿ちゃん」常次郎の、真ん丸に近いような顔の中で口角がきゅっと上がる。
「あらっ、アンタ、ひょっとして常次郎ちゃんかい?」
外で人声がするのを聞きつけたのだろう、隣家の小梅が出て来て、常次郎を見つけた。
「小梅さん、お久しぶりですね。お元気そうで、何よりです」常次郎は礼儀正しく挨拶をした。
「この年になるとね、いつ何時お迎えが来るとも限らないだろ?だから、あんたに今会えたことは幸せだねぇ。おや、そりゃ何だい?まぁ、綺麗なお皿だねぇ」
いきなり小梅が件の小皿に食いついた。
「蛸唐草と呼ばれている模様の皿です」常次郎が真面目に答える。
「タコ?」小梅の目は
「売り物かい?なら、あたしが買うよ。いくらだい?」
「いえ、これはよそからの預かり物で」
「そおぉかい」
常次郎がそそくさと、小皿を再び風呂敷に包み込むのを、小梅はじいっと見ていた。
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いつから、どう。ということは分らない。
別に、それが当たり前だと思っていたからだ。
どうやら自分が、他の人々とは少し違うらしいと気付き始めたのは、父を亡くしてからだ。
十歳の夏に父を亡くして、「望月のおじさん」(融の父)の世話になるようになって、よその家庭を知ってから“普通”はそうじゃない、ということが分った。
望月家では、「物」が喋ったり、「モノ」が何かを仕掛けたりする、なんてことは、経験したこともなければ、夢にも思わない人々が生活していた。
と、言うことは、父も“普通”の人ではなかったのだろう。
その証拠に、望月のおじさんは駿太郎の「変な癖」に眉を
望月のおじさんは、父の親友である。
掛軸や花瓶の前で何やらブツブツ独り言を言っている、身寄りのない子供。それが少年時代の駿太郎だ。
さて、では駿太郎の父とはどんな人物だったのだろうか。
そして、父と二人きりの生活とはどんなものだったのか…。
駿太郎、実は父のことも、ぼんやりとしか覚えていない。十歳にもなれば、もっと良く覚えていてもおかしくないはずだと、自分でも思うのに、一切は霧の中である。子供時代の父親像は、望月のおじさんで埋め尽くされている。
しかし。
おそらく父だと思われる記憶が、ひとつだけある。
「駿、駿、そいつらを咎めてみたってしょうがない。それが、そいつらの在り様なんだ。善いも悪いも無い」
いつ、どんな場面での言葉なのかは解からない。声だけの記憶。
善いも悪いも無い。
「確かに、な。それどころか意味不明だけどな」
たかが小皿一枚のせいで、いまや駿太郎は凍え死にしそうだった。
まさか預かり物を天日に晒しっぱなしにしておくわけにもいかず、家に入れたは良いが、真冬に逆戻り…いや、それ以上かもしれない。ただ、冬と異なる点は、家の「中」が冷え込んでいることだ。だから、家中の窓も扉も開け放ってある。
さぁ、どうしたものか。
うかうか引き受けてしまったが、駿太郎に策があったわけではない。それでも、常次郎に持たせておくのはやはり心配だったから、これで良かったのだと駿太郎は満足している。
それにしても、どう考えても、このような代物を人に売ろうと言う料簡には承服しかねる。
それならどうするか。
駿太郎もここまで「こじれた」品を扱うのは初めてだ。
地べたにでも叩きつけて割るか。
手っ取り早いが、それは乱暴過ぎる。
神仏にすがる。
近所の建仁寺の住職の顔を思い浮かべて、これもダメだと思う。
あの住職は欲が深くて、とてもじゃないが徳は無い。囲い者がいると言う噂も聞いたことがある。さっぱり
それに、物に附いている怪異が
何と言うか。旨く言えないが、これは幽霊だとか狐狸だとかいうものとは、まったく違うものだ。
「ちょいと、駿太郎ちゃん!何やってんだい、どこもかしこも開けっ放しでさ!」小梅が勝手知ったる隣家にずかずかと上り込んできた。「何、風邪?かい…?」
身動きも困難に思われるほどに着ぶくれている駿太郎を見れば、それは自然な反応かもしれない。しかし、そんな状態で家中の開口部をすべて開け放っているというのは、どう説明付けたら良いものか…。これはどうも、正気の沙汰ではないと、誰もが思うだろう。
「健康そのものですよ。今日は何です?」
小梅は駿太郎の父の父親の代から隣に居を構えている。直接聞いたことは無いが、父が普通じゃなっかったとすれば、代々の色々な奇行を目にしていてもおかしくない。それほど気にしないはずだ。
「お昼間の、あのお皿ねぇ。どうしても欲しいから、何とかしてちょうだい」
世の中には磁石と言うものが有る。
駿太郎にはその仕組みが分からない。
何故そうなのかは解からないが、引きつけられてしまうものが在る。
それは知っている。
自分も含めて、心がそれを望むなら、誰が何と言おうと仕方が無い。
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