第八話 部長・向井水健介
党本部の応接室では向井水と週刊誌記者の
「で、その重要なお話とは何でしょう?」
「まずはこれを見てください」
沢木はA4の封筒を開けると中から数枚の写真を取り出してテーブルの上に広げた。盗撮したと思われる写真には民民党参議院議員・比例代表選出の
「ちなみに手をつないで入っていく建物は麹町宿舎です」
向井水は興味無さそうに写真を見た。
「掲載するのでしたらご自由にしていただいて構いません。これは議員本人の資質の問題であって党本部は無関係です」
「そうですか……」
「ご用件はこれだけですか? でしたら私はこれで」
向井水は立ち上がった。沢木は座ったまま向井水に質問した。
「向井水部長、和田武夫参議院議員は党の財政局長ですよね?」
「そうだが」
「一緒に写っている女性は銀座のクラブホステスです。最近その女性名義で港区内にマンションが購入されました。ちなみに彼女は働き始めてまだ二年です。彼女の乗っているベンツも最近購入されたもので一千万円は下りません。その他に彼女の身につけている装飾品などは数百万円単位です」
「何が言いたいのです?」
「和田議員は労組出身で実家は資産家ではありませんよね? 奥様もごく一般的な主婦です。いくら国会議員の収入が多いとは言え、港区のマンションや車を現金で買えるほどの財力があるとは思えません。しかもそれらは財政局長に就任してから買われています」
向井水は沢木を見下ろした。
「目的は何だ? 金か?」
「金は目的ではありません。ご存じのようにうちの出版社の親会社は民民党寄りですから、あまり民民党をおとしめるような記事は書きたくありません」
「じゃあ何だ?」
「資料です。最近、こちらで衆議院選挙の資料を作ったと伺いました。しかもその資料は民民党に不利な結果が記載されているらしいですね。その資料とこの写真を交換して欲しいのです」
「断ったら?」
「うちの週刊誌に写真付きで和田議員の記事が『政党交付金横領疑惑』と言う見出しで載ることになります。折しも今は党を挙げて政治と金の問題を追及しているところですよね?」
「それがどうした?」
「そんな記事が出たら選挙でさらに不利になります。逆に選挙資料の記事だったら民民党が危機的状況にあることを国民に知らせることができます……まあいいです、今すぐに返答が貰えるとは思っていませんから。明日またご連絡差し上げます。そのときに返事をいただければ結構です」
沢木は写真を鞄に入れて立ち上がった。
「では失礼します」
沢木が応接室から出て行くと向井水は電話を取って内線を回した。
「根来か? 俺だ。ちょっと応接室まで来てくれ。調べて欲しいことがある」
向井水は電話を置くとソファに深く腰掛けて天井を見上げた。
その日の夜十一時、向井水はバー『竿の滴』のカウンターで酒を飲んでいた。カウンター奥のテレビ画面には和田が映し出されていた。
――和田さんは民民党で最も服装にうるさい人だそうですね?
「そんなことは無いですよ。ただ国民の前でみっともない格好はできないですから」
――噂では女性にかなりモテるという話ですが
「ははは、勘弁してくださいよ。私は結婚して子供もいるのですから……」
カウンターで向井水の相手をしていた弟の良介はリモコンでチャンネルを変えた。
「私はこの男嫌いよ」
「お前は男を見る目はあるようだな」
入り口のドアが開いて根来が入ってきた。それを見た向井水はカウンター席から立ち上がった。
「良介、奥のボックス席を借りるぞ。それとウィスキーとグラスを二つと氷を頼む」
「わかったわ」
向井水は根来を連れて奥のボックス席に座った。席に座るとすぐに良介がウィスキーなどを運んできた。
「良介、あとは俺たちでやるから放っておいてくれ」
「わかったわ」
良介がカウンターに戻ると向井水はウィスキーのオンザロックを二つ作って一つを根来に渡した。
「すまんな根来、面倒なことを頼んで」
「気にするな」
「それでどうだった?」
「結論から言えば完全にアウトだ」
「金額は?」
「俺が把握しただけで直近の一年でざっと六千万円。団体対策費の名目で数回に分けて引き出されている。それだけなら表に出ないが、どうやらその金の一部を自分の政治資金管理団体に入れているようだ。こっちは外部に閲覧可能なので見られるとマズい」
「財政局は見過ごしていたのか?」
「そうとも言えない。結局党のハンコと通帳を持っているのは財政局長の和田だ。ハンコと通帳があれば銀行はどうにでもなる。残念ながら議員に逆らえる職員などいない。それに引き出された金の使い途は党本部ではわからない」
根来は一息ついたあとグラスを一気に空にした。
