第3話 味方

 


 啓仁は夕暮れに霞む遠くの空を、印刷室から眺めていた。

紙が飛ばないように締め切りとなっているその小さな空間は、大型印刷機の規則正しい音と、エアコンが空気を吐き出す掠れた音で満ちていた。帰ろうとした矢先、生徒会顧問に捕まって印刷物を押しつけられ、この退屈な空間から逃れられないでいる。分厚く刷り上っていくPTA新聞は、まるでバームクーヘンのようだと夢想していると小腹が空いた。

「お、副会長、ナイスタイミング」

 勢いよく扉が開き、男子テニス部顧問の三迫が入ってきた。身長が高く肩幅が広い、女子に人気の若き社会科教師だ。

「ちょっと俺に付き合ってよ」

「いやです」

 啓仁は三迫が持っているB5の束を横目で見て、邪険に言い放った。印刷室に入った時から長机にいくつかのプリントの山が載っており、誰かが冊子作りをしようとしていることに気づいていた。

「冊子だけに察しがいいな。いいだろいいだろ、手は空いてるんだし」

「俺の分の印刷、もうすぐ終わるんで」

「まあまあ。それが終わるまででいいから、頼むよ手伝おうよ。秘蔵のチョコバーあげるし」

 三迫はジャージのポケットから、コンビニで売っているチョコレートバーを取り出し、啓仁の前に突き出した。

「食いたまえ、若者よ」

「…いただきます」

 三迫は満足したように頷き、手際よく数台のコピー機に原稿を入れた。啓仁はチョコバーを口に押し込みながら長机に並べられた印刷物の頁順を確認した。三迫が作ろうとしている冊子は、新入生の保護者に向けたものだった。

 チョコレートとナッツの感触が口の中から消えていくのを名残惜しみながら、備え付けの指サックを人差し指にはめた。啓仁が人差し指と親指で頁を拾っていき、受け取った三迫はステープラーで冊子を留め、その作業の合間に刷り上った印刷物を補充していった。生徒会役員にとって冊子作りは日常業務であり、慣れたものだ。

 啓仁は冊子の見出しの中に“部活動報告”と明朝体太字で書かれた一稿を見つけた。それに続いて堂々と掲げられていた、“昨年県準優勝したサッカー部”の写真を無視して、部活動の成績一覧に目を走らせた。

「テニス部は順調みたいですね」

「ほふ」

 印刷機の原稿を取り換えながら振り向いた三迫は、口にチョコバーをくわえていた。

「チョコ付いても知りませんよ」

「はは、まあね、うちは、まあまあ。エースがいるからね」

「へえ、あの四組の…ツリ目の…名前なんでしたっけ」

「…」

 三迫からの返事は沈黙だった。啓仁が冊子を差し出して顔を上げると、三迫はじっと啓仁を見つめていた。

「…なんですか」

「お前もまあまあ、ツリ目だよな」

「帰っていいですか」

 その時、タイミング良く部活動の帰宅チャイムが鳴った。啓仁はPTA新聞が刷り上っていることに気付き、窓際のコピー機に向かった。窓から見える空は、縁を黄金色に染めていた。

 三迫が隣のコピー機から原稿を取り出した。

「まあでも、今年は女子が心配だな」

「そうなんですか」

「ずば抜けていたエースが卒業したからな。良い一年が入ってくればいいんだが、団体は厳しいかもな…。ああ、うちも来年同じ目に合うんだろうな…」

 三迫の四方山話を聞き流していたその時、階下を横切るジャージ姿の女子を見つけた。外周コースでもない歩道で、下校途中の生徒の間を縫うようにして走っているのは、真帆だった。不思議に思って注視していると、何かを探しているようで、しきりに辺りを見回していた。

「あ」

 真帆が振り向き様にすれ違った生徒とぶつかって、転んだ。

「先生、俺、帰ります」

 啓仁はPTA新聞を手早く配布物の棚に納めると、鞄をつかんで走り出した。

「おう宗田、キャッチ」

 呼ばれて振り返ると、啓仁の手元にチョコバーが降ってきて、手を振る三迫に、苦笑いを返した。





 * * *





 昇降口まで降りて来て、啓仁は上下する自分の胸を見て、冷静になった。

 自身でもなぜ走り出してしまったのか、理由がわからなかった。咄嗟に駆け出してきたが、真帆がまだ同じ場所で転がっているはずはないだろう。辺りを見回してみるが、やはりそれらしい姿はなく、大きなドラムバックを肩にかけた男子生徒の集団が、口数も少なく啓仁の脇をすり抜けていった。昇降口前は閑散としていた。

「いない、よな」

 ため息をついて、啓仁も帰ろうとしたその時、植え込みの向こうで小さな白い何かが動いた。襟足が跳ねた肩につく髪と、小さな背中は真帆のものだった。少し近づくと、彼女は植え込みの縁に体育座りし、遠くの空を眺めていた。

