第4話 傷口



 重厚な雲が空を覆った土曜日の午後。啓仁は定期検査のため、かかりつけの大学附属病院に来ていた。

 近代的な待合室は塵ひとつなく、いたる処に添えられた観葉植物は、いつも通り艶やかに光っていた。居心地がいいはずの明るい雰囲気なのに、そこにいる人たちはあまり馴染めていないように見えだ。誰もがよそよそしく革のベンチに丸まって腰かけていた。

 一年ほど前から定期的に通っている啓仁でさえ、この独特の静けさと、少し張りつめた空気には未だ馴染めない。いくつかの待合室を通り過ぎ、スポーツ外来がある整形外科で、見知った男性看護師を見つけてやっと落ち着くことができた。

 受付を済ませ、廊下の隅にある窓際のベンチに腰掛けた。 

 空は浮かない表情のままで、窓の外の樹木もそれを忠実に映して、ぼんやりとくすんでいた。こんな天気の日には、気圧によって古傷が痛むとよく言うが、啓仁も例にもれなかった。

 ただし啓仁の場合、怪我をした左足の痛みはなかった。体の深いところにできた傷から、何かが滲み出てきて、それが気化して胸に込み上げてくるようなのだった。啓仁がこの病院に搬送されたあの日も、今日と同じように、今にも雨粒が落ちてきそうな空模様だったからだろう。

 啓仁は嘆息し、上半身を捻った姿勢のまま、窓枠に片肘を着いた。ガラスに映る自身は、まるで他人のように遠くを見ていた。

「ヒロ」

 唐突に呼ばれ、慌てて焦点を合わせて振り返った。

 するとそこには、思いがけない人物が立っていた。

「…紺野」

 啓仁と同級生のサッカー部のキャプテン、紺野だった。大きなエナメルバックを肩にかけた制服姿の彼を、驚いて見上げた。

「どうしてここに」

 啓仁はとっさに彼の四肢に目を走らせた。

「ああ、俺は付き添い。二年の柏が足を捻ったみたいで、連れてきたんだ」

 紺野はバックを静かに床へ下ろし、啓仁の隣に腰かけた。二人で横に並ぶのも久しぶりのことだ。

「さっきまで、コーチもいたんだけど」

「ああ…そうか」

 啓仁は不自然にならないように気を付けながら、視線を逸らして頷いた。

 正式に退部して半年以上経ったが、その間にも元チームメイトとは変わらず気軽な友人を続けることができていた。もちろん紺野とも、そうありたいと思っていたが、それは、想像よりも難しかった。怪我をきっかけに二人の何かが故障し、お互いに受信し合っていた電波を感じなくなってしまったように、ちぐはぐな関係を修復できないでいる。

「天気、よくないな」

 紺野もまた、ぎこちない様子だった。

 もしかすると紺野も、こんな天気の日には思い出すのかもしれない。啓仁は人よりも真面目な性格の彼を、気の毒に感じた。

 あれは一年生の冬のこと、県大会、準決勝だった。

 後半開始と同時に交代した紺野は、公式試合に初めてスタメンに選ばれたため、とても緊張していたと後で聞いた。その試合に前半から出ていた啓仁は、紺野と初めて同じ試合に出れることが嬉しく、先輩たちとの新しいフォーメーションが上手くいって興奮していたため、紺野の様子に気づくことはできなかった。

 よくある事故だった。

 夢中でボールを追いかけた二人は、勢いよく衝突した。

 そんなことは初めてではなかった。小学生の頃、サッカークラブで。中学生の頃、敵チームとして。試合や練習で、何度もあったことだ。しかし奇跡的に、その時まで一度も大事に至らなかったというだけだったのだ。

 啓仁は、土と緑の匂いと、雨雲のうねりを思い出して唾を飲み込んだ。

「なあ、ヒロ」

 紺野はとても落ち着いた声で、啓仁に呼びかけた。彼には口の両端に力を入れる癖があった。それは、本当に言いたいことを伝える時の合図だ。

「お前、部活にこいよ」

 啓仁は面食らって紺野を見た。

 紺野は両腕を組んだ楽な姿勢のまま、真っ直ぐな強い眼差しを寄こしてきた。

「足、治ってるんだってな」

「え…」

 啓仁は狼狽えた。既にリハビリは終わっていた。体育にも普通に参加し、走ることもできるようになっていた。別段、隠していたことではなかったが、誰もそのことについて触れてはこなかった。

「この間、コーチと話しているところ聞いたんだ。トレーニングすれば、前みたいにサッカー続けられるんだろ」

 紺野は静かに言った。

 彼の目を見ればわかる。責めているわけではない、ほんとうに心配している目だった。啓仁は目を逸らし、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出して答えた。

