第五話 秘書・浮田恵里菜

 浮田恵里菜うきだえりな(二十八歳)は都内の裕福な家に生まれた。幼少の頃から何不自由無く、と言うより不自由と言う言葉を理解する事無く育った。大学を卒業すると父親のつてで大企業に就職し、華やかな社会人生活を送るようになった。そして会社で知り合った二歳年上の彼氏と結婚するために二年間勤めた会社を退職した。しかし結婚直前で彼氏は恵里菜の前から突然と姿を消し、半狂乱になった恵里菜は彼氏を探しだして理由を問い詰めた。

 彼氏は資産家である恵里菜の家と自分の家では釣り合わず、将来に渡って劣等感を持ち続ける事は精神的に無理であると言った。ならば私が家を捨てると言うと、それはそれで精神的に負担が増え、それに恵里菜が不自由な暮らしに耐えられるはずが無いと言われた。恵里菜は考えた末に不自由な暮らしはできないと思い、彼氏との結婚を諦めたが、実は彼氏が巧妙に二股をかけていたことを今でも気づいていない。

 仕事と彼氏を失った恵里菜は再び父親のつてで、保守自由党の議員事務所で働くことになった。秘書という仕事は以前の職場ほどでは無くても華やかな印象で、また新しい彼氏を見つけるには良い場所だと思っていた。しかし実際は秘書に限らず永田町界隈は閉鎖的で、人事の動きは激しい割には顔ぶれはあまり変わらない社会であった。たまに見つけるイイ男は結婚していることが多く、最近は男を探すのにも疲れ、ズルズルと時間だけが過ぎていた。


 衆議院第二議員会館の保守自由党・田中永吉たなかえいきち事務所では恵里菜が泣きそうな顔をして外線電話を受けていた。

「は、はい……あと二時間くらいは連絡が取れないかと……は、はい。申し訳ありません、何とか他の方法で連絡を取りますので……」

恵里菜が電話を置いたところで政策秘書の鈴木義雄すずきよしおが外出から戻ってきた。

「どうしたの?浮田さん。浮かない顔して」

「今、幹事長のお部屋から電話がありまして、先生と至急連絡が取りたいとのことなんですが……」

「で、先生はどこに?」

「後援者の方たちとお芝居を見に出かけていまして、終わるまで連絡が取れないのです。携帯電話は電源を切っているようで……私、幹事長の秘書さんに怒鳴られて……」

恵里菜は半べそをかきはじめた。

「浮田さん、あなた何年秘書やっているの?」

「四年目です」

「それならそろそろこの程度の対応ぐらい一人でできるようになってよ」

「そんなこと言われても無理です!」

「いや、無理じゃないんだけどね」

「鈴木さん、意地悪しないでください!」

「意地悪でも無いんだけど、議員が芝居を観る前に確認のための携帯メールを僕たちに打ったでしょ?」

「はい、でもメールを返信してもどうせ電源が……」

「そうじゃなくて、メールの本文の最後に席番号が書いて無かった?」

恵里菜は携帯電話のメールをチェックした。

「はい。あります」

「それはね、前にも話したかもしれないけど、事故とか災害があったときに議員本人の位置をすぐに確認できるように必ず僕たちに教えるように私が頼んだんだ。飛行機とか新幹線とか、席に番号が付いているものは全部。覚えている?」

