母親の死闘

ひえん

母親の死闘


夏も終わりに近づき、日差しがだんだん短くなってきた。

 北極の夏は短く、夏のあいだ北の方に下がっていた流氷原も、寒さが厳しくなるにつれその勢力を南へと伸ばし始めていた。

 そこに住む数少ない生き物たちも、冬の厳しい寒さからのがれるため、流氷と一緒に南へと旅立っていく。


 明るい太陽に照らされ、目を開けていられないほど眩しい白一面の氷の世界を、ホッキョクグマの親子が歩いていた。

 母熊の後ろを2匹の小熊がじゃれあいながらついていく。今年生まれたばかりの小熊は初めて見る巣穴の外の世界に興奮し、氷の丘しか見えない風景にも興味津々の様子だ。


 楽しげな小熊たちとはうらはらに、母熊は心中あせっていた。

 冬の厳しい寒さをのがれるため、本来ならもっとはやくに南に向かわなければならないところを、小熊たちが旅に耐えられる体力がつくまで巣穴ですごすことにしたのだ。

 それはわずかな遅れだったが、巣穴から出たときには餌となるアザラシ達はすでに南へと去っていた。

 小熊がうまれて三ヶ月、母熊は何も食べていなかった。

 巣穴にこもりっきりで子育てするため、その間は狩りができず体重は半分に減った。

 何とか獲物を狩って早くなにか食べないと、そのうち小熊たちのお乳すらでなくなってしまう。

 獲物となるアザラシたちを追って、南へと移動するしかなかった。

 

 巣穴を出てから一週間、母熊たちはひたすら歩を進めた。

 途中で流氷の上にアザラシの息継ぎ穴をみつけたが、その穴はすでにつかわれていなかった。

 アザラシを狩るときはこのような息継ぎ穴をみつけ、そこで息継ぎをしにくるアザラシをひたすら待てば良いのだが、何時まで待ってもアザラシは現れなかった。

 母熊は落胆し、その場をはなれ旅をつづけた。

 

 また、遠くに雄のホッキョクグマを見たこともあった。

 遥か先の流氷の上を親子たちと同じく、獲物をさがして南へ向かっているようだった。

 母熊は小熊たちに身を隠すように言い、見つからないように氷塊の影に隠れ息を潜めた。

 小熊たちは初めてみる自分達の仲間に興奮し、近づきたがったが母熊は厳しくそれを制した。

 ホッキョクグマの雄は飢えると同属ですら襲い、獲物にしてしまう危険な生き物だった。

 特に小熊は格好の餌になってしまう。

 臭いでばれないよう風下に回り、なんとか雄熊をやり過ごすと親子はまた南へと向かった。

 

 かなりの距離を移動したが獲物となるアザラシ達には追いつけず、流氷は途切れることなく、遥か彼方まで続いていた。

 

 母熊の体力は限界に近づいていた。

 お乳もほとんど出なくなっており、小熊たちも空腹と疲れでぐったりとしていた。

 このままではあと幾日も持たないだろうと暗澹たる気持ちで日の上り始めた氷原をとぼとぼと歩いていた時、ふと冷たい風にのって微かに獣の臭いが漂ってきた。

 熊の嗅覚は犬に匹敵すると言われているが、母熊が嗅ぎ分けた臭いは非常にかすかで、まだかなり距離がありそうだった。

 

 母熊は大きく膨らむ期待を胸に、臭いのする方向へと進んだ。

 全身が引きちぎられそうな疲労のなか、いくつもの氷の丘を越え、強くなる獣臭に期待を膨らませた。

 いつの間にか地面は流氷から、北極では数少ない氷に覆われた岩場となっていた。

 

 巨岩と氷の入り混じった丘を越えるとそこには岩場の海岸が横に広がっており、その向こうには紺色の海がひろがっていた。

 そしてその広い海岸には、千頭近くのセイウチの大集団が体を横たえていた。

 

 その群れをみた瞬間、母熊の期待は急速にしぼんでいった。

 セイウチはおとなしい生き物だが、非常に巨大で成獣では一トンを越える。

 分厚い脂肪に覆われた体はホッキョクグマの爪や牙程度では引っかき傷を作るぐらいで致命傷を与えることはできない。

 唯一の弱点となる咽喉の近くには、巨大な2本の牙が伸びており、そこを狙うと間違いなくその牙の反撃を受ける。

 1メートル弱にもなる大きな牙は、時にはホッキョクグマに致命傷を与える強力な武器になるのだ。

 

