第六話 衆議院議員・上串夏子
衆議院第一議員会館の会議室では『民民党災害援助作業部会』が開催されていた。
「何か他にご意見はございますか?」
「初期の災害援助に関してですが、援助物資の追加の検討を提案したいと思います」
「はい。具体的にはどのようなものでしょう?」
「耳栓とパーティションです。災害時には多くの人々が学校の体育館などで避難生活を送ることになります。その時に重要なのはプライバシーです。人間を含む動物は侵入されると不快を感じる物理的な距離があります。避難生活ではこの距離が極端に近くなるので人間はストレスに晒されます。耳栓は周囲の音を遮断することにより、特に夜間のストレス軽減に役立つと思われます。そして費用も安価で済みます。同様にパーティションですが、これによってある程度のプライバシーは確保できます。だだ、これはまだ製品化されていません。一定の強度があるダンボール素材でできた組立式のものを考えていますが、民間の会社でも十分安価に製造可能だと思います」
その場に出席していた熊本が横に座っていた権田に話しかけた。
「権田さん、彼女の最後の経歴をご存知ですか?」
「『海外疾病援助隊』です。精神医学が専門でPTSDなどのカウンセリングなどを行っていたと聞きました」
「なるほど」
「ちなみに旦那さんの仕事は?」
「未婚のはずです」
四年前のある日、東京都内のアパートの一室で夏子は海外疾病援助隊への出発準備をしていた。その部屋のドアがノックされ、夏子は兄を迎え入れた。
「夏子、久しぶりだな」
「お兄さん、話って何よ?」
「座ってもいいか?」
「ええ。お茶くらいならら入れるわ」
兄はお茶を一口飲むと切り出した。
「オヤジが危篤だ」
「家を出た私には関係ないわ」
「あと持って二日だ」
「葬儀には出るわ」
「夏子、頼みがある」
「それは聞く気が無いことをお兄さんも知っているでしょう?」
「お前しかいない」
夏子は座っている兄を見下ろして一気に言葉を吐き出した。
「子供の頃からお盆も正月も無くて、旅行も行けなくて、赤の他人が平気で家の中に入ってくるし、町中が私たちのことを知っているし、いつもどこかで見られているし、勉強ができないといけないし……そういった生活がうんざりだったから私は海外に出てそのしがらみから逃げたかったのよ。わかるでしょう?」
「ああ、わかっている」
「ならお兄さんが跡を継いだらどうなのよ?」
「俺はダメだ。東京で生活がある」
「お兄さんはズルいわ」
「お前が嫌だと言ったからダメでしたでは俺は実家に帰れない。母親からも頼まれている」
「私の気持ちはどうなのよ?」
「すまない……」
父親の葬儀が終わった数日後に夏子は母親に呼び出された。
「夏子、次の選挙に出て欲しいの」
「もうそれは断ったはずよ。私は政治に関わりたくないの。お兄さんはどうなのよ?」
「あの子は人望が無いし決断力も無い。物事を途中で投げ出す癖もある」
「そんなの国会議員になってチヤホヤされればば変わるわよ。もうお父さんの代で政治家の一族は終わりにしましょうよ」
「そんな簡単には終わりにできないの」
「お母さんだって、お婆さんだって苦労し続けたでしょう。それなのにまだ続けなければいけないの?」
「夏子、付いて来なさい」
母親は夏子を広大な自宅の隣にある集会場に連れていった。
「そこのドアを開けて入りなさい」
夏子がドアを開けて中に入ると、広い畳敷きの部屋に整然と正座していた五十人ほどの支援者が一斉に夏子に深々とお辞儀をした。
鰯田は議員会館の夏子の事務所のドアをノックした。事務所では公設第一秘書の
「こんにちは。本部の鰯田です」
「鰯田さん、こんにちは。議員は奥で来客中ですけれどもうすぐ終わります」
「すみません。待たせていただきます」
鰯田はソファに腰掛けた。しばらくすると奥の部屋から来客と一緒に夏子が出てきた。
「それでは先生、よろしくお願いいたします」
「わかりました。またご連絡します」
来客が帰ると夏子は鰯田を部屋に呼んだ。
「鰯田君、この前のお店はどうでした?」
「んー、残念ながらそれほど美味しくは無かったです。そもそも完全分煙じゃ無かったのでダメでした」
「そうだったのね。今回はイタリアン一名と京風料理二名があるのだけれど、どちらが良いかしら?」
「可能でしたら両方いただけますでしょうか? 京風料理の方をちょっと借りがある方に差し上げたいものですから」
「わかりました」
「いつもありがとうございます。ちなみに派閥が違う僕で問題は無いのですか?」
「私は無派閥なので特に問題は無いと思います。そもそも私は海外の紛争地域での仕事が長かったから、美味しいものを食べてないと思われて支援者の方が頻繁に食べ物を持ってきてくれるのです。でもそのうち食べ物はかさばるので、お食事券などに変わり、それでも食べきれないから、鰯田君に食べてもらって感想を聞いて食べたことにしているのです」
「それなら安心しました」
「ではまた食べたら感想を聞かせてください」
