第九話 候補者・神尾稔
情報分析室では神尾が国民の電話を受けていた。
「ですから、そのようなことはここで言われても何もできないのです。ご理解いただけないのであれば電話を切らせていただきます。え? 私の名前ですか? 神尾と申します。殺すですか? 私を? どうぞ、ご自由にしてください。できればあまり痛くない方法でお願いします。では」
神尾が受話器を置くと鰯田が話しかけた。
「神尾さん、本名言って大丈夫ですか?」
「大丈夫。本当に殺しに来るなら何も言わずに来る。言ったら逃げられるだろう?」
「まあ、それはそうですが」
「しかし殺すとは穏やかでは無いので、ちょっと聞いてみるか」
神尾は内線で交換台を呼び出した。
「神尾です。たった今こちらにかかってきた電話の番号がわかりますか? はい、わかりました」
神尾は受話器を置いた。
「どこからでした?」
「公衆電話だった。一応内規で職員が脅迫を受けた場合は報告する義務があるから部長のところに行ってくる」
神尾は席を立った。
神尾が向井水の席の前に立つと、向井水は難しい顔をして神尾を見上げた。
「何の用だ?」
「そんじょそこらの国民に殺すと脅迫されました」
「電話か?」
「はい」
「内容は?」
「本当は熊本党首に文句を言いたかったみたいなのですが、私の言動が気に入らなかったようで頭に来たようです」
「発信元は?」
「公衆電話です」
「わかった。これを書いて俺の机の上に置いておけ」
向井水は引き出しから書類を出すと神尾に渡し、もう一度神尾の顔を見た。
「部長、そんな顔をして見ても貸す金は無いですし、紹介できる女性もいませんが」
「確か……お前は群馬生まれだったよな?」
「しばらく帰っていませんが、高崎市です」
「じゃあ大丈夫だ」
「何がですか?」
「今度の衆議院選、群馬四区に行って立候補してきてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってください。今度は何の嫌がらせですか」
「嫌がらせでは無い。立候補者が不在だと比例の票も集まらんから、なるべく多くの選挙区で立候補者を立てねばならなん」
「いつそんなことが決まったのですか?」
「この前の選挙対策会議だ」
「群馬四区って毎回カスみたいな立候補者を立てて落選している選挙区じゃないですか。しかも相手が保守自由党の総理経験者の
「その通りだ」
「そもそも何で私なのですか?」
「職員の中で群馬県生まれはお前だけだ」
「もし私が嫌だと言ったらどうします?」
「たった今決まった業務命令だ」
「何か私にとって良いことがありますか?」
「供託金を含めた選挙費用はすべて本部が持つ」
「選挙事務所も人員もですか?」
「それらを含めてすべてだ」
「他には?」
「選挙手当が出る」
「ちなみにお幾らほどですか?」
「規定で月給の二ヶ月」
神尾は満面の笑みで右手を向井水に差し出した。
「部長、喜んで立候補させていただきます」
向井水は神尾の右手を握りかえした。
「よし、話は決まった。屋代のところに行って手続きをしてきてくれ」
「手続きって何ですか?」
「どうせお前は職務規程を読んでいないだろうが、職員が国政選挙に立候補する場合は一時的に退職の形をとってもらう。選挙が終わったら復職するから問題無い。退職金は支払われずに継続になる。当選でもしない限りな」
「どう考えても落ちますし、それはどうでもいいです」
神尾は振り返って屋代の席に歩き出した。
洋子・アンダーソンと恵里菜は赤坂でランチを食べていた。
「それで神尾君とはうまくいっているの?」
「今のところね。この前は二人で温泉に行ってきたわ」
「あら、うらやましい。両親には神尾君のことを話したの?」
「話すことは話したわ。まだ会わせていないけど……」
恵里菜は困った顔をして口をへの字に曲げ、フォークを皿の上に置いた。
「そうねぇ、大金持ちのお嬢様と落ち目の政党の職員じゃ釣り合わないわね」
「気にすることは無いとは言ってみたものの、結局そうなのよ。稔さんはどう考えても年収一千万円になることは無いし、うちは固定資産税だけで毎年数百万円は払っているのよ」
「やっぱり釣り合うためには年収一千万円は必要ね」
「でしょ? でもどうしたらいいかしら……」
「だったら結婚して民民党を辞めさせてあなたの父親の会社で働かせたらどう? 恵里菜は一人娘だし」
