第十話 宴のおわりとはじまり
浮田記念病院の入り口に向井水がタクシーで到着すると、恵里菜がすでに待っていた。
「向井水部長、出先からわざわざお呼びだてして申し訳ありません。稔さんが最初に部長さんとお話ししたいと言ったものですから」
「意識は完全に戻りましたか?」
「はい」
「それは本当に良かった」
向井水は歩きながら黒いネクタイを外し、恵里菜に案内されて神尾の病室に入ると、点滴を受けている神尾が向井水の方に首を向けた。
「部長、ご心配かけました」
「元気そうで良かった」
「選挙はどうなりましたか?」
「お前は選挙区で負けて、比例区でも復活できなかった。撃たれたあと同情票が思ったより伸びたから惜敗率が上がって最終確定したのは午前三時過ぎだった。北関東比例ブロックで次点だった。党は四議席の減少で惨敗はしなかったものの、相変わらず単独過半数にはまったく届かん。あとは田中恭司がどう出るかだ」
「危うく私は当選するところだったのですね」
「ああ、お前の希望通りの落選だ」
「選挙の後始末は?」
「心配するな。昨日俺が地元に行って全部片付けてきた。お前が元気になったら県連の幹事長のところへ挨拶に行けば終わりだ」
「すみません」
「それにしてもトシオちゃんは役立たずで……」
神尾は苦笑いした。
「そう言うな。縣さんはお前が死んだら辞表を提出するつもりだった。あばら骨四本骨折、それに脳しんとう、右足首のねんざ、それと全身打撲の状態で党首を安全な場所まで連れて行ったのだから大したもんだ。縣さんも犯人が最初にSPを狙うとは思っていなかったのだろう。ちなみに捕まった男はお前を電話で脅迫したヤツだった」
「犯人の動機は? それにどうして熊本党首の遊説日程がわかったのですか?」
「動機はまだわからん。日程は……お前が電話で名乗っただろう? その名前を立候補者名簿で見て群馬県連に問い合わせたらしい。その時に選対事務所のアルバイトがうっかり熊本党首が来る日を言ってしまったと聞いた。それともう一人党首を脅迫していたヤツがわかった」
「二人もいたんですか?」
「ああ。二人目は藤巻だ」
「え! 藤巻って組織対策局の藤巻さん?」
「そうだ。何でもタバコの恨みで党首に脅迫状を送ったらしい」
「頭悪すぎだ。それで処分は?」
「実害が無いから党首にも穏便に処分してくれと言われた」
「穏便……ですか?」
「ああ。だから俺が急遽『民民党三十年史編集室』を作ってそこの終身室長をやってもらうことにした」
「他には誰がその部屋に行くのですか?」
「藤巻には一からひとりで全部やってもらう」
「ひどい話ですね」
神尾は笑いながらハッとして向井水の服装を見た。
「部長、その礼服ははひょっとして……」
「……」
「出先から戻ってきたと言うのは、まさかジジイが……」
「投票日の翌日未明に亡くなった。今日が告別式だ」
「そうですか。だったら……」
神尾は起き上がろうとしたのを向井水が制した。
「神尾、いいからそのままでいろ。お前が行っても周囲に気を遣わせるだけだ」
神尾はベッドに再び横になって天井を見た。
「ジジイは選挙結果を見たんですかね?」
「わからん。死亡推定時刻は午前三時の前後一時間で、選挙結果の確定報道は午前三時頃だった。自分で持ち込んだテレビはついたままだったそうだ」
「それじゃ見たかどうかわかりませんね」
「結果を知った方が良かったのか、知らなかった方が良かったのかは何とも言えん。だが国会議員として最後まで国民のために働いたと思う」
「これから私はどうすればいいですか?」
「怪我が完全に治るまで入院していろ。それと昨日付で復職させておいた」
「ありがとうございます」
「そろそろ告別式に戻らないとダメだ。また来るからな」
「はい」
向井水は部屋を出ると足早でエレベーターに向かった。
翌週、神尾は選挙期間を含めて約一ヶ月ぶりに情報分析室に出勤した。
「鉄さん、ご心配おかけました」
「もう大丈夫なのか?」
「普通に動けるのであとは通院で大丈夫みたいです。イワシ君、俺の代わりは務まった?」
「完璧でしたよ。ただ選挙期間中の食事係には参りました」
「まったくみんな大人げないだろう? 飯のことくらいで大げんかするし」
「でも投票日はみんな残念がっていましたよ。結果が確定するまで、ほとんどの人が明け方まで残っていました」
「当選すれば民民党史上初めての職員出身の国会議員だったからな」
「今日から普通の業務に戻るのですか?」
「二三日は挨拶回りかな。落選した議員の部屋への挨拶もする必要があるし」
神尾は荷物を自分の机の上に置いて片付け始めた。
「神尾君、縣さんとは話したか?」
「いいえ、撃たれて気を失う前に話したのが最後です」
「だったら今、役員室に党首が来ているから行ってきたらどうだ?」
「あ、そうですね。わかりました」
神尾は部屋を出ると役員室に向かった。役員室前の廊下には報道陣がごった返していた。神尾が『これより先は立ち入りご遠慮ください』の看板を通過して、いつものように役員室前の会議室に待機している縣の部屋に行こうとしたところ、後ろから女性の声がかかった。