鰯田は食事券を手渡されると大喜びで夏子の事務所から出て行った。
その直後に部屋のドアがノックされ、徳田が椅子から立ち上がってドアの方に歩み寄った。
「はい……」
ドアが少し開いて石渡武士が顔を出した。
「突然申し訳ありませんが、先生はご在室ですか?」
「はい、少々お待ちください」
徳田は石渡を部屋に招き入れると夏子の部屋に入った。
「議員、石渡参議院議員会長がお見えです」
「今日は石渡先生と会う予定は無かったわよね?」
「無いです。突然お見えになりました」
「お通ししてください」
石渡が夏子の部屋に入ると、徳田がお茶を出して部屋から出て行った。
「上串先生、突然申し訳ありません」
「こちらこそご無沙汰しています。両院議員総会で先生をお見かけするくらいなので、このような形でお会いするのは今回が初めてですね」
「はい。今日は上串先生にお願いがあって伺いました」
「少々お待ちください」
夏子は電話の内線で徳田を呼び出した。
「徳田さん、しばらくの間電話と来客の取次ぎを止めてください」
電話機を置くと石渡に振り返った。
「失礼いたしました。どのようなご要件でしょう?」
「先生に診て頂きたい患者がいるのです」
「そういったお話でしたら、私の方で病院なり医師を紹介しますが……」
「本人の職業上、機密を要することなのでその辺の民間の医師というわけにはいきません」
「わかりました。ただしここでは本格的な医療行為はできないのでカウンセリグ程度でよろしいですか?」
「それで結構です」
「ちなみに患者さんはどなたですか?」
「熊本丈二です」
「党首の熊本さんですか?」
「はい」
「テレビなどでお見受けしたところ、私のカウンセリングが必要とは思えませんが」
「彼は未だに死別した妻と子供のことで悩んでいます。さらに報道はされていませんが、生命を脅かすといったような脅迫電話なども受けています。我党は来る衆議院選挙を控え、全力で戦わなければなりません。党首はもっと強くなる必要があるのです」
「それは熊本さんご本人の為でしょうか? それとも民民党の為でしょうか?」
「両方です」
「承知しました。ただし静かな場所が必要です」
「私が平河町に雑居ビルを用意しました。地図と部屋の鍵はここにあります」
石渡は上着の内ポケットから封筒を取り出して夏子の机に置いた。
「熊本さんの方にこのお話は?」
「話してあります。ただし担当医師があなただとは伝えてありませんので、これから伝えます。何か必要な物がありましたら私の秘書に伝えてください」
石渡は席を立つと部屋から出て行った。夏子はそれを見送ると部屋に戻って封筒を開けた。
民民党情報分析室では、鰯田が神尾を前に得意絶頂で手に持った食事券を眺めていた。
「いやー、今度はイタリアンですよ。リストランテとか言って高級イタリアンらしいです」
「良かったね、イワシ君」
「素っ気ないですね。神尾さん」
「俺はそこまで食い物に興味は無いから」
「京風料理なんて興味無いですか?」
「食ったことも無い」
「御二人様のタダ券がありますけど、それでも興味は無いですか?」
「ん?」
「ゴンザレスの一件がありますし、今回は差し上げます。恵里菜さんと行ってきてください」
「イワシ君、良いところがあるね」
「いくらなんでもあの仕事で十五万円はもらい過ぎのような気がしまして」
「じゃあ有り難くもらっておくよ」
神尾が食事券を受け取ると、屋代がドアから勢い良く入ってきた。
「た、大変です!」
神尾は特に驚きもせず屋代を見た。
「どうしました?」
「ぶ、部長が一階で人質に……」
「はい?」
「一階に車ごと突っ込んできた特攻服を着た若者が部長を人質に取っているのです。他の部署にも知らせてきます」
屋代が部屋から出て行くと遠くからパトカーのサイレンの音が近づいてきた。
「イワシ君、見に行こうか」
「部長は大丈夫なのですか?」
「多分大丈夫」
神尾と鰯田は部屋を出ると非常階段を降りて一階入り口に降りた。一階では入り口を突き破って入ってきた車の前で向井水が二十歳前後の若者の人質になっていた。向井水は若者に後ろから羽交い絞めにされ、首に刃物を当てられている。多数の職員が遠巻きにそれを見ていた。神尾は人ごみをかき分けて最前列に行くと根来が立っていた。
「鉄さん、どうなんですか?」
「どうもこうも車が突っ込んできたところに偶然向井水がいて、轢かれそうになったから頭に来て運転席のドアをガンガン蹴飛ばしていたら刃物を持った若者が出てきてあっさり人質になったらしい」
「ずいぶんとカッコ悪い話ですね」
「まったくだ」
神尾は携帯電話を取り出し、カメラのレンズを向井水に向けて叫んだ。
「部長、こっちを向いてください!」
声に釣られて向井水が神尾の方を向いたところで写真を撮り、根来に見せた。
「どうです、なかなかいい感じだと思いませんか?」
「そうだな、ちょっと暗いけど迫力は伝わってくるな」
それを見ていた向井水が叫んだ。
――神尾! 写真なんか撮ってる場合か!
