風歌 ~2~


 久しぶりに、あの少女の夢を見た。

 

 家の前の村道で、泣いている女の子。その手をぎゅっと握っているのは私の祖母だ。お婆ちゃんに宥められながら女の子は畑をとぼとぼと歩いて戻ってくる。

 縁側でもう一人、お爺さんが小さく頷きながら手を差し出した。小さな飴玉がみっつ乗っている。

 あぁ、この人は私のお爺ちゃんだとすぐに解った。お婆ちゃんの新しい遺影と並んで飾られているのを、この二週間近く毎日見ていたからちゃんと分る。

 二人とも写真の笑顔より随分と若かった。

 けれど女の子の正体がまだ分らない。もしかすると母だろうか、とも考えた。けれど母がこの家に住んでいた頃の事なんて私はまったく知らないのだから、他の親戚やもしかすると姉妹が居たかもしれない。


 女の子が喉の奥を詰まらせたように泣く声を思い出すと、胸が詰まって苦しくなって、もうそれ以上考える事ができなくて胸の奥をもやもやとさせながら目が覚めた。


 相変わらず≪彼≫は畑を手伝いに来てくれたいた。毎日黙々と葉っぱについた虫を取ったり、井戸を何度も往復しては水をやってくれる。

 私は時々その様子を眺めながら祖父母の家財道具の整理をする。

 衣類や祖父母の私物らしきものは全て段ボールと衣装ケースにしまい、庭の隅にある倉庫に片付けた。家具類は丁寧に拭いてそのまま置いておく。台所はいつ誰かが来ても使えるように食器も鍋も棚に入れておく。

 祖父母の位牌はさすがに私が持って行くが、仏壇はお寺が処分してくれる事になった。

 家屋とお墓は時々役場の人が様子を見に来てくれることにはなったが、私自信も半年に一度は訪れて掃除などすることで話しは決まった。

 あとは役場に鍵を預ければいいだけだ。

 村でお世話になった方々にお礼をして回ると、帰ってしまう事を随分と残念がられて、何度も涙が出そうになった。

 村を訪れた最初の数日間こそ、今まで自分が暮らしてきた世界とまったく違う環境で『生活をする』という現実感を持てないまま、ふわふわと家屋の整理にあけくれていたような気がするが、しばらくするとこの毎日が少しずつ身に沁みついてきた。

 朝、起きる。

 水を飲む。

 家の中の掃除をする。

 食事の支度をする。

 畑で熟れた野菜を収穫する。

 ≪彼≫が畑で働く姿を眺める。

 木漏れ日を全身に浴びながら縁側でうたた寝をする。

 収穫した野菜を村の人に『食事のお礼』と、おすそ分けする。

 鳥の声と葉擦れの音を聞いて眠る。

 確かに、これであと幾ばかりかの収入があれば充分に生活してゆけるような気もしてきたが、それはまた『違う』ようで、自分の人生に当てはめられるものにはならなかった。

 空港に向かえに来てくれて以来私のお世話役のような形でいつも車を走らせてくれたり、他の村の人との繋がりを積極的に進めてくれた青年は、私の「帰ります」という話しに、

「じゃぁ、帰りも空港まで俺に送らせてくださいね」

 と、とても穏やかな声で申し出てくれた。


 電話で飛行機のチケットを予約すると、また急に慌ただしくなってしまう。

 そうだ、お母さんにも戻ることを伝えておいた方がいいだろうか?

