第四話 衆議院議員・権田正三

 午前九時、衆議院第一議員会館の権田正三ごんだしょうぞう(七十歳)事務所では秘書の諸橋理香子もろはしりかこ(三十五歳)と高橋良治たかはしりょうじ(五十五歳)が椅子に座って忙しく事務処理をしていた。

「おはようさん」

権田正三が部屋に入り、二人の前を通って議員室に入る前に高橋が話しかけた。

「議員、県連からの連絡で来週の東京の会合の件で日程の変更をお願いしたいと言っています」

権田はいぶかしげに高橋を見た。

「それって確か党本部が決めた日程だったでしょ? 何で変更の連絡が県連から来るの?」

「いや、それが県連の新しい委員長が党本部の向井水部長と仲が悪いらしくて、何か部長を通したくないようなのです」

「しょうがねぇな。で、変更したとして日程的にはどうなの」

「国会の予定は特に何も入っていませんが。あ、ちなみに来週の木曜日の三時です」

「じゃあ変更入れておいて。向井水君には俺から言っておくから……ん? 来週の木曜日だって!」

「な、何かご予定でもあるのですか?」

「水族館だ」

「は?」

「水族館で新しいイルカのショーが始まったので見に行く予定だ」

「お一人でですか?」

「当たり前だよ、高橋君。私は科学者なのだよ。遊びに行くわけじゃない。観察するのだよ。それに知能の高いイルカを見ると心が休まらんかね?」

「では日程の変更は」

「ダメと言いたいところだが、変更しないと角が立つのじゃ仕方が無い」

「ではそのように変更しておきます」

「じゃあよろしく頼むね」

権田が議員室に入ると、今度は理香子が部屋に入った。

「議員、さきほど貴子さん(娘)からお電話がありました。また携帯の電源を入れていませんね?」

権田は内ポケットの携帯を出した。

「あ、ごめん。で、用件は?」

「今晩赤坂に出てくる予定なので夕食でもご一緒にということでした」

「わかった。私の方から連絡しておく。そういえば理香子ちゃん、この前十歳の孫娘が小遣いよこせとか言ってね」

「はい……」

「いや、こういうことは子供のころからしっかり言ってやらなきゃダメだと思ってさ、『あのね、おじいちゃんは選挙権を持っている人にだけお金をあげるんだよ。特に選挙が近くなるとね。あなたは選挙権を持ってないからお金をあげられないんだ』って言ってやったわけよ。どう? 傑作でしょ?」

