地の底へようこそ

五速 梁

第1話 影、宵闇より来る

                      ⑴


 アルミ製のドアに近づいた瞬間、パウダースノー混じりの寒風がひと吹き、顔を撫でた。

 俺は顔をしかめ、思わず上着の襟を掻き合わせた。 

 ——こんな地の底にも、冬の悪魔だけはしっかり訪ねてくるのだ。

 俺はドアノブを握る手に力を込めると、立て付けの悪いドアをしっかりと閉めた。

 外は寒風吹きすさぶ外界だ。建物の構造の関係で、地下室にもかかわらず直接、外に通じる出入り口があるのだ。……というか作業スペースと出口のドア、近すぎだろう。

 俺はドアに背を向けると、ブルーのコンテナに向き合った。コンテナには大小のボトルが乱雑に押し込まれ、見ただけで内容物を推し量るのは困難だ。俺は分厚い手袋を装着すると、作業の続きに取り掛かった。 

 俺は指先に全神経を集中すると、ボトルを慎重に選り分けていった。作業が半ばまで進んだころ、ふいに指先が予期せぬ重量を感じた。

 これは?

 俺はつまみあげたアルミ製のボトルをしげしげと眺めた。

 この重さには覚えがある。これは、開けてはいけないボトルに違いない。俺は指先でボトルのキャップを指先でつまんだまま、入り口近くのシンクへと移動した。

 こいつは後で慎重に処理しなければ。

 おそらくは猛毒の物質が入っているであろうボトルをシンクの台に置いた途端、横合いから声が飛んできた。

蔵狩くらがりさん、これってそのまま捨てていいんでしたっけ?」

 俺の身体に緊張がみなぎった。俺はにじみ出ようとする殺気を消すと、声のした方を振り返った。声の主は、若い女だった。小顔で背が高く、すらりと脚が長い。小児科の看護師、内堀杏珠うちぼりあんじゅだった。彼女が手にしているのは、小ぶりのダンボール箱だった。中には様々な形状の発泡スチロールが乱雑に詰め込まれており、厄介ごとの始まりを予感させた。

「蔵狩さん、これ……燃える奴と一緒にしていいですか?」

 俺の背筋を、電流が駆け抜けた。いい女の形のいい唇からこぼれた「燃える奴」という言葉。ストイックなたたずまいとのミスマッチが最高にぞくぞくさせる。

「そ、そうですね。燃やしても……いいんじゃないかな?」

 俺が短く返すと、彼女はダンボール箱を携えた手を俺に近づけてきた。どうやら手渡そうという算段らしい。彼女から俺へと箱が手渡される刹那、彼女の美しい爪から俺に向かって火花が散るのが見えた気がした。

「これって……本当はいけないんですよね」

 彼女の口から吐息にも似た切ない声が漏れ出た。

「いけないかもしれない……ですが、きっとよく燃えますよ」

 囁くように言うと、俺はメッセージを含んだ熱い目線を彼女に向けて放った。

 ……が、次の瞬間、彼女の切れ長の目は俺のまなざしをシャッターのようにはじき返した。

 これだ、この冷たさがまた何ともたまらない……と俺は思った。あるいは俺たちのやり取りを誰かが監視していて、それに気づいた彼女が警戒したのかもしれない。

「蔵狩さんは、お休みにならないんですか?」

 箱を受け取った俺に、彼女は違う角度からアプローチを開始した。来た、と俺は思った。これは次なる質問への伏線に違いない。

 俺の勤務体制では祝日は出勤となっている。休もうと思えば休めないことはないが、特に予定がない限り出ることにしていた。シフトの関係上か、俺と彼女とはこうして祝日に顔を合わせることが多い。おそらくこの後、彼女の口から「休みの日は何をしてらっしゃるんですか?」という問いが放たれるに違いない。俺は最高の回答をすべく全思考をフル回転させた。

