第3話
それからしばらく、
しかし、彼の願いは叶わなかった。六月の土曜日、潤のもとに来客があった。彫刻刀で彼を切りつけたクラスメートのひとりだった。部屋で雑誌を読んでいた潤は、母親に呼ばれた。
「お友達が来てるわよ、降りてらっしゃい」
潤には友達などいないので(少なくとも彼の中では)、これは厄介だと直感した。ため息を漏らしつつ、適当に返事をして玄関まで降りて行った。
クラスメートの顔を見て、潤はひそかに驚いた。彼の顔はやつれ、あちこちにガーゼや絆創膏が貼られていた。ひときわ大きい左頬のガーゼからは、どす黒いあざが覗いている。
「何でも、交通事故に遭ったんですってね。潤も気をつけなさいね」
母はそういうと、奥へ引っ込んでいった。ドアが閉まる音を聞いてから、クラスメートは、ここだと都合が悪いから、と、潤を外へ連れ出した。潤は、うん、とだけ言って手近な草履を引っかけた。
自宅近くの無人の公園でベンチに座ると、待ってましたとばかりに、彼は話しはじめた。怪我は、先輩から受けたものらしい。潤はやっぱり、と思った。どうやら今は、彼が標的にされているらしい。もう嫌だ、死にたい。そう言って、彼はべそをかいた。潤は何も言わなかった。
ひとしきり泣いて満足したのか、クラスメートは泣き止むと、それで本題なんだけど、と切り出した。
「お前さ、双子の妹いるじゃん。ほら1組の」
どうやら、水無のことらしい。正しくは姉なのだが、今は関係ない話なので黙って聞いておく。
「先輩がさ、気に入ったみたいで、連れて来いっていうんだ。なあ頼むよ、連れてかないと、おれ、何されるか……」
クラスメートはまた涙を浮かべた。立てるようにセットした金髪の隙間から覗く、牙のような形をした銀色のピアスが、彼のしゃくりあげる身体の動きにあわせて動いた。潤はやはり黙って、それを見ていた。
これは困った。潤は内心、頭をひねった。先輩たちとは、彫刻刀の件以来会ったこともないので、どんな人物なのか詳しくは知らないが、まっとうな神経の持ち主でないことは、身を持って痛感していた。ここで安易に水無を引き渡せば、彼女の身の安全はまず保障されないだろう。
「いつも廊下ですれ違ったりして、気になってたらしいんだよね。まあたしかに、結構可愛いとは思うけどさ。先輩、最近別れたって言ってたし」
聞いてもいないことを、べらべらとよく喋るなと潤は思った。彼なりに、こちらを説得しているつもりなのだろう。潤は下を向いて、足の間で交差させた手を見つめていた。水無には常日頃から、痛い目に遭わされているが、それでもたったひとりの血を分けた姉だ。はっきり言って怖いと思うが、それでも自分と同い年の女の子でもある。今まで、彼女にされた仕打ちが浮かんでは消えた。そして『自分にだけは心を開いてくれる』という思いも。しばらくして、潤は顔を上げた。
「わかった。連れてくる。でも、ちょっと待って。今日じゃなきゃ駄目?」
今日は、親戚の家に泊まりに行ってるんだ。潤は前を見ながら言った。
「親戚の家って、どこ」
何が何でも、今日中に連れて行くつもりらしい。
「A県だよ。迎えに行くのは、ちょっと無理だな」
嘘だった。水無は自宅で祖母と過ごしているはずだ。彼女は、土曜日は必ず、自宅から出ず、母屋の裏の離れに住む祖母と料理をしたり、テレビを見て過ごすのだ。そこではもちろん、祖母思いの優しい少女を完璧に演じている。
「だから、どうにか先輩に頼み込んでくれないかな。明日には必ず行くように説得するから。どこへ行かせればいい」
クラスメートは、饒舌に喋る潤に少し驚いたようだったが、すぐに思い直した様子で答えた。
「どうしても、無理そう?」
「…申し訳ないけど」
その後もしばらく押し問答が続いたが、潤が押し切った。クラスメートは肩を落としつつ、スマートフォンを手に取った。電話を掛けるつもりらしい。しばらくの沈黙ののち、クラスメートはどもりつつ話しはじめた。今日は無理だと伝えると、黙り込み、しばらくして震えはじめた。何を言われているかは聞き取れないが、怒号のような声が漏れてきている。潤は見かねて、クラスメートの手からスマートフォンを奪い取った。
「
先輩は黙っていたが、しばらくして口を開いた。
「わかった。じゃあ明日の夜6時、B駅前に行かせろ」
潤は、わかりました、と答えた。電話は程なく切れた。
「わかってくれたよ。明日の6時でいいって」
潤はスマートフォンを返しながら、会話の内容を伝えた。クラスメートは、よかった、ありがとうと、また涙を浮かべながら、何度も礼を言って帰って行った。
クラスメートの背中を見送ると、潤はすぐに家に戻った。そして、迷わず水無の部屋に入り、箪笥から適当な服を物色し、両親の寝室のドレッサーから化粧品をひっつかみ、納戸にこもった。午後3時をまわっていた。
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