第七話 参議院議員会長・石渡武士

 民民党本部の会議室では衆議院議員選挙に向けての選挙対策会議が開かれ、静岡県連の幹事長は沈痛な表情で出席者たちの批判を受けていた。

「じゃあ幹事長、結局候補者である彼女は石田剛いしだつよし参議院議員の愛人だったってこと?」

「簡単に言えばそういうことになります」

「今になってわかったの?」

「申し訳ありません」

「もうお金だって結構使っているよね? ポスターだって刷っちゃったし選挙事務所だって借りてるんでしょう?」

「はい」

「まったくいつも静岡はそうだ。候補者選定でさんざん揉めた挙句にこれですか?」

「申し訳ありません」

「まあ、愛人とわかった以上、候補者として党が公認するわけにはいかないな。他の候補者を探すしかあるまい」

「しかし、他と言われましてもすぐには立てられない状態です。とにかく今の候補者の方は私が必ず説得して降りてもらいます」

「それはもちろんだが、早急に候補者を探さないと間に合わないだろう。静岡三区は激戦が予想されているし」

「申し訳ありませんが、すぐにとは……」

全員がしばらくの沈黙したあと、選挙対策委員長の花村和雄はなむらかずお参議院議員(六十歳)が口を開いた。

「石渡議員会長……どなたか良い人がいらっしゃいませんか?」

オブザーバーとして壁際の椅子に座っていた石渡武士(七十五歳)はしばらく考えたあと口を開いた。

「わかりました。二三心当たりがあるので聞いてみます。一週間ほど時間をください」


 棘崎幸三郎きょくざきこうざぶろう教授(五十歳)は講堂で二百人ほどの学生の前で授業をしていた。

「この前、親戚の中学生に勉強を教えようしたところ、『学校の勉強は社会に出ても役に立たないからやりたくない』と言われました。困った中学生です……」

棘崎は頭を掻いた。

「そもそも、役に立つとか役に立たないといった概念で勉強はするものではありません。勉強は単にその時にやるべき事だからやるだけなのです。他に理由はありません。『学校の勉強は役に立たない……』などと言っている人は勉強をしたくない、もしくは勉強から逃げている人間の言い訳です。勉強は死ぬまで終わらないと言うことを肝に命じていただきたい。ということで今から諸君にこれらを見て物事の本質について考えてもらいます」

棘崎はカバンの中に手を入れて中身を机の上に並べた。

「ここにあるのは金の延べ板、ペットボトルの水、小型懐中電灯です。ちなみに金の延べ板は本物ですが私のものではなく、借りてきたもので時価数十万円です。それぞれは見た目も異なるし用途も異なります。今ここでどれか一つを手に入れることができるとしたら君たちは恐らく金の延べ板を欲しがるでしょう。ではこの場所が砂漠であればどうですか? 水と答えるでしょう。ここが洞窟であるとすれば懐中電灯です。単純に考えると、実用性が最も無いのは金の延べ板です。そのままでは使い途が無いからです」

棘崎はそれぞれを手にとって学生たちにかざした。

「今、君たちは『形に惑わされるな』あるいは『状況によって価値観は変わる』などと考えていると思います。確かにそれは間違いでは無いですが五十点です。誰もがそこには到達することが出来ます。ですが、私の授業でそんな簡単な問題を出すわけがありません。今日の授業の重要な目的は『物事の本質』です。本質とは何か? 簡単に言えば真の姿です。これを見極めることができるかどうかに君たちの将来はかかっています。というわけで、今から五分でこの三つの物に共通する本質を考えてください」

棘崎は教壇から降りて通路を歩き出した。学生の間を通って座っている学生がまばらな最後列に着くと座っている石渡に話しかけた。

「石渡先生、ご無沙汰しております。いつからここにいらっしゃったのですか?」

「最初からいました。なるべく目立たないようにしていたのですがね」

「ここでは何ですので私のオフィスでお待ちください。今部屋を開けますので」

「棘崎先生、ここで構いません。授業が終わってから伺います」

「そうですか……では授業が終わりましたら私がオフィスにご案内します」

棘崎はその場で振り返って授業を再開した。

「さて、五分経過したわけだが回答がわかった人は手を上げて」

手を上げる学生はいなかった。

「ここで回答が出せたら百点満点なのだが誰もいないようですね。見た目で物事の答えを出すのは困難であることがわかったでしょう。では、次に実際に触って回答を探ってもらいます。人数が多いので君たちを代表して最前列に座っている諸君が順番に教壇に上がってそれらに触ってください。ただし、金の延べ板を持ち逃げしないように」

最前列の学生たちは笑いながら言われた通りに整然と教壇に向かった。石渡は棘崎に話しかけた。

「今の学生は大人しいですね」

「はい。間違った答えでも良いから突っ込んでくると言う学生は少ないですね。ただ、私の言うことは良く聞いてくれるのでやりやすいです。それはそれでこちらとしてはつまらないのですが……」

