第5話 写真




「聖史、いるか」

 啓仁は軋む扉をひき、細い隙間から顔をのぞかせた。返事はなく、人影も見当たらない。机の上にはコピー用紙や写真、スクラップブックが無造作に置かれ、半分開いた窓から風が入り込んで、それらを床にまき散らしていた。

「いない、のか」

 啓仁は独り言をいいながら部室の中に入り、床に散らばった紙や写真を拾い集めていった。書類の中にお目当ての申込書も混ざっているかと思ったが、見つけることはできなかった。

「さて、どうしたものか」

 イベントの申込書といっても、さほど重要なものではない。稔に紹介文を創作させ、啓仁が上手い具合に新聞部の時間を確保すればいいだけだ。あくまで形式的な、事務手続きなのは確かだ。いないはずの聖史の失笑が聞こえてくるようだった。

 啓仁は大きくため息をつき、聖史がいつもしかめ面で眺めているパソコンの前に腰かけた。職員用の事務椅子は鈍く鳴って沈み込み、背もたれに体重をかけると、想像よりも大きく傾いて驚いた。

 椅子が安定すると、部室はとても静かだ。半開きの窓が時折うるさく振動し、くすんだガラスを通った西日は、細いレーザービームのように床の木目に差し込み、風に舞う室内の埃を照らし出していた。気を抜くと、うららかな午後の日差しに目を閉じてしまいそうだ。

 啓仁は背筋を伸ばして、大きく息を吸い込んだ。気を取り直して机の上に散らばっている紙や写真を少しずつ動かしながら、例の申込書を探してみることにした。広い事務机の上のパソコンは、電源が入っているようだが画面は真っ暗だ。向かい側の机の上には聖史のものと思われる鞄と、もう一つカラフルなストラップがいくつも着いた鞄が並んでいた。さすがにその中を探すのはやめておいた。

 手持ち無沙汰になった啓仁は、机の端で山になっているスクラップブックに手を伸ばした。すると不意に死角から声がした。

「あのー」

 啓仁は驚いて立ち上がり、太ももを机に強打した。持ち上げられるように揺れた机の端から、積み上がっていたスクラップブックが雪崩れて床に落ちた。

「あー…すみません。なんかうちに用ですか」

 くせっ毛の女子生徒が、扉の前に立っていた。ポスターを何本か小脇に抱え、カメラケースと思われるポーチをカラビナで腰にぶら下げていた。新聞部の部員のようだ。

「ぶ、部長に用があるんだけど」

「ああ部長ですか。あたしも探してるんすけどね。どこ行ったんだろ部長のやつ。原稿のチェックしてくれるって言ってたのに」

 女子生徒は早口で慌ただしく、そのまま啓仁の存在を気にする様子もなく、持っていたポスターを隅のバケツの中に放り込んで、プリンターに紙を詰め込み始めた。啓仁は彼女の様子を伺いながら、床に散らばったスクラップブックを拾い集めた。

 机の上でそれらを揃えていると、一番上に乗っているスクラップブックから写真が一枚、はみ出しているのが目に入った。啓仁は写真が挟まっているそのページを開いた。

「これ…」

 そのページの写真に写っているのは全て、サッカー部の見知った顔で、ほとんど啓仁が一年生の時のものだった。

「あの、勝手に見て悪いんだけど。この写真って、聖史が撮ったのかな」

 くせっ毛の後輩は、すぐに駆け寄ってきた。

「どれですか…ああ、そのスクラップは部長が撮ったやつですね。私が入部するまで、部活系は部長が全部撮っていましたから。部長はプリントアウト派なので、部活ごとにファイリングしているんです」

 言われて表紙を見ると、几帳面な文字で『サッカー部』と書かれていた。ページをめくると、外周やパス練習、公式試合など、懐かしい先輩やチームメイトの何気ない風景まで、隙間なく貼られていた。どの写真も上手く撮れている。確かに当時、聖史はよく試合の取材に来ていたが、こんな写真を見せてくれたことは一度もなかった。