「何となく……」

「まあいいけど、議員たちがどこで芝居を見ているかわかる?」

「国立劇場です」

「じゃあそこの代表番号に電話して、席番号を伝えて呼び出してもらいなさい」

「あ、なるほど!」

「なるほど……じゃなくてね、うちは政権与党の議員事務所なんだからその程度のことはやってもらわないと困るんだよ」

「はい……」

「それと、パーティーの件だけど、今回僕は手出ししないからね。でも失敗しないように」

それを聞いた恵里菜はうなだれながらPCで国立劇場の電話番号を調べ始めた。


 民民党本部の情報分析室では根来と神尾が新品のコーヒーメーカーを覗き込んでいた。

「いやー、新しいコーヒーメーカーはいいねぇ」

「鉄さん、やっと来ましたね」

「まったくだ。これでまともなコーヒーにありつけるな」

神尾がコーヒーをカップに注ぐと、ドアから屋代が入ってきた。

「あ……ぼ、僕にもコーヒーいただけますか?」

「構いませんよ。ちょっと待っててください」

神尾は新しいコーヒーカップを出してコーヒーを注ぐと屋代に差し出した。屋代はブラックのまま一気に飲み干した。

「あぁぁ、美味しいですね。新しいコーヒーメーカーで作ったコーヒーは……」

屋代は満足気に空いている椅子に腰掛けた。

「そんなに感動するものなのですか?」

「ええ……もう、最近は外で口にするものは何でも美味しく感じます」

「どうしたんですか? 屋代さん」

「それが……飯が……」

屋代はガックリとうなだれた。

「屋代君、向井水から聞いたよ。奥さんの作る飯がマズイんだって?」

「え? でも確か屋代さんの奥さんは料理が得意だったはずじゃ……」

「正確に言うと得意で作る料理がマズイということだろう」

「意味が良くわかりませんが」

屋代が呆然とした顔でつぶやいた。

「結婚してから今まで我慢していたのです。毎晩、毎晩、僕が帰ると夕食を作って待っていてくれるのですが、それが見た目が豪華なのに強烈にマズイのです」

「いや、でもマズイと言っても食べられないほどマズイのですか?」

「マズイ。どうやったらあんなマズイ飯が作れるのかワケがわからない」

「それなら外食すればいいじゃないですか」

「神尾君は結婚していないからわからないんだよ。奥さんが一所懸命作った飯がマズイからと言って簡単に外で食べるわけにはいかないんだ」

「そんなものなんですか。でもそれなら屋代さんが料理本を買ってその中の料理を奥さんに作ってもらったらいいじゃないですか」

「それは既にやった」

「は? それでもダメなんですか?」

「ダメだ。理由は本の通りに作らないからなんだ。例えばバターと書いてあるのに、マーガリンの方が良いと思うわとか言ってマーガリンを使ったり、塩・コショウと書いてあるのにミリンも少し入れた方がコクが出るのよってミリンを混ぜてみたり……」

「それでは本の意味が無いです」

「その通りです。しかも驚いたことに彼女は味見をしているんだ」

「え? わけがわかりません。でも単に味の組み合わせの話だから体は壊れませんよね」

「そうなんだ。味がマズイだけで体に悪いわけじゃないんだ……はぁ。すみません、そこのお煎餅ももらっていいいですか?」

「構わんよ、屋代くん。でもそれは悲惨な話だな」

屋代はむさぼるように煎餅を食べ始めた。


 神尾と根来と屋代が話しているところに鰯田が外出から戻ってきた。

「あ、皆さんお揃いで」

「どうだった?」

「まあ順調でした。単純なシステムトラブルだったのでバックアップからシステムを戻して終わりました」

鰯田は自分の席に座ると、外線電話が鳴ったので受話器をとった。

「はい、情報分析室です……は? はい? いや、そういった内容でしたらこちらではお答えしかねます。失礼ですが……こ、国民ですか? 国民とおっしやいますと?」

それを見た神尾がニヤニヤしながら鰯田の電話機のスピーカーボタンを押すと、中年男性の声が流れてきた。

――国民だよ。名乗る必要なんか無いだろう

「ということは日本国民様ということでよろしいでしょうか?」

――当たり前だ。きちんと納税だってしている

「で、ご要件は何でしょうか?」

――だから、お宅の党に文句があるわけよ。最近はちっとも庶民の味方をしてないじゃないか。タバコの値上げに賛成してみたりしてよ

「いや、そう言われましてもここでは対応が……」

――じゃあどうすればいいんだよ。どこに言えばいいんだよ?

「少なくともここでは無くて……」

――お前みたいな役立たずじゃ話にならん!他に電話する

「……はい。申し訳ありません」

鰯田は受話器を置いた。

「イワシ君、は初めて?」

「はい。でも何で赤の他人に役立たず呼ばわりされるのですか?」

「国民も色々不満があるわけよ。それでこうして電話をしてくるわけだ……ん?」

今度は神尾の席で外線電話が鳴り、神尾が受話器をとった。

「はい。情報分析室です……はい……いや民民党の部署ではあるのですが……申し訳ありませんが部署の性質上、すべての会話が録音されることになっていますけど、それでもよろしいですか? あ、切れた」

神尾は受話器を置いて、根来に振り返った。

「鉄さん、これ変ですよね?」

「ああ。何でここの直通番号が外に漏れているんだ?」

すると煎餅を口に頬張ったままの屋代が根来に答えた。

「藤巻さんッスよ」

「それどういうこと? 屋代君」

「藤巻さんが今日、機関紙と党のホームページにすべての部署の直通番号のリストを記載しちゃったんです。しかも大代表の電話番号を消しちゃいました」

「何ぃ!」

「リストの一番上にある女性局なんか国民の電話が鳴りっぱなしです。幸い情報分析室はリストの下の方なのでそれほど電話が無いようですが。ちなみに藤巻さん所属の組織対策局はリストの一番下ですから、ほとんど電話はありません」

「あの野郎何だってそんな嫌がらせを……」

「何でも労働環境改善の一環とした電話交換台業務の負担軽減策だって本人は言っています」

「あのクソ女とまだ続いていやがったのか!」

根来は机を拳で叩いた。

「そのクソ女って誰ですか?」

「藤巻の野郎は交換台のオペレータと一時期不倫していたんだよ。あの、目が細くて地味な……名前は忘れたが、とにかく彼女の旦那が騒いで不倫が発覚した。それも原因の一つになって藤巻は出世コースから外れた。まあ、大した出世コースじゃなかったけどな」

「ということはその彼女のためにやったことなのですか?」

「多分な。彼女は文句ばかり多くて、国民の電話なんか大っ嫌いなタイプの女だ」

「それはいけませんね」

「いずれにしろ、これは何とかせねばならん」

根来は机の上に積んであった館内の電話表を手にとった。

「これから国民の電話がかかってきたら内線四二九三に回して、相手が出たら何も言わずにこっちの電話を切ればいい。内線が話し中だったら、国民にリストの一番下の組織対策局の電話番号を教えてやれ。ここが最終的に話を受け付けている部署ですって言ってな。屋代君、そういう風に他の部署にも伝えておいてくれ。」

