地蔵峠

 車の中に打ち棄ててきた地図には≪地蔵峠≫とだけ記されていた。


 緩い上りが続く峠道を歩き続けて小一時間、彼は後悔し始めていた。

 ―― 車で登ってくれば良かったか ――

 旧道への入り口で薄く積もった雪を見て、車では無理だと思って置き去りにしてきたのだが、この程度の雪なら無理なく走れたかもしれない。地図の上ではただの林道扱いで描かれていたが、この山をくり抜き隧道が出来るまでは立派な生活道だったのだろう。営林署の軽トラックがぎりぎり通れる程度の道幅だが、自分の乗ってきた車も大きさで言うなら大差ない。

 ―― 一応四駆なんだしよ ――

 決して運転に自信があるわけではなかったが、自分の腕でもこの程度の雪なら……ちらちらと目の前に揺れる粉雪を見ながら、三分に一度は繰り返し続けた後悔をまた、冷たい溜息と一緒に吐き出した。

 けれど今さら車を取りに引き返すのも馬鹿らしい。後悔している自分を誤魔化すように呟き続ける。

 ―― まぁいいさ、ここまで来たからにはもう、この峠を抜ける事だけを考えるんだ ――

 堕ちてくる雪に逆らうように、灰色の空へ向けて息を吐いた。地図に記されたカーブの数が正確なら、じき峠に辿り着くはずだった。


「地蔵峠、か」

 目立つ国道を逸れて狭い村道に入ってきたはものの、そろそろこの道を走り続けるのも限界かもしれないと思い始めて、助手席に投げ出してあった地図に救いを求めるように開いたページで、その文字を見た。

 他にも山を越える道は幾つかあったし、もっと手近に逸れるカーブもあったのに何故だか『ここを越えなければいけない』気がしてこんな所まで来てしまった。

「別に珍しくもなんともねぇ峠だろうによ」

 日本中に≪地蔵≫と名のつく場所は幾万とある。事実、彼の生まれ育った生家の傍にも地蔵が在るわけでもないのに≪六地蔵橋≫という農業用水路を跨ぐ橋が在った。だからこの峠にしても名の由来など怪しいものしだと思いながらも、こんな所まで来てしまった。

 しかし、彼はしばらく歩くうちに打ち捨てた車に対して後悔する気持ちがあった事すら、まだ余裕だったのだと思い知らされる。

 踏めば足跡を薄く残す程度と侮っていた雪道も、踏み続けるうち、靴にしがみついた僅かな結晶が溶けて沁み込んで足先を甚振るようになっていた。溶けた雪は靴の中でぐちゃぐちゃと指先に絡み付いて凍えさせる。

「畜生! この安物!」

 真っ白な雪が暖かな真綿に見えて来て、合皮の靴の中で冷たい水が不愉快な音をたてて纏わりつく度にいっそ靴なんか脱ぎ捨てた方が楽かもしれない、そんな錯覚にすら襲われた。

 しかし次のカーブを曲がって開けた景色を目の当たりにすると、今までの後悔も、自棄になり始めていた気持ちも吹き飛んだ。

 道の両側を覆うように並んでいた杉は消え去り、もう片側は崩れた殺風景な山肌が聳え、反対側は遥か麓まで引きずられながら落ちていった木々と土砂の痕が続いている。目の前にかろうじて開けている道は車一台がどうにかぎりぎりで通れる程度の広さしかない。その上、崩れた土砂のせいで道は崖に向かって傾いていた。

 ぞっ、とした。

 こんな道を車で通る自信なんて彼には無かった。

 軽い風でもひとつ拭けばふわりと崖に落ちてしまいそうだ。呼吸して息を吐き出すことすら恐ろしい。傾いた道をそろそろと歩きながら、ゆっくりと難所をやり過ごし、土砂が積もった箇所を通り過ぎて道が平たんに戻ったところで、額にどっと安堵の汗が噴き出した。