「なるほどね。宅建とか資格を取ってもらえば、父親の不動産の管理で一千万円は軽く超えるわ」
「そうでしょう? あなたはそのまま秘書を続けて今まで通り給料すべてをお小遣いにできるじゃないの」
「そうね、秘書も一時期は辞めようかと思ったのだけど最近は楽しくなってきたから。それも洋子と稔さんと鰯田さんのおかげよ。でも稔さんが同意してくれるかしら? ああ見えて意地っ張りで無駄にプライドが高いところがあるから……ちょっと待って」
恵里菜の携帯電話にメールが着信した。
「は? これ本気なの?」
「どうしたの?」
「稔さんからのメール。衆議院選に業務命令で立候補してくるって」
「立候補するって比例代表?」
「いいえ、群馬四区だそうよ」
「ははは、落下傘候補ね。何があっても勝てるわけ無いわ」
「元総理相手に立候補ってどういうこと?」
「民民党は群馬四区で今回立候補を見送ったのよ。連戦連敗で立てる候補もいなくなったし。でも選挙区で立候補者を立てないと支持者が投票所に行かない可能性があるの。比例代表に投票するためだけに投票所に行く人はあまりいないでしょう? だから落選を承知で党として立候補者を立てたんじゃないの?」
「それって供託金とかの費用はどうなるの?」
「心配しなくても大丈夫、党本部が全部面倒見てくれるから」
「もし……私がさらに二千万円くらいつぎ込んだら稔さんは当選しないかしら? そうすれば稔さんは年収二千万円以上になるんだけど」
「あの選挙区じゃ一億円突っ込んでも絶対当選しないわ。さらに言えば惜敗率で比例の復活当選もあり得ない。ぶっちぎりで負けるから」
「そう……残念だわ」
恵里菜は携帯電話の画面を閉じた。
石渡は病室のテレビで国会中継を見ていた。場面が衆議院の本会議場に移り、民民党が提出した内閣不信任案の投票が始まった。
「いよいよか……」
保守自由党の田中恭司の派閥の議員が白票(賛成票)を入れるたびに議場がどよめいた。そして投票と確認が終わると議長が結果を読み上げた。
――白票(賛成票)二百六十三票、青票(反対票)二百二十四票、よって本案は可決されました……
本会議場は再び大きくどよめき、衆議院が解散された。石渡がリモコンでテレビを消すと、ドアがノックされて神尾が入ってきた。それを見た石渡はベッドから起き上がろうとした。
「ジジイ、そのままでいいから」
神尾は手で石渡を制してベッドの傍らに立った。
「神尾くん、久しぶりだね。たった今解散になったよ」
「遅くなってすまない。これから群馬に行かないといけないから、見舞いと立候補の報告で来た」
「向井水部長から話は聞いた。群馬四区だって?」
「ご存じの通りの票集めの落下傘候補」
「それはわからない。何が起こるかわからないのが選挙だろう?」
「いや、何も起きないって」
神尾は首を横に振った。
「今朝、熊本君に群馬四区に応援演説に入るように言っておいたよ」
「だから党首が入ったところで……」
神尾はやつれた石渡の顔を見た。
「ジジイ、ありがとう。容態はどう?」
「どうもこうも延命治療しかできないのだからどうしようも無い。一度は君に助けてもらった命だが、残念ながら二回目は無いみたいだ」
「痛いとか無いのか?」
「今のところはね」
「ジジイ、まだ誰にも言っていないが選挙が終わって一段落したら俺は本部を辞めようと思ってる」
「他に良い仕事でも見つかった?」
「仕事はまったく決まっていない」
「じゃあどうして?」
「彼女ができたけど、彼女の家が大金持ちで政党職員の俺では稼ぎが悪くて釣り合わない」
「じゃあ当選するしか無いね」
「いや、そういう話じゃ無い。気持ちの問題だ」
「そんなのどうでもいいじゃないの、結婚して彼女に食わせてもらえば」
「それは嫌だ」
「今は不況だから仕事を探すのは大変だよ」
「わかっている。でもこのままズルズルと平穏な職員でいるのも嫌なんだ」
「平穏はどうかな? 今度の選挙で負けたら今度こそ職員のリストラが始まるよ」
「その前に逃げ出すよ」
「神尾君、今は候補者だから選挙にだけ集中しなさいよ。その後のことは選挙が終わってからでいいでしょう?」
「わかった。また選挙が終わったら相談に来るからそれまでジジイも元気でな」
「そんなことは保証できないよ。もし死んでたらゴメンね」
