第二話 要人警護課SP・縣敏夫
人通りが少ない早朝の都内の一般道を、灰色のスウェットの上下を着て頭にフードを被った長身痩躯の男が顔を見せないようにしてジョギングしていた。黒塗りの乗用車がその男の後方十メートルでゆっくりと追尾している。車内では助手席に座っている屈強なスーツ姿の男が左袖を口元に持っていった。
「マルタイ、これから自宅に戻ります」
警視庁要人警護課に勤務する
「了解」
縣はそう答えると、運転している同僚に話しかけた。
「党本部に行ったら、お前はそのまま本庁に戻れとの隊長命令だ」
「了解しました」
男は坂を登り切ってマンションの前に出た。マンションの入り口前には一人用の交番が設置されており、警察官が長い警棒を持って仁王立ちしている。男はその警察官に軽く会釈するとマンションの中に入った。敬礼を返した警察官は続いて到着した乗用車の縣と同僚に再び敬礼をした。
長身痩躯の男の名前は
「ふうー」
熊本はコップを台所のテーブルに置き、居間のテレビのスイッチを入れた。テレビから午前七時のニュースが流れた。そのテレビの横の台には二つの写真立てがあり、一つの写真立てには妻と幼い子供が映っており、もう一つの写真立ては倒されていた。
――本日、民民党の熊本党首は中国訪問に出発する予定です。主な目的は次期総選挙で政権を取った場合の布石と、冷え込んでいる日中関係の修復と思われます。党首を乗せた専用機は午後二時に羽田空港を出発する予定です。
テレビはそのままにして熊本はシャワーを浴びるために風呂場に向かった。
党本部三階の廊下突き当たりの部屋には三役室と書いたプレートが貼ってあり、ドアのスライド プレートは会議中となっていた。その手前の部屋は会議室Bで、廊下に面したドアは開いていた。
神尾は会議室Bの前を通りかかり、開いているドアから部屋の中に目をやった。部屋の中には長いテーブルが一つ置かれ、それを挟んで三個の椅子が配置してある。そしてその椅子の一つに座って廊下を通る人々を監視している縣と目が合った。
「あ、トシオちゃん。おはよう」
「おはようって、もう十一時だ」
「どうなの、何か面白い話は無いの?」
「あるわけがない」
神尾はテーブルを挟んで縣の反対側の椅子に座る。縣は開いているドアから廊下を見たままで神尾に目を向けない。
「オイラはあるんだ。これが」
「興味は無いけど一応聞いてやるよ」
「実は部下ができたんだ」
「は?」
「ほら、どこの世界でも偉くなるためには部下がいないとダメでしょう?」
「ふーん。やっぱりつまらん」
「あ、そうだ。今日の午後トシオちゃん空港に行くでしょう?」
「ああ。党首と一緒に中国に行くからな」
「じゃあさ、ちょっとオイラの部下も空港まで同行させるんでよろしくね」
「お、おい。何で俺が面倒見る必要があるんだ?」
「面倒見る必要は無いよ。ただの見学」
「ならいいが……」
と、縣が言い終わらないうちに神尾は部屋の隅に置いてある電話で内線を回した。
「あ、イワシ? ちょっと三階の会議室Bまで来てくれ」
しばらくすると鰯田が部屋に入ってきた。
「はい。何でしょう?」
「今日の午後の予定を変更することにした。ホルヘっちを見送りに羽田空港まで行ってくれ」
「ホルヘっちって誰ですか?」
「神尾、党首をホルヘっち呼ばわりか? 相変わらず怖い者知らずだな」
「神尾さん、こちらは?」
「紹介しておく。警視庁要人警護課SPの縣敏夫さん。ホルヘっちを担当している」
「は、初めまして。この度、情報分析室に配属されました鰯田順と申します。よろしくお願いいたします」
鰯田は名刺を差し出す。
「こちらこそよろしくね」
縣も鰯田に名刺を差し出し、受け取った鰯田は不思議そうな顔をして縣の名刺を見た。
「あの……前々から思っていたのですが、SPって何の略なのですか?」
縣は一瞬躊躇して神尾を見た。神尾は縣に目配せをすると、縣は再び廊下の監視に戻った。
「トシオちゃんの代わりに俺が教えてやる。スーパー ポリスの略だ」
「やっぱりそうでしたか。思っていた通りだ。でも何がスーパーなんですか?」(注:Security Police)
「例えば裸眼視力は最低四.〇必要だ」
「俺も昔は四.五あったけどな」
縣は廊下に目をやったまま答えた。
「さらに三十八口径以下の拳銃の弾を避ける訓練を受けている」
「十メートル以上離れていればの話だ」
縣は気だるそうに首を回した。
「体温もプラスマイナス一度五分までだったら調節できる」
「精神集中に二分かかるけどな」
縣はイヤホンを入れ直した。
「す、すごいですね。そこまですごいとは思いませんでした」
鰯田は目を丸くした。
「イワシ、すまんがそろそろ用意をしてくれ。十二時に本部から随行職員専用のバスが出る。それに乗って空港に向かってくれ。その前に昼食を食べないと食べそびれるぞ」