「向井水、どうする?」
「さて、どうするか……」
向井水もウィスキーを一気に飲み干してグラスを置いた。
「俺の方は気を遣わなくていい。選挙資料を渡すならすぐに用意するから」
「だが沢木は金の流れをまだ把握していない可能性がある。あんなスキャンダル写真だけなら出たところで無視しても構わんのだが……」
「マズいだろう。記事が出れば和田の資金管理団体は必ず調べられるぞ」
「交付金横領がバレない可能性は……」
「ゼロだ。必ずバレる。どうした向井水? 沢木と取引しろよ。そうじゃないと、今までの熊本党首の努力が水の泡だ。それにスキャンダルの記事が出たらシミュレーションの前提条件が根底から狂ってまるで使い物にならなくなる。こっちの方がダメージが大きい」
「根来……神尾と鰯田にはまだ休暇もやっていないんだ。残業代無視で不眠不休でやらせたのにな。夜中に三回くらい見たかな……二人で机の上に突っ伏して寝ているのを。どうもそれが頭にちらついてな。そうやって作った資料をむざむざ渡すとなるとな……」
「お前らしくも無いな。どちらを取ってもシミュレーションの前提条件は変わるぜ。ただ、スキャンダルの記事の方が壊滅的だ」
「確かにな……」
向井水は再びグラスにウィスキーを注いだ。
二日後、向井水は応接室で再び沢木と対峙していた。
「向井水部長、いいお返事がいただけるとうれしいのですが」
「結論から言えばそっちの交換条件に応じる」
「ありがとうございます」
「ただし、その写真が電子データであれば無限にコピー可能なのだがその点はどうするつもりだ? 他にコピーが無いと言い切れるのか?」
「おっしゃる通りです。そう言われると思いまして、ネガを持ってきました。つまり写真はデジカメでは無くてアナログカメラで撮影されたものです。正確にはポジフィルムですが」
「抜け目は無いんだな」
「こういった商売ですから」
沢木は封筒から写真とフィルムを取り出してテーブルの上に置いた。向井水はフィルムのコマと実際の写真を比較して確認した。
「漏れは無いようだな」
「では資料をお願いします」
向井水は封筒からDVDを取り出した。
「データで良かったんだよな?」
「はい、中身を確認させていただきます」
沢木はカバンからノートPCを取り出すとDVDを挿入した。
「準備がいいな」
「商売ですので。社に戻ってから確認したら偽物だったり、パスワードがかけられていると目も当てられないですから」
「言っておくが、念のためデータのどこかに電子的にあんたの名前を埋め込んである」
「構いません。私以外はデータに触らせませんから」
沢木はPCで中身を確認するとDVDを取り出してケースに入れてカバンに入れた。
「これで取引は成立だな」
「はい。来週の火曜日に発売される号に掲載されると思います。では失礼します」
沢木は立ち上がると向井水に一礼すると応接室から出て行った。向井水は苦々しい顔をするとソファ横の受話器を取って内線を回した。
「根来、俺だ。終わった。神尾と鰯田はいるか? これからそっちに行く」
情報分析室では受話器を置いた根来が神尾と鰯田に声をかけた。
「今から向井水が来る」
神尾が仕事の手を止め、怪訝な顔をして尋ねた。
「何の用ですか?」
「用件は向井水が話す」
「わかりました」
しばらくすると向井水が部屋に入ってきた。そして、いつも開けっ放しのドアを後ろ手に閉めた。
「神尾、鰯田、話があるので聞いてくれ」
神尾と鰯田は神妙に向井水の方を見た。
「この前お前たちが作った選挙資料だが、訳があって表に出ることになった」
「党の方針が変わったのですか?」
「そうじゃ無いんだ、神尾。週刊誌にデータが載ることになった」
「え! それはどうしてですか?」
「すまないがその質問には答えられない」
「そうなると、私たちの立場が……印刷された資料はすべて回収していますし、データも他からアクセス不可ですから流出元としてここが……」
「わかっている……すまん。流出させたのは俺だが、立場上俺も流出を認めるわけにはいかない」
「部長、いったい何が?」
「高度な政治的判断としか言いようがない……極力お前たちに迷惑をかけないようにする」
「わかりました」
「三週間も不眠不休で働かせてこんな結果になって本当に申し訳ない」
向井水は神尾と鰯田に深々と頭を下げ、頭を上げるとドアを開けて部屋を出て行った。
「鉄さん、あんな部長は初めて見ました」
「放っておいてやれ。あと、休暇の許可が出た。二人とも同時で構わん」
「期間はどのくらいですか?」
「連続で五日間、土日を二回入れれば最大九日間だ」
「どうするイワシ君?」