「相変わらずシャレがきついジジイだ。あ、それと言い忘れたが、この前狩猟免許を取ってきた。猟銃所持の申請も始めるからうまく行けば来年早々に一緒にカモ猟にいけるぞ」
「もう一緒にできないカモよ」
「つまらんシャレを言っていないで、警察署の生活安全課に早く許可を出すようにプレッシャーをかけておいてくれ」
「わかった。福田君に言っておくよ」
「一緒に行くんだからな」
そう言い残すと神尾は立ち上がって部屋を後にした。
情報分析室では鰯田と根来がコーヒーを飲みながら話していた。
「室長、間違って神尾さんが当選するなんてことは?」
「万が一にも無い。ちなみに民民党の歴史上、職員が当選したことは一度も無い」
「そうなんですか」
「鰯田君は選挙は初めてだったよね?」
「はい」
「今から投票日まで三階にある会議室に移ってもらえるかな。あそこが選挙対策室になるから」
「そこで何をすれば良いですか?」
「選挙対策室は室長が向井水になるので、その配下に入ってくれ」
「了解しました」
「多分仕事の内容は資料とか名簿作りのたぐいになると思う。ただ、君は情報分析室から派遣されるので使用するPCはここのものを持って行ってくれ。絶対他の職員に使わせないように」
「了解しました」
「それと、選挙中は皆、気が立っているから気をつけてな」
「ど、どう気をつけたらいいのですか?」
「余計なことをしたり喋らなければ大丈夫だ」
「了解です」
鰯田が自分のPCを持って大部屋に移動すると、向井水が職員たちに指示を出していた。
「臨時の電話回線の工事は明日だったよな?」
「午後二時を予定しています」
「宣伝資材の印刷はどうなっている?」
「終わっていますので印刷所から今晩、各県連に発送する予定です」
「それと……党首の遊説日程の取り扱いには注意してくれ。表には出ていないが脅迫を受けているんでな」
「わかりました」
「車両関係はどうなっている?」
「街宣車は車検から戻っています。党首の第一声には十分間に合います」
「えーっと、食事の手配だが誰が担当だ?」
「神尾さんでした」
「神尾か……」
そこに鰯田がPCを持って入ってきた。
「鰯田、丁度良かった。お前は食事の手配を担当してもらう」
「は、はい」
「他に神尾が担当していたのは何だ?」
「通信とPC関係です」
「それも鰯田がやってくれ」
「了解しました」
「皆、とりあえず以上だ。あとの細々したことは選対事務局長の屋代に聞いてくれ」
向井水は机の上の書類を片付けると部屋から出て行った。そして鰯田が紙に名前が書いてある席に座ってPCのセッティングを始めると屋代が近寄ってきた。
「鰯田君は選挙初めてだったよね?」
「はい」
「君は食事の担当と言うことなので、昼間はこのリストにある店から食事を注文すれば大丈夫」
屋代は店のリストが記載されてる紙を渡した。
「夜は指定の業者に五時までに人数を知らせればそれで大丈夫。ただし、絶対に不足を出さないようにしないとあとで揉めるから注意して。余る分には構わないから。支払いは鰯田君が伝票にサインすれば終わりだから。つまりこの部屋の飯はタダ飯ってこと」
「わかりました。またわからないことがあったらお聞きすると思いますのでよろしくお願いします」
「遠慮無く聞いてね。じゃあ」
屋代は部屋から出て行った。
神尾と恵里菜は高崎市内のホテルの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
「いよいよ明日は公示ね」
「ああ。前回の選挙は職員として手伝っていただけど、まさか今回立候補者になるとは思わなかった。この俺が街宣車に乗ってマイクで喋るとはね」
「熊本党首も応援演説に入るのでしょう?」
「明後日と投票日の前々日あたりの二回入ってくれるらしい」
「間違って当選しないかしらね?」
「それは無い。だからと言って候補者である以上、俺には全力を尽くす義務がある。それと恵里菜……話しておきたいことがある」
「何?」
「選挙が終わって後片付けが済んだら本部を辞めようと思う」
「辞めてどうするの?」
「わからない。次の職が決まっているわけでも無い」
「じゃあどうして辞めるの?」
「恵里菜と付き合うなら政党職員じゃダメだ。特に収入の面で」
「そのことはいつか言おうと思っていたの。現実的なことを言えば、稔さんの年収だと我が家の固定資産税すら払えないわ」
「だろう?」
