もののけサンタ

きさらぎ いち

庭歌



ことりはとってもうたがすき

かあさんよぶのもうたでよぶ…………




 有紀と息子の太一がその知らせを受けたのは、三日月も凍る冷たい一月の深夜だった。

 大学受験を目の前に控えて勉強の為に起きていた太一が受話器を取り、小声でぼそぼそと会話を交わしている所へ、有紀が「こんな夜更けに何事」と、半纏に袖を通しながら部屋から出てきた。息子から無言で胸元に押し付けられた受話器から、懐かしい、けれど記憶にあるよりずっと老いた枯れたような声が流れてきた。

「有紀さんか? 久しぶりやのぉ。沢渡の重三じゃが、わかるかのぉ」

「お義父さん? まぁお久しぶりです。お元気でしたか?」

 有紀の声が驚いて裏返る。

「こんな夜中にすまんのぉ。けんど、どうしても連絡せんわけにはいかん事になってしもぉて……」

 何度も『すまん』と繰り返される重三の話しが終わると、二人は小走りで部屋に戻った。とりあえず数日程度の着替えをバッグに詰め込む。真夜中のアパート、急いで、けれど隣近所を憚りながら静かに玄関を出た。

「静かに、静かにね」何度も念を押しながら有紀が車のエンジンをかけ、応えるように太一も努めて静かにドアを閉める。車はゆるゆると駐車場を後にした。

 二人の暮らす街から重三の住む田舎の漁村まで、約二時間半の旅だ。

 アパートや家屋の密集する路地を出て広い国道に出ると、有紀はアクセルを踏む足に力を込めた。

「お義母さん……」

 呪文を唱えるように何度も呟きながらハンドルを握る母親に「慌てんと急いでくれよ」と太一が眉間に皺を寄せながら助手席で囁いた。


 走り続けた国道を外れて、海に沿って延々と続く曲がりくねった暗い道を進むと、やがて小さな湾を囲むように古い家屋が寄り添い並ぶ集落に辿り着く。その中で一番端にある、古さの際立つ屋敷の庭に車を入れ、隅に置かれた白い軽トラックの隣に並べて停めると、灯の点けられたままの玄関がカラカラと乾いた音を立てて開いた。