「ちなみに鉄さん、若者は何か要求していますか?」
「要求も何も無い。騒ぎを起こして建造物侵入と器物破損、それと銃砲刀剣類不法所持あたりで捕まって終わるはずだったのが、向井水のおかげで予定が狂ったんじゃないか?」
「見た目も何か弱そうですね」
その時ジュラルミンの盾を持った機動隊が入って来るのを見て神尾は再び叫んだ。
「部長! もう大丈夫です。機動隊が到着しましたよ」
――そんなの見ればわかる! 人ごとだと思いやがって! 結局いつでもその態度だから秘書のネーちゃんに毎回フラれるんだよ!
神尾はムッとして若者に対して叫んだ。
「えー、そこの若者君。君が人質にしているのは民民党の偉い職員で部長さんだ」
――うるせぇ!
「その部長さんの今の奥さんは二人目だ。一人目と瓜二つと言う話だ。外見に一途な部長である!」
向井水も叫んだ。
――関係無いだろう! 神尾、何考えているんだ!
「そして最近、その奥さんとうまくいっていないらしい。ここで君がその部長を殺しても誰も悲しまない……どころか奥さんは大喜びだ。何故なら……」
神尾は横に立っていた財政局の川端厚子に尋ねた。
「これで部長が殺されると労災とか生命保険とか入れてどのくらい奥さんに入るの?」
「ざっと六千万ってとこね」
川端厚子は即座に答え、神尾は再び叫んだ。
「今聞いたら六千万円の現金が奥さんに転がり込むそうだ。この状況では君は逃げることもできないし、要求は何一つ通らない。人質は例え死んでも誰も悲しまないし、むしろ私を含めて大喜びするだけだ」
――神尾、貴様ぁ!
目の前で叫ぶ向井水を見て若者は困惑した表情になった。
「それでも殺したければ一気にやった方がいい。躊躇したら失敗する。その首に当てた刃物をガッと横に思い切り引いて……」
頭に血がのぼった向井水は、首の刃物の存在を無視して羽交い絞めにされたまま若者を引きずって神尾の方に動き出した。
「ちょ、ちょっとオッサン待てよ……」
若者はそのままだと刃物が向井水の首に食い込むので、刃物を少し首から離した。その瞬間、後ろから複数の警察官が若者を向井水から引き剥がして床に抑えつけた。背後の若者を失った向井水は勢いを増して神尾に突進して壁に神尾を抑えつけた。
「神尾よくも……」
「ぶ、部長、首から血が……」
向井水は二センチほど首の薄皮が切れて出血していた。向井水は指でその血をぬぐって見ると見る見る青ざめて貧血を起こした。
「血、血、血……」
「部長、大丈夫ですか?」
向井水はそのまま腰が砕けて床に寝転がった。神尾の後ろから現れた根来が向井水を見下ろした。
「向井水は自分の血を見ると腰を抜かすんだよな、昔から。大丈夫、放っておけば治るから。どうせちょっと切れただけだろうし」
「じゃあ、あとは救急隊にでも任せましょう」
「そうだな」
立ち去る神尾に、向井水は横になったまま悪態をついた。
「神尾……覚えておけよ」
「はいはい。今日はゆっくり休んでください」
神尾と根来は振り返りもせず情報分析室に戻っていった。
六本木にある京風料理『どす江』では神尾と恵里菜が横に並んで仲良く夕食を食べていた。
「そう、あのパーティーで私の評判が上がってしまったの」
「そりゃ良かった」
「次回もお願いするとか言われちゃったわ」
「え! 次回っていつ?」
「それはわからないけど……」
「この前はうまくいったけど、あれは鰯田がいないと成り立たない作戦だからね。次回も上手くいくとは限らない」
「何だか秘書さんたちの間で私が凄い記憶力を持っているって思われてるみたい。おかげでうちの事務所の評判も上がって私も辞める必要が無くなって良かったけど」
「鰯田の件で思い出したけど、支払いで使った黒いカードって何? 俺は見たことが無かったんだけど」
「父親から持たされているカードよ。結構融通がきくカードなの」
「そういえばあまり深く聞かなかったけど、恵里菜のマンションって家賃高いんじゃ無いの?」
「実はあの部屋……というかマンション全体が父親の持ち物なの」
「え!」
神尾は口に運んでいた太刀魚の炙り焼をテーブルに落とした。
「必要が無い限り他人に言うなと父親から言われていたので、今まで黙っていたの」
「代官山にマンション一棟持っているということ?」
「ええ。だから部屋の家賃は払っていないのよ」
「ひょっとして部屋に飾ってあったレンブラントの絵って複製じゃなくて本物?」
「友達には複製って言うけど、実は本物なの。父親が勝手に飾ったのだけれど」
神尾は驚いて声を失った。
「稔さん、大丈夫?」
「俺こそ、その辺の政党職員で年収四百万円程度なんだけど君と付き合って大丈夫?」
「お金じゃ無いのよ……と私が言っても説得力が無いけれど。何か私に冷めちゃった?」
「そんなことは無いよ。ただ、俺の人生でそんな金持ちの家の女の子と付き合ったことが無かったから対応の仕方がわからなかっただけ」
「それなら良かった。以前家が裕福なことを理由に振られたことがあったから」
「多分、普通の一般家庭出身だったら腰が引けるかも」
「あなたはどうなの?」