「はい、わかりました。誰ですかその内線?」

「藤巻の席の内線番号に決まっているだろう。ヤツには内線で国民の電話を受けてもらう」

「なるほど、わかりました。そう伝えてきます」

屋代はうれしそうに部屋から出て行った。

「屋代君は相変わらずだな」

「でも奥さんの話を聞くとかわいそうですね」

「神尾さん、奥さんがどうかしたのですか?」

「作る飯が強烈にマズイんだってさ」

「何かそんな話、ネットで見たことがあります。結構いるみたいですよ」

「そういえば今夜は例の安藤さんのライブの日だけど、イワシ君行けるの?」

「はい。予定は空けてあります」

「じゃあその辺で夕飯食べて行くか。ライブでは食べ物は出ないみたいだし」

「あ、でも院内の人民食堂は勘弁してください。あそこ以外にしましょうよ」

「そうだな……遅くなるとあそこくらいしか開いていないけど、屋代さんの奥さんじゃないけどマズイしな。じゃあ麹町に行こう」


 ライブハウスの観客席は半分程度埋まっており、その最前列に神尾と鰯田が座っていた。

「あまり人がいませんね」

「まあ、いいんじゃないの。俺はみんなで大騒ぎするのは好きじゃないし。あ、そう言えばあとでもう一人このテーブルに来るって安藤さんが言ってたな」

「え? 女の人ですかね?」

「わからんが期待はしない方がいい。仮に女の人であっても綺麗とは限らんし、若いとも限らん。期待が大きいとショックも大きいからな」

ビールが運ばれてきて、神尾と鰯田は乾杯をした。

「神尾さん、前から聞こうと思っていたのですが、神尾さんは何で民民党に就職したのですか?」

「俺も特に政治的意図があって入ったわけじゃ無い。政治に興味があったわけでも無かったし。大学の勉強とかも興味が無くて、四年生の時に一年休学して旅に出たんだ。まあ世間一般で言うというやつで、平たく言うと現実逃避の旅ってところかな」

「何かよく聞く話ですね」

「ある時京都の田舎に行ったらジジイが道端で倒れてやがってさ、それがほとんど心肺停止状態。そのまま放置するわけにもいかないから、前に講習を受けたことがある心肺蘇生法を試して救急車を呼んだんだ。それが石渡のジジイってわけ。ジジイは休暇で別荘に来ていて、散歩の途中にぶっ倒れたんだ。元気になってから連絡があって就職は決まっているかと聞かれたから、何か仕事があるなら紹介してくれと頼んだら民民党本部の就職試験を受けさせられて見事合格しちまったってわけ」

石渡いしわたり参議院議員会長をジジイ呼ばわりですか、相変わらずですね」

「俺様は命の恩人だからな」


 午後八時すぎ、髪の毛を後ろに縛って多少のオシャレをした恵里菜がライブハウス『灼熱地獄』の入り口の受付に到着した。

「すみません、洋子・アンダーソンの名前でチケットを取っていただいているはずなのですが……」

受付にそう言うと、担当者が奥へ入っていき、洋子・アンダーソンを呼び出した。

「恵里菜、来てくれてありがとう。とりあえず席に行きましょう。見知らぬ若い男二人が一緒のテーブルだけどいいかしら?」

二人は観客席に歩き出した。

「イケメンなの?」

「イケメンでは無いわ。一人は小デブ。もう一人は普通」

「どんな知り合いなの」

「政治関係。私はもうすぐ出番だから席で詳しく聞いてみて。というかもう少し早く来ると思ったんだけど、仕事が長引いたの?」

「違うわ。地下鉄の大手町駅で迷ったの」

「は?」

「あの駅、最低だわ。ごちゃごちゃしていて地図みてもどこだかわからないし、知らないうちに道が出来ていたりするし……」

「ホントあなたは秘書に向いていないわ」

洋子・アンダーソンは苦笑いをした。


 神尾と鰯田は、洋子・アンダーソンと恵里菜がテーブルに来たので席から立ち上がった。

「お二人に紹介するわ。浮田恵里菜さんで、偶然にもあなた方が働いている職場と……」

そこに鰯田が割って入った。

「保守自由党、衆議院宮崎三区選出、当選三回の田中永吉事務所の公設第二秘書さんですね。ちなみに政策秘書は鈴木義雄さんです」

恵里菜が驚いて鰯田を見た。

「私のことを知っているのですか?」

「いいえ。お名前を記憶しているだけです」

「おっしゃる意味がよくわからないのですが」

「そこからは私、神尾が説明します。彼、鰯田順は特殊な記憶能力がありまして、衆参両院すべての国会議員の顔写真を含む基本情報を記憶しています。それには秘書さんたちの名前も含まれています。ちなみ彼の特殊能力は我党の機密事項になっているので他言無用でお願いします。とは言ってもこんなことを信じる人はいないと思いますが。申し遅れました。ちなみに私たちはこういう者です」