「無理を言うて、すまんかったのぉ、有紀さん、太一」

 恰幅のある白髪の老人が二人を屋敷に招き入れる。

「無理な事なんか、何も。それよりお義母さんはどうなんです?」

「昼間医者が診てくれたんやがな、何ともかんとも……まぁ年も年やからな」

 とにかく中へ、と促され、二人は九年ぶりに訪れた懐かしい玄関をくぐった。

 ぎしぎしと軋む暗い廊下を歩き、居間に入る。コタツの上に徳利と、呑みかけのまま捨て置かれたらしい猪口があったが、肴は無い。

「まぁ、茶でも淹れるけん、その間にアレの顔でも見てやってくれや。今は大分落ち着いて寝とるから、顔だけやがな」

 かつて母子が住んでいた頃と全く変わらない間取り。家具の位置も花瓶の場所まで。

 有紀は迷うことなく、和室の襖を開けた。電気は点いていないが、縁側から差し込む月の灯りで部屋の中はほの明るかった。

 その中央に敷かれた布団でおっとりと眠る老婆の顔を月が照らし、皺の筋に合わせて深い影をつくっている。

「お義母さん……」

 九年合わない間に随分と老けた。

 電話で聞いてから覚悟はしていたものの、知っていた頃とのあまりの変わり様に有紀は胸の奥から込み上げてくる熱い塊を口に当てた掌で受け止める。

 太一は有紀の後ろで言葉なく明るい居間へ目をそむけた。

「まぁ、寒かったやろう、温もらんかな」

 盆に急須と湯飲みを乗せて重三が戻ってきて、コタツの縁をぽんぽんと叩く。

「他のモンは三が日までおったんやがの、皆が居んだすぐ後から急に具合が悪ぅなってきてなぁ」

 二人が促されるままコタツに足を入れるのを待って、すっかり冷めきっているであろう徳利の中身を猪口に注ぎながら、ぽつぽつと話し始めた。

「風邪やろうと休ませておったんやが、一昨日からどうにもおかしゅうて医者に来てもろうたりしたんやが、どうにも、なぁ」

「入院して検査とかは?」

 有紀が湯飲みに口を当てながら聞いたが、重三は大きく首を横に振った。

「あれが聞かんのだよ」

 ふぅ、とやるせなく溜息を吐く。

「一昨年あたりから弱ってきてはおったから、病院と家との往復はしておったけんど、ここに来てえらい頑固になりおっての」

 くい、と酒を呑み干し、コタツの上に猪口の底を小さな音を慣らし叩き付けて、

「何かしら察しておるんかも、しれんがの……」ぽつりと呟いた。

「そんな……」

 そんな事は無い、そんな縁起でも無い、有紀は言葉を探して言おうとしたが、上手く口に出せないまま飲みこんでしまう。

 義母のあの痩せ様と老け様を見れば、この数年の間に夫婦でどれだけの励ましや慰めの言葉が繰り返された事か。それらを乗り越えて来ての、この夜なのだろう。ずっと疎遠であり続けてこの家族に関わる事をしてこなかった有紀に、今さら何を言えるだろう。自分の言葉など上っ面を這うようなものだ。

 代わりに、違う危惧を口にする。

「他の……健一さんや一美さんは……?」

 老夫婦の長男長女、そして彼らの家族が居ない。自分達が呼ばれるからには、よほどの状態なのだろうと思ったのに。そんな時に彼らが居ないというのに、自分がここにいるのは何やら出過ぎた真似をしているようで落ち着かなかった。