「はい。わかりました」
鰯田が部屋から出て行った。
「神尾、あの彼は天然か?」
神尾は大笑いしながら答えた。
「今時珍しいくらいの天然ですね」
その時、三役室から出てきた熊本が会議室Bの前を通った。
「じゃあな」
縣はそう言うと素早く立ち上がり、廊下に出て熊本の背後に位置して警護を始めた。
神尾に言われた通り、熊本党首より先に羽田空港に到着した鰯田は一人で空港内をうろついていた。熊本党首の搭乗の時間が迫っているのだが、縣を見失って途方に暮れていた。仕方なく携帯電話を出して神尾に連絡した。
「神尾さん、申し訳ありませんが縣さんを見失いました」
「は?どうして?」
「打ち合わせに行ってくると言ったきりそのまま……」
「何分くらい前だ?」
「三十分くらいです」
「逃げられたな……」
「そ、そんなぁ!」
「そんなもこんなも無い。とりあえずその辺の目つきの悪いスーツを着たおっさんにお前の身分を明かしてどこに行けば良いか聞いてみろ。トシオちゃんを絶対に逃がすんじゃない」
鰯田は周囲を見回した。
「と言われましても、まわり中目付きの悪い人だらけなのですが……一体この人たちは?」
「ホルヘっちの警備のために招集された私服の警察官だよ」
「あ、そうなのですか。わかりました。聞いてみます」
鰯田は携帯電話を切ると一番近くにいる警察官に話しかけた。
空港建物の待合室から出た滑走路側には送迎バスが止まっていた。そのバスに鰯田は走って乗り込んだ。中はほとんど満席で、最前部の座席が二つしか開いていなかった。鰯田が息を切らして通路側に座ると、直後にアタッシュケースを持った縣が乗り込んで来た。
「あ、縣さん」
バスの後方に座っていた制服の警察官数人が縣を見て立ち上がって敬礼をした。
「チッ、見つけやがったな」
縣は警察官たちを右手で制して座るように促すと、鰯田に言った。
「鰯田君だったな。すまんが俺を通路側にしてくれないか。そうじゃないと緊急時に動けない」
「は、はい」
鰯田は窓側の席に移動し、席についた縣は持っていたアタッシュケースを膝の上に乗せた。
「午前中に聞き忘れたのですが、神尾さんが言っていたホルヘっちってどういう意味ですか?」
「あれか。党首がこの前の演説で『実は私にはスペイン人の血が流れている』と言ったんだ」
「はい」
「それを聞いた神尾が、なら丈二じゃなくてホルヘじゃんと…」
「え?」
「俺も知らなかったが、党首の下の名前はジョージ。それは英語読みだが、スペイン語読みでホルヘになると」
「それでホルヘっちですか」
「しかしホルヘっちなんて呼んでいるのはヤツだけだ」
鰯田は興味深そうに縣の膝の上に乗っているアタッシュケースを見た。
「そのアタッシュケースはテレビ番組で説明していた防弾アタッシュケースですか?」
「ああ、そうだ」
「重いんですか?」
「ああ、鉄板と複合素材でできているからな」
「ということは中身は空ですか?」
「いや、俺は入れてる」
「え? 何を入れているんですか?」
「歯ブラシと歯磨きとタオルと石けんの朝の洗顔セット」
「縣さん……」
「何?」
「ひょっとして神尾さんと二人で私をからかっていませんか?」
縣は顔色一つ変えずに鰯田の顔を見た。
「神尾はともかく、俺はそんなに人が悪くない」
縣は再び前方を向くと、バスが専用機に向かって走り出した。
「縣さん、やっぱりこの仕事は危険なんですよね」
「まあな。武器は携帯しているが使うことはほとんど無い。警護対象者が襲われたら、安全に逃がすのが俺たちの最大の仕事だ。弾が飛んできたらまず俺の背中に当たることは間違い無いな」
「痛そうですね」
「俺たちは拳銃の弾が一発背中に当たったくらいじゃ倒れない。それに痛みを無視する訓練も受けている」
「ご結婚はされているのですか?」
「ああ。八歳と五歳の息子がいる」
「奥さんは心配しないのですか?」
「もう慣れっこだ。それに党首と一緒にテレビに映るから子供も喜ぶよ」
タラップが付けられた専用機の近くに鰯田たちを乗せたバスが止まると、しばらくして熊本を乗せた専用車がタラップの近くに停車した。タラップ周辺にはすでに他の警察官が配置されていた。
「縣さん、ずいぶん警備が厳重ですね」
縣に続いてバスから降りた鰯田は話しかけた。
「ここは完全なオープン スペースで周囲からは丸見えで、遮蔽物が一切無いから人間が盾になるしかない」
熊本が車から出てくると縣は鰯田を残して走り出し、熊本の警備を始めた。続いて私服警察官が熊本党首の周囲を固め、制服の警官は持ち場に散っていった。
鰯田はその様子をバスの近くでボーッと見ていた。
熊本党首がタラップに向けて歩き出した。