 携帯の住所録を開いて、母の番号を表示して……その番号を見ただけで、彼女がどんな返事をするだろうかがとても簡単に想像できてしまって、私はそのまま携帯を閉じた。

 急に母が愛おしく思えてしまった。

 彼女が本当にこの村を出て戻るつもりもなく生きてきたのなら、役場から届いた茶封筒なんてさっさと棄ててしまって私に知らせもしなかったはずだ。それを彼女はしなかった。

 その意味が、きっとこの旅の終わりにあるのだろう。

 帰らなきゃ。あの暑苦しいコンクリートだらけの街へ。お母さんに、ここでの短い暮らしで私が知ったたくさんの、初めて経験したたくさんの事々を話してあげるために。聞いてもきっと喜ぶ仕草は見せないだろうけど。


 昼が短くなり、夏も終わりを迎えようとしていた。きっとまだ都会では蒸し暑い毎日だろうに、この村ではもう肌寒い風を感じる季節だ。

 私はこの日、ひとつの決め事を心に用意して≪彼≫を迎えた。


「だからね、ここの畑を一番面倒見ててくれてるの、あなただと思うの。だから、これからはあなたに自由にこの畑を使ってもらおうと思うのだけど、どう?」

 私の申し出に≪彼≫はきょとんと首をかしげて聞いている。

「役場の人にもちゃんと説明しておくから、好きな野菜を植えて、売れるようなら売ってもいいし。地代とかは今までみたいに世話してくれればそれでいいから」

 説明しても彼の耳にちゃんと私の言葉が入っているのか、いまひとつ汲み取れない表情をする。

 私としてはこの家屋と庭が荒れてしまうより、誰かが自由に使っても良いから面倒を見ていてくれれば嬉しい、というわけなのだが。それには≪彼≫が一番適任なように思えたのだ。

 なのに本当に、≪彼≫の反応がはっきりしない。

 私にはとてもシンプルで誰も損をしない良い申し出だと思えたのだけど、もしかして土地に関して何か決まり事でもあるのだろうか? 途方に暮れて言葉が出なくなってしまった。

 そんな私の様子を見てか、急に手を引っ張られた。

「何? ……井戸?」

 ≪彼≫がにっこりと笑む。

 井戸の隣には、大きなスイカがごろんと転がっていた。

 今年最後のスイカだ。今まで収穫したものは全部人にあげてしまったから、私の口には一切れも入っていない。別に食べたいわけではなかったので、それはそれで何の問題もないのだけど、なんとなく、最後だなぁと思うと誰かに譲る気にもなれず転がしておいたものだ。

 このスイカが一体……?

「あ、もしかして、食べたい?」

 満面の笑みが帰ってきた。

 口数の少ない穏やかな青年だと思っていたが、意外に子供っぽい一面もあったのかと、私の頬も緩んでしまった。

「わかった。じゃぁ包丁を持ってくるからちょっと待っててね」

 立ち上がり玄関に向かった私の背後で、ぐしゃりと何かの崩れる音がした。「え?」振り返ると、≪彼≫が掌大の石でスイカを割ってしまっていた。

「なんでぇ!? 私今包丁持ってくるって言ったよね?」

 けれど≪彼≫は私の叫びなんて気にも留めず、不恰好に割れた赤い一切れをにっこり笑みながら差し出した。

 喉が鳴った。

 したたり落ちる薄赤い汁。ざっくりと割れたその表面に小さな果肉の粒がふわりと盛られている様は、まるで赤い粉雪のようだ。今までスーパーで切り売りされているスイカは何度も買った事があるけれど、こんな風にふわふわする果肉は見たことがない。甘い香りまでが目に見える湯気のように立ち上がっている。