 重三もそんな有紀の心持ちを察したのだろう、

「あいつらは正月三が日までここにおったからな。先週帰ったばかりでそうそう簡単にまたここまでは来れんやろうな」

 一応連絡はしたらしいと聞かされ雪はホッと胸を撫で下ろした。が、重三は続く言葉に憎々しさを込めて吐き出した。

「一美なぞはもう危篤まで呼んでくれるなと言いおった」

 有紀の茶を飲む手が止まる。

 一美も健一も、かつて夫だった人の姉兄である。長く会っては居ないが、その人となりは良く知っているつもりだ。そんなに義理を欠いた人たちでは無かったはずだ。

 おそらく、義母の体調が思わしくなくなってきてから何か事ある度に呼び出され続けているのだろう。

 正月の三が日までここに居たというのなら、また急に連絡を受けてもおいそれとは戻ってこれないだろうし、そう答えてしまうのも無理のない話しなのかもしれない。

「まぁ、お義父さん、健一さんも一美さんも近くに住んでいるわけではないですし、仕事も始まっているのでしょうから色々と難しいんではないですか?」

「けんど、なぁ……」

 重三は納得がいかない、という風に目を閉じた。

 長男長女の言いたい事も分るけれど、この義父の気持ちも痛いほどにわかる。有紀は黙って立ち上がり、勝手知ったるとばかりに台所に入った。

 棚に並ぶ徳利に酒を入れて、慣れた手つきで鍋に水を張りコンロに乗せる。

 徳利の口から立ちのぼる湯気の中に、たくさんの家族が出入りしていた頃のこの家が思い出されては消えてゆく。

 燗のつかる頃合いを見て徳利を居間へ持って行くと、重三が呑んでいた猪口とは別に新しい猪口が置かれていた。

「わしが慌てて連絡をしてしもうたせいで、あんたもこんな時間にすまんかったなぁ。どうやらあれも落ち着いたようやし、よかったら一杯やらんかね」

 一本の電話から慌てて母子が車を走らせた二時間半の間に義母の容態も変ったらしい。

 有紀は黙って頷くと二つの猪口に酒を注いだ。

 太一は所在無しにコタツで寝転がりながら、持ってきた参考書をめくっている。

 酒に口を運びながら、溜息をつくようにまた、重三は話し始めた。

「けんどなぁ、今夜はのぉ、いつもとは違ったんじゃよ」

「と、言いますと?」

「急に何を思い出したかしらんが、昼間からずっと寝ておったのが急に頭を上げたかと思うたら、『太一を呼んでくれ』言いおっての」

 急に自分の名前を出されて太一は「はぁ?」と、参考書から目を離し祖父を振り返った。

「それこそ、あんた達に迷惑をかけるわけにはいかんから、ギリギリまで連絡をするつもりはなかったんじゃがの……」

 申し訳なさそうに、重三が目を伏せたのを合図にでもしたかのように、庭の隅で鳥の声が響き始めた。

「鳥が鳴きよる」

 太一が驚いて目を庭へ向けると、重三の表情がやんわりと緩やかになった。

「こんな夜更けに、珍しい事じゃの。倉で飼ぉとる連中やろう」

「鳥を飼うとるんですか?」

 昔は居なかったはず、と有紀が聞けば、重三は頷きながら太一に顔を向けた。

「太一が飼ぉておった鳥も、あの中でまだ生きとるぞ」

「俺の?」

「あぁ、お前は忘れとるやろうけんどな、あれが最初の一羽やったな」

 その時だった。

 昔話が始まりそうな気配を察したのか、鳥たちの鳴き声に眠りを邪魔されたのか、襖の向こうから弱々しく唸る声が流れてきて、三人は慌てて襖を開けた。

 母子の見守る中、重三がゆっくりと布団に近づき、耳元でぼそぼそと話しかけ会話を交わすと、くるりと太一を振り返り見た。

「太一、お前に話があると言うとる」

「俺? 俺に?」

 太一が部屋へ入ると入れ替わりに重三は居間へ出てゆき、襖をパタンと閉めた。

 月明かりの下で鳥たちの囀りがやたらと響き渡る夜。薄暗い部屋の中で枯れ枝のような手が震えながら布団から出てきた。太一はそれを恐る恐ると両手で包み込む。

「婆ちゃん?」

「太一、か? 大きゅうなって」

 老婆の口元へ耳を近づけて、ようやく聞こえるか細い声だ。太一も祖母のゆっくりとした喋り方に釣られて、途切れ途切れにゆっくりと話す。

「あぁ、婆ちゃん、久しぶりやな」

 骨ばった小さな指が、ぎゅっと太一の手を握り返した。

「婆ちゃん、なぁ、太一に謝らな、いけんことが、ある……」

 突然の告白に戸惑った。

 太一と有紀がこの家で暮らしていたのは、九年前の僅か半年足らずの事だ。そのたった半年の間、祖母に謝られるような何かがあっただろうか。記憶を辿るが思い当る事がなく、太一は困惑して返事に困っていると、祖母はまた、ゆっくりと喋りはじめた。

「太一の文鳥、なぁ、婆ちゃん、死なせ……もう……たん……」

「文鳥?」

 鳥といえば先ほど重三が何か言いかけていたが、太一には正直、その記憶は無い。けれど、もしやそれと何か関係のある話なのだろうか。太一は注意深く祖母の口元に耳を寄せる。

「太一が欲しがるもんで、買ぉてやったあの文鳥……」

 太一が学校に行っている間に死なせてしまったのだ、と祖母は語った。

 何が悪かったのかもわからなかった、と。

 おそらくはこれから死にゆくばかりであろう老いた身で、太一自身も覚えていない鳥の話しなど何故今さら謝ろうというのか。


 父親が妻と幼い子を捨て行方不明となってしまった後、二人は漁業を営む老夫婦の屋敷に身を寄せた。が、息子は学校に馴染めないまま、友達もできずいつも一人でいた。そんな孫を不憫に思っていたある日、彼が珍しく「文鳥を飼いたい」というので、祖母は喜びその足でペットショップへ赴いた。