「棘崎先生、答えはわかったような気がします」

「何でしょう?」

石渡は棘崎に耳打ちした。

「正解です。では授業に戻らせていただきます」

棘崎は微笑んで歩き出すと教壇に戻った。

「さて、最前列の諸君の答えを聞きます」

棘崎は最前列の学生を見回した。一番左に座っている女子学生が手を上げた。

「はい、では立って皆に向かって答えてください」

女子学生は立ち上がり、振り返って答えた。

――多分……ですが、重さが同じであるということだと思います

「正解です。ありがとうございました。座ってください」

棘崎は机の上の金の延べ板、ペットボトルの水、懐中電灯をそれぞれ手で持ち上げた。

「わかってみれば何でも無いですが、これらはすべて百八十グラムです。洞察力が鋭ければ見た目で水は二百ミリリットル前後だとわかり、見かけの金の体積と比重それと私が言った金の値段からこれも二百グラムに満たないと予想できます。小型懐中電灯に至っては普通に考えても二百グラム前後でしょう」

棘崎は机に座ると出題したペットボトルのフタを開け、水を半分ほど飲んで横に置いた。

「本質というものは直接見えないことが多いのです。例えばこの三つを物理的な重りとして見れば形状の違いだけであり、金銭的価値や用途など何の意味もありませんい。重りを必要とする事態になれば気がつくかも知れませんが、普段の生活ではこの三つの重さが同じであると気が付く人間はほとんどいないでしょう。私が言いたいのは物事はあらゆる角度から見ることが重要であるという事です。今回の場合の本質は隠れた共通点でありましたが、時としてそれは逆の性質を意味することもあります。とにかく、見た目に惑わされず、よく観察して判断するように心がけることが重要です」

棘崎は机から降りて机の上の物をカバンの中にしまった。

「それでは来週金曜日までの宿題を出しておきます。小論文でお題は『その後の日本』です。書き出しは『二十一世紀初頭の日本は不況にあえぎ、政治も不安定を極め、人々の士気は落ちていました……』といった感じで始めてください。このように百年後の世界から現在を見た状態を説明し、その後百年間で何が起こってどうなったかを三千字以上四千字以内で書いてください。百年後の日本は良くなっていても、悪くなっていても構いません。あらゆる想像力を働かせ、架空のシミュレーションを組んでダイナミックに書いてください。詳細は私のサイトで確認してください」

終業のベルが鳴った。

「それではまた来週……」

棘崎は教壇を降りると石渡の席まで歩き、そのまま二人で棘崎のオフィスに向かった。


 石渡は棘崎に促されて来客用のソファに腰掛けた。

「石渡先生、大変ご無沙汰しております」

棘崎は軽く礼をしてお茶を石渡の前に置いた。

「棘崎先生も随分ご立派になられました。立ち振る舞いがお父様にそっくりですね」

「それは喜んで良いものか悪いものか……今日はどんなご要件でしょう?」

「いや、要件はやめておいて今日はこのまま帰ります。先程の講義を聞いて先生は現在の職業の方が日本のためになると感じました」

「……立候補のお誘いですか?」

「そんなところです。うちの党は人材難なものですから」

石渡はお茶に口をつけた。

「ちなみに衆議院ですか?」

「はい。先生がお生まれになった磐田市を含む静岡三区です」

「そこはすでに民民党の立候補予定者がいらっしゃいましたよね?」

「ちょっとその候補者に問題が生じまして……」

「石渡先生が立候補のお誘いをかけるのは私が最初の人間ですか?」

「はい」

「でしたらその話をお受けさせていただきます」

「本当によろしいのですか?」

「『最初の選択が最良の選択』が私の哲学です。最初に選んでいただいたのなら恐らく私がベストの選択だと思います」

「激戦区ですが」

「構いません。父は何かあったときは石渡先生の力になるように言い残して亡くなりました。私でお役に立てるのでしたら光栄です」

「ありがとうございます。大変助かります。詳細は一両日中に係りの者から連絡させます」

石渡は立ち上がると棘崎と握手を交わした。


 午前十一時半、民民党本部の小会議室では情報管理室主催で各部署の担当職員が集められ選挙対策実務者会議が開かれていた。テーブルを囲んで司会は向井水、中央には根来が座り、壁際の椅子には雑務担当で神尾と鰯田が座っていた。

「それでは次に根来室長に現状の問題点について説明していただきます」

向井水に促された根来は手元の資料を見ながら説明を始めた。

「お手元の資料の十四ページに、現時点における各選挙区ごとの得票予想が書いてあります……」

出席者全員が資料に目を落とした。

「見ていただければわかるのですが、得票数の誤差の範囲がプラスマイナス十五パーセントとなっています。私のところで使用しているシミュレーションソフトではここまでが限界であり、精度を上げるためには皆さんの協力が必要なのです。特に……」

