第三話 党首・熊本丈二
国会裏の通りを挟んだ反対側には北から順番に参議院議員会館、衆議院第二議員会館、衆議院第一議員会館の三つの議員会館が建っている。これらの議員会館が国会議員の事務所と呼ばれるものであり、老朽化が進んだ議員会館は数年のうちに建て替えられる予定となっていた。民民党所属の国会議員事務所は政策秘書と公設第一秘書の二名、若しくは公設第二秘書を加えた三名体制になっていた。
「議員、九時半になりました。時間です」
ドアを開けた秘書に促され、熊本はヘッドホンを外して立ち上がった。
「ありがとう。行って来る」
スーツの上着を羽織った熊本が廊下に出ると縣が待っていた。
「熊本さん、おはようございます」
「おはようございます」
熊本は後ろに縣を従えてエレベーターの方に歩き出した。
「熊本さんに一度お尋ねしたかったのですが、いつも国会質問の前に奥の部屋で聴いている音楽はクラシック音楽か何かですか?」
「昔良く聴いた歌謡曲です」
「てっきりクラシック音楽かと思いました」
二人は三つあるエレベーターのうち『国会議員専用』と書かれたエレベーターの前で立ち止まり、縣は下降のボタンを押した。
党本部四階の情報分析室では根来、神尾、鰯田の三人が国会中継のテレビを見ていた。質問に立った熊本は政府与党に対して、たばこ税の大幅値上げおよび不特定多数が集まる場所における完全禁煙措置を要求していた。
神尾は根来に向かって話しかけた。
「ホルヘっちはずいぶん思い切ったことを言いますね」
「まあ党首もしがらみがあまり無いし、おまけに世の中の禁煙化の流れも止められんしな。まあ俺たちは喫煙しないから関係無いが」
それを聞いていた鰯田が話に入ってきた。
「しがらみって何ですか?」
「支援組織ってこと。簡単に言うと、この場合はタバコ産業に関係する組織。こんなこと言ったらタバコ産業の組織が反対すると思わないか?」
「確かに」
「ホルヘっちはどこの支援も受けていない。支援を受けている議員からは多少圧力があったかも知れないがな」
「でもこれは実現するのですか?」
「イワシ君、いいところに気がついたね」
「実現しないのですか?」
「まあホルヘっちの言う通りにはならない。与党は衆参両院で過半数を持っているし、たとえ世の中がそういった流れであったとしても、喫煙は個人の自由という意見もあるしな」
「じゃあ無駄なのですか?」
「無駄ではない。この放映によって国民に党としての方向性は主張できた。まあ、せいぜいたばこ税の小幅な値上げと完全禁煙に向けた努力目標程度だろうな」
「そう言えばこの党本部の建物は完全禁煙じゃないですよね?」
「一昨年までは全館どこでも喫煙可能だったけど、今は一階の喫煙室を除いて禁煙になっている。でも全館禁煙は難しいだろうな」
「何故ですか?」
「君は給与明細をよく見たことある?」
「ええ、一応……」
「天引きされている蘭に『組合費』ってあっただろう?」
「月に千円くらいだったような気がしますが」
「どこの組合費だか知ってる?」
「党を支持しているる組合ですか?」
「何で働いてもいない職場の組合の組合費を払う必要があるんだ?」
「え? じゃあ……」
「党本部の職員労働組合だ」
「は?」
「まあ知らないのも無理はない。普段は表だった活動をしていないからな。というか労働者を支持する党の職員たちが待遇改善とか求めてストライキを起こしたりしたらシャレにならない」
「その労働組合が関係あるんですか?」
「ある。その委員長がヘビー スモーカーの藤巻さんだ」
「組織対策局の事務局長の藤巻さんですか?」
「そう。去年部長が全館完全禁煙の方針を労働組合、つまり藤巻さんに打診した。別に俺たちはタバコ吸わないからどうでも良かったのだが、藤巻さんと部長は非常に仲が悪い。派閥も違う。もうほとんど取っ組み合いの大喧嘩」
「でも何で部長はいきなり全館禁煙にしようと……」
「そこは俺が神尾の代わりに説明しよう。いきなり全面禁煙を通告したのは向井水の作戦だ。藤巻は頭が悪くてプライドが高い男だ。そいつに一部禁煙を打診したらこのご時世、いくらヤツでも受け入れるしかない。そうなると一方的に条件を飲むことになってプライドが傷つくわけだ」
「藤巻さんは面倒ですよね」
神尾が笑った
「そこで向井水は無理を承知で全館完全禁煙を打診した。当然藤巻は自分もヘビー スモーカーだし、労組の委員長という立場上反対する。とりあえず向井水は譲らない振りをする。するとどうなる? 鰯田君」
「揉めると思います」
「揉めると言うか大喧嘩になった。で、向井水はそれを収拾する振りをして党本部が費用を負担して喫煙室を作ることを提案した。それなら委員長としての藤巻の顔も立つし、プライドも傷つかない」
「な、面倒だろう? 部長は最初から喫煙室を作る予定だったんだ。藤巻さんが相手だからこんな手順を踏んだってわけ」
「それを藤巻さんはご存知なのですか?」
「部長に喫煙室を作らせたって威張っている」