突然、鰯田の背後で大きな音がした。その音に反応したすべての私服警官は鰯田の方向に振り返り、スーツの裾を跳ね上げ、腰の拳銃の銃把を握り、臨戦態勢になった。縣は熊本の首の後ろの襟を右手でつかみ、そのまま地面に押し倒して左手で防弾アタッシュケースを音のした方向に向け、ボタンを押してアタッシュケースを開けて面積を大きくした。棒立ちしていた鰯田が振り向くと、アルミ製の
鰯田が再び前を見ると、縣のアタッシュケースから朝の洗顔セットが落ちるところだった。
――本当に洗顔セットだ……
空港作業員を確認した私服警官は拳銃の銃把から手を離し、再び熊本党首の方向を向いた。縣はバツが悪そうに洗顔セットを拾うとアタッシュケースにしまった。そして縣と熊本党首はタラップを上って飛行機の中に入っていった。
翌日、党本部四階の情報分析室では神尾と鰯田の二人が話していた。
「というわけで、本当に洗顔セットが入っていたんですよ」
「ほぉ、俺にも洗顔セットだとか言っていたが、まさか本当に入れていたとは」
根来が部屋に入ってきた。
「お二人さん。いい話がある」
「な、何でしょう?」
「何か怪しいですね」
「嫌なら無理にとは言わない。タダで飲み食いできる話だがいいのかな?」
「そういうことなら最初に言ってくださいよ」
「お前が最後まで話を聞かないからだ」
「すみません」
「実は向井水部長の弟が赤坂に店を出してな、挨拶がわりに今晩俺が行く予定だったけど急に法事が入って行けなくなった。だから俺の代理で二人に行って欲しい」
「では喜んで」
「僕も神尾さんについていきます」
根来は自分の机の引き出しから名刺を出した。
「部長から店の名刺を預かっているからこれを持って行け」
「当然支払いは……」
「領収書を持ってこい」
「わかりました。イワシ君、今晩は赤坂だ」
「はい。神尾さん」
二人は大喜びした。
「じゃあ二人に任せたから。部長の弟によろしく言っておいてくれ」
「伝えておきます」
夜の赤坂の通りを、神尾は鰯田と並んで名刺を見ながら歩いていた。
「名刺の地図だとこの辺のはずだ……でも何だか嫌な予感がする」
「何がですか?」
「気のせいかも知れないが、基本的に美味しい話には裏がある」
「気のせいですよ、きっと」
「そうだといいが……おっとそこの地下に降りた場所だ」
看板を見つけて雑居ビルの階段を下りていくと、地下の廊下の両側には飲食店の看板が並んでいた。神尾と鰯田は廊下の突き当たりの店で立ち止まった。
「ああ、ここだ」
「な、何だか怪しい店ですね」
看板にはピンクの背景に黒の文字で『BAR 竿の滴』と店名が書いてあった。
「何て読むんですかね?」
「何をどう読んでもさおのしずくだ」
「神尾さん、先にどうぞ」
「しょうがねぇな」
二人はドアを開けて店に入った。
店のドアを開けると通路があり、その通路を抜けるとバーのカウンターがあった。カウンター奥には、どこから見ても立派なゲイのバーテンダーがグラスを磨いていた。そのカウンターを抜けると奥には数個のボックス席とカラオケセットが置いてあり、数組の団体客が盛り上がっていた。神尾と鰯田が恐る恐るカウンターに近づくとバーテンダーが野太い声で二人に話しかけた。
「いらっしゃ~い」
神尾と鰯田は顔を見合わせ、再びバーテンダーの顔を凝視する。
「どうしたの? 何か私の顔に付いているの?」
「あの……確かここは向井水部長の弟さんが経営していると伺ってきたのですが。根来の代理だと言えばわかるはずだと言われました」
「ああ、兄貴の同期の根来さんね」
「あ、あ、兄貴と言われますと」
「そう。私が向井水健介の弟で良介」
神尾と鰯田は反応ができず、お互い唖然とした顔であらぬ方向を見た。
「まあね、驚くのも無理は無いわ。まさか政党の関係者の親族が赤坂でゲイ バーをやっているとは想像できないものね」
あらぬ方向を向いていた神尾と鰯田が正気に返って良介を見た。
「し、失礼しました。すべてを理解して帰って参りました」
神尾は敬礼をした。
「じ、自分も帰って参りました」
鰯田も敬礼をした。
「面白いお二人さんだわね。今日は私のおごりだから食べるなり飲むなり好きにしてちょうだい」
「神尾さん、どうします?」
「どうするもこうするも、タダで飲み食いできるならそれに越したことはない。鉄さんに領収書を持って行く必要も無いから思いっきり飲み食いしてやれ」
「はい。了解しました」
良介は水とおしぼりを二人に出した。鰯田はカウンターテーブルに置いてあるメニューを見て、良介に注文した。
「じゃあ、焼きそばをいただけますか?」
良介が奥の調理場に向かって野太い声で叫んだ。
「焼きそば一丁入りました!」
同じくメニューを見ている神尾が注文した。
「まさかバーに置いてあると思わなかったので、パスタ・ペペロンチーノお願いします。できれば唐辛子は控えめで」