「議員、どうしてそう冗談にならないようなことをいつもいつも……」

「いいじゃないの理香子ちゃん。孫娘も選挙権って言葉を覚えたしさ」

「それと岡田事務所の方が……」

電話が鳴り、手が空いていない高橋の代わりに理香子が議員室で受話器を取った。

「はい、少々お待ち下さい」

理香子は電話機を保留にした。

「議員、環境保護団体を名乗る方が面会を求めているようなのですが、心当たりはありますか?」

「ある。さっき、議面(議員面会所)でホッキョクグマの保護を訴えていた青年がいてね、面白そうだから部屋に来るように言っておいた」

「はい? そんなわけのわからない人を……」

「大丈夫。私は科学者だから」

理香子は首を振りながら電話の保留を解除した。

「お通ししてください」


 しばらくするとドアがノックされ、むさ苦しい風体の青年が部屋に入ってきた。

「どうぞ、奥にお入りください」

理香子が青年を議員室に通した。

「はじめまして、私はCK9と言う環境保護団体で活動しております、佐藤と申します。特にホッキョクグマの保護に力を入れています」

自己紹介を終えると佐藤は権田に促されてソファに座った。

「で、ホッキョクグマの生息数は今何頭くらいなの?」

「二万数千頭と言われています」

権田が佐藤の正面に座ると同時に理香子がお茶を持ってきた。

「あとどれくらいで絶滅するの?」

「数十年以内と言われています」

「個体数が五千を切ると急激に絶滅に向かうという話だっけ?」

「はい……」

「あ、言い忘れたけど私は国会議員は表向きの職業で、実は科学者が本職なんだ。お茶をどうぞ」

「ではいただきます。それは心強いです。是非先生のお力添えを頂きたく思います」

佐藤はお茶に手を付けた。

「で、佐藤さん、北極には何回行ったの?」

「いえ、まだ一度も……」

「え、どういうこと?」

「私はCK9の日本支部で事務方、営業担当みたいなものですから」

「ほお、じゃあホッキョクグマを実際に見たことは無いわけだ」

「いや、上野動物園で二三回見たことはあります。ははは」

「なるほど」

「この問題を何とか国政でも取り上げていただけないでしょうか?」

「無理だね」

権田は平然と否定した。

「はい?」

「君が北極に行ってホッキョクグマを救う活動をしているならまだしも、冬でも氷が張らない東京に住んで、それでホッキョクグマが絶滅寸前ですと言われてもな」

「……」

「では聞くけどホッキョクグマが絶滅すると人間にとって何か困ることがあるの?」

「人間が引き起こした地球温暖化によってホッキョクグマが絶滅するのであれば、人間はそれを救う義務があります」

「私はホッキョクグマが絶滅しても全く困らない。それに地球温暖化は人間が引き起こしたもの……というのは仮説で、まあそれは置いておいても、私は科学者として絶滅に瀕している生物を人間が救う行為に意味を感じない」

「無茶な意見ですね」

「何が無茶なものか。地球上の生物の歴史とは絶滅と誕生の繰り返しだ。弱い種が絶滅し、また新たな種が誕生する。恐竜が絶滅しなかったら人間に繋がる哺乳類は繁栄しなかったろう」

「しかし人間にホッキョクグマの生態環境を壊す権利はありません」

「権利だと? アホな西洋かぶれな考え方だ。と言う概念は人間にのみ適用される。動植物に権利など無い。ホッキョクグマがもし環境を壊されるのが嫌なら自分たちで何とかするしか無い」

「彼らは弱いから私たちが助けなければならないのです!」

「じゃあさ、そんな弱い動物なら君がホッキョクグマと同じおりに入って、ホッキョクグマが持つ権利でも読み上げてやったらどうだね?」

「……」

「絶滅する生物はいずれ絶滅する。人間の力を借りないと生存できない生物に何の意味がある? 人間がそれらの生物を救う義務があるなんていうのは単なる人間のおごりだ」

「あなたでは話になりません!」

「では仮にミミズが絶滅寸前だと言われたら君はミミズを救うために行動を起こすのか? 起こさないだろう? 所詮その程度なのだよ君たちの活動は」

佐藤は席を立った。

「まあ、待ちなさい。せっかく来たのだから私の最新の著書を差し上げよう」

権田は机の横に置いてある段ボール箱の中から本を取り出した。

「いいえ、結構です。失礼します」

「そうか、残念だな」

佐藤は早足で事務所から出て行った。


「議員、朝から楽しそうですね」

理香子が茶碗を片付けに部屋に入ってきた。

「まったく、最近は環境、環境とうるせーったらありゃしない」

「仕方ありませんよ。そういう時代ですし」

「そもそも地球温暖化阻止なんて単なる学者の自慰行為だよ、あんなもの。この前地球温暖化阻止を叫んでいる科学者に『イギリスの産業革命以前のレベルまで二酸化炭素量を減らしたら確実に温暖化は止まりますか?』と尋ねたらごちゃごちゃ理屈を並べて答えなかった。ついでに『止まるならそれは何年後ですか?』と言ったらそれも答えなかった。止まるかどうかもわからないものに、国がお金を出すわけにはいかんのだよ」

「そういったややこしいことは私に言われてもわかりません」

「じゃあ簡単に説明しよう。夏が暑いのは地球温暖化が原因、夏が寒いのも地球温暖化が原因、冬が寒いのも暖かいのも地球温暖化が原因だ。理香子ちゃんの結婚生活が短かかったのも、高橋君の浮気がバレたのも、選挙で僕の得票数が伸びないのもみーんな地球温暖化が原因と言うことなんだ」

「私の結婚生活と地球温暖化は無関係です」

「あら、そうなんだ。それは失礼した」

権田はテーブルの上の佐藤の名刺を手にすると理香子に渡した。

「理香子ちゃん、ここに書いてある事務所に私の著書を送っておいてくれる? 佐藤さんから頼まれましたとか書いてさ」

「また嫌がらせですか? どうせ大量に売れ残っていますから何冊でも送りますよ」

「あと数年すれば私の考え方も世の中に広まってそんな在庫なんか一瞬で無くなるよ」

「はい、はい。では適当に選ばさせていただきます」

理香子は段ボール箱の中から三冊の本を取り出した。

――『なぜ……』で始まる本はなぜつまらないのか?

