第11話 鏡

希榛の世界は、ガラスのように砕けて暗転した。強制ログアウトとなり、それきり締め出された恰好だ。

希榛はしばらくギアを脱ぐことができなかった。Spiegelには勝った。希榛が最後に知りたかったのは、Spiegelに勝つとどうなるのかということだった。その構造上、体験者としてプログラム上で支配されている希榛の独力では勝てない。だから外の健吾の協力を得て、Spiegelの外部の力で勝つという方法を採ったのだ。

 Spiegelは、体験者が勝ってしまうことを想定していなかった。希榛は、そのような重大なエラーを意図的に起こすことにより、何らかのボロを出させ、開発者の尻尾を掴んでやろうと思っていたのだ。

 その思惑は外れた。

 希榛は、まだ動けないでいる。いつもなら、何かトラブルになって混乱してもすぐに次の動きを考え、動くことができるのに。

 動くのが怖い、と希榛は初めて思った。こんなときに限って、いつもうるさい健吾も黙っている。希榛を待っているのだ。

 希榛はゆっくりとギアを脱ぎ、健吾を見やった。健吾はノートパソコンを終了させ、閉じた蓋の上に右手を置いて、希榛のほうへ体を向けて座っている。にこにこして、足を軽くぶらぶらさせながら。

「おめでとう」

 第一声は、希榛の勝利を労う言葉だった。

「勝てると思ってたけど、やっぱり勝てたね。ごめんね、なんか手間取っちゃってさ、タイミングがギリギリになっちゃった。でも絶妙だったよね? 映画みたいに恰好よかったよ、希榛」

 いつもの調子で、軽い声で淀みなく喋る。

「……どうしてだ」

「ん?」

 健吾は笑顔のまま、首を傾げた。

「どうしてそんなことが言える? お前と俺はSpiegelを……

 あはっ、と健吾は軽く笑い飛ばす。

「だってそのつもりだったんだもん。希榛ならSpiegelに迎合せず、敵対して中身を分解して、打ち勝つつもりで動くだろうなって思ったから。これは別に、僕にとって想定外の事件じゃないよ」

 キハルが事切れる前に希榛に耳打ちしたこと。それは――

『こんなことができるのは……開発に関わった者だけだ』

 そんな言葉だった。

「まあでも想定外といえば、Spiegel側から裏切られたことかな。まさかそのままバラされちゃうなんて思ってなかったなー。AIが優秀すぎたせいかな。希榛をコピーしたから、織部探偵の鋭さを発揮するようになっちゃったのかも」

 改良の余地ありだねー、と、ちょっとしたミスを反省するように笑顔で零す。

「なぜ……俺を誘った」

「んー、Spiegelをよりよくするためだよ。僕たちはチームでこれを作って出回らせた。よくできたとは思うけど、それでも完全じゃない。どんな人がこれに手を出すか分からなかった。みんながみんな、盲目的にSpiegelに縋ってくれるわけじゃないじゃん? 中には、体験したはいいけど徹底的に抵抗する人もいると思うんだよね、希榛みたいにさ。そんな人に脆弱性を見破られて、僕らの正体が暴かれちゃ困るから、あらかじめそういう人を用意して、データを取りたかったの」

 まるでドッキリのネタばらしをやるように、楽しげに話し続ける。

「チームだと?」

「うん。っていうかこんな大規模で複雑なコンテンツ、僕だけで作れるわけないじゃん。もっと高度でいっそ変態的な技術を持つプログラマーとかハッカーとか、大量に関わってるよ。僕は会ったことない人がほとんどだけど。あと、政財界にも出資者がいっぱいいるんだって」

 社会的地位の高い者の資金力と影響力があれば、根回しも簡単だ。自分たちの仲間を警察の監視下から逃がすこともできる。

 警察で希榛が取調べを受けていたとき、隣の部屋では健吾も同じ状況になっていると思っていたが、実は取調べ自体行われていなかったのだろう。健吾は自分が開発者の一人であることを説明し、希榛とともに泳がされたふりをするという意向を伝えて、放免という形になったのだ。