 こんなにも『食べたい』という衝動に駆られたことがあっただろうか。それも、たかだかスイカ一切れに。

 甘い汁をしたたらせる≪彼≫の掌からそれを受け取り、口に含む。

 果肉は口の中であっさりと溶けて、縁日の綿菓子をそのまま水分にしたような汁が喉を走り抜けた。

 美味しい。

 けれど……


 この味を私は知っている。


 初めて食べる、スーパーで売られている以外のスイカだけど、この味は私の記憶の底に、ずっと、ずっと眠っていた。

 夏の終わりを告げる風がひと吹き木漏れ日の合間を縫って駆けてゆき、私の心の奥底で眠っていた、夢のような日々を抱えて戻ってくる。


 思い出した。

 夢の中で見た、あの少女。

 あれは私だ。




 家の中でも、開け放した窓の外からも聞こえてくるものは風に弄ばれる葉擦れの音と、姿を見せない鳥の鳴き声。そして村道を少し下がった所を流れる川のざわめき。

 母に連れられてやってきたこの山村の小さな家は、四歳のこの夏まで街しか知らなかった私にとって、何もかもが珍しかった。

 庭に広い野菜の畑。玄関の前に井戸のある家。道に出て十分、二十分と走ってもすれ違う人のない雑木林の砂利道。

 けれど興奮に我を忘れてはしゃいでいられたのは、その翌朝までだった。

 年寄り夫婦が肩を寄せあい住む家に、幼い娘を連れてきたその当人が一人で街に戻って行ったと知ってからは、もう何を見ても喜べない。

 木漏れ日の合間を抜けてゆく大きなアゲハの悠々とした姿さえ目に入らない。

 縁側でぽつんと座る私の背中を見つめていたお爺ちゃんが、井戸を指差して言った。

『桶にスイカの入っとる。ちょうど冷え頃やけ、食うてみぃ』

 けれど丸のままのスイカの食べ方なんて知らなかった私は、目を伏せて首を横に振るしかなかった。

『そこのちぃと大きい石をガツンとぶつけりゃ割れるけん、やってみぃ』

 本当にそんな事でスイカが割れるのか、ちらりとお爺ちゃんを見れば、うん、うんと頷いている。私は思い切って、縁側から飛び降りた。

 適当な石を拾ってお爺ちゃんに見せると、また『うん、うん』と頷くので、私もちょっと嬉しくなってスイカに向き直った。が、スイカは割る事ができなかった。

 先客が居たのだ。

 私と同じくらいの年ごろの男の子が、しゃがみこんで先にスイカを割って、しゃくりしゃくりと食べていたのだ。

 泣きそうになってまたお爺ちゃんを振り返る。けれどお爺ちゃんは相変わらず笑って見ているばかり。

 思い切って、男の子に声をかけた。

『それ、私のぉ……』

 震える頼りない声に男の子が顔を上げた。私はその顔を見て、言葉にならない悲鳴を上げた。

 何とも面妖な容貌だった。青白い顔の中で大きな目がカッと開き、異様に小さな目玉がぎょろりと動いている。ぼさぼさの黒い髪は上に引っ張られているように奇妙に立ち上がっている。

 男の子は私が身動きもしないのを見てか、すっと手を伸ばしてスイカの一塊を差し出してくれた。

 おずおずとそれを受け取ると、立ち上ってくる甘い香りに我慢ができず、さくり、と赤い果肉を口に頬張った。

 乱暴に砕かれた一塊は、昨夜食べた、きれいに切りそろえられた一切れよりずっと甘く口の中でじゅわりと広がる。

『おいしい』

 声を張り上げて顔を上げると、お爺ちゃんが満足げに頷いて、男の子は口端を上げてにんまりと笑んだ。

 小さな二人の子供は井戸の横にしゃがみこんで、口の周りを真っ赤にして夢中でスイカをむさぼった。

 最後のカケラまで食べてしまって、私が男の子に『ありがとう』と告げようとすると、いつの間にか男の子は姿を消していた。

 お爺ちゃんに『あの子は?』と聞いても、座椅子に座って伸ばした右足をぽんぽんと叩くばかりで答えてくれない。何年か前に沢に落ちて岩に挟まれ、砕かれた足だ。もう動かない。