「一応、祝日は勤務日なんで……まあ、休日といっても特に予定もありませんしね」

 俺が横顔にほんの少し寂しさをにじませて言うと、彼女はあら、と言って小首を傾げた。

 来る。次はきっと「彼女とかいらっしゃらないんですか?」だ。

「……その方がいいかもしれませんね、健康的で」

 予想外の反応に、俺は戸惑った。……ええと、そうじゃないんだがな。

「ちょっと流し台、使わせてもらっていいですか?」

「ええ、もちろん」

 彼女の可愛らしい要求に、俺は快く応じた。

「あ……蔵狩さん、このコーヒーのボトル、シンクの外に出してもいいですか?」

 彼女の言葉に、俺ははっとした。

「気を付けてください、そいつの中には猛毒が詰まっているんです」

「猛毒?」

「ニコチンです」

 俺は押し殺した声音で告げた。

「空き缶に、煙草の吸殻を詰めて捨てに来る人がいるんですよ」

 俺は苦々しい表情をこしらえて言った。まったく、俺のような優秀なスイーパーがいてよかった。これが他の人間だったら、予想もできない惨事になっていたかもしれない。

「へえー、それはひどいですね」

 杏珠はコーヒーのボトルを脇によけると、手を洗った。

「あ、そうそう」

「ん?」

 ふと杏珠が思いついたように口を開いた。今度こそ、誘いの言葉を口にするのだろうか。俺は緩みかけた表情筋に、再び力を込めた。

「蔵狩さん以前、このお部屋を病院で一番不気味な空間だっておっしゃってましたよね?」

「え?……あ、はあ」

 意外な方向からの問いかけに、俺は柄にもなく間の抜けた態度を取った。

「旧棟って私みたいに慣れてると、怖いとか感じないけど、新しい子は怖いみたいで、この間も、不思議な話を聞いたんですよ」

 不思議か。俺は身体に緊張感が戻りつつあるのを覚えた。こうでなくてはいけない。

「この旧棟はもう四十年以上経っていますからね。若い子たちにしてみれば怪奇現象が起きそうに見えるんでしょう。……で、不思議な話とは?」

 そうだったのか。彼女は謎の解明を依頼しに来たのだ。やっと腑に落ちたと俺は思った。

「私には気のせいとしか思えないんですけど……。キッズルームのボランティアの子が、一階のリサイクル紙置き場で不気味な声を聞いたって言うんです」

「不気味な音……ですか。それは穏やかじゃないですね」

 これは事件と呼んでいいかもしれない……俺はアドレナリンがたぎるのを意識した。

「あの部屋、狭くて昼間でも暗いから、余計に怖いんじゃないかって思うんです」

 杏珠の瞳に怯えの色がうかがえた。俺は背筋がぞくっとするのを覚えた。うむ、怯える女はいい。

「で、不気味な声とは?話し声ですか?」

 俺が問いを重ねると、杏珠はかぶりを振った。

「ギイッという人だか獣だかわからない声が聞こえて、その後「出口はどこ?」と呟く声が聞こえたんだそうです」

 杏珠は押し殺した声音で言った。特に「出口はどこ?」のくだりは迫力があり、俺は思わず身を引きかけた。

「なるほど「出口はどこ?」ですか。これはなかなか本格的な怪談だ」

 俺は自分の声に震えが混じっていることに気づいた。謎解きのプロとしての血が騒いでいるのに違いない。

「リサイクル部屋のすぐ隣が職員通用出口ですから「出口はどこ」っていうのはおかしいですよね。それとも、部屋から出られないっていう事かしら」

「だとしても部屋のドアは見えているはずですから「出口はどこ」じゃなくて「開けてください」とかの方が、しっくりきますよね」

 俺が率直な見解を述べると、杏珠は困惑したように押し黙った。

「ううん、やっぱりわからないですね」

「僕もちょっと考えてみます」

 俺は精一杯声を低めて言うと、そのまま押し黙った。ひょっとしたらこの後、彼女の口から「ところで今日はお仕事の後、どうするんですか」と聞かれないともかぎらないからだ。だが、予想に反し杏珠はてきぱきとゴミを廃棄すると、足早に部署に戻っていった。

 まあいい。そんな素っ気なさも彼女の魅力のうちだ。

 俺はコンテナのボトルをビニール袋に移し終えると、部屋の隅に積まれた段ボールをひとつの箱にまとめ始めた。さほどの量でもなかったが、一刻も早くリサイクル室の捜査をしたかったのだ。いかなる謎であろうと、最初の手掛かりは現場から得るのがセオリーだ。

 俺はダンボールの詰まった箱を台車に乗せるべく持ち上げた。と、その瞬間、弾みがつきすぎて、飛び出したダンボールの角が俺の顎を打った。

「いててっ」

 俺は思わず呻いた。同時に箱の底が抜け、ダンボールの束が足の上になだれ落ちた。


                      ⑵


 俺の名は蔵狩顰くらがりひそみ

 自由と孤独を愛する心の旅人だ。

 あふれ出る能力を隠すため、普段はとある総合病院の廃棄物処理に従事している。

 本来は世界を股にかけ、謎と冒険の日々を送るべきなのだが、近年は病院のあちこちからもたらされる怪事件を解き明かすことに忙殺されている。

 はっきり確かめたわけではないが、ゴミを置きに仕事場に現れる看護師たちの「お願いしますね」という言葉の裏には、間違いなく俺の卓越した推理力への憧憬が含まれている。

 だが、職業倫理に縛られている彼女たちの控えめなメッセージと熱いまなざしを、俺は受け止めることができない。身の毛もよだつ恐ろしい謎を速やかに解き明かすには、氷のような冷静さと鋼鉄の自制心が不可欠なのだ。