「そこの議員になり損ねた人!」
神尾が面倒くさそうに振り向くと洋子・アンダーソンが立っていた。
「なんですか? 安藤さん」
「なんですかとはひどいわね。今日から出勤なの?」
「ええ」
「良かったわね。死ななくて」
「はい。でも労災は下りないって言われましたよ」
「なーんだ。おごってもらおうと思ったのに」
「それより、この混雑は何ですか?」
「熊本党首が田中恭司のグループと連立するかどうかの会議を今やっているところ。近いうち恵里菜と一緒にご飯食べない?」
「いいですね。またあとで連絡します」
神尾は振り返って歩き出すと会議室の開いているドアから中をのぞき込んだ。
「トシオちゃん、元気?」
縣は仏頂面で答えた。
「そこにいると廊下が見えん。中に入ってくれ」
神尾が中に入ると縣は立ち上がって神尾に深々と頭を下げた。
「神尾、俺がついていながらすまなかった……」
「やめてよ、トシオちゃん。トシオちゃんが守るのはホルヘっちで、俺じゃ無いって。部長から聞いたよ、俺が死んだら辞表出すつもりだったんだって?」
縣は頭を上げた
「まあな……」
「俺も死ななかったし、ホルヘっちも無事だったし、それでいいじゃないの。でもトシオちゃんはあばら骨が折れているんじゃなかったっけ?」
「テーピングで固定しているから大丈夫だ。動きが二割近く遅くなるけど十分対応できる」
「じゃあ全員が無事で良かったってことで。またよろしくね」
神尾は右手を縣に差し出し、縣も右手を出して握手した。
「トシオちゃん、そんな簡単にSPが他人に利き手を預けていいの?」
神尾はニヤリと笑った。
「普段は絶対にやらんがな。それに右肩にしびれがまだ残っているから拳銃は右手ではうまく撃てんのだよ」
縣もニヤリと笑って握手をしたまま左手でスーツの裾をめくって見せると、左の腰に拳銃が吊されていた。
「左でも撃てるの?」
「アメリカのFBIの捜査官と同じで左右両方で撃てるように訓練を受けているのさ。左は右と比べて命中率が一割落ちるが」
「ふーん。格好いいじゃない。じゃあまたあとで」
神尾は会議室から出て行った。
その日の午後、神尾は議員会館回りをしていた。衆議院議員会館の廊下には落選議員の段ボールに入った荷物が積まれ、すでに引き払って事務所が空になっている部屋もあった。神尾は権田事務所の開いているドアをノックして顔を出した。
「どうも、色々とお騒がせした本部の神尾です」
奥の議員室で片付けをしていた諸橋理香子が出てきた。
「あら、もう良くなったの?」
「理香子さんにしては珍しい優しいお言葉をありがとうございます」
「うるさいわね」
「先生は?」
「茅ヶ崎の浜辺に珍しい深海魚が打ち上げられたと聞いて見に行ったわ」
「相変わらずですね。でも先生の今回の選挙は結構危なかったですね」
「まあね。あなたにもらった資料が結構役に立ったのでありがたかったわ」
「それは良かったです」
「本部はどうなの? 職員の削減を検討しているとか聞いたわよ」
「まだ私は聞いてませんが、あり得る話ですね」
「あれ? 人ごとみたいな言い方ね。さすがお金持ちの彼女を持つと変わるものね」
「い、いや。また来ます。では先生によろしく」
神尾は余計な詮索をされないように権田事務所を後にすると、今度は参議院議員会館に入っていった。『石渡武士』と書いてあるネームプレートの部屋をノックした。
「どうぞ」
中から福田の声がした。ドアを開けて中に入ると福田が荷物をまとめていた手を休め、冷蔵庫から缶コーヒーを二本出した。
「神尾君、大変だったね。もう大丈夫なの?」
「おかげさまで普通に生活できるまでに回復しました」
「僕が見舞いに行ったのを覚えてる?」
「え! まったく覚えていません」
「まだ麻酔が効いていたのか、君は虚ろな目でこっちを見ただけだったからなぁ」
「完全に意識が戻ったのは三日後でしたから。それはそうと石渡先生の補選に出られるそうですね?」
「ああ。石渡は僕を後継者にしたかったみたいでね。最初は断っていたんだけど、こうなったら僕が出るしか無いと思ったんだ。急遽立てた候補者じゃ議員の遺志は継げないし」
「そうですか……では次に会う時は福田参議院議員になるかも知れませんね」
「それはわからない。選挙なんて水物だから。でもそうなるように努力するよ」
「今日は選挙のお礼ということで回っていますので、また近々に寄らせていただきます。まだしばらくいらっしゃいますよね?」
「ああ。今週いっぱいはここにいられるらしい」
「ではまた」
神尾は石渡の事務所をあとにした。神尾が出て行ったすぐあとに、再びドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
福田がドアを開けると、衆議院解散のきっかけとなった元防衛庁長官の藤原隆茂が立っていた。福田はまったく予想していなかった訪問者に戸惑った。