 とはいえ片側が崩れたままの崖路はまだ続いている。用心のために山肌に張り付くようにして歩く。こうなると調子の良いもので、やっぱりあの時車を乗り捨てた自分の判断は正解だったのだと彼は笑った。先ほどまでの後悔など喉元過ぎれば何とやら、だ。しかし、こんな事態になると予測して車を降りたわけではないのに……とふと冷静に思い返して

 ―― こんなんだから俺はダメなんだ ――

 自虐の念で胸が詰まる。

 遥か下方に続く崩れた山肌を見下ろしながら、自分の人生も人里から遠くなり忘れ去られて惨めに崩れたこの峠道と同じようなもんだと、足を止めて息を吐いた。ここまで息せき切って走り続けてきたが、もうこれ以上動ける気がしない。薄く雪の積もった崖に背中をもたれさせて体を預けると、急に力が抜けてきた。

 ―― 終わったな……俺も……

 膝がカクンと音を立てて折れた。


「おじさん、大丈夫?」

 すぐ隣から不意に声をかけられ、彼は飛び起きた。

 ここには誰も居なかったはずだ。驚いて身をよじった先が崖だったせいで体が大きく傾く。支える為に伸ばした腕は雪の表面を上滑りして崩れた崖へ向かってずるずるとずり落ちてゆく。

 助かりたい、と、思ったわけではない。

 けれど本気で死にたいとも、思ったわけではない。

 どちらともつかない気持ちのまま、頭で考えるよりも先に腕が空に向かって伸びた。

 その腕を掴んだのは、想像にも出来ないほど小さな手だった。その小ささに相応しい幼い声がゆっくりと語りかけてくる。

「ここはまだ緩いけん大丈夫。ゆっくりこっち向かって転がって」

 何もかも投げ捨ててこんな所にまでやってきたのだと、彼はずっと自らに言い聞かせて来たのだけれど、実際にはまだこんなにも生汚い性根があったのかと、這々の体で声のする方向に向かって転げ上った。

「あぁ……ありがとう……」

 荒い息で礼を言いながら自分を引っ張り上げてくれた小さな手の主を改めて見て、また更に驚かされた。

 子供の年齢など見当もつかないが、自分が住んでいた家の周辺を朝な夕なに行き来している学童と同じほどだろう。

「大丈夫か? おじさん」

 大丈夫かと問うにしては心配しているとはとても思えない、無邪気な声が響いた。

「あぁ、大丈夫だ。ありがとう。助かったよ」

「なら、えぇんだ」

 子供はにんやりと笑い、『けんど……』と続ける。

「ぶつぶつ言いながら歩きよるかと思うたら、急にしゃがみよるけん、どがいしようかと思うた」

 にっこりと笑うその顔を、どこかで見た、と、彼は思った。

 いや、それよりも、この子供は自分がここに来る前から居たのだろうか? この見晴らしの良い道で、自分以外の誰かが居たようには思えなかったのだが。

 訝しんでみても答えは出ない。問いただしたい幾つかの疑問の中から彼はひとつだけを選んで口にした。

「キミはここで何を?」

 子供は唇の端をにっこりと緩めたまま、道の端に視線を落とした。

「花を持ってきた」

「花?」

 しかしそこに何があるというわけでもない。ただ、子供の膝丈程度の穴が崖肌にぽっかりと空いていて、その中に赤い花が無造作に横たわっている。

「何もないじゃないか」

「うん、何もないな。何も」

「何で何も無い所に花なんか」

「それが僕の仕事やけんな」

 質問に戸惑うことなくつらつらと答えてのける子供の横顔を見ながら、彼は一瞬呆気にとられた。

 ここまで歩いて来るのに大人である自分でさえ一時間はかかっただろう。それなのに、子供一人でこんな何も無い所に花を持ってこさせる仕事だと?

 何のために?

 誰が?