 しかしその翌日、孫が学校へ行っている昼間のうちに死んでしまった。

 慌てた祖母は孫が帰ってくる前に、と急いで、よく似た新しい文鳥を飼い直し、籠に入れて、死んだ小鳥を誰にも見られぬようこっそりと庭の生垣の根本に埋めた。

 そしてその事は永遠に自分の胸にしまい込み、ずっと黙っているつもりだったのだ、と語った。


「けどなぁ、今になって、死んだあの鳥も、不憫で……なぁ……誰にも、太一にも知られんと、ひっそり埋まっておる、不憫で、なぁ」

 目に涙をうっすらと浮かべ「許しとくれ」と手を握りしめる。その手の頼りない温もりを感じながら太一もぼんやりと思い出していた。

 確かに、文鳥を飼った記憶があった。


 いつの間にか居なくなってしまっていた父親。その為に有紀が女でひとつで子供を育ててゆかなくなった事を、老夫婦は「自分たちの息子の愚行のせい」と胸を痛め、せめて有紀が仕事に馴染み暮らしが落ち着くまで孫の面倒だけでも見させてくれと申し出たことから、四人の暮らしが始まったのだ。

 だが、ずっと街で暮らしていた太一には急に始まった田舎での暮らしに馴染めず、学校にも村の中にも居場所を持てないまま、独り俯き過ごす毎日になってしまった。それは今でも太一の心に残る、一番辛くて寂しかった頃の記憶だ。

 収入の安定しない有紀の為に、せめて子供の服のひとつも、と近所の親戚などがお古の服を貰っては着せていたのも原因のひとつだったのかもしれない。

 突然村に住み付いた母子を噂する大人たちの話しを聞きかじった子供達が、『誰それの服を着ている』『新しい服も買ってもらえん』などから始まって、からかいの的にする。

 貧しいとも、父親に捨てられたとも、理由はとにかく何でもよく、ただ退屈な田舎で、新しいゲームを手に入れたようなものだ。

 そんな中で、文鳥を買ってもらった。

「あぁ、そういえば……でもあの文鳥はまだ生きてるって、爺ちゃんが」

 しかし老婆の耳に太一の声は届かず、果たして死んでしまった鳥に言っているのか太一に言っているのか既にわからない十何度目かの「許しておくれ」を最後に、ようやく握りしめていた手から力が抜けた。皺の寄った口元から穏やかな寝息が不規則に漂ってくる。

 話の終わった気配を察したのか静かに襖が開けられ、細い灯の筋が部屋の奥まで伸びて来て太一は振り返り半座のままで居間へ戻った。

「終わったんか?」

 重三の低い声に、

「あぁ。婆ちゃん寝てしもうた」太一も声をひそめて答える。

 居間では新しく淹れられたお茶が温かな湯気を立ち上らせ、ずっしりと疲れてしまった体をほぐしてくれた。時計を見ればほんの十分ほどしか経っていないのに、一時間以上も話し込んでいたように感じた。老い先の見えた年寄りの話しを聞くというのはこんなに疲れるものなのか、そう思いながらしみじみと茶を啜っていると、重三が神妙な面もちで太一の顔を覗き込んだ。

「なぁ、婆ちゃんの話し、何だったんか? 良かったら聞かせてくれんか?」

 秘密にするまでもないだろう、太一は薄暗い部屋の中での告白を、ありのままに話して聞かせた。

 重三はしばらく黙ってしまい考え込んでいたが、思い出したように口を開いた。

「そういえばあの頃かのぉ、婆ちゃんが何やら庭でぼんやりとする事がやたら目についた時期があったのぉ」

 およそ内緒ごとなど縁遠く、朗らかな人であった妻が、珍しく俯き加減に庭の隅を眺めながらひどく泣きそうな顔でぼそぼそと何事か呟いていたという。が、その理由を聞く事も憚れてずるずると日々は過ぎ、すっかりと忘れ去られてしまっていた。