根来の話の途中で、組織対策局の藤巻が根来に喧嘩を売ってきた。

「そんな程度だったら情報分析室なんか必要ねぇんじゃねーか? わけのわからないコンピュータにバカ高いリース代金を払ってよ」

「藤巻さん、あなたのところで持っている支援団体組織率などのデータさえ出していただければ誤差が五パーセントで収まるんですがね」

「そんなの出せないね。そもそもこの選対会議だって最初は組織対策の一環で始まったわけだだろう? 俺が情報分析室にデータを渡す義理は無いね」

向井水が割って入った。

「藤巻さんよ、もう今はデータ処理しないと選挙は出来ないんだよ」

「そんなことはわかってるよ。ただ俺は手順の問題を言っているんだよ。組織対策で始まった会議なんだから情報分析室にも仁義を通してもらわないとな」

藤巻は根来の顔を見た。

「俺に何をしろと?」

「データだよ。データに俺の部署からでもアクセスできるようにして欲しいんだよ」

「それは前にも言ったとおりデータへのアクセスは情報分析室のみにするということで決着しているだろう」

「多数決でな。俺は最後まで反対した」

「藤巻さんよ、そんな話を蒸し返したところでどうにもならんだろう? とにかく今は選挙の話だ」

「じゃあ勝手にアンタたちでやったらいいだろう」

向井水が立ち上がった。

「藤巻さんよ、いい加減にしねぇと……」

 その時、会議室のドアがノックされて会議が中断され、昼食が運ばれてきた。神尾と鰯田は立ち上がって弁当を出席者に配りながら小声で話しだした。

「イワシ君、昼飯はちゃんと頼んだ?」

「言われた通りに弁当を人数分プラス一個頼んでおきました」

「じゃゃあ全部で十五個だな」

「はい。でもそんなに昼飯は重要なのですか?」

「重要だ。とにかく腹が減ると人間は怒りっぽくなる。揉め事が始まったら飯を食わせて黙らせることが重要だ」

「このままだと一個余りますが……」

「君が二個食べればいい。足らないと大喧嘩になって大変なことになるからな」

「いい大人が食べ物で喧嘩ですか?」

「ああ。何回も見た」

「じゃあ僕が二個いただきます」

「このまま食事休憩に入るから俺達も部屋で食べてからここに戻ってこよう」

神尾と鰯田は弁当を配り終わると弁当を持って情報分析室に戻り、自分の席で弁当の包みを開け始めた。

「まったく藤巻のオヤジは面倒だ」

「あれじゃ話になりませんね」

「それにしても……イワシ君、これは何だね?」

神尾は弁当に付いてきた容器を開けた。

「弁当のチラシに今週だけ五十円プラスで蕎麦が付くと書いてあったので追加しました。大丈夫です予算は超えていません。それの方が豪華かなと思いまして」

「そうじゃなくて、俺言わなかったか? 蕎麦はダメだって」

「いや、聞いていませんが……」

「それはマズイ……」

神尾は立ち上がると会議室に走った。鰯田も訳が分からず神尾に続いた。神尾が会議室のドアを開けると藤巻と根来の怒号が飛び交っていた。

「根来! テメー何の真似だ!」

「だから悪かったって言ってるだろう」

「本当は俺に対する嫌がらせなんだろう?」

「嫌がらせだったらもっと他の方法を考える」

「何だと? これだって十分悪質な嫌がらせだろうが!」

他の出席者は半分呆れて二人の喧嘩を見ながら食事をしていた。仕方なく向井水が間に入った。

「藤巻、それぐらいで止めておけ。別に根来だって悪気があったわけじゃない」

神尾が藤巻に近寄って説明をしようとしたところ、根来が神尾を手で制した。神尾は頷き、鰯田と一緒に会議室の外の廊下に出た。

「何がどうなったのですか?」

「藤巻のオヤジは重度の蕎麦アレルギーなんだ」

「え!」

「あんな量の蕎麦を食わしたら一時間後に呼吸困難で死ぬことは間違いない。まあその方が日本の為になるけどな」

「す、すみません……」

「いや、俺が言わなかったのが悪かった。それにしても別に蕎麦を食べなければいいだけの話なのに何であそこまで喧嘩腰になるのかね、あのオヤジは」

 会議の途中から神尾と鰯田は情報分析室に戻り、そこに会議を終えた根来が戻ってきた。

「鉄さん、すみませんでした。イワシ君に蕎麦アレルギーのことを言うのを忘れてました」

「別にいいよ。あんな糞面倒な野郎は蕎麦でも食って死んじまえってところだ」

「結局どうなりました?」

「藤巻のところからデータをもらってきた」

根来は神尾にCDを渡した。

「え! 藤巻さんが折れたのですか?」

「折れたと言うか……まあ結局、向井水が例の屋外の喫煙所に屋根を付けるという交換条件で話は落ち着いた」

「そんな条件で落ち着いたのですか?」

「本当にあいつはバカだ。それで向井水と話をしたのだが、今回の選挙シミューレションはさらに厳密に行うことになった。俺は主要な都道府県を回ってデータに出てこない情報を収集してくる。だから出張が多くなるのであとはよろしく。それとソフトウェアを書き換えてもっと見やすくする。で、君たちにこのデータの入力をお願いしたい」

「外注ではダメなのですか?」

「それがソフトウェアの書き換えに費用がかかって入力を外注に出せなくなった」

「期間はどのくらいですか?」

「約一か月だ。その後二週間以内にシミューレションをして結果を全体選対会議で発表する」

「結構厳しいスケジュールですね」

「残念ながらスケジュールは変更できない」

「わかりました。二人ですぐに入力に取り掛かります」


 石渡武士は衆議院第一議員会館の会議室において当選回数二回までの新人議員研修会で講演を行っていた。石渡の後ろには講師である古参国会議員や大学教授などが並んで座っている。

