第2話 魔、深淵より囁く
⑴
雨の日と月曜の朝はいつだって憂鬱だ、そう言う歌詞の歌があった。
俺に言わせれば、朝でなくとも月曜日はほぼ一日中、憂鬱だ。特に昨日の酒が残っているときは。
さわやかにほほ笑むタレントを見ても、明るいパッケージの商品を見ても、浮き立つ要素などまるでない。地の底で働くものならだれしも思うことだ。
心を殺してコンテナの中のペットボトルを袋に移していると、ひんやりとした固いものが指先に触れた。俺は嫌な予感を覚えつつ、手が触れた物体を拾いあげた。
またか。いつも月曜だな。
俺が探り当てたものは、酒瓶だった。洋酒らしく、メーカーも種類も良くわからない。
俺が勤務している場所……つまり病院では、そもそも内部の廃棄物に酒瓶があること自体、おかしいのだが、不思議なことにこういう事が、ちょくちょくあるのだ。
俺はため息をつくと、酒瓶をビニール袋に放り込んだ。酒瓶は一度、ペットボトルに当たってから転がり落ち、床の上で嫌な音を立てた。
俺は気を取り直し、再びペットボトルの山に手を突っ込んだ。しばらくすると、テンポよく動いていた俺の手が、またしても止まった。
俺は指先がとらえた物体を、ゆっくりと持ち上げた。ずしりと重く存在感のあるその物体は、ウイスキーの瓶だった。
「いけませんよー
可愛らしい声に振り向くと、小児科の看護師、
「僕じゃないですよ。……なぜか決まって月曜日に出るんです、こういうの」
俺はウイスキーのボトルをあおる仕草をしながら言った。
「本当にねえ、どこから出てくるんだか。まあ、何となく想像がつかないでもないけど」
杏珠は眉を顰めながら、笑った。仕事に励んでいる姿も魅力的だが、こういう表情もたまらなくいい。
「僕はたしなむ程度だからわかりませんけど、我慢ができないんでしょうね」
「そう言えばこの間、外科病棟の……」
杏珠が話題を広げかけた時、動かしていたプレス機が大きな破裂音を立てた。
「わっ、何だ?」
俺は慌てて駆け寄ると、機械の運転を止めた。
「えっ、何……?爆発?」
杏珠も、突然の出来事に目を丸くしていた。何かやばいゴミでも混ざっていたのか。
俺は機械の蓋を開けると、ゴミの入っているコンテナをあらためた。途中までプレスされたゴミの中に、危険物めいたものは見当たらなかった。
「いったい、何が爆発したんだ」
原因らしい物を探しているうちに、俺の目がある物体を捉えた。半分ほど潰れた袋から、赤や黄色の風船が覗いていた。引っ張り出すと、どうやらバルーン・アートと呼ばれる風船をねじったり結んだりして作る玩具のようだった。
「これが爆発したんでしょうね。……潰してから持って来てほしいなあ」
犬のように見える風船を掲げて見せると、杏珠はほっとしたように頬を緩めた。
「よかった、危険物じゃなくて。でも、よく調べてみないとびっくりさせられますね」
「まったくです。あれっ?……なんだこれ」
俺は風船の間から、異なる質感のゴミが顔を覗かせていることに気づいた。
「……ぬいぐるみか?」
引っ張り出したその物体は、猫を縦に引き伸ばしたような、ぬいぐるみだった。
「あ、それ……」
ふいに杏珠が反応した。どうやら、俺が見つけたぬいぐるみが気になったらしい。
「これがどうかしましたか」
「私の知っている入院患者さんの物かも……でも」
「でも、なんです?」
「その人なら、それを捨てたりするはずはないと思って。」
「それはつまり、日頃から大事にしていたということ?」
「ええ。十歳の女の子で、毎日一緒に寝ているみたいです。だから捨てるなんて……」
俺は猫もどきといった風体の人形をあらためて眺めた。そういえば、黒ずんで生地もくたびれている。おそらく肌身離さず持ち歩いてきたのだろう。
「ちょっとそれ、お借りしていいですか?もしそうなら聞いてみたいんです」
「ええ、お願いします」
俺は杏珠にぬいぐるみを手渡した。風船の爆発はこれを捨てるな、という警告だったのかもしれない。それにしても酒瓶に風船、ぬいぐるみと週の初めから忙しいことだ。