 仕方なしに畑から帰ってきたお婆ちゃんにその事を話せば、夕飯の支度の手を止めて私と同じ目の高さに屈んでにっこりと笑って教えてくれた。

『そりゃぁエンコ様だ』

『エン……?』

『神様のようなもんじゃ。子供と夏の野菜が好きやけん、おまえとスイカの匂いにつられて来たんやろう』

『神様なの?』

 異様な顔かたちではあったけれど、それでも私には同じ年頃の男の子に見えた。

『悪さはせん。来たら遊んでやるといい。あれも寂しい神様やけんなぁ』

 私は小さな手を胸の前で握りしめて、じっとお婆ちゃんの言葉に耳を傾ける。

 と、急にお婆ちゃんの顔つきが険しく変わった。

『けんど、エンコ様が相撲を取ろうだ、川で遊ぼうだ言うたら、それはついて行っちゃいかん。これだけは守りぃよ』

『何で?』

 声を震わせ聞いたが、お婆ちゃんはそれには答えずただ目を伏せて首を横に振った。


 それから毎日、男の子は井戸の横にやってきた。

 お爺ちゃんがにこやかに頷くので、私も気持ちよく庭のトマトやスイカを男の子と捥いでは食べた。

 一度は縁側に上がって折り紙に誘ったが、指の間に薄い皮の張っている男の子の手はいつも濡れていて、折り紙を破いてばかりで遊びにならない。けれど男の子は木にもせず、葉っぱを口に当てて笛にしたり、船にして桶に浮かべる遊びを教えてくれた。


 ほどなくして週末が来て、私の母がこの家に戻ってきた時も、私と男の子は井戸の傍で笑い声を上げながら遊んでいる最中だった。

『お父さん、あの子を見てくれてありがとう』

 明るい母の声を聞いて、私は遊びの手を止めた。

『ママが来た!』

 嬉しくて声を弾ませる私に、男の子が首をかしげる。

『あのね、私のママはお仕事してるの。やからちっちゃい時は保育園に行っとったんやけど、今行っている幼稚園には夏休みがあるから、その間お婆ちゃんの家でご飯食べなさいって。それで私はここに来てるの』