 絶頂期の雄熊でさえも仕留めることの難しいセイウチを、空腹でふらつき、体重も激減している今の母熊が狩れる可能性はほぼ無いに等しかった。

 しかし、他に獲物はおらず親子が今おかれている状況は、セイウチ狩りを諦めることも許さなかった。

 

 子熊たちが最後にお乳をのんでから三日がすぎており、それ以降は氷をなめて飢えをしのいでいる。

 すでに二匹ともやせ細り、これ以上の旅を続けることは子熊の死を覚悟しなければならなかった。


 母熊はセイウチ狩りを決心した。

 

 セイウチの群を見下ろせる丘に上がり、小熊たちにそこで待つように言い聞かせた。小熊たちは不安そうに母熊を見上げ鳴いていたが、おとなしくそれに従った。

 母熊は丘の上から海岸にいるセイウチの群れを見渡しながら、はるか遠い昔に同じ光景を見たような既視感を覚えていた。

 

 海辺は黒い巨体で埋め尽くされていた。

 セイウチたちは海岸線にそって横に広がっており、甲羅干しをしたり仲間同士でふざけあったりしている。

  その中から比較的体の小さい子供のセイウチを見極めると、それに狙いを定め突進した。

 突然現れたホッキョクグマにセイウチたちは驚き、叫び声をあげながらいっせいに海へと逃げ出す。

 母熊は標的とした獲物に背後から襲い掛かり、鋭い爪と牙をつきたてた。

 小さめに見えたセイウチも近づいてみると母熊と同じくらいの大きさだった。

 子供とはいえ体重差が倍以上あるセイウチを引き止めることはできず、ずるずると引きずられる格好となってしまう。

 いったん離れ、再度爪での打撃を加えるがそれをものともせず獲物は海へと這い進んでいく。

 何度も噛み付いたり強力な打撃を加えたにもかかわらず、とうとうそのまま海へと逃げられてしまった。

 海に逃げ込まれると、それ以上の追跡は危険だ。

 陸上では鈍重なセイウチも海の中ではホッキョクグマよりもすばやく泳ぐことができ、時には巨大な牙で反撃を食らうこともあるからだ。

 

 ホッキョクグマの襲撃にあったセイウチたちは警戒し、なかなか陸にはもどらなかった。

 母熊はいったん引き上げて姿を隠し、セイウチたちが陸へ戻るのを待つことにした。

 小熊たちは母熊が戻ってきたことを喜び、小さくか細い鳴き声で喜びじゃれついた。

 無駄に終わった今の狩りでかなり体力を消耗しており、母熊は小熊と共にひたすら体力が回復するのをまった。

 母熊は何としてでも子供たちを救いたかった。


 数時間してようやくセイウチたちは海岸に戻りはじめた。

 再度、その中からさっきよりもさらに小型の赤ちゃんセイウチを選ぶ。

 十分に頃合を見計らい再び襲撃した。

 再びセイウチたちが逃げ惑い、少しでもホッキョクグマから離れようと海岸は大混乱になった。

 母熊は赤ちゃんセイウチの後ろ足付近に噛みついた。

 赤ちゃんセイウチは痛みに泣き、暴れまわったが今度は少しずつだが引きずり戻すことができた。


 母熊は歓喜していた。

 これならこのまま仕留められる!