「あの頃は太一が村に馴染めん事で色々と思う所もあったようだしなぁ」

「確かに、あの頃はご心配ばかりかけてしもうて……」

 有紀もしんみりと話しに加わってきた。

 実際、あまりにも太一が村に馴染めずにいた為、それを心配する老夫婦を気に病んで有紀は半年足らずで遠方の友人を頼りこの家を出てしまったのだ。

「でも、なぁ……そう悪い事ばっかりでも無かったように思うけどなぁ」

 お茶で一息ついた太一がぼんやりと呟いた。

 老婆から聞かされた文鳥の告白をきっかけに、この村での暮らしを始まりから終わりまで、なぞるように思い出す。

「確かに太一は文鳥を飼ぉてから少しは明るくなったようやったが」

 横から口を挟む重三を太一も振り返り頷いた。

「俺が文鳥をねだったんは、理由があったんだ」

「理由?」 重三と有紀は目を丸くした。


 小学生の子供が、いくらなんでも家に閉じこもってばかり居られるわけではない。近所で楽しくないのならと、学校が休みの日には心配する老夫婦の目を盗んで、二十分、三十分とかけてひとつふたつと離れた村の湾まで足しげく通っていた。

 秋も半ばの海に人の姿は無く、とても静かで、砂利の浜で寄せては返す波を相手に遊んでいた。浜では、打ち上げられるゴミに混ざって宝石のようなガラス玉や石が散らばり飽きる事は無かった。

 その浜で出会ったのだ。

 水色のワンピースの裾を揺らしながらゆっくりと少女は歩いていた。洒落た結い方の髪に、白いフリルのリボン。手には小ぶりの竹籠を下げて。

 何を思ったのか、彼女は太一を見つけると小走りに駆け寄ってきて、軽く様子をうかがうように小首を傾げながら話しかけてきた。

「あなた、この辺の子?」

 ひと目で『地元の子供じゃない』と分る風体、アクセントの違う言葉使いに、太一の緊張感が一気に緩んだ。

「ちょっと前までM市におったけど」

「本当? 私もM市に住んでるんよ。良かったぁ、話し相手が居なくてつまんなかったのよ」

 嬉しそうに声を上げて、彼女は早口でまくしたててきた。耳になじみのあるアクセントに、太一の頬が緩む。

 『どの辺に住んでいた』、『学校はどこだった』など、話しが弾んだ。

「そっか、太一君はもうこっちに引っ越してきちゃってるのね。私はお婆ちゃんの法事っていうので、その間だけここに来てるんよ」

 ひとしきり話が盛り上がり、互いの紹介まで終わった頃、太一は彼女の持っている竹籠に目を惹かれた。

「これ? 文鳥よ」

「文鳥?」

「うん。ちょっと長くお家を離れるって言われたから連れてきちゃったの。文鳥は毎日餌と水を替えてやらないと死んじゃうから」

 籠を抱きしめ、中に居る小鳥に頬ずりするよう頬を寄せた。

「可愛いね」

 太一が言えば、

「うん、すっごく可愛いのよ」

 彼女は目を輝かせ、まるで自分の事を言われたかのように頬を染めて喜んだ。

「そうだ、太一君も文鳥飼うといいよ。すごくきれいな声で泣くんよ。仕草も可愛いし、つがいで上手に飼えば卵も産むんよ。私の文鳥とお見合いさせてもいいよね」

 彼女が本当に素晴らしい事のように文鳥の話しを繰り返すので、太一も胸がときめいた。


 そして、太一が祖母に『文鳥が欲しい』と言い出したのは、その夜、夕餉の席でのことだった。

 赤い嘴の、頭が黒くて、羽が灰色の文鳥がいい。特徴まで指定して『お願い』されれば、祖母に断れるはずがない。

 翌日学校から帰ると、約束された文鳥はきちんと家に居た。その可愛らしさをしばらくじっと愛でて、指先で嘴をつついてみたりして充分に観察したら、太一は家を飛び出した。

 走って、転ぶように走って着いた浜に、今日は彼女が先に来ていた。

太一の姿を見つけて大きく手を振りながら「太一くーん」と呼びかけられ、照れて顔を赤くしながら浜への砂利道を滑り降りる。

「あのね、僕も文鳥買ってもらったよ」

「本当? どんな子? 可愛い?」

 太一が買ってもらった小鳥の特徴を話すと「うちの仔と一緒ね」と彼女が喜ぶ。そして太一の文鳥が雄だと知ると「うちの仔は女の子なの、お見合いができるわね」と更に喜んだ。