「だからヤツは皆に馬鹿にされるんだ」
そこに屋代が部屋に入って来て根来に紙を渡した。
「根来さん。本部の報告事項です。一応、他の皆さんより先にお渡しします」
「おう。ありがとう」
根来は紙を見てつぶやいた。
「あーあ。今回はいくら藤巻でもダメだな」
その日の午後、党本部四階大部屋には職員が集められていた。職員を一通り見回した向井水が口を開いた。
「昨日の党本部における中央委員会で決定した事項を知らせる。テレビで見たとおり、熊本党首がタバコに対して厳しい態度で望むことを表明した。それに従い、この党本部の建物は全面禁煙とすることが決定された」
そこで藤巻が叫んだ。
「向井水! そんなのが通るわけねーだろ!」
「藤巻、話は最後まで聞け」
藤巻はしぶしぶ黙った。
「こうなった以上、館内にある喫煙室も廃止せざるを得ないというのが中央委員会による決定だ」
藤巻が再び叫んだ。
「ふざけるな!」
「黙って聞けと言ってるだろうが!」
「俺にタバコを止めろと言ってるのか!」
「止めろとは言っていない」
「あ? じゃあどこで吸えばいいんだ?」
「本部玄関を出た駐車場の一角に灰皿を置いた。そこで吸え。ただしその喫煙所も一年をめどに廃止する」
「何ぃ! あそこには屋根も椅子もねーだろうが!」
「くつろぎながらじゃ無いとタバコも吸えないのか?」
「何を!」
「ヘビー スモーカーの藤巻さんよ、あんた一日何時間喫煙室にいるんだ?」
「労組の協定で定められた休憩時間内だよ!」
「そりゃ職員労組の委員長だもんな。何とでも言えるよな。去年俺が妥協して作った喫煙室のおかげで、喫煙者が事あるごとにそこに入り浸るってあちこちから苦情が来てるんだよ。『何もしないでタバコ吸ってる時間にも給料が支払われるんですか?』ってな」
「何ぃ!」
「党首がああ言った以上、党本部としても厳しい態度で望むしかねぇんだよ。でも俺も鬼じゃないから財政局とかけあって喫煙治療に補助金を出すことにした。以上だ」
「俺は認めねぇからな」
「認めるも認めないもすでに喫煙室は閉鎖した。お前に選択の余地は無い。今回は諦めろ」
藤巻は苦虫を潰したような顔をして部屋から出て行った。
午後六時になった情報分析室では皆が帰り支度を始めていた。
外線電話が鳴り、神尾が電話を取った。
「はい、鰯田ですか? 少々お待ちください」
鰯田に代わった。
「はい、お電話代わりました。今晩ですか? 特に予定は入っていませんが……ええ、ここ二ヶ月くらいはやっていませんが、以前トーナメントには良く出場していました。はい、では六時半に麹町で……失礼します」
「イワシ君、何の電話だ?」
「斉藤先生の秘書さんからで、麻雀の誘いです」
「は? できるの?」
「まあ、何と言いますか……はっきり言って僕は強い部類に入ると思います」
「ほぉ、そりゃ凄い。で、メンツは誰?」
「斉藤先生と権田先生と、あと一人はわかりません」
「斉藤って、君の派閥の
「はい。衆議院岐阜三区選出で当選三回の」
「あと
「はい、当選四回で衆議院東京四区の」
「ほぉ、イワシ君。国会議員一覧を真面目に読んでいたんだ」
「まあ、この本の内容くらいなら全部覚えましたよ」
「それが本当にできたら大した特殊技能だ」
「本当ですよ。あ、時間が無いからもう出ます」
鰯田は机の上を片付けて上着を羽織った。
「それではお先に失礼します」
「イワシ君、勝ったら明日の昼飯おごってね」
「任せてください」
鰯田は得意げに言うと部屋を後にした。
「神尾君、あんなことを言っていたけど鰯田君は大丈夫か? 大人のレートじゃ無いのか?」
「メンツに権ちゃんが入っているから多分平気だと思いますが」
「権ちゃんは麻雀強いの?」
「強いと言うか以前、戦後の一時期麻雀で食っていたと聞きました」
「ほぉ、それは初めて聞いた」
「本当かどうかは知りません。誰も見た人はいませんし。ただ、議員たちは遊びでやっていますから職員相手にあまりアコギなことはしないでしょう。どうせ予定していた議員が来られなくなって急遽イワシに声がかかったというのが実情でしょう」
「なるほどな」
麹町の雀荘の雀卓には権田正三、雀荘のマスター、斉藤健次郎、鰯田が座っていた。そして何故か権田は首から聴診器を下げて先端部分をワイシャツのポケットに入れていた。
斉藤がリーチをかけ、直後に鰯田が牌を捨てた。
「ロン、一発」
裏ドラを見たが一枚しか乗っていなかった。
「一万二千だ」
鰯田が点棒を払った。次局、今度は権田がリーチをかけた。そして数巡後にまた鰯田が振り込んだ。
「ロン……裏ドラが二枚で八千点だ。鰯田君だっけ? このままだと四連敗だよ。君の負けは本部で持ってくれるの?」
「い、いいえ。僕が払います」
「本当? 君の安月給で大丈夫なの?」
「ま、まだ麻雀は終わっていませんし」
鰯田は虚勢を張りながら青ざめた顔で答えた。その時、斉藤の携帯電話が鳴った。
「はい。お疲れ様です……ちょっと待ってください」