「神尾さんはいいですけどね、僕はヒマがあってもお金が無いし……」
「そうだな、ゴンザレスの世話もあるしな」
「二人とも、話し合って日にちが決まったら俺に教えてくれ。以上だ」
根来が向井水を追って部屋を出て行くと、疲れた顔をした鰯田が神尾に話しかけた。
「神尾さん、あのデータが出るとシミュレーションの前提条件が変わってしまいますよね?」
「ああ」
「僕たちの努力が無駄になりませんか?」
「無駄にはならない。それに国民が見たら民民党が危機的状況にあることがわかり、それによって応援しようとか言う奇特な人が現れるかも知れない」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだ。イワシ君、努力は必ず報われると思ってる?」
「はい」
「残念ながらそれは誤りだ。その台詞は子供に対して言うんだよ。そうしないと子供は努力しないからな。でも大人は違う」
「どう違うのですか?」
「大人になればわかることだが、努力なんて報われることの方が少ない。言い換えれば無駄な努力の方が多い。だからと言って努力をしないわけにはいかない。報われないと思っても努力をしなければいけないのが大人ってもんだ」
「そうなんですか」
「とは言っても、ヘコむな。そんなにあっさり外部に流出して、データとしての価値が下がるとなると」
「部長が言っていた政治的判断って何ですか?」
「多分何かの選択だと思う。何か……データと同じような価値のものがあって、二者択一になってデータを切り捨てたのかも知れない」
「それは鉄さんも知っているのですか?」
「その可能性は高いが聞いても教えてもらえないだろうし、俺たちが知ってもどうにもなるものでは無い。それに部長が直接俺たちに謝罪すること自体がありえないから……このことは忘れよう」
「わかりました」
翌週の月曜日、神尾が出勤して党本部に入ると騒ぎになっていた。
「神尾君、これ見た?」
職員に渡された朝刊を見ると選挙シミュレーションの資料の情報が掲載されていた。
「いいえ……あ、ちょっとその新聞もらっていいですか?」
「まだ沢山あるからあげるよ」
神尾は新聞を受け取ると読みながら情報分析室に向かった。部屋に入ると鰯田が興奮した口調でしゃべり出した。
「神尾さん、先週の向井水部長の話はこれだったのですね? ちょっとここ見てください! これボクが計算間違いしたところがそのまま載ってますよ」
「イワシ君、間違ったことは俺と君の間で秘密になっているはずだが」
「すみません」
「それよりこの記事には『党の選対幹部によると……』と書いてあるから流出元は議員の誰かということになるが、部長じゃなかったのかな? とりあえず情報分析室はこれで疑惑を向けられることが無くなったな」
「それは良かったです。国民の電話が来ると面倒ですから」
「それより鉄さんは?」
「さっき部長に呼ばれて行きました」
「そう? じゃあ善後策の協議かな?」
党本部の応接室では、テーブルの上に置いた新聞を挟んで向井水と根来が向かい合って話していた。
「向井水、これはいったいどうしたんだ?」
「俺じゃ無い」
「じゃあ誰が?」
「ひょっとして石渡のオヤジかな?」
「どういうことだ?」
「資料を渡したあの後、石渡のオヤジに選挙のことで呼ばれたんだ。で、まあ事情が事情なだけに経緯の説明だけはしておいた」
「だとしたら資料は?」
「以前に一度だけ神尾に資料を持たせて事務所に行かせたが、コピーもされていないはずだし、神尾はすべての資料を持って帰ってきた」
「じゃあ誰が?」
「現時点ではわからん」
「まあ、それはいいとして党としての対応はどうする?」
「特に対応はする必要は無いだろう。それに明日になれば本命の週刊誌に詳細が掲載されて、騒ぎがもっと大きくなる可能性がある。それから対応を考えても遅くは無いだろう」
「とにかく結果として沢木のスクープ記事がスクープにならなかったわけだ」
「その点は良かった。まあ、ヤツも他に資料を流すなとは一言も言っていなかったから、それはこっちの落ち度では無い」
「あとは和田か」
「そうだ、今日の午後に和田と委員長を呼び出しているからちょっと付き合ってくれ」
「わかった」
党本部三階の会議室には和田と和田の出身労組である全連盟の石岡巧委員長がコの字に配置されたテーブルの椅子に並んで腰掛けていた。ドアがノックされ、向井水と根来が部屋に入ってきた。
「どうもお待たせしました」
向井水は和田と石岡の対面に座り、根来が壁際に立つと石岡が口を開いた。
「向井水部長、お久しぶりです。今日は何ですか? 重要な確認事項とのことですが」