「新人の皆さん、今日は挨拶の代わりに一票の重さについて話したいと思います。皆さんが今、この場所にいることができるのはその一票の積み重ねの結果であることは疑いの余地が無ありません。偶然でこの場所にいる人間など存在しません。ではその一票とは何であるかと言えば国民から託された希望であり、願いでもあります。まずそのことを十分理解していただきたい……」

石渡が部屋を見渡すと四十人ほどの新人国会議員は興味無さそうに私語を交わし、中には携帯電話を操作する議員もいた。石渡はため息をつくと再開した。

「そこで携帯電話を見ている……確か愛知の佐藤真一さとうしんいち君ですね? その一票を集めるためにはどうしたら良いと思いますか?」

不意をつかれた佐藤真一は思わず立ち上がって答えた。

「自分の顔を覚えてもらうことだと思います」

「なるほど。ですからあなたははテレビ放映される党首討論の後ろで背後霊みたいに熊本党首と一緒に毎回映っているわけですね。ちなみにあなたはテレビに映るときは必ず眉毛を描いているようですが、今日は描いていないようですね……座ってください」

着席した佐藤真一は恥ずかしそうに顔を伏せた。

「他にはありませんか? はい、そこのあなた」

石渡は手を挙げている議員を指名した。

「国民に政策を理解してもらうことだと思います」

「千葉の……鈴木泰治すずきやすはる君ですね。官僚出身のあなたはいくつも政策の提案を書いては党執行部に提出していますね。ちなみにあなたの提案書はすべて捨てられています。しかも残念なことに誰も読んでいません」

鈴木泰治は不貞腐れて窓を見た。

「お二人の行動は間違いでは無いのですが、それは樹木の枝葉の部分であって幹の部分の話ではありません。幹の部分は国民のために働くと言う強固な意思です。極端なことを言えば、あなた方は国会議員に当選した瞬間からその生命は国民のものなのです」

多くの出席者はウンザリとした顔をした。

「確かにジジイの戯言かも知れません。ここにいるすべての皆さんは戦後生まれです。今は日本最大の経済危機だとか不況だとか言っていますが、戦時中に比べれば大したことはありません。戦時中は母親の腕の中で餓死する赤子を見ても何の感情も沸かず、道端の死体から水筒を平然ともぎ取るような世界でした。戦後は目の前で理不尽に殺される人がいても誰も助けることができず、正義など無きに等しい状態に絶望するような世の中でした。私はそうした国民の姿を見て、将来は国会議員になってこの国のために尽くすことを決めました。そして志を同じくする議員と共に日本のために働きました。皆さんが働くこの国会では過去多くの国会議員が汗や血を流して国民のために働いてきました。そして役目を終えた彼らは新しい議員に将来を託してこの場を去って行きました。私ももうすぐ役目を終えますが、このままでは皆さんに日本の将来を託すことはできません。もっと国民のことを考えて働いてください。国会議員になったことに舞い上がり、国会議員の本分を見失っている方を多くみかけます。まるで遠足に来た小学生のようにはしゃいでいる方もいるようですが永田町は断じて皆さんの遊園地では無いのです!」

石渡の強い語気に出席者は静かになった。石渡は一呼吸置いて参加者全員を見渡した。

「この中の衆議院議員の皆さんは近いうちに選挙に臨み、一票のために人生を賭けて戦うことになります。残念ながら私はその一票を皆さんのために集めることはできません。ただこれだけは言えます……私のように長く生きてくれば選挙やその他の事について勝つことも負けることも多くなってきます。恐らく私は負けたことの方が多かったと思います。でも私はこうしてこの場所に国会議員として立っています。何故この場所に立つことができるのかと言えば、それは立ち直りの早さに尽きると思います。負けたからと言っていつまでも倒れているわけにはいきません。選挙が終われば、ここに戻ってくる人もいれば戻って来れない人もいます。ここに戻ってきた人は、戻って来れなかった人の為にも全力で国会議員として働く責務があります」

石渡は窓際に歩み寄って外を見た。

「ま、堅い話はここまでとして、国会議員になると気持ちが良いですよね。官僚を呼びつけて言いたい放題言ったり、様々な特権は与えられるし、海外を含めてどこに行っても不利な扱いは受けないし、パスポートの色は違うし、テレビにも映るし、給料も高いし、衛視は敬礼してくれるし……ちなみに彼らが敬礼しているのはあなたでは無くて議員バッジなのですがね……まあとにかく一度やったら止められませんね。中毒になる人が出てもおかしく無いです。まあ『国会議員ジャンキー』とでも言うのでしょうか。最後にもう一度言いますが国会議員の本分だけは見失わないようにしてください……では講師の皆様お願いします」

石渡は講師に席を譲った。


 快晴の土曜日の夕方、箱根の山道を二人乗りした大型バイクが駆け降りてきた。運転者は熊本、後ろに夏子が乗っている。バイクのタンクの上にはツーリングバッグが取り付けられ、夏子は背中にバックパックを背負っている。バイクは山道の途中にある温泉宿の駐車場にゆっくりと停車すると、二人はバイクを降りてヘルメットを脱いだ。