 いや、もしかすると子供は一人な風に見えて、実は道の少し先にある緩いカーブを曲がったあたりで大人が様子を伺っているのかもしれない。

 そんな事をハタと思いつき、彼の背筋に一抹の緊張が走った。

 子供はそんな彼の心境など意にも介さず、

「ここからは下り道になるけん、気を付けて歩きなよ」

 再び彼の手を取り、引っ張った。

「いや、俺は……」

 道の先に誰か大人でも居るのなら、鉢合わせするのは嬉しい事ではない。小さな手を振り払おうと彼は強く腕を振った。……なのに、

「あっちから来たんなら、こっちに下りるしかないやろう? 僕もこっちに帰らないけんから、一緒に行こうや」

 振り払えなかった。

 それは子供の無邪気な親切のせいのようでもあり……

 ―― 何だ? この力は? ――

 繋がれた手と手を引き離さないよう、不思議な引力が働いている重たさで結ばれているかのようでもあった。

 結局彼は子供の言うがままについてゆく事となってしまった。

 ―― しょうがない、もし向こうに親が居たとしても、俺の事を知っているとは限らないし……いざとなったら……

 彼は心を決めて、子供の手を握り返した。

 それをどんな意味に汲み取ったのか、子供は彼を仰いで目も唇も緩い弓状に細めて笑んだ。

 はたして峠を越えた先の曲がり角には彼が案じていた大人の姿などは無く、また会話の節々から子供が本当に一人でここまで来ている事を知って彼は、にやりとほくそ笑んだ。

「こんな所に花を持ってくる仕事なんて一体何なんだい?」

「わからん。もうずっと昔からやけん」

「大変だろう? この雪の中では」

「別に。もう長い事しよるし」

「でもこんな事やってたら学校にだって行けないんじゃないか?」

「がっこう? それは僕の仕事やないなぁ」

 子供とのやりとりに、彼は首を捻った。

「もしかしてキミの家は熱心な宗教家だったりするのか?」

「しゅうきょう? わからんなぁ」

 訳がわからない。しかし、こんな場所で子供と巡り会ったということは、まだ自分の運も終わってはいないのかもしれない、彼の心の中がざわめいてきた。

 世の中は、子供に対してとかく甘い。

 ―― これは利用させてもらえそうだ ――

「良かったら麓まで一緒に行ってもいいか? ほら、一人でこんな道歩いててもつまんないだろ」

 彼は軽く腰をかがめて子供の手を取った。手袋もしていないそれは石のように冷たくて、思わずぞくりとしてしまったが、この雪の中を歩き回っていれば冷たくなるのも当然だ。改めて子供をよく見れば、恐ろしいほどの薄着でいる事に彼は気付いた。

 灰色のセーターをざっくりと羽織っただけで、手袋はおろか帽子もマフラーもつけていない。

 この雪の中で、この軽装。

 ―― 親は何を考えているんだ? 非常識だろ ――

 ほんの数秒前には『この子供は利用できる』考えでいた自分を棚の上に追いやって、子供の家庭事情など分からないままに純粋な怒りが込み上げてきて、小さな手をぎゅっと握りしめた。

 しかし、当の子供は彼の揺れる思惑などに気付くことなく、

「ええよ。僕は慣れた道やけど、おじさんと歩いたるわ」

 にっこりと笑った。

 その笑顔に、微かな痛みを胸に覚えたが、無理やりにそれを腹の底へ鎮め、誤魔化すように片頬で彼も笑った。

「ところで、おじさんはやめてもらえないかな。まだ二十代なんだ。せめてお兄さんって呼んでくれないか」

「ふぅん……ええよ」

 大きな掌にすっぽりと収まった小さな手をにぎにぎと遊ばせながら、また笑う。

 ―― よく笑う子だな ――

 どんな家庭のどんな仕事だが分らないが、こんな雪の降る山の中にこんな薄着で、たった一人で使いに出されて、こんなに笑っていられるものなのだろうか。

 ―― 自分だったら……

 彼は掌の中で遊ぶ小さな指を強く握ったり緩めたりしながら遊び返した。これ以上何を聞いてもこの子供には明確な答えなぞ期待できないと悟った。それに、無駄に関心を持ってしまってこの子供の深入りする結果になってしまっても困るのだ。今の自分自身にそんな余裕などない事を思い出す。

