森の石釜 ~1~

 もこもこした春の白い雲が風に流されて遠い山の頂に向かって駆けてゆく。

 僕はその雲を追いかけるように自転車を漕いだ。森へ向かって。


 きれいな家が立ち並ぶ住宅街を幾つもの角を曲がりながら走ってゆくと、大きな山が近づいてくる。森はその手前にあった。

 ずっと昔、この辺りはどんぐりやブナの木で覆われていて、その中に点々と家があったものだと、僕は両親に聞かされて育った。

 僕が産まれるより何年も前に、とても景気の良かった時代があって、ブナやどんぐりはどんどんきれいな道と家に変わっていったのだ、と。

 父さんはいつも『俺の子供の頃はなぁ……』と、まだ幼かった僕によく話してくれた。

 その頃の森は今よりもっと大きくて広くて、散歩用の小路があって小さな東屋があちらこちらに在ったのだという。

 小路から少し離れて木々の合間を入ってゆくと子供たちの格好の遊び場になっていた。放課後や日曜日にはあちこちに作られた『秘密基地』で皆持ち寄った漫画を回し読みしたりお菓子を食べた。時には他校の生徒と陣地の拡大を狙って戦争ごっこのようなものまで。

 それが少しずつ新しい家に、新しい広い道路に変ってきて今の住宅街になったのだ。もちろんその『新しい家』の中には、僕の家もある。『宅地開発』とかいうやつで僕が産まれる数年前にお父さんが森の近くにあった古い家を売って、この住宅街に新しい家を建てたのだ。

 この家はお父さんにとってとても自慢だったので僕は小さな頃からそんな話しを聞かされてきたけれど、正直、いつもお父さんは『ずるい』って思っていた。

 だって今はもうお父さんが遊んだような森は無いし、外で遊ぼうと思うと公園は小さな子供が遊ぶような砂場とジャングルジムがある程度の場所しかなくて、広い原っぱは少年野球やサッカーのチームで占拠されてしまっている。

 それ以外の場所で遊ぼうと思っても、道路脇は『車の邪魔』になるって叱られて、川に入れば周囲の大人に『危険』だとかで追い立てられる。

 最近の大人は僕たち子供が家の中でゲームばっかりしていて面白みがないだとか想像力が無いだとか色々言うけれど、場所も無い上に危険も避けなきゃいけないなんて、そうすると他にする事がないじゃないか? 子供がゲームばっかりになっちゃうのは絶対に、僕たちのせいじゃないって思うんだ。

 だけど、そんなある日、僕は見つけてしまった。

 正確にはお爺ちゃんが何気なく呟いた一言のおかげだったのだけど。

『そういえば昔、森の奥から時々に、いい匂いがしてきよったなぁ』

 別に本気にしたわけじゃないけれど、ちょっとだけ沸いた興味に背中を押されて僕はあの日、森に立ち入ったんだ。


 森の周囲は大きな木がざわざわと生えていて入り込めそうな道なんてひとつも無かった。端の方に建てられている小さな神社が、森の隅っこの土地に食い込んでいた。

 神社の周辺だけ、木は整備されていて、鳥居から祠までのほんの三メートル程度にぽっかりと空間ができている。鳥居の周辺にも大きな木は無くて、代わりに雑草が僕の腰ほどの高さまで生えている。僕はその鳥居

をくぐらないで、外側から森に踏み込んで雑草を両手でかき分けながら奥へ進んでみた。

 やがて雑草の道は終わり、進みたい方向にはまた大木が立ち並ぶ。

 びっしりと聳え立つ木々は、人の侵入を防ぐように立派な幹を左右に広げて、まるで天然の要塞だ。

 道を失って僕は途方に暮れた。

 やっぱりこんな所来るんじゃなかった……

 戻ろうと思ってもと来た方向を振り返って、…… 困った。方向が分からなくなってしまっていた。

 どうしよう。

 僕は木と木のわずかな隙間をすり抜けながら、やみくもに歩き始めた。太陽の光が差し込んで明るいって事だけが心の救いだった。

 登っているのか下っているのかよく分からない不思議な感覚が続く。

 けれど、この森はそんなに大きな森じゃない。全体の大きさは僕の通っている小学校よりも小さいくらいだったはずだ。まっすぐ歩き続ければ必ず外に出られるはずだと信じて歩く。