斉藤は立ち上がり、携帯電話の送話口を指で押さえた。
「ちょっと席を外すから伏せてくれる?」
権田とマスターは卓上の牌を伏せ、何故か鰯田は雀卓の縁に顔を伏せた。
「いや、君が伏せてどうするんだ?」
権田は笑いだした。
「はい? では何を……」
「その手元の牌だよ。後ろから見えないように伏せるという意味だ」
鰯田は言われた通り顔を上げて牌を伏せ、その後ろを斉藤健次郎が携帯電話で話ながら店から出て行った。
「鰯田君は面白いね。麻雀歴はどれくらいだね?」
「実戦は二回目です」
「実戦?」
「インターネットの対戦麻雀を専門に二年ほどやっていました。トーナメントで優勝したこともあります」
「インターネット? 今はそんなもので対局できるのか?」
「はい。二十四時間いつでもできます」
しばらくすると斉藤が戻って椅子に座り、牌を中央の穴に落として次局が始まった。
「権田先生、まったく予算委員会で質問をするのも面倒ですね。僕じゃないとできない質問らしいし、まあ派閥で顔が売れているのは僕くらいですからね」
斉藤は得意げに話し始めた。
「ほう。何の質問?」
斉藤は周囲を見回して小声で権田に答えた。
「政府に納品しているある商社が……」
「それって、ルミナス商事の件?」
権田は普通の口調で答えた。
「そうですけど」
「その質問を君がやるの?」
「悪いですか?」
「悪くはないけど、やっても党からは助けてもらえないよ」
「ど、どうしてですか?」
「どうせ政府高官と癒着して不正に税金を……とか言う話だろう?」
「は、はい。ご存知なのですか?」
「その話は最初にうちの派閥の熊本君のところに来たんだ。その手の話は党首のところに良く来るからね。でもちょっと調べてみたら確実な証拠は無いわ、証人も怪しいし、そもそもその話を持ってきた男も信用できないことがわかった。だから熊本君はその質問の依頼を形式的に受けて、あとで断る予定だった。そしたらそれを聞きつけた君の派閥の長老が是非うちで受けさせてくれってしつこいから……仕方なく熊本君は『議員個人の質問としてお願いします』と釘を刺して質問を許可したけどね。何でも君の派閥でも皆嫌がってその質問を受ける人がいなくて、たらい回しになっているって聞いたけど。まさか君が質問するとは驚きだ……リーチ」
権田は千点棒を卓上に出した。斉藤は動揺して直後にツモった牌をツモ切りした。
「ロン、一発。動揺しちゃったのかな? 実は、この質問をできるのは君しかいない! なんて口説かれていたりして……」
権田が裏ドラを確認した。
「残念、八千点。まあ、テレビに映るから良かったじゃないか。ははは」
点棒のやり取りのあと、再び牌を中央に落として次局が始まった。
しばらくすると店のドアが開いて派手な身なりの若い女が入ってきた。女は斉藤に向かって歩いてきた。
「ケンちゃん、待ち切れないから来ちゃったわ。勝ってる?」
「今のところ、こちらの本部のヘタクソな新人が一人負けだ。権田先生が一番勝っているけど俺が逆転してやる」
権田は肩をすくめた。
「早いところみーんなやっつけちゃってよ」
「ああ、見てろよ。これを上がってとっとと飲みに行くからな。リーチ」
斉藤は『発』を捨て、千点棒を卓上に出した。手牌はドラの『南』が三枚の一・四万待ちである。そして斉藤が捨てた『発』を鰯田がポンをした。
「ポ、ポンです」
続いて権田がツモった。
「リーチか……予算委員会で質問するような人はやっぱり元気がいいね。ほら、鰯田君も……ん? 元気が無いね」
権田は何かを感じて卓上のすべての捨て牌を見回した。三元牌がほとんど出ていない。恐らく鰯田が三元牌に絡んで高い手を作って緊張していることを察したが、気づかぬ振りをして鰯田に話しかけた。
「鰯田君。どれどれ、右手を見せてごらん」
鰯田は不審な顔をして権田に右手を出した。権田がその右手首に聴診器を当てて心臓音を聴くと、異常に速い心臓の鼓動が聞こえた。
「ふーん。心臓は大丈夫みたいだね」
権田はその心臓の鼓動で鰯田の手が高いことを確信した。
鰯田の手牌は『白』が暗刻で『中』と『北』の待ちで、『中』で上がれば大三元の役満であった。権田はツモって安全牌を捨てた。続いて斉藤が『白』をツモって捨てた。マスターがツモって安全牌を捨てた。鰯田がドラの『南』をツモって気合いを入れて捨てると、斉藤が吐き捨てるように言った。
「大丈夫? 新人君。そんなドラを捨てて俺に振り込んだら終わっちゃうよ?」
権田の目は忙しく卓上を行き来して『中』を探していた。四枚のうちの一枚は権田の手の内にあった。捨て牌には一枚も出ていない。斉藤は持っていないのが明らかなのであとはマスターが持っているか、残りの山にあるはずである。権田は牌をツモるたびに素早く隣や下の牌も盗み見たが『中』は見当たらない。残りの牌も少なくなって斉藤の山に差し掛かった時、権田は探していた『中』をツモった。同時に権田は自然な動作で『中』を山の一つ右の牌とスリ替えた。それはあまりに鮮やかな手際で、誰もそれに気がつかなかった。そして代わりにツモった四万を権田はカンをした。