「藤原先生……散らかっていますがどうぞお入りください」
「失礼します」
福田は散らかっている部屋のソファに藤原を案内するとお茶を出した。
「石渡が入院したとき、先生が真っ先に駆けつけて骨髄の提供を申し出てくださったことに石渡は大変感謝していました」
「あのときはあれぐらいしか思いつかなかったものですから」
「で、先生。今日はどんなご用件でしょう? 連立の関係でしたら私は何もお手伝いできることが無いのですが」
「いいえ、今日は石渡先生の追悼演説の件で伺いました」
「とおっしゃいますと?」
「私に追悼演説をさせていただけないかと思いまして」
「それは大変ありがたいお話です。そのことはまだ決まっていませんし、民民党の議員である必要は無いと聞いています」
「ありがとうございます。こんな形でしか恩返しができないのですが」
「ではその件に関しましてはまたご連絡させていただきます」
「よろしくお願いいたします。どうもごちそうさまでした」
藤原はお茶を置くと一礼して部屋を出て行った。
竿の滴のカウンター席では向井水と根来が並んで酒を飲んでいた。根来がおつまみを食べながらつぶやいた。
「結局連立することになったわけだな」
「ああ」
「来週の特別国会で熊本党首が首班指名されて首相になるわけか、そりゃびっくりだな」
「あとは大臣のポストだが、今のところ権田正三が環境大臣あたりで決まりそうだ」
「まさか、いきなり連立で与党になるとは思わなかった」
「今年は色々あるな。神尾は死にそうになるし……」
「藤巻は馬鹿をやるし……」
「まったくだ」
「本部職員から出す大臣に付ける秘書官はどうする?」
「まだ何も決まっていない。だが人材不足で派閥がどうの言っていられない。内閣人事が決まったらすぐに取りかからねばならん」
「それなら向井水、神尾を秘書官で出せないか?」
「誰の?」
「党首でも誰でも」
「んー、ヤツには労災も下りていないし、肩書きくらい付けてやるか」
「履歴書に『大臣秘書官』って書いてあれば何かの時に有利になるだろう」
「考えておこう」
数日後、情報分析室のドアからいつものように向井水が入ってきた。
「神尾、昼飯おごってやるからこれから赤坂で食べないか?」
「部長……突然何ですか?」
「おごってやるのに文句があるのか?」
「部長がおごると言う時はロクでもない話が多いものですから」
「そんなことは無い。なあ鰯田?」
鰯田は下を向いたまま何も答えなかった。
「ほら、イワシ君だって懲りているんですよ」
「じゃあ仕方が無いな、業務命令として俺と一緒に赤坂で昼飯を食え」
「わかりました」
神尾は渋々立ち上がると向井水と一緒に本部を出て赤坂に行き、高級中華料理屋に入った。
「部長、こんな高級な中華料理をおごるなんて話はもの凄く嫌な予感がするのですが」
「そんな悪い話じゃないから安心しろ」
二人が席に案内されると、神尾は面倒くさそうにメニューを見てすぐテーブルに置いた。
「とりあえず北京ダックとフカヒレスープは外せないので……あとは部長にお任せします」
「何だか最近お前は舌が肥えていないか?」
「退院したあと、恵里菜が精を付けるとか言って毎日豪勢な世界の料理を食べさせられ、まるでローマ貴族のような生活を送らされましたから」
「ほお、うらやましい話だ」
「部長、面倒なので先に用件をお願いします」
「わかった。単刀直入に言うが、環境大臣の秘書官として環境省に出向してくれ」
「は? 私がですか?」
「そうだ」
「ちなみに誰が環境大臣になる予定ですか?」
「権田正三だ」
「その秘書官とやらは私で務まる仕事なのですか?」
「問題無い。当面は環境省から一人、そして本部からお前の二人体制になると思う」
「で、給料は高いのですか?」
「本部より少し高くなると思う。ただし秘書官になる場合は、一時的に退職してもらうがな」
「また退職ですか!」
「仕方あるまい。秘書官は国家公務員だからな。基本的に兼職は無理だ。要は本部と環境省の連絡係みたいなものだ。お前の判断を必要とするものは何一つ無い。そして履歴書に『環境大臣秘書官』と書くことができる」
「部長、二三日考えさせてもらえますか?」
「構わんよ。組閣が終わるまでに答えをもらえればいい」
ウエイトレスが北京ダックとフカヒレスープを運んできた。
その日の晩、神尾と恵里菜と洋子・アンダーソンは銀座のフレンチレストランで食事をしていた。
「稔さん、あまり食欲が無いみたいね。まだ傷口が痛むの?」
「いや、そうじゃない」
「じゃあ何なの?」
「昼間がこってりした高級中華料理だったもんだから……」
「だったらフレンチで問題無いでしょう?」
「そうじゃ無くて、そろそろ定食屋で食べてみたいんだけど」
「だって稔さんの怪我は完治しているのに、夜が全然ダメなのはきっと食べ物が……」
洋子・アンダーソンが割って入った。
「恵里菜、男はあなたが思うほど単純な構造になっていないのよ。精神的なものだってあるし、わかってやりなさいよ」