「今月号はサッカー部の特集なんですよ。先輩たちが入部した年から、サッカー部の活躍すごいですよね。この間も取材に行ったときなんか…あ、ああ、そうだ取材といえば、副会長先輩は」

 彼女はひとりで早口にしゃべり続けながら、机の上のスクラップブックの山の中から分厚い一冊を取り出して、啓仁の前に置いた。

「先輩は、こっちにもたくさんいます」

 膨れ上がった表紙には『生徒会』と書かれていた。啓仁が開いてみると、先代の生徒会役員の先輩たちや委員長たち、現役の啓仁や稔、真帆の写真が、イベントごとに並んでいた。

「今年も選挙ダービーやろうって、今から準備しているんですよ。歴代生徒会の傾向分析は新聞部が担当するんです」

 この学校では夏休みに入る前から生徒会役員の選挙活動を開始し、秋の文化祭で最終投票が行われる。この期間に新聞部と放送部が主催する当選者予想は人気の余興だ。どうやら、机の上は生徒会や部活、学校行事など、啓仁たち現役役員が関わった資料が積まれていたようだ。

「ところで先輩は、なんで生徒会役員になったんですか?」

 新聞部員は唐突に机の上にあったペンを持ち、啓仁の方に差し向けてきた。

「これって、公式インタビュー?」

「ええ。新聞部はどんなときも、チャンスを逃しません。あ、どうぞどうぞ、おかけください」

 彼女はとびきりの笑顔で答えた。啓仁はその笑顔に抵抗できそうになく、大人しく彼女の向かい側に着席した。

「それで、先輩はなんで立候補したんですか?」

「その話はあんまりしたくないんだけど…」

 生徒会役員のほとんどは、クラスで何かの委員を経験してた者が候補になることが多く、啓仁は昨年まで風紀委員だった。そしてちょうど昨年の選挙前は、啓仁がサッカー部を正式に辞めた頃だ。

「生徒会をやってたサッカー部の先輩が、声をかけてくれたんだ。暇そうだなって。俺は断ってたんだけど…」

 啓仁は先輩から渡された立候補用紙を提出するつもりはなかった。そもそも委員会活動も、周囲が怪我を気遣って、一年生の時に務めた体育委員ではなく、風紀委員に推薦してくれたのだ。成り行きで仕方なく引き受けただけで、生徒会にも興味はなかった。

「そうしたら、あいつ…稔が…」

「ああ、生徒会長が言っていました。たしか勝手に出したんですよね、立候補用紙」

 くせ毛の新聞部員は、いつの間にかメモ帳を手に持ち、滑らかにペンを走らせていた。

「でも先輩は、立候補を取り消さなかった。ですよね?」

 彼女の鋭い目線に、啓仁はきまり悪く咳ばらいをした。

「あれは稔が先輩たちにも手をまわしてあって、俺も先輩たちには、何ていうか、恩みたいなものがあって…」

「拒みきれなかったと、なるほど」

 啓仁は小さくため息をついた。この話だけを切り取ると、まるで周りに流されやすく責任感がない人間のように聞こえるので、居心地が悪くなる。しかし実際に当時はそうだったから、どうしようもない。

「生徒会に入られて、どうでしたか?」

「…ただ、言えることは、生徒会はやって良かったよ。生徒会に入って、予定を立て、その通りに進めて行くことが、実は得意だって気付いたから」

 それはサッカーでも練習のスケジュールや、チームの育成方法を考えるのが楽しく、目標を実現させるために努力を惜しまなかったことと共通していた。稔の唐突な発案に振り回されながら、みんなで形にしていくのは面白いと思っている。