「カン!」
続いて権田は『中』の単騎待ちでリーチをした。
「リーチ!」
マスターが安全牌を切った。そして斉藤は権田によって送り込まれた『中』をツモった。
「そろそろ、ツモるだろう……『中』か」
斉藤はそのままツモ切り、鰯田が勢いよく手牌を倒した。
「ロ、ロンです。大三元です」
斉藤の表情が凍りつくのを笑いながら横目で見た権田はマスターに話しかけた。
「俺も一発でロンなんだけど、ダブロンってありだったっけ?」
「はい。二人当たりは有りです」
「じゃあ斉藤君、俺もロン」
権田は牌を倒して裏ドラを見た。
「あ、裏ドラ表示牌が二つとも三万だからドラ八だ。リーチ一発で一万六千点、斉藤君は割れ目だから三万二千点だ」
斉藤は呆然と卓上を見ていた。
「鰯田君は親で四万八千点で、斉藤君は割れ目だから九万六千点で斉藤君は箱割れでぶっ飛び。役満ご祝儀も付くし……こりゃ斉藤君の一人負けだね。ははは」
権田が高笑いした。
「マスター、今晩はこれで終わりだから精算しよう」
マスターが精算用紙で計算を始め、権田はそれをのぞき込んだ。
「鰯田君、君はもう帰っていいよ。あとはこっちで全部精算するから。多分君はプラスマイナスゼロ。ほら、これでタクシーに乗って帰りなさい」
権田は自分の財布から一万円を鰯田に渡した。
「い、いえ。こんなに必要ありません」
「俺の金じゃない。ここにいる斉藤先生から後でもらう金だから気にするな」
斉藤はまだショックで動けない。
「それではお言葉に甘えて。どうもお疲れ様でした」
鰯田は満面の笑みで一万円札を受け取ると店を出た。
「あーあ斉藤君、よっぽどショックだったみたいだね。ロクでもない質問は引き受けるし、大三元は振り込むし、ツイてないね。じゃあツイてないついでにその彼女も貰っていこうかな……どう? おじさんとお酒でも飲みにいかない?」
「おごってくれるの?」
「当たり前。おじさんは麻雀も強いけど、本当はこう見えて夜の方が強いのだよ。ははは」
「ケンちゃん弱かったし、面白そうだから一緒について行くわ」
「そう言うことだから斉藤君、後の支払いはよろしく。負けは後で事務所に取り立てに行くからね」
権田は身支度をすると女性の肩を抱いて店を後にした。
翌日、情報分析室では神尾と根来を前に鰯田の自慢話が続いていた。
「で、斉藤先生が『中』を切って僕にドーンです!」
「イワシ君は親だったわけ?」
「はい。しかも振り込んだ斉藤先生が割れ目で九万六千点です。やっぱり僕は麻雀が強いみたいです」
鰯田は鼻の穴を大きく膨らませ、座っている椅子の背もたれに全体重をかけた。
「鰯田君、権田正三はどんな印象だった? 強そうとか、うるさいとか」
「いや、特に印象は無かったです。静かで淡々としていていました。ただ、何だかわかりませんが首から聴診器をぶら下げていました」
「プロっぽい印象も無かった?」
「プロと打ったことは無いのですが……気がついたら高い手を上がられていたと言う感じです。まあ、ここ一番で高い手を上がれる僕の方がよっぽどプロに近いと思います」
根来と神尾がうんざりとした顔をした。
「鰯田君、もうわかったから今日の午後にでも昨日のお礼がてらに権田正三の事務所に顔を出してきたらどうだ?」
「そうだイワシ、それがいい。ついでに秘書のお姉さんたちにも顔を覚えてもらってこい。あそこの部屋は政策が高橋さんで第一のお姉さんが……」
「
「良く知ってるな」
「神尾さん、昨日言ったじゃないですか。この本全部覚えたって」
鰯田は机の上の国会議員一覧を人差し指で突いた。
「冗談はよせ、そんなの覚えられるはずがない」
「いや、覚えましたよ」
「本当か? 試してやる」
神尾は自分の国会議員一覧を手に持ってページを開いた。
「じゃあ、昨日一緒に麻雀をした斎藤健次郎の説明してみろ」
鰯田は何かを思い出すように左の上の方を見ながら喋りだした。
「斎藤健次郎衆議院議員、昭和三十一年、一九五六年生まれ。岐阜三区選出。当選三回。衆議院第二議員会館五〇三号室。電話番号は直通三五〇八××××。自宅住所は赤坂の議員宿舎。最終学歴は早稲田大学。政策秘書は吉田一徹、第一秘書は常田光作、第二秘書は空欄でした」
「じ、じゃあ国民保守党の
神尾はページをめくった。
「設楽礼子衆議院議員。昭和二十年、一九四五年生まれ。埼玉四区選出。当選八回。衆議院第一議員会館二〇一号室。電話番号は直通三五〇八××××。自宅住所は麹町の議員宿舎。最終学歴は津田塾大学。政策秘書は南田珠子、第一秘書は吉岡邦子、第二秘書は宮崎みどりです」
「ま、マジか……正解だ」
「でしょ?」
「鰯田君、それは顔写真も一緒に覚えているのか?」
「はい」
「ま、待て、イワシ。と言うことは全ての国会議員。つまり衆議院四八〇人、参議院二四二人の顔と情報を丸暗記したとでも言うのか?」
「はい。正確には衆議院は欠員が三人あるので四七七人ですが」