まったく、月曜日ほど憂鬱な日はない。特に、昨日の酒がコンテナに残っている日は。
⑵
——さて、そろそろ作業日報を書くか。
プレスするゴミが綺麗に片付き、広くなった部屋を眺めながら俺は思った。
日報を書くために処理し終えたゴミの数を数えていると、引き戸が空いて二つの人影が入ってきた。一人は三十代くらいの女性で、もう一人は幼い少女だった。どちらも病院の関係者には見えず、外来か入院患者の関係者のように思われた。
「あのう……ぬいぐるみを見つけていただいたのは、このお部屋の方でしょうか」
少女の母親らしい女性が、おずおずと言った。
「あ、はい。私です」
「
女性は頭を下げながら言った。
「ほら、
女性は傍らの少女に礼を言うよう、促した。
「ニャイトを見つけてくれて、ありがとうございました」
少女は口ごもりながら礼を述べ、ぺこりと頭を下げた。よく見るとカーディガンの下にスウェットのような物を着ている。入院患者なのだろう。
「ニャイトっていうのは、ぬいぐるみの名前?」
「うん。小さい頃から私のお守りだったの。ママが、守ってくれる人の事をナイトっていうんだって」
「なるほど、猫だからニャイトか。危ないところだったね、もう少しでニャイトが潰されるところだった」
「私どもの不注意が元で、お仕事を妨げてしまって申し訳ありません」
「いえ、そんなことはないんですが……あの風船も、お宅で出されたものですか?」
「それが……」
女性は口ごもった。次の言葉を待ちながらあちこち視線を向けていると、ふと少女が身につけているマスコットが目に入った。
「その小さなぬいぐるみは、犬かな?……猫だけじゃなく、犬も好きなんだ」
俺が尋ねると、少女はこくりと頷いた。
「家で飼ってるんですよ。この子も早く退院して、会いたいって」
「寂しくないようにってパパが買ってくれたの」
少女はマスコットを俺の方にかざした。
「あの、実はですね」
母親が、思い出したように口を開いた。
「風船の方は別の方が出されたゴミなんです。そこになぜかうちのぬいぐるみが混ざってしまって」
「じゃあ、もともと捨てるつもりではなかった?」
「はい。娘がぬいぐるみをホールに置きっぱなしにして、その場を離れたことがあったんです。それをどなたかが勘違いで持っていったらしくて……」
「そんなこともあるんですね。しかしゴミに出すなんてねえ」
「ですから、何かの勘違いだと思いたいんですが……もしあの人の仕業だったら」
「あの人?」
母親の言葉の中に奇妙に引っかかる言い回しがあった。
「……あ、いえ、すみません。思い付きみたいなことです。……ではこれで」
母親は深くお辞儀をすると、処理室を出て行った。俺は事件が片付いたことへの安堵を噛みしめつつ、今一つ収まりの悪さも感じていた。
⑶
「よかったですね、ニャイトが未冬ちゃんの手元に戻って」
「こっちも助かりました。ああいう人とか動物の形をしたものを処理するのは、どうにも胸が痛みますから」
俺はゴミ袋を手にした杏珠に頭を下げた。この部屋に来た物体は俺の一存でどうとでもできるが、元の持ち主に返すマニュアルはない。
「でも不思議ですね。ゴミ箱に捨てられていたならともかく、他人が置き忘れた人形をゴミ袋に入れるなんて」
「あの風船はバルーンアートの催しで、皆さんが作った作品なんですよ」
そう前置きすると杏珠は、『
病院内にある多目的ホール『憩いの間』では、コンサートや朗読など、入院患者向けの催しが毎月行われている。あの風船はその時に出たゴミなのだそうだ。
「そこに混ざっていたということは、職員が間違えて入れてしまった?」
「まさか。職員はそんなこと、絶対にしません。それにぬいぐるみがなくなった時、未冬ちゃんはぬいぐるみを他の荷物と一緒に、『憩いの間』のテーブルに置いておいたんです。そんな明らかに私物とわかるものを持っていくわけがないでしょう」
「ううん、事故じゃないとすると……あ、そういえばお母さんが妙なことを言ってたな」
「妙な事?」
「あの人の仕業とかなんとか……」
