第2話 箱



「つまりこういうことだ」


 階段を下りながら、稔は唐突に言った。

「願いを叶えるには対価が必要なんだ」

 踊り場に設けられた窓から斜陽が差し込み、無機質なコンクリート壁を赤々と彩っていた。啓仁は生ぬるい空気を吸い込み、あくびを噛み殺しながら返事をした。

「…何の話だよ」

「その、何とかの箱の話だよ。おかしいと思わなかったか。神や仏に祈って、願い事が叶ったとしてだ、わざわざ願い事を叶えた報告が返ってくるか。絵馬に返信が返ってくるか」

「まあ、返ってこないな」

「そうつまり、願い事を叶えた奴は、自分が願いを叶えた証明が必要なんだよ。ずばり、そいつからの手紙の内容はこうだ」

 踊り場で稔は振り返り、右手を高らかに宙に掲げた。

 その顔は歪んだ笑みを浮かべていた。

「“お前の願いは叶えた。約束通り、お前の魂をいただく”」

「…なるほど。その発想はなかった」

「いつも楽しそうね、君たち」

 階下からの涼しい笑い声に振り向くと、白いブラウスに、花柄のスカートを揺らしながら小柄な女教師がゆっくりと階段を上ってきた。

「大河君、演劇部に入ったらいいのに」

「ユキちゃん先生、それはダメです。僕が毎回主役になっちゃうと、他の生徒が可哀想でしょう」

 稔にユキちゃん先生と呼ばれ親しまれている彼女は、気さくな人柄で生徒に人気の合唱部顧問だ。稔と啓仁にとっては、一年生の時の副担任でもあった。

「ふふ、確かにそれもそうね。生徒会も忙しいものね」

 彼女は鈴を鳴らすように笑い、啓仁に目配せをした。

 笑うたびに柔らかそうな巻髪が、肩の上で弾んでいた。

「そうだ啓仁、ちょうどよかったな」

 稔は啓仁が抱えている用紙を指さした。

「え、ああ」

 啓仁は抱えていた用紙を一枚、ユキに差し出した。

「あの先生これ、合唱部の分です。部室に誰もいなかったので」

 彼女は目を細めながら用紙を受け取った。

「ああ、新歓イベントね。わかったわ。部長に渡しておくね」

「お願いします」

「ではユキちゃん、我らは先を急ぎますので」

 稔は仰々しくお辞儀して、階段を駆け下りていった。

「道を塞いでいたのは俺たちだけどな」

「ふふ、お疲れさま」

 ユキは笑いながら階段を登り始めた。

 踊り場で啓仁と並ぶと、ユキの頭は啓仁の目線よりも低かった。

「先生」

 ユキが振り返った。沈みかけた夕日が彼女の髪を朱色に染めていた。

「この間は、その…」

 啓仁が口ごもっていると、ユキは一段目にかけていた足を下ろして戻ってきた。

「これ宗田君にもあげるね」

 ユキは、愛用しているフェルト地のファイルから一枚の紙を差し出した。五線譜に、手書きの音符が印刷された楽譜だった。

「なんですか、これ」

「新歓イベントで、毎年合唱部がやる曲なんだけどね。この曲、私が作ったんだ」

「へえ」

 啓仁は素直に感嘆した。

「それくらいなら、読めるでしょ。仮にも、私の授業を受けていたんだし」

 鉛筆の跡が濃く浮き出た五線譜は、その下に歌詞も書いてあった。

 けれども既に啓仁にとっては暗号に近かった。

 啓仁が返事に窮していると、ユキは山吹色に頬を染めて、いたずらっぽく微笑んだ。

「ふふ、お礼なんていいのよ」

 彼女は再び階段を上がり始めた。

 ユキの鼻歌が降り注ぐように聞こえた気がした。





 *





「遅い」


 一階まで下りたところで、稔が柱の陰から飛び出してきた。

「ユキちゃんと何を話していたんだよ」

 稔はニヤつきながら啓仁の肩を小突いた。

「…別に」

 啓仁はできる限りそっけなく答えた。稔はそれ以上追及してこなかった。

「それより、こっちだ。見つけたぞ」

「え」

 それは、旧校舎一階の廊下、一番端の空き教室の前だった。

 教室の入り口前に備え付けられた棚はおそらく、上履き入れだろう。目当ての箱はその上に置いてあった。何の変哲もないただの木の箱で、上部に貯金箱のように長方形の穴が空いていた。側面に切れ込みがあり開閉できそうだが、そこには小さな南京錠がぶら下がっていた。

「意外と普通だな」

 稔が箱を両手でつかんで持ち上げようとしたが、微動だにせず、代わりに空き教室の窓がガタガタと揺れた。箱は備え付けられた棚の天面にしっかりと固定されていた。

「ふむ」

 続けて稔は、上部の穴から中身を覗いた。

「けっこう入っているな」

 促され、啓仁も片目をつぶって中を見た。折りたたまれた紙のようなものがいくつか入っている、ようにも見えた。

「本当に、これのことか」

 稔はあからさまに落胆していた。その箱は、何の変哲もないとしか言いようがなく、とても悪魔と契約するために設えられたようには見えなかった。聖史によれば、この箱の存在は旧校舎を使用している生徒なら誰もが知っているとのことだった。