 ―― いいさ、麓まで降りて新しい足を手に入れるまでの、切り札だ。それまでの道連れだ ――


 崖崩れで荒れていた道がまた鬱蒼と茂る杉林に戻ってゆく。下り始めた道で子供が、おもむろに峠を振り返った。

「この道なぁ、下に隧道が隧道ができてからは、来るのは山の手入れの車ばっかりなんよ。あとは、たまーに……」

「たまに?」

「迷うた人が通るだけ、かなぁ」

「迷った? 道に?」

 しかし子供はその問いに答えを返さない。

「僕な、久しぶりにここで人に会うたん。嬉しいんよ「」

 それから、十数年前にはマイクロバスも行き来する立派な生活道であったこと、子供も大人も学校や物売りに様々な理由で往来し賑わっていたことなど、ぽつりぽつりと話してくれた。まるで自分がその時代を過ごしてきたかのように。

 ―― 年寄りあたりの受け売りかな ――

 おそらく、子供の周りに居る年寄りが話し聞かせてきたのだろう。曰く、『あの頃は良かった』と。

 ―― ってぇことは、このガキの家にはそういう年寄りばっかりってことか? ――

 母親はともかく、家に働き盛りの若い者が居るようでは自分の目論見も上手く行き辛いだろう。けれどそうでないのなら、彼にとってはありがたい。

 子供の風体は着ているセーターも随分と古めかしく、所々ほつれて直された様子もない。これは子供を気遣える人間が少ないという事だ。

 彼が頭の中でこの先の計算を巡らせている事に気付きもしないのだろう、子供は変らず語り続けてくる。

「……で、ねぇその頃は賑やかでもあったけんど、よう人も死んだんよ」

「え?」

「こんなきれいな山になる前は、崖ももっと急やったし、足滑らせて落ちてしまえば助からん人もおったし」

 そう言われてよくよく見れば周囲は見事な杉林だ。なるほど、山が整備されて植林される前のことを話していたのだと、彼も納得した。

 それにしても、そんな話をしながらも子供はにっこりと笑っている。人に会うのが久しぶりで、本当に嬉しいと言う。

 ―― どれだけ閉ざされた環境なんだ? ――

 この現代に。

 しかしそれすらも今の彼にとっては都合良かった。

「そうかい。それは大変だったんだろうね」

 適当に相槌を打っていると子供はまた繰り返す。

「今はほんとうに、迷うた人が、たまーに通るだけかなぁ」

「ふぅん」

「お兄ちゃんも迷うたんか?」

「いや、僕は……」

 迷ったわけではない。けれど、迷っていないとも言い切れない。

「でも大丈夫やけんね。迷うてても、真っ直ぐに歩けば間違いなく出口はあるけん」

 思いもがけなかった大人びた言い回しに、彼は返事に戸惑った。

 別に、出口を求めての旅でもない。そもそも何らかのアテがあってこの林道に足を踏み入れたわけでもない。

 生返事で適当に誤魔化すか……彼がそう思い、口を開こうとした時だった。子供が急に足を止めた。

「どうした?」

「麓が賑やかやなぁ」

 言われて下方を覗くと、木立の合間から林道を抜けて県道に合流する三叉路が見えた。まだ先は長そうだが、そう遠くでもない。

 もうこんなに下ってきたのか……つらつらと喋りながら歩くうちに、峠から半分ほどは進んだようだった。

 三叉路には十数人ほどの人の姿と、数台の車が見て取れた。車の屋根に赤いランプがちらちらと揺れているのを見て、彼は『チッ』と舌打ちをした。

 ―― あっちに置いてきた車が見つかっちまったか ――

 とすれば、元来た道を戻っても、間違いなく彼らはそこで待ち受けていることだろう。道中、他所へ逸れる道は無かった。この峠に入ったのはやはり間違いだったか。

 山中に置き去りにしても、さして目立たないありふれた古い車を選んで盗んだのに、たいした時間稼ぎにもならなかった。とすれば、気まぐれにこんな山に入ってしまうより、もっと複雑な街中あたりを選んで逃げれば良かったか。……後悔を巡らせながら、彼は子供の手を強く握りしめた。

 ―― こうなりゃ、やっぱりこのガキを人質にして……

 失敗に変わる策略を巡らせながら緩いカーブを曲がった。

 と、大きな杉の木に隠れていたのか、そこに突然古い民家が現れた。

「家? こんな所に?」

 子供を見やると、相変わらずにっこりと笑んだ顔が見上げている。

「もしかしてキミの家か?」

 しかし子供は首を横に振った。

「違うのか? まぁ、確かに……とても人が住んでいるようには見えないしな。廃屋ってところか」

 しばらく彼は考えた。今この家に入るのは得策ではないはだろう。けれどこのまま麓に降りても、間違いなく捕まるだけだ。

「時間稼ぎにしかならねぇだろうがな……」

 それでも、少し休めば案のひとつも浮かぶかもしれない。子供を引っ張りながら彼は壊れた玄関を蹴り飛ばして土間へ入った。舞い上がる埃を思い切り吸い込んで、胸を抱えて咳込みながら靴のままで和室に上がる。