恵里菜は不機嫌そうにワインを一気飲みした。
「わかったわ。でも明日の伯父さんの検診では元気が出るように、にんにく注射をダブルで打ってもらうように頼んでおいたから」
それを聞いた神尾はうなだれた。
「で、神尾君、さっきの秘書官の話はどうするの?」
「どうしようかと考えているところです。安藤さんはどう思います?」
「受けても悪くは無いとは思うけど、内閣改造とか長官が辞任するとまた職員に逆戻りよね。下手をすると一年持たないかも」
「結局職員に戻ってしまうのですよね。もうジジイが死んでから職員として働くモチベーションが下がってしまって……」
「恵里菜はどうなの?」
「父親には稔さんは選挙が終わったら仕事を辞めるって話してあるわ。一応すぐに受け入れられるように用意はしてあるみたい。別に一年くらい遅れたところで問題は無いけど。ちなみに『環境大臣秘書官』の経歴は、父親の事業にはあっても無くても同じ」
「どうしようかな……部長の顔も立てた方が良い気がするし」
「稔さん、いつ辞めても同じは同じだと思うけど、父親は稔さんの就職祝いでペラッツィとか言う銃を買ってあげるとか言っていたわ」
「え! ペラッツィなの? そんな高価な銃を?」
「父親が知り合いに聞いたらそれが良い銃って言われたみたい。それってアメリカ製?」
「イタリア製よ、恵里菜。イタリアも射撃競技が有名なのよ。ベニートの父親も競技用の散弾銃を持っていたわ。神尾君、それっていくらなの?」
「日本で買うと新品で百五十万円くらいです。初心者が持つような銃じゃありません」
「自動車免許を取って最初に乗る車がフェラーリみたいなものね」
「おっしゃる通りです」
「民民党を辞めればそれがすぐに手に入ると言うわけね」
「ペラッツィか……」
神尾はフォークを置いて上目遣いで恵里菜を見た。
翌々日、神尾は向井水の席にやってきた。
「部長、秘書官の件で……」
「ちょっと待て、向こうの会議室に行こう」
二人は誰も居ない会議室に移動した。
「で、どうする?」
「順番としましては秘書官の件は辞退させていただきます」
「そうか……ん? 順番とは?」
「そしてこれは辞職願です」
神尾は辞職願をテーブルの上に置いて向井水の方に押し出した。
「秘書官を辞退するなら辞職する必要は無いが」
「いいえ、本部を辞めるという意味です」
「そうか……まあ理由は聞かないが」
その時向井水の携帯電話が鳴り、向井水は発信元を確認した。
「神尾、ちょっとスマン……」
向井水は難しそうな顔をして電話に出ると部屋を出て、しばらくすると戻って来た。
「神尾、済まなかった。それで退職の話だが……」
「以前から考えていたことなので、今回の選挙での出来事は関係ありません」
向井水はテーブルの上の辞職願を受け取らずに神尾に押し戻した。
「この週末、もう一度良く考えてから来週の月曜日に答えをくれないか?」
「部長にしては珍しいですね。素直に受け取って貰えると思っていましたが。では、また月曜日に」
「午前中はバタバタしているので、できれば午後三時頃に頼む」
「わかりました」
神尾は渋々と辞職願を背広の内ポケットに戻した。
月曜日の午後三時の少し前、神尾は再び向井水の席の前に立った。
「部長、辞職願の件ですが」
「考えは変わらないか?」
「変わりません」
「説得もできないか?」
「できません」
「では仕方が無い。辞職願を受け取ろう」
神尾は背広の内ポケットから辞職願を出して向井水に渡した。
「部長、長い間お世話になりました。引き継ぎは二週間以内に済ませます」
神尾が深々と礼をして踵を返そうとすると向井水が呼び止めた。
「神尾、待て」
「まだ何かありますか?」
「ちょっとこれを見てくれ」
向井水はテレビのリモコンを操作して、向井水の背後にあるテレビを点けた。
――三時のニュースをお知らせします。先の衆議院選の北関東ブロックで当選した民民党衆議院議員、
神尾は口を開けたまま放心状態になって画面を見つめていた。屋代をはじめとした部屋にいた職員からは、神尾に向けて拍手が送られた。
「鉢光男の辞職願は明日提出され、即日受理される」
「部長……先週の時点でこのことを知っていたのですね?」
「先週お前が辞職願を出した時、かかってきた電話がこの件だった。以前から鉢光男には買収疑惑があって、野党だったら多少大目に見るところだが政権与党となったらそうはいかない。今回は悪質で言い逃れができそうもなかったから俺が引導を渡した」
「だから私の辞職願の受け取りを今日まで引っ張ったのですね?」
「まあ軽めの嫌がらせだ」
「相当きつい嫌がらせに思えるのですが」
「お前の気のせいだ。どうする? この話受けるのか?」
「受けるも何も、投票で選ばれた国会議員に選択の余地などあるはずが……」
神尾は放心状態のまま部屋から出て行った。
参議院本会議場には参議院議長の声が響き渡った。
――次に藤原隆茂君から発言を求められております。発言を許可します……藤原隆茂君!