根来と神尾は驚いて顔を見合わせた。
「理由はわからないのですが昔から暗記もの、特に人物関係は瞬間的に記憶できるんです」
「と言うことは鰯田君は歴史とか得意だったのかね?」
「はい、人物、その人に関連した出来事はすべて記憶できましたから」
「他の教科は?」
「記憶と関係しないものはダメでした」
「じゃあイワシ、数学とか物理の数式や方程式はどうだったんだ?」
「数式や方程式は何とか記憶できたのですが……ダメでした」
「どうして?」
「その覚えた数式や方程式の使い方がわからなかったのです」
「それじゃ話にならんな……」
「でも人物なら誰でもと言うことではなくて、印刷物になっていないとうまく記憶できません」
「ちなみに鰯田君、履歴書の特技欄にこのことは書いてある? というかここでその特技のことを知っている人はいる?」
「履歴書には何も書きませんでした。ホラ吹きだと思われるのが嫌だったもので。ここでは誰にも言っていません。今日が初めてです」
「鉄さん、偶然とは言え適材適所ですね」
「まったくだ。神尾君、データベースからうちの全国会議員の詳細データを印刷して出してくれ」
「わかりました」
「鰯田君、ついでと言ってはなんだがこれから神尾君が印刷して君に渡すデータを覚えて欲しい。国会議員一覧より詳細になるが、覚えられる?」
「量にもよりますが、二三日で覚えられると思います」
「それと、その能力はこの部署でのみ使ってくれ。そうしないと他の部署の便利屋になってしまう可能性がある。一応、部長の向井水だけには知らせる必要があるけどな」
「根来さんまたは神尾さんの許可を取れば良いわけですね」
「そういうことだ」
神尾はPCで党内のデータベースにアクセスすると、パスワードを打ち込んで議員情報を印刷し始めた。
降りしきる雨の中、藤巻は本部玄関前に設置された野外喫煙所で傘をさしてタバコを吸っていた。雨の日にこんな場所まで来てタバコを吸う人間は藤巻しかいない。一本吸い終わると、続けて二本目を吸うためにライターをポケットから出した。
「あら? 組織対策局の藤巻事務局長、雨の中大変ですね」
本部に戻ってきた女性局の谷口淳子が微笑みながら皮肉を投げかけた。
「うるせぇ、ババア」
「あらあら、その口はタバコと食事と悪口を言うこと以外には使わないようね」
「何だと!」
「前にタバコが値上がりしたらやめるとか言っていたわよね?」
「覚えてねぇよ」
「そうなのよね。タバコをやめるとか言う人は必ず言い訳するのよね。値上がりしたらやめる、来年になったらやめる、結婚したらやめる、子供ができたらやめる、夏休みになったらやめる、冬休みになったらやめる、喫煙所が無くなったらやめる……どうせやめないのだから、最初からやめないって言った方が良いと思うけど、ほほほ」
「ババア、用事はそれだけか?」
「それだけですわ」
淳子は傘を畳むと本部の中に入っていった。舌打ちをした藤巻はタバコに火を点けようとしてライターを濡れた地面に落とした。慌てて拾い上げて点火したが、何度やっても火は点かなかった。
組織対策局は民民党支持労組の対応を主な仕事としている。メーデーなどに行われるデモ行進では、参加労組のとりまとめや警察にデモ行進の申請なども担当する。必然的に各労働組合との親交が深くなり、組織対策局の半数は元労働組合出身の職員で占められていた。そしていつの頃からか組織対策局は口だけが達者で仕事ができない職員の集団と化し、民民党本部内で最も嫌われている部署となっていた。
藤巻は民民党入局二十年目で、向井水より六年早いが出世街道から外れている。それは思想が左寄りで主流派では無いこともそうであるが、事務処理能力が低くて人望も無いことが大きな原因であった。休日になると地方に出かけ、揉め事がある地元の事情とは関係無い反対派住民の一人に紛れ込んで抗議活動に明け暮れることが好きな男である。
しかし出世ができないのは自分のせいでは無くて向井水が原因だと思い込んでいる。そしていつの日か藤巻が所属する派閥の国会議員が主流になり、自分が部長になって向井水を閑職に追い込むことを夢に見ている他力本願な男でもある。
「向井水め、いつか見てろよ……」
藤巻はタバコをあきらめて本部に入っていた。
午後七時を回る頃、熊本と縣を乗せた黒塗りの車は地方都市から都内に向かっていた。
「熊本さん、食事はどうされますか?」
「少し遅くなるけど、自宅で済ませることにします。縣さんにはいつも私にお付き合いさせて申し訳ないです」
「いえ、私は大丈夫です。いつでもどこでも何でも食べられるように訓練を受けていますから」
「そうでしたね。忘れていました。そういえば前も何か体温を調節する訓練を受けているとか言っていましたよね?」
「はい、表向きは」
懸は苦笑いをした。
「縣さんのそういうところが好きですね。警察官らしく無くて」
「それはそうと熊本さん、本部に脅迫状が届いたようです」
「で、内容は?」