 先ほど杏珠が口にした怪異も、俺への新たな依頼と考えていいだろう。

 彼女の熱い期待に応えねばならない。俺は背筋をただすと、ダンボールの詰まった箱を抱え上げた。


                      ⑶


 リサイクル室は旧棟の一階にあった。

 旧棟は採光が悪く、地上ですら常に薄暗い。俺はダンボールの詰まった箱を抱え、陰気な階段を上った。リサイクル室の扉は一応、施錠する決まりになっている。が、シリンダー式の鍵は触れただけで勝手に解錠されてしまうほど老朽化していた。

 俺は立て付けの悪いドアを開け、室内に足を踏み入れた。細長い部屋は奥からぎっちりとダンボールが積まれ、人一人身動きをするのがやっとだった。

 俺は片側の壁にあつらえられた細長い棚に、運び込んだダンボールを置いた。すでに棚の上は隙間もないほどびっしりとリサイクル紙が積まれていた。真偽のほどは定かではないが、二、三畳ほどの縦長の空間は、聞いた話だとその昔、新生児室として使われていたという。

 片側の壁にだけ作りつけの長い棚があることと、そこから上の壁面が総ガラス張りになっていることから、そういう噂が生まれたのだろう。確かに奇妙な作りの部屋ではあった。

 俺はガラスの向こうを透かし見た。向こう側は職員通用口だ。見たところ沓脱と下足箱だけの、がらんとした空間だ。

 なるほど、こりゃ「出口」だ。出口以外の何物でもない。

 それにしても、と俺は思った。例の不気味な声はおそらくここで耳にしたのだろう。一体、どういう状況で聞いたのだろうか。俺は棚の上に置かれた小ぶりの箱をいくつか手に取り、振ってみた。これといって音もせず、紙以外の物があるようには思えなかった。

 紙のこすれる音とか?……しかしそんな音を人の声と間違うだろうか?

 俺は、手近な箱から、押し込まれていた緩衝材を引っ張り出した。堅めの再生紙を、でこぼこに波打たせたものだった。俺は緩衝材を折り曲げ、面同士をこすり合わせた。

 ぐしゅ、ざりっ、びびっ!

 どうにも景気の悪い音しかしない。さらに力を込めて擦ると、紙は呆気なく破れた。

 ——違うな。

  ギイッと鳴く怪物も、出口を求める亡霊もどうやらいないようだ。俺は来た時と同様、立て付けの悪いドアを押し開くと「また来る。……そう遠くないうちにな」と呟いて、外に出た。後ろ手でドアを閉めると、言い知れぬ無力感が俺の全身を包んだ。

ふっ。また一から、出直しか。

 誰にともなく呟くと、俺は地下へと続く陰気な階段へと足を向けた。 


                      ⑷


 ふと壁の時計を見ると、五時を回っていた。

 そういえば、すっかり薄暗くなったな。

 本当は地下に明るいも暗いもないのだが、一応、そう呟いてみた。

 あと少しで終業の時間だ。メインの作業である可燃ごみを出し終えた俺は、作業の後半で溜まったリサイクルのダンボールを箱に詰め始めた。厄介な厚手の箱をバラしていると、見知った顔が小さな台車を押しながら部屋に現れた。

「こんにちは」

 旧棟の図書室に勤務する、奥塚史恵おくづかふみえだった。童顔だが年齢不詳で、かなり古くからいるらしく情報通でもある。持ち込まれる謎に頭を悩ませている俺に時折、的確なアドバイスをくれる心強い存在だ。

 史恵は台車の前で身をかがめると、本がみっしりと詰まった箱を持ち上げた。

「これ、どこに置いたらいいですか」

「あ、そのままコンテナの横に置いていいですよ。後で仕分けしますから」

「全部、リサイクルじゃないんですね」

「ハードカバーの表紙は業者に嫌がられるんですよ」

 俺は史恵が床に置いた箱の中を盗み見た。大判の、絵本らしき書籍が多い。ページ数は少ないが、表紙が分厚いのが絵本の特徴だ。古い専門書の表紙ならためらわずにむしりとるところだが、絵本となるとなんとなく胸が痛む。勝手なものだ。