「到着しました。今晩のお宿です」

「バイクって想像以上に安定しているのですね」

「ええ、特に最近のモデルは。景色が三百六十度見えますし、風が気持ち良かったでしょう?」

「はい」

二人は荷物を降ろすと宿の中に入っていった。小川のせせらぎが見下ろせる部屋に通されると二人は浴衣に着替えた。熊本と夏子はベランダに並んで立ち、小川を見下ろした。

「とうとう来てしまいましたね」

夏子は横目で熊本を見た。

「また私が行方不明なので縣さんに怒られますね」

熊本は笑った。

「もう縣さんも気がついていると思いますけど」

「東京に帰ったらまた謝っておきます」

しばらくして夕食が運ばれてくると、二人は食事を始めた。

「そういえば熊本さん、どうやって石渡先生とお知り合いになったのですか?」

夏子は熊本のグラスにビールを注いだ。

「大学生の時に石渡先生の選挙事務所でアルバイトをしていたもので」

「石渡先生は……色々とお知り合いが多いようですね」

「国会議員生活が四十年ですし、仙人みたいなものですよ。この前も私は怒られましたし」

「何が原因だったのですか?」

「支持率を気にし過ぎだって言われました。国民に支持されることと、国民のためになることは違うと……つまり本当に国民のためになると思うなら支持されなくても実行すべきと言うことです」

「石渡先生らしいですね」

「いつも怒られてばかりです」

「ちなみに私たちのことを石渡先生に報告した方が良いような気がしますが」

「時期をみて報告に行きましょう。正式に付き合っていると」

「そうですね……」

夏子はうれしそうに微笑んだ。

「でも、恐らく……石渡先生はこうなることを見越して夏子さんに私を引き合わせたような気がします」

「石渡先生の術中にはまったと?」

「先生は老練ですから。でも私としては良かったです……というかすごく良かったです。夏子さんと会えて。かなり人生が前向きになりました」

夏子は無言でテーブル越しに両手で熊本の頬を挟んで唇にキスをした。


 石渡の事務所では夜遅くまで石渡と秘書の福田明義ふくだあきよし(四十五歳)が翌日の委員会での質問の内容をテーブルで向かい合って確認していた。

「今期で引退だと言うのに質問を受けてしまってすまないね。この歳になって質問するとは思わなかった」

「いえ、仕方がないですよ。急病の横田先生の代理ですから」

「福田君、やっぱり私の後に出る気は無いかね?」

「残念ながら私は国会議員という器では無いですし」

「国会議員と言う職業があまり好きじゃ無いんだね」

「申し訳ありませんが……はい」

「今まで私は候補者を選ぶとき、できる限り国会議員になる気満々の人は選ばないようにしてきた。どちらかと言えばあまりやりたがらない人を口説き落としてきたんだ。理由はね、やりたがらない人の方が国会議員として良く働くからなんだ。これは前にも言ったっけ?」

「聞いたような気がします」

「とにかくやりたがらない人をやらせるためには周囲が説得しなければならない。周囲も説得するからには必ず支援は約束する。そうなると頼んだ手前、周囲も国会議員に対してあまり無茶なことは言ってこない。国会議員も仕事に集中にできるわけだ。一般論だけどね」

「でも最近は……」

「そう、みんな国会議員をやりたがるのだよ。これだと逆に周囲にお願いしなければならない。中には欲の皮が突っ張った支援者だっているわけさ。そういった支援者の言うことだって聞かなければいけない。周囲がうるさいのは煩わしい。とは言っても国会議員になりたくてなった人は周囲なんか関係無く好き勝手やる人が多いけどね。結局国会議員と言うのはだと私は考えているんだ。というわけで福田君、やっぱり考え直す気は無いかね?」

「考えておきます。先生、これで質問は大丈夫です」

福田は笑いながら質問の最後のページを閉じた。

 翌日、石渡は参議院外交防衛委員会で防衛庁長官である藤原隆茂ふじわらたかしげ(五十四歳)に対して質問を続けていた。

「もう一度防衛庁長官おたずねします。いわゆる密約は存在しなかったと言うことですね」

――防衛庁長官

「過去にも現在にも未来にもおいて密約は存在しませんし、核の持ち込みもありません」

――石渡君

「わかりました。では、昨今緊迫している近隣諸国との関係についてお尋ねいたします。もそれらの国が我が国の領土に侵略を試みた場合はどのような対応をとられるおつもりですか?」

――防衛庁長官

「日米安保条約との関連もありますので、私の見解としてはお答えできません」

――石渡君

「あなたが日本の国防の責任者ではないのですか?」

――防衛庁長官

民民党議員から答えろとのヤジが飛んだ。藤原隆茂は不機嫌そうに答えた。

「それほど言うなら私見として……戦争を放棄している我が国に侵略を試みた愚かな国には、今後百年間は日本を侵略したことを後悔するような方法で必ず報復させていただきます」

民民党議員は口々に『報復』は問題だろうと騒ぎ出した。

――石渡君

「公の立場のあなたがこの場で私見と言うのは理解しがたいのですが、報復というのは物理的な攻撃と言う意味でしょうか? もしそうであるとすれば防衛庁長官は日本国憲法の前文である『……政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。』これを無視するわけですね?」

――防衛庁長官

「物理的攻撃とは一切申し上げておりませんし、日本国憲法も無視はしていません……」

民民党議員は一斉に立ち上がって口々に防衛庁長官を非難した。

――静粛にお願いします

藤原隆茂は民民党議員に向かって叫んだ。

「あなた方は国防の何がわかっているのだ? 我が国は本気で国防を考えなければならい時期に来ているのがわからないのか! 誰かが日本の平和を守らなければならない、それを他国に依存しているこの現状は……」

藤原の声は民民党議員の怒号でかき消された。

――静粛にお願いします!