恵里菜は神尾と鰯田から手渡された名刺を見た。

「民民党の情報分析室……の方なのですか?」

鰯田がそれに答えた。

「はい。正確な業務内容についてはお答えしかねます」

神尾がそれに続いた。

「とは言っても、我党唯一の機密事項は鰯田です」

恵里菜が笑った。

「面白い方々ね」

「あなた方座りなさいよ」

洋子・アンダーソンにうながされて全員が着席した。

「恵里菜、飲み物はビールでいい?」

「お願いするわ」

「それでは皆さんごゆっくり」

洋子・アンダーソンは歩き出し、途中でバーテンダーにビールを注文して楽屋に戻った。


 楽屋に入った洋子・アンダーソンは出演に備えて着替え始めた。傍らには娘の奈緒美が座っている。着替えた白いTシャツの前面には地面に立ってこちらを向いているワオキツネザルの頭の上に『Retaliation is NOT a solution』(報復は解決策では無い)とプリントされ、後面にはイギリスとアメリカの国旗が並んで配置されてその上に『Shitty Foods Allies』(マズイ飯同盟)とプリントされている。続いて革のパンツを履くと革ジャンを羽織り、最後にライダースブーツを履いたところでドアがノックされた。

「アンダーソンさん、お願いします」

「じゃあママ歌ってくるからちょっと待っててね」

そう言い残して楽屋を出た。

――続いてRotten Condoms(ロッテン コンドームス)の登場です!

場内アナウンスが流れると、洋子・アンダーソンがボーカルを務める三人組のバンドが登場した。エレキギターから始まるJoan Jett & The Blackheartsの『I Hate Myself For Loving You』のイントロが大音量で流れ出した。

「ロッテン コンドームスってどういう意味ですか?」

洋子・アンダーソンが歌う中、鰯田が神尾に怒鳴った。

「わからん。避妊具のコンドームだと露骨過ぎるからデカイ家のコンドミニアムに関係あると想像してみる。ちなみに浮田さんはわかりますか?」

「え、ええ……洋子から以前聞きました」

「どういう意味ですか?」

恵里菜は恥ずかしそうに神尾に耳打ちした。

「腐った……コンドームという意味らしいです」

神尾はそれを鰯田に耳打ちした。

「腐ったコンドームですか! そりゃまたひどい名前ですね!」

鰯田の大声で周囲の客の注目が集まり、恵里菜は恥ずかしそうに下を向いた。


 出番が終わった洋子・アンダーソンは迎えに来たベビーシッターに奈緒美を預け、着替えて神尾たちのテーブルに戻った。

「どうも皆様、今日は来ていただいてありがとうございました」

洋子・アンダーソンは三人の反対側に座った。

「安藤さんが歌っているのを初めて見ましたけど結構カッコいいですね」

「あら、鰯田さんでしたっけ。どうもありがとう」

「何かコイツも音楽が好きらしいです。それはそうと浮田さんと安藤さんは大学の同級生でいらっしゃるのですね」

「ええ。大学卒業後は会っていなかったのだけれど、私が政治部に配属されて偶然再会したの。最初の話に戻して悪いけど、冗談じゃなくて鰯田さんは本当に衆参両院のすべての国会議員の略歴や顔を覚えているの?」

「はい」

「それは民民党以外の国会議員も含まれるということよね?」

「はい」

「顔が認識できれば名前はわかるの?」

「はい」

「ねえ恵里菜、例のパーティーの件この方たちに手伝ってもらったら?」

「そんな……悪いわよ」

「遠い場所から顔を識別してもらえれば大丈夫でしょう」

「でもどうやって教えてもらうのよ?」

「通信装置は私が手配するわ。うちの会社のどこかに備品があるから」

「あのー、安藤さん。うちの鰯田が何か?」

「あ、ゴメンなさい。再来週の金曜日に保守自由党のパーティーがあって恵里菜が受付担当になったのよ。で、問題は彼女一人で議員の出欠を確認しなければならないの。普段は出席者の名前を本人に書いてもらってあとで確認すれば良いのだけれど、今回は彼女がその場で議員を確認して出欠表を記入することになったの」

「ちなみに出席者の人数は?」

「派閥のみで約五十人。その他に招待状を出している議員が百人くらい。あとは代理の秘書だけど、これはカウントする必要は無いの」

「それなら最低二人は必要ですね。議員の顔と名前が一致する人物という前提で。というか何故浮田さんが一人でやるのですか?」

「何故かと言えばもともと恵里菜は事務処理能力があまり高くなくて……」

「大きなお世話よ」

恵里菜は半分本気で気色ばんだ。

「それで同じ事務所の秘書のオジサンに試練を与えられたの。今回の仕事をうまくやれなかったら次の衆議院選挙が終わった時点で辞めてもらうって。だから彼女は今、必死になって議員の名前と顔を覚えているところ。まあいくらなんでもすべての議員の出欠の記録は不可能だから主な議員を入れて八割できれば良いと思うけど」

「それは一大事ですね、わかりました。うちの鰯田を使ってください。大丈夫です、鰯田の能力はかなり高いですから。なあ、イワシ君?」

「え? いいんですか?」

「いいも何も俺が君の教育係だからな。と言うわけで浮田さん、近日中に打ち合わせしましょう。下見も必要ですし」

「本当によろしいのですか?」

「大丈夫です。安藤さんも協力していただけるのですよね?」

「ええ。機材は何とかするわ。それとホテルの従業員に知り合いがいるから、会場を見渡せる場所も確保できると思う。それと当日は私も取材でパーティー会場にいるから大丈夫」