「なるほど、表紙は嫌がられるんですか。……色々と細かいですね」

「ええ。それにしても勿体ないですね。絵本なら欲しがる施設もあるように思いますが」

「うーん、結構、くたびれて破損してる物も多いですから。……ここだけの話ですけど、気にいってる本はネットで調べて、絶版だったら取っておいてるんです」

 史恵は笑みを浮かべた。本が好きなんだな、と俺は思った。

「ところで奥塚さん、さきほど小児科の内堀さんから面白い話を聞いたんですが」

「面白い話?」

 史恵の細められた目がぱっと見開かれた。耳まで立ちそうなほどの豹変ぶりが、好奇心の強さをうかがわせた。

「ええ。面白いって言うと語弊があるかもしれませんが、いわゆる怪談のたぐいです」

 そう前置くと、俺は杏珠から聞いた話をかいつまんで聞かせた。

「ふうん。……たしかに面白いですねえ。でも、何かの聞き違いっていう可能性もありますよね。まるっきり説明がつかないってこともないんじゃないかしら」

 史恵はそう感想を述べると、小首を傾げて見せた。

「あそこが元、新生児室だという噂が立ったことで、ゴミ置き場とのギャップから尾ひれがついたんでしょう」

「……まあ、病院なんて日常的に人が亡くなってますし、怪談が生まれるのは必然なんでしょうね」

「たしかにそうですが、今回の話はあまり出来が良くないですね。「出口はどこ?」なんて、そもそもあの部屋に人を閉じ込めること自体、無理ですよ」

 俺はいかれたシリンダー錠を思い浮かべながら言った。

「そうですね。たとえ火事があっても、あの部屋からなら数秒あれば出られますもんね」

 俺たちは話の接ぎ穂を失い、黙り込んだ。

「ただ」

 一呼吸おいた後、史恵がぽつりと漏らした。

「何かの理由で遅くまで院内にいた外部の方が、間違って通用口から外に出ようとしたっていう事はあるかもしれませんね。出入り口の鍵が開かなくてパニックになって、思わず「出口はどこ」って、叫んだとか」

「でもそれなら、リサイクル室の窓から姿が見えるんじゃないですか」

「ちょうど声を上げた時、たまたま死角にいたのかもしれません。あるいはすごく小柄で、黒っぽい服装をしていたとか」

 なるほど、と俺は唸った。一応、筋は通っている。種明かしとしてはちと物足りないが、謎の真相などえてしてそんなものかもしれない。

「じゃあ「ギイッ」という謎の声は?」

「何か生き物の鳴き声か……例えば、ペットの声を着信音にしている人がいて、それが聞こえたとか」

「着信音、ですか。それは思いつかなかった。まあ、壁越しに聞こえたとなると、かなりの音量ということになりますが」

「そうですね。今、思いついたことですから、あまり真に受けないで下さい」

 史恵は苦笑すると、一礼して部屋から去っていった。俺は部屋の隅に山と積まれた段ボールを見た。

 そろそろ、いい時間だな。

 俺はダンボールを詰める箱を探した。今度は底が抜けないよう、頑丈な物を選ばねば。


                   ⑸


 ただでさえ暗い旧棟の一階は、日が落ちる時刻になり一層、寂しさを増していた。

 俺はもはやぶら下がっているだけのシリンダー錠に軽く触れ、リサイクル室に足を踏み入れた。蛍光灯をつけると、隣の職員用玄関が闇に没した。なるほど、夜になれば角度によっては人影が目視できない可能性もありそうだ。

 ——どうやら、奥塚さんの仮説が当たっていそうだな。

 俺は運び込んだダンボールを空いている隙間に押し込むと、ほっと息を吐いた。今回の謎は、俺が出るまでもなかったという事か。

 安心することで気持ちに余裕が出たのか、俺はふと、乱雑に詰まれているダンボールの山を整理したい衝動に駆られた。面積が小さい物を抜き出し、上にバランスよく重ねてゆくだけなのだが、結構、根気のいる作業だった。

 下の方からダンボールを引っ張り出そうと身をかがめた瞬間、俺の耳はくぐもった声を捉えた。


 ——でぐちは?でぐちは?


 俺はぎょっとして、弾かれたように身を引いた。イメージしていた声よりも弱弱しく、人の声かどうかも疑わしかったが、たしかに「出口は?」と聞こえたのだ。

 俺はガラス窓に飛びつくと、向こう側の様子をうかがった。沓脱のあたりから下足箱までまんべんなく視線を配ったが、人影らしき物は見えなかった。

 ——マジか。奥塚さんの推理と違ってないか?

 俺は呻いた。うなじがぞくぞくし、尿意が込み上げた。

 出よう。何だかわからないがとりあえず、この部屋を出よう。

 俺はおかしなものを見ないよう、視線を動かさずに部屋から出ようとした。ドアノブに手をかけた瞬間、突然、向こう側から勢いよくドアが引かれた。

「わあっ」

「きゃっ」

 思わず後ずさった俺の目の前に、一人の女性が立っていた。

「ごっ、ごめんなさいっ」

 ラフな服装をしたその女性は、売店の職員だった。

「あのう……中に入ってもいいでしょうか?」

 小さく折りたたんだダンボールの束を小脇に抱えたまま、女性職員は言った。

「あ、はい。もう終わりましたから」

 俺がそう告げると、女性は体を斜めにした。俺は頭を下げ、女性と入れ替わる形で部屋を出た。階段の手前で呼吸を整えていると、背後でドアの開く音が聞こえた。肩越しに振り返ると、先ほどの女性が紙箱を手に立っていた。