黒いネクタイを締めた藤原隆茂は席を立つと壇上に上がり、一礼をした。
「本院議員、石渡武士先生は平成十七年七月二十五日、急性骨髄性白血病のため逝去されました。享年七十五歳でした。ここに慎んで哀悼の言葉を述べさせていただきます。石渡先生は昭和五年、東京都にお生まれになりました……」
議場にいる参議院議員は静かに藤原の演説を聴いていた。
「今でも思い出されるのは数年前、私が保守自由党の国対を担当していた時でした。当時、農業を守る立場であった我が党の代表として私は石渡先生とお話をしました……」
数年前、石渡と藤原は赤坂の料亭の一室で真剣な顔で対峙していた。
「石渡先生、お呼びだてして申し訳ありません」
「まあ話の内容はおおよそ見当はついていますが」
「それでは単刀直入に申し上げます。来週提出する我が党の修正案を参議院で通していただけないでしょうか?」
「あなたもご存じでしょうが、その修正案では日本の農業を恒久的に救うことはできません」
「承知していますが日本の農業は瀕死の状態です。何が何でも守る必要があるのです」
「それはあなたがた保守自由党が長年にわたって農業従事者を守ってきたからでしょう」
「それも承知の上です。行くも地獄、引くも地獄ですが、今回は行かなければならないのです」
「ではお尋ねしますが、あなたはどの程度の覚悟を持って臨むつもりですか?」
「覚悟……とおっしゃりますと?」
「例えば議員生命を賭けてこの法案を通すつもりとか?」
藤原は一瞬躊躇をして表情を曇らせたが、大きく深呼吸をして答えた。
「生命を賭けても通すつもりです」
「生命ですか……随分大きく出られましたな」
藤原は石渡の目をまっすぐ見た。石渡もその目をまっすぐ見返した。
「わかりました。ではあなたの生命と引き替えに法案に賛成しましょう」
石渡は簡単にそう言うと、自分のバッグの中から鞘に入った短刀を出して藤原の前に置いた。藤原は突然のことに短刀を見て生唾を飲んだ。
「あなたがこの場で命を絶つと言うなら私が必ず法案を通します。そしてその後、あなたのあとを追います。道連れがこんなジジイで申し訳ありませんが」
壇上の藤原は思い出すように本会議場の天井を見上げた。
「当時、私は法案を通すために精神的に追い詰められ、しかも自分の言葉がこのような形で返ってくるとは思いもせず、引くに引けない状態になっていました……」
藤原はテーブルの短刀を凝視していた。
「石渡先生、本当に通していただけるのですね?」
「二言はありません」
それを聞いた藤原は意を決して短刀を握ると柄を持ち、鞘から一気に引き抜いた。
「石渡先生……これは……」
藤原は刃が木製の短刀を呆然と見つめてテーブルに置いた。
「藤原先生、世の中の皆さんは命を賭けるなどと簡単におっしゃるのですが、実際に命を賭けた人など見たことがありません。あなたは違ったようですね」
石渡は笑ってテーブルの上の木製の短刀を鞘に元に戻すとバッグにしまった。
「お約束したとおり参議院の民民党は私がまとめて提出された法案に賛成させます。多少の条件は付くかもしれませんが」
「しかし……」
藤原は戸惑った。
「あなたの覚悟は理解しました。それで十分です。本気で死ぬ覚悟をしないとわからないことが世の中にはあります。これもその一つの例です。あなたは死ぬ気になったから短刀に刃が無いことがわかったのです」
藤原は震える手で自分の茶碗にお茶を注ぐと一気に飲み干した。
「藤原先生、その短刀を実際に抜いた人はあなたで二人目です。他の人は皆、短刀を見た時点で怖じ気づきました」
「ちなみに一人目はどなたですか?」
「うちの熊本です」
「そうだったのですか……」
「藤原先生、私は近い将来この国には変革が訪れると思っています。それはあらゆる分野に及び、政治の世界も変革を避けられなくなるでしょう。その時はあなたたちのような若い人々が先頭に立ち、命を捨てる覚悟で国民を救い、この国の将来のための礎を築いて欲しいのです。恐らくここ五十年以上続いてきた政治の環境も激変するでしょう。与党も野党も協力して国の難局を乗り越えなければいけない状態が生まれるかも知れません」
「しかし私にそれができるかどうか……」
「あなたならできます。現にこうして命がけで野党の協力を得ることに成功したのですから」
壇上の藤原は手元の紙を置いて正面を向いた。
「石渡先生がおっしゃった通り日本には今、変革の波が押し寄せています。政治はもちろん経済に至るまで今までの常識が通用しなくなっています。皆で力を合わせてこの難局を乗り越えろと石渡先生はおっしゃいました。私たち政治家はもう一度原点に戻り、この国を立ち直らせるために仕事をしなければなりません。そして私はその先頭に立つ覚悟であります。石渡先生、長きに渡りこの国のために尽力していただき大変ありがとうございました。ここに石渡先生のご冥福をお祈りし、参議院議員を代表してお別れの言葉とさせていただきます」