「ちなみにどんな職に就くつもりなの?」
「それは今の仕事を辞めてから考える」
「何か一山当てるつもりなの?」
「それはわからないけど、考えてはいる」
「稔さん……男は大きな夢を見たり、想像したりする能力は女性より優れていると思うの。でもね、女はもっと現実的で身近にあるものや見える部分で将来のことを判断することが多いのよ」
「それはどう言う意味?」
「はっきり言えば私から見て稔さんは一山当てるような人物には見えないし、会社を興して成功するようにも見えない」
「随分はっきりと言うね」
「ここははっきり言おうと思うの。仕事を辞めることは賛成だわ。でも今は不況だからそう簡単に次の仕事は見つからないわ。だから稔さんが良ければしばらく私の父親の会社で働かない? もし会社が気に入ればそのまま就職すれば良いし、新しい仕事が見つかればそっちの仕事をすれば良いわ」
「それは恵里菜のお父さんには?」
「父親の了解済みよ」
「でもそうなると……」
「はい。私たちは赤の他人ではいられません」
「ああ、でもこの何と言うか……世間一般で言う、テレビドラマで見るような決め台詞をここで言うのは無理と言うか……そのつもりもあったけど選挙のことで頭がいっぱいで……」
「選挙が終わってからでいいわ。返事は」
「わかった」
神尾は動揺して目を泳がせながら冷めたコーヒーを飲み干した。
選挙公示日、神尾は高崎駅前に停車している群馬県連の街宣車の中で待機していた。
――神尾さん、お願いします
神尾は促されて車外に出ると梯子で車の屋根に上がった。屋根の上にはすでに群馬県選出の参議院議員や県議会議員が上がっていた。神尾が上がると参議院議員が挨拶を始めた。演説の順番を待つ神尾の緊張した面持ちを見たベテラン県議会議員が神尾に話しかけた。
「演説は初めて?」
「は、はい」
「大丈夫だよ、こんなの。慣れだから。最初は誰でも緊張するから」
「ありがとうございます」
「練習してきた通りにやればいいから。それと目線は遠くにして……あの二百メートルくらい先に見えるビルの五階あたりにして」
「はい」
「胸を張って、ゆっくり喋ればいい。マイクがあるから怒鳴る必要は無いからね」
「はい」
――それでは紹介させていただきます。候補者の神尾稔君です
マイクを渡された神尾は演説を始めた。
「群馬県高崎市の皆様、大変長らくお待たせいたしました。私、神尾稔が生まれ故郷をより良く、皆様が安心して暮らせるようにするために帰って参りました……」
街宣車の周囲に動員されていた民民党関係者から歓声が上がった。神尾が観衆の後方を見ると恵里菜が両手を振っているのが見えた。
「この保守王国と言われる群馬県は政治が疲弊しています。その疲弊した政治を劇的に変えるために……」
恵里菜は観衆から少し離れた位置に移動して携帯電話をかけた。
「あ、洋子? 今大丈夫? 聞こえる? 稔さんの第一声。初めてにしては悪く無いわ。それと、例の件を昨日の夜に話したの。私から言おうと思ったら稔さんから切り出されて……そう、そしたらすでに稔さんは本部の仕事を辞める気だったみたい。丁度良かったわ。何とかうまく行きそうな感じがする。ありがとう洋子。これから東京に戻るから詳しいことはまたあとで」
恵里菜は電話を切ると駅に向かって歩き出した。
熊本はテレビの討論番組に保守自由党の幹事長である
――それでは次に昨今の不景気のために就職できなかった新卒者の方に来ていただいています
司会者は入ってきた男性を熊本と半田に紹介し、二人の前の椅子に座らせた。
――根岸さんは今年の四月に大学を卒業したのですが就職できませんでした。ちなみに就職活動はいつ頃始められましたか?
「三年生の十月頃です」
――そんなに早く始めたのに就職できなかったのですか?
「はい」
――ちなみに今までに会社に書いて送った履歴書は何枚くらいでしょう?
「百枚はくだらないと思います」
――面接してくれた会社はありましたか?
「一社もありませんでした」
司会者はテレビカメラの方を向いて視聴者に話しかけた。
――世間一般では就職氷河期などと言われていますが、このままでは仕事が見つからない若者がますます社会にあふれてしまいます。それではこの問題についてお二人にお尋ねしたいと思います。ではまず保守自由党の半田幹事長はこの問題にどう取り組むお積もりですか?
