風歌 ~1~

 初夏。

 遠い里から届いた一通の手紙が、涼やかな水の香りを身にまとい私のもとへやってきた。

 それは、私をいざなった。




 飛行機のドアが開いてタラップに降り立つと、熱い空気に身を包まれた。夏の盛りなのだから暑いのは当然なのだけど、同じ日本の中だというのに、出発した私の地元とはまったく違う種類の暑さだ。これが“南国の空気”なんだ、とまるで外国に来たような感じだった。

 けれど迎えに来てくれた車に乗り込み、僅か一時間も山へ向かって走ると、また空気が変わる。

 窓を閉めているのにひんやりとしてきて、私は少しだけ肩をすぼめた。

「寒いですか?」

 運転している青年が気を配って、後部座席から自分の物であろうパーカーを貸してくれる。

「少しだけ」と私は答えて、それを肩に羽織った。

 川の流れに逆らって、車は緑深い山里へと向かって走る。

「ここはもう標高六百を超えてますからね。朝晩は少し冷えますよ」

 青年がはにかむように笑った。

 アスファルトに出来た轍で、少しだけデコボコな国道の隣を寄り添うように続く谷川の底では、大きな岩が幾つも固まって転がり、その合間を削るように白い波を立てて青い水が駆け抜けてゆく、

 海に近い街中を、悠々と湛えた水がゆっくりと流れていた広い川は姿をどんどん変えて、支流に分かれる度に荒く、勢いを増してゆく。

 周囲の山々には先の尖った杉林の合間合間に、丸みを帯びた深い緑の森が目立つ。

 私は、どこへゆくのだろう。どこへゆこうとしているのだろう……

 これから行く先の村の名前も、そこへゆく目的もちゃんと分ってここへ来ているのだから何の問題もないはずなのに、この景色を眺めていると何もかもが不確かになってきて、現実が川の流れと一緒に背後へと流れて薄くなってゆくようだった。

 家屋は所々集落のようにまとまって現れては、また消える。いや、家屋も人の気配も全く感じない距離の方がずっと長くて、まるで生活感を感じられない。

 山の上の方を見ると、突然沸いたように現れる数件の家屋が見えて、あそこへはどうやって行くんだろう……ぼんやりと考えていると、改めて、ここは今まで私が生きてきた世界とは違う世界なのだと思わずにいられなかった。

「こんな所で……」

 思わず声に出てしまったらしい。隣の青年が耳の後ろを指先で掻きながら少し苦笑いをしたので、私は口に手を当てて言葉を押し込んだ。

「いいんですよ。俺らの村が田舎というより秘境だってことは、住んでる自分らが一番よく知ってますから」

 失礼な言葉を呟いてしまったのに……申しわけなくなって頭が下がった。


 こんな所で……

 こんな所で、生きていたのだ。私の祖父母が。




 コンクリートの反射熱が熱くてクーラーも役に立たない雑居ビルの合間に在るアパート。そこにヒラリと舞い下りた手紙を、母は封も切らずに私へ投げやった。

 宛先は『倉中様』、名字だけだが送り主の『○○役場』に心当たりがないので私宛でないだろうと思ったのだが……

 仕方なしに茶封筒の端を切り、便箋を取り出し開いたら、封筒に○○役場と印刷されていた几帳面な外の顔とはうってかわって、自筆の柔らかな文字が流れ出てきた。

 母の生家でひとり暮らしをしていた祖母が、他界しました、との知らせだった。

 当たり前の事と言えば当たり前の事なのだけど、私はその瞬間までそういう人が自分にも居たのだと思った事もなかったのでとても驚いてしまった。いや、それよりも、この母にそんな≪故郷≫があったのだと、そちらの方が信じられなかった。

 私は祖父母どころか、父の顔も知らない。

 気が付くと母が仕事を変えるのに合わせて、彷徨うようにこの都会で居を移しながら、大それた夢も無い代わりに酷く嫌な思いをすることもなく、ただぼんやりと生きてきた。スーパーで買った惣菜を食べて、高校に通い卒業もし、三年前に二十歳の簡素な祝いも無難に過ぎた。