 けれど慣れない木々に囲まれた道で、思いのほか早く息が切れてきた。自慢じゃないけれど学校の校庭以外で土の上を歩くなんて、記憶にある限りでは初めての経験だ。

 疲れて木にもたれかかって、ぜいぜいと息が荒くなる。

 喉が渇いた。水が欲しい。早く家に帰って水道の蛇口からざぁざぁと流れる水に顔ごと突っ込んで水を飲みたい。そうだ、家に帰れば靴を脱いで足を投げ出して休む事だって出来るじゃないか。

 早く帰らなきゃ。

 そう思って顔を上げた僕の目に、一筋の光が降り注ぐ光景が飛び込んできた。

 少しだけ前の方に木漏れ日のような陽が射し込んでいる。僕はそこに向かってまた歩き出した。


 転ぶように躍り出たそこは、ちょっとした空間ができていた。

 木を切って作られたような、人の手が入っている感じはまったく無い。

 かといって雑草で覆われているわけでもない。

 敷き詰められた落ち葉は足を入れると、ふんわり柔らかく跳ね返ってくる。

 その空間のちょうど真ん中に、そう、あの木漏れ日が刺している真下に石窯があった。

 …… 何でこんな所に? ……

 恐る恐る近づいてみる。

 レンガで作られていて、上の方がお椀を伏せたように丸くなっていて、小さな煙突が飛び出している。

 中は二段になっていて、下の段には真っ黒いススのような物がこびりついていた。

「はぁ……」

 ひととおり石窯を確認すると、疲れてしまって僕はその場に座り込んでしまった。

 背中をもたれさせた石窯はひんやりとしていて気持ちいい。お尻の下の落ち葉もふわふわと柔らかくて少し暖かさも感じる。

 不思議と喉の渇きは消えていた。


 風がひやりとしてくるのを感じて、「帰らなきゃ」と立ち上がって周囲を見回してみて、改めて自分は森で道を失っていたことを思い出した。

 石窯を中心にして広がっている落ち葉の空間をぐるぐると歩き回って、森の外に家が立ち並ぶ一角を見つけて、とにかくそこへ向かって進むことに決めた。

 最初にあれだけ迷ったっていうのに、帰りはとても簡単に森を抜け出ることができて驚いた。

 石窯のあった空間の方角をじっと目を凝らしてみたけれど、そんな場所は存在しませんと言うようにざわざわと木々は葉を揺らす。僕はその方向を忘れないように、森の背後に聳える山の形と照らし合わせながら目に焼き付けた。

 次の日曜にまたあの場所を探しに行く為に。


 家に帰って風呂に入り、両親とお爺ちゃん、それから妹と皆で食卓を囲んでいても、テレビのお笑い芸人のアクションに家族が笑い転げていても、僕はずっと今日の出来事を頭の中でぐるぐると思い出し続けて、軽い興奮にドキドキし続けていた。

 森に入り込んでからの出来事は僕にとって初めての経験ばかりで、そしてこれが『冒険』というやつなんだと理解してからはもう、それ以外のことは全く頭の中に入ってこなかったんだ。


 日曜までの時間はとても長くて待ち遠しくて、興奮の熱をつのらせる。

 今度はちゃんと水筒を持っていこう。

 おやつも持っていけばもっと長い時間をあの空間で過ごすことができる。

 レジャーシートもあった方がいいだろうか?

 そうだ、道々に目印になる何かをつけておいたほうが良くはないだろうか?

 誰か友達も誘ってみようか? いや、人が増えると森でのシンとした雰囲気が壊れやしないか?


 考えて考えて、ようやく日曜がやってくる。


 前回森を抜けた場所から再スタートだ。この日は朝からやってきた。

 水におやつに、自分で作ったおにぎりを三つ。

 日曜なのに朝から慌ただしくしている僕に、何事かと訊ねるお母さんには友達の家でゲームをするからと言い訳をした。お昼ごはんが要るのならちゃんと弁当を作ると言われたけれど、嘘をついている後ろめたさで断って自分でご飯を握っている姿を見て、

「あんたも自分のこと、自分でちゃんとやるようになってきたのね」

 何やら感動されてしまった。

 …… あぁ、後ろめたい ……

 お母さんの顔を見ないように視線を逸らしながら家を出た。


 再スタートの入り口はちゃんと覚えたので、そこから数歩入った木の枝に目印のカラーテープを巻き付けて歩く。方角としてアタリを付けた、山にちょこんと乗っかっているような丸っぽい木を目指すようにしてずんずん歩く。時々カラーテープを枝に巻きながら。