「今すぐ党首を辞めろとか、そういった感じのものです」
「そうですか……それはそうと、よく聞くあの実弾を郵送で送ってくるのはどういった意味なのでしょうね。アメリカだったら送られた実弾を鉄砲に充填して撃ち返されて笑い話になるところでしょう」
「確かに。その場合はこちらとしても実弾を鉄砲で窓ガラスあたりに撃ち込んでもらった方が動きやすいのですが」
「私は党首になった時点である程度覚悟していますが、できればもう少し時間が欲しいのですね」
「そうならないように私がここにいます」
「いや、でも縣さんに何かあっても……」
「大丈夫です。我々は隊長の許可が無いと死ぬことができない決まりですから」
熊本は窓を開けて街並みを眺めた。
「この辺りは昔来たことが何回かあります。もう三十年近く前の話ですが」
熊本を乗せた車が駅に近づくとバイクの爆音が聞こえてきた。車が赤信号で止まり、その前を二人乗りで特攻服を着た暴走族風の中型バイクが横切り、駅のロータリーに侵入した。運転手はサングラスで顔が見えない。
「縣さん、あのバイクのあとを追ってください」
「しかし……」
「大丈夫です」
車はバイクのあとを追ってロータリーに入った。バイクは人々が行き交う歩道の前で止まり、アクセルの空吹かしを始めた。爆音がロータリー全体にこだました。熊本を乗せた車はバイクの手前二十メートルほどで停車し、熊本が歩道に降り立った。縣も車から降りると周囲を見渡し、信号の反対側から走ってくる二名の制服の警察官を手で制した。熊本は車道に降りてバイクの方向に歩き出し、バイクの背後から後ろに乗っている少年の肩を軽く叩いた。
「あ? 何だオッサン!」
半帽(ヘルメット)を頭に乗せた少年が振り向きざまに熊本を威嚇した。熊本は一歩下がると無言で回し蹴りを少年の肩に叩き込んだ。不意を突かれた少年は運転している少年もろともバイクから転げ落ちた。運転手を失ったバイクは転倒してマフラーから白煙を上げた。
「テメー!」
回し蹴りを食らった少年が立ち上がるのを待って熊本は前蹴りを腹に入れた。少年はその場にうずくまった。運転手の少年はそれを見て逃げ出そうとしたが、熊本に襟の後ろを掴まれて後ろに引きずり倒された。
「お前の方が年上っぽいな」
熊本は襟を掴んだまま顔を近づけた。
「な、なんだよ。なんなんだよ、オッサン!」
「俺の顔を知ってるか?」
少年は熊本の顔をじっと見た。
「し、知らねーよ! い、いや知ってる。テレビでよく見る何とか党の……」
「いや、そっちの話じゃ無い。知らないならいい」
熊本が襟を離すと少年は立ち上がって逃げようとしたが、今度はベルトを掴まれた。
「逃げるな。今逃げたら周りが警察官だらけになるぞ。警察官は俺が止めているから大丈夫だ」
少年は諦めてその場に座り込んだ。
「どうする気だよ?」
「どうもしない。ちょっと付き合ってもらうだけだ」
熊本は振り返ると腹を蹴られてうずくまっている少年に話しかけた。
「悪かったな……手加減したから怪我はしていないはずだ。ちょっとその半帽貸してくれ」
半帽を被った熊本は転倒したバイクを起こしてまたがった。
「よっこらしょっと……」
熊本はエンジンがかかったままのバイクを少し倒すとギアを一速に入れてアクセルを急激に開けた。バイクは爆音を出して地面に着いた熊本の足を軸に、後輪から白煙を上げながら綺麗に円を描いた。
「まだ行けるな……」
「オッサン、誰だよ!」
座り込んだ少年は熊本に怒鳴った。
「誰でも無い。いいから後ろに乗れ。それとそのサングラスを貸せ」
少年はしぶしぶ熊本にサングラスを渡すと後部シートに乗った。それを見ていた縣が駆け寄ってきた。
「熊本さん、何をする気です!」
「ちょっとコイツとドライブです」
「無茶です!」
「免許は持っていますし、大丈夫です。縣さん、その駅前の通りを海に向かってすべての信号を青にしてもらえますか? それとヘルメットをもう一つください」
「しかし……わかりました」
縣は携帯電話をかけると、交差点で待機している制服の警察官を呼び寄せて指示を出した。
「熊本さん、配置が完了するまで少し待ってください」
しばらくすると他の制服の警察官が走り寄って来て報告した。
「配置が完了しました!」
「熊本さん、気をつけてお願いします」
懸は警察官が持ってきたヘルメットを熊本に渡した。
「ありがとうございます。ちょっと行ってきます」
熊本はサングラスをかけてヘルメットを後ろの少年に渡した。
「これをかぶってしっかり捕まっていろよ!」
そう少年に言い終わらないうちに、熊本はアクセルを乱暴に開けて交差点に向けて加速した。バイクは交差点で減速して左折し、海の方向に向かって再び加速を始めた。
「オッサン、どこへ行くんだよ!」
「海だ!」
爆音を響かせながらバイクは加速を続けた。目の前に迫ってくる乗用車を右に左に鮮やかに躱しながら熊本は速度を落とすこと無く海に向かった。途中の交差点では制服の警察官が信号機の制御盤を操作して青にしたり、白バイが交差点を一時的に封鎖していた。