 その時、右の前足の肩口に激痛が走り、母熊は吹き飛ばされた。

 身を起こすと、すぐそばに巨大な牙を備えた母親のセイウチが怒りに震え母熊を威嚇し咆哮していた。

 子供を守るためにホッキョクグマを恐れる気持ちを押さえつけ反撃してきたのだ。

 母セイウチは母熊を威嚇しつづけたが、それ以上は襲ってこなかった。

 赤ちゃんセイウチはその母熊の背後で海に向かって逃げていった。


 母熊の右肩は牙に引き裂かれ血が流れていた。

 骨に異常はなく動くことはできたが、それでも前足を引きずらざるをえなった。

 狩りをしなければならないことを考えると、それは致命傷ともいえた。

 母熊は自分のうかつさを悔やみ、手負いとなってしまった今の自分の状況に絶望した。

 足を引きずりながらふらふらと小熊たちの元へと戻る。

 子供たちは喜び、じゃれついてきたが母親の真っ赤に染まった肩の傷をみて驚いていた。

 心配そうに母熊に寄り添い鳴く。

 母熊は小熊たちを呼び、自分の血を舐めさせた。

 乳の出なくなった今、少しでも小熊たちの飢えをしのがせるため血を舐めさせ続けた。

 小熊たちはペロペロと傷口を舐め続け、その日はそのまま寄り添い眠りについた。

 母熊はもし自分がここで死んだとき、小熊たちが自分を食べてでも何とか生き延びてくれることを願いなら眠った。


 その晩、母熊は夢をみた。

 セイウチを食べている夢だった。

 夢の中の自分は小さな小熊で、そばでは暖かく大きな母熊が必死にセイウチの肉をほおばる自分の様子を、やさしい目で見守っていた。

 なつかしく、暖かく、幸せな夢だった。


 朝の光と突き刺すような空腹と右肩の痛みが、母熊を幸せな夢から引き戻した。

 小熊たちはお腹のあたりで寄り添って寝ていた。

 ゆっくりと体を起こし体の状態を確認すると、右肩に痛みが走り引きずるような形にはなるが、動けないことはなかった。

 小熊たちが舐めてくれたおかげで血も止まっていた。

 飢餓からくる疲労感はすでに限界を超えており、全身が石のように重かったが母熊はなんとか気力を奮い起こして立ち上がった。


 母熊は思い出していた。

 自分がまだ小熊のころ、母熊といっしょにここに訪れたことがあることを…。


 母熊はまた狩りに向かうことにした。

 夢の中で見た、かつて母親がやっていたやり方をまねてみることにしたのだ。

 丘から降りてセイウチたちの群れに向かう。

 小熊たちが目覚め、母熊の姿を見送っていた。

 

 母熊はなるべく群れを遠巻きにし、群れから少し離れた海岸線沿いにたどり着いた。

 セイウチたちは母熊に気付いてはいたが、まだ距離があるのと昨日の慣れもあってそれほど慌ててはいなかった。

 母熊はやがてその海岸線にそってセイウチたちの群れに向かった。


 一歩一歩ゆっくりと歩みを進める。


  近づいてきた母熊にセイウチたちが騒ぎ始めた。

 少しでも母熊から離れようと慌てて海へ逃げる者、より海岸の奥に逃げる者とそれぞれが逃げ惑う。

 母熊はそのままぶらぶらと散歩でもするように、時折声をあげながら海岸沿いを移動した。

 群れが途切れると、また今度は今来た海岸線を逆方向に戻る。

 セイウチたちが逃げ惑い、急いで母熊から離れようとする。

 母熊は少しづつ海岸線から離れ、陸に残った何百頭かのセイウチの群れに近づくと、その近くをウロウロとうろついた。

 セイウチたちは恐怖に怯え、鳴き声を上げながら少しでも母熊から離れようと、1トン近い巨体を揺らし、われ先にと逃げ惑う。

 母熊が近づいてくるとパニックになったセイウチ達が一斉に慌てふためき、地響きを立てて移動した。

 母熊は何度もその群れの周りをうろつき、その間、襲い掛かるようなことは一切しなかった。

 ただセイウチの群れの周りをゆっくりと歩き続けただけだった。


 やがて、セイウチたちも母熊が通り過ぎた後から海に逃げる者が多くなり、陸の上に残っているセイウチが少なくなっていた。

 母熊はようやく歩みを止め、あたりを見回した。


 陸の上には5体のセイウチの死体が転がっていた。

 逃げ惑う何百頭ものセイウチの巨体に踏みつぶされ、息絶えた小柄なセイウチたちだった。

 昨日みた夢の中で自分の母がやっていたことを思い出し、実践してみたのだった。


 母熊はそのうちの一体に近づき、大声を上げ小熊たちを呼んだ。

 小熊たちが丘の上から転がるように駈けて降りてくる。

 母熊は喉元の柔らかい部分の肉をかじり取った。

 暖かく甘い脂肪が口の中に広がり、約四ヶ月ぶりの肉が全身に染みわたっていった。

 小熊たちに固い表皮を取り除いた柔らかい肉の部分を食べさせると、夢中でそれをほおばり始めた。

 母熊はその様子を優しい目で見ていた。


 北極の氷点下の気温は天然の冷凍庫で5体のセイウチの死体は数か月は腐らない。

 巨大な肉の塊は親子で思う存分に食べても、ずっと食料には困らないだろう。


 母熊は死地を脱し、何とか小熊達を救えたことを誇りに思った。

 子供たちもこの狩りを見て、いずれは自分の子供に受け継いでいくだろう。


 明るく晴れ渡った濃い青空の下、母熊は勝利の雄たけびを上げた。

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