第5話

 夕食が終わると、じゅんはすぐに自室へ引っ込んだ。いつものことなので、母親も特に気にしない。風呂に入るまで、化粧の仕方を勉強するつもりだった。スマートフォンで、インターネットのアプリを開き、検索ワードを入れた。やれモテメイクだ、ガーリーメイクだと、意味不明な言葉が並んだ。ひとつひとつ、リンクを開いてみた。

 15分の検索でわかったことは、一晩での化粧の習得は非常に骨が折れるということだった。潤の背中を汗が流れ落ちる。大きく息を吐いて、頭を抱えた。

 そこへ、聞き覚えのあるどかどかという足音がした。水無みなだ。潤は、ベッドの下に視線を向けた。程なくして、ドアが開けられた。そこには、不機嫌をあらわにした水無が仁王立ちしていた。

「いい加減にしてよ。さっさと洗濯しろって言ったでしょ」

 水無はしっかりとドアを閉じてから、低い声で言った。腕を組み、不遜に潤を見下ろしている。これが水無だと言ったら、両親も祖母もさぞ驚くだろう。

「あんたが何を考えてるかなんて知りたくもないけどね、迷惑なのよ。わかるでしょう。クズはクズらしく、目立たないように大人しくしてればいいのよ」

 水無の視線が、ベッドの下に落ちる。

「どうせ、そこにでも隠してるんでしょう。あんたみたいな糞バカ野郎の考えることなんてお見通しなんだから」

 水無は潤の制止を振り切り、ベッド下の段ボールに手を伸ばすと、隠していた服を掴みあげた。

「うわ、何これ。白塗りババアの口紅とファンデじゃん」

 水無は汚いものでも見るように潤を一瞥した後、持っていた服を潤の顔めがけて投げつけた。

「あんたってさ、昔から女みたいな顔してるなとは思ってたけど、まさかそっちの人とはねえ…ああ嫌だ嫌だ、こんなのと血がつながってるなんて」

「違う。話を聞いて」

 潤は舌がもつれるのをこらえながら、言葉を絞り出した。普段はただ黙っているか、謝罪するかのどちらかである潤の意外な切り返しに、水無は珍しそうな顔をしたが、それはすぐに怒りの形相に変わった。

「勝手に喋るんじゃないわよ。あんたの弁解なんて聞きたくもないわ。どうせ、碌な理由じゃないんだから」

「水無は不良グループに目を付けられてるんだ。ひとりで会いに来させろって言われてる。どうか明日は家から出ないようにして。僕が代わりに、会いに行くから」

 潤が一気にまくしたてると、静寂が訪れた。それはすぐに、水無の高らかな笑い声にかき消された。

「本当、本当傑作。もう笑わせないでよ。大事なお姉ちゃんが犯されるくらいなら僕が、って?

 あたしはね、もうどうでもいいの。うんざりしちゃってるの。どいつもこいつも馬鹿ばっかり。何にも面白くない。

 いつ行くの? 何なら今からでも行ってあげるわよ。もちろんあたしひとりでね。

 平和ボケした馬鹿親どもに媚び売って、クズな弟をサンドバッグにしてるよりはましだわ」

 水無は、けらけらと笑いながら部屋を出ようとしている。あわてて、潤がその手を引いた。

「だ、駄目だよ。僕が行く。水無に何かあったら僕は、」

 水無は怒りに顔をゆがめて、その手を払い落とした。

「うるさいわね、いいって言ってるでしょ。何なのよ本当。

 もういいの、何もかも面倒だし疲れた。あんたがあたしを好きでも、あたしはあんたなんて大嫌いよ。糞おやじもババアも老害も一緒。親友気取りのブスもクズ教師も、みんなみんな。みんなまとめて、豚にでも食われればいいんだわ」

 潤は水無の言葉に硬直していた。それを見た水無は下卑た笑いを浮かべて言った。

「本当気持ち悪い。あんたさっさと死んでよ、マジで」

 その時、潤の中で、何かが切れる音がした。


 潤に背を向けた水無の背中は、思ったよりも小さく見えた。身長はあまり変わらないのだが、こんなところに、性差が出るのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、潤はベッドの上に載っていたタオルに手をかけた。そして、両端を掴むと、水無の首に回した。水無は、突然のことに驚きながらも、首に手をやって、何とか逃れようとしている。潤は素早く手を持ち替えて、タオルを首の後ろで交差させると、一気に絞め上げた。やがて苦しさで水無が地団駄を踏みはじめると、ベッドの上に押し倒して、今度は枕を顔面に押し付けた。はじめは力強く潤の肩を叩いていた水無も、やがて痙攣を起こし、肩を叩く力も弱まっていった。

 しかしそれでも、水無はまだたしかに息をしている。枕を押さえるのにも疲れてきた潤は、いったん枕を取り払った。一気に呼吸が戻る音がしたが、間髪入れずに、再度タオルで絞め上げる。ごふっという声を上げ、再び水無は痙攣しはじめた。目をぎゅっと閉じ、涙と鼻水と涎で顔を汚した水無は、見たこともないほど醜悪だった。ふと、潤の口から笑みがこぼれた。


 こんなことを30分は続けていた。動かなくなった水無をベッドに横たえると、潤は彼女の首を絞めたタオルで、顔をぬぐってやった。いくらかましにはなったが、やはり顔が赤黒くはれ上がり、とてもじゃないが見られたものではなかった。

「先輩、きっとこんな水無を見たら逃げ出すんだろうな」

 潤は、誰にともなくつぶやいた。その声は、とても軽やかだった。

 その時、1階から潤と水無を呼ぶ声がした。母親だ。潤は水無の身体に布団をかけると、何事もなかったかのように部屋を出た。

「あら、みーちゃんは?」

 母親は潤の顔を見るなり、真っ先に尋ねた。

「ちょっと気分が悪いって。先に寝たみたいだよ」

「そうなの……。…おばあちゃんがね、倒れちゃったの。今からお母さん、病院へ連れて行くから、戸締りとかよろしくね」

「救急車は呼ばないの」

「どうしても嫌って、聞かないのよ。まったく、手間がかかるったら。今日に限ってクーラーつけてなかったの。こんなに暑いのに、わからないのかしら」

 母親はぶつぶつと文句を言いながら、車のキーを手に玄関へ立った。祖母はすでに、車に乗せたらしい。

「夜中まで帰ってこれないかも。お父さん帰ってきたら、ご飯よろしくね」

 それだけ言うと、母親は車に乗り込んでいった。離れは電気が消えている。玄関と、潤の部屋の明かりのみが点いている。耳が痛くなるような静寂が訪れた。

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