 襖を明け、次の部屋へ。納戸へ、台所にトイレに、風呂へ。

 十年以上も人が住んでいないのは間違いないだろう荒れようだ。

 やっとで足を止めた部屋の片隅に置かれた古い机を見て、彼はほっと息を吐いた。引き出しに貼られた懐かしいヒーローのシール。

 この机の持ち主は自分と同じ年頃かもしれない、と思いながらしみじみと眺めていると、この家に入ってからずっと口をつぐんでいた子供が口を開いた。

「この家はお兄ちゃんの家なん?」

「はぁ? 知らないな、こんな家」

「でも家の中、全然迷わないで歩いてたよ。どこに何があるのか知ってるみたいだった」

「確かに似たような家に住んでいたが、俺が育ったのは海の傍だ。こんな山の中じゃない。

 それに……」

 それに……古い記憶は、思い出したくもない過去に辿り着く。彼はぎゅっと唇端を噛みしめた。

「あ!」

 急に子供が叫んで、びっくりして我に返る。

「どうした?」

「刀!」

「何ぃ?」

 今度は彼が子供に引っ張られる番となる。

 勢いよく駆け出した子供は押入れの前で腰をかがめた。

「ほら」

 僅かに開いていた隙間から切っ先が覗いていたのだろう、おもちゃの刀を引っ張り出して得意気に振って見せた。

「何だよ、玩具かよ。びっくりさせやがって」

 子供は手を繋がれたまま、楽しそうに刀を振る。

「そういえば俺もそれ、同じの持ってたな」

 彼が子供の頃に流行っていたヒーロー番組の主人公が使っていた武器だ。

「色々変形したり他の武器が仕込まれていたりする凝ったのが多かったのに、それは刀だけのシンプルなやつだったから逆に新鮮だったなぁ」

 懐かしいおもちゃを見て思わず感慨に耽っていると、ガタンと激しい音が響いた。

 ―― やべぇ! サツか!? ――

 物思いに耽っている場合なんかではなかった事を思い出して目をぎらつかせる。

「ごめんなさい、壊しちゃったぁ……」

 振り回していた刀が壁に当たり、もろくも折れてしまったのだ。

「何だキミか……」

 『ごめんなさい』と謝りながらもほっこりと笑む子供に、ホッとしながら、こんな時でも笑うんだな、と思いながら小さな頭を撫でてやる。

「気にするな。どうせもう誰も住んじゃいないんだ」

「でもこの家、お兄ちゃんの家やろう?」

「だから違うって」

「ほら、ここの傷、お兄ちゃんがこの刀でつけたんやろ?」

 机の脚に小さな傷ができている。

「あ、あぁ。確かにそれは……」

 覚えがある。この刀を買ってもらって嬉しくて振り回していて付けた傷だ。頭の中に、怒っているやら呆れているやらよく分らない女性の声がこだました。

『もう! 買ったばかりの机なのに!』

 それだけではなかった。ちょっと見渡せばあの柱の傷も、襖を破いて上から張り直して直した跡も。

「……そんな……?」

 そんな筈はない。彼は自分に言い聞かせるように呟きながら周囲を見回した。

「そうさ、こんな家に子供が居ればどこも似たような傷があって当然だろう? ……でも……」

