The Diet (国会)

荒木一秀

宴のおわりとはじまり

第一話 新人職員・鰯田順


 二十一世紀初頭の春の穏やかな午後、二百人ほどの集団が整然と列を成して日比谷から永田町に向けてデモ行進をしていた。デモ集団の中からは色とりどりの登り旗が二十本ほど突き出していた。登り旗にはなどと表記され、その集団の傍らには拡声器を持った青年が、足を止めずに『政府の横暴を許さないぞぉー』などとシュプレヒコールを叫んでいた。そしてデモ隊はそのシュプレヒコールを繰り返していた。歩道を行く人々はデモ行進を一瞥してはみるものの、興味なさそうに先を急いだ。

 神尾稔かみおみのるは拡声器を口から外してスイッチを切ると、ジャケットのポケットからペットボトルの水を出して半分ほど飲み干した。

「くだらねぇ……」

神尾はそうつぶやくと小走りでデモ隊の先頭に向かった。


 同じ日の午前中、党本部職員を統括する部長の向井水健介むかいみずけんすけ(五十歳)は会議室に集まった数人の新人職員たちに向かって訓示を行っていた。

「というわけで、君たちは正式に今日から民民党本部職員として勤務してもらうことになった。配属についてはこのあと、担当職員から説明があるのでそれに従って欲しい。では最後に何か質問はあるか?」

鰯田順いわしだじゅんが手を挙げた。

「どうぞ……君は確か、えーっと魚の……」

「鰯田です」

「鰯田君だね。質問は?」

「先ほど向井水部長はこの仕事になどという貝はいらないとおっしゃいましたが何故ですか?」

「組織で働くならば、仕事にを求めても無駄だと言うことだ。例えば配置転換で仕事が変わってやり甲斐が失われる場合も考えられる。そんなことを考えていたら配置転換などはできない。それらを求めるなら研究者とかボランティアの方がよっぽど早い」

「では何を求めて仕事をしたらよろしいのでしょうか?」

「そこまで言うならこちらから聞くが、金のためとか生きるためじゃダメなのか?」

「……」

「言っておくが、俺は君たちに大した期待はしていない。君たちの大部分は二年くらいしないと戦力にならないからだ。はっきり言えばどこの馬の骨かもわからない人間に最初から期待する人間はいない。それともう一つ重要なことを言っておく。君たちがもし、日本の政治を変えたいなどと思っていたらそれは間違いだ。それをやりたければ政治家になってくれ。ただし、勤務中の政治活動を禁じると仕事にならないのでそれは許可する。我々の仕事は民民党所属議員および支持団体・組織のサポートだ。以上だ」

向井水は部屋を足早に出て行った。


 神尾稔(三十歳)は民民党本部職員となって七年目、情報分析室に配属されていた。通常このようなデモ行進は組織対策局が担当しているが、担当者が交通事故の怪我で不在となって総務局に話が回り、そこでも人手不足で空いていた神尾がやる羽目になった。神尾はこのデモ隊の一応の責任者であり、というのは警視庁にデモの申請を行うに当たって責任者の名前が必要だったからだ。神尾はデモ行進を行うために警察に申請書を出す時点でデモは茶番だと思っていた。デモの日時や場所、行進のルートなどを記した申請書を警察に提出するなど本来のデモでは無い。しかし現代の日本においてゲリラ的なデモを行えば警察によって排除されるのは目に見えている。神尾はこうした茶番が大嫌いだった。しかも今日は部長から入局したばかりの新人を押しつけられ、その新人の世話もしなければならない。

 神尾がデモ隊の先頭に追いつくと、新人の鰯田順が不安そうな顔をして登り旗を肩にかついで行進していた。神尾は横に並ぶと鰯田に話しかけた。

「君が今度新しく配属された……何君だっけ? 何か魚の名前だったよね」

「いわしだです」

「あ、そうだ鰯君だ。魚に弱いと書いて鰯君か」

「いわし、じゃなくてです」

鰯田は気色ばんだ。

「じゃあ鰯田君、デモ行進は初めて?」

「はい。部長の指示で今回初めて参加しました」

「部長はデモ行進について何か言ってた?」

「いいえ、特別には何も。神尾に付いて社会勉強をして来いとだけ言われました」

「社会勉強ねぇ……あ、その旗をちゃんと垂直に立てて持ってくれる?」

「はい」

「ちなみにその旗はモモタロウ旗って名前だから」

「はい」

「君歳はいくつ?」

「二十三歳です。神尾さんは?」

「確か三十歳くらいだったと思う」

「確かって……」

「二十五歳を過ぎてから数えるのが面倒になったからな」

 デモ隊が霞ヶ関二丁目の交差点に差し掛かると、三十人ほどの完全武装の機動隊員が盾を持ってデモ行進を待ちかまえていた。機動隊の責任者がデモ行進に向かって拡声器で叫んだ。

「はーい、皆さん。ちょっと止まって旗を降ろしてくださーい」

デモ行進は言われた通りに機動隊の列の前五メートルほどで止まった。先頭にいる神尾と鰯田は機動隊と対峙して止まった。

「鰯田君、君は社会復帰を考えているのかね?」

「は?」

「いや、将来転職とか考えているのかと思ってさ」

「一生ここで働くとは考えていないのですが……」

「あ、そう」

「それが何か?」

「そういうことならこれから俺の指示に従った方がいい」

鰯田は不思議そうな顔をして神尾を見た。神尾は前を向いたまま目を動かして機動隊の方を観察した。

「どういうことですか?」

「俺が合図したら自分のつま先を見ろ。そして俺がいいと言うまで顔を上げるな」

「は、はい」

 機動隊の列の後方には二人の背広姿の男が首からカメラを提げて立っており、彼らは事務的に機動隊の陰に隠れて脚立を立て始めた。再び機動隊の責任者がデモ行進に向かって再び叫んだ。