少し静かになったところで藤原は答弁を続けた。

「あなた方野党は、知る必要が無い事を知らずにいられる贅沢な方々だ。我々政府の人間はそうはいかない。知る必要が無いことも、知りたく無いことも知る必要がある。そして知り得たことを公にできない場合があることも知っている。そんなにすべてを公にしたいのか? 何でもかんでも公にすれば国民が幸せになるとでも思っているのか? 知らないことで多くの国民が幸せでいられることがわからないのか? まあ、あなた方が政権を担うことは当分無いのでせいぜい知る必要が無い幸せを味わってください」

再び民民党議員が『今度は国民の知る権利を無視するつもりか!』と騒ぎ出し、委員会は大荒れになった。

 石渡は委員会を終えて福田が待つ事務所に戻った。福田はテレビを委員会中継から民放に切り替えた。

「先生、大荒れでしたね」

「まったく藤原君も相変わらずだ」

「でも報復はマズいですよね」

「今回のと合わせて辞表を出させられるか、首相に罷免されるだろうな。前にも色々やっているし」

「そうなったら内閣に打撃ですね」

「藤原君は惜しい人材なんだがな……」


 神尾と恵里菜はラウンジ・アップデートでサンドウィッチとフレンチフライで遅い夕食をとっていた。テーブルには先に食事を終えた鰯田の皿が残っており、DJブースでは鰯田が村田と話していた。

「やっと二人で夕食だと言うのに簡単な食事でゴメンな」

「構わないわ。ここのサンドウィッチは美味しいし」

「今日も予定していたデータの処理がまだ終わらないんだ。食事のあとでまた二人で本部に戻らないといけない」

「でもあと一週間くらいでしょう?」

「ああ。締め切りは絶対だから」

「そのあとは遊べるでしょう」

「それは大丈夫だ。室長も部長も鬼じゃ無いから休みくらいは貰えるはずだ」

「休みが取れたらどこかへ行く?」

「そう言えばまだ温泉に行っていないね」

「知り合いにいい温泉を聞いてみようかしら」

「待って、それはまだいいや」

「どうして?」

「恐らく恵里菜の知り合いの温泉となると普通の人が行かないような高い温泉だろう?」

「そうかも知れないわ」

「最初からそんな温泉に行ったら楽しみが無くなっちゃう。例えば最初に乗った飛行機がファーストクラスみたいなもんでさ、安い席から順番に始めないとファーストクラスの有り難みが感じられないって」

「確かにそうね。もうビジネスクラスなんて十年以上乗っていないわ」

「え? いつもはファーストクラスなの?」

「生まれてから一回だけダブルブッキングが原因で無理矢理ファーストクラスからビジネスクラスに降格されたことはあったけど、あとはファーストクラスよ」

「エコノミークラスは?」

「話には聞いたことがあるわ」

「あ、そうなんだ……そういえば今日はそっちはどんな感じだったの? 防衛庁長官の一件」

神尾は店内に設置されている音声が流れていないテレビを指した。テレビではニュースが流れており、画面下に『ブチ切れ防衛庁長官、即日罷免』と書いてある。

「防衛庁長官も石渡のジジイにやられたって感じかな」

「あの人はいつも問題発言があったし、他にも色々あったから今回の答弁でアウトってところみたい」

「なるほど」

「でも長官の出身派閥の山水会の田中恭司たなかきょうじは罷免が気に入らないって話よ……」

二人が食事を終えると村田がやってきてテーブルの皿を片付け始め、鰯田がテーブルに戻ってきた。

「店長、美味しかったです。二人分の領収書お願いできますか?」

神尾は財布から札を出して三人分の料金を払った。

「神尾さん、そろそろ戻りますか?」

「そうだな……」

三人は立ち上がって店を出た。


 民民党本部の大会議室では熊本丈二や石渡武士を含む担当国会議員が集まった全体選対会議が開かれていた。司会は前回と同じく花村和雄参議院議員が務めていた。

「では、私の方から静岡三区の候補者が決定いたしましたので報告させていただきます。お手元の資料をご覧ください」

出席者は配られた資料に目を落とした。

「名前は棘崎幸三郎きょくざきこうざぶろう、職業は大学教授で社会学が専門です。これで全選挙区の候補者が出揃いました。続いて党本部による衆議院議員選挙シミュレーションの資料をお配りします。この資料は極秘扱いになりますので、退出時にすべて回収させていただきます」

神尾と鰯田が各席に資料を配り始めた。

「今回のシミュレーションは情報管理室の皆さんの努力の結果として精度が上がっています。ただし、この結果は政変などの突発的な事項には対応しておりません。飽くまで現時点におけるシミュレーションであることをご理解願います」

資料が配られ終えると、それを見た出席者の顔がみるみる曇ってきた。

「まず、予想される議席数ですが……」

――議席数も何も党首が落選する予想じゃないか!