――魔物なんて存在しません。それは単なる偶然です

――一夫多妻制と一妻多夫制の両立について

「この三冊でよろしいですか?」

「大事なやつが抜けているな」

権田は本棚の中から一冊を取り出して理香子に手渡した。

――実は婚外交尾好きなオシドリ

それを見て理香子はうんざりして首を振った。

「はい、承知いたしました。この四冊を今日の午後に送付しておきます」


 参議院第十控室、民民党国会対策室では鰯田と神尾がPCの設定を行っていた。民民党職員は本部建物の他に、院内(衆参両院内)の控室および議員会館地下にある部屋に分散して働いていた。院内の控室は議員の数に応じて各党派に割り振られていた。民民党の全盛期には与党・保守自由党に迫る数の控室を持っていたが、今ではその三分の一以下にまで落ち込んでいて、中には他の政党と共同で使用している控室もあった。

 二人が作業をしている国会対策室は本会議の日程などの議院の運営に関する協議を行う部屋で、常駐の職員が一人とアルバイトの女性が一人働いていた。民民党の歴代国対委員長は年功序列で決められることが多く、無能な国会議員が国対委員長になると与党との調整がうまく行かず、日程がまったく決まらなくなって与野党から顰蹙を買うことが多々あった。

 作業する神尾らの横に置いてあるテレビでは午後のワイドショーのニュースが流れており、リポーターが生放送を行っていた。環境省の前では政府の地球温暖化対策を早急に求める市民団体が座り込みをしていた。

――本日、環境省の正面玄関の柱に目盛りが書き込まれました。これは地球温暖化による海面上昇により、都心がどの程度海水に沈むかを知る目安となります。例えば海面が三メートル上昇するとこの霞が関周辺は完全に浸水することがわかります。では環境省の職員にインタビューしてみます

リポーターは環境省の建物から出てきた職員らしき中年男性にマイクを向けた。

――今回の取り組みについてどう思われますか?

――まあ、こうして見ると視覚的に確認できて良いと思います

――もし海面が三メートル上昇したらこの周囲は水浸しで困ったことになりますね?

――まあそうなっても私はボートで出勤するから困りません。かえってあそこに座り込みをしている人々が、座り込みができなくなって清々しますね……

すると、それを聞いた座り込みをしている人々が一斉に立ち上がった。

――こ、この辺で中継を終わりにしたいと思います。ではスタジオの……

「神尾さん、環境省にもなかなか素敵な人物がいるようですね」

「まったくだ」

PCの設定が終わった二人は控室から廊下に出た。階段の方向に歩き出した神尾は足元に近づいてきた四歳くらいの少女を危うく蹴りそうになった。

「おっと、危ない」

少女は神尾を見上げた。

「おじちゃん、これ見て」

少女は手に持った知恵の輪を器用に外して見せた。神尾は少女の前にしゃがみこんで話しかけた。

「お嬢ちゃんは手先が器用だねぇ。大きくなったら泥棒さんかなぁ?」

神尾は突然背後から頭を殴られた。

「い、痛ぇ」

立ち上がって振り返ると、背が高い三十歳前後の女性が立っていた。

「あ! 安藤さん」

「あ、じゃないわよ。私の娘に何教えるつもり?」

「え、娘さん?」

「そうよ。風邪をひいたのでこれから病院に連れて行くところ」

「あ、そりゃ大変ですね。では私たちはこれで……」

「ちょっと待ってよ」

「なんでしょうか?」

「これ、来週の週末だけど暇ならそっちの彼と一緒に来てよ。フリードリンクだから。それじゃあ」

神尾は二枚のチケットを渡された。神尾はそれを受け取るとそそくさと鰯田を促して階段を降りていった。

「あの外国人っぽい女性は誰ですか?」

「俺は安藤さんって呼んでいるが、本名はジュディス・洋子・アンダーソン。日本人とイギリス人のハーフ」

鰯田は思い出すように左上を見た。

「……秘書さんにその名前はなかったです」

「正解。彼女はジャパン トリビューンの政治部の記者」

「英字新聞ですか?」

「そう。発行部数は大したこと無いし、影響力もほとんど無い新聞」

「神尾さんはその安藤さんに怯えているようでしたが」

「怯えているわけじゃない。ただ、彼女と以前一悶着あってな」

「まさかあの女の子が神尾さんの隠し子とか」

「そうじゃない。以前彼女がまだ経済部の記者だった時、たまたま院内で紹介されてな。まあ何かのついでに国会に来たと思うんだが、その時に『来日して半年目なのですが、何か面白い話題は無いですか?』って聞かれたから、『歴史がある京都では百年ローンが組める銀行が存在しますよ』って言ったら本気にして京都に行きやがって……それ以来俺はちょっと嫌われているらしい」