 お婆ちゃんから後に教えてもらった理由だった。

 男の子は相変わらず首をかしげている。けれど私はかまわずに立ち上がり、母親へ手を振った。

『今日は土曜日やけん、お休みで来てくれたんよ』

 母はお爺ちゃんへの挨拶を済ませて、私に振り返り手を振ろうとして……その手を止めた。

 母親が目を吊り上げて叫びながら、足元の何かを掴み投げつけた。

 彼女のした事の意味が解らずに、『え?』と振っていた手を止めると、すぐ隣で布を引き裂くような甲高い叫び声が上がった。投げつけられた何かが男の子に当ったのだ。

 母親が駆け寄ってきて腕を引っ張る。

 なぁに? なぁぜ? 男の子を心配して振り返ると、背中を丸めて林に逃げ込んでゆく姿が見えて、やがて消えた。

『あんな野良犬が居るなんて!』

 震えながら私を抱きしめる母に、

『違うよ、あの子はお友達だよ』そう言ったけれども、

『あんな汚い犬が友達なわけないでしょう。お父さんも気を付けてよ。噛まれでもしたらどうするの』

 お爺ちゃんは目を伏せて、ただ首を横に振った。

 家の中に引きずられるようにして入れられると、私は押入れに逃げ込んで泣き始めてしまった。そして、泣き疲れて、眠ってしまった。


 目が覚めると外は陽が赤く燃え始めている。

 お爺ちゃんも座椅子でうとうとと船を漕いでいる。

 お母さんは台所に立っているのだろう。

 お婆ちゃんはまだ畑なのか、戻っていない。


 なぜ、そんな事を考えたのか。

 私は縁側を降りて、つっかけを足にひっかけると走り出した。

 庭で自分に抱えられる大きさのスイカを抱き上げて、林に駆けた。

 そうしなければいけないのだ、と思った。


 人の分け入らない林の道は歩き難くて、転んでしまう。その拍子にスイカが割れた。

 砕けたスイカを見ていると涙が出そうになったけれど、込み上げてくる嗚咽を呑みこんで割れたカケラを両の掌に掴み、もう一度走り出す。

 疲れ切るまで。


 次に目覚めた時、私は自分が硬い岩に寝そべっているように思った。それが誰かに背負われているのだと気付いたのは、顔を上げた所で黒い髪が揺れていたからだった。

 見覚えのある髪だ。いつも立ち上がっていた癖のある髪が、今は垂れている。頭のてっぺんに平たい石のような物が揺れて見えた。

『エンコ様……』

 とても自然に、その名前が口からこぼれた。

 私が目覚めた事に気付いた男の子は、ゆっくりと背中から下ろしてくれて、向かい合ってにんまりと笑んだ。

 いつも一緒に遊んでいる、井戸から見える林の入り口だ。陽はとうに暮れて辺りは真っ暗になっている。

『送ってくれたの?』

 男の子はまた、にんまりと笑み、私の手を掴んだ。

 赤い果肉が潰れて、ぐしゃぐしゃになってしまった掌。

 男の子はそれを、ぺろりと舐めた。

『ごめんね、スイカ、割っちゃったぁ』

 しくしくと泣きながら謝る私にかまわず、男の子はその掌を叮嚀に、叮嚀に舐めた。

 奥の畑から足音が聞こえて、男の子が顔を上げる。

『もんとるんか?』

『お婆ちゃん』

『急におらんなって心配したぞ。お母さんも探しよるけん、早う中に入り』

『あのね、送ってもらったの』

『誰に?』

 私が男の子を振り返ると、彼はいつの間にやら、林の奥に遠ざかっていた。なるほど、背中を丸めて走る姿は確かに犬に似ているかもしれない。

 けれどあの子は犬じゃないのに……母親が彼にした仕打ちを思い出して、腹立たしく、泣き出しそうになってしまった私の隣で、お婆ちゃんがそっと手を合わせた。

 口の中で、もごもごと詫びるように、一言二言唱えられたその言葉はとても奇妙に聞こえたが、意味だけははっきりと私の頭の中に響いて解った。

 私もお婆ちゃんを真似て手を合わせる。目の前に合わせた掌から、スイカの甘い匂いはすっかりと消えていたけれど、代わりに井戸の底から汲み上げたばかりの苔むした涼やかな水の匂いがふわりと溢れる。これはあの子の匂いなのだと分ると、とても自然に、慣れ親しんだ言葉のように初めて唱えられる言葉が私の口から流れ出た。


 夕飯も早々に布団に入ったけれど、今度はなかなかに寝付けない。襖の向こうでお母さんがお爺ちゃんとお婆ちゃんに、あんな犬が居るなんて、気を付けてくれないと、などと言っているのが聞こえて胸の奥がぎりぎりと絞られるように痛んだ。