「ペロンチ一丁入りました。唐辛子控えめで!」
店の奥のボックス席には何やら盛り上がっている上司と部下風の男性二人組がいた。
「そしてさ、その販売機から出てきたタバコを振ったらカタカタ音がするわけよ」
「何故ですか?」
「いや、俺も変だと思ってパッケージを開けてみたのよ……あ、神尾君!」
上司風の男がカウンターの神尾を見つけて大声を出した。
「あ、委員長。こんなところで、ご無沙汰しております」
「いや、奇遇だね。ちょっとそっちじゃ遠いからこっちに来なさいよ」
「はい。でもちょっと食事を頼んだものですから、それが終わってからそちらに伺います」
「わかった。待ってるよ」
「神尾さん、あの人たちは?」
「右のうるさい方が
「全オ連?」
「全日本オートモービル連合、つまり自動車とかバイクを作っている会社の労働組合。組合員はざっと八十万人。うちの中ではかなり大きい組織で、衆参合わせて四人の国会議員を出している。日本の基幹産業を支えている人々だ」
「でも何でこんなところに」
「それはわからん」
良介が奥から焼きそばとペペロンチーノを運んできた。
「ヘイお待ち」
「メチャクチャ早いですね」
「うちのシェフはセックスと料理が早いのが取り柄でね」
間髪入れずに奥から声がした。
「余計なお世話だ! それに俺はゲイじゃない!」
神尾と鰯田は笑い出した。
食事が終わった神尾と鰯田は岩沙たちと合流した。
「委員長、どうもお待たせしました。彼は新人の鰯田です」
鰯田は名刺を差し出した。
「鰯田君ね、よろしく。で、彼は新しく副委員長になった田中だ」
「神尾です。よろしくお願いいたします」
「鰯田です。よろしくお願いいたします」
「ま、堅いことは抜きだ。とりあえず座って乾杯でもしよう。マスター、とりあえずアイス生ビールをジョッキで四つ持ってきてくれ」
「委員長、アイス生ビールって何ですか?」
「キンキンに冷やしたジョッキにビールを入れてだな、さらにビールに氷を入れて冷やすんだ。この前ここで初めて飲んで俺のお気に入り。マスターによるとフィリピン仕様らしい」
「何の意味があるんですか?」
「激しく冷えているから激烈にうまい。ただし、早く飲まないと単なるビールの水割りとなってしまう」
「なるほど。ちなみに委員長と副委員長はどうやってこの店を知ったのですか?」
「君の所の部長にこの前連れてきてもらった」
「ではマスターのことも……」
「ああ、ゲイだろ。知ってるよ」
「驚きませんでした?」
「いや、全然。その程度で驚いていたら組織の委員長なんかできないよ。でもさすがにこの前、久しぶりに俺の高校の同窓会に行ったら驚いたな」
「どうしたんですか?」
「俺の出た高校は男子校なんだけど同窓会に行ったら俺の隣の席にババアが座っていて、何で男子校の同窓会に汚ねぇババアがいるんだとよく見たら同じクラスだったヤツで、性転換の手術までしちゃってるのよ。これには驚いたね」
神尾と鰯田は怪訝な顔をして岩沙を見ると、横から田中が岩沙に話しかけた。
「それより委員長、さっきのタバコの話の続きを聞かせてください」
「あ、そうそう。どこまで話したっけ?」
「数年前に委員長が車工場の視察でイギリスに行って、パブの自動販売機でタバコを買ったところまでです」
「そうそう。それでね、出てきたタバコの箱を何気なく振ったらカタカタと音がしたんだよ。ちなみに今はタバコをやめたけどね」
「タバコにおまけでも入っていたんですか?」
「俺も最初はそう思ってパッケージを開けて中身を見たらね、何と二十本入っているはずのタバコが十七本しか無かったんだ」
「工場出荷時のミスですか?」
「不思議に思って一緒にいたイギリス人のエンジニアに聞いたらミスでは無いと。この前タバコの値段が上がったのが原因と言われたんだ」
「意味がわかりません」
「だろう? 俺もわからなくて説明を聞いたらイギリス人わけがわからんのだ」
「ど、どうしたんですか?」
「つまりタバコの値段が上がったのはいいけれど、自動販売機を製造している会社がそれにすぐに対応できないからタバコを詰める工程で値上げ分に相当する三本を抜いた。だから自動販売機のタバコの値段は値上げ前のままだったんだ」
「えっ! タバコを三本抜く方が面倒くさいような気が……」
「もうびっくりしたね。日本だったら日本中に置いてある何万台だか何十万台のタバコの自動販売機の値段が一晩で切り替わるだろう? そのあとパブで飲みながらイギリスのエンジニアに日本人は効率が悪いと言われ、お前達の方がよっぽど効率が悪い。あそこのファーストフード店でボーッと突っ立っているだけで仕事をしていないトレイ片付け係は何だ?と言い返してケンカになったけどね。ははは」
席にアイス生ビールが運ばれてきた。