「コーチにも言ったけれど、怪我だけで辞めたわけじゃないんだ」

「今なら、夏に間に合う」

 紺野は本気のようだった。

 そもそも彼がこのことについて、冗談など言えるような人柄ではないことを、啓仁は誰よりもよく知っていた。

 短い入院生活を終えると、顔を合わせる度に謝ってきて、まだ啓仁が許していないと周りに誤解されたこともあった。キャプテンに抜擢されたその場で、チームメイトに怪我をさせたのだからと言って、即座に断ったような人間だった。

「…また」

 紺野は奥歯に力を入れて、言い直した。

「また、一緒にサッカーできるだろ」

 啓仁の中に、紺野の言葉が反響した。

 また、一緒に。

 これまで何度もその言葉を交わし、砂にまみれた手を握り合ってきた。試合の後、練習の後、その一つ一つの場面が脳裏に浮かんだ。啓仁は訳が分からず、息苦しさを感じた。頭の中が重厚なうね雲で覆われていくようだった。

 その時、院内放送で啓仁の名前が呼ばれた。

 二人揃って廊下の先に顔を向けると、診察室の前で、看護師がカルテを抱えて啓仁に手を振っていた。啓仁は弾かれたように立ち上がり、歩き出す前に紺野の方を見た。紺野は何か言いたげに薄く口を開けたが、啓仁はそれを遮るため、素早く、喉の奥から絞り出すように言葉を吐いた。

「ごめん」

 いつの間にか、窓には水滴が飛び散っていた。不規則な斑の雲が広がって、日暮を急かしたようだ。雨音が響く廊下を、啓仁が振り返ることはなかった。

 




 *





「ただいま」

 月曜日の放課後、啓仁が生徒会室に入ると、稔が長机に片肘をついたまま睨みつけてきた。

「遅いぞ」

「あれ、他のみんなは」

 生徒会室を見回すと、啓仁が職員室へ出かける前に、所せましと作業をしていた下級生役員たちの姿は消えていた。

「みなさん部活動やお勉強に、お忙しいようで」

 生徒会室の隅には、イベント用の装飾やポスターが積まれていた。あらかた大人数で取り掛かれる仕事は片付いているようだった。

「暇人は俺たちだけってことだよ」

「違いない」

 啓仁は笑ったが、稔はまだ眉根に皺を寄せ、相当に機嫌が悪いようだった。

「稔、入学式の練習は終わったのか」

「そんなものは、とっくにね」

 稔が苦々しく歯ぎしりする様子に、啓仁はすぐにピンときた。おそらく在校生代表のスピーチ内容について、また教頭と揉めたのだろう。稔の派手な演説は、きっと新入生にうけるだろうが、格式を重んじる教頭にとっては目に余る存在に違いなかった。

「真帆も部活か」

 何気なく啓仁は外を眺めた。生徒会室は新校舎の端に位置し、窓からは背の高い樹の頭が並んで見えた。風が吹くと、小立の間から洒落た石畳の中庭が見下ろせたが、そこはいつも閑散としていた。

「ぼーっとしていないで、手を動かせ」

 啓仁の方に、ホッチキスで留められたザラ紙の束が投げて寄こされた。

「暴君め」

 啓仁は足元に落ちた紙束を拾い上げ、稔の向かいに座った。新入生に配る小冊子に入れる、部室案内の簡略された地図だった。表に付箋が貼ってあり、後輩の字で“要確認”のメモが入っていた。

「チェックすればいいのか」

 稔は返事をせず、黙々とノートパソコンのキーボードを叩いていた。

「稔は何をやっているんだ」

「生徒会と委員会の紹介文の打ち込み」

 短く返すその様子は、イラついているというよりも、何か急いでいるようだった。

 稔は先ほど暇人と言っていたが、二人とも受験生であることに違いなく、やることがないわけではないのだ。啓仁は何も言わず、彼のペースに倣うことにした。

 A3のページを一枚めくり、通称クラブハウスと呼ばれるプレハブ小屋の部屋割り図を一つずつなぞっていくと、すぐに違和感を感じた。

「あれ、柔道部って、今もあったっけ」

「柔道部は俺たちが一年のとき部員がゼロで実質廃部」

「その部室って確か去年、隣の壁ぶち抜いて、剣道部が使っているところだよな」

「ああ」

「これ見ろ」

 部屋を示す四角い図形には、柔道部と剣道部の部屋が隣接して記されていた。また、その隣に移動したはずの水泳部と、新設された水球部も書かれていなかった。代わりに、登山部、男子軟式テニス部等、現在は存在しない部活動が並んでいた。