 俺はおや、と首を傾げた。紙類を捨てに来たはずの女性が、部屋を出るときには別の紙箱を手にしていたからだった。

 訝っていると、女性職員は通用口の方に姿を消した。俺はますます首を捻った。箱を持ったまま、外に出るのだろうか。思考がこんがらかりそうなので、俺は一旦、考えるのをやめて仕事場に戻ることにした。

 ——まあ、いいか。彼女のおかげで、怖さも紛れたし。


                    ⑹


「あのう、靴はここでいいですか」

 声をかけられ、俺はプレス機の操作を中断して振り返った。

 入り口の所に、見覚えのある女性が立っていた。数日前、リサイクル室の入り口で出くわした、売店の女性だった。コート姿なのは、帰るところだからなのだろう。

「そこの不燃ゴミ用のダンボールに入れてください」

俺が事務的に言うと、女性は携えた靴をダンボール箱めがけて無造作に放った。

「お世話になりました」

女性は唐突にそう口にすると、俺に向かって一礼した。

「えっと……」

 俺は戸惑っていると。女性は「今日で辞めるんです」と付け加えた。

「あ、そうだったんですか。どうも、こちらこそお世話になりました」

 俺も戸惑いつつ、礼を返した。女性は再度、小さく会釈すると、ドアの向こうに消えた。

 なるほど、それで靴がいらなくなったわけか。

 俺はダンボールに投げ込まれた靴に目をやった。勿体ないが、仕事場以外で履くつもりもないのだろう。そんな事を思いながら、プレス機の作業に戻りかけた時だった。

「失礼しまーす」

 先ほどの女性と入れ替わるようにして、別の女性が姿を現した。入ってきたのは、やはり売店で働いている女性職員だった。こういう表現は失礼かもしれないが、先ほどやめていった女性があまりなじみがないのに対し、こちらの女性は頻繁に姿を見る古株だった。

 てきぱきとよどみない動作でゴミ袋を置く女性職員に、俺はふと思い立って声をかけた。

「あの……さっき、別の売店さんが来たんですけど、なんか今日で辞めるみたいで挨拶されました」

「ああ、あの子ね。半年もいなかったから、あんまり印象ないんじゃないですか」

 女性職員は、突き放すような口調で言った。

「そうなんです。だから挨拶されても、ぴんとこなくて……」

 女性職員はうんうんと頷いた後、ふっとため息をついた。

「あの子、ちょっとルーズなところがあって、いろんな人から注意されてたの。それが窮屈になって、辞めたみたい」

「ルーズというと……」

「持ち込み禁止の私物を持ってきたり……まあ、色々です」

 持ち込み禁止、か。何なのか聞いてみたかったが、ぐっとこらえた。女性を深追いするのは俺のスタイルに反する。

「合わなかったんでしょうかね、ここが」

「うーん。変わった子だったから、ここが合わなかったわけじゃないと思います」

 女性職員は苦笑を浮かべると「よろしくお願いします」と言い置いて姿を消した。

 俺は再び作業に戻った。なんだか妙なもやもやを注入された気分だった。プレス機のスイッチを入れると、ぐいーんという駆動音が響き、ゴミが圧縮されるめりめりという音が聞こえ始めた。

 よしよし、ちゃんと潰れるんだよ。

 そう願いを込めつつ、プッシャーと呼ばれる板が元に戻るのを待っていると、突然、じゃぼっという音が聞こえた。反射的に目を向けると、プレス機の隙間から青っぽい液体が溢れだすのが見えた。

「うわっ、何だっ」

 俺は慌てて機械を止めた。液体は機械が止まっても溢れ続け、プレス機の周囲には、ペットボトル一本分くらいの量の水溜りができた。

 同時に有機物とも化学物質とも判別できない奇妙な臭いが周囲に漂った。

「こりゃいったい、なんだ?どこから来たゴミから出たんだ?」

 俺はプレス機の蓋を開けると、途中まで潰されたゴミを引っ張り出した。どうやら液体の出どころは、コンテナの下の方にあるらしかった。俺は青い液体でずぶぬれになったゴミ袋たちを丹念に取り出していった。やがて黒っぽい物体の詰まった小さな袋が姿を表した。持ち上げると、底の方から青い液体がぽたぽたと滴った。