「あの人というと……つまり誰かがぬいぐるみを故意に捨てたという事?」
「考えたくないですけどね、あんな小さな子に恨みを持つ人なんていないでしょうし」
「もちろんです。未冬ちゃんは優しい子だし、恨まれるなんて……あっ」
「どうかしました?」
「……いえ、ちょっと気になることがあって」
俺はあえて続きを促さずにいた。話の中身が気になることはもちろんだが、黙っていることで杏珠が「ここだけの話」を自発的に語ることを期待したのだった。
「ここだけの話ですけど」
杏珠が声のトーンを低めた。やはり話したいエピソードがあるようだ。
「以前、やっぱり『憩いの間』でコンサートが催された時、未冬ちゃんとある入院患者さんの間で、トラブルめいたことがあったんです」
「トラブル?あんな小さな子と?」
「もとはといえば、向こうの方に原因があるんです。催しの休憩時間に、未冬ちゃんが隣にいた私に突然、「お酒の匂いがする」って言いだしたんです。私が「どこからしてくるの?」って聞いたら「あの人。『ニャミニャミ』にお酒を入れてた」って言うんです」
「ニャミニャミ?」
「猫をモチーフにした、ファンシーグッズのキャラクターです。未冬ちゃんが指さした方向には女性の入院患者さんがいて、その人が『ニャミニャミ』のポーチを持っていたんです。たまたまその人の担当だった看護師も近くにいて、ポーチをあらためてもらったらミニサイズのお酒のボトルが出てきたんです」
「つまり入院中に部屋で飲んでいた、と?」
「ええ。しかもその患者さんは以前にアルコール中毒で入院されたことのある方で、お酒持ち込みの前科もあるんです」
「それを未冬ちゃんが指摘してしまった」
「ぬいぐるみがなくなったバルーンアートの催しはちょうどその事件があった次の月で、未冬ちゃんだけでなく、その女性……
「……ということは、ひと月前の仕返しに、ぬいぐるみを盗んでゴミの袋に入れた?」
「あくまでそういう想像もできる、という話です。私はそんな風には考えませんけど。それに、その真名美さんも、ルールは破ったけれど悪い人ではないし……」
「なるほど、たしかにぬいぐるみさえ戻ってきたら、理由はどうでもいいですよね」
杏珠は話し過ぎたと思ったのか、少しばつが悪そうに眉を寄せ「ええ」と頷いた。
⑷
病院内にある売店は入院患者や外来だけでなく、職員も頻繁に利用する。
俺も時々、飲料やポケットティッシュなどを購入するが、施設管理の制服は白衣に比べるとかなり違和感があるので、どうにも落ち着かない。
その日はいつも利用するコンビニが工事で利用できなかったため、飲料など数品を買うために、仕事前に赴いたのだった。
ヨーグルトドリンクの小瓶を手にレジ待ちの列に並んでいると、突然、前の方から女性の声が聞こえてきた。
「ちょっと、横から入らないで下さい。みんな並んでるんですから。子供が見て、やってもいいと思ったらどうするんですか」
声のしたほうを見ると、三十代くらいの女性がまなじりを吊り上げ、自分のすぐ後ろに立っている五十代くらいの男性に苦言を呈していた。
「……急いでたんだよ。大声あげなくたっていいでしょう。……大体あんた、病院に酒、持ち込んだって話じゃないですか。そんな人に言われたくないですね」
酒だって?僕は女性をあらためて見た。美人ではあるが、かなり気性が強そうに見えた。
「真名美さん、言ってることはもっともだけど、そんなに厳しくしなくても」
近くにいた入院患者らしい女性が、とりなした。あの人が杏珠が言っていた「真名美さん」か。気は強そうだが、物を盗むようには見えない。
「そうですか?でも、こういうことは見かけた時にきっぱり言わないと」
あくまで筋を通そうとする真名美に、とりなした女性も肩をすくめた。なんとなく気まずい空気があたりに流れた、その時だった。どこからか破裂音のような音が聞こえてきた。
「きゃあっ」
悲鳴を上げてしゃがみこんだのは、真名美だった。
「大丈夫ですか?……今の音、なにかしら」
ぶるぶる震えている真名美を、後ろに並んでいた女性がなだめた。