「でも何で安藤さんって呼んでいるのですか?」

「銀行の話をしている時に、使うのはハンコじゃ無くてサインですか? と聞いたら『安藤』ってハンコを使ってると言っていたからだ」

「日本語が流暢ですね」

「完全なバイリンガルらしい。でもあんな大きい子供がいるとは知らなかった。一般的に政治部の記者と関わってもあまり得はないけど、彼女は比較的まともな記者だ」

「へー、そうなんですか」

「一応説明しておくと政治部の記者と言っても新聞、テレビ、雑誌など色々ある。テレビだと経済部から政治部に異動するのがエリートコースってところかな。新聞記者は本部に頻繁に出入りしているから知っているだろう。まあイワシが取材を受けることは無いと思うけどね」

「なるほど。それでさっきの安藤さんは歌手なのですか?」

「君より年上だけど彼女に興味あるの? ロックを歌うのが趣味で、さっきもらったのはその招待チケット。俺はロックが良くわからないから行ったことが無い」

「安藤さんに興味は無いですけど、ライブにはちょっと興味があります」

「そう。じゃあ今回は一緒に行ってみるか? 俺はこれからちょっと議員会館を旅してくるからお前は本部に戻って鉄さんに報告を入れてくれ」

「はい、わかりました」


 神尾が権田正三事務所の半開きのドアをノックして覗き込むと、理香子が机に座ってPCで作業をしていた。

「理香子さん、お元気ですか? 相変わらずそのド派手なスーツがお似合いですね。」

「うるさいわね」

「おじゃまします」

神尾は遠慮もせずに部屋に入っていった。

「先週若手官僚と合コンをしたと聞きましたが……」

「若手官僚なんて話に釣られて行ってみたらまったく若手じゃないわ、おまけに話がつまらないわとダメダメづくしだったわ」

「そんなこと言っていられるのは今のうちだけじゃないですか? へへへ」

「相変わらず減らない口ね。で、コーヒーが欲しいのでしょ?」

神尾は勝手に応接セットに座った。

「ありがとうございます。長居はしませんから。何でも最近私が議員会館で遊んでいるって根も葉もない噂が駆け巡っているようですし」

「現にこうして暇つぶしているじゃない。そういえばあなた、参議院の根津先生の秘書さんをデートに誘って振られたらしいじゃないの。確か西森さんでしたっけ? 若い方の秘書さん」

「ど、どうしてそれを! しかもそれ先週の話なのですが」

「あなたね、よく調べなさいよ。彼女は彼氏がいるの。しかも三年も付き合っているの」

「どうしてそんなことまで、しかも理香子さんは西森さんに会ったことが無いでしょう?」

「そりゃあなた十年以上も働いていれば色々と話だって……で、最近本部はどうなの?」

「どうもこうも議員の数が減りましたから思い切りヒマですね」

「まあ、この分じゃしばらく増えそうもないわね」

理香子は苦笑いした。

「高橋さんは?」

「喫煙室に行っているわ」

「え? 高橋さんはタバコ吸わなかったですよね? 最近吸い出したのですか?」

「いいえ。情報収集が目的なの」

「意味がよく分からないのですが」

「何でも喫煙室にいる人たちって党派を超えた連帯感があるみたいなの。普段話さないような話題を話したり、友達になったりして。だから高橋さんはそこに行ってタバコを吸う振りをして吹かして話を聞いたりしているわけ」

「なるほど」

「それはそうと、うちの議員は次回の選挙どうなの?」

「んー、現時点では何とも言えません。いや、先生には大きな組織があるわけじゃ無いですし。過去には落選もしていることもありますし、投票率が下がって組織の総力戦になったら危ないとしか言いようがありません」

「それじゃ週刊誌の記事そのまんまね。もっと役に立つ情報は無いの?」

「あのー、どうでもいいですが私にもう少し優しい言葉をかけるオプションなどはありませんか?」

「無いわ」

「はあ……とりあえずこの前お尋ねの選挙データはお持ちしました。メール送信だと履歴が残るのでUSBメモリーで持ってきました。本部にあるデータの閲覧や持ち出しは制限がかかっているもので」

