第6話

 その日、母親も祖母も帰ってこなかった。祖母はそのまま入院になった。父親も、理由はわからないが帰ってこなかった。父親に関しては、よくあることなので特に気にしなかった。

 日が昇り始めるころ、じゅん水無みなの部屋に入り込み、箪笥や机の中を片っ端から漁っていた。そして、うっとりと水無の服や化粧品を手に取っていた。口紅は、母親のものよりも色が薄くてきれいだった。さわやかなシトラス系の香りのコロンも見つけた。潤は耳の後ろに吹きかけると、その香りに酔いしれた。

 夕方5時半を回るころ、潤は水無の部屋の姿見で、最後のチェックをしていた。

 結局、服は黒いパーカーとネイビーのフレアスカートを選んだ。パーカーは薄手とはいえ長袖なので、少し暑いかもしれない。しかし、今後のことを考えると、これが最適な服装だった。

 化粧品は、水無のものを使った。やはり正解だった。まったくもって水無とうりふたつとはいかないが、髪の毛で顔まわりを隠せば、ぱっと見なら見間違えてもらえそうだ。きちんとコロンもつけると、黒いスポーツバッグを手に取り立ち上がった。バッグからは、ごとりと音がした。

 玄関口に立つと、背後から母親に声をかけられた。昼過ぎにようやっと帰ってきた母は、疲れのせいか少しやつれて見えた。

「こんな時間から出かけるの?」

 潤は、すっと息を吸い、少し喉を閉めてから、

「うん」と答えた。

「そう、ほどほどに帰ってらっしゃいね。みーちゃん」

 潤は頷き、外へ踏み出した。


 潤は軽やかな足取りで歩きはじめた。夏の夕暮れ時、湿り気を帯びたぬるい風が、彼の髪を優しく撫でていく。水無は、昨夜からずっと潤のベッドで眠り続けている。真っ赤な顔は、だんだんとどす黒く変わりはじめていた。そういえば、部屋を出る時に虫の羽音のようなものを聞いた気もする。

 すがすがしい気分だった。大きな仕事を終えた達成感のようなものを感じていた。これまでの人生で、こんなにもすがすがしい気持ちになったことなど、はたしてあっただろうか。スニーカーは、彼の心を映すように軽やかに進んでいく。

ふいに、バッグが揺れて、ごとごとと音を立てた。潤はバッグの中身を思い、ふっと微笑んだ。

時計は5時50分を指している。B駅は、もうすぐそこだ。(了)

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はんしん 田脇小足 @orion_the3stars

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