「俺は金に執着が無いというか苦労しない程度に金があれば良いと思うし……全身ブランド品の成金みたいな女の子は嫌いだけでど恵里菜はそうじゃ無いから好き」
「本当?」
「嘘を言っても仕方がない」
「うれしい!」
恵里菜は神尾に抱きついた。
熊本は駐車した車に懸を待たせ、何の表札も出ていないビルの一室のドアをノックした。
「どうぞ」
中から夏子の声がした。
「失礼します」
熊本がドアを開けて入っていくと平服の夏子が椅子に腰掛けていた。
「石渡参議院議員会長から話は伺っています」
「初めまして……になりますでしょうか?」
「直接お会いするのは初めてです。そちらの椅子にどうぞ」
熊本は夏子の目の前に用意された椅子に腰掛けた。
「先生は白衣を来ていらっしゃらないのですね」
「場合によって白衣は威圧的な印象を与えるものですから。まあリラックスしてください。何か飲み物は?」
「何でも結構です」
「時間はどのくらいありますか?」
「二時間とってあります」
「承知しました」
夏子は石渡に用意させたポットから湯のみ茶碗に温かいお茶を注いだ。
「それでは始めましょう。まず普段の生活からいきましょう……お酒、タバコ、食生活などです」
夏子は椅子の横に置いたテーブルでメモを取り始めた。一通り一般的な質問が終わったところで話を切り替えた。
「では次に睡眠ですが、どうですか?」
「週に二、三回不眠……というか寝付けないことがあります」
「寝付けないときはどうしていますか?」
「お酒は好きではないのでDVDの映画などを見て眠くなるのを待ちます」
「あまり睡眠の質は良くないようですね」
「そう思います。時折、眠る前にこのまま目が覚めなければ楽だろう考えることもあります」
「今現在、悩みの原因は何だと思いますか?」
「妻と子供が戻らないことです」
「差し支えなければ過去の出来事を詳しく私に話していただけますでしょうか?」
熊本は妻子を失った経緯を夏子に話した。
「結局何もしてやれませんでした……一番辛かったのは妻と子供の遺品を処分した時でした。二人乗り自転車、衣服、布団、枕……などです。ですがどうしても家族を撮影したビデオは捨てられなくてしばらく……一年くらいは手元に置いて時々見ていました」
「今もそのビデオはあるのですか?」
「捨てました。理由はビデオの中の家族は年を取らないことに気がついたからです。私は年を取ります。もう妻と子供と一緒の時間を過ごすことはできないと思いました」
「ではもうお手元には奥さんと子供さんの物は残っていないのですか?」
「いいえ残っています。写真……これはまだ捨てることができません。それと……」
「それと何ですか?」
「留守番電話のメッセージです。最後に聞いた妻からのメッセージが入っています」
「そうですか。話は変わりますが、脅迫されているとお聞きしましたが、その不安は無いですか?」
「無いと言えば嘘になりますが、恐れてはいません。ただ、私には党を率いる責務があります。その責務が遂行できなくなると言う点においては不安を感じています」
カウンセリングはそのまま小一時間ほど続いた。
「熊本さん、そろそろ時間です。今回はこのくらいにしておきましょうか」
「ありがとうございます。だいぶ気分が落ち着きました」
「そうですか、それは良かったです」
「今までこのような悩みを話せる人はいませんでしたから、胃が四キロくらい軽くなった気分です」
熊本は立ち上がった。
「上串先生、ちなみにカウンセラーは誰に悩みを聞いてもらうのですか?」
「カウンセラーをカウンセリングしてくれる人はあまりいませんね。それに私は幸運なことに悩むほどの悩みを持ち合わせていません」
「そうですか……それではできればまた次回もお願いします。先生のご予定に合わせますので、また連絡させていただきます。今日はこのまま宿舎に帰られるのですか? もしそうでしたら車で私と一緒に宿舎までお送りしますが」
「お気持ちだけいただきます。今晩はこのまま地元に帰る予定があるもので」
「わかりました。それでは失礼します」
熊本は上着を羽織ると部屋から出て行った。
鰯田は夏子の事務所で徳田美智子とお茶を飲んでいた。
「そういえば徳田さんは以前保守自由党の秘書をされていましたよね?」
「あら、良く知っているのね」
「確か保守自由党最大派閥の田中恭司の公設第二秘書と記憶しています」
「ええ、そのとおりよ」
「その後……二年くらいブランクがあってこの事務所に来たということですか」
「人間関係で体調を崩して辞めたのよ。その時通っていた病院の医師の知り合いが上串先生だったの」
「なるほど……あの派閥ってやはり人間関係がギスギスしているのですか?」
「まあそうね。田中恭司の山川会って派閥は田中恭司とそれ以外の人々の集合体なのよ。本人も巷で言われるほど凄い政治家じゃ無いし、取り巻きの頭が悪い議員たちが好き勝手を言っているだけなの。田中本人は『自分に尻尾を振ってくる犬の大部分はバカ犬だ』って威張っているけど、本人だって頭の良くない飼い主なわけ」
「秘書の人たちも大変だったのですか?」
「山川会の秘書が皆で集まって飲み会だとか、旅行だとか、何よそれって感じ。しかもその費用って給料から強制的に寄付させられているお金だし」