「ありがとう。私のPCに入れておいてちょうだい」

「はい理香子様、席をお借りします」

「コーヒーを入れるわ」

理香子は席を立った。

「そう言えばこの前、うちの鰯田が権田先生に麻雀でお世話になったみたいなのですが」

「鰯田? あー、あの今年採用された新人君のこと? はい、コーヒー」

「ありがとうございます」

理香子の席に座った神尾はコーヒーに口をつけた。

「その鰯田君とやらは牌を伏せろと言われて、意味がわからなくて自分が伏せて笑われていたみたいよ」

「ははは、そんなマヌケなことをしていたのですか」

「結局うちの議員のひとり勝ちだったみたい」

「権田先生は麻雀が強いのですか?」

「強いんじゃないの。だって負けた話は聞いたこと無いし、というか麻雀の借金の取り立てには良く出掛けるけど、取り立てが来たことは無いわ」

「戦後の一時期、麻雀で食べていたみたいな話を以前聞いたことがあるのですが」

「食べていたかどうかは別として確かに麻雀はしてたみたいよ」

「コピーが終わりました。エクセルを使って開いていただければデータの抽出とかできるようになっています」

神尾はUSBメモリーを抜いて立ち上がった。

「ありがとう」

「それじゃあまた来ます」


 神尾が党本部三階に戻ると、廊下のソファーで向井水が新聞を読んでいた。

「あ、部長。お元気そうで」

「うるさい。それより鰯田の教育はどうだ?」

向井水は新聞を下げて神尾を見た

「順調に進んでいます……と答えておきますが、何が順調か自分でもよくわかりません」

「何だその答えは? 問題は無いのか?」

「問題はありません。まあ本人が何が問題かを認識しない点においては問題があるかもしれません」

「それはお前も同じだ」

「ありがとうございます」

「褒めたわけじゃない」

「わかっています。それはそうと権田議員の素性ってご存知ですか?」

「権田正三か? 当然お前よりは知っている」

「私は科学者とか麻雀が強いとかしか知らないのですが」

「麻雀は知らんが、科学者であることは間違いない。どこだか忘れたがアメリカの大学の大学院を出て博士号を持っている。専攻は工学系とか言っていた。帰国後に四葉重工業で工業機械の設計に携わり、そして大学の教授になったあと、何を血迷ったか衆議院議員に立候補して当選した」

「主な支持母体はどこですか?」

「特に無い。選挙区に恵まれているって感じだ。一応工業関係の労組から推薦はもらっているがな」

「部長は詳しいですね」

「俺は部長だから当たり前。とは言っても一時期、権田正三と一緒に動いていたことがあってな。結構昔の話だ」

「それは初耳です」

「俺がまだ出向先で働いている時に権田と一緒に山の中の療養所に行ってな……」


 真夏の日差しの中、黒塗りの車が田舎の山道を登っていた。クーラーの効いた車の後部座席には権田、その横に向井水が座っていた。

「向井水君、今度本部に戻るんだって?」

「はい。呼び戻されまして」

「戻ったところで給料が上がるわけじゃあるまい」

「おかげさまで労働者の党とは思えない安さです」

「君さえよければ私の秘書でもやらないか?」

「お誘いありがとうございます。ただ、石渡先生から直接呼ばれたものですから」

「ああ、じゃあ仕方が無いな。ちなみ本部では何をするの?」

「組織の根本的な立て直しです。今は本部と言えど各局がバラバラです。石渡先生は私を最終的に総務局の部長にしたいようです」

「部長か……君なら人望が厚いし、それに石渡のオッサンは人選を間違ったことは無いしな」

「ところで先生は秘書さんを募集してたのですか?」

「公式には募集していない。でも今いる他の議員から頼まれた女性秘書が問題でな、ちょっとその議員に借りがあってロクに調べないで雇ってみたら仕事がまったくできないし、プライドは高いし、半年ほど経ったからそろそろ首でも切ろうかと思っている」

「最近、その手の話をよく聞きますね」

「まあね。他の議員から頼まれると結構面倒でね。ちなみに私も探してみたのだが、たまに優秀な人物がいたと思ったら秘書は単なる通過点で国政選挙に出る気満々だと来たもんだ。私を踏み台にするつもりらしい」

「でしたら二三心当たりがあるので聞いてみます。何かご希望はありますか?」

「野望は無く、政治家志望では無いこと。優秀である必要は無いが、できれば機転が利く人物を希望する。あとタバコはダメだ」

「わかりました。その条件ならさほど難しく無いので二三日で連絡を差し上げます」

「ありがとう」

 しばらくすると景色が開けて療養所が道の下のほうに見えてきた。

権田と向井水を乗せた車は施設建物の前に止まった。

「どうする、向井水君? 君はここに残って待っていてもいいよ」

「いいえ、私も行きます」

二人は車を降りて建物の中に入っていった。


 話を聞いていた神尾は向井水に尋ねた。

「療養所って何の療養所だったのですか?」

「元ハンセン病患者の療養所だ」

「何だってそこに?」

「視察だ。当時はまだ元患者に対する偏見で満ち溢れていた。実際には施設にいるのは患者ではなくて『元患者』であって、すでに彼らは完治していた。感染の恐れなどまったく無いのだが、元患者の風貌によって判断されたりしてな。権田は施設の中がどうなっているとか、元患者がどんな扱いを受けたかとか説明を受けてな……そりゃひどい話だと怒りだした」