 啓仁はためらった末に声をかけた。

「真帆」

 呼ばれて真帆は肩をすぼめた。背中を丸めて、ますます小さく見えた。

 啓仁がゆっくり近づくと、真帆は前髪の隙間から啓仁を見上げた。

「ヒロ…」

「こんなところで、どうした」

 真帆はすぐに目をそらした。

「ちょっとね」

「さっき、転んだろ」

「…見てたの」

 彼女の頬は、濡れていた。

「大丈夫か」

「うん、大丈夫」

 真帆は慌てて目元を押さえ、顔を伏せた。消え入りそうな声からは拒絶を感じたが、啓仁はなぜか離れられずに、真帆の隣に腰を下ろした。

 芝生の先にはグラウンドがあり、フェンスの向こうは民家の屋根が見える。そのすべてが薄い金のベールに覆われているかのように、風が吹くと屋根瓦があちこちで瞬いていた。夕刻が終わろうとしているのだ。

「そうだ、これ食べる」

 啓仁は真帆の目の前に、三迫からもらったチョコバーを差し出した。真帆は少しだけ頭を傾けて、腕の隙間から覗き見た。

「…たべる」

 ゆっくりと手を伸ばし、鼻をすすりながら億劫そうに袋を開け、真帆はチョコバーを一口食べた。

「ヒロは」

 喉を鳴らして口の中のものを飲み込み、真帆はおもむろに口を開いた。

「ヒロは中学の時、キャプテンだったんだよね」

「まあ…うん」

 しかし、話は続かなかった。

 チョコバーを全部口に入れると、真帆は白いシャツの裾を握りしめた。そのシャツは背中と袖口には学校の名前が入っており、試合のユニフォームのようだった。啓仁は一度だけ、このシャツを着た真帆の練習試合を観たことがあった。

 あれは二年生の春、啓仁にテニスの知識はないが、真帆が他の同学年の選手より気迫と技術があることは分かった。三年の先輩とダブルスを組んでいて、ポイントを決める度に笑顔で振り返り、勝った時に二人は固く抱き合っていた。今と同じシャツと、白いスコートの端々が、砂色に汚れていたのが印象的だった。

「真帆って…」

 シャツを握りしめた真帆の親指には、タコができていた。何本かの指にテーピングが巻かれていて、むき出しの肘には長い傷跡があった。日に焼けた髪が輝いて、啓仁には眩しかった。

「真帆って、テニス、好きなんだな」

 足元の芝生が音を立てて揺れた。

 東の木々が風になびき、木の葉が地面を這っていった。

「私…」

 静かな騒めきの中で、真帆の声はとても澄んで聞こえた。

「また、部員と、喧嘩しちゃった」

 風に吹かれて消えてしまいそうな声だった。

「私…、駄目なキャプテンかも」

 彼女の横顔を見ていると、啓仁も目の前がぼんやりとし、鉛のような重い塊が、喉元まで込み上げてきた。真帆の小さくすすり泣く声を聴きながら、強く自分の腕を握ってそれに耐えた。

「まだ、わかんないよ」

 正体のわからない気持ちに堪らず、啓仁は立ちあがり、手を差し出した。

「とりあえず、帰ろう。風邪ひくだろ」

「ヒロ…」

 真帆は泣きはらした目を丸くして見上げた。

「えっと…どうしたの」

「…それは俺のセリフだな」

 しばらくの間、まじまじと啓仁の顔と手を交互に見つめ、真帆は小さく噴き出した。啓仁はその表情を見てほっと胸をなでおろした。

「ありがとう」

 真帆は、啓仁の手を取ってゆっくりと立ち上がった。





 *





「私の願い事、叶いそうな気がしてきた」

 校門を出たあたりで真帆は唐突に言った。

「え」

 啓仁が心づくしの優しさで、荷物を持とう、家まで送ろうと申し出たが、全て笑いながら断られてしまった後だった。校門に着く頃には、いつもの真帆に戻っていた。

 制服に着替えた真帆は、片手で自転車を押し、もう片方の肩にラケットを背負っていた。彼女の家は徒歩でも通える距離ではあったが、朝練のために自転車で通っているらしい。

「真帆の願い事って、稔のことだよな」

 何気ない啓仁の言葉に、真帆は口を半開きにして顔を強ばらせた。そしてすぐに、その顔が温度を変えて赤くなっていく様が、薄暗い中でもよくわかった。

「え、あー、な何で、」

「…あ、ごめん」

「違うよ、いいの、ヒロは謝らなくていいし。うー…」

 両手が塞がっているため、顔を隠すことができずに悶える真帆は、声にならない声を出した。

 稔と真帆は、いわゆる幼馴染という関係だ。家が近く、親同士の仲がいいこともあって、家族ぐるみの付き合いだった。学校の近辺が地元である彼らは、特に示し合わせたわけでもなく、同じ中学、高校に進学してきた。兄妹のようなやり取りをする二人は、生徒会でも既に公認の仲だった。

