恋踏み3
葛貫は扉の前の小さな段差に腰掛けるように座っていた。その両脇には埃っぽい、もう何年も使われていないだろう机や椅子が積み重なって置かれている。そんな誰にも使われなくなって追いやられたものたちに囲まれているのに、葛貫はなんの違和感もなくその風景に溶け込んでいた。教室で同級生たちのなかにいるより、ずっと自然に。
「……あ、葛貫さん、おはよー!なんて……はは」
努めて明るい声を出す有馬の後ろで、僕はただ突っ立って葛貫を見ていた。
葛貫の表情は見えない。僕らの姿を認めた後、すぐに俯いたから、顔が髪の毛に隠れて見えなくなってしまった。
僕は顔が熱かった。頭の中まで熱くなって、視界がぐらぐらと揺れていた。その理由はうまく説明できない。すごく腹が立っているような。逃げ出したいほど恥ずかしいような。ガラクタと一緒になって息をしている今の葛貫を見ているとそんな気持ちになった。
僕は、何でか急に僕に手紙をくれた女子を思い出していた。あの子だったらきっと、いや、絶対に、こんな場所よりも教室で友達に囲まれているのが似合うんだろう。あの子が登校して、クラスメイトと挨拶するところを、友達と談笑するところを、想像した。普通の、女子の姿。そう、あれが、普通だ。
葛貫、お前だってそうだったはずだろ。
それで、何か葛貫に言ってやろうって思った。けど、その何かが喉元までせりあがってくるのに声には出せない。言葉にならない声がうごうごと喉元で暴れているのを感じて、僕自身、何をどうしたいのか、本当は何を葛貫に言いたいのかも分かっていないことに気づいた。静かな階段には沈黙を恐れるように無理やり言葉をつなげる有馬の声だけが絶え間なく響いている。
「……あー、ねぇ、なんでこんなとこいるの?」
今まで耳から耳へすり抜けていた有馬の声が急にはっきりと聞こえた。ヘラヘラとどうでもいい、当たり障りのない話ばかりだった有馬の、急に核心を突く言葉に僕は驚く。それは葛貫も同じだったようで、俯いていた顔が少し持ち上がった。
それで一瞬、葛貫は僕を見た。なぜこのタイミングかはわからない。でも確かに葛貫は僕を見たんだ。僕は葛貫の黒々とした瞳に映されて、さらに顔がカッと熱くなるのを感じた。そして、その熱から身を守るように、反射的に僕は葛貫から目を逸らしてしまった。
その後、葛貫は急に立ち上がって歩き出した。僕と有馬の間をいつもからは想像できないような早足で通り過ぎていく。あ、って僕は意図せず声を漏らして、葛貫の姿を追うように振り返った。けれど、葛貫は僕を一瞥もせずに階段を一定のリズムでタタタタ、と駆け下りていってしまう。
僕に背を向け、少しずつ遠くなっていく葛貫。左手は手すりを持って、右の拳は強く強く握られていた。僕はその固い拳に浮き出る葛貫の骨を見て、顔の熱が急速に冷めていくのを感じた。
「……瀬良、大丈夫?」
有馬が少し眉を下げて、僕を下から覗くようにして見る。
「……え、何が?」
そう答える僕の声は震えて、掠れて。自分で聞いていてもなんだか大丈夫じゃない感じがした。
「……あの、瀬良、さ、しばらく葛貫さんと帰ったりすんのやめた方がいいんじゃねーの」
有馬の言葉にどきりとする。有馬は眉を下げたまま、口角だけをぎこちなく上げていた。
「……何で」
「だって、ひとりの女子ふってあんなに騒いでる中、わざわざ他の女子とずっと一緒に帰るって……また騒がれる種自分でまくようなもんだろ。それに、……」
何かを言いかけて、有馬は急に口を閉ざした。僕もその先を促すことはしなかった。なんとなく、わざわざ聞かなくても有馬の言いたいことはわかったから。ほんとはずっと、わかっているから。
「有馬、ありがとな。でも、心配しなくても大丈夫だよ」
そう言う僕に有馬は苦々しく笑う。そして、ポツリと小さく呟いた。
「瀬良にとっては、特別なんだよな」
何がって聞こうとした。でも、聞けなかった。
それは階段に反響する予鈴のせいでもあった。どこか寂しげな、いつもと違う有馬の顔のせいでもあった。でも本当は、その答えを聞くのがすごくすごく怖かった僕自身のせいだって、思う。
有馬と慌てて教室に帰って、既に教卓に立っていた先生に白い目で見られながら席に座る。同級生の男子が「どんだけ長いションベンだよ」なんてからかい、クラスはどっと湧いた。
僕は有馬と一緒に「うるせー」なんて笑いながら、葛貫の姿を盗み見た。あいつは賑やかな声の中、ひとり静かに目を伏せていた。どこを見ている、というわけではない。どこも見れない、というのが正しい感じだ。
そんな葛貫を見て、僕は顔では笑いながらも机の下で誰にも見えないように拳を握った。強く強く、握った。
「クズ、帰ろう」
葛貫の前に立ってそう言った時、いつもより多くの視線が僕らに集まって、少しクラスがざわめいた気がした。いや、僕の気のせいだ、有馬の言葉で敏感になっているだけだろう、なんて考えても掌がいつもより冷たく湿ってしまうのが情けなかった。