「というわけで話は決まりました。成功を祈って皆さんで乾杯しましょう」

戸惑う鰯田と恵里菜を無視して神尾はバーテンダーにビールを追加注文した。


 深夜、ライブハウスから駅に向かって神尾と鰯田は歩いていた。

「何か今日の神尾さん、ノリノリでしたね」

「ポニーテールなのだよ。イワシ君」

「は?」

「俺はポニーティールに極端に弱い。だから手伝うことにした……というか多分彼女を好きになったと思う」

「今日会ったばかりじゃないですか」

「時間は問題では無いのだよ。というわけでイワシ君、一緒にやろうね」

「やろうねと言われましても、どうせ僕には選択の余地は無いわけでしょう?でも本部には?」

「当然内緒だ」

「もしバレたら?」

「他党の情報収集が目的と言っておく」

「ちなみに私にとって何か良いことはありませんか?」

「現時点では無い」

「じゃあ神尾さんに貸しておきますね」

「ああ、必ず何かの形で返す」

二人は地下鉄の駅の入り口に入っていった。


 午後五時、情報分析室では神尾と鰯田がくつろいでいた。

「今日もヒマでしたね」

「今日は鉄さんも出張だし、早めに切り上げて例の打ち合わせに行くか?」

「そうですね。今日は安藤さんは出席しないし……というか僕は彼女は苦手です」

「俺だって苦手だ。思ったことをストレートに言ってくるからな」

すると開いているドアをノックして向井水が入ってきた。

「神尾、今晩だけど鰯田借りていいか?」

「突然どうしたのですか? 部長」

「どうしても一人必要な仕事があるのだが、連れていこうと思っていた屋代が突然ダメになった」

「屋代さん、最近大変そうですものね」

「今晩は例のマズイ飯の件で奥さんと決着をつけるために、奥さんの両親も呼んで家族会議なんだとさ」

「そりゃ大変ですね」

「というわけで鰯田を貸してくれ」

「鉄さんには?」

「根来には連絡してある。あ、鰯田の予定聞くの忘れていた。今晩大丈夫か?」

「今晩ですか? 神尾さんとちょっと……」

「俺なら構わん。一人で行くから。部長と行って来い」

「わかりました」

「すまんな。じゃあ鰯田、五分で出かける用意をしてくれ。詳細は食事中に説明する」

「あのー、部長……ちなみに食事は何でしょうか?」

「赤坂で高級焼肉を考えているが不満か?」

「いいえ。もの凄くうれしいです」

「好きなだけ食ってくれ。支払いは本部持ちだから。じゃあ五分後に俺の席に来てくれ」

「了解しました」

向井水は部屋から出て行った。

「イワシ君、そういうことで今晩は大丈夫だから」

「そんなこと言って、本当はうれしいんじゃないですか? 浮田さんと二人きりで」

「そんなこと無いがな……ふふふ」

「まあいいです。私は高級焼肉の方が楽しみですから、では」

鰯田は机の上を片付け、上着を羽織ってそそくさと出て行った。

「んー、高級焼肉ねぇ……部長の高級焼肉の誘いに釣られるとロクなことにならないんだけどな。まあいいや、俺じゃ無いし。そんなことより……」

神尾はそうつぶやくと、PCでレストランの検索をしながら携帯電話をかけた。

「浮田さん、今大丈夫ですか?今晩なのですが、鰯田が急用で来られなくなりまして。はい、それで場所を変えまして表参道にしたいのですが。もう少し気の利いたレストランで。六時半に表参道B1出口、通称という狭くて急な階段を上がったところの地上出口の待ち合わせでどうでしょう? 念のためにメールでレストランの地図を送っておきます……はい。では」


 鰯田は向井水を前に凄い勢いで高級肉をむさぼり食べていた。

「部長、最高です! このリブロース」

「もっと食っていいぞ」

「そうですか、じゃあ上カルビをもう一皿いいですか?」

「いいぞ。好きなだけ食べろ」

「何だか僕だけ良い思いをして神尾さんには悪い気分です」

「今日はちょっと働いてもらうかも知れないからな。その前払いみたいなもんだ」

「あ、その仕事の内容って何ですか?」

「何も起きなければお前の出番は無い。これから行く場所は都内のスタジオだ。そこでうちの議員が二名出席する番組の録画撮りが行われる」

「え! 僕も映るのですか?」

「お前も俺も映らん。出席する議員は上串夏子うえくしなつこと桜田サナエだ。両名とも説明する必要は無いな?」

「はい。上串夏子衆議院議員四十二歳、新潟四区選出は父親の死去に伴って地盤を引き継いで当選一回。医師の資格を持っています。桜田サナエ参議院議員三十二歳、山梨県選出は一年前の補選で当選したばかりで民放の元アナウンサーです」