「えっと…」

 真帆は軽く咳払いをして、何事もなかったかのように話し始めた。

「私は、今はそういうのはいいかなって」

「幼馴染の余裕ってやつだな」

「ふふ、そんなんじゃないよ。自分の事でいっぱいいっぱい過ぎて、無理ってこと」

 真帆は部活の内情についてかいつまんで話した。先ほど印刷室で聞いた通り、女子テニス部に立ちはだかる壁は、キャプテンである真帆を苦しめているようだった。

「今の私じゃ、稔の力になってあげられないんだよね。私は私で頑張らないと」

 啓仁は軽く相槌を打って促した。

「じゃあ真帆の願い事ってつまり、部活のことだったんだな」

「そう。自分で何とかしなきゃって、言いながら、そういう事に頼っちゃう系の女子よ。ばかばかしいでしょう」

 真帆の力ない微笑みを見て、啓仁は胸がざわつき、言葉に詰まった。それを悟られないように沈黙を守ったまま、空を仰いだ。澄んだ夜の先に、青白く光る一等星が瞬いていた。他の星は見当たらず、煌々と光るそれを見ていると、小さく丸まった真帆の背中が思い出された。

「…誰にも言えなかったんだろ」

 啓仁の言葉に、真帆は声を詰まらせた。

「そう…かもね。誰かに…聞いてほしかったんだね」

 真帆は、川縁の遊歩道に差し掛かったところで足を止め、啓仁もそれに倣った。二人は広くなった視界の端から端まで黙って眺めた。向こう岸の河川敷では、ランナーが息を弾ませ、親子が大型犬を連れて歩いていた。二人のいるこの対岸はまるで人通りがなく、川を挟んで違う世界の映像を見ているようだった。

 真帆は穏やかに話し始めた。

「私の願い事は、最後の大会でベスト4に残ること。それと、後輩に力をつけて新人戦で結果を出すこと。結果を出して、ボコボコのコートを整地してもらうこと。あとは、何だっけ」

「多いな」

「そう、欲張ったの」

 真帆が小さく笑い、啓仁もつられて笑った。

 遠くの鉄橋の上には、鳥が列をなして羽を休めていた。川面に波はほとんど無く、時が止まっているようにすら感じた。

 真帆が小さく息を吸ったのがわかった。

「私、テニスのことで後悔したくないんだ」

 その言葉は力強かった。

 啓仁は、遠くを見つめる真帆の真っ直ぐな瞳に目を見張り、眩しく感じた。

 しかしすぐに、啓仁の視線に気づいて、真帆が慌てた様子を見せた。

「あ…ごめん、ヒロ」

 真帆は心配そうに眉を下げて、啓仁の顔を覗き込んだ。いつもなら苦手な、啓仁を気遣う優しい眼差しだった。

「いや、真帆は謝らなくていいよ」

 啓仁はこの時、素直にその優しさを受け止められた気がして、自然と笑顔になっていた。

「俺にできることがあったら、言っていいからな」

 啓仁は真帆の肩を力いっぱい叩いた。

「ちょっと、痛いよ」

 二人は照れくさくなって、お互いの顔を見ずに笑い、ゆっくりと歩きだした。

 再び空を見上げると、一等星の周りにうっすらと光の粒が見え、何かの形をしているような気がした。

「ねえ、願い事を書いたら返事が返ってきたって、この間話したじゃない。ヒロ、珍しく興味津々だったじゃん」

「あ、うん、そうそう。真帆がもったいぶるから、気になって聖史にも聞いたよ」

「え、キヨに聞いたの」

「鼻で笑われた」

「あはは、だろうね。私も半信半疑だったから、返事が来たときは驚いたけど。ねえヒロ、ほんとうに聞きたい?」

 真帆がからかうように口を尖らせて啓仁を見上げ、首を傾げた。

「…なんだよ、聖史といい、真帆まで…」

「ふふ、なんか嬉しくて。ヒロとこういう話できるの」

 啓仁には真帆が何をそんなに喜んでいるのか少しもわからず、小さくため息をついた。

「言いたくなかったらいいんだけど」

「ごめん、ごめん。そうそれで…手紙にはこう書かれていたの」

 真帆は躊躇なくあっさりと続けた。

「“考えすぎず、恐れずに、思うままに行動しなさい。そうすればあなたの味方が現れます。”」

「え…」

「だいたいこんな感じ」

 それは、思ってもみなかった、あまりに簡潔内容だった。

「それって、なんだか…占いとか、おみくじみたいだな」

「言われてみれば、そうだね」

 啓仁は少なからず落胆し、脳裏には稔や聖史の冷めた眼差しが目に浮かんだ。

「でも、こうして味方ができたわけだし」

「え…」

 真帆は、啓仁を仰ぎ見て、満面の笑みで頷いた。その嬉しそうな顔を見ると、啓仁は更に脱力した。

「俺でよかったかな」

「あ、あとこれは、キヨも知らないかもね」

 朱色の鉄橋に差し掛かった分かれ道で、真帆はこれもまた、あっさりと言い放った。

「“未来のあなたより”」

 遠くで汽笛が響き、鉄橋の上で線路が震えだした。

「今、なんだって」

「だから、“未来のあなたより”って。そう書いてあったんだよ。手紙の差出人に」

 頭上で十両編成の列車が轟々と疾走し、啓仁の思考を掻き乱した。







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