 ——これか。

 袋は小さい割にはずしりと重く、指でつつくとそのままめりこみそうだった。見た目だけでは中身が何なのか判別できず、俺は袋をプレス機から離れたシンクの中に移した。

「うわ、どうしたんですか、これ?」

 背後から声をかけられ、俺は振り向いた。白い作業着に身を包み、やはり白いキャップをかぶった女性職員が立っていた。すぐ隣の、栄養科のチーフだ。

「それは僕も知りたいです。いったいなんでしょうね、これ」

「気持ち悪いですね……この色。危ない液体じゃないといいですけど」

 チーフは水溜りをこわごわと覗き込み、唸った。無理もない。俺もこんな液体を見るのは初めてだ。

「まったくです。でも本当になんでしょうね。血液じゃないみたいだし、ヨード液とは臭いが違うし……」

 俺は戸惑いながら言った。チーフは持ってきたゴミ袋を部屋の隅に置くと、目に怯えの色を浮かべつつ、立ち去った。

「仕方ない、一応、上の方に報告しておくか」

 俺は作業手袋を外すと、念のために手を洗った。廊下に出るドアに手をかけようとした瞬間、いきなり向こう側からドアが開けられ、小柄な人物が姿を現した。

「どれですか?」

 いきなり意味不明の問いを投げつけられ、俺は面食らった。目の前に現れたのは、やはり栄養科の若い女子職員だった。身長は百四十センチ台だろうか。ほとんど子供のような外見の女性だった。

「ど、どれって?」

 俺は返答に窮した。女性は異様に大きい眼鏡の奥から、丸い瞳を挑むように向けてきた。

「汁です、汁」

「汁?」

 意味不明の言葉を重ねると、女性はすっと俺の横をすり抜け、プレス機に近づいた。

「あー、これですね、なるほど。これは結構な量ですね」

 女性はプレス機の周囲にできた水溜りを興味深げに眺めると、感心したように言った。

「あの……この液体に心当たりが?」

 おずおずと尋ねると、女性はくるりと俺の方を向き、力強く頷いて見せた。

「やってしまいましたね。お見事です」

「は?」

 俺は口をあんぐり開けたまま、その場に固まった。何が何だかさっぱりわからない。

「この青い汁の出どころは、あなたの部署なんですか?」

 業を煮やした俺は、単刀直入に切り出した。女性は一瞬、虚をつかれたような表情を見せた後、大きくかぶりを振った。

「違います。私の部署ではありません。私が出しました」

「あなたが?どういうことです?」

「つまり、私物です」

「私物?いったい、どんなものを出したんです?」

「おナスです」

「ナス?」

「おナスの、漬物です!」

 女性はひときわ大きな声を上げた。俺は唖然とした。じゃあ、この青い液体は全部、ナスの漬物から出た汁だったのか!どうりで説明しがたい臭いがしたわけだ。

「なんでまた、ナスの漬物を?」

「親戚から大量に貰ったのです。私の摂取限界を超えていたため、やむなく処分しました」

 女性は表情を一切動かすことなく、淡々と言いきった。中学生のような女の子に諭すような口を利かれるのは何とも奇妙な気分だった。

「とにかく、とんだとばっちりですよ。見てください、この床」

 舐められてたまるかと俺は語気を強めた。すると女性は急に打ちしおれた様子を見せた。

「それについては、申し訳なく思っています。私もまさか、これほどの汁が出るとは思っていなかったもので」

「……まあ、やってしまった物はしょうがないです。汁は僕が始末しますから、これからは気を付けてください」

 しおらしくなった相手を前に、俺は矛先を収めざるを得なくなっていた。

「すみません。……大切な機械を」

 女性はプレス機の方を向くと、なぜか表面を撫でさすった。謝罪もやはりどこかピントがずれているようだった。

「まあ、大丈夫でしょう。これくらいで壊れるようなデリケートな機械じゃないし」

 俺は取って付けたような慰めを口にすると、モップを手にした。女性はくるりと向きを変えると、出入り口のほうへとぼとぼと歩き出した。

「ふう。どうにか説明が付いた。あとは『出口の謎』だけだな」

 モップを水溜りに浸しながらそう呟いた時だった。いきなり、モップの柄が掴まれた。

「出口の謎って、なんです?」

 驚いて声の方に顔を向けると、帰りかけていた女性が、目を見開いて俺を見ていた。

「いや、別に……なんでもないです。こっちの話で」

「なんでもあります。謎なんて単語は何もない日常からは出て来ません。いったい、何が謎なんです?」

 女性は興奮した口調で尋ねてきた。俺は豹変ぶりに圧倒されつつ、言葉を探した。なんでこの女性はここまで謎にこだわる?このナス少女はいったい、何者なんだ?