「そのとおりだ。上串夏子の方は問題が無いが、桜田に問題がある。この議員が強烈なバカで自己顕示欲の塊だ」

「そのバカ議員と部長が何の関係があるのですか?」

鰯田は肉を焼きながら、興味が無さそうに尋ねた。

「こういった撮影の場所には通常秘書が同行するのだが、現時点であの事務所にはそれができる秘書がいない。ちなみに秘書は今年に入ってからもう六人も入れ替わっている。今いる秘書は二十歳そこそこのアルバイトの女の子が一人のみだ。短期間ですべての秘書が頻繁に入れ替わるような事務所は、議員に問題があることが多い。だから俺が代わりに行って監視する必要があるのだ。バカを言った本人がどうなろうと知った事ではないが、それが党全体の風評に及ぶことは避けねばならない」

「なるほど、よくわかりました。で、具体的に僕は何を?」

「向こうに着いたら俺の指示を受ければいい。ただそれだけだ」

「了解しました。では最後に特上牛タンをもう一皿いいですか?」

「構わんよ。それにしても良く食べるな、お前は」

店員が皿を片付けにやってくると、向井水は特上牛タンを追加注文した。


 スタジオに到着すると向井水は鰯田を廊下の端で待たせ、控室のドアをノックして開けた。控室の中では白いスーツを着た桜田サナエが本番用のメークをしていた。

「こんばんは。本部の向井水です」

「部長さんでしたっけ? 撮影見学にわざわざ来るなんて本部もヒマなのね。それにしても、もう一人の上串さん? 何で私の勝負服と同じ色なわけ?」

「と、おっしゃいますと?」

「あのね、おかしいでしょ? そりゃ私の方があとから当選したから仕方がないけど、私は白って決めてるわけ。そしたら今日、彼女が着ている服も白じゃないの。どうするのよ、思い切りカブってるわよ」

「もうこの時点ではどうにもなりませんが」

「こういう時は本部の方で気を利かせてあらかじめ服の色くらいチェックしておくべきなのよ」

「次回からはそうしておきます。本番中、私はスタジオ内におりますので何かありましたらお呼びください。では」

向井水がドアを閉めるとちょうど夏子がトイレから戻ってきたところだった。

「あ、向井水部長。こんなところでどうしたのですか?」

「何か起こったときに困りますので」

「何か起きるのですか?」

「そんな予感がしています。ちなみに今日の先生のスーツはどう見てもベージュに灰色のストライプですよね?」

「派手かしら?」

「いや、良くお似合いです。テレビに映ると白に見えないことも無いですが……やっぱりベージュですね」

「どうもありがとう。ではまた本番で」

夏子はドアを開けて入っていった。向井水は廊下の端にいる鰯田を呼んだ。

「鰯田、もうすぐ本番が始まるからお前はあそこの非常口近くで、俺の指示があるまで待機していろ」

「了解しました」


 スタジオでは司会者を挟んで数人の知識人、それと上串夏子と桜田サナエが質問を受けていた。

「それでは去年の補選で当選されました桜田サナエ参議院議員にご意見を伺おうと思います。当然選挙は初めての経験でしたよね?」

「はい」

「アナウンサーの仕事と比較して何もかも違ったでしょうし、人を使うということも初体験でしたよね?」

「はい。生まれて初めてアルバイトを雇ってビラを配ってもらいました」

テレビカメラの後ろに立っていた向井水は両手をズボンのポケットに入れて、天を仰いでつぶやいた。

「いきなりこれか……教科書通りの公職選挙法違反だ」


「ちなみにご家族の反対などはありませんでしたか?」

「そんなことはありません。今年入学した高校生の甥っ子も喜んで選挙カーに乗って一緒に応援してくれましたし」

向井水は頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「それも公職選挙法違反だ……」

向井水はしゃがみ込んだまま、胸ポケットから携帯電話を出すと小声で鰯田に電話した。

「鰯田、仕事だ」

「はい。何をすればよろしいでしょう?」

「お前の目の前にある火災報知器のボタンを間違ったフリをして押せ」

「え? もう一度お願いします」

「何でもいいからその赤いボタンを押せ」

「そ、そんなの無理です」

「何のために高い焼肉を食わせたと思っている? 早くしろ」

「……わかりました」

「いいか、ボタンの真ん中をガッ!って強く押せよ」

「はい……」

 向井水が携帯電話を切って立ち上がると、司会者が再び桜田に質問するところだった。

「ちょっと待ってください桜田さん、今おっしゃったことをもう一度お尋ねします」

「ええ、ですから去年の選挙は凄く大変で……」

そのとき火災報知器が鳴り出した。周囲が動揺する中、向井水は急いで夏子と桜田に歩み寄った。

「先生方、避難しましょう」


 二人を連れてスタジオを出る途中、向井水は廊下で関係者に囲まれて半泣きしている鰯田を見つけた。

「す、すみません。ちょっと足がからまった拍子に……本当に申し訳ありません」

「鰯田どうした?」

「ぶ、部長、僕が警報機を押してしまったのです!」

「何! お前が押したのか?」

「はい。本当に押すつもりは無かったのです」

「関係者の皆さん、申し訳ありません。私はこの鰯田の上司で民民党の向井水と申します。あとで私の方からお詫びと説明に伺いますので、この場は引き取らせていただけますでしょうか?」