「ほら、早く旗を降ろして! 降ろさないと先に進めないよ!」

神尾と鰯田が振り返ると、まだ登り旗が数本立ったままになっている。それを見た神尾は、仕方なく隊列から離れると旗を立てている人間の場所に走った。

「申し訳ありませんが、旗を降ろしてください」

「何でだよ?」

弱小労組の旗を掲げている中年男性が神尾を睨んだ。

「規則です。下げていただけないと先に進めません」

「そんな規則無視しちまえよ!」

「勘弁してください。警察と本部に怒られるのは私なんで、それとも私と一緒に謝ってもらえますか?」

男性はは渋々と旗を降ろした。

 最後の旗が降りるのを確認した機動隊の責任者は、拡声器を降ろして腰のトランシーバーを外して口元に運んだ。

「全部降りました」

機動隊の列の後方に待機していた二人の男のイヤホンに責任者の声が入ると、脚立の上に立ってカメラを構えた。機動隊の列の後方で脚立に乗って立ち上がった二人を確認した神尾は、小声で鰯田に話しかけた。

「今だ!」

神尾と鰯田は同時に下を向いた。二人の男はズームを使って列の後方から順番に人々の顔を写真に収めていく。最前列の神尾と鰯田に焦点を合わせるが、下を向いているので髪の毛しか見えない。再び列の後方に焦点を合わせて取り損なった人物の写真を撮り続ける。

鰯田は下を向いたまま神尾に話しかけた。

「神尾さん、まだですか?」

「まだだ」

「あの写真を撮っている人たちは誰ですか?」

「確かなことはわからんが、警察庁の公安または自衛隊の情報保全隊あたりだ」

「こうあん、じょうほうほぜんたいですか?」

「どっちも知らないのか?」

「聞いたことがあるようなないような……」

「簡単に言うと日本国政府を転覆させようなどと考えている連中を調査している公務員だ」

「何で僕たちがその調査対象なのですか?」

「そんなことは知らない。多分昔のデモ行進が反政府的行為だったのでその名残じゃないかと思ったりする」

「え? じゃあ写ったらマズいんですか?」

「いや、別に。でも国に保存される資料に自分の顔写真が載るのは気分が良いか?」

「い、嫌です」

「だろ? 他に転職を考えているのなら極力避けた方が良いってわけだ」

写真を撮っている男たちは再び神尾と鰯田に焦点を合わせるが、相変わらず髪の毛しか見えない。仕方なくそのうちの一人がカメラを降ろしてトランシーバーを口に当てた。

「最前列の二名の顔が確認できません。正面を向かせてください」

その声をイヤホンで聞いた責任者は、神尾と鰯田の前に歩いて行って前に立ちはだかった。

「ちょっと君達、話があるのだが」

「はい、何でしょう?」

神尾は下を向いたまま答えた。

「ちょっと前を向いてもらえんかね?」

「写真に映ると魂が抜かれると死んだ爺さんに言われまして」

責任者は苦々しい顔をした。

「そういうことならこの交差点を通すわけにはいかんな。君ら二人が顔を上げるまで行進は止めたままだ」

責任者は踵を返して機動隊の列に戻り、腕組みをして二人をにらみつけた。

「何だよ、話が違うじゃねーか。だから組織対策局の連中は……」

「ど、どうするんですか?」

「鰯田君、仕方がないが前を向こう」

「写真に映ってしまうのですか?」

「でもそのままじゃ悔しいな」

二人は下を向いたまま何やら話し合い出した。


 デモの隊列の後方では参加者がざわついていた。中でも血の気が多そうな中年男性二人がその場でジャンプしながら前方を確認している

「何だよ。まだ動けないのか?」

「この前はもっと簡単に進めたんだけどな」

「もう我慢できねぇ。俺は突っ込むぜ」

「俺もだ!」

苛ついていた他の参加者も突進する用意を始めた。


 神尾は下を向いたまま右手を挙げた。

「申し訳ありません。魂を取られる準備ができたのでお知らせします」

責任者は神尾に近づいてきた。

「ほう、前を向いてくれるのだね?」

「はい」

「それでは前を向いてもらおうか」

責任者は神尾と鰯田に背を向け、機動隊の列に向かって歩き出しながらトランシーバーを口に当てる。

「二人とも顔を上げるそうです」

二人の男は再びカメラを構えて神尾と鰯田にズームする。ファインダー越しに下を向いている神尾と鰯田が見える。

「鰯田君、準備はいいか?」

「はい」

「せーの……せっ!」

二人は同時に顔を上げた。ファインダー越しの映像には限界まで顔を歪めて変な顔をしてこちらを見ている神尾と鰯田が映り、それをみた男はシャッターを切ろうとした手を止めた。機動隊の責任者は神尾と鰯田を見て二人の方に走り出した。変な顔のままで鰯田は神尾に話しかけた。

「こんなことして大丈夫なんですか?」

「そんなことはわからん。今日初めてやってみた」

「えっ! そんな」

激怒した責任者が再び二人に近づいてきた。


 デモ行進の後方では参加者たちが暴走を始め、波を打つように前方に向かって動き出した。旗を持った参加者はそれを横に構えて前方の参加者を押しながら前に進んでいく。途中まで歩いてきた機動隊の責任者はデモの列の後方の異変に気が付き、踵を返して機動隊の列に戻った。