出席議員から声が上がった。

「そのお話はもうしばらくお待ちください。予想獲得議席数ですが、現有議席マイナス二十となっております。これについて向井水部長の方から説明があります」

向井水は立ち上がった。

「マイナスの要因についてご説明させていただきます。シミュレーションおよび各都道府県の聞き取り調査などによると、比例代表の部分が大きく減ると予想されています。これは支持労組の組織率の低下が大きな理由と思われます。無論、我が党の支持率が低下していることも否定できません。また、選挙区においては接戦が予想される選挙区が前回より増えております。接戦の選挙区において勝敗がきわどい場合には我が党に不利な結果……つまり落選とカウントしています。熊本党首の選挙区はこのケースに当てはまります」

――だが、党首は比例と重複立候補できないじゃないか!

他の出席議員が声を上げた。

「はい、党首は選挙区単独立候補という決まりがありますから……」

――党首が落選したら党はどうなるんだ!

「それにつきましては……」

向井水を制して熊本党首が椅子から立ち上がった。

「向井水部長、ありがとうございます。そこから先は私が説明します」

向井水は椅子に腰掛けた。

「まず皆さんに大変ご心配をおかけしていることをお詫び申し上げます。これは私の努力が足らない結果であり、非常に責任を感じています。次期衆議院選は私自身の節目であると考えています。当然私は選挙区の単独立候補をいたします。そしてこの場で皆さんにお約束いたしますが、私は決して落選しません。必ずこの場に衆議院議員として戻って参ります。まだ皆さんにお知らせする段階では無かったのですが、来週からは与党を政治と金の問題で追求することにいたします。と申しますのは保守自由党の元秘書が国会で証言することに同意してくれたからです」

出席議員たちは顔を見合わせてどよめいた。

「主に国から支給されている秘書給与の強制的な寄付について証言してもらいます。ちなみにその元秘書は例の献金疑惑の際に現金の受け渡し現場に同席している可能性もあります。そしてこれを足がかりとして与党を追い込んで行こうと考えており、最終的には他の野党とも連携して内閣不信任案を衆議院で提出することも視野に入れております」

――誰の秘書だったんだ!

花村和雄は口を開きかけた熊本を手で制して立ち上がった。

「皆さん、熊本党首の話はこれくらいにしましょう。今日の会議はそういった趣旨ではありませんから。熊本党首ありがとうございました。お座りください」

熊本は腰掛けた。

「それでは次に注目すべき選挙区の情勢について私の方からご説明させていただきます。資料の十三ページをご覧ください」

壁際の椅子に座っていた神尾は隣の鰯田に小声で話しかけた。

「何だかホルヘっちは前より強くなったような感じだな」

「そうなんですか? 以前というのを知らないので……」

「そりゃそうだな」

「そう言えば神尾さん、休暇の話はどうなりました?」

「部長に一応お願いしてあるけど、多分土日を入れて丸々一週間はもらえると思う」

「いつ頃になりますか?」

「それはわからないが、近々だろうな。でも平日は二人同時に休暇は取れないから、ずらすことになるはず。イワシ君どこかへ行きたいの?」

「スペインに行きたいのですが……」

「しかし金が無いと」

「そういうことです。ゴンザレスをどこかに預けるにしてもお金がかかるし。神尾さんは?」

「国内で温泉旅行かな。近場の温泉を考えてる」

「休暇をもらっても金が無いとどうしようも無いですね」

「貧乏暇ありは最悪だな。しかも君には彼女もいない」

「大きなお世話です」


 石渡の事務所では上京してきた棘崎がテーブルを向かい合って石渡と話していた。

「棘崎さん、選挙事務所の方はどうですか?」

「はい、同級生のつてで駅前の雑居ビルを借りられました」

「お住まいは?」

「今は実家です。もし当選したら東京の住まいを引き払う予定でいます。独り身はこの点は楽です」

「選挙の事務局長は決まりましたか?」

「その点は今日ご相談しようかと思っていたところです」

「公職選挙法は細かいので気をつけないと当選後に面倒なことになったりします。事務局長は公職選挙法に詳しい人がいいと思います」

「はい。ずいぶん地元を離れていたのでそういった方面に知り合いがいませんもので」

「とりあえず静岡県連の方から担当者を出すように言っておきます。選挙に入りましたら専門の人間を本部から送ります。静岡三区は重点選挙区になっていますので、資金面も含めて本部の支援はかなり受けることができると思います」

「ありがとうございます」

ドアがノックされて福田が顔を出した。

「議員、本部の神尾君が見えられました」

「お通してください」

「はい」

A4の封筒を持った神尾が部屋に入ってきた。

「先生、ご無沙汰しております」

「神尾君、わざわざ持ってきてもらってすまないね」

「紙の資料は静岡三区のものです。残りの全選挙区および比例代表についてはDVDに収録してありますのでPCで参照してください。これらの資料は向井水部長の方から必ず持って帰るように言われていますので、隣の部屋で待機させていただきます。たとえ石渡先生であっても例外は認めない方針だそうです」