向井水が神尾たちに少し遅れて店に入っていくと、ボックス席で岩沙が神尾の胸ぐらをつかんで前後に揺すっていた。
「わかるか、神尾君! あの娘が、何でも私の言うことを聞いていた娘が!」
「い、委員長……く、苦しいです」
「委員長、また娘さんの話ですか?」
岩沙は向井水を見て正気に戻り、神尾はソファに放り出された。
「あ、部長。先日はどうもお世話になりました」
「あれ? 神尾、根来はどうした?」
神尾は放り出されたままので答えた。
「何でも室長は急な法事とのことです」
「法事? ああ、ヨシゲンの三回忌か。律儀なヤツだ」
「部長、ヨシゲンって、吉田源三さんですか?」
「そう。死んでもう二年になるか。それよりイワシ君、仕事は慣れたかね?」
「部長、イワシじゃなくて……もういいです。はい、今のところ順調です」
「まあ、部長、座ってください」
向井水が座ると良介がオシボリと水割りを持ってきた。
「ヨシゲンも落選しなければ今頃は党の執行部に入っていたろうに」
「部長、ヨシゲンさんはどこの出身でしたっけ?」
「いくつかの団体から推薦を受けていたが、特に支持母体は無かった」
「確か前々回の衆議院選で落選してその半年後に突然亡くなったんでしたっけ?」
「そうだ。まだ六十歳だったな。いい人だったんだがな。国会議員は落選すると良く死ぬからな」
「やはり一気に気が抜けてしまうんですかね?」
「そうかも知れん。それはそうと鰯田はこの前羽田に行ったんだよな? で、どうだった? 面白かった?」
「はい。SPの縣さんのお供させていただきました」
「縣さんは面白いだろう?」
「はい。何か神尾さんと気が合うみたいですね」
「神尾、そうなのか?」
神尾は首をかしげる。
「別にそんなことは無いです」
「でもトシオちゃんなんて呼ぶのは神尾さんだけですよね?」
「さてはお前、縣さんの弱みでも握ってるな?」
「そんなことは無いです。あ、イワシ君、言い忘れたけど警護しているトシオちゃんを見つけても声をかけちゃダメだよ」
「はい」
「盲導犬と一緒でさ、仕事中になでたり声をかけたりすると仕事の邪魔になるから。せいぜい目で挨拶するくらいが限度」
「はい、わかりました」
「とりあえず皆さん、夜はこれからと言うことで、飲みましょう」
翌日、情報分析室で神尾と鰯田が机に座って仕事をしていると根来が入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨日の晩は楽しかった?」
「はい、終電まで遊ばさせてもらいました。でもまさか部長の弟さんが……」
「ゲイの良介ちゃんのことか?」
「え! 知っていたんですか?」
「当然だ」
「最初に言ってくださいよ。そうすれば驚かなかったのに」
「それじゃあ俺がつまらん。それより領収書は?」
「弟さんがおごりと言われまして、それに後から部長がいらっしゃいまして」
「そりゃ良かった。他に誰かいた?」
「全オ連の岩沙委員長がいらっしゃいました」
「相変わらずデカイ声だったろう?」
「はい。何でも娘さんがアメリカに留学したとかおっしゃっていましたが」
「もうそんな歳か、俺も歳をとるわけだ。あのさ、今日は何か急ぎの仕事はあったっけ?」
「いいえ、特にありませんが」
「じゃあこれから二人して女性局のデータ処理の手伝いをしてもらえるかな」
「はい、わかりました」
「指示は向こうで受けてくれ。多分昼飯くらいはおごってもらえるはずだ」
「では行って参ります。イワシ君、行くぞ」
二人は立ち上がって廊下に出た。
「女性局に行くのは初めてなのですが、どんな局なのですか?」
「女性局は総務局と同じで独立した部局で、主に政治的観点から女性の地位を向上させることを目的としている。特に口が立つオバサンが多い」
「え、怖いんですか?」
「別に。いらないことを言わなければ大丈夫」
二人は階段を降りて二階に行くと女性局のプレートがかけてある部屋のドアを神尾がノックした。
「どうもぉ。情報分析室でーす」
ドアを開けると三人の女性が椅子に座って仕事をしていた。その中で中央に座っていた
「待っていたわ。神尾君と新人の……」
「鰯田です」
「今日はどのようなご用件で?」
「うちで管理している団体の名簿を整理したいのだけれど、膨大なものだから」
「わかりました。何とかします」
「お昼ご飯は何にする?」
神尾が口を開こうとしたところを鰯田がさえぎった。
「肉が食べたいです」
神尾は鰯田を睨んだ。
「食い意地の張った新人君ね。じゃあ赤坂あたりでステーキ ランチでどう?」
「牛肉大好きです」
鰯田は満面の笑みを浮かべた。
「作業を始めるに当たって私たちはどうしたらいい?」
「データの入ったPCを使わせてください。それと簡単なソフトをインストールさせていただきます」
「わかったわ。そこの空いているPCがそれよ」