「あれ? 戻っちゃいましたよ」

「ん?」

神尾は真顔に戻り、横に歩いて列から外れて後方を見た。そして後方の異変を確認すると鰯田の所に戻った。

「鰯田君、今から社会勉強の時間だ。用意はいいか?」

「はい?」

鰯田は変な顔のままで状態が理解できていない。すると、神尾と鰯田は突然後ろから押された。神尾は俊敏な動きで横飛びしながら列から離脱した。残された鰯田は真顔に戻り、そのまま後ろから押されて機動隊の列に近づいていった。

「か、神尾さああん!」

鰯田は叫んで横を見ると、走り去る神尾が見えた。前方に目を戻すと機動隊の列が迫ってくる。鰯田は両手を前に突き出して手のひらを開き、顔をそむけながら叫んだ。

「ち、違いますぅぅ!」

デモ参加者と機動隊が衝突し、神尾はそれを歩道でそれを見ていた。デモ隊の参加者の一人が乱闘している中から弾き出されて道路に倒れた。それを見つけた神尾はその男に歩み寄った。

「あのですね、多分大丈夫だと思いますが、もし公務執行妨害とかで逮捕される人が出たら私に連絡してください。本部で弁護士を手配しますから」

神尾は自分の名刺を男に差し出し、渡し終えると乱闘を一瞥した。丁度、鰯田が屈強な機動隊員に掴まれて豪快に放り投げられる場面だった。鰯田は四つんばいの状態から立ち上がって神尾に助けを求めようとするが、機動隊員に後ろから襟首を掴まれて再び乱闘に引き戻された。

「鰯田君、またあとでね」

神尾は地下鉄の駅入り口に向かって歩き出した。


 神尾と鰯田が勤務している民民党本部は国会議事堂から二百メートルしか離れていない場所に位置している。デモから戻った神尾は本部の門を通ると右手を上げて警備員に挨拶し、自動ドアを通ってロビーに進んだ。エレベーターに乗り込むと四階のボタンを押した。エレベーターが四階に到着して廊下に出ると、職員が忙しく走り回っていた。その職員の一人が神尾を呼び止めた。

「神尾、今日は徹夜になるかもしれんぞ」

「え? 法案は野党の欠席で与党の賛成多数で終わるはずだったんじゃ……」

「それが出席して牛歩戦術をやるんだとよ」

「またですか?」

「ああ。先生達は大好きだからな」

神尾は再び歩き出し、廊下突き当たりの大部屋に入って行った。大部屋には整然と三十ほど机が並べられ、職員が忙しそうに働いている。神尾は机の間を通って部屋の一番奥にある大きな机に向かって進んだ。そこでは部長の向井水健介が電話で話していた。神尾は向井水の前で電話が終わるのを待った。

――はい。その件は先ほど承りました。いいえ、特に問題はありません。ただご存じの通り今晩は採決に時間がかかりそうなので返事は明日の午前中でよろしいですか? はい。ありがとうございます。議員にはこちらの方から連絡しておきます。


 向井水は受話器を置いて神尾を見上げた。

「おお、神尾。デモはどうだった?」

神尾はにこやかに答えた。

「途中で乱闘になりました」

「けが人は?」

「多分出ていないと思います」

「多分ってお前は最後までいなかったのか? それに一緒に行かせた新人の……なんだっけ?」

「鰯田ですか?」

「そう、その鰯田はどうした?」

「は? 乱闘現場に放置してきましたが」

「放置ってお前……新人を乱闘現場に放置してきたのか! それにデモの責任者が途中で戻ってきてどうする!」

「鰯田が部長から社会勉強をしてこいと言われたと言うので、てっきり私は彼に試練を与えなければいけないのかと思いました。それに私は平和主義者を信条としているので暴力は望みません。それを承知で部長は私を責任者にしたと認識しております。こういう荒っぽいことはクソッタレな組織対策局が得意だと思いますが……」

向井水は机の上で頭を抱えた。

「神尾、今朝言い忘れたんだが今日からしばらくお前に鰯田を預けることにした」

「は? おっしゃる意味がよくわからないのですが」

向井水は顔を上げて神尾を見た。

「新人の教育係と言う意味だ」

「しかし何で私が?」

「そろそろお前も部下を持って仕事をしてもいい時期だと思ってな」

「しかし、今の私の仕事は一人でできますし……」

「あのな、今の仕事が一生続く訳じゃないことはわかっているはずだ」

「はい」

「というわけで、お前が何と言おうがやってもらう」

向井水は神尾の目をじっと見た。神尾は諦めてうなずいた。


 神尾がいなくなると、向井水は机に置かれた未決と書かれたトレイに入っている書類に目を通しはじめた。未決の書類にサインをすると既決と書かれたトレイに移動させていった。