「私どもは景気のてこ入れを基本に考えています。その上で新卒の皆さんが安心して就職できる環境作りを整えたいと思います。具体的には企業への補助金です。前年度より多くの新卒者を採用した企業については政府から奨励金を支払うことにします。それは今回の選挙公約にも書いてあります。とにかく人口が減少している日本において若い労働力は貴重です。日本が経済的に再生するためには根岸さんのような方々にしっかり働いてもらう必要があるのです」
半田は根岸の顔をじっと見つめ、根岸も安堵した表情を見せた。
――次に民民党の熊本党首にお伺いします。
熊本も同じく根岸の顔を見て質問を始めた。
「根岸さん、ちなみに就職協定などクソ食らえとか思ったことはありませんか?」
「……いいえ」
根岸は熊本の乱暴な口調に驚いた顔をした。
「皆と同じ手順で企業に応募することに疑問を感じたことはありませんか?」
「い、いいえ」
根岸は熊本から目を背けた。
「いや……あなたを責めているわけでは無いのですが、就職難と言われている今の状態の原因は業績の悪化などによって企業が求人を抑制しているという点においては賛成します。また大学への進学率が上昇し、その結果として就職率が低下したのも事実でしょう。しかし、今も昔も就職するに値する学生は就職しているわけです。値するとは本人に社会人として仕事ができる資質が備わっているということです。昔は多少値しなくても就職は可能でしたが、現在はそうはいきません」
根岸は下を向いた。
「根岸さん、ちなみに応募された企業ですがどのような手段で情報を得られましたか?」
「就活サイトと企業のサイトです」
「つまり他の学生と同じ方法で応募したということですね?」
「はい」
「では、応募した企業の本社の所在地に実際に行ったことはありますか?」
「いいえ」
「現在も就職活動中とのことですが、履歴書を見せていただけますか?」
「え! 履歴書は持って来ていませんが……」
「根木さん、あなたは真剣に仕事を探しているようには見えません。私なら四六時中履歴書は持ち歩きます。どこにどんなチャンスがあるかわかりませんから。今日のテレビ出演だってチャンスだったはずです。履歴書を持ってくるなとは言われていませんよね?」
「……はい」
「私たちとは二度と会うことは無いのだから、ダメもとで履歴書を渡しても構わないわけです。あとでディレクターに怒られようとも、そのディレクターだって二度と会うことは無いでしょうから。企業が今、欲しい人材は本当にやる気がある学生だと思います。残念ながらあなたには本当のやる気が見えません」
根岸はさらにうなだれた。
「根岸さん、明日からどんな方法でもいいですから自分で考えて何とか十社と面接までこぎ着けてください。それでも就職できない場合は私の事務所で働いてください。根岸さんがよろしければですが」
「でも面接なんてまだ一社も……」
「それは皆と同じ方法をしているからです。その足をもっと使えば必ず方法はあるはずです」
「はい……」
司会者は予想外の展開に困惑し、次の話題に移った。
――と言うことで、次は社会保障についてお尋ねします……
投票日二日前の金曜日の夕暮れ、熊本は街頭演説を終えた神尾と一緒に街宣車に乗って神尾の選挙事務所に向かっていた。
「党首、二回も応援に入っていただいてありがとうございました」
「神尾君、初めての選挙はどうだった?」
「正直、今回で最後にしたいです」
「ははは、正直だね。それも仕方がない。君の場合は職務で立候補したわけだから」
「でも全力でやりましたから悔いは無いです」
「立候補なんてなかなかできる経験じゃないしね」
「それはそうと党首、先週のテレビの討論番組良かったですよ。あの若者の就職相談でしたっけ? そうなんですよね、自分は動かずに簡単に手に入るものだけでどうにかしようと思っても無理なんですよ」
「神尾君、ここだけの話だけどあれは石渡先生の受け売りなんだ」
「え! そうなんですか?」
「正確には違うけれど、私が以前言われたこととほぼ同じような内容なんだ」
「そういえば公示前に病院に行ってきましたけど、結構やつれた感じでした」
「そうでしたか。医師の話だと一年後の生存率は五十パーセント以下らしいです」
「来年早々一緒にカモ猟に行こうと思っていたので、一時的にでも元気になってもらわないと困るのですが」
「カモ猟? ですか」
「ジジイ、いや議員会長と一緒に行ってあげないと……」
神尾は窓から田園風景を眺めた。
車は事務所前に到着し、街宣車のドアが開いて縣が顔を出した。
「熊本さん、お疲れ様でした。こちらの車に乗り換えてください」
熊本は立ち上がった。