「ではデータを見させていただきます」
「えーっと神尾君は砂糖とミルクは?」
「ブラックでお願いします」
「そちらの新人さんは?」
「僕は両方とも全開でお願いします」
「ぜんかい?」
「両方いっぱい入れて子供仕様って意味らしいです」
「わかったわ」
淳子は笑いながら部屋の隅に砂糖とミルクを取りに戻った。
「よし、用意はできた。Temp1って名前のフォルダにあるファイルを加工してくれ」
神尾はそう言い残すと席を立って情報管理室に戻り、代わりに鰯田が席に座った。淳子が砂糖とミルクを持って戻ってきた。
「鰯田君はこの仕事は好きなの?」
「好きと言うか、とりあえず言われた通りにやっているだけです」
「正直ものね」
「馬鹿正直とか言われたりします。あ、コーヒーいただきます」
鰯田は淳子が持ってきた砂糖とミルクを全部入れてかき混ぜるとコーヒーを一口飲んだ。
「情報分析室のコーヒーより美味しいです」
「どうもありがとう」
神尾がノートPCとLANケーブルを持って戻ってきて準備を始めた。鰯田は事務的にキーボードを叩きながら淳子に話しかけた。
「そう言えばここにいらっしゃる皆様は結婚されているのですか?」
机の下で配線をしている神尾の動きが止まった。
「結婚していないと不自然かしら?」
神尾は机の下の鰯田の足をノートPCのAC電源のトランスで叩いた。
「うっ、い、いいえ。何でもないです」
神尾はケーブルの接続を済ませて立ち上がった。
「谷口さん、申し訳ありません。時々こいつは失礼なことを言いだす奴でして」
「いいわよ。私たちもそんなことは何回も聞かれているから慣れているわ」
「すみません」
「見事に全員バツイチよ」
「ぜ、全員ですか?」
「そうよ」
「ちなみに主な原因は?」
「イワシ! いい加減にしねぇと……」
「神尾君、いいわよ。私の場合、主な原因は性格の不一致とか生活のすれ違いよ」
「そうだったんですか」
「神尾さん知らなかったんですか?」
「そんなの恐ろしくて聞けるか!」
淳子は笑い出した。
「まあ、あなたたちは結婚したことが無いからわからないでしょうけど、赤の他人が同じ屋根の下で長年暮らすのは大変なのよ」
「そんなに大変なんですか?」
「大変というか小さな考えのすれ違いが重なってくるのよ」
「例えば?」
「例えばね、夕食の最中に電話に出るとか」
「それってダメなんですか」
「ダメじゃないわ。でもね、せっかく作った夕食が冷めてしまうのよ。だから私としては『あとでかけ直す』と言って欲しかったわけ」
「他には」
「あとは風邪とかで寝込んでいるときに少し元気になると起きてウロウロし始めるでしょう? いや、別にウロウロするのは構わないのだけれど、ボーッとテレビを見てたりすると目障りでイライラしてくるの」
「何故ですか?」
「こっちは家事をこなしているから、少しは手伝って欲しいのよ。ウロウロする元気があったら洗濯物を畳むとか、皿を洗うとか、それをしたくないならこっちとしては寝ていてもらった方が精神的に楽」
「ちなみに常に話題に上る夕飯の連絡はどうしていたのですか?」
「それは問題なかったわ」
「と言いますと?」
「普通の夫は『夕食はいらない』と電話するでしょう?」
「はい」
「それが問題なのよ」
「は?」
「そのやり方をすると夫からの連絡が無い限り妻は夕食の支度にかかれないわけ。仮に夕食の支度を始めたとしても、人数が決まらないから二度手間になったりするのよ」
「確かに」
「なのでうちでは逆にすることにしたの」
「逆?」
「夕食が食べたかったら五時半までに私に連絡するということに決めたの」
「なるほど」
「面倒くさくて連絡したくないなら、夕ご飯は自分で用意するなり買って食べなさいということよ。連絡がなければあなたの分は作りませんとしてみたわけ」
「で、そしたらどうなりました?」
「決めた翌日から毎日決まって五時になると連絡が入るようになったわ。考えに行き詰まったら案外逆のことをしてみると成功したりするものよ」
作業が終わった鰯田が神山の方を向いた。
「神尾さん、変換が終了しました」
「そしたら念のため別名で保存してくれ。あとはこっちのPCで処理する」
「あとどれくらいで終わるの?」
「お昼までには」
「じゃあ赤坂のレストランに十二時半で予約を入れておくわ」
「ありがとうございます」
党本部三階の会議室Bでは、縣が開いたドアから廊下を監視していた。そのドアから神尾が顔を出した。
「ちっ、またお前か」
「またぁ、そんなこと言っていいの? 裏地の秘密バラしちゃうよ」
「ま、待て。俺が悪かった。まあここに座ってくれよ」
神尾は部屋に入って縣の対面に座り、縣はいつもの通り、廊下を見たままで話しだした。
「トシオちゃん、いいこと教えてあげようか?」