「まったく、どいつもこいつも……ん?」

向井水は書類の一枚を取りあげ、椅子から立ち上がって叫んだ。

「誰だ、こんなところに怪文書を置いたヤツは!」

屋代治やしろおさむが部屋の中央あたりで椅子から立ち上がり、向井水の机に走り寄ってきた。

「はい、それは私が二時間前に知り得た情報であります」

「屋代、お前か! 怪文書に未決と既決があると思うか?」

「未決のトレイでしたら読んでいただけると思いまして……」

向井水は再び机で頭を抱えた。

「先日、部長が議員に関して知り得た情報はすべて持ってこいと言われたものですから……やはり机の上の方が良かったですか?」

向井水は顔を上げて大きく溜息をつき、怪文書に目を通したあとに屋代に渡した。

「ヘタクソな文章で言いたいことが良くわからんが、うちの議員の金銭スキャンダルか? どこで拾ったんだ?」

「さっき記者会見場に行ってみましたら床に落ちていました」

「こんなレベルの話は俺が知っている限りでもゴロゴロしている。というか、こんな怪文書なんか集めている暇があったらお前は……」

屋代は真剣に怪文書を読みなおしている。

「もういい、そんなものどうでもいいから早く仕事に戻れ」

屋代が向井水に背を向けて怪文書を読みながら自分の席に歩き出すと、向井水の席の電話が鳴った。

「はい、わかった。すぐ行く」

電話を切って立ち上がるとホワイトボードの向井水の欄に『院内いんない(注:衆参両院内)~17時』と書いて部屋から出て行った。


 神尾は党本部から少し離れた歩道を地下鉄永田町の入り口に向かって歩いていた。交差点を渡り終わって地下鉄の駅に入ろうとしたところで鰯田と鉢合わせした。

「あ、鰯田君。無事だったみたいだね」

「神尾さん、ひどいです」

半泣きで文句を言う鰯田の顔には擦り傷があり、ワイシャツは薄汚れて所々破れていた。

「鰯田君、そのワイシャツじゃ仕事にならないから今から買いに行こう。その顔の擦り傷の他にケガは?」

「い、いいえ。大丈夫です」

「そりゃよかった。他に買いに行く暇がないから院内の店でワイシャツは調達する。それと話があるから歩きながら話そう」

二人は国会に向かって歩き出し、交差点で立ち止まった。

「今朝、部長が俺に言い忘れたらしいが当分の間俺が君の教育係になった」

「はい。私はそう言われて神尾さんのところに行ったのですが……」

「それを早く言え」

「申し訳ありませんでした。それを先に言っていたら僕もこんな目に遭わずに済んだのですね」

「いや、それは変わらん」

「え!」

「俺は人が痛がるのを見て喜ぶのが趣味でね。ほら、信号が青だ」

二人は信号を渡り、衆議院の議員面会所で神尾が書類手続きをして通行証を鰯田に渡し、衛視に通行証を見せて国会の中に入っていった。国会内の一階にある通路には様々な小さい店が並んでおり、二人はその中の一つの洋服店に入った。店の中にはワイシャツやネクタイなどが置いてあった。

「適当に好きなものを選んでくれ」

「はい」

鰯田はサイズ表記を確認しながらワイシャツを選んで神尾に見せた。

「これでいいですか?」

「ああ、どれでも構わんよ。代金は俺が払うから」

神尾は鰯田からワイシャツを受け取り、ついでに一山百円で売っているタオルを手に持ってレジで買った。

「これお願いします。あと領収書も。宛名は『民民党』でお願いします。あ、袋は必要ないです。すぐ使いますので」

神尾はレジで支払いを済ませて商品を受け取った。

「じゃあ次は着替えだ」

二人は近くのトイレまで歩いた。

「ワイシャツを着替えて、顔を洗ってこい。顔を拭く時はこれを使ってくれ」

神尾は鰯田にワイシャツとタオルを渡した。

「ありがとうございます」

鰯田が着替えている間、神尾は外で待っていた。

「まったく部長も面倒なことを……」

そうつぶやいてすぐ横の書店に目をやると長身で美しい女性が本を買って出てくるところだった。

「あ、西森さん。その後、後援会名簿の整理は進んでいますか?」

「神尾さん、この前は仕事のアドバイスをしてくださってありがとうございました。おかげで助かりました。まだ私もこの仕事を始めて一年でしょう。慣れない部分が多くて……」

神尾は西森に下心があるが、それを隠して平静を装って話した。

「どこの事務所でも後援会名簿の整理は大変だと思いますよ。また明日にでも事務所にお邪魔して……」

着替えた鰯田がトイレから出てきた。

「神尾さん、どうです?」

鰯田はきれいになった顔と新品のワイシャツを神尾に見せ、続いて西森に目をやった。

「それではまた」

西森は神尾に会釈して立ち去った。

「だ、誰ですか、背が高くてすごく綺麗な方ですね?」

「君はすばらしいタイミングでトイレから出てくる男だな。頭に来たから俺は君のことをイワシと呼ぶからそのつもりで」

「え、何かまずいことしました?」

「まずいも何も、人の恋路を邪魔するヤツは死んじまえってことだ。彼女の名前は西森涼子にしもりりょうこ。参議院議員、根津五郎ねづごろうのところの私設秘書。去年から働き出したばっかりだ。それ以上の情報は今のところ無い」

「根津五郎?」

「福島県出身。選挙区。当選二回。弁護士。支持母体は特に無かったと思うが、五十歳くらいで甘いマスクがおばちゃん達に大人気で、前回の選挙では二十万票を集めてぶっちぎりで当選した。人権問題が得意分野、党の役員はしていない」

「何でそんなことをスラスラと!」

「ここで働いていればこの程度は嫌でも覚える」

「それにしても西森さんって綺麗ですよね? 代議士の秘書さんってみんな綺麗なんですか?」

それを聞いた神尾の顔色が変わり、顔を近づけて鰯田を睨んだ。

「イワシ、俺がお前の教育係になった以上、お前のヘマは俺のヘマになる。だから俺の言うことはきちんと聞いてもらう」

「どうしたんですか、急に?」

「お前はすべての国会議員を代議士と呼ぶと思っているだろう?」

「は、はい」

「誤りだ。代議士と呼ぶのは衆議院議員のみだ。参議院議員は代議士とは呼ばない」

「え!」

「何で代議士と呼ばないかはあとで自分で調べろ。いいか、二度と参議院議員を代議士と呼ぶな。これは国会周辺で働く人間の常識だ。それに俺たちは衆議院議員でも代議士とは呼ばずに議員と呼ぶことが多い。わかったな」

「はい、わかりました」

「わかればいい。じゃあついでに国会議員一覧を買って帰ろう」

「は?」

「全ての国会議員の情報が記載されている小冊子だ。いずれ必要になる」


 党本部に戻った神尾は再び四階に行くと、向井水の机の未決トレイに国会内で購入した鰯田関係の領収書を入れた。そして既決のトレイを漁って自分が過去に出した領収書を探し出した。

