もえいづる

藍田諸

第1話 手紙



 下校時間の昇降口は、世界の狭間だ。


 校舎の外からタイルに縦長の影が伸び、陽だまりと、汗と砂埃のにおいがする。

 ときおり薄桃色の花びらと共に、バットの金属音や、トランペットのスケールが風にのって入り込み、鼻先をくすぐった。

 廊下は薄暗く、張りつめた空気に、誰かの孤独なため息が聞こえてくるようだった。多くの生徒は、そんなふたつの異なる世界が隣り合っていることなど気にもかけず、この場所を足早に通り過ぎていくのだろう。

 啓仁ひろひとも例外ではなかった。

 下駄箱に寄りかかって外を眺めながら、廊下に友人の足音が響くのを待っていたこの十分ほどの間に、はじめて、この小さな夕刻世界の存在に触れた。しかし彼にとってそれは、部活も塾も彼女もない、埋まらない隙間を突きつけてくるだけだったため、啓仁はあくびをして、それらをすぐ眼の端に追いやってしまった。

 程なくして、二つの足音と言い合うような話し声が近づいてきた。啓仁はそれがすぐに、待っていた友人たちだとわかった。責めるような口調の女子生徒は真帆まほ。上履きをひきずりながら真帆をかわしている男子生徒はみのるだ。

「ごめんヒロ、お待たせ」

 真帆がしかめ面のまま、胸の前で小さな両手を合わせた。

 後ろから稔が、彼の顎よりも低い位置にある真帆の頭を鷲掴んでいた。

「もぉ真帆の便所が長くってえ」

 稔がわざとらしく語尾を伸ばし、真帆が鋭く睨みつけた。

「ヒロ、違うから、稔が生徒会室の鍵、かけ忘れたんだからね」

「いやいや、おれはてっきり、啓仁がかけたと思って」

「鍵は稔のポケットに入っていたでしょう。ちょっと手どけて。縮むっ」

 真帆が口を尖らせて、肩にかけていたラケットケースで稔の手を払いのけ、稔がそれを交わす様子を横目で見ながら、啓仁は二人のやり取りに口をはさむでもなく、自分の下駄箱へ向かった。三人ともクラスが違うため、下駄箱は離れている。

 立て替えたばかりの校舎と相反して、下駄箱は ” 下駄箱 ” と呼ばれるにふさわしい、木目が黒く浮き出たフタ付きの代物だった。小さな木のつまみを引いて持ち上げると、上方についている蝶番が鈍い音を立てる。

 啓仁はそこからスニーカーを取り出し、無造作にタイルの上に落とした。入学から二年愛用してきたスニーカーは、足によく馴染んでいるが、新調したばかりの靴紐は少し厄介だった。しゃがんで靴紐にとりかかっていると、稔が足を引きずりながら歩いてきて、啓仁の隣に腰を下ろした。

「どこか寄るだろ」

 稔はローファーの踵に指を突っ込んで言った。

「コンビニ行くか」

 啓仁は立ち上がり、学校指定のショルダーバックを肩にかけた。

「真帆は、この後部活だっけ」

 隣の列にいる真帆に、棚越しに声をかけた。

 その時、真帆のいる方から何か重たいものが落ちる音が聞こえた。

「真帆?」

 返事はなかった。

「おい真帆、便所なら置いていくぞ」

「やめとけ稔」

 啓仁は、ふざけ始めようとする稔を押しのけ、隣の棚を覗きこんだ。床には真帆の鞄と、ラケットケースが転がっていた。

 当の真帆は、少し背伸びをして靴を取り出す姿勢で停止していた。

「どうした、真帆」

「えっ」

 啓仁に声をかけられ、彼女は驚いて下駄箱のつまみを放してしまい、蓋が間抜けな空気の抜ける音を立てて閉まった。よく見ると彼女の手には、淡い色をした封筒があった。真帆は狼狽えて、ぎこちない視線を啓仁に向けた。