「昔のデータをそのまま使ったみたいだな」

「…あの、役立たず」

 稔が頭をかきむしった。

「そのパソコンに入っていたんだろうな。ここのパソコン、古代遺物みたいだもんな。これ、何年前のだよ」

 よく見ると、校舎全体がコの字型になっていた。啓仁たちが入学する直前に建て替えられたばかりの今の校舎は、中央に大きな吹き抜けがあり、丸や三角の教室が不規則に並ぶ前衛的な建造物となっている。誰が見ても、この地図は建て替え前のものだとすぐにわかっただろう。

「いや、これは、さすがに気付いただろう」

「嫌がらせだな」

「会長として日頃の行いの成果が出たな」

 稔は一瞬手を止めて啓仁を鋭く睨んだが、すぐに、凄まじいスピードでキーボードを打ち始めた。

「明日、あいつに、作り直させる」

「チェックしといてよかったな」

 やることがなくなった啓仁は、その古い地図をめくって眺める。今より明らかに部活の数が多く、珍しい部活の名前が並んでいた。中でも目を引いたのは、文化部の多彩さだった。映研、漫研、文研、ミス研、室内楽、等々。研究会や同好会の多さが、当時の学生たちの自分らしさを物語っていた。現在は時を経て生徒数が減少し、進学校へのイメージチェンジを行ったため、部活動の数は現在進行形で年々減っている。

 啓仁はフロアごとに分かれた三枚の地図を机の上に並べた。クラブハウスと校門、そして今も残っている旧校舎の一部から、大体の位置関係が掴めた。

 何気なく、生徒会室がどこにあったのか探してみると、今と全く違う場所であったが、同じように校舎の端に位置していた。

「へえ、生徒会室って今の旧校舎にあったんだな」

 啓仁は思わず呟いて、すぐに息を止めた。

 高ぶった稔の作業を邪魔すると、次は何が飛んでくるかわからない。啓仁は目を細めて、そっと向かい側を見やったが、稔は一瞥もせずに、指を動かし続けていた。彼は時折、このように強靭な集中力を発揮するタイプだ。

 啓仁は注意深く座り直し、地図に目を落とした。

「啓仁」

 突然呼ばれて、啓仁はパイプ椅子を軋ませた。

「ああごめん。邪魔したよな」

「生徒会室がどこにあるって」

「なんだ、聞こえていたのか」

 啓仁は二階と書かれた地図を稔の方に滑らせた。

「二階の一番端にあるだろ。旧校舎の端ってことは、今の新聞部の下の教室か」

 稔は地図を一旦手に取ったものの、すぐに目を放してタイピングを始めた。啓仁は構わず続けた。

「新聞部の教室は当時…これか。ロボット研究会が使っていたらしい。この頃からほとんど、部室として使われていたんだな」

「あの部屋は」

 稔はパソコンから目を離さないまま聞いてきた。しかし、啓仁がその質問の意図をすぐに理解できずにいると、稔は煩わしそうに画面から顔を上げ、口を尖らせながら言った。

「例の、箱があった部屋だよ、一階の」

「ああ…」

 稔がまだあの件について興味を持っていたことに驚きながら、啓仁は紙の上に指を這わせて読み上げた。

「一階の端は、占い同好会…だな」

「占い同好会か」

 稔は訝しげな表情をした。

 啓仁も、占いという言葉に関して思い起こしたことがあった。真帆の手紙について、まだ稔には何も話していない。しかし真帆との帰り道を思い出しながら、どこから話していいものか考えあぐねていると、稔が急に立ち上がった。

「終わった」

 稔が背伸びをして、ノートパソコンを勢いよく閉じた。古いプリンターから排紙される音が聞こえてきた。

「それより啓仁、ちょっと頼みがある」

「なんだ」

「新聞部の紹介文がない」

 言われた啓仁は無言で立ち上がり、ファイリングされた申込書の束をめくった。新聞部のイベント申込書は見つからなかった。

「あいつ…」

「聖史はそういうやつだ」

 稔は喉の奥で笑いながら、出来上がったばかりの原稿をカバンの中に押し込んだ。

「明日は、みんなを集めて冊子作りだからな。それまでに、よろしく」

 稔は時計を見ながら、早々に荷物をまとめた始めた。

「稔はもう帰るのか」

 扉に手をかけた稔が、小さくため息をついたように見えた。

「いいや、これから、三者面談」

 苦虫を嚙み潰したような、彼のそんな横顔は初めて見た。





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