「あった、あった」

神尾はその領収書を持って財務部に向かった。財務部は大部屋から出てすぐ左側に位置している。財務部のカウンター奥の机ではいつものように川端厚子かわばたあつこが電卓を超高速で叩いていた。厚子は神尾より二年遅れて入局した二十八歳だ。前職は銀行員で、その能力を買われて本部の財務部に採用された。その仕事ぶりは機械のように正確であり、どんな時でも目は笑っていないのが特徴だ。そして彼女の胸は細い体に不釣り合いなほど大きくて仕事の邪魔なので、それを避けるために隣の机の上に電卓を置いて叩いている。

「こんにちは」

厚子は神尾の問いかけに、電卓を超高速で叩く手を止めずに事務的に返答した。

「はい、こんにちは。ちょっと待ってください」

神尾はカウンター越しに厚子の胸を見下ろしながら彼女の手が止まるのを待った。

「お待たせしました。その伝票をください」

神尾は言われた通りに彼女に伝票を手渡した。

「川端さん、今晩は長くなりそうって話なのですが、この前みたいに財務部の皆さんも残るのですか?」

厚子は伝票の確認作業を始め、神尾は再び胸を見下ろした。

「いいえ、金銭が絡まなければ基本的にここは定時で終わります。前回揉めた時は無理矢理残されたけど、今回は関係ありません。その代わり神尾さんたちが定時で終わって帰る時も夜中まで作業することがあることから同じことです……はい、ここにサインしてください」

厚子は神尾に書類を渡し、神尾はそれにサインをした。厚子はサインをした書類を確認して神尾に現金を渡した。

「ありがとうございます」

神尾は立ち上がった厚子の胸のシャツのボタンが外れかけているのに気がついてそれを凝視した。

「他には何か?」

厚子はそれに気がついていない。

「いや、相変わらず完璧なまでの事務的対応で素晴らしいなと」

「悪いですか?」

「いいえ、やはり会計係の方はそうじゃないといけないなと思ったので」

「他に何かありますか?」

「いいえ、ありません」

「無いなら仕事を続けさせていただきます」

彼女は再び椅子に座って電卓を超高速で叩き出した。


 財務部から出た神尾は廊下を右に曲がると、同じ階にある情報分析室に入った。部屋には机が三つ、テレビが一台、小さい冷蔵庫一台、ロッカーが三台配置され、それぞれの机の上にはパソコンが置いてある。神尾がドアを開けて部屋の中に入ると、奥の机で根来鉄男ねごろてつおが新聞を読んでいた。

「鉄さん、戻りました」

「おお、ごくろうさん」

神尾は壁のホワイトボードに書いてあった『神尾:外出』の文字を消した。

「鉄さん、部長から聞いていると思いますが」

「ああ、新人の件だろ? ここに配属だと聞いているが」

「はい、この開いている机でいいですかね?」

「いいだろう。システム部に言って、とりあえずそこにあるPCを一台回してもらっておいた。ついでにネットやLANの設定も済ましておいたから」

根来は新聞を手放さずに机の上のPCをアゴで指した。

「どうもありがとうございます。もうすぐ新人君が来ると思います」

ドアをノックする音がして小さい段ボール箱を抱えた鰯田が入ってきた。

「失礼します」

「おお、噂していたところだ。君の机はそこ」

神尾が机を指すと、鰯田はその机の上に段ボール箱を置いた。そして鰯田は根来の方向を向いて自己紹介を始めた。

「このたびこの部署に配属されました鰯田順です。よろしくお願いいたします」

根来は新聞を置いて鰯田に右手を伸ばして握手した。

「室長の根来。根来鉄男だ。って呼ばれている。今日は大変だったみたいだね」

「この部署は鉄さんと俺の二人だけだ。主な仕事内容は依頼された情報を分析すること。それだけだ」

鰯田は神尾を見た。

「どんな情報なのですか?」

「まあ、色々だ。選挙情報であったり、個人情報であったり……ちなみにここにあるPCだけが本部のメインサーバーにアクセスすることができる」

「ということは機密情報も……」

根来は新聞を畳んで机の上に置くと鰯田に説明を始めた。

「中にはその類の情報もあるが、その手のものの多くはデータ化されない。だが、セキュリティは他の部署より厳しいからそのつもりで。たとえばこの部屋からデータを持ち出すことは一切できない。メールの転送も許可されていない。あとはこのセキュリティポリシーを読んでくれ」

根来は机の引き出しから紙を出して鰯田に渡した。

「二人してよくログインパスワードを忘れるんだこれが。その度にシステムに電話すると怒られるわけだ。本当はドアにロックを付ければいいのだが、それだとこの部屋だけ隔離状態になって息が詰まるんでやめてくれと頼んだ。だから誰でもこの部屋に入ってこられるから、席を外すときは必ず机の上を片付けて書類は引き出しに入れる癖をつけてくれ」

「はい、わかりました」

鰯田は段ボール箱の中から文房具や冊子を出して片付け始めた。それを見ながら神尾はロッカーを指した。

「君の私物を入れるロッカーはこれだ。簡単なダイアル錠になっているから好きな数字を三桁で設定してくれ」

「はい」

鰯田は片付ける手を止め、二人に見えないように三桁の数字を設定した。

「設定したら数字を適当に回してロック完了だ」

鰯田は言われた通りにロックをした。

「ちょっとそのダイアルをいじらせてくれ」

神尾は鰯田のロッカーのダイアル錠を回して簡単に解錠した。

「なんだ神尾さん、ロックを解除する共通の数字があるんじゃないですか!」

「そんなものは無い」

「な、何でその数字がわかったのですか?」

「あのな、一八四なんて数字は誰でも最初に想像する」

「え!」

「え、じゃない。鰯田のイワシで一八四だろう」

「は、はい」

「まったく、ド素人丸出しだな。自分の名前に由来する数字とか、誕生日とかパスワードに使ったらダメだ。まあどうせ三桁の数字のロックだから総当たりでそのうち開けられるからとりあえず一八四でもいいけどな」