 あまりにも自分の記憶にある我が家と似すぎていて……

「七歳、達矢。ねぇ、これお兄ちゃんか?」

「何で俺の名前を!?」

 子供が部屋の入口の柱をじっと見ながら、刻まれた線と名前を指差していた。

 そこには七歳だけではなく、三歳から九歳まで、七本の線が刻まれている。

「違う……俺の家はこんな山の中じゃなかったし……でも、名前? いや、同じ名前のただの偶然だ……」

「違うの?」

「僕の家であるわけがない!」


 あの家は、とうに火事で焼け落ちた。

 ゴミを燃やしていた火が飛んで。


「そう、あの家事で母さんが死んで……」

『達矢』

 あの懐かしい母の声の最後の記憶は、叫び声だった。

『達矢! 逃げなさい!』

 あれから、父方の祖父母の家に身を寄せた。亡くなった母に変わって年寄り夫婦に育ててもらった。

 その祖父は五年前に他界して、今は老いて動けなくなってしまった祖母を父と共に世話する立場へと逆転してしまった。

「婆ちゃんには世話になったんだ……だから今度は俺の番だって……母さんの分もって……

 だのにオヤジのやつ、手間がかかるだの大変だの金がかかるだの言いやがって……」

「だから刺したの?」

「そうだよ! 自分は仕事に出てばっかりで何も知らないくせに、婆ちゃんたちがどれだけ俺たちを支えてくれたのかなんて、何も知らないくせに……」

 感情が昂っていた。

 だから思わず聞き流してしまったが、思いのたけを叫んで我に返ると、彼は背筋が凍りぞわりと震えた。

 冷たい汗が全身から吹き出る。

 何故、この子供が≪それ≫を言う?


 ダカラ刺シタノ?


「おまえ何なんだ?」

 振り返り見た子どもはやはり、にっこりと笑んでいた。

 緊張で強張る彼の背後で、きゅっと薄い雪を踏む音が鳴った。

「その話は改めて署で聞かせてもらおうか」

 ―― しまった ――

 やはりこんな廃屋で足を止めるべきではなかったのだ。この子供を人質にしてパトカーでも盗んで強行突破するべきだったのだ。しかし後悔は既に遅い。

 ―― いや、まだ望みはある。こいつが自分の手の内にある限りは ――

「それ以上俺に近づくな。でないとこのガキを……」

 彼はズボンの尻ポケットに潜めていた折り畳みのナイフを開いた。

「ガキ?」

 警察が訝しげに問い返す。

「このガキだよ!」

 盾にしようと引っ張ったその手は、とても軽かった。

「あ? あれ? 今、さっきまで……」

「ずっとお前は一人だったが?」

「いや、今さっきだって刀でそこの壁を……」

「どこの壁だって?」

 慌てて彼が周囲を見回した。が、そこにはただ、薄く雪を被った杉の林が聳えるばかり。

 言葉を失い立ち竦む彼に、警察は冷静に告げた。

「石崎達矢、実父への暴行で逮捕する。さぁそのナイフをこちらに渡しなさい」

  狐につつまれるとはこういう事を言うのだろうか? 彼はこの状況が理解できないまま、抗う気力も失ってしまった。なすがままに警察にナイフを奪われ腕を掴まれる。その彼に、警察がそっと耳打ちをした。