「ちょっと、だめじゃないの。卵なんかレンジに入れちゃ」
レジカウンターの奥で、声が聞こえた。見ると店長風の女性職員が、学生のような若い職員を叱責していた。どうやら今の爆発音は、電子レンジに入れたものの破裂音らしい。
「ご、ごめんなさい……よく知らなくて」
若い職員は、おろおろしながら詫びた。失敗にも色々種類があるのだなと俺は思った。
「怖かったんですか?あの音が」
「……はい。子供の頃にちょっと怖い思いをして以来、私、ああいう音が苦手で」
真名美はさきほどまでの剣幕が嘘のように、震えながら答えた。
真名美はいったん、レジ待ちの列から離れた。俺は売店の隅で放心している真名美をちらちら見ながら、自分の順番を待った。
あの人、本当に子供の物を盗んだりしたのだろうか。
⑸
「相沢さんですか?……すみません、今、部屋にいないんですよね。——はい、内線で直接、呼び出してもらえますか?XXX番です」
出入り業者からの問い合わせにどうにか応対すると、俺は電話を切った。
——ここに来るといつも、電話に当たるな。
上司のデスクを見つめながら俺は思った。ここ設備課の事務室は、俺の仕事場である処理室の中枢でもある。大抵の場合、一人か二人くらいしかいない。大体、備品の修理のために病棟に出向いていたり、敷地の清掃で外に出ていたりするのだ。
俺は足りなくなっていたビニール袋とガムテープを補充すると、ドアの方に足を向けた。
ドアノブに手をかけようとした瞬間、向こう側からドアが押し開けられ、俺は一歩退いた。開け放たれたドアの所に立っていたのは、スーツを着た中年の男性だった。
「すみません、処理室を担当されている方に会うには、ここでよろしいのでしょうか?」
「あ、はい。ここで大丈夫です」
予想外の問いかけに、俺は背筋を伸ばしながら言った。
「私、館川と申します。娘のぬいぐるみを見つけてくださった方は……」
用件を察した俺は、男性が言い終わらないうちに「あ、私です」と答えた。
「そうでしたか。娘と妻が大変、お世話になりました」
男性は深々と頭を下げた。
「いえ、とんでもないです。でもちょっと危ないところでした。ぬいぐるみが無事に娘さんの元に戻って、私もほっとしています」
俺はなるべく如才なく聞こえるよう意識しつつ言った。男性は三十代後半くらいで、見た目は学生のようだが、堂々とした振る舞いはそれなりの地位を感じさせた。
「なんであんな古ぼけたぬいぐるみに固執するのかとお思いでしょうが、あの子にとってあれは心の支えなんです」
「わかります。子供の頃からずっと持っていて、手放せないものってありますよね」
「それだけではなくて、あのぬいぐるみは前妻……亡くなったあの子の母親が与えたものなんです」
「お母さんからもらった物?」
俺は当惑した。では、あいさつに訪れた女性は生みの親ではなかったのか。
「あの子が肌身離さず持っていた気持ちはわかるのですが、もう五年生になるので、どこにでも持ち歩くのはどうか……と思っていたところなんです」
「難しいですね。愛着があるなら無理に引き離すのも良くないでしょうし」
「そうなんです。元の母親が猫好きで家でも長く猫を飼っていたのですが、家内が亡くなった直後に猫も死んでしまって、あの子にとってぬいぐるみは母親と猫の代わりなのです」
「そういえば、今は犬を飼っておられるようですね」
「ええ。今の妻が犬好きで、あの子が寂しくないようにと、性格のおとなしい品種を買ってきたのです」
その時俺は、父親の手にしているバッグにも、未冬が持っていたのと同じ犬のマスコットが付いていることに気づいた。猫の代わりに今は犬が癒しなのだろう。
「それだけ悲しいことがあったのなら、まずはご家族みんなで未冬ちゃんが寂しくない雰囲気を作っていってはどうでしょうか」
「そうですね。私も妻の事があって以来、酒の席もできるだけ断って早く帰るようになりました」
「いいじゃないですか。お父さんと晩ご飯を食べるなんて、一番いいリハビリですよ」