鰯田は肩を落とした。

「ところで鰯田君、国会の通行証は持っていないよね?」

「持っていません。今日は神尾さんと一緒に国会に入れてもらったものですから」

「じゃあ部長から預かったこれを使ってくれ」

根来は鰯田に顔写真入りの通行証を手渡した。

「それがあれば衆参両院は入れるし、議員会館も入れる。ある程度のレベルの公的機関にも入れるから。その代わり無くすとかなり面倒なことになるから気をつけてな」

「はい、わかりました」

「そこの冷蔵庫は冷やしておきたいものがあったら入れておけばいい。飲み物とか入れる時は自分の名前を容器に書いてくれ」

「はい」

「今晩は国会が揉めるみたいだから職員全員に待機がかかっている。まあ夜まで体力温存だな。そこにある『国会議員一覧』でも読みながら暇でもつぶしてくれ……あ、そんなもんじゃ暇はつぶれないか」

根来は立ち上がってテレビのスイッチを入れた。

――五時のニュースをお伝えします。終盤を迎えた国会は与野党のせめぎ合いが激しくなっています。特に今日海外派遣した自衛隊が戦闘を目的とする発砲を容認する国家防衛基本法を与党が強行採決する予定であり、これに対し野党は牛歩戦術で徹底抗戦する構えで、国会情勢は緊迫しています。また、国会周辺では法案成立に反対する人々が気勢を上げています"

テレビは採決の様子の映像に切り替わった。


 店屋物の食事を早めに終わらせた三人は部屋で待機に入った。根来は新聞を読み、神尾はPCでネットサーフィン、鰯田は国会議員一覧を読んでいた。

「イワシ、そんなに真剣に読んでおもしろいか? その本」

「おもしろくないですけど」

「そんなの必要な時だけ見ればいいんだよ。全部覚えられるわけじゃあるまいし。ちなみにそのPCの壁紙の猫は君の飼い猫か?」

「違います。猫は飼いたいのですが、まだお金が無くて買えません」

「その辺の野良猫じゃダメなのか?」

「ダメです。子供の頃から飼い猫にしたいのです」

「猫っていくらくらいするの?」

「二十万円くらいです」

「だったら野良猫じゃいいじゃないか?」

「イヤです。ちなみにこの壁紙の猫は野良猫ですけど」

「ふーん。その野良猫だって可愛いじゃないか?」

「この猫は特別なんです。『第一回世界野良猫選手権』で優勝した世田谷区のカズキ君ですから」

「は? 世界野良猫選手権の優勝猫が何で世田谷区なんだ? それって世界でも何でも無くて適当にそう言っているだけじゃないのか?」

「そんなこと無いです。説明にそう書いてありましたから」

「君はネットの情報をそのまま信じちゃうの?」

「ダメですか?」

「ダメじゃないけど、少しは疑わないとあとで馬鹿を見るかもね」

 神尾が自分のPCに目を戻すと、屋代が開放してあるドアから部屋に入ってきた。

「鉄さん、神尾君、た、大変だ。本部の前にデモの若者たちが集まってきた」

「若者って五時のニュースで機動隊と揉めていた連中ですか?」

「ああ。機動隊と衝突してここに逃げてきたらしい」

「何だってこんなところに」

根来が読んでいた新聞を目の位置まで下げた。

「寄らば大樹の陰ってことかな」

「頼るならデカイ組織にしろってことですか? 屋代さん、その若者たちはうちの支持組織とは関係ないんでしょ?」

「関係無いと思うが」

「誰か見に行きました?」

「一応、総務部が救急セットを持って行ったみたいだけど」

「じゃあ大丈夫ですね。救急車も来ていないようだし」

「一応部長から伝えておけと言われたんで、じゃあまた」

そう言い残すと屋代は部屋から出て行った。そのやりとりを不安げな表情で見ていた鰯田が神尾に話しかけた。

「ここは大丈夫なんですよね?」

「誰か攻撃でもしてくると思うか?」

「でも、外じゃ……」

「あのね、一応日本は法治国家なんだから暴力で解決なんてあり得ない」

「神尾君、新人君を連れて外の様子を見学でもしてきたらどうだ?」

「あ、それはいいですね。じゃあちょっとイワシ君と出かけてきます」

「ま、まさかまた社会勉強なのですか?」

「違う。社会勉強じゃなくて社会だ。見るだけだ」

「それなら良かったです」

「通行証を忘れるなよ」

「はい」

上着を着た神尾と鰯田は部屋から出て行った。


 党本部玄関には三十人ほどの若者たちがたむろしていた。彼らの中には折れた旗を持って座り込む者や、放心状態で座っている者が多数いる。そして何人かは切り傷や擦り傷の手当を受けている。神尾と鰯田は横目でそれを見ながら通り過ぎた。