「それじゃあ神尾君、明日が最終日だからもう一日の辛抱だ」
「全力をつくします」
熊本が街宣車から降りて公用車に歩き出すと、突然ヘッドライトをハイビームにした乗用車が熊本に向かって走ってきた。熊本は何が起こったかわからず棒立ちになった。
「熊本さん!」
熊本の後ろにいた縣は一瞬周囲を見渡すと、熊本を近くの電柱の後ろに突き飛ばした。そして街宣車から降りてきた神尾に叫んだ。
「神尾、車に戻れ!」
神尾も何が起こったかわからずに縣を見返した。
「神尾、戻れ!」
縣は再び叫んで振り返り、熊本の方に走り寄ろうとした時には目の前に車が迫っていた。縣は衝突に備えて身構えたが、そのままの姿勢で車にはじき飛ばされてガードレールに激突した。
「縣さん!」
神尾ははじき飛ばされた縣に走り寄ったが、道路に横たわって頭から血を流している縣は意識が朦朧としていた。そして縣を跳ねて止まった車からは、中年の痩せた男が出てきて車内から矢が装填されたボウガンを出して熊本を狙って構えた。周囲から悲鳴が上がった。神尾は反射的に電信柱の後ろで倒れている熊本に走り寄った。
「党首!」
神尾は熊本の腕を掴もうと手を伸ばしたところで胸に鈍い衝撃を感じ、息が詰まってその場に膝から崩れ落ちた。
「神尾君!」
神尾は叫んだ熊本に背中を預けて倒れた。胸を見ると矢が刺さっていた。そして撃った男を見ると、二発目の装填に手間取って周囲から飛びかかった人々に取り押さえられるところだった。神尾は全身の力が抜けていくのを感じていた。
「か、神尾!」
意識が戻った縣は、足を引きずりながら神尾に近寄った。縣には神尾の顔の血の気が引いていくのが見えた。
「トシオちゃん……ホルヘっちを……まだ他に誰かいるかも……」
神尾はゆっくりと右手を胸の矢に伸ばした。
「わかった、党首はまかせろ。神尾、矢を抜くな。そして喋るな。すぐに戻るからな」
縣はが神尾を道路に横向きに寝かせると、背中から貫通した矢の先端が見えた。縣は渾身の力を振り絞って熊本を警護しながら公用車の方に歩いて行った。
「痛くない方法でって言ったのに……痛ぇ……」
神尾は横になった視界に、走り寄ってくる人々の靴が入ってくるのを見ながら意識が遠くなった。
民民党本部の選挙対策室では職員同士が喧嘩をしていた。
「何で俺の夕飯が無いんだよ!」
「お前が外食するって言ったからだろう!」
「場合によっては外食するかもって言ったんだよ」
「それならここに連絡しなかったお前が悪い」
「何だと! 選挙の時はいつも飯が余っていただろうが! 何で今日は余って無いんだよ!」
「そんなの俺に言われても困る。食事の担当じゃ無いからな」
「担当は……鰯田か!」
職員は鰯田の席ににじり寄った。
「俺の飯はどうしてくれるんだよ?」
「そ、そう言われましても、今日は食事時に突然部屋に議員の方が二人訪ねて来たものですから……」
「議員なんか放っておけばいいんだよ」
「そうもいかなかったのです。お腹が減っているとかでどうしても食事を出さざるを得なかったのです」
「だいたいお前は食事係なんだから皆が食べ終わって、不足が無いのを確認してから余った飯を食うべきだろう? 何で一緒に食ってるんだよ!」
それを見かねた他の職員が助け船を出した。
「それくらいにしておいてやれよ。鰯田だって初めてだし、悪気があったわけじゃない。だいたい連絡しなかったお前が悪いんだよ」
「何だと!」
今度は助け船を出した職員と取っ組み合いの喧嘩を始めて収集がつかなくなった。屋代がそれを見て右往左往しているところに向井水が部屋に入ってきた。
「いい加減にしろ! どうしていつもお前たちはそうなんだ!」
二人は喧嘩を止めて向井水を見た。
「皆、聞いてくれ。さきほど神尾が暴漢に撃たれて病院に運ばれた」
職員たちはどよめいた。
「詳細はわからんが、党首をかばってボウガンで胸を撃たれたらしい。現在近くの病院で手当を受けているが、出血多量で意識不明だ」
鰯田が立ち上がって向井水に尋ねた。
「どこの病院ですか?」
「高崎市内だ」
「病院に行っていいですか?」
「ダメだ。許可できん。鰯田が行ったところで何もできないし、邪魔なだけだ。そしてすべての職員は通常通りの業務を行うように! 以上だ」
向井水が部屋から出て行くと、屋代がテレビのスイッチを入れた。画面からは臨時ニュースが流れ、皆がそれを食い入るように見つめた。
高層ビル街の交差点には恵里菜が泣きはらした顔で立っていた。恵里菜の前に黒の社用車が止まり、ドアが開いて後部座席にいた洋子・アンダーソンが恵里菜に怒鳴った。
「恵里菜、早く乗りなさい!」
恵里菜は洋子・アンダーソンの顔を見て再び泣き出した。