「それは追ってお話します。今日はオブザーバーとして情報分析室の根来を同席させていただきます」
「ひょっとしてアレですか? うちの和田がテレビに出すぎるとか、服装が派手だとかそういったお話ですか? ははは」
「いや、そういった話ではありません」
「何か怒られるようなことをした覚えもないですし……いや、うちの和田はご存じの通り私の元部下でしてね、それが今じゃ国会議員ですよ。年収なんか私より遙かに上になっちゃいました。しかもテレビに出て何でもマダムキラーとか言われているらしくて私は正直言って悔しいんですよ。この前なんかね……」
向井水は話が止まりそうも無い石岡を遮った。
「石岡委員長、本題に入らせていただきます。先日、党本部にこのような写真が持ち込まれました」
向井水は封筒を根来に渡し、根来は歩いて石岡に封筒を渡した。石岡は怪訝な顔をして封筒を開けて中身の写真を見た。
「あ、これは……和田君、やっちゃったね」
石岡が写真を和田に見せると和田は眉をひそめた。
「確かにこれはうちの和田ですね。しかしまあ可愛いお嬢さんですね。和田君、これ誰? あ、先週行った銀座のクラブのホステスか!」
「そうです……委員長」
「まったく君は隅に置けないね。向井水部長、それでこれが表に出てしまうのですか?」
「いいえ、出ることはありません。こちらで止めました」
「それはご迷惑をおかけしました」
「出る出ないは別として、このようなことをやられるとこちらとしても……」
「部長、それは私の方からよく言って聞かせますよ。あまり目立つようにやるなと」
向井水は怒りを抑えて事務的に話を続けた。
「委員長、今は党にとって大事な時期です……」
「わかりましたよ。今度このようなことがあったら議員を辞めてもらいます。なあ和田君」
和田は頷いた。
「衆議院選も近くなっています。あまり党の信用を落とすようなことをされると……」
「部長、こんな写真くらい出たところで党の信用は落ちませんよ。誰でも一度くらいやっています。見つかるか見つからないかの話です。それよりこんな風に党本部の機密書類が流出した方が、よっぽど大問題でしょう!」
石岡は怒りだしてカバンから朝刊を出すとテーブルの上に叩き付けた。それを見た向井水は無言で立ち上がると目の前のテーブルを蹴飛ばし、和田と石岡の前に詰め寄った。二人は驚いて反射的に立ち上がった。
「いきなり、な、何だ!」
「ふざけるな委員長! 何がよく言って聞かせるだ。何が今度あったら議員を辞めるだ。辞めるなら今すぐ辞めろ! その議員はあんたの持ち物だろう、だったらまともに管理したらどうだ。何が国民のために働きますだ。比例代表の組織の議員が国民のために働くだと? あんたが国民のために働くなんてテレビで大見得切っている時に地道にポスター貼ったりチラシを配ってくれる組合員がいることを忘れたのか! そんなに国民のために働きたいなら選挙区で立候補しやがれ! そこで自分で供託金を用意し、選挙事務所を開き、人員を確保し、自ら選挙民に頭を下げて票を集めて当選すれば誰も文句は言わねーよ。だがな、もしそうなったら党本部は黙っていない。絶対にあんたは公認しない。落選覚悟で対立候補者を送り込む。共倒れになっても構わん。うちで抱えている票は一票たりともあんたには渡さん。それは日本中どこで立候補しても同じだ。流出した資料は、俺の出来の悪い部下が三週間不眠不休で作った資料だ。しかも一千万円以上も費用かかっている。それをこんなクソ議員のおかげで記者に渡す羽目になったんだ!」
向井水は完全に怯えている和田の胸ぐらを掴んだ。それを見た根来は向井水を後ろから羽交い締めにして和田から引きはがした。
「もうやめとけ!」
「根来、離せ!」
向井水は足のスリッパを和田に向けて飛ばした。
「向井水! 落ち着け」
向井水が息切れして落ち着いたので、根来は羽交い締めから解放した。
「言っておくが、この写真が問題じゃない。問題はこの議員が党の財政局長の立場を利用して政党交付金を横領しているという事実だ」
それを聞いた石岡の顔色が変わった。
「こちらが把握しているだけで六千万円。もっとあるかも知れん。そうだよな? 和田参議院議員?」
和田はうつむいたまま答えられなかった。
「そりゃ答えられないよな」
「和田君、それ本当なの?」
和田は消え入るような声で答えた。
「……はい。申し訳ありません」
根来は持っていた別の封筒から書類を出すと石岡に渡した。
「これがその証拠です」
石岡は書類を凝視すると力無く椅子に座った。
「こ、これは……もう終わりだ。和田君、何てことをしてくれたんだ……」
和田も椅子に崩れ落ちた。向井水は二人を見下ろした。