「ああ、派手にやられてるな」

「これって機動隊と衝突したのですか?」

「ほら、昼間と違ってよ、夜で誰が誰だかわからんし、誰も見てないし、機動隊も昼間のうっぷんでも晴らしたのかもな。良かったなイワシ、昼の部で」

「は、はい」

神尾と鰯田は若者たちの傍らを通って国会に向かった。目の前の交差点は機動隊によって封鎖されている。

「綺麗な月夜で素敵だ」

「このまま行くのですか?」

「ああ、ちょっと周りを見てみろ」

鰯田は周囲を見渡した。

「人はおろか車も見えないですね」

「ここだけではなく、多分国会周囲は機動隊によって完全に封鎖されている」

「え!」

「楽しい話だろう?」

「そんなことがあり得るのですか?」

「多分最後にこんな状態になったのは俺たちが生まれる前の安保闘争の頃だろう。そう言った意味では貴重な体験だな」

「で、どうするのですか?」

「どうもしない。このまま機動隊を抜けて国会の周辺をうろついて戻る」

「でも、昼間みたいなことに……」

「大丈夫、そのために通行証を持ってきたわけだ」

二人は機動隊の列の前で立ち止まった。

「失礼ですかどちらまで?」

「院内です」

「通行証はお持ちですか?」

「はい」

神尾は背広の胸ポケットから通行証を出して機動隊員に見せ、鰯田もそれを習って通行証を見せた。

「結構です。お通りください」

機動隊の列が割れて、その間を神尾と鰯田は抜けていった。鰯田は通り抜けたあとに後ろを振り返った。そこで鰯田は昼間に放り投げられた機動隊員を発見した。鰯田と目が合った機動隊員は何やらつぶやいてニヤリとした。

「き、き、貴様ぁ!」

鰯田は叫びながら走り出してその機動隊員にドロップキックをお見舞いしたが、機動隊員にあっさり躱されて地面に落ちた。

「イワシ、やめとけ!」

鰯田は機動隊員に地面に押さえつけられ、無様に半泣きしていた。

「ひ、ひぃ、ごめんなさい」

神尾は二人に駆け寄って機動隊員に話しかけた。

「申し訳ありません。今回は私に免じて彼を引き取らせてください」

機動隊員は神尾を一瞥し、無言で鰯田を解放した。

「ありがとうございます。イワシ、行くぞ」

機動隊から二十メートルほど離れた場所で神尾は鰯田に話しかけた。

「お前は唐突な行動をする男だな。ジュラルミンの盾にどうやって勝つつもりだったんだ? しかも圧倒的に弱いし」

鰯田は半泣きしながら言い訳をした。

「小デブって言われたんです。昼間も同じ機動隊員に言われました」

「は?」

「あの機動隊員が、『この小デブめ』って言ったんです」

「小デブがそんなに気になるのか?」

「小学校の頃から小デブって言われると訳がわからなくなって気がつくと大暴れしてたりするんです」

「何だそれは?」

「す、すみません」

「まあいい。もう二度とあの機動隊員には会わないだろう。しかしお前は変わった男だ」

二人は地下鉄永田町駅の交差点に到着した。

「おお、まだ夜中でも無いのに永田町の駅は閉鎖されてるな」

「ほ、本当ですね」

「まあこんなもんだろうな」

二人は信号を渡り、通行証を見せて院内に入った。


 党本部の情報分析室で根来が相変わらず新聞を読んでいると、開いているドアから向井水が入ってきた。

「根来、あの二人はどう?」

根来は新聞を置き、向井水は神尾の席に座って溜息をついた。

「向井水、煮詰まった不味いコーヒーでも飲むか?」

「ああ、もらう」

根来はコーヒー メーカーの容器からコーヒーを入れて向井水に差し出した。

「まあ、今日見た限りだとあの二人は結構いいコンビだと思うが」

「神尾もそろそろ意見が合わない他人と仕事をすることを覚えてもらわんとな」

「確かに。特にここにいる連中は、目上の人の言うことをまともに聞かないから上司は苦労しっぱなしだ。その苦労を一回は味わう必要がある」

「その通りだ。それにしてもこのコーヒーはまずいな」

「ああ、不味さで言ったらイギリスのコーヒーとアメリカンコーヒーを足して二で割ったような味だ。こんなに不味いと体に悪い。もうこれも古いから経費で新しいコーヒー メーカーを買ってくれよ」

「考えておく」

「で、国会はどうなの?」

「テレビで見ての通りで、あと二三時間はかかる」

「でも終電前には終わりそうだな」

「ああ、多分終わる」

「そう言えばこの前、弟が赤坂に店を出したんだって?」

「もう知ってやがるのか」

「俺は情報分析室の室長だ。あらゆる情報が入ってくるに決まってる。で、その店流行っているのか?」

「案外順調らしい。まあちょっとしたバーなんだが」

「今度俺も行かせてもらうよ」

「無理に行く必要は無いが、行くなら俺の同期だと言えば安くしてくれるはずだ」

「わかった。そうさせてもらう」

向井水はコーヒーカップを机の上に置いた。

「じゃあ、そろそろ戻る。邪魔したな」

「コーヒー メーカー頼んだぜ」

「わかった」

向井水は部屋から出ていった。


 神尾と鰯田は院内から出て党本部に向かって歩いていた。

「結局何も無かったですね」

「まあな。院内で暴動なんかあるわけないし」

「そう言えばこういった時、議員の秘書さんたちはどうしているんですか?」

「まあ議員会館で待機しているだろうな」

「全員ですか」

「全員じゃないと思う。古参の秘書が残るとか、多分多くても二人くらいだろう」

「やはりボーッとテレビを見ているんですかね?」

「わからん。ただ、空調が切れているはずだから党本部よりも不快な状態だろうな」

「え! 空調が切れるんですか?」

「院内もそうだ。俺も以前真夏の院内で真夜中まで待機していてひどい目に遭った。それに議員会館の部屋は窓が一つしか無いから空気の入れ換えがうまくいかない。新しい議員会館が数年のうちに建設されるから、そうすれば快適になるかもな」