 十分もしないうちに目的地は姿を現した。こんなに近かったのかとちょっと驚いた。

 リュックを放り投げるように降ろしたら、石窯を背もたれにして座る。

 水でちょっと喉を湿らせたら、持ってきた漫画を開いて読んでみた。

 家に居るのとまったく変わらないことをしているのに、何だか特別なことをしているような気になってくる。

 漫画を読んで終わったら少し目を瞑ってぼんやりとしていたら、いつの間にかうたた寝をしていた。

 おやつ食べながらぼんやりと木漏れ日が動いていくのを眺めて、また同じ漫画を読む。繰り返し読んでいてもまったく飽きる気がしない。

 その繰り返しで半日が過ぎた。

 夕方の少し冷たい空気を感じて、荷物をリュックに戻して背負ったら、目印のカラーテープを頼りに森を出た。

 次の日曜は……そうだな、宿題でも持ってこようかな、という気になった。いつも夜になって寝る直前までやる気が起こらない宿題だけど、何だかここでならやる気になれそうな気がしたんだ。


 ところが次の日曜は宿題どころか漫画を読む暇さえ無い事になってしまった。


 先週のようにリュックにちょっとした食料と水を詰めて石窯の空間に出ると、先客が居たんだ。


 僕と変わらないくらいの年かな、と思ったそいつは石窯を背もたれにして座っていた。僕が姿を見せるとこちらを見て、にんやりと笑った。知らない顔だ。違う小学校のヤツだろうかな。

 何だよ、こいつ…… 自分の領地を荒らされた気分でムッとしたけど、考えてみれば自分だってこうやって来ているんだから、ここへ来る人間がまったく居ないってのもおかしい事かもしれない。

 そいつが座っている反対側を背もたれにして僕も座り、

「おまえ、誰?」

 ぶしつけかもしれないけど一番気になる事だ、と声をかける。

「俺? 俺はカズ。おまえは?」

 カズ、と名乗られて、おいそれはあだ名だろうと言い返してやりたくなったけれど、これはこれでこちらも自分の事をぺらぺら喋る必要がなくてちょうどいいかもしれない、と思い直した。

「僕はキョウ」

 それだけで最初の会話は終わった。


 カズは次の日曜も、その次の日曜も僕より先に森にきていた。

 どこから入ってくるんだろう? もしかしたら僕が目印にしたビニールテープが見つかってしまったのかもしれない。なるべく目立たない色のテープを選んだつもりだったけど、分るやつにはわかってしまうものなんだろう。

 それならそれでしょうがない。

 むしろ、テープの目印をつけてからもう二か月は経っているのに誰も気付いたふうでないこの石釜の空間に、カズだけが気付いたんだ。

 この森の中に何かあるかもしれない……そんな事を“気付けるやつ”だと思うと、学校の友達なんかよりずっと親しみを感じた。


 カズはとても物静かで、めったに口を開かない。

 僕がおにぎりを食べていても、気にもとめないでずっと、木漏れ日がゆらゆらと揺れて動いていく景色を眺めていた。

 何を考えているんだろう、気にはなったけれど、それを聞くより、僕もカズを真似て森の景色を眺める時間が増えた。持ってきた漫画も宿題も、宙ぶらりんなままリュックの中に収まっている。




 やがて、週に一回、日曜だけ通っていた森へ、僕は土曜日も行くようになった。

 カズはいち早くそれに気づいて、滅多に開かない口を開いた。

「最近来る回数、増えたな」

 この場所でよく会いはするけれど、実は僕の事なんて興味ないんじゃないか、と思うくらい会話を交わす事がなかったので、僕は正直、驚いた。

「ちょっとね。家にあんまり居たくないっていうか……」

 しどろもどろになりながら答えると、カズは「ふぅん」と鼻先で笑った。

「親と喧嘩でもしたのか?」

「そんなんじゃないけど……」


 誰にも喋るつもりは無かった。

 家の中の“恥ずかしい話”だって、お母さんがイライラしてたから、僕も人に話していい事だと思わなかったから。

 けれどなぜだか、カズには話せてしまった。




☆ 森の石釜 ~2~ に続く ☆

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