「何だよ。面白い話?というかお前口がニンニク臭いぞ」
「ああ、今日のお昼はステーキだったからね。しかも赤坂。さらに言えば他人のおごり」
「いいもん食ってやがるな。で、その面白い話って何?」
「部長に弟さんがいるの知ってる?」
「部長って向井水部長か? いや、初耳だ。そりゃ弟ぐらいいてもおかしくないだろう」
「じゃあその弟がゲイだとしたら?」
「えっ! げ、ゲイだとぉ!」
縣は椅子から転げ落ちた。
「そんな大げさな」
「まさに、びっくらこきまろだ!」
縣は立ち上がった。
「何それ?」
「お前は言わないのか?」
「言わないよ」
「で、どんなゲイだったんだ?」
「いや、何と言うか……汚くはないけど……というかトシオちゃんってゲイ好きなの?」
「いや、俺は好きでは無いが、隊長が好きらしいという噂を……」
「えっ! 警視庁SPの隊長がゲイ好きとは……びっくらこきまろだ!」
「真似すんなよ」
「それはそうと今日はスペシャルな裏地の背広は着ていないの?」
「毎日は着ない。というかあれ一着しか無い」
「そんなこと言って、本当は他の動物の絵柄を揃えているんじゃないの? 十二支全部とか?」
「あのな、パンダが十二支に入っているのか? どこの国の干支だよ? もう一度言うけどな、本当は虎がこっちを睨んでいる刺繍の予定だったんだよ。それがちょっとした手違いで……」
「どこをどう手違いしたら笹の葉っぱをくわえているパンダになるわけ?」
「そんなのは知らん。だが出来てしまったものは変えられん。というか」
「実は気に入っているとか」
「……」
「やっぱりね。お気に入りなんだ」
「うるさい。長生きしたかったらそれ以上しゃべるな」
「わかったよ。まだ誰にもしゃべっていないから安心してよ。俺とトシオちゃんの秘密にしておいてあげるよ」
「何でよりによってお前なんかに……」
三役室のドアが開く音がして、足音が近づいてきた。
「またな」
縣は立ち上がって素早く部屋から出て行った。
神尾が情報分析室に戻ると、相変わらず根来は座って新聞を読んでいた。
鰯田は椅子にふんぞり返ってコーヒーを飲んでいた。
「イワシ君、満足そうだね」
「はい。あんなに美味しいステーキを食べたのは初めてです」
神尾は自分の席に座った。
「あのね、さっきの仕事なんだけどさ、あの手の仕事で重要なことって何だかわかる?」
「いいえ」
「必要以上に短時間で処理しないことだ」
「は? 短時間でやっちゃダメなんですか?」
「ダメだ。必要以上に時間をかけるのは構わん」
「わざと時間をかけろということですか?」
「わざとまではいかないが、そういうことだ」
「何故ですか?」
「人間っていうのはさ、犬だの猿だのと違って学習能力が極めて高い。例えば今朝のように彼女たちが何日もかけて苦労して修正していたデータを俺たちがものの二時間で処理したとする。次回も同じようにデータの修正が必要になったら、彼女たちはどうする?」
「僕たちに頼むと思います」
「だろう? 何故なら彼女たちは俺たちが二時間で処理できることを学習したからだ。最初から彼らに頼めば簡単なんだと思うはずだ。そうなると当然のように頼んでくる。『この前みたいにお願いね』とか言ってな」
「それが何か?」
「こっちはヒマだから手伝っただけだ。別に女性局のセクションの仕事の下請けをしているわけじゃない。俺たちは他に仕事を抱えてるし、増長されても困るんだ。それを避ける意味で時間をかけて仕事をする」
「そうすると変わるんですか?」
「変わる。ああ、俺たちやっても結構時間がかかる仕事なんだと思うようになる。しかも、自分たちの部屋に長時間居座られるので気を遣う必要がある。そうなれば次回は最初に相談してくるのでこっちとしても対応が楽だ。それに時間をかけると感謝される度合いが大きくなる」
「そういうものなんですか?」
「今にわかる。ここには平気で面倒な仕事を頼んでくる連中が多い。『すごいじゃないか、君!』とか言っておだててな。それと、イワシ君の派閥はどこだ?」
「派閥……ですか?」
「ここに入ってくる時に君の身分を保証してくれた議員がいるだろう?」
「
「それなら所属する派閥は『二十一世紀フォーラム』だ。派閥の会合に誘われなかったか?」
「そう言えばこの前、他の知らない職員の人たちに食事を誘われまして、入局おめでとうとか言われましたが」
「それが職員の派閥の会合だ。ここで働いている俺たちは全員なんらかの派閥に属している。ここは職場が職場だけに国会議員の推薦が必要なんだ。危険分子が紛れ込むと大変なことになるからな。そして職員は保証してくれた国会議員が所属する派閥と同じ派閥に属することになる」
「え? そ、そうなんですか?」
「そんなことも知らないでここで働いているとは素晴らしいな、君は」