 そこに舞い下りた、一通の手紙。

 ―― ぜひおいで下さい。村民一同心よりお待ち申しております。 ――

 最後に書かれた一行に心惹かれたのは、手紙にまとわりついて一緒に届いた、甘さを帯びた冷ややかな水の香りのせいだろうか。

 送り主の役場へ電話をかけて詳細を訪ねる私を見向きもせずに母は仕事へ出てゆく。私は、その背中に疑問を感じる暇もなく、先方の話しを頷きながら聞いた。




 青年が『秘境』だという里に辿り着き、役場に降り立った私を迎えてくれた『住民課の課長』だという方が改めて説明をしてくれた。

「夏の初め頃さね、倉中の婆ちゃんが倒れとるのを郵便の配達員が見つけて、街の方の病院に搬送してもらって入院しとったんですが、もたんかって、先週亡くなってしもうたんですよ」

 手紙を書いてくれたのも、この方だという。

「入院中に連絡できればと思うて娘さんの連絡先を探したんですが、思いの他時間がかかってしまって……」

 申し訳ない、と頭を下げられた。いや、申し訳ないのはこちらの方だ。連絡先を探すのに手間取ったのは、母が度々に居を変え、時には住民票の移動もしないままに違うアパートに入ったりなどしていたせいだろう。もちろん、自宅の電話など持ったことは一度もない。

 あらかたは手紙に書かれていたので解かってはいたが、課長さんの話は祖父母の残した家屋と家財類をどうするか、という事だった。

 貴重品と思われる物があれば遺品として預かってほしい。

 それ以外の家財道具をどうするか、そして家屋の管理を今後どうするか考えてほしい。おおざっぱに言えばこんな所だろう。

 祖父母の家は役場のある村の中心から、さらに奥まった小さな集落の隅だという。空港に迎えにきてくれた青年が引き続いてそこまで車で送ってくれながら、道々また話しをしてくれた。

 家はこの初夏まで祖母が暮らしていたので、家財道具も食料品もそのまま残されていて泊まるのに不自由はないという事だったので、それをアテにして最低限の荷物でやってきた。彼がそんな私の荷物の少なさを心配して、店で何か買っていくといい、と勧めてくれた。

 村で唯一の小さな雑貨屋。これだけあれば数日は大丈夫だろうと思う程度のインスタント麺とコーヒー、スナック菓子を買い込む。

「移動スーパーもあるから、倉中さんの所へはなるべく商品が売り切れる前に寄ってもらうよう、伝えておきますよ」

 雑貨屋の小ささと品揃えの少なさにも驚かされたが、移動スーパーなどという物も初めて見る。テレビで見たことしかないあれで、自分が買い物をするのか……不思議な感じだった。


 家は、広い畑がそのまま庭になったようで、縁側のすぐ先にはキューリなどが植えられている。家屋自体は大きくはない。

 玄関の脇に井戸があった。

 …… あれ? ……

 どこかで見たことがあるような気がして、足を止めた私を余所に、役場で預かっていたという鍵で玄関を開けて、青年は慣れたように中へ入った。

 きっと、テレビか何かで見た田舎の情景に似ているんだろう、と、私も彼に続いて家に上がった。

 青年は手際よく、先に台所を見たのか

「米と調味料はちゃんと残ってるんで、食べるもんには不自由しなさそうですよ。でも冷蔵庫の肉はやめといた方がいい。冷凍されてる分は大丈夫そうですよ」

 言いながら部屋を横断し、雨戸を開けた。

 ひらけた縁側から、穏やかな陽射しが降り注ぐ。木々の合間を縫ってシャワーのように注がれる陽の光を浴びて畳が光る。田舎の情景というものは初めてそれに触れる者にも、こんなにも郷愁を感じさせるものなのだろうか。私は目尻に溢れてきそうになった滴を指で拭った。

 畳の上で踊る木漏れ日を眺めていると、青年が廊下の隅から掃除機を取り出してきた。

「畑だけは気を付けて誰かが一日に一回は様子を見に来てたんだけど、家の中までは倉中の婆ちゃん入院してから掃除されてなかったから……埃ってますね。掃除、手伝いますよ」

 畳の上で光っていた物の正体をあっさりと暴かれてしまって、少し残念に思いながらも「ありがとうございます」と頭を下げた。

 青年は帰り際に、庭の野菜はこの家の物なのだから遠慮なく食べるといいですよ、と、そして少しばかりの心配をしてくれながら帰って行った。

 都会の人に、この田舎は静かすぎて寂しいんじゃないか、と。

 夜、私がひとりで大丈夫か、と。

 都会のアパートに居ても子供の頃から、夜どころか一日の大半はひとりで過ごしてきたのだから、ひとりには慣れている。寂しくはないから大丈夫、と伝えても、彼の心配は拭えなかったようで、どうしても寂しくなったら幼馴染の女性たちに声をかけて来てもらうから、と半ば強引に携帯電話の番号を記した名刺を置いて。