「なんだそれ」

 稔がいつの間にか啓仁の横に立っていた。

「これは、その、違うの」

 真帆の顔がみるみるうちに紅潮し、三人の視線は真帆の手元に集まった。

 それは明らかに、女子が授業中に交換している類のカラフルな手紙ではない、きちんとした無地の封筒だった。

「何でもないよ、ほんとに」

 真帆は慌てて落ちていた鞄とラケットケースを肩にかけ、その封筒を鞄の中に突っ込み、素早い動作で靴を取り出して履いた。

「じゃ私、部活いくから、また明日」

「お、おう」

 あっけにとられる啓仁の横を、俯きながら真帆は駆け抜けていった。煽られた花びらが、アスファルトの上で舞っていた。

「なんだあいつ」

 そう言って稔が先に歩き出した。

 昇降口を数歩出ると、まだ冷たい風が吹きすさんだ。フェンスの向こうでは、追い風は味方といわんばかりに、短パンの生徒たちがトラックを疾走している。啓仁は風にたなびく彼らの髪を目で追いかけながら、稔に話しかけた。

「意外だったな。真帆ってモテるのか」

 三人は今でこそ接点は生徒会活動だけとなったが、一年生のときは同じクラスだった。中でも稔と真帆は同じ中学の出身で付き合いが長い。稔が少しも顔色を変えなかったところを見ると、珍しいことではないのかもしれないと、啓仁は思った。

「誰がモテるって」

「真帆だよ。さっきの」

「え」

 振り返った稔は真顔だった。啓仁は予期せぬ稔の反応に、言葉を飲み込んでしまった。しかしすぐに、稔がまたふざけているのだと思って口元で笑った。

「稔も見ただろ。真帆が持っていた封筒」

 稔は、何のことだかさっぱりわからないと言わんばかりに首を傾げた。

「あれ、ラブレターだろ」

 風が吹きつけてフェンスがうるさく鳴った。





 *





 真帆から電話がかかってきたのは、数学の問題集を閉じた瞬間だった。


「遅くにごめん。今、大丈夫かな」

 啓仁は少なからず驚いていた。稔や真帆とは同じ生徒会役員で、以前は同じクラスだったが、学校を離れて個人的に連絡をとることはほとんどなかったからだ。

「いいよ。なに」

「その、今日の、帰るときのことだけど」

 電話越しに聞こえる真帆の声は、耳打ちするように小さかった。

「帰るときって…」

 啓仁は記憶を遡ったが、真っ先に出てきたのは稔がコンビニのアイスで当たりを引いたことと、アイスを二本食べた後に駅のトイレに駆け込んだことだった。

「手紙、もらったじゃない、私」

「思い出した。ラブレターか。すごいな、いまどきラブレターなんて。漫画みたい」

「ち、違うよ。あれはただの手紙で…でもやっぱりそう思ったよね、そう見えたよね。どうしよう。違うのに。本当に、ラブレターなんかじゃないよ。あれは、ただの手紙で。ううん、ただのっていうか、特別な手紙なんだけど、本当は、あの時ちゃんと話してればよかったんだけど…」

 弾かれたように真帆は勢いよくしゃべりだし、啓仁は閉口した。徐々にトーンダウンしていく真帆の声を聴きながら、啓仁は机の端に寄せていたマグカップを傾けて覗きこんだ。カップの底では、ココアの粉が乾燥していた。

「それで?」

 途切れがちになる真帆の言葉を、啓仁は背伸びをしながら促した。顔を上げると、壁時計が零時を越えていた。

「うんその…、稔も、誤解したかなって」

 啓仁はようやく合点がいった。火曜の深夜にわざわざ、啓仁に連絡する理由が真帆にはあったのだ。その手の話に縁のない啓仁から見ても、真帆の態度や視線は、あからさまに稔を意識しているからだ。