「誰も教えてくれなかったものですから」
「そりゃそうだろう。当然の掟と言うか、暗黙の了解だからな」
「ということは鉄さんと神尾さんも派閥に属しているんですよね?」
「俺は『月正会』で右派の最大派閥。国会議員は党首のホルヘっちが有名。職員だと部長がそうなんだが、今は部長職だから公平を期すために派閥から一時的に離脱している。毒にも薬にもならない派閥ってところ。鉄さんは『国政研究会議』で中道左派、変人が多いので有名」
「大きなお世話だ」
根来が新聞越しに答えた。
「ともあれ、時々党本部の仕事とは別に派閥の仕事が回ってくることがある。俺と鉄さんは党本部の仕事を最優先すると派閥に宣言して嫌われているからいいけど、イワシ君は困るだろう」
「はい、同時に来た場合とか困ります」
「基本的にここの職員たちは他の派閥の仕事に介入しない、というかできない。部長を除いてな。だから判断は個人に委ねられるわけだが、判断できない場合もある。どうしても困ったら部長に相談しろ。俺たちは何もできない」
「わかりました」
根来が新聞を降ろして神尾の説明を引き継いだ。
「ここの組織は簡単に言うと横のつながりが党本部で、縦のつながりが派閥だ。そして派閥のつながりの方が強い。人事は派閥が関係するし、当然一番大きい派閥に力がある。だが俺も神尾君も政治活動にはあまり関心が無いもんだから、最近は派閥のお誘いがまったく来なくなった。まあイワシ君も自分の判断で好きすればいい。ただし、何が起こっても俺たちは何もしてやれないが」
「はい。わかりました」
「それとトシオちゃんの新しい情報を教えてやる。口外したら撃ち殺されるから気をつけろ」
「それは僕の仕事に関係ありますか?」
「全然」
「じゃあ聞きたくないです」
「あっそ。無理にとは言わないが」
「でも……」
「本当は聞きたいんだろ? ウズウズしてるんじゃないか?」
「わかりました。聞きたいです」
「じゃあ教えてやる。トシオちゃんの上司であるSPの隊長はゲイだ」
「え! 本当ですか?」
「さっきトシオちゃんから聞いたから間違いない」
「絶対しゃべるな。しゃべったら警視庁を敵に回すことになる」
「わ、わかりました」
東京郊外の一軒家ではリビングルームで主婦が洗濯物を畳んでいた。彼女の後ろでは子どもたちが遊んでいた。そして九時になったので彼女はテレビの電源を入れた。
――九時のニュースです。本日民民党の熊本党首は都内で行われた会合に出席しました
彼女は後ろの子どもたちに向かって話しかけた。
「二人とも、パパが映るかもよ?」
「でも、どうせちょっとだけでしょう?」
「ちょっとだけでもテレビに映るのはカッコいいでしょう?」
「僕はちょっとだけでも見るよ」
「じゃあ僕も」
三人はテレビの前に集合した。テレビには壇上で演説をする熊本が映った。
「あ、パパ発見!」
「どこ?」
「真ん中のおじさんの右後ろ」
「あ、僕もパパ発見!」
「良かったわねー、パパが見られて。真ん中のおじさんは熊本さんって言うのよ。じゃあ二人ともお風呂の時間よ」
「パパと一緒に入る」
「僕も」
「今日はね、パパ遅いから明日にしなさい」
「……」
「……」
「ほらほら、早くしないと明日は朝からピーマンとセロリの山盛りを食べさせるわよ」
それを聞いた子供たちは無言で風呂に走った。
同時刻、熊本のマンションに熊本が乗った車が到着した。その後ろに縣が乗った警備車両が止まった。縣は熊本をマンション入り口まで送り届けると警備車両に戻った。警備車両の助手席に座った縣は伸びをして運転席の同僚に話しかけた。
「今日は何か疲れたな……」
「このまま帰りたいですね」
「最近引っ越して家は近くなったんだっけ?」
「今日は妻の実家の千葉の柏まで帰らないといけないんです」
「そりゃ遠いな……本庁に戻らないで直帰できれば早いけどな」
「そうもいかんでしょう」
「だよな、家に鉄砲持って帰るわけにはいかんし……」
「じゃあ本庁に戻りますか」
「頼む」
警備車両はUターンしてマンションを後にした。
部屋に戻った熊本は上着を脱いでリビングルームに入った。部屋の隅に置いてある電話の留守番ランプが点滅していた。熊本は点滅するランプをしばらく見てから再生ボタンを押した。
――パパ? 本当は今晩帰る予定だったのだけれど、ちょっと純一が熱を出しちゃったの。病院に連れて行ったら単なる風邪みたいで安心したけれど、それで今病院から電話しています。念のため大事をとってもう一日実家に居るわ。だから帰りは明日の夜になります。それから昨日……
熊本はボタンを押して再生を途中で止め、メッセージの消去ボタンを押そうとしたが思いとどまった。
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