党本部前には相変わらず若者たちがたむろしていた。

「彼らも骨折り損ってわけだ」

「痛そうですね」

「まあ彼らも好きでやっているわけだからな、そりゃしょうがない」

二人は本部に入っていった。


 神尾と鰯田が情報分析室に入っていくと、根来がコーヒーを飲んでいた。

「ただいま戻りました」

「おう。どうせ何にも起こっていなかっただろう?」

神尾と鰯田は自分の椅子に座った。

「はい。それと鉄さん、その不味いコーヒーそろそろ何とかしましょうよ」

「さっき向井水に頼んでおいた」

「新しいコーヒー メーカーが来るんですか?」

「多分な。でもそんなに急に来るとも思えんが」

「そろそろ十一時のニュースですね」

「ああ、そうだな」

根来はリモコンを操作してテレビを点けた。

――十一時のニュースをお伝えします。国会では先ほど九時から採決が始まっています。しかし、当初予想されたほどの混乱にはならず、野党の牛歩戦術も徹底したものでは無く、比較的順調に投票は進んでいる模様です。では次のニュースです。

「イワシ、このニュース見てどう思う?」

「え、あれ? そう言えば党本部の前にはボコボコにされた若者達がいたし、国会周辺は機動隊で封鎖されていましたよね?」

神尾は立ち上がり、リモコンでテレビのチャンネルを順次変えていく。どのチャンネルも国会のニュースは流していない。

「な、面白いだろう」

「こんなことって……」

「さっき見てきたことがニュースにならないのは変だと言いたいのだろう?」

「は、はい」

「鉄さん、多分うちの広報部は報道に対してこのことを知らせているんでしょう?」

「ああ、当然だろう」

「じゃあ何で報道されないのですか?」

「一応説明しておく。映像や活字に携わるすべての報道関係者は今、ここで起こっていることを知っている」

「それなら……」

「まあ聞け。報道、特に電波を使用しているテレビ局などは許認可事業だ。そうなると誤った報道や事実でない報道をすると許認可を取り消される場合もある。わかるな?」

「はい」

「当然だが報道するニュースは彼ら自身で判断して取捨選択している。報道する価値があると思えば報道するし、そうでなければ報道しない。そして報道しないことに対する罰則は無い。これも当然だ。そして彼らは今晩、ここで起こっていることは報道する価値が無いと判断した。それだけだ」

「全部の放送局がそう判断したのですか?」

「ああ、良くある偶然だ。俺もこんな偶然は何回も見た」

神尾はニヤっと笑った。

「では国民の知る権利は?」

根来がその答えを引き取った。

「鰯田君、報道機関は国民の知る権利を代弁する機関では無いのだよ。何が起こっているか知りたい国民がいればここに来れば良い。でも来たところで何も変わらないがな。それに知ってどうする。やはり知ったところで何も変わらない。わかるね?」

「はい」

「これは電波を使っている報道機関に限ったことじゃない。新聞だってそうだ。恐らく明日の新聞には写真はおろか記事も載らない。載ったところで二行くらいで終わりだ。これを間違っていると思うかどうかは君次第だ」

鰯田は眉間に皺を寄せて考え込んだ。神尾はその鰯田の肩を叩いた。

「イワシ、俺たちは正義の味方じゃない。悪に立ち向かう必要などどこにもない。間違ったことを正す必要もない。どうしても正義の味方になりたいなら、さっき党本部前にいた若者達と合流して思う存分国家権力と対決すればいい」

「それは勘弁して欲しいです」

「だろ? だから俺たちはここにいて普通に仕事していればそれでいいんだよ」

「納得しました」

「わかればいい。この業界もそうだが、あまり疑問を持たない方がいい。そう言うものだと理解すればそれでいい」

屋代がドアから顔を出した。

「もうすぐ待機が解除されます」

「おう。ありがとさん。じゃあ君たち、帰る用意でもするか?」

「はい、そうしますか。イワシ、今日はこれで終わりだ」

「はい。私も帰っていいのですか?」

「当たり前だ。ここに残って何をする気だ。一応この部屋にはルールがいくつかあるからそのうち二つを教えてやる。一つは仕事が無ければとっとと帰る。もう一つは上司が残っていても自分の仕事が無ければやっぱり帰る。わかったな」

「はい」

「じゃあ帰ろう」

三人は机の上を片付け出した。


 大部屋では向井水が電話をしていた。

「はい。わかりました」

向井水はいったん受話器を置き、館内放送のボタンを押して受話器を持った。

「向井水だ。待機は解除。各自十分注意して帰るように」

大部屋の職員は一斉に帰り支度を始めた。

「みんなごくろうさん。ここもすぐに電気を消すから早く帰ってくれ」


 根来、神尾、鰯田が部屋から出てきた。

「イワシ、この部屋から帰るのが最後になったらこうやって鍵をかけ、鍵を一階の警備室に預けること」

「はい」

「そして朝来て部屋が開いてなかったら、警備室から鍵をもらって開けてくれ」

「はい」

神尾は部屋に鍵をかけた。三人で廊下を歩いていると後ろから向井水がやってきて鰯田に声をかけた。

「新人君、今日は長い一日だったろう」

「はい。部長」

「多分君が期待していたのとは違う職場だろうが、それはここで働く全員がそうだったから諦めてくれ」

「はい」

「とりあえずそこの二人の言うこと聞いておけば大丈夫だから。なあお二人さん?」

根来と神尾は顔を見合わせて苦笑いした。向井水は鍵の束を指で回しながら階段を下りていった。

「じゃあ、皆さんさようならっと」

「部長、お疲れ様でした」

三人はエレベーターに他の職員たちと一緒に乗って一階に下りていった。党本部前の玄関から三人が出てくると、若者たちの姿は消えていた。

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