そう言い残すと向井水は鰯田の手を引いて二人の議員と一緒に建物の外に出た。

「鰯田、ご苦労」

「部長、もう嫌ですよ。こんな仕事」

「大丈夫、次はもっと美味い肉を食わせてやるから」

「そう意味では無くて……」

「上串先生、ちょっと私は桜田議員とお話がありますので失礼します」

向井水は鰯田と夏子を残し、未だに事態が把握できていない桜田サナエを促して離れた場所に移動して説教を始めた。それを見ていた手持ちぶさたの夏子は鰯田に話しかけた。

「本部のお仕事も大変ですね」

「いえ、この程度の災難には慣れていますから。それに焼肉を食べてしまいましたし」

鰯田は事務的に答えた。

「焼肉?」

「はい。焼肉に釣られて来てしまったのです」

「鰯田さん、ちなみにステーキはお好き?」

「焼肉と同じくらい大好きです」

「では今度私の事務所にいらしてください。支援者からいただいたステーキ店の無料券などが余っていますし、時には高級レストランの招待券とかもいただいたりするので、よろしかったら差し上げます」

鰯田の顔が期待に満ちた表情に変わった。

「え! 本当ですか。明日にでも伺います……でも何か条件があるとかでは?」

「ありません。いつも私と秘書では食べきれないので無駄にしているのです。鰯田さんのご趣味は食事なのですか?」

夏子は笑いながら鰯田を見た。

「それもそうなのですが、最近の趣味は野良猫のブラッシングです」

「野良猫?」

「はい。いつもこのようにブラシを持ち歩いて、人懐こい野良猫がいたらブラッシングするのです」

鰯田はカバンの中から猫の毛が付いたブラシを得意げに出した。


 保守自由党の派閥パーティー当日、午後四時には神尾と鰯田は適当な理由をつけて党本部から直帰した。そしてパーティー会場近くのカラオケボックスに四人が集まり、洋子・アンダーソンが説明をしていた。

「続いて装備の説明をします。インカムは耳に入れ、マイクはシャツの袖を通して手首のあたりで固定するので外からは見えません。電源は入れっぱなしにしても数時間は持つのでパーティーの間は大丈夫です。電波の届く範囲はせいぜい数十メートルなので極端に離れないようにしてください。」