「それはひどい話ですね」
「それに飲み会とかに出ないと陰で文句は言われるし、強制的に幹事の順番が回ってきたりするし。最初は仕方がなく山川会の会合に出ていたけど、もう途中で嫌になったのよね。そのストレスが原因で体調を崩したのだと思うけど」
「じゃあこちらの方が楽ですね」
「あそこに比べたら天国よ」
そこに夏子が戻ってきた。
「先生、お帰りなさい」
「あ、鰯田君、いらっしゃい」
「お邪魔しています」
「この前のレストランはどうだったかしら?」
「先生、世の中で重要なのはリストランテですよ。そりゃあもう最高でした」
「そんなに美味しかったの?」
「もう死んでも良いくらいでした」
「それは良かったわ。だったら今度は徳田さんも一緒にレストランに行ったらどう?」
「え! 徳田さんと一緒にですか?」
「私じゃ嫌なわけ?」
「嫌じゃないですけど……」
「さっきの話の口ぶりだと私のことを調べていたんじゃないの?」
「そんなこと無いです」
「私のことを調べていたと言うことは、鰯田君は私に興味があるんでしょう?」
「ち、違います」
「照れなくてもいいじゃない」
「実は……ボクはすべての国会議員の経歴および秘書さんの名前を記憶しているのです」
「国会議員の経歴だって無理なのに秘書の名前まで記憶できるわけ無いでしょ」
「本当です」
薄笑いを浮かべた徳田は机の上にある国会議員一覧を手に取ってページをめくった。
「
「保守自由党、
「
「公正党、
「
「民民党、
「すべて正解だわ……」
「徳田さん、ちょっとそれを貸して」
夏子は驚いている徳田美智子から国会議員一覧を受け取ってページをめくった。
「それでは……
「その方は公設秘書登録されていませんが、八年前に保守自由党の衆議院議員を一期務めた後に引退しています。古い情報なのでその国会議員一覧には記載されていません。経歴の中に国会議員秘書との記録があります。上串先生と同じ新潟四区選出でした」
「そのとおりです。山口純太郎は私の父親の公設秘書でした」
夏子は見た振りをしていた国会議員一覧を閉じて徳田美智子に手渡した。
「徳田さん、信用していただけましたか?」
鰯田は得意気に言い放った。
「信用するも何もそれは超能力のレベルじゃ無いの?」
「神尾さんと部長には特殊能力とは言われました。ただし、このことを知っているのは本部でも一部の人間ですので口外しないようにお願いします」
夏子は上着をハンガーに掛けながらそれに答えた。
「それを知られると本部で便利に使われる可能性があるわけね」
「はい」
「ちなみに今までにどれくらい記憶しているの?」
「およそ過去二千人程度の国会議員の顔および経歴、それと付随する情報です」
「秘書の名前を入れると軽く五千人を超えるわね。超人的な記憶能力としか言いようが無いわね。その能力は……」
電話が鳴って徳田美智子が話始めると、夏子は鰯田を議員室に招き入れた。
「次のチケットをお渡しするので私の部屋に行きましょう」
夏子と鰯田が議員室に入ると、鰯田が唐突に口を開いた。
「上串先生突然ですみませんが、今までの食事のお礼としてよろしかったら僕が以前働いていたバーにいらっしゃいませんか?」
「どんなバーですの?」
「まあ、普通の寂れたバーです。特に僕がDJを辞めてから寂れっぷりに拍車がかかったみたいです」
「でしたら鰯田君がいた方が……」
「大丈夫です。事前に来店する日時をおっしゃっていただければ僕がDJで入ります。または土曜日の八時過ぎでしたら毎週僕がDJをしています」
「アルバイトですか?」
「いえ、党の規定でアルバイトはできないのでボランティアDJです。と言うかスーパー・ボランティア・DJですね」
「何がスーパーだか良くわかりませんが、楽しそうですね」
「ドリンクは無料で話をつけておきます。どなたか誘って一緒に来ていただいても構いません。この程度でしか食事のお礼ができなくて申し訳ないのですが」
「わかりました。近いうちに徳田さんでも誘って行ってみます」
「そうですか! お待ちしています。これがそのバーの場所です」
鰯田は名刺入れからバーの名刺を夏子に差し出した。
「行く時は連絡します」
「それでは。どうもお邪魔しました」
鰯田はうれしそうに事務所を後にした。
小雨が降る土曜日の午後九時、青山のクラブ『ラウンジ アップデート』では鰯田がDJを担当していた。客席には三組ほどのカップルが座り、フロアでは一組のカップルが曲に合わせて踊っていた。入り口のドアが開くと、トレンチコートを着た夏子が傘を折り畳みながら入ってきた。それを見た鰯田は近くにいた店長の村田隆夫に手を振って合図を送った。村田は夏子に歩み寄った。
「上串先生ですね、鰯田君から話は聞いています。店長の村田と申します。コートをお預かりします」
「どうもありがとうございます」
村田はコートを預かると奥のハンガーに掛けた。
「お連れの方がいらっしゃると伺っていますが」
「先程、十分くらい遅れて来ると連絡がありました」
「承知しました。席の用意はできていますのでご案内します」