五分ほど走って海が見えてくると、熊本は工場地帯がある埠頭の方向に向かった。そしてコンクリートの壁で行き止まりの道に出ると、壁を目指して熊本はフル加速を始めた。
「や、やめろぉ!」
熊本にしがみついていた少年はそれを見て叫んだが、熊本は加速をやめない。速度計は百キロを優に超えている。熊本は壁まで残り三十メートルほどで急ブレーキをかけ、後輪の荷重が抜けたところでハンドル切ってバイクを傾け、ブレーキで後輪をロックさせた。バイクが横滑りを始めると同時に足を路面に叩きつけてバイクが倒れないように支えると、壁が見る見るうちに迫ってきた。
少年が熊本にしがみついたまま、固く閉じていた目を開けるとバイクは壁の数センチ手前で止まっていた。
「降りろ」
少年は恐る恐るバイクから降りると、その場にへたり込んだ。
「このバイクは整備不良まみれだな」
少年は呆然と熊本を見上げていた。熊本はバイクのエンジンを止めて壁に立てかけると、靴を脱いで踵を見た。
「やっぱり普通の革靴じゃダメだな。踵が削れて使い物にならん」
「す、すみませんでした……」
少年はうなだれた。
「何も謝ることはない。ただ、バイクの運転は車より遥かに危険だ。それと場合によっては事故などで周りを巻き込む可能性があることを教えたかった」
「はい」
熊本が靴を履くと、ズボンのポケットの携帯電話が鳴った。
「はい、熊本です。今、埠頭にいます。GPSで位置を確認できますか? すみません、お手数をおかけします」
「俺、逮捕されるんですか?」
「特に何もしてないから大丈夫だろう。今頃君の友達は駅の交番で説教を食らっているよ」
「昔、先輩から伝説の総長がいたって聞いたことがあります」
「で?」
「その総長は喧嘩になると長い足を使った回し蹴りで相手を倒しまくったって……」
「すごいなその総長は」
「ひょっとしてオッサンは……」
「俺もその話は聞いたことがある。バイクの運転も上手かったらしいな……」
縣を乗せた車とパトカーが二人の方に走って来るのが見えた。
「少年、お迎えだ。あ、このバイクな、整備不良だからこのままだと走行できないから。ここに置いて、あとで警察署に行ってどうすればいいか聞いてくれ」
止まった車から縣が降りてきた。
「熊本さん、早く車に乗ってください。私が隊長に怒られます……と言うか、もう怒られましたけど」
「それは申し訳ありませんでした」
「そっちの少年はパトカーに乗って」
少年はパトカーの後部座席に乗り込んだ。熊本は警察官が閉じようとしたドアを手で止めてサングラスを車内の少年に差し出した。
「君は人生はつまらんと思っているだろう。案外そうでも無いけどな。だがど死に急ぐのだけは止めてくれ。どんな奴でも若い人間が死ぬのは国家にとって損失だ。カネと女以外で相談したいことがあれば俺に連絡をよこせ」
熊本は少年に名刺を渡し、ドアを閉じた。
「熊本さん、行きますか?」
「はい」
熊本は縣に促されて公用車に乗り込んだ。
「熊本さん、無茶はやめてください」
「すみません。ちょっと昔を思い出してしまいまして」
「それにしてもバイクの運転は慣れたものでしたね」
「元暴走族のリーダーですから」
「え? 熊本さんの経歴には載っていませんよね」
「国会議員の経歴に『元暴走族』って書くわけにはいかないでしょう。しかも未成年の時ですから……縣さんはご存じ無かったのですか?」
「お若い頃に不良っぽいことをしていたとしか知りません。しかし危険なことは今回だけにしてください。もし怪我をするようなことになると多くの人が……」
「わかりました、もうしないと約束します。でも幸運なことに悲しむ家族はいませんから」
「すみません、思い出させてしまって……」
「あ、気を遣わせてしまって、こちらこそすみません」
気まずくなった二人はしばらく無言になった。
マンションに戻った熊本はネクタイを緩めるとリビングルームに缶ビールを持って入った。そして留守番電話を知らせるランプが点滅している電話の横に置いてある妻と子供の写真立てを見た。続いてその横に倒してあった二つ目の写真立てを起こした。するとそこには特攻服を着た若い熊本が立っていた。熊本は意を決して再生するボタンを押し、留守番電話を最後まで再生した。
――パパ? 本当は今晩帰る予定だったのだけれど、ちょっと純一が熱を出しちゃったの。病院に連れて行ったら単なる風邪みたいで安心したけれど、それで今病院から電話しています。念のため大事をとってもう一日実家に居るわ。だから帰りは明日の夜になります。それから昨日、石渡さんから私に電話がかかってきたわ。あなたは私に言わなかったけれど石渡さんから今度の選挙で立候補するように頼まれたらしいじゃないの? 私は賛成するから立候補したらどう? 応援しますから。あんなに無茶していたあなたが国会議員になるなんて想像できないけど……じゃあまた明日の夜に
熊本は十年前に妻子を交通事故で失った。大学を卒業後、熊本は衆議院議員の