葛貫はいつも通り「うん」と何よりも小さな声で返事をして、荷物を鞄にモタモタと詰め込む。
「瀬良、またな」
振り返ると、同級生たちに囲まれ、机に軽く腰掛けて立つ有馬がいた。
「あぁ、またね」
いつもの挨拶だった。だから、気づかないふりをした。たまたまだって思うことにした。今日、有馬は僕にしか挨拶をしなかったってことを。その視線の先に葛貫が映ることもなかったってことを。
僕と葛貫は黙っていつもの道を歩いた。道の両端には桜の線が茶色く引かれ、少し目線を上げれば木々はどれももう青くなっている。今までキレイだなんだと持て囃された桜の木も他の木と境界が曖昧になって、もう誰もその姿をわざわざ見上げることはない。
もう春も終わるんだろうな。きっとすぐ太陽の光もギラギラとしてきて、気づいたら暑い暑い夏になっているんだろう。季節はどんどん変わっていく。景色も、温度も変わっていく。ぼんやりとしていたら、周りの全てに僕は取り残されていってしまいそうだ。
僕は少しだけ首を後ろに回して葛貫を見る。いつも通り、俯いていると思ってた。ただ、今日の葛貫は違った。葛貫も僕を見ていた。まっすぐ、僕を見ていた。
僕は思わず足を止めた。葛貫も少しだけ僕に近づいてから足を止める。数秒の沈黙。どこからか、知らない子供たちが笑い合う声が聞こえる。そのほかに聞こえるのは僕の中にある、心臓の大きな音だけだ。
「……瀬良くん」
最初に言葉を発したのは葛貫の方だった。僕はその呼びかけに何も答えなかった。僕はためらう。葛貫の言葉の続きを黙って聞いていていいのだろうか。何か、葛貫の一言で何かが、変わってしまうような予感がした。
「なぁ、なんで逃げたんだ」
僕は葛貫が喋り出すよりも早く、口を動かした。
「……え」
「なんで、朝、僕と有馬から、逃げたんだ」
葛貫は困惑している様子だった。でもそれは僕だって一緒だ。勝手に思いがけないことを話し出す僕自身に戸惑っていた。しかし、そんな思いとは裏腹に僕の口は勝手に動いて声を発する。
「僕たちがあそこに行ったこと、なんであんなとこにいたのか有馬に聞かれたとき、いやならいやっていえばよかっただろ。何も言わずに逃げるってさ、おかしいだろ。そんなんだから……」
だから、なんなんだろう。
僕はその時、葛貫を見ていなかった。いつの間にか、俯いているのは葛貫ではなく僕の方になっていた。見ているようで、何も見ていない視界の端には茶色い桜の花びらがコンクリートにこびりついて、その一部だけが風に吹かれてピラピラと揺れている。
「……もう、いいよ」
その声に、僕はハッとして顔を上げる。
「私だって、わかってるよ」
葛貫の声は少し震えていた。口の端もピクピクと上下に動いている。怒っているようだった。でも、悲しそうで、泣きそうにも見えた。
「なんで私なの」
それでも葛貫の目は僕を見ていた。いつかのように、まっすぐに僕を見ていた。
「もう、私は"クズ"じゃないのに」
胸に、喉に、何かがせり上がってくるのを感じた。葛貫の話はなんだかバラバラで、何が言いたいのかよくわからない。よくわからないけど、僕は痛いくらい、よくわかってしまう。今の葛貫の言葉、全部が心からの声、本当のところから漏れ出したものだってわかる。
僕は何か葛貫に言いたかった。瞳のまっすぐさがどんどん失われて、目を泳がせながら顔を
もらった手紙、僕を好きだと言った女子、苦々しく笑う有馬の顔、クラスメイトたちの刺さるような目線、ガラクタの中の葛貫、強く拳を握って背を向けた葛貫、教室でひとり俯く葛貫、葛貫。
どうして僕なんだろう。
どうして葛貫だったのだろう。
他の人ならなんとも思わなかった。
でも僕は本当は葛貫だけにはそうなってほしくなかったのに。
好きってなんだろう。
嫌いってなんだろう。
「クズ」
僕は思い切って声を出す。そんな僕の様子を伺って、葛貫は俯いていた顔を少し迷いながら上げた。
考えても、考えても僕にはわからないことが多すぎる。けど、それでも僕は口を開く。
「僕にとっては、好きとか嫌いとかじゃなくってさ、」
これだけは、伝えておくべきだって思った。
「クズはずっと一緒のクズだから」
葛貫は少し目を丸くして、それから俯いてしまい、何も言わなかった。僕ももう、何も言うことはなかった。
僕たちは2人、前に向き直って黙々と歩く。いつも通り、少し離れたところから葛貫が付いてくる気配がする。
桜は散った。花びらは枯れて、きっとまた気づいた頃にはどこかへ消えている。
春が終わる。次の季節が気づかないうちにそこまで来てる。
何かが変わる予感がする。
セックスがしたい 加科タオ @ka47
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