「はい。夕食の時のあの子の笑顔を見て、遅まきながら家族の大切さに気づきました。私は仕事人間で、まともな時間に帰宅したためしがありませんでした。前の妻が寂しさから酒に溺れていたことすら知らなかったんですから」
俺は「そうですか」と短く応じた。あの少女の過去に、そんな事があったとは。
「前の妻が急性アルコール中毒で亡くなった日も、私は遅くまで仕事でした。深夜に帰宅して、倒れている妻を発見したのですが、もうすべてが手遅れでした」
悔悟の言葉を口にすると、父親は項垂れた。俺は何と返せばよいかわからず、口を噤んだ。
「まあ、ぬいぐるみくらい大目に見るべきなんでしょうね。……すみません、突然、訪ねて来てつまらない話を長々と」
「いえ、私も事情がわかってすっきりしました。未冬ちゃん、元気になるといいですね」
俺の言葉に父親は「ありがとうございます」と改めて礼を述べた。あの破裂音がなかったら、少女に笑顔が戻るのは難しかったかもしれない。俺は風船に礼を言いたくなった。
⑹
ビニール袋とガムテープを携え仕事部屋に戻った途端、俺の嗅覚が異変を感じ取った。
雑多な廃棄物の臭気に混じって鼻に飛び込んできたのは、酒の臭いだった。
俺はまっすぐ飲料のコンテナに向かうと、中をまさぐった。が、奇妙なことに四つあるコンテナのどれにも酒らしいものは見当たらなかった。
おかしいな。
周りを見回した直後、俺の視線が床の一点で止まった。プレス機の前に、小さな水溜りができていた。俺は水溜りに近寄ると、鼻先を近づけた。……これだ。
俺はプレス機の蓋を開けると、中からコンテナを引っ張り出した。押しつぶされ、変形したゴミ袋を二つ三つ取りだすと、色のついた液体に塗れた小さな袋が現れた。酒の臭いは、どうやらその袋から出ているようだった。
——やれやれ、また、「あいつ」か。
俺は謎の液体をしたたらせている袋を流しに移すと、迷わず栄養課に向かった。
※
「あららー、こんなふうになってしまったんですね」
顔からはみ出しそうな眼鏡を指で持ち上げながら、
「こんなふうじゃないよ、まったく。君の出すゴミのおかげで、何度この機械を休ませることになったか」
俺がぼやくと、真宵は大きな瞳をくりくりと不思議そうに動かした。
「そうですねえ、こう何度もとなると、いよいよ考えなければなりませんね」
「簡単な事だろう。生ゴミを出さなきゃいいんだよ」
苦言を呈しても、真宵は少しも動じずにうーんと唸るばかりだった。百四十センチほどしかない女の子を見下ろしながら、俺は「ひょっとして舐められてるのだろうか?」と疑念を抱いた。
「私としたことが、うかつでした。この子がこんなにも漬物を嫌がるなんて」
「は?」
俺は耳を疑った。この子って一体、なんだ。
「見て下さい、この汁の量。こんなに残すなんて、好き嫌いにもほどがあります」
「いや、これは機械で圧縮してるだけだから、汁ものを入れたら外に出るんだよ」
「いいえ、こう言う乱暴な食べ方をするという事は、しつけに問題があったんです」
「しつけって……とにかく、こういう謎のゴミを出すのは止めてくれ。後片付けだけで大変なんだから」
「わかりました。好き嫌いをなくすために、もう少しこの子の好みを研究してみます」
「たのむよ。こんなゴミばかり出されたら、機械がおかしくなってしまう」
「私もおかしくなりそうです」
「?」
「……このところ、謎が少なくて。倒れそうです」
真宵のおかしな弱音に、俺は唖然とした。謎を食べてるわけでもあるまいに。
「そりゃあ謎なんて、ゴミと違って毎日、出るものと違うからね」
「出て欲しいです。少しは私の窮状も考慮してもらえないでしょうか」
「そうはいっても……いや、待てよ」
俺の脳裏にふと、ぬいぐるみの一件が甦った。
「なんです?今、何か言いかけましたよね?」
「いや、別に……」
「私をごまかそうとしても、無駄です。さあ、言いかけたことを言って下さい」
真宵の追及にうんざりした俺は、ついぬいぐるみの一件を口走っていた。
「……というわけで、事件はとっくに終わってるんだ。けど、なんとなくおさまりが悪くてね」