香織が幼い純一を抱いて久しぶりに実家に帰ると両親は大喜びだった。父親は純一を海に連れて行き、母親は純一のために買った服を着せて喜んだ。
東京に帰る日の晩、純一が熱を出して救急外来を受診した。幸い純一は軽い風邪で特に入院する必要も無かった。翌日の夜、帰京するべく香織は純一を車に乗せて実家を出発した。そして実家から国道に出る交差点に差し掛かったとき、数台の暴走族が赤信号を無視して交差点に進入にしてきた。香織はとっさにバイクを避けたが、勢い余って歩道縁石に乗り上げ、そのままガードレールをなぎ倒して数メートル下の車道に落下した。
転倒して上下反転した車内では頭や腕から出血した香織が緩慢な動きでシートベルトを外そうしていた。しかし骨折している腕ではシートベルトを外すことができなかった。骨折していない手で室内灯を点けると後部座席を振り返った。純一は潰れた屋根に頭を圧迫され、血を流して動いていない。香織は頭から血を流しながら必死に息子に手を伸ばしたが純一には届かず、涙を流しながら動かなくなった。
熊本が数時間後に病院に駆けつけた時にはすでに二人とも死亡したあとで、熊本は遺体安置所に案内された。熊本はは妻と子供の遺体を見てその場で泣き崩れた。
仕事帰りの鰯田は港区青山のクラブ・ラウンジ アップデートに続く地下階段を降り、入り口のドアを開けて中に入っていった。中には小さなダンスフロアと二十席ほどの客席があった。鰯田は半分ほど客が入っているフロアを抜け、事務所に続くドアを開けた。
「あ、鰯田君。久しぶりだね」
スーツを着た村田隆夫が振り返った。
「店長、どうもです」
「仕事の調子はどう?」
「まあ、慣れました。それほどハードな仕事でも無いですし、僕なら楽勝って感じです」
「相変わらずだね。まあ座りなさいよ、コーヒーを入れるから」
鰯田は促されてパイプの椅子に座った。
「まさか君が政治関係の仕事に就くとは思ってもみなかったよ」
「僕もまさかって感じです」
「でも、どうなの?やっぱりDJやりたいの?」
「はい、そのうち時期をみて一度はイビサ島に行きたいと思います。それよりお客さんが少ないような気がしますが」
「君が辞めてから客層が変わってね。君の選曲が好きで来ていた客はいなくなったね」
「やはりそうでしたか」
「その自信たっぷりの態度はともかくとして君の選曲センスは認めざるを得ないな。
暇な時にアルバイトでまたDJやってみないか?」
「んー、一応アルバイトは禁止されているので無理です。ただし、報酬を受けなければ問題は無いと思いますので、趣味ということで来ることは可能です」
「じゃあ趣味ということで」
「わかりました。あ、そういえば僕の能力が仕事で役に立つことがわかりました」
「え? あー、なんだっけ? 記憶力だっけ」
「そうです。何でも超人的な記憶力らしいです。僕の場合」
「まあ僕も君から聞いているだけで実際に見たことが無いから何とも言えないけど、そりゃ良かったね」
「店長、そんなことどうでもいいと思っているでしょう?」
「まあね。この仕事じゃ関係ない話なんで。でも代議士って普段は会議以外でどんな仕事をしているの?」
「店長、代議士イコール国会議員ではありません。代議士は衆議院議員を指します。参議院議員は代議士とは呼びません。これを間違うと素人扱いされます」
「ほー、そうなんだ」
「まだあります。元議員と前議員の違いってわからないでしょう? 前議員と言うのは直近の選挙まで議員だった人で、元議員はそれ以前です」
「ふーん。あまり興味は無いけど。それにしても本会議だっけ? あれの最中に居眠りしている国会議員に税金は払いたく無いよね」
「あの居眠りを回避することはかなり困難らしいです。壇上で抑揚のない調子でだらだらと喋られると、お経を聞いているみたいになって催眠にかかったように眠りに落ちるそうです。我々の職場では『ジジイの呪い』って呼んでいます」
「ジジイの呪いねぇ」
「それと……」
「鰯田君、もういいよ。君の話は止まりそうにないから。それはそうとして、この前うちのお客さんが、イビサ島に行ってきたよ」
「え! 本当ですか? Cafe Del Mar(カフェ・デル・マール)は行ったのですか?」
「ああ、行ったって。すごい良かったって言っていたよ。何でも伝説のDJ……ホセ……パ……」
「ホセ パディーヤですか!」
「そう、その人とCafe Del Marで会って握手してもらったみたい」
「し、信じられないです。うぉー、行きたい。やっぱり行きたいです。そのお客さん、今日は来ていないのですか?」
「今日はいないと思うよ。でも今度来たらメールして教えてあげるよ」
「ありがとうございます。店長、とりあえず今夜は寄ってみただけですのでまた近いうちに」
鰯田はコーヒーカップを置くと立ち上がった。
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