 向井水は思い出すように窓の外を見た。

「その日はさ、晴天の猛暑でな。権田も俺も皆汗だくだった。そして担当者の説明が終わると、そのまま元患者と対面することになった」


 畳敷きの部屋にある扇風機は回っているが暑いことには変わりが無く、権田と向井水はハンカチで汗をぬぐっていた。

「私は衆議院議員の権田正三と申します。彼は今回一緒に私と回っている向井水です」

元患者と権田と向井水は卓袱台を囲んで座布団に正座していた。権田と向井水は元患者に名刺を差し出し、元患者は黙って受け取った。

「私はハンセン病に対する国の方針は明らかな誤りであると認めさせたいと思います」

元患者は黙って席を立って後ろにある冷蔵庫から麦茶の入った瓶を出し、棚からコップを二つ出してそれぞれに注いだ。

「あ、お構いなく。今回はご挨拶だけですので」

元患者はそれを無視して権田と向井水の前に麦茶入りのコップを差し出した。

「すみません、それではせっかくなのでいただきます」

権田は間髪いれずそのまま麦茶を一気に飲み干してコップを置いた。

「ごちそうさまでした。今日は暑いので冷たい麦茶が美味しいですね」

向井水は一瞬遅れて麦茶に口を付けた。権田の行動を見ていた元患者は嗚咽を漏らしてつぶやいた。

「私が差し出した麦茶を飲んでくれたのはあなたが初めてです……」

「あ、感染のことですか? 私は科学者です。こんなことじゃ感染しないことを知っています。向井水君、時間だ。せっかくだからその麦茶をいただいて失礼するぞ」

「はい」

向井水は権田と同じように麦茶を一気飲みしてコップを置いた。

「では失礼いたします。ごちそうさまでした」

二人は療養所をあとにした。


「俺はコップを前に置かれて一瞬躊躇した。いや、恥ずかしい話だが瞬時に動けなかった。事前に権田からハンセン病に関する説明は受けていたのだが、どうしても体が動かなかった。頭じゃ百パーセント理解していたけどな」

「権田議員はすごいですね」

「いや、すごいわけじゃない。権田にしてみれば普通なのだよ。科学者は自分の信念は決して曲げないものだそうだ。例えば仮に権田が空中を歩ける靴を発明したとする。権田はビルの屋上からその靴を履いて何の躊躇も無く空中に向かって最初の一歩を踏み出す……そういう男だ」

「科学者というのはそんなものなのですか?」

「科学者うんぬんは別にして、そのあと療養所の元ハンセン病患者は権田を支持するようになった」

「で、その権田議員に紹介した秘書さんってのは高橋さんですか?」

「いや、諸橋理香子の方だ」

「それも初めて聞きました」

「彼女は俺が本部に来る前、隣の部署で働いていた。まだあの頃は可愛かったが、ちょっと男を見る目が変わっていた。最初の彼氏が海上自衛隊の潜水艦乗りでな。多分お前は知らんと思うが、潜水艦乗りはほとんどが極秘任務だから誰にも言わずに突然出港したり、数カ月も連絡無かったり、突然帰ってきたりするわけだ」

「一体そんな彼氏とどこで知り合うんですか?」

「自衛隊の合コンで知り合ったらしい。そして残念なことに当時の彼女は嫉妬深くて突然姿を消す彼にイライラしていた。当然彼の浮気も疑うわけだが、彼としては任務は防衛機密なので詳細は言えないの一点張りだ。それでも関係は二年くらい持ったらしいが、彼女の我慢が限界に達して別れたという話だ」

「理香子さんにはそんな過去があったのですか」

「いや、まだ続きがある。次の彼氏が空挺部隊のレンジャーだった」

「レンジャーって何ですか?」

「簡単に言えば特殊部隊だ。これは結婚まで行った。俺も結婚式に出席した。この結婚式の二次会が面白かった」

「どこでやったのですか?」

「駐屯地の敷地内だ。これから愛の誓いをするって時に地面とか樹木とかに化けていた同僚のレンジャーが飛び出てきて、新郎を押さえつけた。で、最後に完全迷彩の隊長がやって来て『今から私が新郎に愛を誓わせます。奥さん、もしコイツが浮気とかロクでもないことをして別れたいと思ったら彼に限界まで生命保険を掛けて私に連絡をください。私たちが責任を持って今後百年間は見つからない山奥で彼を処分します』というわけだ」