「先輩の応援演説で、うちの部長もそう言っていましたよね。きっとこいつは役に立つみたいな、上から目線な言い方でしたけど」

「うん、いまだになんで聖史が応援演説をやってくれたのか、わからないけどね」

「先輩が頼んだのでは?」

新聞部員は首を傾げた。

「いや、聖史が自分からやるって言いだしたんだ。理由は聞いても教えてくれなかったけど、どうせ、稔に頼まれたんだろ」

 啓仁が小さく笑うと、彼女は突然立ち上がった。しばらく部室を歩き回ったかと思うと、棚の中からファイルを取り出して啓仁の前で開いた。

「え、なに、どうした」

「あ、あのですね」

 目の前に広げられたファイルには、新聞の原本と思われる記事と写真が収められていた。聖史の几帳面な文字で書かれた加筆修正の跡が、紙を赤く染めていた。

「部長は、頑張っている人が好きなんですよ」

 啓仁がその言葉に顔を上げると、彼女は照れた様子で下唇を噛んだ。

「これは私の、勝手な解釈ですけれど。部長の記事を見ていると、こんなとこにも、色んなことで頑張っている子がいるんだなって。同じ学校にいるのに、あたしなんか全然気づかないものを見つけてくるんですよ、あの人は」

 めくられた記事の中の生徒は、誰もが真剣な眼差しだった。たしかに啓仁も、一年生の頃は体格差がある先輩たちに負けないよう必死だった。啓仁が一年生の中で唯一レギュラーに選ばれ、初めて試合に出たとき、聖史が小さな記事を書いてくれたとことを思い出した。

「それで、先輩は入院されていたので、きっとご存知ないでしょうけど…」

 目の前でファイルが手早くめくられた。

「この記事は部長が書いたものです」

 啓仁は目を細めて記事を読んだ。

 “サッカー部ベスト4”と題された見出しの近くに、試合前の円陣風景が載っていた。そこには啓仁の姿もあった。添えられた文章は、試合の内容を淡々と語った。当日は小雨でコンディションは悪く、ほとんどの選手が連戦に疲労していたこと、紺野が途中で交代したこと、啓仁が怪我をしたこと。負けたこと。

「部長は、当時の三年生が書いた別の原稿を、勝手に差し替えたんです」

「え…」

 彼女は啓仁が持っているファイルを1ページめくった。そこには啓仁が足を抱えて芝生に倒れている写真が大きく載った、“サッカー部ベスト4”の記事があった。

「部長はそれ以降、一人で学校ホームページだけを担当していました。この春、先輩たちがいなくなるまで、ずっと。学校新聞には寄稿していません」

 啓仁はもう一度、聖史が書いた記事を見た。

 その記事はこう締めくくられていた。


 " 暮れない日はない、明けない夜はない。

  再び彼らが立ち上がり、来年は決勝戦で

  その雄姿を見たいと願う…"


「きっと部長は、ずっと先輩のことを信じていると思うんです。…私の解釈ですが」

 啓仁が何か言おうとしたその時、強い風が吹いて窓ガラスが激しく鳴った。机の上にあった紙や写真が一息に飛び散っていき、二人はとっさに手を伸ばしたが、それらは指の間を軽々とすり抜けて、床や壁に張り付いた。

「…窓、閉めようか」

「副会長さん、提案があります。我が部に冷房機器を導入したいです」

「部員二名じゃ予算的に無理だな」

 二人はしゃがみ込んで、床に散らばった物をかき集めた。

 啓仁は床に落ちたサッカー部のスクラップブックから、また写真がはみ出していることに気付いて手を伸ばした。写真が挟まっているページを開くと、他のページとは違って、見開きにその一枚の写真が貼られた跡しかなかった。写真は裏返っていて、端のほうに古い日付が書かれていた。

 何気なく、その写真を裏返した。

 写真にはサッカーボールを追いかける二人の少年が写っていた。歳は小学校低学年か、もっと幼いかもしれない。色の違うユニフォームを着ている。見知った河川敷。首筋が汗ばむのを感じた。それは間違いなく、啓仁と、紺野だった。