神尾は恵里菜の実家のリビングルームで、恵里菜を始めとした数人の人々に囲まれていた。周囲には新品のスーツや靴などが散らかっていた。恵里菜はソファの上にある数本のネクタイの一本を指さした。
「そうねぇ……やっぱりレジメンタルじゃ模様が面白くないからこちらにするわ。田中さん、それってフランスのシャルベよね?」
「はい」
「政治家だからやっぱりシャルベにしましょう。あとイタリアのマリネッラとフランコ ミヌッチも今度持ってきてください。シャツもシャルベでお願いするわ。基本は白で十枚。白蝶貝のボタンで胸ポケットは付けないでください」
「承知いたしました」
「スーツはイタリアの既製品でいいわ。シングルでフロントは二つボタンでサイドベント、ラペルは太目でゴージラインは高め、ドロップはセブンできればエイト。春夏五着づつは必要ね。紺とグレーがそれぞれ一着とストライプが一着、あとはお任せするわ。コートは春秋用が一着、冬用が一着。冬用は濃いめのキャメルのカシミアで細めのシェイプでお願いします。ベルトは黒のクロコが一本と、エルメスのHベルトも黒とブラウンの組み合わせで追加してください」
神尾は恵里菜の言う単語の意味がまったくわからず立ちつくしていた。そんな神尾を無視して恵里菜は続けた。
「靴は……稔さんはトリプルEだった?」
「その単語ならわかる……そう、トリプルEで二十六センチ」
「そうなるとイタリアのドレッシーな靴は長時間は無理かも知れないわね、田中さん?」
「そうですね、どうしてもドレッシーな靴となりますとマッケイで木型が細くなりますから……やはりイギリス製のグッドイヤーの方が長時間履くのには適していると思います」
「じゃあイギリスにしましょう。ジョン ロブとかエドワード グリーンで構わないから、黒のレースアップでプレーントゥとストレートチップをそれぞれ一足、茶色のプレーントゥを一足、あと黒のショートブーツは必須ね」
「必須とおっしゃいますと?」
「葬儀なのよ。特に冬の葬儀は外で待つことがあるから。それで雨とか雪が降ると大変なの。だから靴底はダイナイトソールでお願いするわ。葬儀で思い出しました。喪服も一着お願いします。これは別に普通のもので構いません。あ、念のためタキシードもピークドラペルのイタリアンスタイルで揃えてください」
「承知いたしました」
「今の仕様で明日もう一度お願いできるかしら? 初登院まで時間があまりないので」
「かしこまりました。また今日と同じ時間でよろしいでしょうか?」
「ええ、それでお願いします」
田中たちは服を手早く片付けると部屋から出て行った。
「初登院は来週の月曜日だから何とか間に合うわね」
「恵里菜、今の人たちが噂で聞くデパートの外商?」
「そうよ。家に良く来るわ」
「でも良かった。スーツをオーダーするとか言ったらどうしようかと思った。既製品なら十万円くらいで買えるの?」
「十万円じゃ無理。最低二十万円から。それと私たちが頼むオーダースーツは、仮縫いで現地に最低でも二回行く必要があるから初登院には間に合わないわ」
「現地って?」
「イタリアとかフランス」
「……」
「ちなみに支払いは私が立て替えておくわ。あなたの歳費が出たときに……あ、多分足らないから期末手当が出てからでもいいわ」
「国会議員の歳費じゃ足りませんか……はい、わかりました」
「あ、腕時計を忘れたわ」
「いいよ、別に無しでも」
「良くないわ。ちょっと待ってて」
恵里菜は部屋を出ていくとすぐに箱を抱えて戻ってきた。
「この中に父親の時計コレクションがあるから、どれでも好きなのを選んで」
箱を開けると中には高級そうな腕時計が二十本ほど綺麗に並んでいた。神尾はできるだけシンプルな腕時計を選ぶと恵里菜に見せた。
「これで……いいかな?」
「偶然とは言えセンスは悪くないわね。でもベルトが革で夏は汗で汚れるから、夏には別の腕時計が必要になるけど」
「ちなみにこれは何と言う時計でお幾らくらいですか?」
「パテックフィリップのカラトラバで二百万円ってところ。でもこの時計は普段使いにはあまり向かないから、こっちのノーチラスを使えばいいわ」
「……そのノーチラスとか言う時計は?」
「四百万円くらいだったかしら」
神尾は軽い目眩を覚えて肩を落とした。
向井水は衆議院第二議員会館六階にある神尾稔の事務所のドアをノックした。
「はい……どうぞ」
向井水は部屋の中に入った。部屋の中には胡蝶蘭をはじめとしたお祝いの花がところ狭しと並んでいた。
「神尾衆議院議員、初登院おめでとうございます」
「ありがとうございます。向井水部長」
「ほぉ、国会議員になるとそれなりの服装になるんだな」
向井水は神尾の服装を上から下まで見た。
「全部恵里菜の見立てです。一式揃えたら一ヶ月分の歳費じゃ足りませんでした。すでに期末手当から引かれることになっています」
「百三十万円で足らないのか?」
「靴が四足で五十万円とか、スーツが五着で百万円とか、めまいがしました」
「うらやましい話だ。ちなみに秘書は決まったか?」
「とりあえず民民党の秘書会から履歴書はもらってきました」