「わかりました」

神尾は事務的に封筒を石渡に差し出した。

「先生、鉛筆などによる書き込みも不可ですのでよろしくお願いします。また、DVDにはコピープロテクトがかかっていますので電子的なコピーもできません」

神尾は部屋から出て行った。

石渡は封筒を棘崎の前に置いて中身の資料を出した。

「今の彼は本部の情報分析室の神尾君と言って私の命の恩人です」

ですか?」

「はい。以前私が道ばたで倒れて死にかけているところ助けてもらいました」

「本当ですか?」

「はい。で、これは静岡三区の状況分析の資料です。市町村ごとの予想得票数や支援団体の人数などが書いてあります」

石渡は資料を棘崎に渡した。

「現時点ではまだ党の一部の幹部しか見ることができません」

棘崎は資料を開いて見始めた。

「その資料では棘崎さんは落選となっていますが、気になさらないでください。接戦の選挙区は落選者が多くなるようにしてあります。そうしないと楽観論が出てきますので」

「なるほど……この県議や市議の方々の情報はどのような意味があるのですか?」

「それは協力してもらう予定の方々です。通常、県議や市議は後援会などの何らかの組織を持っています。その組織に協力していただかないと票が集まりません。つまり彼らの持っている票を吐き出させる必要があるのです」

「そうなのですか」

「県議や市議の中には自分の票を出したがらない人もいます。そしてそういった方々を説得する人が必要となります。安心してください、それも専門の職員がおりますので選挙が近くなれば派遣いたします……」

石渡はさらに説明を続けた。


 議員室の外では神尾が福田にお茶をもらって話していた。

「神尾君、資料のことは聞いたよ。次の衆議院選は結構厳しい数字なんだって?」

「もともと楽観的な数字が出ることは無いですから……」

半開きの廊下のドアがノックされた。

「どうぞ」

福田が答えると、ド派手なスーツを着て封筒を持った諸橋理香子が入ってきた。

「福田さん、こんにちは。お届け物です……あら? 誰かと思えばロミオさんじゃないですか」

理香子は神尾を横目で見て封筒を福田に渡した。

「諸橋さん、神尾君がロミオってどういう意味ですか?」

「ロミオはロミオよね? 神尾君」

理香子は意地悪そうに神尾を見た。神尾は苦々しい顔をして答えた。

「理香子さん、その話はどこでお聞きになったのですか?」

「どこでもいいじゃないの」

「すみません、僕にもわかるように話していただけますか?」

「福田さん、実は神尾君についに彼女ができたのです」

「そりゃ凄い!」

「いや……別に凄いとかそういう話じゃなくて」

「しかも相手は保守自由党の代議士秘書でございまーす」

「ああ、それでロミオとジュリエットなんですね」

「まったくよりによって何で理香子さんに……」

福田が笑いながら喋りかけたとき、議員室のドアが開いて福田は石渡に呼ばれて中に入っていった。

「神尾君、おめでとう。彼女の家はお金持ちみたいね」

「そんなことまで知っているのですか?」

「まあね……」

議員室のドアが再び開いて福田が紙を持って出てきた。それを見た神尾は福田を呼び止めた。

「ちょっと待ってください福田さん、その紙は私が持ってきた資料の一部ですか?」

「わからないけど議員にコピーを頼まれたから……」

「すみませんが見せてください」

神尾は紙を受け取って見ると議員室のドアをノックして中に入った。

「石渡先生、コピーも不可です」

神尾は軽い怒気を含めて石渡に紙を戻すと返事も聞かずに議員室から出た。

「まったく油断も隙もあったもんじゃない」

「どうしたの? 神尾君」

「いや、私の持ってきた資料は見るだけと言う約束なので部長の許可が出たのです」

「え? そうだったの」

しばらくすると議員室のドアが開いて棘崎と石渡が出てきた。

「では、石渡先生、よろしくお願いいたします」

棘崎は石渡に頭を下げた。

「下までお送りします」

福田はそう言うと棘崎と一緒に部屋を出て行った。残された石渡は理香子をいたずらっぽい目で見た。

「あら? 権田さんのところの綺麗なお嬢さんじゃないですか」

「取って付けたようなお世辞をありがとうございます。先生もお元気そうで何よりです。では私はこれで……」

理香子は微笑みながら部屋から出て行った。理香子が部屋から出ると神尾は石渡に向かって口を開いた。

「ジジイ、鉛筆書きがダメだって言われたら普通コピーもダメでしょう?」

「すまん、すまん。ついうっかりしていた。これ、ありがとう。部長には私の方からお礼を言っておくから」

石渡は資料の封筒を神尾に渡した。神尾は無表情で封筒を受け取ると中身を確認した。

「ジジイ、一緒に入っていたDVDが無いんだけど……」

「あれ? ちょっと待ってて……机の上かな?」

石渡は議員室に戻り、DVDを持って出てきた。

「申し訳ない、机の上に忘れていたようだ」

「まったく……」

神尾は紙を受け取って封筒に入れると石渡の部屋をあとにした。

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