第4話

 顔に吐きかけられた唾をぬぐうと、じゅん水無みなの部屋から持ち出した洋服を納戸から慎重に運び出すことにした。見つかった場合、また罵倒されたり、暴力を振るわれる。それだけならまだしも、ここで没収されてしまっては、計画が狂ってしまう。何としてでも、うまく自室に運び込み、明日まで保管する必要がある。

 潤は、姿見に映った自分の姿を思い返していた。化粧は、もう少し薄い方がいいだろう。そうでないと、誰だかわからなくなってしまうかもしれない。それでは駄目だ。同世代の女の子の服装センスは、潤にはよくわからない。だが、他ならぬ水無が持っている服を着れば、何とかやり過ごせそうだ。潤は頷いてから、自分の服に着替え、廊下に誰もいないことを確認してから、自室まで足早に進んだ。幸い、誰にも会うことなく自室にたどり着いた。ドアを閉めると、ベッド下の物入れ代わりになっている段ボールに、水無の服と化粧品をねじ込んだ。さすがにここなら、見つからないだろうと思った。

服を収納すると、今度は机に向かった。ノートを1冊取出し、シャープペンを手に取った。まずは、頭を整理しようと考えた。

明日は、水無の服を着て、水無のふりをして、先輩たちに会いに行くことになる。いろいろ考えたが、やはり、水無を彼らに会わせるのは避けたい。彼女は、自分にとってたったひとりの姉なのだ。いっそ、こんなことは無視するのも良いかと思ったが、やめた。クラスメートがどうなろうと潤の知ったことではないが、あの先輩たちが、はいそうですかと諦めるとは思えなかった。思いついたら、気の済むまでやり通す。それが彼らだ。お気に召さなかった場合、どんな目に遭わされるかは、クラスメートの顔を見れば、一目瞭然だ。潤はシャープペンを走らせ、明日までにすることを書きだした。目下の難関は、水無に似せるだけの化粧品の使い方と、外出時に少なくとも水無とだけは遭遇せずに、家を出ること。化粧品の使い方は、一晩かけてでも、インターネットで調べたりしながら、練習して会得するつもりだ。水無と会わないようにするには、彼女の明日の予定を十分に把握する必要がある。潤は黙々と、ノートに向かい続けた。目覚まし時計の針の音が、うるさく感じられるような静寂が、長く続いた。遠くでは、豆腐屋のラッパの音が聞こえる。だんだんと涼しくなってきたのを察知したひぐらしたちが、その声を大きくしていく。窓の外では、真っ赤に膨らんだ陽が、今にも落ちようとしていた。

ノートの3ページ分が埋まったところで一息吐くと、母親が呼ぶ声がした。夕飯だ。潤はもう一度、ベッド下の段ボールに目をやってから、ダイニングへ降りて行った。

 ダイニングでは、母親が取り皿を並べているところだった。取り皿はふたり分。おや、と潤は思った。

「みーちゃんは、おばあちゃんと食べるんですって。離れに持って行ったわよ」

 みーちゃんとは、水無のあだ名だ。その言葉を聞いて、ひそかにほっと胸をなでおろした。今日外出されると、非常に面倒だ。彼らに見つからなければいいが、どこに彼らの目があるかわからない。潤は、そう、とだけ言って、食卓に着いた。母親と話すことは、特にない。母親も、潤よりは水無を好いているようだった。テレビの音量を上げると、母親も席に着き、無言の夕食がはじまった。コロッケは味がしないように感じたが、きっと気のせいだろうと思った。

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