「その結婚は?」

「これは一年で破綻した。原因は旦那の趣味が秘境探検で、これがまた仕事の延長みたいなもので、食料と水無しで三日間くらいは平気で山ごもりするわけだ。結婚後に彼女はそれに付き合わされて体もお肌もボロボロ……と本人は言っていた」

「そんな過去があったのですか」

「ただ彼女の事務処理能力は高く、またそんな彼氏と付き合うくらいだから大抵の事には物怖じしない性格だと思ったので俺が権田事務所に推薦した」

「それが大成功だったわけですね」

「成功かどうか知らんが、結構長く続いているようだ。ちなみに彼女は今、付き合っている彼氏はいるのか?」

「私に聞かれましても」

「理由を見つけては議員会館をうろついているお前でもわからんか?」

「え、まあ……」

「まあいい。それと根来に頼まれたコーヒーメーカーを置いておいたから、今日から美味いコーヒーでも飲んでくれ」

「ありがとうございます」

向井水は新聞を畳むとソファーから立ち上がった。


 権田は地元の選挙区の町工場を自転車で回っていた。そしてとある鉄工場の前で自転車を降りると中に入っていった。

「社長いる?」

権田は若い従業員に話しかけた。

「奥にいます」

「ありがとう」

権田が事務所の中に入っていくと、机で事務仕事をしていた六十歳前後の社長が立ち上がった。

「あ、権田先生。今日はどうされました?」

「いや、水族館の帰りでちょっと寄らしてもらっただけ」

「この間の話はどうだった?」

「お陰さまで商談がまとまりそうです。でもスイスで私たちの製品の需要があるとは思いませんでした」

「そう、それは良かった。たまたまスイスに知り合いがいたから聞いただけなんだけどね。でもあの精密機器はやり方によっては軍事転用できるので、相手の言うとおりに改造すると面倒なことになるから気をつけてね。一応現時点では経産省で確認は取れているし、輸出も問題ないと見解は出ているけど」

「ありがとうございます。その時はまたご相談に伺います」

「そうしてちょうだい」

「それと……」

社長は言いづらそうに切り出した。

「何、社長さん?」

「先生、何でも最近環境問題に関する本の執筆を始められたとか?」

「よく知っているね」

「うちの取引先のエレクトリック労組関連企業から聞きました。何でもエコ活動なんかやる必要が無いとか書くみたいじゃないですか」

「それが?」

「それ、マズいですよ。今は電化製品はエコを売りにしているんですから。あまり派手にやるとエレクトリック労組も怒りますよ」

「だって本当のことだから」

「先生、お願いしますよ。エレクトリック労組の推薦を取り消されたら次の選挙で落選しかねませんよ」

「それはそれで仕方がない」

「いや、先生は良くても私たちが困るんですよ。権田先生じゃないと特殊な工業製品の価値はわかりませんし、海外の技術者と話ができるのも先生しかいませんよ」

「そんなこと言われてもなあ……」

「もし本気で書かれるなら私は後援会長を降りますよ。エレクトリック労組で失う票数を集められる自信が無いですから」

「……わかった。考えておく」

事務所の奥の部屋から中学生くらいの女の子が出てきて権田に挨拶をした。

「こんにちは」

「こんにちは、お嬢ちゃん」

社長が女の子の頭を撫でながら紹介した。

「孫の沙都子で、最近ここに遊びに来ています。数学の成績が悪くて困っています」

「沙都子ちゃん、数学の何がわからないのかな?」

「式を作ったりすることが難しいの」

「そこは皆、最初に引っかかるところなんだよね。ちょっと問題集を見せてくれる?」

沙都子は言われた通りにカバンから問題集を出して権田に渡した。

「あのね、重要なのはイコール記号を正しく理解することなんだ」

「……」

「恐らく君はイコール記号の左側が問題で、右側が答えだと思っている。そうでしょう?」

沙都子は頷いた。

「そうでは無いんだ。イコール記号は右側の値と左側の値はまったく同じであることを示している。つまりxが入ろうがyが入ろうが、イコール記号の両側が同じになるように式を作れば簡単にわかるようになる。例えばこの問題……」

権田は沙都子に説明を始めた。


 娘とともに自宅に家に戻った洋子・アンダーソンはリビングルームのテレビをつけ、夕食の準備を始めた。

「奈緒美ちゃん、すぐにご飯作るからね。着替えて手を洗っていらっしゃい」

「はーい、ママ」

奈緒美は自分の部屋に走っていった。誰もいないリビングルームのテレビには、若い女性司会者とイタリア人男性のインタビュー番組が映し出されていた。

――本日はベニート スッポリーニさんにイタリアについてお伺いしました。それでは最後に何か視聴者の方に贈りたいメッセージなどはありますか?