「全然、終わってないじゃないですか」
「え?」
「犯人のことまでフォローして、初めて事件は終わるんです。まだ解決の半分程度ですよ」
「犯人をフォロー?」
俺がいぶかしむのをよそに、真宵は「さあ、遅くならないうちに次の手を打って下さい」と、不親切極まりない檄を飛ばした。
⑺
その日、俺は休日だった。
俺は私服で職場を訪ねると、まっすぐ『憩いの間』へと向かった。ミニコンサートは一時からだから、そろそろ終わっているはずだ。
ホールの前まで来ると、演奏を聞き終えた患者たちが、ぞろぞろと出てくるところだった。俺は近くの自動販売機の前で、ホール周辺の様子をうかがっていた。すると、ホールの出口から見覚えのある人影が二つ、現れた。館川母子だった。
二人は出口の近くで何か言葉を交わしていたが、やがて母親の鮎美が身をかがめて未冬に何か囁くと、その場から離れて一人で俺のいる方に歩いてきた。自動販売機の前まで来た鮎美は、俺に気づくとはっとした表情になった。
「あっ、この間はどうも……」
「こんにちは。コンサート、鑑賞されたんですか?」
「ええ。未冬がいつも楽しみにしているもので」
鮎美はそう言うと、患者が服薬時に利用する水のボタンを押した。
「この前、ご主人がわざわざ設備課の部屋まで、お礼を言いに来られました」
「えっ……そんなことがあったんですか」
鮎美は虚をつかれたように目を見開いた後、困惑気に目線をさまよわせた。
「未冬ちゃんもご家族の皆さんも、色々とお辛いことがあったみたいですね。お話をうかがって、未冬ちゃんがどれだけあのぬいぐるみを大切にしていたかを知りました」
「はい、そうなんです。見つけていただいた時は、本当にほっとしました」
鮎美はそう言って改めて頭を下げた。顔を上げた瞬間、その目がふと動いた。視線の先に、一人の人物と会話している未冬の姿があった。人物は、真名美だった。
「あれは……」
俺は思わず呟いた。傍らの鮎美は未冬の方に駆け寄るでもなく、その場で立ち尽くしていた。見ていると真名美は、腰のポーチからキャンディを取りだし、未冬の手に握らせた。口の形から「ありがとう」「こちらこそありがとう」と言っているように思われた。
「仲が良さそうですね」
俺が思わず見たままの印象を述べると、鮎美は「そうですね」と返した。
そのまま見続けていると、未冬が「もう、お酒はやめてね」と真名美に語りかけているのが聞こえてきた。真名美はうんうんと頷くと、未冬に向かって小指をつき出した。指切りを始めた二人を見て、俺はふと浮かんだ思いを口にした。
「真名美さんにとって未冬ちゃんは、お酒を止めるきっかけを作ってくれた「恩人」なのかもしれませんね」
「えっ」
「恩人の物を盗むというのは、ちょっと考えにくいと思いませんか」
「…………」
「ぬいぐるみが見つかってほっとしている未冬ちゃんに、「犯人はお母さん」だというのはショックだろうと思って他の人に濡れ衣を被せたのでしょうが、そろそろ本当の事を打ち明けたほうがいいと思いますよ」
「どうしてそれを……」
「私が真名美さんの犯行じゃないと確信した理由は、先日、売店で彼女のある姿を目撃したからです」
「ある姿……というと?」
「彼女が破裂音に怯えているところです。売店の若い職員が電子レンジで卵か何かを爆発させた時、真名美さんが耳を塞いでうずくまったんです。どうやら何かトラウマがあって破裂音が苦手なようでした」
「それが、重要なことなんですか」
「これは推測ですが、それほど爆発を恐れる人間が、風船がぎっちり詰まった袋の中に強引にぬいぐるみを押し込むでしょうか?」
「あっ」
「袋の中にぬいぐるみを見えなくなるまで押し込もうとすれば、相当な力が要るはずです。咄嗟の行動といっても、しゃがみこむほど苦手なことをすんなりできるものではありません」
「言われてみればそうかもしれませんね」
「私は最初、真名美さんが以前、未冬ちゃんに酒を持ちこんだことを暴露された、その仕返しの意味でぬいぐるみを隠したのかなと思ったのですが……それは違うと確信しました」