「党としましては刑事事件にするつもりはありませんが、時間の問題で表に出る可能性が高いと思います。単刀直入に言いますと和田議員、横領した金額を全額弁済した上で議員辞職していただけませんか?」
二人はうつむいたまま黙って聞いていた。
「返事は明日の五時までにお願いします。今日はお引き取りください」
向井水は入り口ドアに向かうと二人のためにドアを開けた。向井水は石岡の後に続いた和田が部屋から出るときに呼び止めた。
「ちなみに和田議員、そのいつも着ている青いスーツに黄色のネクタイの組み合わせって蛾の幼虫みたいだって評判ですよ」
向井水が微笑むと和田は無言で肩を落として廊下を歩いて行った。
「向井水、気が済んだか?」
「ああ」
「石岡もダメだろうな」
「辞めざるを得ないだろう。全連盟内部で周囲の反対を押し切って和田みたいな馬鹿を立候補させた責任を取らされる」
「今晩、飲むか? 竿の滴で?」
「いや、まだもう一つ仕事が残っているからそのあとだ」
翌日の午後、情報管理室に神尾が入ってきた。
「イワシ君、ほら今週末から俺たち休暇だろう? そしたら向井水部長が素敵なチケットをくれたぞ」
「チケットってなんですか?」
「ほら、これだ」
神尾はチケットを鰯田に見せた。
「ぎょくだまえん?」
「違う。
「特別優待って書いてありますけど、何割引なのですか?」
「本当は三割だが部長が話をつけて十割引きだそうだ」
「つまり……タダ?」
「そうだ。ただし今週末限定。ついでに言うと俺たちは出張扱いで旅費も出る」
「なるほど……」
「なるほどって君はうれしくないのか?」
「今週末はすでに予定が入っていまして……」
「行けないの?」
「一緒には行けません。そのチケットを神尾さんに差し上げますから、恵里菜さんと行ってきたらどうですか?」
「そうか、まあ君と行くよりはるかにいいけど。彼女の旅費は俺が出すとしても……君は何だか良い人になってきたね」
「ありがとうございます。部長には私のほうから説明しておきます。それはそうと神尾さんはこの週刊誌見ました?」
鰯田は週刊誌を神尾に見せた。
「いや……あ、これも流出記事だ。しかもスクープって書いてあるけど昨日の新聞でスクープされているからスクープじゃないし」
「本部で対応はしていないのですか?」
「特に対応はしていないようだ。国民の電話もあまり無いようだし、あっても『大変でしょうけど頑張ってください』みたいなことらしい」
「流出して良かったのですかね?」
「結果としてあまりマイナスにはならなかったみたいだ」
「部長の判断は正しかったのですか?」
「いや、部長は意図的に流したわけじゃない。まだ良くわからないが……いや、そんなことはどうでもいい。早く恵里菜に連絡しないと今週末の予定を勝手に入れられてしまう」
神尾は携帯電話でメールを打ち始めた。
石渡の事務所では議員室で石渡が週刊誌を読んでいた。そこに福田が入ってきた。
「先生、うまく行ったみたいですね」
「ああ。これじゃ二番煎じで大したインパクトは無い」
「それにしても先生はどうやってデータDVDを手に入れたのですか?」
「もともとDVDを手に入れる気は無かったんだ。この前、神尾君が来たときにDVDを借りたんだが、それがよく見たら円盤の表面に何も印刷されていなかった」
「でもそれは神尾君に返却されたのですよね?」
「いや、そのとき返却したのは私の机の中にあった中身が空のDVDで、見た目はほぼ同じものだ」
「え!」
「実はDVDの中身をもっと見たくて空のDVDに入れ替えて返したら、神尾君がそれに気がつかなかった」
「でも中身を確認されたら……」
「さすがにそこまで確認しないだろう。それで、後日向井水部長のところに返しに行こうと思っていたら和田議員の一件が起こった。それを聞いて、知り合いの新聞記者に流してしまおうと考えたわけだ」
「でも流出させた犯人捜しをされたらマズいですよね?」
「それはあり得ない。探したところで誰も得をしないから」
「ちなみにそのデータDVDは?」
「新聞記者から戻ってきたDVDは昨日、本部に行って入れ替えてきた。流出騒ぎのどさくさに紛れて、この前のDVDを見せてくれって言って」
「でも他のDVDの表紙も白だったら見分けが……」
「その点は大丈夫だった。実はDVDを私のPCに入れるときにデータ面に傷を付けてしまってね、読み取りにはまったく問題が無かったのだが、同じような傷を空のDVDのデータ面に傷を付けて神尾君に渡したんだ」
「ずいぶん悪知恵が働きますね」
「もしもと思ってね。だから本部で『この前お借りしたときに誤ってDVDに傷を付けたのでそれも確認したいので……』といって目的のDVDを借りて入れ替えたのさ」