「ね、もし稔が、誤解していたらさ、その…」

「稔なら平気だろ」

 啓仁は、帰り道の稔の顔を思い出してひっそり苦笑した。

「真帆がラブレターもらったなんて、少しも考えてなかったよ、稔」

 夕暮れのグラウンドの横で、ラブレターと聞いた稔が、呆けたように啓仁の顔を見つめた後、「ありえない」と言っていたことを伝えた。

「真帆に限ってそれはないってさ」

「そ…、そっか」

「そうそう」

 稔がそのあと、盛大に笑い転げたことは言わなかった。

「それなら、いいんだ、ありがとう」

 真帆は歯切れ悪く答えた。異性の友人としてできる限りの気配りをした啓仁であったが、電話の向こう側で真帆がうなだれたことには気付けなかった。

「それで、手紙は誰からだった」

「え」

 真帆は驚いて、思わず声を上げた。

「あっ、悪い、ただの興味本位」

 啓仁は軽率に尋ねてしまったことに気付いて、素直に謝った。返ってきたのは、真帆の堪えるような笑い声だった。

「なんだよ、悪かったよ」

「ごめん、びっくりしちゃって。ヒロからそんなこと聞かれるなんて思わなかったよ。でも本当に、ラブレターとかじゃないんだ」

 これ程までに、真帆がラブレターを否定し続けることが引っかかった。確かに稔や真帆本人が言うように、それはラブレターではない可能性もあった。啓仁は、真帆が頬を赤らめて慌てた様子から、ラブレターをもらったのだと、勝手に思い込んでいたことに気付き、冷や汗をかいた。

「私も一瞬、ラブレターかと思ったけれど」

「どういうことだよ」

 混乱する啓仁の問いには答えず、真帆は声を強張らせて話し始めた。それはさながら都市伝説のストーリーテラーのように。

「…ヒロも知っているかもしれないけれど」

 機械越しに、真帆がごくりと喉を鳴らすのが伝わった。つられて啓仁も、少ない口の中の水分を飲み込んだ。


「お願いが叶う箱があってね」









 放課後、啓仁と稔は旧校舎の階段を昇っていた。


 現在授業で使用している教室のほとんどは、旧校舎の大部分を取り壊して建て替えられた新校舎にあり、旧校舎は一棟だけ部室棟として残されていた。打ちっぱなしの黒ずんだ壁が、冬は寒く夏は涼しいと評判だった。

 使っているのは文化部ばかり、三階には合唱部、二階には演劇部、一階には吹奏楽部と、旧校舎には常に賑やかな音が響いていた。

 二人は三階の一室の前で立ち止まった。

「たのもう!」

 稔が勢いよく引き戸を開けようとしたが、扉は5センチほどで止まってしまった。

 しかし鍵がかかっていなくとも簡単には開かないのが旧校舎の扉だ。指先に力を込めて、何とか人ひとり通る隙間を作るのが精いっぱいだったようだ。

 引きずって開けた戸の向こう側は、陽が沈み始めて薄暗かった。廊下に響く騒々しさと打って変わって、話し声の一つもしない。

 見回すと、元は一般教室だった為、背面にはロッカーや掃除用具入れもあるが、その前には机が重ね積まれており、教室の後ろ三分の一は未使用の備品で埋まっていた。前面にあるはずの黒板は、大きな木製の棚で塞がれていた。

「たのもう!」

 稔がもう一度声を張り上げた。

 所狭しと並べられた教員用の机で、黒縁メガネの男子生徒が一人、ノートパソコンのキーボードを叩いていた。

「何の用だ、生徒会長」

 青白く光ったメガネ越しに、男子生徒は稔と啓仁に一瞥をくれたが、彼の指が止まることはなかった。稔はお構いなしに大股で教室を横切り、ふんぞり返って、持っていたA4コピー用紙をメガネの目前に突き出した。