村田は『予約席』のカードが置いてある奥のボックス席に夏子を案内した。鰯田はDJブースから出て夏子が座ったボックス席に歩み寄った。
「上串先生、雨の中お越しいただきありがとうございます。今日はお連れ様がご一緒とのことですが……」
夏子は興味深そうに周囲を見渡している。
「もうすぐ来ると思うけど。それはそうと、なかなか素敵なお店じゃないの鰯田君。大人になってからこういった場所に来るのは初めてだわ」
「ありがとうございます。とりあえずお飲み物は?」
「グラスのビールを店長さんに頼みました」
「あ、そうですか。それではゆっくりお楽しみください」
鰯田はDJブースに戻り、入れ違いに村田がビールを夏子の席に運んで行った。しばらくすると入り口のドアが開き、鰯田が誰が入ってくるのかと期待して見るとスーツの両肩を雨に濡らした懸がドアを半分開けて身を乗り出した。
「あ、あ、懸さん???」
鰯田は半分口を開けて懸を凝視した。懸は店内を見回すとドアを全開にして熊本を迎え入れた。店に入った熊本は傘を折り畳んででコートを脱いだ。それをフロアの奥で見た村田は熊本に走り寄った。懸は反射的に熊本の前に立ち塞がったので村田は立ち往生した。それを見た鰯田はDJブースから出ると急いで懸に走り寄った。
「懸さん、その人は店長の村田さんです。村田さん、こちらは熊本党首の警護をしている警察の方です」
懸は立ち位置を移動し、村田は熊本のコートを預かった。
「懸さん、昨日の昼間に会ったじゃないですか。今晩来るなら来ると教えてくださいよ」
鰯田は半分怒って懸に抗議をした。
「そんなことは言えない。規則で警護対象者を危険な目に遭わせる可能性がある言動は禁じられている」
「それにしても……」
「お前との話はあとだ。非常ドアはあそこの奥だけだよな? 開けると裏通りに続く階段があるはずだ」
「その通りです」
「他に入り口は?」
「ありません」
「非常口の鍵は?」
「今はかかっていません」
「わかった」
熊本は村田に案内されて夏子の席に着いた。鰯田がそれを見てDJブースに戻ると、同じようにDJブースまで歩いた懸は無言でテーブル席の椅子を持って鰯田の横に置いて座った。
「お前の横に座らせもらう」
「え!」
「ここが一番見晴らしが良くて、熊本さんたちから適度な距離がある」
「いいですけど、懸さんは見かけが怖いですからあまりお客さんを見ないでくださいよ」
「わかったよ。じゃあ視線が見えないようにする」
懸はスーツの内ポケットからティアドロップ型のサングラスを出した。
「懸さん……それはもっと勘弁してください」
「カッコ良すぎるか?」
「怪しすぎます」
「……そうか」
懸は渋々サングラスをポケットに戻した。鰯田は次の曲をかけながら懸にタオルを渡した。
「懸さんこれで濡れたスーツを拭いてください……というか、前に雨を避ける訓練を受けているとか言っていませんでしたっけ?」
「大雨なら大丈夫だが小雨は無理だ」
「意味がわかりません……とりあえず私のおごりで何か飲みますか?」
懸は相変わらず客席やフロアや入り口を交互に見ながら鰯田の顔を見ようともしない。鰯田も懸に視線を移さずに話している。
「アイスコーヒーを頼む。お前はこんなところでバイトしているのか?」
鰯田はフロアの村田に口の形でアイスコーヒーと合図を送った。
「バイトは禁止されていますからボランティアです。しかもスーパー ボランティアDJです」
「何がスーパーなのかさっぱりわからん」
「それにしても上串先生が熊本党首を連れてくるとはびっくりです。いったいどういう関係なんですか?」
「俺に聞かれてもわかるわけがない」
「そんなこと言ったってちょっとは知っているんでしょう?」
「……タダで教えるわけにはいかない」
「わかりました。神尾さんの情報と交換でどうでしょう?」
「神尾か! 何か面白い話があるのか」
「あります。女性絡みです」
「よし、わかった。交渉成立だ。熊本さんは精神的ストレスが多いということで少し前から上串先生にカウンセリングを受けているらしい。それ以上の詳しいことはわからない。それで神尾の情報は?」
「神尾さんは保守自由党の秘書と付き合い出しました」
「ほ、本当か! そりゃ面白い話だ」
「しかも、その彼女が金持ちらしいです」
「あの神尾がねぇ……」
懸は村田が運んできたアイスコーヒーに口をつけた。
奥のボックス席では熊本と夏子がビールを飲みながら話していた。
「上串先生はこういった場所は良く来るのですか?」
「いえ、今回が初めてです」
熊本は少し驚いて夏子を見た。
「では、今日のお誘いは?」
「あそこでDJをしているのが本部職員の鰯田君です。ちなみにアルバイトじゃなくてボランティアでDJをしています。彼を御存知ですか?」
「いいえ、顔は見たことがあるかも知れませんが」
「まだ新人らしいのですが、超人的な記憶力を持っています」
「その話でしたら向井水部長から聞いたことがあります。職員の名前までは聞きませんでしたが」
「私は医師として彼の能力に興味がありまして……それに今日は彼の招待です」
「そうでしたか」