土曜日、浴衣姿の神尾と恵里菜は珠玉苑の食堂で窓際に座ってバイキング形式の夕食をとっていた。
「稔さんと初めての温泉旅行ね」
「ああ。俺も温泉なんて十年ぶり以上かな」
「私は二年ぶりくらいだけど、こんなに客が多い温泉は初めてだわ」
「またアレだろう? 個室のとんでも無く値段が高い温泉?」
「個室だったけど値段はわからないわ」
「とにかく今回の旅行はほとんどタダなので良しとしてくれ」
「稔さんと一緒なら何でもいいわ」
「俺も恵里菜と一緒なら……あ!」
神尾は、恵里菜の肩越しに見えた客を見て声を上げた。
「どうしたの?」
「何か今、嫌なものを見たような気がする」
「嫌なもの?」
「鰯田に似たヤツが皿に死ぬほど料理を乗せて歩いていたような……」
「え? 鰯田さんはここには来られないって話でしょう?」
「そうだけど……気のせいかな?」
神尾は周囲を見回したがそれらしき人物は見当たらなかった。
「多分そうよ」
「そうだな、じゃあデザートでも取りに行くか?」
神尾が立ち上がろうとしたとき、四人組の男の集団が静かに神尾と恵里菜のテーブルで立ち止まった。
「浮田恵里菜さんですね、初めまして。いつも神尾がお世話になっております。私は民民党本部で一番偉い部長をしています向井水と申します。そしてこっちが神尾の直接の上司である根来です」
――根来です、初めまして
「そしてこれが私の弟の向井水良介。ゲイバーの店長です」
――赤坂で店をやっているので今度来てね~
「最後に浮田さんもご存じの鰯田です」
――この前会ったばかりの鰯田です
神尾は四人を見て呆れて天を仰いだ。
「今回は私たちも偶然出張でこちらに参りまして、そうしたら偶然神尾の姿を見かけたものですから……あ、そうだ。ここじゃ何ですから食堂を出たところの喫茶店でお茶でもしましょう。私たちは食い意地の張った鰯田が食べ終わってから喫茶店に行きますから先に行って待っていてください」
「はい……」
恵里菜がわけもわからず頷くと、四人は立ち去った。
「悪夢だ……」
「でも皆さん良い人そうじゃない?」
「人を見かけで判断してはいけない」
「ここのタダ券をくれたのは向井水部長なんでしょう?」
「だからと言って良い人とは限らない」
「とにかくデザートは無しにして喫茶店に行ってケーキでも食べましょう」
「いや、別に彼らに付き合う理由は……」
「でも部長さんに待ってて言われたじゃないの?」
「業務命令じゃないし」
「私もお礼を言いたいし、いいじゃないの」
「わかったよ……」
神尾は渋々立ち上がると恵里菜と喫茶店に向かった。喫茶店では六人が奥のテーブルに座ってケーキを食べながらコーヒーを飲んでいた。
「神尾さん、言っておきますが僕は出張で連れてこられただけです」
鰯田は弁解をした。
「予定が入っているって言っていたじゃねーか?」
「はい。これがその予定で、出張です。ちなみに部長には口止めされていました」
「良い人は訂正する。お前はやっぱり嫌なヤツだ」
「神尾、そう言うな。これは俺の計画で、前に人質になったときにお前にされた嫌がらせのお返しだ」
「そんな前のことを今頃ですか?」
「俺は執念深いんでな」
向井水はニヤリと微笑んだ。
「部長、若者の恋路を邪魔して楽しいですか?」
「ああ、楽しいね」
険悪な雰囲気の向井水と神尾の間に恵里菜が割って入った。
「向井水部長さん、ここの温泉は民民党関連の施設の一部ですか?」
「浮田さん、部長で構いません。お察しの通りここは保養施設です。何故そう思われたのですか?」
「団体客の皆さんが一般の宿泊客には見えなかったものですから」
「民民党はこのような施設は持っておりません。この保養施設は全連盟と言う労働団体が所有しているものです」
神尾が驚いて向井水に尋ねた。
「そりゃ知らなかった。全連盟って、先日議員辞職した和田武夫の支持労組ですよね?」
「ああ、何でも体調不良とかで議員辞職したらしいが」
「そういえば石岡委員長も辞任したと聞きましたが」
「委員長は退職だ。和田議員の後見人みたいなものだったからショックだったのかも知れんな」
「なーんだ、労組の関係でチケットとかタダにできたんですね? そういうことなら、一番高い部屋にしてくれればもっとうれしかったのですがね」
「稔さん、ちょっとそれは言い過ぎ……」
「浮田さん、いいんですよ。コイツはいつもこうですから。神尾、お前は俺の力を見くびっているようだな。浮田さん、ちょっとすみません」
向井水は携帯電話を出すと話しだした。