「父親から話は聞いた。抒情酌量の余地はあるようだから、ちゃんと話すんだな」

「……え?」

「良かったな、お前は父親を殺さずに済んだんだ」

「でも、血が出て、動かなくなって……」

「おまえが家を飛び出した後で、お婆さんが通報してくれたんだ。達矢を助けてくれ、と。

 父親を刺した後悔でおまえが自殺でもするんじゃないかと心配していた」

「嘘だ、婆ちゃんは寝たきりで……」

 警察は数拍黙ったが、やがて重く言った。

「人智を超える何かってのは、在るもんなんだろうな」

 冷たい鉄の輪が彼の腕にかかる。

 その冷たさに、彼はふと思い出した。

 握りしめた小さな手は、とても冷たくて石のようだったな、と。同時にやたらと子供の言った言葉が頭の中で繰り返される。

『迷うてても、真っ直ぐ歩けば間違いなく出口はあるけん』

 これが俺の出口なのか? 捕えられて、逃げおおす事もついぞできずに。

 そして……

 あの廃屋は何だったのか。

 火事で一瞬にして失った我が家と瓜二つだった廃屋。何故あの家を今更思い出さなくてはならないのか。

 ―― あぁ、……そうだな ――

 遠い記憶が雪に混ざって降り注ぐ。

 あの刀は父親が買ってくれたものだった。

 あの頃は家族三人で豊かだった。なのに、何もかもをあの火事が奪った。

 父子二人で丸裸同然に逃げ延びた実家は、僅かな年金を頼りに暮らす老夫婦。

 失った全てを取り戻そうとするかのように朝も夜も無く働き続けた父親。

 そして、大学を卒業させてもらいながらも、老婆の面倒を看る事を言い訳に、就職もしないままアルバイトでその日暮らしをする息子。

 解っていたのに。父親が脇目もふらず働き続けていたのは、生活費の為ばかりではなかったのだと。

 知っていたのに。がむしゃらに働く父が本当に取り戻したいと思っていたのは、金で取り戻せるものではない、けれど昼夜も問わず稼ぎ続けようとする父の気持も。

 燃えて消えた過去の為に、息子の未来まで失わせたくは無いとも思ってくれていた事も。

 なのに、その結果が年寄りの世話を言い訳にその日暮らしをする自分なのだから、父が苛立ちの捌け口を一番の弱者である祖母にぶつけてしまったとしても、仕様のない事だったのかもしれない。

 ―― そうだよな、オヤジが婆ちゃんを邪険にする理由なんて、本当ならあるはずがなかったんだ ――


 パトカーが待つ三叉路の手前で、細い小川に架かる苔生した石の橋を渡る。

 けれど彼はもう振り返る気力もなかったので、気付かなかった。橋の袂に小さな地蔵が、しょんぼりと佇んでいたことに。

 ただ、地蔵を隠すように咲き誇る赤い花の木をちらりと見て、

 ―― あの子供が供えていた花だ ――

 なんとはなしに思い出した。

 ―― そういえばあいつの手、冷たかったな ――

 石のように。


 彼を乗せたパトカーが走り去り消えてゆくのを、橋の袂の地蔵は赤い花に隠れてにっこりと笑んで見送った。

 地蔵峠、その名の由来を知る人は今はもう少なく。

 ただ、迷う者だけが、出口と共にそれを知る。






 ~ 了 ~


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