 今まで、繁華街や車や電車の騒音の中で過ごしてきたのだから、たまには静かな夜もいい。単純にそう考えて、まだ外の明るいうちに夕食を済ませて床を敷いた。お風呂に入るには長旅と初めての事々が多すぎて疲れてしまったので、着替えもせずにそのまま布団に入った。


 翌朝。私はよほど酷い顔をしていたのだろう。出勤前に様子を見に来た青年が、縁側から顔を出した私を見て言葉に詰まって立ち尽くしてしまった。頭を掻いたり、咳払いを何度か繰り返してやっと言葉を発してくれた。

「やっぱり静かすぎて寂しかったんじゃないですか?」

 『静かすぎて』『寂しくて』『眠れませんでした』という返事を予想していたのだろうが、彼の期待に応える事はできなかった。

「静か……? 田舎が静かって、あれ、嘘ですね」

「は?」

「風で木や葉っぱがざわざわ揺れるし、川は道の向こう側のはずなのにやたらごうごう響くし、どこかから『ギャー』っていう叫び声のようなものや『ボーボー』って変な音は聞こえて耳について、もう……寝るどころか……」

「なるほど」彼が掌を叩いた。

「何がなるほどなんですか」

「ギャーっていうのは、アオサギかなぁ。やつらは夜でも餌を探すから。ボーっていうのは……何だろうなぁ、誰かに聞いてみましょう。鳥には違いないんで、危険はないですよ」

「鳥……ですか……」

 鳥というのは、チュンチュンとか、ピーピー、もしくはカーカーとしか鳴かないものだと思っていた。

「それと、夜は遠くの音がやたら近くに聞こえるんですよ。温度や湿度が昼間より低いからとかなんとか、学校で習った覚えがあります」

「そういうもんなんですか?」

「ええ。天気や他の条件もあるみたいだけど、風がなくて天気のいい夜は隣村の祭のお囃子も聞こえてきますよ」

 信じられない。返事も出来ずに頷くだけの私に、彼が少しばかり得意そうに笑ったのがまた、ちょっと憎らしかった。

「少しでも休みながら家の中の物とか、見てくださいね。それと、課長からなんだけど……」

 課長から、という言葉にハッと我に返った。

 昨日、役場を出る時に課長さんから『倉中のお孫さんの歓迎会をするので』と誘ってもらったのだけど、旅の疲れを理由に断ったのだ。

「よかったら今夜はぜひにって」

 今になって思えば、昨日も準備がされていたのかもしれない。それをまさか、二晩続けて断るのはさすがに心苦しかった。

 「わかりました」と口の端が歪むのをこらえながら返事をすると、彼はまた、はにかむように笑った。

「じゃぁ仕事が終わったら迎えに来ますので。えっと、五時半くらいに」

 ここは『お願いします』だろうか? 『ありがとうございます』だろうか。悩んでいるうちに彼は背を向けて車に乗り込んでしまった。エンジンの音が遠ざかって消えてゆくとまた、どっと疲れを感じてしまった。

 寝よう。とにかく一度、目を瞑るだけでいいから。私は縁側でそのまま倒れ込むように横になった。




『おばーちゃん、何を作ってるの?』

 庭から引いて来た大根を擂りおろしながらお婆ちゃんは笑って言った。

『大根餅さぁ』

『大根がお餅になるの?』

『そりゃぁ美味い餅になるよぉ』

 ざっくり摩りおろされた大根が入った椀に、ふたつの種類の粉を入れて、少しの塩とダシの素を振り入れる。ざっくり混ぜたら台所へ行き、焼き始めた。

 じゅうじゅうと美味しそうな音が響く。

 こんがりと焦げたトロトロの餅になって帰ってきた大根は、こげ茶の甘辛いタレで着飾られ、食欲をそそった。

 ごくん、と喉が鳴った。




 目が覚めたのは、朝から何も食べていなくて空腹を感じたからか、今の夢見のせいだろうか。それよりも板の上で眠ってしまったので体が痛い。陽は空の真上ほどに上がっている。壁の時計は正午過ぎを指していた。

「とにかく何か食べなきゃ……」

 立ち上がるすがらで、部屋の中に置かれた位牌と遺影を見た。夢に出てきた老婆は、確かに自分の祖母らしい。けれど、あの少女は?