「恵里菜、泣いている場合じゃないから!」
恵里菜はハンカチで涙を拭くと冷静に言った。
「洋子、車じゃ遅いわ。荷物を持ってこっちに来て」
「は? 何を言っているの」
「とにかく私と来て!」
恵里菜は半ば強引に洋子・アンダーソンを車から引きずり出し、取材用の機材を持って近くのビルの入り口に向かって走り出した。
「どうしたのよ?」
「このビルの屋上にヘリコプターを待機させているから、それで行くの!」
「わかったわ」
二人はビルの中に入っていった。
石渡の病室では秘書の福田がベッドに横たわった石渡から指示を受けていた。
「熊本君の秘書さんたちは明日の遊説先の大阪にいるから動きが取れない。だから君が今から熊本君のところに行って手伝って来てくれ」
「はい、わかりました。すぐに向かいます」
「熊本君のことだから、神尾君の意識が戻るまで病院にいるとか言い出すかも知れない。君の一番重要な仕事は熊本君を明日の遊説先の大阪に向かわせることだ。例え神尾君が……死んでもだ」
「はい」
「それと、これを持って行ってくれ」
石渡はメモ帳を渡した。
「先生、これは?」
「群馬で役に立ってくれそうな人物の連絡先だ。石渡の使いだと言えば深夜でも動いてくれるはずだ」
「わかりました。お預かりします」
「では、向かってくれ」
福田は病室をあとにした。
神尾が運び込まれた病院の手術室の待合室には憔悴しきった熊本と、頭に包帯を巻いて悲痛な表情をした縣がソファに座っていた。二人の周囲には制服を着た警察官が三人ほど立っていた。
「熊本さん……申し訳ありませんでした」
「やめましょう。誰のせいでも無いです。ただ……私が撃たれれば良かった」
そこにSPバッジを付けた警察官が縣の前に立った。
「熊本さん、私の代わりのSPで『若松』です。私は今晩中に報告書を書かないといけないものですから。しばらく彼が熊本さんの担当になります。こんな時で申し訳ありませんが明日の予定を若松に教えていただけますか?」
「明日ですか? もう少し考えさせてください」
「わかりました。では私はこれで」
縣は若松に支えられて立ち上がった。
「縣さん、本当に体は大丈夫なのですか?」
縣は力無く答えた。
「私のことは心配しないでください。車に轢かれた程度でしたら、かすり傷で済ますように訓練を受けています。それに我々は隊長の許可が無い限り任務中に死ぬことはできない決まりです」
縣が若松と出口に向かうと、入れ替わりに恵里菜と洋子・アンダーソンが早歩きで入ってきた。それを見た警察官が二人を制止した。
「私は新聞記者のアンダーソンで、こちらは撃たれた候補者の彼女です」
洋子・アンダーソンは腕章を警察官に見せて通った。恵里菜は真っ先に熊本に駆け寄ると話しかけた。
「稔さんとお付き合いをしている浮田恵里菜と申します。先生はお怪我は無かったのですか?」
熊本は立ち上がって深々と恵里菜に頭を下げた。
「はい……こんなことになって本当に申し訳ありません。神尾君は私の代わりに……」
「先生に責任はありません。ちなみに稔さんは……」
「矢が心臓の近くの動脈を傷つけたようで、難しい手術のようです」
熊本は焦点の定まらない目で『手術中』のランプを見上げた。恵里菜はランプを見て力が抜けて床に座り込んだ。洋子・アンダーソンは恵里菜に肩を貸して立ち上がらせると熊本から少し離れた椅子に座らせた。
続いて入り口から上串夏子が入ってきた。夏子は身分を説明して警察官に通してもらうと一直線に熊本に向かって歩いてきた。
「党首、お怪我は無いようですね」
「夏子さん、何故ここに?」
「私の選挙区の新潟から群馬なんて一時間もかかりません。念のため私はあなたの主治医としてここに来ました」
夏子は診断するような目つきで熊本を見た。熊本は力無く夏子を見返した。
「主治医ですか?」
「そうです。ちょっと私と一緒に来てください」
夏子は熊本を立ち上がらせると廊下の奥にある別の診察室に向かって歩き出した。部屋の前には看護師が立っていた。
「上串先生ですね? 院長から話は聞いています。どうぞ中にお入りください。私は外にいますので必要なものがあったらお呼びください」
「ご無理を言って申し訳ありません」
夏子は診察室に入ると熊本を椅子に座らせた。
「熊本さん、あなたの心の傷はまだ完治していません。恐らく今、あなたの頭の中には奥さんと子供さんを亡くされた時の病院の状況が蘇っているはずです。そしてその時と同じように罪悪感にさいなまれていますね?」
「はい……」
「それを一刻も早く取り除くのが私の仕事です。あなたは明日には大阪に行かなければならないのですから」
「しかしこんな状態では明日の大阪は……」