「ああっ」

 突然の甲高い声に、啓仁はスクラップブックを勢いよく閉じて立ち上がった。

「副会長先輩、もしかして」

 彼女は色とりどりのマスコットがぶらさがった鞄の中をまさぐって、ノートと紙の束からそれを素早く取り出した。啓仁が取りに来たイベントの申込書だった。

「ご用件はこちらでしょうか」

「君が持っていたんだ」

「本当にすみません。まさか取りに来て下さるなんて。あ…あの…申し訳ないんですが、このこと部長にはご内密に…何卒…お願いいたしまする」

 慌てて深く頭を下げたる様子に微笑み、啓仁は少し考えて返事をした。

「いいよ。そのかわりに、俺がここで君と話したこと、聖史には内緒にしてほしい」

「はい、ええ、もちろん」

 西日が二人のシャツに、橙色を焼き付けていた。啓仁はそっと、スクラップブックを机の上に置いた。




 *




 昇降口まで来ると、廊下の先を歩く稔を見つけた。

「稔」

 啓仁の声が聴こえなかったのか、反応する様子はなく、稔は靴箱の間に消えてしまった。啓仁は仕方なく靴を履き替えて、先に出ようとする稔を小走りで追いかけた。

「おい、稔」

 稔の肩に軽く手を置くと、稔は一瞥だけよこした。

「…啓仁」

「親と一緒に帰らなかったのか」

 稔は足元に目を落として、息を吐き出すのと一緒に空返事をした。

「ああ、うん」

 二人は並んで歩いた。

 外に出ると薄暗く、ほとんど日は落ちていて、街路灯が小さく弾ける音がした。グラウンドの方からクーラーボックスを持った運動部員が列をなし、笑い声がどこからか響いた。

「あれ、二人とも今帰りなの」

 振り返ると、自転車に乗った真帆がいた。

「ああ真帆。部活おつかれ」

「そんなに仕事残ってたんだ、ごめんね抜けちゃって」

「いや、今日の分は終わってたよ。俺は新聞部に行って、稔は三者面談」

 稔の方を向くと隣にその姿はなく、数メートル先の方を歩いていた。

「あいつ、どうしたんだ」

 真帆は自転車から降り、啓仁と並んで歩き出した。

「稔、三者面談のこと何か言ってた」

「いや、俺には何も」

 啓仁は稔の背中を見ながら答えた。

「そう…」

 言葉を濁した真帆は、ため息を吐き、何かを考えている様子だった。

「ねえ、ヒロは進路、決まってるの」

「どうだろう、次の模試の判定で決めると思う。どこがいいとかは、あんまりないかな。…真帆は?」

「私はテニス部の先輩が行ったところ、目指そうかなって」

「へえ」

 啓仁は真帆を肘でつついた。

「なによ」

「稔と一緒じゃないんだな」

「もうっ」

 真帆は頬を膨らませて睨んできた。

 自転車のチェーンが回る音が響き、桜の木が風にそよがれた。桜の花は週末の雨で散り散りになり、花弁が道路脇の溝に張り付いて、無機質なアスファルトの帰り道を、白く縁どっていた。今週末の入学式まで持つだろうか。

「でも稔は、まだ決めてないんじゃないかな」

「そうなんだ」

「うん、たぶんね」

 真帆の含むような言い方は気になったが、啓仁はそれ以上追及しなかった。

 見上げると小さな星がいくつか瞬いていた。街の明かりで、ここからはその全てを知ることはできない。

「暮れない日はない、か…」

 啓仁の呟きは小さすぎて、真帆には聴こえなかったようだ。

「ねえ肉まん食べに行かない。新作の桜まん、まだ食べてないんだ」

「ああ、いいね」

 啓仁はずいぶん先を行って小さくなった稔の背中に向けて、声を張って呼びかけた。稔は街頭に白く浮かび上がった桜の木の下で足を止めて、二人を振り返った。啓仁は走り出し、その後ろを真帆が自転車をこいで追いかけた。

 まだ春になったばかりの、少し肌寒い帰り道だった。





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もえいづる 藍田諸 @aidamoro

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