「誰?」

 誰に聞くともなく、呟いた。

 畑を振り返ると川から降りてきた風が水気を含んで涼やかに通り過ぎてゆく。

 庭の向こう側に広がる薄暗い雑木林が、ざわざわさ揺れて木漏れ日を躍らせている。

 その中に、≪彼≫は立っていた。

 いつの間に現れたのだろう。どこから入ってきたのだろう。

 年頃は私と同じだろうか? ざっくりと来ている大きな緩いTシャツ。色の褪せて生地が薄くなったようなジーンズ。目の下まで隠すように伸びたぼさぼさの髪。すらりと伸びた細い手足。

 記憶を総動員させて、昨日役場で会った人たちや道すがらで挨拶をしてくれた人たちの顔を思い出すが、そのどれにも当てはまらない。いや、昨日ちょっと村の中を通り過ぎただけで、村人の全部と会ったわけではないのだから知らない人が居るのは当たり前の事なのだけど。

 …… もしかして ……

「あの、お婆ちゃんが入院してから畑を見ててもらったって……あなたですか?」

 姿恰好があまりにも雑に見えてちょっと不信も感じたけど、こんな山奥の田舎なのだから、人と会うのに服や髪を気にしない人も居るのだろう。勝手に解釈して思い切って声をかけると、≪彼≫は小首を揺らしながらにっこりと笑んだ。

「良かったぁ、私、しばらくここに滞在するんですけど、畑の事まではできないし…… どうしようって思ってたんです。良かったらこれからも来てもらえたら助かるんですが……」

 人懐っこい笑顔を見せる≪彼≫は、その笑みですっかり私を安心させた。

「もちろん、お礼に畑の物採ってもらっても構わないし、私も居る間は草むしりくらいしますので」

 ≪彼≫はまたにっこりと笑んで、畑の中ほどまでやってきて雑草をむしり始めた。

 突然の来訪にうっかり昼食の事を忘れてしまったが、同時に空腹も忘れてしまったようで問題はない。しかも、おかげで祖父母の遺品整理も随分と進んだ。畑で一仕事している≪彼≫の存在まで忘れてしまうほど没頭して……


 縁側から入る風が涼しくなったな、と思って整理の手を止め顔を上げて、ようやく≪彼≫の事を思い出した。

 働くだけ働かせておいて、お茶のひとつも出していない。

「あの! ごめんなさい!」

 慌てて縁側に出ると、畑の半分ほどまできれいに雑草が引かれて、今まで隠れていた大根とブロッコリーがやたらと目立った。≪彼≫の姿はもう、どこにも見えない。

「しまったぁ……」

 自分の事に夢中で大変な失礼をしてしまった。明日、また来てくれるだろうか? お詫びに何かしなければと思いながら熟れていそうな野菜をいくつか収穫する。とはいえ、野菜なんてスーパーでしか見たことがない。どれが熟れているのかなんて、ただの勘だった。

 明日、また来てくれたらこの野菜を渡して、謝ろう……


 しかし私はまた、失敗をしてしまう。

 翌朝、朝というには申しわけなさすぎる遅い時間に起きてしまい、慌てて縁側に出ると≪彼≫はとっくに草むしりを始めていた。今度は玄関近くのスイカとかぼちゃが顔を見せている。

「ごめんなさい…… あの……」

 きっと私の声は蚊の鳴くようにか細かったのだろう。振り向いた≪彼≫は、申し訳ないような、くしゃっとした笑みになって、掌を小さく振った。そして井戸に備え付けてあった銅製のカップに水を汲み、私に差し出した。

「これ、飲むの?」

 ≪彼≫に頷かれ、急に顔が赤くなる。

「ごっごめんなさい!」

 口を押えて息が≪彼≫に届かないように気を付けながらカップを受け取る。井戸水なんて飲んだこと無い。けれど、そんな事を考えている余裕も無い。今の私は、随分とお酒臭いはずだ。


 昨日の夕方、迎えにきてくれた青年が連れて行ってくれたのは、役場の隣に並ぶ公民館だった。細長いテーブルに料理の大皿が並べられ、ざっと見、十数人の人が集まっている。昨日の課長さんの姿もあった。