――先日はお世話になりました。向井水です……はい。ちょっとお願いなのですが、例の二人の部屋の変更は可能でしょうか? ええ、例えば十二階の貴賓室は大丈夫でしょうか? はい、朝食もそこで取れるのですよね? あとチェックアウトの時間をお昼にしてもらえますか? いや、若者のカップルですから夜は色々忙しいでしょうし。ははは……一階の喫茶店にいますのでよろしくお願いします
向井水は電話を切って神尾に顔を近づけた。
「お前のご希望に応えて部屋を変えてやった。十二階の貴賓室だ。部屋に露天風呂もついているし、ついでにチェックアウトも遅くしてやった。あとで貴賓室の鍵を持って支配人が来るからそれを受け取れ。荷物はあとから移動させればいい」
「ありがとうございます部長……って最初からそうすれば良かったじゃないですか」
「何だと!」
呆れた根来が仲介に入った。
「神尾、向井水は部長の威厳を見せびらかしたいのだからわかってやれ。それに貴賓室は全連盟の幹部しか宿泊できない無駄に豪華な部屋だから一見の価値はある」
「わかりました……」
根来は話題を変えるために恵里菜に話を振った。
「浮田さんは保守自由党の秘書さんと伺っていますが、最近そちらの感じはどうですか?」
「感じと言われましても、うちの党は派閥の集合体でいつも揉めていて、最近は山水会の動きが激しいくらいです」
「山水会と言われますと田中恭司の?」
「はい。本当に嫌な感じの議員でしょう? それがこの前罷免された藤原防衛庁長官の一件で、執行部に対して相当頭に来ているみたいです」
「そうなんですか」
「それでこの前山水会の会合のお手伝いをした時に、田中恭司が派閥のナンバー2に『私は今国会で野党が内閣不信任案を出した場合には賛成して党を出ようと思う』とか耳打ちしているのを聞いてしまいました。金がある派閥は違いますね、ほほほ」
「え!」
「え!」
「え!」
「え!」
「え!」
恵里菜を除く五人が驚いて声を上げた。
「あれ? 私、何か驚かせてしまいました?」
向井水が真顔になって恵里菜に尋ねた。
「そのお話はいつのことですか?」
「先週の火曜日のことですけど……」
「つまり田中恭司は派閥の議員を連れて離党すると言う意味でしょうか?」
「だと思います。田中恭司は言ったことは必ず実行しますから……というか私、何か重要なことを喋ってしまいましたかしら?」
「恵里菜、それは重要と言うか、話が確実なら野党は喜んで内閣不信任案を出してしまう」
「え! それじゃあ衆議院が解散してしまうじゃ無いの!」
「は? それは当たり前の話で……」
「次に解散した時は地元で選挙を手伝ってくれって言われているのよ! ビラ配りすると日に焼けるし、議員の田舎は食べ物が不味いし、本当に行きたく無いのよ!」
「恵里菜、この話は恵里菜から聞かなかったことにしておくから。部長、そういうことでお願いできますか?」
「わかった」
微妙な空気が流れる中、支配人が貴賓室の鍵を持って来た。
「神尾様は……」
「私です」
「部屋の説明などもありますので、お連れ様と一緒に貴賓室まで来ていただけますでしょうか?」
「わかりました」
神尾と恵里菜が立ち上がった。
「部長、ここの支払いは……」
「心配するな。俺たちは明日早く帰るからこれでお別れだ」
「はい。それでは皆さん失礼します」
神尾が一礼して立ち去ろうとする背中に良介が叫んだ。
「二人とも、今晩は激しく行きなさいよ!」
それを聞いて向井水と根来と鰯田は笑い出した。
翌週の月曜日、党本部の応接室で向井水は熊本と話していた。
「熊本党首、ですので不信任案を出すなら田中恭司の気が変わらないうちに早く出した方が良いと思います」
「その情報は確かなのですか?」
「確かだと思います」
「選挙の準備の方は?」
「九割ほどです」
「わかりました。我が党単独で不信任案を出しても良いのですが、一応の他の野党と早急に調整したいと思います」
「そのようにお願いします」
その時向井水の携帯電話が鳴り、発信元を見てからからとった。
「はい、福田さんどうしました? いつですか? わかりました。どこの病院ですか? 熊本党首はここにいますので私の方からお伝えします。では」
向井水は電話を切った。
「向井水部長、何かあったのですか?」
「石渡参議院議員会長の秘書の福田さんからの連絡で、石渡議員が自宅で倒られました」
「いつですか?」
「今朝のことだそうです」
「意識は?」
「詳細は不明ですが、今病院で詳しい検査をしているとのことです」
「病院にすぐに向かいましょう。午後の予定はすべてキャンセルします」
「わかりました。私もご同行しますので、党本部の車両を回させます」
向井水は内線で車両を手配し、熊本は携帯電話で連絡を取り始めた。