「ダメです。あなたは党首です。何としても大阪に行って最終日の演説をする責務があります。大丈夫です、明日の朝までには私があなたを何とかします。そのためにここに来たのですから」
夏子はやさしく熊本の手を握った。
福田が病院に駆けつけた時には神尾の手術が終わって集中治療室に運び込まれたあとだった。誰もいない待合室で人を探していると廊下を歩く夏子を見つけて話しかけた。
「上串先生、石渡事務所の福田です。石渡の使いでお手伝いするためにここに来ました。先生は何故こちらに?」
「精神科医として一応何かできるかなと思いまして」
「でも先生、明日は最終日でしょう? 選挙区に戻らなくて大丈夫ですか?」
「私は大丈夫です。明日の朝一番の新幹線で新潟に帰ります」
「熊本党首は?」
「別室で休んでいます」
「明日の大阪の演説は大丈夫でしょうか?」
「今晩休めば大丈夫です。明日の早朝の新幹線で東京に向かえば午後には大阪に到着できるはずです」
「それは良かった。石渡の方から最終日の演説には必ず間に合うように熊本党首を送れと言われていたものですから。で、神尾君は?」
「今、集中治療室にいます。一応手術は成功したようです。ただ、まだ意識が戻らないので予断を許さない状況です」
「そうですか」
「福田さん、ちなみにこの辺にホテルはありますでしょうか? 熊本党首は病院では気が休まらないようなので」
「わかりました。早急に手配します。それと明日の日程等につきましては私から本部の向井水部長に連絡しておきます」
「よろしくお願いします」
深夜の党本部の役員室では向井水と根来が話し合っていた。
「とりあえず神尾が死なずに済んで良かった」
「党首の最終日はどうなった?」
「福田さんによれば今晩高崎に泊まって朝一番で大阪に向かうそうだ」
「神尾の家族はどうなっている?」
「俺も知らなかったのだが、両親は神尾が小学生の時に離婚して成人するまで祖母に育てられたそうだ。その祖母も数年前に亡くなっている」
「労災は出るのか?」
「んー、難しいと思う。離職したあとだからな。入院その他の費用は本部で支払うから問題無いが」
「しかし撃たれるとは思わなかったな」
「犯人に関してはさっき警察が来てこちらの情報は可能な限り提供した」
「高崎の最終日は候補者の演説無し……だな」
「無しだな……」
二人は同時に下を向いてため息をついた。
投票日当日の午後八時過ぎ、選挙対策室には担当職員が集まっていた。部屋のテレビでは選挙結果が次々と流れている。鰯田が夕食の配膳を廊下で後片付けしていると根来がやってきた。
「鰯田君、お疲れさん」
「あ、鉄さん。神尾さんはどうですか?」
「命の心配は無くなったが、完全に意識が戻るには二三日かかるらしい」
「そうですか」
「鰯田君も明日になったら見舞いに行ったらどうだ? ただ、寝ている時間の方が長いようだが」
「高崎まで出張扱いにしてくれるのですか?」
「あれ、言わなかったっけ? 今日の午後に都内に搬送された話」
「え? 聞いていませんが」
「状態が安定したので港区の『浮田記念病院』にヘリコプターで搬送されたんだ」
「何でまたそこに?」
「神尾の彼女の希望らしい。高崎まで行くのが面倒なので転院させたみたいだ」
「その浮田記念病院ってまさか……」
「彼女の親戚が院長って話だ」
「まったく金持ちは何でも持っているんですね」
「うらやましい彼女だ」
「じゃあ明日の午後にでも行ってきます。ちなみに神尾さんは当選しそうですか?」
「んー、何とも言えんな。今朝の判定会議だと当落線上には残っているものの、選挙区はダメだろうな」
「比例区の復活当選はどうですか?」
「あり得ない話ではないが……あの事件のおかげで同情票が集まりそうだからな。でも俺は難しいと思っている」
「惜敗率頼みですか」
「八割を超えないと無理だろうな」
「でも当選したら凄いことですよね」
「まあね。いずれにしろ今晩は長くなりそうだ。鰯田君も最後までいる必要は無いよ。選挙結果なんて明日の新聞で見ても同じだよ」
「いいえ。今日は最後までいることにしました」
「わかった。明日は午後に情報分析室に出勤してくれ。そのあと神尾の見舞いに行けばいい」
「わかりました」
根来は背伸びをしながら階段を上がっていった。
日付が変わった午前三時、石渡が病室に持ち込んだテレビには選挙結果が流れていた。
――以上ですべての選挙区および比例代表の結果が確定いたしました
「神尾君、ダメだったか……」
石渡は溜めていた息をすべて吐き出すとゆっくりと目を閉じた。
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