 次から次にと、また涙が溢れたけれど、声が出ない。

 あの子はもう二度と姿を見せないだろうと、心のどこかで解ってしまって、溢れる涙が止まらない。

 そして次の夏には、もう母親も街で自分を預ける場所を探して、ここには来させてくれなくなるだろうと悟った頃、涙の止まらないまま、ようやく深い眠りに落ちた。


 唐突に訪れて、唐突に過ぎ去った夏は、小さな私の掌に甘いスイカの匂いと苔生した涼やかな水の匂いを閉じ込めて、終わりを告げたのだ。




「…… 思い出したわ」

 たった一度の夏。街に戻ってからもしばらくはずっと胸を痛めて過ごしていたのに、いつの間にか記憶の底に封じ込められて、思い出しもしなかった。

 ≪彼≫は、にっこりと笑んで私の手を握りしめた。

 川を渡って水の匂いを含んだ風が二人の間を吹き抜ける。

 私は、きっと今泣きだしそうな顔をしているのだろう。≪彼≫の指が私の目尻に触れた。

「あなたも、私にここに残ってほしいと…… 思っている?」

 ≪彼≫は何も答えない。

「でも、ごめんね…… ごめんなさい…… 私、帰らなきゃいけない」

 目を逸らしながら伝えたけれど、≪彼≫が今どんな顔をしているのかがなんとはなしにわかった。

「ごめんね……」

 お母さんが、酷い事をして。

「ごめ……」

 せっかく帰ってきたのに。

 きっと、長い長い間待っていてくれたのだろうに。

 なのに、私はまた、ここを離れてしまう。

 ≪彼≫の手が、私の手から離れた。思わず見上げたそこに、黒く潤んだ瞳がじっと私を見つめていたが、続いて吹き抜けてきた風にさらわれるように、彼の姿は霞んで消えた。




 やがて驚くほどの実りの秋が過ぎて。

 雪深い冬が過ぎて。

 風の匂いを変える春が過ぎて。

 また夏は繰り返す。


「お婆ちゃん、このスイカ美味しい」

 びっくりしたような顔をほころばせて、幼い少女が私の手を引く。

「包丁で切るより、こうして食べたんが美味しいんよ」

 少女は「凄い凄い」と繰り返し、庭の畑を走り回る。初めてここへ来た時の、私の年だ。見るもの全てがきらめいて見える年頃だろう。

 私は結局、都会へは帰らなかった。

 帰ろうと荷物をまとめる合間合間に、あの潤んだ黒い瞳が頭に、胸の奥に、私の心のあちらこちらに沁みついて離れなくて、この場所を離れることは『違う』ことのように思えて。

 『帰れない』と告げた私に母は『そう。元気にやんなさい』とだけ答えてくれた。

 残る事を決めた私に、母と同級生だったという女性が話しを聞かせてくれた。元々彼女は都会に憧れていただけの、ちょっと勝気な普通の娘だったのだけれど、結婚生活はうまくいかず、離婚の後の就職も思うままにならずで、どんどんと帰り辛くなってしまったのだろう、と。

 うまくいかない自分の姿を見られたくなくて帰れない娘と、頼ってほしいと思いながらも財産も持たない年寄りでは助けてやれる事が無いと何も言えなくなる祖父母。

 たった一度だけ祖父母を頼って私を預けた事があるが、その時に大きな喧嘩をして私を引き摺るように連れて帰ってしまったと聞き、あぁ、あの時の事だろうかと思い返す。その時に、お爺ちゃんがふと漏らしたのだと彼女は言った。

『あれはもうここへは、もんてこん。わしらも諦めるしかないんやろう』

 そして母を知る全ての知人も、祖母の他界に帰ってきたのが当人ではなく私一人だったことで、もう彼女はこの村を棄てたのだと諦めるしかなかったのだろう。


 やがて私はこの村で結婚をし、娘を産み、その娘はやはり街へと出て行った。母のように。娘は街で縁を結び子供に恵まれた。

 ちょうどその頃、私は母の他界を知らされた。

 連絡を取り合ってはいたが、母は変らず居を移し続けていたので知らなかったが、母が亡くなったのはこの村から遠くない町であった。

 彼女は、帰ろうとしていたのだ。いや、ずっと帰りたかったのだろう。

 ずっと、祖父母と私を案じていたのだろう。

 ただ器用さに欠けていただけなのだと、私は知った。





 さて、街へ出た私の娘であるが、母と私の娘は、辿る道を違えてくれた。

 母は私をたった一回ここへ寄こしたきり、祖父母との喧嘩と野良犬が居て危ないという理由で二度と寄らせもしなかったけれど、娘は孫と夫を連れてまとまった休みには遊びに来てくれる。時には孫だけを泊まらせてもくれる。

 そして孫娘は、いつか出会うだろう。

 私がここから去ると伝えたために、潤んだ瞳を残して霞み消えた≪彼≫と。

 人恋しさにふらりと舞い戻ってきた≪彼≫は、今度はどんな姿で現れてくれるだろう。それはまだ分らないけれど、その時私は孫娘に教えてあげるのだ。

『あれも寂しい神様やから』と。






~ 了 ~



※ エンコ様 愛媛県の一部で呼ばれる、カッパの異名

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る