「啓仁、その紙一枚くれ」

 稔が啓仁が抱えていた新歓イベントの束に手を伸ばしてきた。しかしその一番上には、先ほどユキからもらった楽譜を乗せていたため、啓仁はとっさにそれらを抱きしめた。

「なんだよ」

「どうするつもりだよ…」

「返事が返ってくるかもしれないだろ」

「いやいや」

「いいから、いいから」

 稔は強引に、啓仁の指の間から、くしゃくしゃになった紙を一枚すり抜いた。

 胸ポケットから高校生には不釣り合いな黒々と輝く万年筆を取り出し、棚に突っ伏した。

「啓仁も書けよ」

「いいよ。願い事ないし」

「なんだもったいない」

 稔は棚を削りそうな勢いで音を立てて、すぐに願い事を書き終えてしまった。ひとしきり眺めた後に、インクを乾かすためにひと吹きし、丁寧に折りたたんだ。

「神様でも大魔王様でもなさそうだな」

「たぶんな」

「こいつは人間の仕業だ」

 稔はそう言いながら、折りたたまれ、≪新入生歓迎イベント申込書≫の文字を堂々と表に掲げた紙を箱の中に入れた。箱の中で紙と紙が触れ合うような音がした。

「なあ啓仁」

 稔は啓仁に背を向けたまま続けた。

「ただの人間に、他人様の願い事を叶えられるのかな」

 稔のつぶやきは、廊下に響く管楽器の協奏にかき消され、啓仁にはよく聞き取れなかった。





 *





 あれは少しだけ前の話。卒業式からちょうど一週間後のことだった。


 来月には新たな春を迎える校舎は、誰のものでもなくなった教室を締め切り、暮れかかった寒空に、もの悲しさを添えていた。

 そんな校舎とグラウンドの間の歩道を、啓仁は一人で歩いていた。来学期の予定を生徒会顧問とすり合わせた後、用事があるという稔と別れて、昇降口を出たばかりだった。

 校舎とグラウンドとの境は小さな土手になっており、砂にまみれた階段には、運動部の女子マネージャーがアイスボックスやドリンクボトルを並べていた。三年生がいなくなっても、啓仁にとっては学校の景色は大して変わることはなかった。

 しかしこの日は、少し違った。

 何気なく遠い空を見ていたうちは、目の端に映った小さな違和感だった。それが見知った顔であると認識した途端、啓仁の胸が大きく弾んだ。それと同時に、左足を強い力で引っ張られた。足の甲に引きつるような痛みが走って、バランスを崩し、地面に手を突いてしまった。

 啓仁はすぐに状況を飲み込むことができなかったが、足元をよく見ると、左足のスニーカーの靴紐が解け、自身の右足でそれを踏んでいた。靴紐は千切れてしまっていた。

「だいじょうぶ」

 背後からの声に驚いて立ち上がると、数歩後ろに白い女の顔があった。

 音楽教師のユキだった。

「だいじょうぶです」

 言いながら、啓仁は左足を引きずって数歩よろめいた。

 ユキは手を差し伸べたが、届く前に啓仁は土手の端に尻をついてしまった。

「保健室まで、肩貸すよ」

「いいです。つまずいただけなので」

「でも…」

 啓仁はユキの方を見ずに、左足をさすってみた。

 痛みはなく、少し表面が擦れて熱を感じる程度だった。

「ほんとうに平気なの」

「はい。ほんとうに、ただつまずいただけなので」

 実際その通りで、何もないところで転んでしまったも同然だった。

 啓仁は誰からでも、怪我について必要以上に心配されると苛立ってしまうのだが、ユキがあまりにも心配そうに見つめてくるため、だんだんと恥ずかしさが勝って、啓仁は顔が熱くなるのがわかった。

「かっこ悪い」

 啓仁は、口の中で小さくつぶやいて、飲み込んだ。

「ん、なに」

 ユキは、耳を寄せるように、スカートの裾を抑えながら、啓仁の横に屈みこんだ。啓仁の目線の先には、サッカー部が練習する、グラウンドがあった。

 フィールドの中でひときわ声を張り上げ、周りを鼓舞するように果敢なプレーをする部員がいた。啓仁はその選手をよく知っていた。小学生の頃からずっと、彼の隣のポジションは啓仁のものだったからだ。昨年の春、啓仁が左足を怪我して退部するまでずっとそうだった。

「紺野、ポジション変わったんだ」

 ぼそりと言った啓仁の一言で、ユキは啓仁が誰を見ているのかを理解しただろう。サッカー部のキャプテンである紺野と啓仁は、一年生の時に同じクラスで、ユキはその副担任だった。

「そうなの?」

「先生、サッカーわかりますか」

「もちろん。球をみんなで、ゴールに入れるのよね」

「そ、そう…なんですけど…」

 啓仁は一通り、グラウンドを指さしながらサッカーのポジションについて淡々と説明した。紺野が後輩の強みを見出して、全体を見渡せるポジションに変わったことも話した。砂の上に書いたフィールドと、グラウンドを交互に見ながら、ユキは相槌をうって熱心に聞いているようだった。

「宗田くん」

 呼ばれてユキを見ると、ユキは満面の笑みで彼を見ていた。

 啓仁はしゃべりすぎたことに気付き、再び赤面した。

「あ、すみません、興味ないですよね」

「好きなんだね」

「え」

 啓仁は驚いて、ユキと真正面から目を合わせてしまった。

「サッカー、好きなんだね」

「え…ああ」

 啓仁は砂に書いた四角と丸を左足の靴底で撫でて消した。

 話すことに集中して、先ほどの痛みはもう消えていた。

「…そうですね」

 風が吹いて、俯いた啓仁の前髪を揺さぶった。

 その時まで啓仁は気付かなかったが、ユキは両肩をさすっていた。白いブラウスは薄く、彼女の腕が少し透けていた。

「…そろそろ、帰ります」

「ええ、そうね」

 ユキが先に立ち上がり、啓仁は急いで千切れた靴紐を穴に通して固く結んだ。

 すると目の前に、白く、細い手が啓仁に差し出された。

 啓仁は迷った末に、恐る恐る手を伸ばした。

 ユキの格子柄のスカートが、少し冷たい春の風に揺れていた。




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