「よく聞け、陰険眼鏡。この書類を期日内に提出しろ。さもなくば今年度で新聞部は廃部だ」

 呼ばれた男子生徒は聖史きよふみ。啓仁と同じクラスの新聞部部長だ。

「おい、ヒロ」

 聖史は稔を一切見ずに、眉間に手を当ててメガネを持ち上げ、啓仁の方を向いた。

「こいつは何を言っている。職権乱用だろ」

「いや…それが確かに、今年新入生が入らなかったら、規則上そういうことになっちゃうんだよな。部の規定人数を割って一年経つし、せめて同好会の人数は満たさないと」

 啓仁は持っていた同じ用紙を差し出した。

「ほら、新歓イベントの申請書。明後日までに提出な」

 生徒会主催の新入生に向けた部活動紹介イベントは、入学式の三日後から始まる予定だ。聖史は用紙を受け取ると、鼻をならして息まいた。

「規定がなんだって。受験にしか興味のない学校が、まともに部活動を支援してるっていうのかよ。うちはちゃんと実績を出しているんだ。好きにやらせろ」

 詰め寄られた啓仁には、苦笑いしかできなかった。

「そう言うなよ」

 同じ文系クラスになって三年目の啓仁は、聖史の学業成績がトップクラスで、新聞コンクールに入賞したことも、当然ながら知っていた。

「俺たちも仕事だから」

「ふうん。仕事ね。それはご苦労なことだな」

 聖史は目を細めて啓仁の顔に見透かすような鋭い視線を突き刺した。いたたまれなくなって、啓仁はゆっくりと視線を逸らした。

「ふん。いいさ。後輩にやらせるから、そこに置いとけよ」

 聖史が冷ややかに言って、また液晶画面に向き直った。

「用件が済んだらさっさと出ていけ」

「悪い、邪魔したな」

「それと、片づけていけよ」

「え」

 聖史は顎で啓仁の背後を示した。

 振り返ると、稔が薄暗い教室の隅で紙の束を掴んで座り込んでいた。

「お前、大人しいと思ったら、何やってんだ」

「終わったか」

「それは?」

「古い新聞の原稿。これ見ろ。年号が昭和だ」

 稔は目的を忘れて、古い新聞記事を食い入るように見ていた。

 壁一面の棚には、過去に刊行した新聞の原稿やメモ、縮小版が束になって、いくつも並んだ棚の中で地層のように折り重なっていた。それを稔が強引に引き抜いたのだろう。棚の一部に抜き取った空間ができ、床には紙きれが散らばっていた。

 啓仁は小さく嘆息した後、黙って床に散らばった紙片を両手でかき集めた。その新聞の一部に ” 今月の占いコーナー ” という記事を見つけて、昨日の真帆の話を思い出した。

「そうだ聖史」

 紙片の方向を揃えながら、啓仁は聞いた。

「お願いが叶う箱、って知ってるか」

「生憎、七不思議やおまじないの類は取り扱わない。ゴシップにも興味ないから」

 間髪を入れず、突き放すように聖史は言った。

「うん…そうか。そうだよな」

 手に取った“占いコーナー”の記事は、十年以上前のものだった。

 何気なく自分の星座を目で追いかけていると、背後から聖史の小さな笑い声が聞こえた。

「しかし、ヒロがそんなことに興味あるなんてな」

「それって嫌味?」

「そうだな。最上級の嫌味だ」

 聖史に断言され、啓仁は言葉に詰まってしまった。

 以前からこのように、聖史は啓仁に対して邪険な態度を隠さないことがあった。少しでも反論しようものなら、何倍もの反証が返ってくる為、啓仁は虫の居所が悪いのだと決め込んでやり過ごすことにしていた。

「ヒロもその箱にお願いしてみるといい。彼女ができますように、とか。大学に受かりますようにとか。そういうくだらんことをさ」

「おい、啓仁」

 稔が突然立ち上がり、持っていた紙の束を棚に押し込みながら言った。

「新聞部に部員が入りますように、ってお願いしてやれよ」

「俺が?」

「ほら、残念ながら俺は会長だから、一つの部に肩入れできないだろう。聖史、部員が入ったら啓仁に感謝しろよ」

 稔はにやりと笑いながら啓仁の肩に肘を置き、聖史を指さした。

「ふん、けれど、もしその願いが叶ったというなら、その時は証拠を持って来いよ」

「証拠って、そんなものあるかよ」

 稔が口を尖らせた。

「あるさ。その話には続きがあるんだ。その箱に入れた願い事が叶うとき…」

 聖史はゆっくりと事務椅子を回転させて向き直り、両手を組んだ。稔は大げさに後ずさりした。


「願った本人に、手紙が届くらしい」







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