「うちの子と太一君の文鳥がお見合いして好きあえば、卵を産んで子供が増えるね」

「そうなの?」

「そうよ。この子も私のお友達の家の文鳥が、別なお友達の子とお見合いして産んだ卵から生まれたんよ」

 感心する太一に、彼女は続けた。

「じゃぁ、明日早速太一君の文鳥とうちの子を会わせてみようか」

 太一は勿論、嫌とは言わない。明日また文鳥を連れてこの時間にここで会おうと約束をした。

「明日も明後日も、私がM市に戻るまで毎日会って文鳥のお見合いをしましょう。冬休みになったらまた来るから、その時もまた会おうね」

 海に落ちる夕焼けの中で彼女が言い、二人は小指を絡めて約束をした。


「太一にもそんなロマンスがあったのねぇ」

 有紀がほうっと溜息をつくと、

「それで? どうなったんだ?」

 重三も興味津々に聞いてきた。

 途端、太一の顔は布団に埋まり、声が沈んだ色になった。

「……来なかったんだ……」

「来なかったの?」

 何で? と交互に聞く二人に、ただ首を横に振って「知らないけど……」答える声の最後の方は掻き消えた。

 彼女が予定より早くM市に帰ってしまったのか、それともささやかな逢瀬を見かけた彼女の親が得体の知れない子供と仲良くしているのを嫌がったのか、とにかく理由の分らないまま、太一はその後彼女と会える事は二度と無かった。

 次の日も、その次の日も、約束した冬休みも。

 それでも『お見合いをさせて卵を産ませ用ね』という彼女の楽し気な声はずっと耳に残り、いつかまたきっと会えると信じて文鳥の世話を続けた。

 引っ越しが決まるその夜まで。

 母子二人の生活でしばらくは鳥など構う余裕は無いだろうと、文鳥は老夫婦に預けられ、太一は心残りのまま半年澄んだ漁村を後にした。

 が、働く母親と二人の生活は想像以上に慌ただしく、その心残りを忘れ去ってしまうのに時間はかからなかった。


「そんな事がねぇ……」

 重三に勧められた酒がほどよく入ったせいもあってか、有紀はうっすらと目尻に涙を溜めた。

「それにしても婆ちゃん、あの文鳥うまいこと増やしてくれたんだな。あの後つがいでも飼ぉたんか?」

 一羽だけ、というにはあまりにも騒がしすぎる倉から響く囀りに太一が尋ねれば、重三は笑いながら首を横に振った。

「ありゃぁ全部婆ちゃんが拾ってきたんや」

「拾って?」

「あぁ、二人がこの家を出てから、なぁ」

 道端で怪我をした雀や野鳥が居れば持ち帰り餌など与え、余所で産まれて引き取り手の無いインコなどあれば引き取ってやり、気が付けば小さな倉はすっかり小鳥で占領されてしまっていた。

「しまいにゃぁついたあだ名が『鳥婆』だ」

 酒の入った猪口を口に運びながら重三が愉快そうに笑った。

「最初の文鳥を死なせた後ろめたさでしょうかねぇ」

「どうかな、わしは二人が居らんなって寂しかったんやと思うておったがな」

 いずれにせよ、真相は眠る『鳥婆』の心の中である。目覚めるまで知る事はできない。

「きっと元気になって、話してくれますよね」

 誰ともなしに有紀が呟いた。

「そうだなぁ、しっかり目ぇ覚まして、教えてもらわん事には、なぁ」

 母子が屋敷を出てからは努めて彼らのことを口にしないようにしていた老婆が、急に容態が思わしくなくなった事に加えてこの夜『太一に』と言い出したもので、『今度こそ……』と思ってしまった重三だったが、思わぬ昔話で気が抜けたようで心の中で重苦しく居座っていた『覚悟』も溶けて消え始めた。