向井水と熊本が病院に到着すると福田が出迎えた。
「こちらです」
二人は入院病棟の個室に案内された。部屋に入ると石渡がベッドに横たわっていた。熊本が先にベッドに近づくと石渡は照れ笑いをしながらしゃべり出した。
「ご心配かけて申し訳ない。出かけようとしたら自宅でクラッとして倒れて頭をちょっと打ってね、動けなくなったところを福田君に助けてもらったんだ」
「ご無事で良かったです」
「今はね。一応他にも調べることがあるようなので検査したけどね」
ドアがノックされ、医師が入ってきた。
「石渡さんとお話があるのでよろしいでしょうか?」
二人がそう促されて廊下に出ると、上串夏子と鉢合わせした。
「向井水部長、お疲れ様です。医師からお話はお聞きになりましたか?」
「上串先生もいらっしゃっていたのですね? いいえまだです。ちょっと広報部と話してきますので外で携帯電話を使ってきます」
向井水が急いで一階に下りると熊本は夏子に話しかけた。
「到着が早かったね」
「たまたま近くにいたものですから。さっきの医師は私の大学時代の後輩で、さっき石渡先生の病状を聞いてきました」
「で、検査の結果は?」
夏子は沈痛な顔をして答えた。
「石渡先生は急性骨髄性白血病です」
「え?」
「至急抗がん剤の治療を始める必要がありますが、問題は石渡先生がご高齢と言う点です」
「と言うと?」
「かなり体力的に厳しい治療を施すことになりますので、ご高齢の方は耐えらない可能性があります」
「骨髄移植は?」
「原則的に五十歳以下でないと」
「となると治療は?」
「原則的に延命治療になります」
「そうか……」
熊本は天を仰いだ。
「先生にご家族は?」
「誰もいないと聞いている。奥さんを二十年前に亡くされ、子供はいない。ご兄弟を含む家族も太平洋戦争ですべて亡くされている」
しばらく沈黙が続いたあと、病室から医師が出てきた。夏子が医師に話しかけた。
「石渡先生はどうだった?」
「すべての病状および治療法を説明し、理解していただけました」
「どうもありがとう。熊本さん、こちらは谷本医師です」
「熊本です。どうも石渡先生がお世話になりました」
熊本は谷本に礼をした。
「中に入って石渡さんとお話しください。ご本人もそれを希望しています」
谷本はそう言うと熊本と夏子に一礼してその場を立ち去った。熊本は大きく深呼吸するとドアノブに手をかけてドアを開け、夏子を伴って病室に入った。
「先生、お話はすべて伺いました」
「二人とも、何もそんな悲しそうな顔をすることは無いよ」
「しかし……」
「寿命だよ、寿命。私の寿命が来ただけだ」
「あまりにも急なことので言葉が見つかりません」
「熊本君、言葉なんかいらないよ。それに私はね、神尾君に助けてもらってからの人生はおまけだと思っているんだ。だからやり残したことは無い。長い議員人生の中で私はできる限り世の中を良くしようと努力してきた。最初のうちはがむしゃらに悪と戦って排除しようとしてきた。でもそれでは何も変わらなかった。悪なんてキリがない。そしてある時気がついた。まず良いも悪いも理解し、それら両方を自分で受け止めることが重要なんじゃないかと。そうしたら徐々にうまく行くようになってきた……病気も同じだ。私は病気を受け止め、不必要に戦うことはやめようと思う。だから君たちも普通に私に接してくれ」
「承知しました」
熊本はそう言われて肩の力を抜いた。石渡は熊本の後ろに寄り添う夏子を見てうれしそうに尋ねた。
「何だか君たちは仲がよさそうだね?」
「ご報告が遅れました。私たちは付き合うことにしました」
「いい大人が付き合うとかじゃなくて、とっとと結婚したらどうだね? 早くしないと私からご祝儀をもらう前に香典を払う羽目になるよ」
「先生……笑えない冗談はやめてください」
「上串先生、熊本君のことは好きなの?」
「はい」
夏子は耳を赤くして答えた。
「熊本君、君の家の留守番電話はどうなった?」
「録音内容を消去してそばにあった写真と一緒に捨てました」
「じゃあもう大丈夫なんだ」
「はい」
「それは良かった。上串先生のおかげだな。それならなおさら結婚しなさいよ」
「実は次の選挙が終わったらプロポーズをしようと思っていました」
「じゃあ決まりだ。上串先生、良かったね」
「はい」
満面の笑みを浮かべた夏子は熊本の後ろ手を石渡から見えないように強く握り、熊本も握り返した。
「石渡先生、今日のところはここまでにしてまた来ます」
「またね」
熊本と夏子は石渡に一礼をすると病室を後にした。
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