「私もこういった場所に来るのは二十年振りくらいですね。大学生の頃に何回か来た程度です」
「私も友人に付き合って大学時代に一回来たことがあるだけです……ちなみに一緒に来るのは私で良かったのですか?」
「カウンセリングの一環として来てみました。それにこういった場所に男性と一緒に来るとドキドキして楽しいでしょう?」
夏子は微笑みながら熊本を見た。熊本は返答に困った複雑な表情をした。それを無視して夏子は残ったビールを飲み干した。
「唐突ですが熊本さん、リーダーに必要な要素って何ですか?」
「リーダーの素質ですか……統率力とか危機管理能力などに優れていないとダメと言われていますが、恐らく最も重要なのは想像力だと思います」
「想像力?」
「はい。これから起こりうることをどこまで想像できるかが重要だと思います。例えばこれなのですが……」
熊本はズボンのポケットからハンカチを出して広げた。白いハンカチには英語で『Plan for the best, Prepare for the worst』と赤い糸で刺繍がしてあった。
「最良の計画を行い、最悪の事態に備えよと言った意味ですか?」
「はい。これはイギリスに行った時に買ったハンカチなのですが……それはさて置いて何が最良でどこまで最悪なのかと言うのは頭の中のシミュレーションでしか無いわけです。偶然がどこまで重なるのか……それは確率の問題でもありますが、実際に起こる事と言うのは想像をはるかに超える場合があります。優れたリーダーはその想像をはるかに超える事に対して備えているのです」
「なるほど。では熊本さんご自身の中で最悪は何ですか?」
「死ぬことです。ですがそれは別に恐れていません」
「最良は?」
「それも……最近まではやはり死ぬことでした。目的を達成したあとの話ですが」
「今は違うのですか?」
「先生のカウンセリングを受けるようになってから他に最良のことがあるのでは無いかと思えるようになってきました」
熊本も遠くを見ながら残ったビールを飲み干してテーブルに置いた。
ボックス席の二人を見ていた懸は鰯田に話しかけた。
「鰯田、何かこうムードのある曲とか流してみたらどうだ?」
「ここは昔のディスコじゃ無いんですが……」
「ほら、熊本さんと上串先生がいい感じじゃないか? 二人がここで踊ったら楽しく無いか?」
「そんな簡単に行くわけ無いでしょう。それに僕のポリシーに反するような曲はかけたく無いですね」
「そうだな。そんな曲を彼女がいないお前が選曲できるとは思えんしな」
「……僕を甘く見てもらっては困りますね。じゃあ次の曲は試しに題名にダンスって名前が入っている曲を流してみます。二人が本当にフロアに出てきて踊りだしたら笑えますが」
村田が熊本と夏子のボック席にドリンクのお代わりを持ってきた。夏子はグラスを受けとりながら村田に話しかけた。
「店長さん、鰯田君はどんな感じの人なのですか?」
「どうと言われましても……特徴としましては、妙に自身満々なところがあります」
「それは私も気づきました」
夏子は微笑んだ。
「私は鰯田君が政治の世界で働くと聞いて驚きました。彼の将来の希望はカフェ・デル・マールでDJをすることでしたから」
「カフェ・デル・マールですか?」
「はい。スペインのイビサ島にある有名なバーです。イビサ島は世界で一番夕日が綺麗と言われています。その夕日が見られるバーです。そのバーで流れる音楽が世界的に有名になってCDでシリーズ化までされています。彼はそこでDJをしたかったらしいのです」
「そんな綺麗な場所なのですか?」
「私も写真でしか見たことはありませんが」
「調べてみます。教えていただきどうもありがとうございました」
村田は空のグラスを持って席から離れた。そして曲が変わり、DJブースの鰯田と懸は悟られないように熊本と夏子のボックス席を見た。
「熊本さん、曲が変わったところで一緒に踊りましょうか?」
「は? ここでですか?」
「損ですよ。せっかくダンスフロアがあるのに」
夏子は躊躇する熊本の手をつかんでダンスフロアに引きずりだした。それを見た懸は座ったまま手を上げて鰯田とハイタッチをした。
冬晴れの早朝、神尾と石渡は田舎のあぜ道を歩いていた。
「神尾くん、カモはいないね?」
「さっき上を飛んで行ったのはカワウだったし、今日はもういないのかもね」
神尾が石渡の狩猟に付き合わされるようになって二年になる。猟友会の会長である石渡であったが、それは名ばかりで実際に狩猟することはほとんど無かった。しかし近年、党の忙しい役職から開放されたので猟を始めることにした。だが他の猟友会会員と一緒に猟をするには下手すぎるので恥ずかしく、練習がてらに神尾を強引に誘うことにしたのだ。
「神尾くん、君も鉄砲買って二人でやろうよ。猟銃所持許可の費用も僕が出すし、鉄砲も安いやつを買えばいいからさ。そうすれば簡単にカモなんか取れると思うよ」
「ジジイ、断る」
「だって君は鳥の種類だって見分けられるようになっているし、銃の構造だってわかっているじゃないか」
「それはジジイが狩猟鳥獣をいつまで経っても覚えないし、猟銃の扱い方も危なっかしいから必然的に覚えただけ」