神尾は机の上の履歴書の束を指さした。
「あと今朝、売り込みの電話が三人ほどありました」
「お前の彼女は?」
「二十四時間一緒にいたら絶対喧嘩することになるから、私の秘書にはなりたくないそうです。とりあえず専業主婦をやるとか言ってました」
「そうか、じゃあ秘書を探さないとな」
「良い人が見つからなかったら最悪、アルバイトでも雇って何とか回そうかとも思うのですが」
「それはダメだ。お前は選挙区で立候補した国会議員だ。選挙区で立候補した議員の事務所はそれなりの秘書を置く必要がある。お前も議員会館回りをしていたから知っているだろうが、選挙区で強い国会議員の部屋には有能な秘書が常駐している。アルバイトのみだったり、議員会館の事務所が留守番電話だったり、俺たちが訪ねても毎回違う秘書が対応する事務所の議員にロクなのがいないのは知っているだろう」
「はい、それは」
「だから俺がとびっきり有能な秘書を連れてくる。俺からの当選祝いとしてな」
「でしたらできれば若い女性は避けていただきたいのです。結婚を控えているもので」
「わかっている。同年代の男もやりにくいだろうから避ける。性別は不問で四十歳前後で探してくる」
「そんなに簡単に優秀な人が見つかるのですか?」
「大丈夫だ。二週間以内に手配をしておく。それと雑用係が必要だろうから、明日からしばらく鰯田をここに派遣することにした」
「ありがとうございます」
「それと神尾……今日からお前は税金から給料をもらう国会議員だ。きちんと国のために働いてくれ。これから多くの人間がお前に頭を下げにやってくる。衛視だって敬礼してくれる。でも自分が偉くなったと勘違いするなよ。彼らが頭を下げたり、敬礼しているのはその胸に付けている議員バッジであってお前では無い。そしてお前はもう俺の部下でも何でもない。国会議員として意見があるなら俺の考えに反対しても構わないし、ときには衝突もすることもあるだろう。自分で正しいと思うことは必ず貫いて欲しい。これは亡き石渡参議院議員の遺志でもある。ということで今日からよろしくお願いいたします、神尾先生」
向井水は右手を差し、神尾もその右手を握った。
「こちらこそよろしくお願いいたします。向井水部長」
民民党本部の情報分析室では根来と鰯田がヒマそうにコーヒーを飲んでいた。
「室長、ヒマですね……」
「ああ、ヒマだ」
「だいたい誰が言い出したのですか、民民党本部と新自生党の本部のサーバーをWANで接続しようなんて」
「田中恭司らしい」
「何か『新自生党』って名前はその辺に自生している草みたいな感じですよね……」
「まったくだ」
「WANが接続されないとデータベースの更新ができませんよ」
そこに向井水が入ってきた。
「鰯田、ヒマだろう?」
「はい。ヒマです」
「今からしばらく神尾の部屋を手伝ってやってくれ」
「わかりました。部屋の片付けですか?」
「その通りだ。朝の出勤は議員会館に直接行ってくれ」
「了解しました。行ってきます」
鰯田は上着を着ると議員会館に向かった。向井水はコーヒーメーカーからコーヒーを入れて神尾の席に座った。
「根来、まさかこんな形で神尾がいなくなる日が来るとは思わなかった」
「俺もだ」
「どちらにしろ神尾は本部を辞めるつもりだったから同じことなんだが」
「まあ、でも最高の形で辞められたと思う」
「確かにな。それで人員はどうする? 鰯田一人でここは回るか?」
「何とか回るには回る。ただ、システム関連は神尾じゃないとできない部分があったから、それをどうするかだ」
「残念ながらここに回す人員を確保するのは無理だ。とりあえずシステムは外注に出そう。金なら何とか確保できる」
「そうだな。それが一番確実だ」
「それと根来……俺は神尾の人生を大きく変えちまったのかな?」
「突然どうした?」
「立候補させたときはまさか当選するとは思っていなかったし、撃たれて大怪我するなんて予想外だった」
「罪悪感があるのか?」
「撃たれたことに関しては責任を感じているな……」
「もう終わったことだろう。それに神尾は完治した。国会議員にもなれた。そして最高の形で結婚できるわけだから何の問題もあるまい」
「そう思うか?」
「当然だ。お前相当疲れているだろう? ここ二ヶ月はほとんど休んでいないだろうし、休めよ。与党になってこれからもっと面倒なことが多くなってくるから。丁度こっちもヒマだから俺と屋代で一週間くらいは回しておくよ」
「そうするか……」
「こっちは心配するな」
「すまんな。何だか気が楽になった」
向井水はコーヒーの飲み干すと部屋から出て行った。
ホテルの大宴会場の入り口には『熊本家・上串家、神尾家・浮田家 合同披露宴会場』と書いてあり、絶え間なく来客が宴会場に出入りしていた。神尾たちの控え室には支度を終えて待っている神尾と、メーク担当者に入念な化粧を施されている恵里菜がいた。
「恵里菜、時間は大丈夫なの?」
「大丈夫。絶対に間に合うから」
「でもさ、あまり綺麗になりすぎると上串先生に悪くないか? 歳だって恵里菜の方が十歳以上若いし、あっちは総理大臣夫人だし……」