「なぜですか」
「あの二人を見てください。わだかまりがあるように見えますか」
「…………」
「売店で真名美さんは、レジ待ちの列に割りこもうとした利用者を注意していました。正義感が強くなければ取らない行動です。そんな人なのに、病院のルールを破って酒を持ちこんでしまった……おそらく真名美さんは、そのことを恥じていたと思います。未冬ちゃんに指摘されたことで、むしろ助かったと思ったのではないでしょうか」
俺の説明を黙って聞いていた鮎美は長いため息をつくと、がくりと項垂れた。
「真名美さんには、申し訳ないことをしたと思っています」
「未冬ちゃんのぬいぐるみを隠したのは、彼女のためを思ってのことですね?」
「はい。決して前のお母さんのことを忘れさせようとしたわけではないんです。どんなに親しくなったところで、元のお母さんへの思いが薄らぐ事などない、それはわかっていました。私は彼女に、ぬいぐるみに固執せず生きてゆける強さを持ってほしかっただけなんです」
「大人になってゆく過程で、常にぬいぐるみがなくてはいけない状況は良くないと?」
「そうです。あの子は成績も優秀で、主人は本人が希望するなら私立中学を受験させてもいいと考えています。そうなった時、ぬいぐるみへのこだわりがマイナスに働かないとも限らない……そう思ってしまったんです」
なるほど、と俺は思った。当初、俺は鮎美の犯行動機を、なかなか自分になつかない娘へのちょっとした意地悪くらいに考えていた。だが真宵は「絶対に違う」と言って譲らなかった。「新しいお母さんだって、前のお母さんに負けないくらいにその子の事を思っているはずだ」と。
「私は……いまだにわからないんです。未冬が私との新しい生活を本当に受け入れてくれているのかどうか……思わずぬいぐるみを隠してしまったのも、心のどこかであの子の本心を確かめてみたいという気持ちがあったからかもしれません」
「それは、心配ないと思いますよ」
「えっ」
「だって、あなたがあげた犬のマスコットをいつも身につけているじゃないですか」
「でもそれは、たんに私に気を遣っているだけかも……」
「仮にそうだとしても、自分が好きになれないものをそもそも、持ち歩けませんよ。未冬ちゃんにとってニャイトはお母さん、そして飼っていた猫の象徴……つまり好きとか嫌いとか言う対象ではなく、初めからいる「家族」なんです。それに対し、犬のマスコットは彼女が自分の意思で好きになった物……それぞれ心の中の居場所が違うんです」
「家族……」
「確かにぬいぐるみだって、いつか捨てざるを得なくなる時が来るかもしれない。だからといって突然、目の前から消えるのは家族がいなくなってしまうようなものです。無理に今のありようを変えるより、彼女が自分の意思でニャイトと距離が取れるようになるのを待つ方が、よほど信頼を得られるのではないでしょうか」
「……そうですね。私は未冬から一緒に生活している「家族」をいきなり奪ってしまったんですね。ニャイトを失った時のあの子の落胆ぶりを見て、初めて気づきました」
「それも風船が破裂してくれたおかげで、最悪の事態は免れました。あとはあなたがいつ、未冬ちゃんに本当の事を話すかだけです」
「未冬は許してくれるでしょうか。母親がぬいぐるみを隠した「犯人」だと知って、いらない傷を負うことにはならないでしょうか」
「それなら心配いりませんよ。……見てください、一か月前にわだかまりが生じた相手と「大人の約束」ができる子ですよ?人が過ちを犯すことぐらい、理解できるはずです。……子供は柔軟です。そして未冬ちゃんはあなたが思っている以上に大人です。信じてあげてください、ご自分の「娘」を」
俺は自身の希望を含みつつ、言った。鮎美は目尻に光るものを見せ、「はい」と力強く頷いた。俺は水の入ったコップを手に娘の元に戻る母親を、頼もしく思いながら見つめた。
〈了〉
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