「申請書を出す警察署長だって僕の知り合いだし……」
「今はそれどころじゃ無くて色々忙しいからダメ。そんなことより早く一人で鳥をシメられるようになれよ、ジジイ」
「ちょっとあの体温の温かい感じがね……」
鳥の狩猟において、散弾銃で飛んでいる鳥を撃っても簡単には即死はしない。多くは重傷の状態(半矢)で地面に落ちてくるので人間の手でトドメをさす(シメる)必要がある。しかし臆病な石渡はまだトドメを刺せないでいた。
先頭を歩いていた神尾は、草むら越しに前方二十メートルの畑で黒い動く物体を発見した。そして立ち止まって右手で石渡にしゃがむように合図して自分もしゃがんだ。
「神尾君、あれってイノシシだったよね?」
「結構デカイから雄かもしれないな」
「じゃあ撃とうよ」
「いや、無理だから。あんなでかいイノシシ」
「だってここからなら僕でも当たるよ」
「あのね、ジジイが持っている弾はカモ撃ち用の散弾なの。こんな弾じゃイノシシは死なない。怒るだけ」
「でも至近距離なら死ぬんじゃないの?」
「頭か心臓を直撃すれば確かに死ぬよ。でも三メートルまで近づける?」
「じゃあ君がおびき寄せて、僕が待ち構えて撃つのはどう?」
「ジジイ、いい加減にしろよ。それに半矢にしたら手負いになる。俺が持ってる武器は鳥の解体用のナイフだけだ。こっちは風下みたいでイノシシは気づいていないから、そっと逃げるぞ」
「いや、多分いけると思うんだけどな」
そう言うと石渡は立ち上がり、銃口をイノシシに向けると安全装置を外した。
「ジジイ、何をするんだ!」
この状態で下手に石渡を制止すると却って危険なので、神尾は耳をふさごうと両手を耳に持って行った。
バン!
ドーン!
耳をふさぎきらないうちに、石渡の銃声と重なるようにライフル銃の重い銃声が聞こえた。
「やったよ、神尾くん!」
興奮した石渡は振り返って銃口を神尾に振り向けた。
「ジジイ!、安全装置!安全装置!」
我に返った石渡は安全装置をかけて銃口を空に向けた。神尾がゆっくり立ち上ってイノシシを見ると、最後に見た位置で横に倒れて動かなかった。
「ほーらね、カモ撃ち用の散弾でも倒せるじゃないか、神尾くん」
「違う、倒したのはジジイの弾じゃ無い」
「え? じゃあ何でイノシシは死んでるの?」
「恐らくライフル。ジジイとほぼ同時に右の森からライフルみたいな音がした」
石渡が森の方を見ると猟犬が走り出てきてイノシシに近寄った。続いてオレンジ色のベストを着て銃を肩に担いだハンターが森から出てきた。
「とりあえず確認もあるからあそこに行こう。危なっかしいから残りの弾は全部抜いてくれ」
二人はゆっくりとイノシシの方に歩き出した。
「あ、石渡会長?」
ハンターは石渡を見つけると挨拶をした。
「えーっと、確か君は……」
「吉田です。会長はいつから狩猟をおやりになっているのですか?」
「実は今年で二年目なんだ。まだ皆には秘密にしておいてね」
「別に構いませんが……そちらは秘書の方ですか?」
「ん、まあそんなところだ。神尾くんと言って僕の付き添い」
「初めまして。石渡参議院議員の付き添いです」
神尾は軽く会釈した。石渡は倒れているイノシシを羨ましそうに見下ろして吉田に話しかけた。
「吉田君はその銃で一発で仕留めたの?」
「このイノシシはお尋ね者で、この辺の畑を荒らし回っていた乱暴者です。良かったです、運良く一発で仕留められて」
「やっぱりライフル銃は威力が凄いんだね。僕も欲しいな……それとその猟犬」
石渡が猟犬を見下ろすと猟犬は突然走りだして少し離れた草むらに飛び込み、雄のキジを咥えてもどってきた。
「これは?」
吉田が猟犬からキジを手にとって見ると頭部に小さい傷があり、少し血が流れていた。
「綺麗に散弾の一発が頭を直撃して即死していますね」
「あ、それは僕がさっき撃ったやつだね。そんな所で死んでいたんだ」
「会長が仕留められたのですか?」
「うん。まあちょっと僕の反応が遅れたから当たるとは思わなかったけどね」
「さすが会長ですね」
吉田は石渡にキジを手渡し、石渡はそのままキジを神尾に押し付けた。
「会長、ちなみにこれからイノシシを解体して運びますがご覧になりますか?」
「いや、遠慮しておくよ。ちょっとまだ他の池でカモを探しに行かないといけないから」
「わかりました。ではまた」
吉田は会釈をすると、イノシシを見下ろして腰の鞘からナイフを抜き出した。
「じゃあね、吉田君。神尾くん、行こう」
石渡は神尾を促して元きた道を戻った。
「ジジイ、ヘタクソで良かったな。偶然あんな外れた場所にキジがいて」
「違うよ。イノシシを狙うと見せかけて、草むらにちょっと見えたキジを撃ったんだ」
「そういうことにしておいてやるよ」
「いやー、今日は初めてキジを食べられるな。鍋と唐揚げ、どっちがいい?」
「どっちでもいい。それで、羽むしりと解体は誰がやるんだ?」
「……神尾くん、頼む」
「それもいい加減自分でやれよ」
神尾はずっしりと重い雄のキジを肩に担いだ。
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