「それも大丈夫。日本屈指のメークアップ担当者を送り込んでおいたから。場合によってはハリウッドのSFX並のメークだってできるわ」
「それって特殊効果じゃん……」
「もう、うるさいから黙ってて。喋っていたらメークが終わらないわ」
熊本たちの控え室でも先に支度を終えた熊本が夏子のメークを待っていた。夏子は三人のメーク担当者に囲まれながら話していた。
「メークさん、担当の方が三人って初めて聞くけどこれは普通なのかしら?」
「恵里菜お嬢様にそう言われて来たのですが、最高五人で五時間かかったことがあります。でもそのときはメークが終わったら完全な別人になっていましたけど」
「私はできる限り本人とわかるメークでお願いいたします」
「承知いたしました」
担当者たちは笑いながら答えた。
手持ちぶさたの神尾が廊下に出て行くと、熊本たちの控え室の前に縣が立っていた。
「トシオちゃん、こんな時も仕事なの?」
「警護に結婚式も葬式も無い」
「ふーん、それでタキシードを着ているわけなんだ」
「なるべく目立たない格好をしないといけないからな」
「でもそれじゃまるでホテルの支配人みたいだよね」
「うるさい。もう朝から客に道を尋ねられるわ、トイレの場所は聞かれるわ、ゴミを捨ててくれって渡されるわとひどい目に遭ってるんだ」
「その格好じゃ仕方ないでしょう。ちなみにそのタキシードは自前?」
「そうだが……この前たまたま安かったので作ってみた」
「じゃあちょっと裏地を見せてよ」
「断る」
「あ、そう。でもねトシオちゃん、俺ってもう政党職員じゃ無くて国会議員なんだよ。公務員が国会議員の言うことが聞けないってことは無いよね?」
「わかった」
縣は渋々タキシードの裏地を神尾に見せた。
「その刺繍の動物は何?」
「ウォンバットだ」
「どこに生息しているの?」
「オーストラリア大陸」
「そんなにウォンバットが好きなの?」
「パンダに飽きただけだ」
「でも、それを一目でウォンバットって当てた人はいるの?」
「今まで誰もいない。仲間にはヌートリアとかカピバラとか良く言われる」
そこに係の人間がやってきて神尾に話しかけた。
――そろそろ時間ですのでお願いします
「わかりました。じゃあまた後でね、トシオちゃん」
神尾が踵を返すと、後ろから縣が声をかけた。
「神尾稔衆議院議員!」
神尾が振り返ると、満面の笑みを浮かべた縣が敬礼をしていた。
「結婚おめでとうございます!」
神尾は照れくさそうに敬礼をして答えた。
「ありがとうございます。縣敏夫警部補!」
披露宴は順調に進み、司会者が新郎新婦の出会いなどを説明していた。壇上には熊本と夏子、神尾と恵里菜が来賓に向けて座っていた。それをテーブル席で聞いていた全オ連の
壇上の神尾はそれを見てうんざりとした顔をしてつぶやいた。
「岩沙委員長、何もここでやらなくても……」
「どういう意味なの?」
「キスしろって意味。娘さんがハワイで結婚式を挙げたときにこれを覚えたらしい」
「じゃあしましょうよ」
「えっ? わ、わかった」
神尾は恵里菜の両肩に手を置くと優しくキスをした。二人がキスを終えても音は鳴り止まないので、神尾は笑いながら熊本の方を見てキスをするように促した。手を振って恥ずかしがる熊本を見て、夏子は笑いながら熊本の両頬を押さえて豪快にキスをした。会場はどよめきと笑い声に包まれた。一緒に笑っていた恵里菜は会場を見渡し、不思議そうな顔をして神尾に尋ねた。
「あれ? 鰯田さんはどこにいるの?」
「ああ、鰯田には鰯田にしかできない仕事をやってもらっている」
神尾はニヤリと笑った。
披露宴会場の受付では鰯田が忙しそうにリストを見ながら出席者の確認を行っていた。その後ろから洋子・アンダーソンが話しかけた。
「鰯田、しっかり仕事してるの?」
「会場から美味しそうな匂いが漂ってきてもうダメです。それに何でこの仕事がボクなんですか?」
「国会議員と財界人の顔と名前をすべて覚えられるのはアンタだけでしょう」
「いいじゃないですか、何人か欠けたって……」
「ダメよ。こんな重要な披露宴なんだから。ちなみに食事はもの凄いことになっているわ。恵里菜が世界中から極上の素材をかき集めて、超一流のシェフたちに作らせたみたいだから」
洋子・アンダーソンはジャケットのポケットから唐揚げを出して口に頬張り、美味そうに食べ始めた。
「安藤さん、な、何を食べているんですか! そのウマそうなものは!」
「イベリコ豚の唐揚げ、ちょっとクドイけどね」
「と言うか……なんでそんなものを直接ポケットに入れているのですか?」
「最後の一個だったから」
「もう無いのですか?」
「もう無いわ。あ、そろそろ私も戻るから。じゃあね。スタッフ用の弁当は残っているから大丈夫よ」
鰯田はガックリとうなだれた。
The Diet (国会) 荒木一秀 @Araki_K
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