――はい。あなたに質問がありまーす

――は、何でしょう?

――結婚してまーすか?

――え、ええ。しています

――何回目でーすか?

――は? 一回目ですが

――じゃあ僕と同じでーす。僕も一回結婚したことがありまーす。ということでこのあとデートしましょう

――おっしゃる意味が良くわかりませんが……

――デートと言ってもイタリア式のデートでーす

――ですから……

――イタリア式のデートは、まず会って最初にセックス、次に映画を見て、そのあと買い物、そして食事、やっとキス、そして最後にセッッッックスでーす

――最初のデートでいきなり二回セックスですか?

――二回じゃ足りませんか?

――では皆さん、また来週お目にかかりましょう

 その時奈緒美がリビングルームに入ってきた。

「あ、パパが映ってる!」

奈緒美がテレビを指さした。洋子・アンダーソンがそれを聞いて台所が出てきた。

「その人はパパなんだけど、パパじゃないのよ」

「じゃあ誰なの?」

「パパだった人。ご飯ができたからお茶碗出すのを手伝ってちょうだい」

洋子・アンダーソンは苦々しい顔をして、リモコンでチャンネルをニュースに変えた。


 洋子・アンダーソン(二十八歳)は今でも自分で結婚した理由がわからない。数年前、イギリスのパブで貧乏芸術家だったベニートにナンパされ、うっかり付き合うことになったのが間違いの始まりだった。ベニートが囁く甘い言葉を本気にし、舞い上がってしまった彼女は勢いで結婚して妊娠してしまった。そして日本で新聞記者の仕事を見つけてベニートと共に来日し、東京で奈緒美が生まれた。

 ローマ時代の彫刻のような風貌のベニートは、来日直後から凄まじい勢いで女性にモテていた。毎朝、彼女が奈緒美を残して働きに出ると、ベニートはすぐさまベビーシッターに奈緒美を預けてナンパに出かけた。そして毎月、彼が女性たちのために使った二十万円近い出費が洋子・アンダーソンのクレジットカードの請求明細に記載されていた。

 このままでは生活が立ち行かなくなると危惧した彼女は、テレビ局の知り合いにベニートを紹介して仕事を回してもらうように手配した。『ベニート スッポリーニ』はその時彼女が付けた芸名である。

 働くようになってナンパの時間が取れなくと思った彼女であったが、ベニートはテレビに出ることによって顔が売れ、さらにモテるようになってしまった。挙句の果てにはベビーシッター代金を支払っているのは自分だから自由にナンパする権利があると主張され、ついに我慢の限界に達して二年前に離婚した。


 食事が終わって後片付けが済んだところで洋子・アンダーソンの携帯電話が鳴った。

「はい」

「もしもし、今大丈夫?」

「ちょうど食事の片付けが終わったところ。久しぶりね、恵里菜。どうしたの? 何か悩み事でもあるの?」

「最近、仕事のプレッシャーがきつくて……」

「またその話ね。でもそう言っている割には良く仕事が続いているじゃないの」

「それはこうしてあなたに話を聞いてもらっているからよ」

「その話を聞いている私は誰にも話を聞いてもらえないけどね」

「そう言わないでよ……」

「で、今回は何よ」

「今度、うちの党でパーティーがあるのよ。それで議員の派閥の役回りの関係で私の部屋で出欠係を出すことになったの」

「それの何が問題なの?」

「それがうちのオジサン秘書が意地悪なのよ。君が中心になってやれって。できるわけないじゃないの、最大派閥のパーティーなんて何人いるかわからないし……」

「やっぱりあなたは秘書に向いてないような気がするわ」

「そんなこと今更言われてもパーティーは二週間後なのよ!」

「んー、その辺にイイ男は転がっていないの?」

「そんな男が転がっていたら今頃とっくに仕事なんか辞めているわよ!」

「まあ、落ち着きなさいよ。今週末に私のライブがあるから来てみる?」

「イイ男は来るの?」

「そんなのはわからないわ。一応あちこちにチケットはばらまいてあるけど」

「わかったわ」

「時間と場所はあとでメールするわ。入場券は受付に預けておくから」

「ありがとう」

「これから奈緒美をお風呂に入れるからまた後でね」

洋子・アンダーソンは電話を切ってテーブルに置いた。

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