 村長と呼ばれる人に紹介されて終わると、他の人も次から次にと声をかけてくる。覚えきれずに戸惑っていると、いつの間にかビールの注がれたコップを手に持たされていた。

 人は時間が経つほどに増えてきて、最初に会話した村長さんと課長さん、そしてあの青年以外は名前も顔も教えてもらう端から右から左へと流れてしまう。

 料理はまだ残っている皿があるのに、また新しい皿が出てきてテーブルに乗り切れない。

 会う人会う人全てから片手にビール瓶を持ってきては注ぐので、ビールのコップは空になる隙もない。

「この辺は男も女も呑むからね、遠慮せんで食べて呑んでね」

 若い女性数人が話しかけてくる。

 聞けば村内に住む独身の男女は今、概ね集まっているとのことで、私は思わず≪彼≫の姿を探してみた。もし居たなら、昼間の事を謝ろう、と。

 けれど≪彼≫は集まっている『概ね』の方ではなかったらしく、姿を見つけることはできなかった。

 誰かに尋ねようとも思ったがその頃には自分も周囲もすっかり酔ってしまって、もう話しにもならなくなってしまっていた。

 お酒はアルバイト先の付き合いで何度か嗜んだことがある程度で、まだ自分が『強い』か『弱い』かなんてことすら知るレベルではない。ましてこんなに勧められるような席は初めての経験で、断り方も覚えていなかった。


 朝の遅い時間までぐうぐう寝ている私に、きっと呆れて、もう畑の手伝いなんて来てくれなくなってしまうかも…… 不安になって差し出された水を飲み干しながら≪彼≫を見つけ直すと、心配そうにこちらを見ている目と視線がぶつかった。

「ありがとう。もう大丈夫だから」

 ≪彼≫は再び笑むと、縁側を指差した。

「あ、お婆ちゃんたちの荷物の整理?」

 ≪彼≫が頷く。

「畑、任せてしまっていいの?」

 また、頷く。

 きっと体調の心配もしてくれているのだろう。私は大人しく≪彼≫にしたがって家の中の整理に戻ることにした。

 明日こそ、朝からちゃんと≪彼≫と、少しの時間でも畑を手伝おう。


 しかし思惑はうまくいかない。

 夕方になると誰かしら迎えにきて、どこかしらの家に連れてゆかれる。

 このお婆ちゃんの家で独り食事をする、という事を心配してもらっているのはとても嬉しく思うのだけど、

「何でこう、こっちの方って食事というより飲み会になっちゃうんですか?」

「そりゃぁ人が集まれば呑みだよなぁ」

 役場の職員さんの家を始め、子供の居る若いご夫婦の家にも招待それた。

 回数が重なってくれば、もう私は『お客様』ではなくなってしまったらしく、遠慮なく私には関係のない色々な会話も混ざってくる。

 次の村内清掃の手順はどうだとか、消防団の寄り合いだとか、神社の祭や各家庭の仕事の話し、学校の行事。

 そして酒が充分に入ると、何人かは必ず言い出すようにもなった。

「もうこのままこっちに住んだら?」

 せっかく家もある。広い庭もある。畑仕事が出来なくても、園芸ごっこの気分で好きな花でも育てればいい。若い世代がどんどん出て行って年寄りばかりが残る山村だ、人の手の足りない所はあるから仕事も紹介できるから……と。

 それらをやんわりと断りながら、私はある事に気付いてしまった。

 ここは私の祖父母の暮らす村なのに、誰も……


 誰も、私の母の事を聞かない。話さない。

 母の故郷でもあるはずだろうに。


 そしてまた、同時に気付いた事。

 呼ばれる食事会、という名の飲み会には毎回必ず、一番最初に知り合ったあの青年が混ざっていた。三回目ほどの飲み会で分かったことだが、彼はいつも飲まないで、最後に私を送ってくれていた。

 そして私はいつも、≪彼≫の姿を招待先で探してみるのだけど、見つける事は出来なくて、誰かに≪彼≫のことを聞くこともできないまま、二週間近い日が流れていった。そろそろ都会に帰る事を考えなければならない。


 もうアルバイトはクビになっているだろう。

 戻ったら新しいバイト先を探さなきゃ。




☆「風歌 ~2~」に続く☆

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