 きっと明日か明後日にもなれば老婆はまた少しだけ元気になり、梅の入った粥など食べながら「まぁ、そんなこともありましたわねぇ」と笑ってくれるだろう、そう思えてきた。


 未明の空に鳥たちの声が吸い込まれるように登ってゆく。

 再び隣の部屋で布団を軽く跳ねる気配がして、重三は静かに細く襖を開けた。

 薄闇の中で、細く伸びた灯りに照らされて皺だらけの顔が微笑みながら目を向けていた。

「どうした? 喉でも乾いたか?」

 布団の中で小さな頭がふるふると横に流れる。

「あぁ、煩すぎたか? すまんかったな、随分久しぶりに会ったもんで、つい話しが弾んでしもうてな」

 それにも、老婆はゆっくりと首を横に振った。

「どうした? ん?」

 重三がそろそろと部屋に入り布団の横に座ると、折れそうに薄い両掌が布団の隙間から現れ、老婆は自分の顔の前で拝むようにそれを重ねた。

 奮えるように掠れた声が漏れてくる。

「ありがとうねぇ、重三さん」

 随分長い事耳にする事の無かった呼び方に、重三はどきりとしながら、自分もつられて

「どうしたぃ? 小夜子さんや」

 昔懐かしい呼び方に戻ってしまう。

「太一に、会わせてくれて、ありがとう、ねぇ」

 そして襖の方に目を向けて

「有紀さんも、ありがとう、ねぇ。こんや夜分に、ありがとう、ねぇ」

 最後にもう一度重三の顔をじっと見つめて

「ありがとう、ねぇ、重三さん、ありがとう、ねぇ」

 とてもしゃんとした口調で繰り返し、手を胸の上に下ろして再び穏やかな寝息をたてはじめた。

 重三は手を布団の中に戻しかけ直して、「へへ」と笑った。

「びっくりしたやないか、そんな結婚する前の頃の呼び方で呼びやがってよぉ」

 照れているのか嬉しいのか、有紀たちから見える背中だけでは表情が分らないけれど、くすぐったそうな声で「おやすみ」と呟く声は優し気だった。

 居間に戻り太一に向かうと、うやうやしく頭を下げた。

「ありがとうな、太一」

 本当だったなら懺悔も許されないまま墓の中まで持って行かれ、重い荷物となっていただろう老婆の小さな秘密。

 たった一羽の文鳥の死は、長い長い間老婆の心で蟠っていたのだろう。

 太一の心を慰める為に飼った文鳥なのだからと、特別な想いでもあったのだろう。

 老婆が独り心に荷物を背負っていたことに、ずっと自分は気付きもしなかった。

 重三は急に、胸の中で希望の灯が灯ったように感じてきた。

「まだまだアレと話す事がたくさんありそうだな」

 自分達はこのまま老いて消え去っていくのみなのだと諦め、心の隅にぽっかりと穴の開いたように感じていたが、言葉にし難い期待がそれを埋めてくれるようだ。

「そうですよ、これだけお話しが出来たんですから、お義母さんもまた元気になってくれますよ。そうしたらまた、改めて遊びに来ますので私たちにも話して聞かせてくださいね」

 思いのほかしっかりとしていた小夜子の口調に、電話を受けてからずっと抱えていた不安がすうっと消えて有紀の気持ちも幾ばくか軽くなった。


 窓の外では冷たい三日月から笑うような風が響く。

 その中で鳥たちは唄う事をやめない。

 コタツの中で三人がトロトロと眠気に誘われ始めた頃、遠い空でかぎろいが白く揺れ始め、蔵の鳥たちは揃って囀りをやめた。

 数拍の後、再び突き刺すような激しい囀りが始まった。

 まるで何かを知ったかのように。

 眠りに落ちかける一瞬手前、何気なく太一が見た庭先で、薄くなり始めた月明かりの中どこを見るともなく唄う小夜子の背中が浮かんで、消えた。




ことりはとってもうたがすき

かあさんよぶのもうたでよぶ……………………




 ~ 了 ~


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