「なんでそんな事が気になるんです?」

「決まってるじゃないですか。この世に謎ほど面白いものがありますか?」

 女性の口調はそれまでとはうって変わって、自信に満ちた物になっていた。

「いや、その、謎ったって、たいしたものじゃないですよ」

 俺が言うと女性は突然唇を震わせ、涙目になった。

「私の前で謎なんて単語を口にして、そのまま知らんぷりですか。どうしてそんなひどいことができるんですか」

 女性は泣かんばかりの勢いで俺に詰め寄った。なんだ、こいつは。少しおかしいぞ。

「ちょ、ちょっと待ってください。説明すればいいんですね?」

 俺は柄にもなく狼狽した。こんな場面を病棟の看護師……杏珠あたりに見られでもしたら、たちまち妙な噂が広がりかねない。俺は女性をなだめるべく、リサイクル室の怪談をできるだけ丁寧に語って聞かせた。ひととおり聞き終えると、女性は急に笑顔になった。

「ふうん……それは面白いですね」

 さっきまで憤慨していたのが嘘のように、女性の口調は高揚していた。よく見ると頬が上気し、小鼻が膨らんでいる。

「まあ、解けなかったからといってどうということもない謎ですけどね」

「……解けないなんてこと、あるんですか?……ていうか、まだ解けてないんですか?」

 女性はまた、小馬鹿にしたような口調になった。いちいち癇に触る子だ、と俺は思った。

「あいにく馬鹿なもので。……そういうあなたは、わかったんですか?」

 俺がわざと挑発的な響きを交えて言うと、女性はしたり顔になって口角を上げた。

「当たり前じゃないですか」


                    ⑺


「わかったんですか?「出口はどこ?」の意味が」

 声の謎が解けたと切り出すと、杏珠はにわかに目を輝かせ、身を乗り出してきた。

「ええ。……と言ってもまあ、仮説に過ぎないですけど」

 杏珠の反応は予想以上に大きく、俺は若干、戸惑いを覚えた。

「やっぱり声の主がいたんですね」

「そうですね。少なくとも幽霊とかじゃないです。人間——つい先日まで、うちの職員だった人です」

「つい先日まで?」

「そうです。「出口はどこ?」の主は数日前に辞めた、売店の女子職員です」

「売店……どうしてそれがわかったんですか?」

「箱ですよ」

「箱?」

「……それを説明する前にまず、こちらを見てもらえますか」

 俺はポケットから携帯を取りだすと、杏珠の方に画面を向けた。普段、勤務時間中はロッカーにしまってあるのだが、今回はどうしても必要だったのだ。

「今から動画を再生します。よく見てください」

 俺は用意してあった動画の再生を始めた。やがて、携帯の画面を覗き込んでいた杏珠が「可愛い!」と声を上げた。

「なんですか、これ?ハムスター?」

 画面に映し出されたのは、ネズミに似た一匹の小動物だった。動物は、ケージの中で餌らしき物をカリカリと音を立ててかじっていた。

「これは『デグー』という最近、ペットとして人気のある生き物です」

「デグー?」

「そうです。これが「ギイッ」という奇妙な声の主です。リサイクル室の怪談はこの小動物と飼い主によって作られました」

 杏珠はぽかんと口を開け、動画の画面と俺の顔を交互に見た。

「半年前、売店に一人の若い女性が、パート職員として入ってきました。彼女は少し変わっていて、ペットのこととなると常識を無視してしまうところがありました。そんな彼女がある時、デグーという生き物を飼い始めたのです。比較的人懐っこいというその生き物に、彼女はたちまち夢中になりました」

 俺の説明に、杏珠は画面を見ながらふんふんと頷いた。俺は続けた。

「しばらくすると、彼女はあまりの可愛らしさに、仕事中でも放っておくことができなくなりました。そこである日彼女は、内側に防音効果を施した箱にデグーを入れ、職場にこっそり持ち込んだのです」

「まずいでしょう、それは。大体、生き物が騒いだら、絶対ばれると思いますけど」

「僕もそう思いますが、おそらくおとなしい個体だったんでしょうね。彼女はその箱をあまり深く考えずに、机の引き出しか何かに入れておいた。ところが何かの手違いでデグーを入れた箱が、他の箱と一緒にリサイクル室に行ってしまった」

「えーっ。そんなことあるかなあ」

「箱がないことに気づいた彼女は、慌ててリサイクル室に行きました。そして箱を探す時にこう、呼びかけたのです「デグちゃん、どこ?」と」

「まさか、それって……」

「そう。それが「出口はどこ?」になったのです。おそらくいい名前を思いつかず、種族名をそのまま名前にしたのでしょう。そしてその時、彼女は気づいたのです。午後のある時間を過ぎるともう、紙の回収業者は来ない。音さえ立てなければ、ここは格好の隠し場所になる、と」

「リサイクル室にペットを?そんな非常識な」

「夕方になれば職員もあまり来なくなるし、後は帰り際にこっそり取りに行けばいい、そう思ったんでしょうね。でも、いくら真っ暗だからといって眠ってくれるとは限らない。起きて寂しがるかもしれない。それで彼女はある方法で時々、ペットに呼びかけていたのです」