洋子・アンダーソンは説明を終えるとバッグの中に装備品を入れて神尾に手渡した。

「洋子はどこにいるの?」

「私はパーティー会場をうろついているわ」

「鰯田さんは?」

「僕は神尾さんと一緒に浮田さんの後ろの照明用の覗き穴から出席者をチェックします」

「恵里菜、大丈夫よ。それほど難しい話じゃないから。ただ、神尾さんと鰯田さんは見つからないように気をつけてね」

「わかりました」

「それじゃ私は一足先にパーティー会場に入ってくるわ。じゃあまたあとで」

洋子・アンダーソンがカラオケボックスを出たあと、時間差で三人もカラオケボックスを出た。途中で信号待ちをしているときに鰯田が神尾に話しかけた。

「神尾さん、ちょっとあそこのペットショップに寄って猫とか見てもいいですか?」

「時間はまだあるから構わんよ」

「すぐに戻りますから、信号を渡った先のあそこの公園で待っていてください」

鰯田は小走りでペットショップに向かった。残された二人はゆっくりと歩き出して信号を渡り、公園に入るとベンチに座った。

「ねえ稔さん、鰯田さんと洋子は私たちが付き合い出したことを知っているの?」

「いや、というかまだ付き合いだしてから一週間くらいだし……」

「知らせた方がいいかしら?」

「別に宣言をする必要もないと思うけど」

「そうね」

「どう? 緊張してきた?」

「大丈夫よ、稔さんが後ろで見てくれているから」

「……まあね」

「今度、二人でどこか旅行にでもいかない?」

「どこがいい?」

「最初だから近場が良いと思うけど」


 しばらくして鰯田が二人のもとに戻ってきた。

「どうもお待たせていたしました」

「鰯田……それはいったい何だ?」

神尾は鰯田が持っているペットキャリーケースを指さした。

「いやー、参りました。これでまたイビサ島への旅が遠のいてしまいました」

「イビサ島ってどこだ? いや、そういうことを言っているのじゃ無くて、これからパーティーに忍びこもうと言う時に何故君は猫を買ってきたのだと聞いているんだ」

「いや、何だかこのゴンザレスに見つめられまして……」

鰯田はキャリーケースの子猫を見せた。

「お前な、どうする気だ? というかワケがわからん」

「じゃあ、僕はゴンザレスと一緒に家に帰りますよ」

「ま、待て。お前がいないと今夜は話にならん」

神尾が頭を抱えると恵里菜が助け舟を出した。

「ちなみに、そのゴンザレスさんはおいくらなんですか?」

「世話をする道具を含めて十五万円です。金利手数料無しの二十回払いで話を付けてきました」

「それ、今晩のお礼の先払いということで私に払わせていただけますか?」

「え! 本当ですか? 十五万円ですよ?」

「はい、大丈夫です。今すぐペットショップに戻って鰯田さんの返金手続きをして、私が代わりに払いましょう」

「イワシ払ってもらえ。彼女の家は裕福らしいから」

「わかりました。今晩は浮田さんのために働かせていただきます」

「それでは、あまり時間が無いのでペットショップに行きましょう」

三人は元来た道を戻ってペットショップに向かった。


 パーティー会場の受付では鮮やかにそして堂々と恵里菜が来客をさばいていた。

黒田一郎くろだいちろう先生、こんばんは。お手数ですが記帳をお願いいたします」

「えーっと、君は確か田中永吉先生のところの……」

「浮田です」

「あー、そうだった。ちなみに遠山君はもう到着しているかね?」

「遠山先生ですか、少々お待ちください」

恵里菜は下を向いて記帳を確認するフリをしながら、左袖のマイクにつぶやいた。

遠山廉治とおやまけんじ先生ですね……」

鰯田からインカムに答えが返ってきた。

――遠山廉治は二十分前に会場に入っています。現在位置は上り階段近くで飲み物を持っています

「遠山先生は二十分ほど前に会場に入られまして、さきほど上りの階段近くに行かれるのをおみかけしました」

「ありがとう」

黒田一郎は会場に入っていくと、インカムから鰯田の声が入った。

――続いて入ってくるのは梨田雄三なしだゆうぞうです。後ろについているのは恐らく政策秘書の今井勝いまいまさる、公設第一と第二は女性だったので消去法ですが

「梨田先生、こんばんは。お手数ですが記帳をお願いいたします」

梨田は横柄に今井に言った。

「君が書いておいてくれ」

「はい、承知しました」

今井は梨田の代わりに記帳した。

「失礼ですが政策秘書の今井さんですか?」

「あ、そうです。私はまだ働き始めて日が浅いのに覚えていただいて光栄です。失礼ですがお名前は……」

「浮田恵里菜と申します」

梨田と今井は会場に入っていった。

――浮田さん、今の梨田雄三で名簿に記載されていた派閥の議員はすべて確認しました。

「了解しました。鰯田さん、これで役目は果たせそうです。ありがとうございます。稔さんもありがとう」

――いいえ、どういたしまして……ん?

 照明室にいる鰯田は左手のマイクを右手でふさぎ、神尾にもマイクをふさぐように動作で合図した。

「神尾さん」

「何だ?」

「今、って呼ばれましたよね? ひょっとして浮田さんと交尾しましたか?」

「生物学的にはしたと思う」

「わかりました」

「というわけで、この件に関してはゴンザレスの一件があるので貸し借り無しだ」

「わかりました」

そのとき洋子・アンダーソンの声がインカムに入った。

――ちょっと鰯田! 幹事長と話しているあそこの二人は誰なの?

鰯田は面倒くさそうに双眼鏡で会場を見た。

「安藤さん、会って四回目なのに呼び捨てですか?」

――うるさいわね。教えなさいよ

「安藤さんから向かって右が津田牧雄つだまきお衆議院議員で、左がこの前保守自由党に復帰した沖田誠おきたまこと参議院議員です」

――ありがとう。それと恵里菜と神尾君は付き合いだしたのね。おめでとう

「洋子、ありがとう」

「安藤さん、そういうことになりました」

――待って、照明室の方に警備員が一名向かっているわ。神尾君、すぐに逃げ出せる?

「すぐってあと何分くらいですか?」

――二十秒も無いわ

「無理です」

「稔さん!」


 警備員が照明室のドアを開けると中は暗闇だった。

「誰かいますか?」

奥のロッカーの陰で神尾と鰯田は息を潜めていた。警備員は懐中電灯で部屋を照らしながら無線を口に当てた。

「とりあえず誰もいないみたいです。物音の原因ですか?調べてみますが、部屋の照明のスイッチがわからないのでもう一人応援をお願いします……あ、ちょっと待ってください」

暗闇から出てきたゴンザレスが警備員にすり寄ってきた。

「猫、子猫です。何だかわかりませんが、子猫が紛れ込んだみたいです。え? 外に出すのですか? ダメです、私は猫アレルギーなので。ちょっと一度外に出てそちらに戻ります」

警備員は小走りに部屋から出た。それを確認した神尾は止めていた息を吐き出すとマイクに話しかけた。

「安藤さん、警備員はどうなりました」

――今なら大丈夫よ

「鰯田、行くぞ」

「ちょっと待ってください」

鰯田はゴンザレスを拾いあげると神尾と照明室を出た。神尾は怪しまれないようにゆっくり歩きながらマイクに口を当てた。

「えー、安藤さん聞こえますか? 神尾と鰯田は無事脱出しました。この辺りにいると危険そうなので、我々は先に解散して家に戻ります。装備品は明日、院内でお渡しします」

――了解しました

続いて恵里菜が応答した。

――皆さん、今日は本当にどうもありがとうございました

神尾と鰯田は装備を外してバッグに入れた。

「じゃあイワシ君、帰ろう。お疲れさんでした。ちなみに君のアパートは猫を飼って大丈夫なのか?」

「大丈夫です。最初に入ったときに確認しておきました。敷金を一ヶ月入れればオッケーとか書いてありました」

神尾は鰯田の肩を叩くとバッグを背負って元来た道を歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る