「ある方法?どんな?」

「ダストシュートです」

「ダストシュート?」

「リサイクル室の壁には上の階から来たゴミが出てくる穴があるのです」

「本当ですか?」

「本当です。今は網でふさがれていますが、かつては普通に使われていたようです。彼女はそれを知っていて、ある時刻になると上の階のゴミ投入口から「デグちゃん?」と声をかけていたのです」

 俺はリサイクル室で耳にしたくぐもった声を思い返した。ちょうどダストシュートが伝声管の役目を果たしたのだろう。あの後、ドアのところで俺と出くわしたのは、箱を回収しにきた時だったのだ。慌てた彼女はそのまま職員通用口に行き、自分の下足箱の中に箱を隠したのに違いない。

「つまりその職員がペットに呼びかけた声と、飼い主の声に反応したペットの鳴き声が、不気味な声の正体だったんですね」

「そういうことです。……しかし、やがてペットを持ちこんだことが部署にばれてしまい、居づらくなった彼女は仕事を辞めることにしたのです」

 だから仕事で使っていた靴も捨てたのだろう、と俺は思った。

「まさかそんな真相だったとは……よく考え付きましたね」

 俺は「ええ、まあ」とごまかし笑いを浮かべた。本当が九割九分、栄養科の女性が考えたのだが。

「とにかく面白い推理をありがとうございました。……あ、そうだ」

 杏珠は言葉を切ると、ポケットからピンクの包装紙に包まれたキャンディーを取りだした。「謎を解いてくれたお礼です」そう言うと、杏珠は俺の手にキャンディーを握らせた。

「それじゃあ、また何か不思議な事が起きたら、相談しに来ますね」

 杏珠は興奮した口調で言うと、自分の部署に戻っていった。俺は喋りすぎで乱れた呼吸を元に戻すと、止めていたプレス機のスイッチを入れた。機械が動き始めた直後、俺は信じがたい光景を目の当たりにした。じょろじょろという嫌な音がして、プレス機の隙間から黄緑色の水が溢れだすのが見えたのだ。俺は慌てて機械を止めた。

「おいおい……またかよ」

 呆れてその場に棒立ちになっていると、ドアが開いて栄養科のチーフが飛び込んできた。

「あー、遅かった」

「今度は何ですか?」

「すみません。……今回はキュウリだそうです。……まったくもう、八見坂やみさかさんったら」

「八見坂さん?」

「この前、ナスを入れた子ですよ。仕事はできる子なのに、どうしてこうなんでしょうね……今、謝りに来させますね」

そう言い置くとチーフは一旦、姿を消した。言われてみれば確かにキュウリっぽい臭いがしなくもない。待っているとやがてそろそろとドアが開き、事件の元凶が姿を現した。

「あの……なんていうか、もうしわけありません」

「……いいですよ、今回は」

「は?」

「見事な推理のお礼に、これは僕が片付けておきます」

 床に広がった黄緑の水たまりを見ながら俺は言った。

「それは、ええと……あの、ありがとうございます」

 女性は深々と頭を下げると、やおら機械を撫でさすった。

「よかった、この子が無事で」

 相変わらず調子の狂う子だ、と俺は思った。

「ところで八見坂さん」

 俺が名前を呼ぶと、女性はびくっと身をすくめた。

「どうしてわたしの名前を?」

「今、チーフから聞きました」

「そうだったんですか……八見坂真宵やみさかまよいって言います」

「真宵さんか。洒落たお名前ですね」

「はあ……自分ではそうも思いませんが。とりあえず「木野さん」の家に生まれなくて良かったと思います」

 俺は彼女が「木野」姓だったらと想像し、なるほどと頷いた。

「冗談もおっしゃるんですね」

 俺が言うと、真宵は怪訝そうな表情を浮かべた。

「私……冗談は言ったことないです」

 俺は全身から力が抜けるのを覚えた。なるほど、チーフが嘆くのも理解できる。

「まあ、いいや。これ……推理のお礼です」

 俺は杏珠からもらったキャンディーを、真宵に手渡した。

「いいんですか?ありがとうございます」

 真宵は丸い瞳をくるくると動かした。俺はほんの少し厳しい表情を作ると、真宵に向かって「そんなわけで、次から漬物は生ゴミ置き場の方にお願いします」と釘を刺した。

「あ……はい、勉強になります」

「勉強?」

「はい。漬物が生ごみに分類される事を、初めて知りました。ありがとうございますっ」

 俺はその場に崩れそうになった。どうやら推理以外に使う能力はほんの僅からしい。

 こころなしか軽い足取りで部屋を出て行く真宵に背を向け、俺はモップを探し始めた。


                   〈了〉

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