「お前は……どんな役割を担っていたんだ」

「僕は末端のプログラマーだよ。ネットの友達に誘われたんだ。Spiegelに勝てそうな体験者を見つけてくれって頼まれたんだよね」

 健吾はその体験者、いわばサンプルに希榛を選び、調査するという名目で誘って観察し、データを取っていたというわけだ。

「で、思ったとおり希榛はあらゆる誘惑を全て疑って、Spiegelに勝った。しかも僕の正体にまでたどり着いた。覚えてる? 大学で高森さんに話を聴きにいった日、Spiegel開発者は革命を目指すテロリストと似てるって希榛は仮説を立ててたよね。実はあれ、いい線いってたんだ」

 あのときは、考えすぎだ、もっと気楽に構えろと言われていた。妙に希榛の仮説に否定的だったが、あれは予定より早く気づかれないようにするためだったのかもしれない。

「僕らの目的は希榛の言ったとおり、みんなが理想の自分になって社会をよりよくしていくこと。だけど現実には、みんな努力して変わりたくなんかない。だったら、本物には一生Spiegelで楽に生きてもらって、理想を投影した作り物を現実に投入しちゃえばwin-winだよね」

 それは、キハルも口にしていたことだ。人が変わってもそれがいい方向への変化なら、周囲はそれを歓迎し、様子がおかしいなどと指摘しない。体験者全員が入れ替わってしまえば、みんながSpiegelだ。円滑な社会が構築されていくだろう。

「入れ替わった人たちはまだ体験していない人を見つけ、Spiegelのソフトを渡す。それが繋がって、大量生産しなくてもどんどん広がっていくんだよ」

 未体験者や、入れ替わっていないオリジナルの体験者からは、誰が入れ替わったキャラクターなのか分からない。そして殺されるまではまさに無害なこのソフトは、一度体験されればあの手この手でSpiegelに取り込もうとしてくる。希榛にさえ、フィーユのあからさまなアピールがあったくらいだ。そしてそのアピールは、希榛くらい鈍く冷静でない限り無碍にはできないようになっている。

「俺が……サンプルとして都合がいいのは分かった」

「うん、さすが希榛。理解が早いね。っていうか冷静だねやっぱり。そういうところがますますいいよ。僕の目に狂いはなかった」

 実は、希榛は冷静ではなかった。体が熱く、頭が痛い。頭を押さえる手に力が入り、髪を鷲掴みにしてしまう。食いしばる歯が痛い。歯の隙間から息が漏れる。

「あれ? 希榛、怒ってる? 見たことない顔してるよ」

 無邪気に、心なしか心配そうにこちらを見つめてくる健吾を見返す。目が痛い。目にも力が入っているのだ。自分が今どういう顔をしているのか分からないが、決していい顔ではないだろうことは分かる。



「お前は俺を騙していた……」

「正体は隠してたけど、そんなに怒ることないじゃん。希榛だって、正義のために行動してたわけじゃないでしょ。好奇心の赴くままに動いてたんじゃん。僕は、正確なデータを取るために希榛に隠し事はしてたけど、希榛と同じように楽しんでただけだよ。希榛を苦しめようと思ってたわけじゃないって。実際、僕は希榛のサポートをしてたよね。希榛がいろいろいい案を思いついちゃうから自力で乗り越えてたようなもんだけど、いざとなれば僕が管理者権限で希榛を助けることだって考えてたんだから」

 希榛は椅子から立ち上がった。目が痛く、熱くなってくる。

「お前はなぜ、この計画に参加しているんだ」

 ふふ、と健吾は含み笑いをする。

「だって、すごいことなんだもん。社会を裏から変えちゃうようなことなんだよ? 歴史上のバカな支配者みたいに私利私欲じゃなく、本気で社会をよくするために、みんなでこっそり支配しちゃうなんてさ。誰も死なない、誰も傷つかないでみんな理想形になれる。まあ開発者どうしで内輪揉めになればまた別だろうけど、僕はそんなことには興味ないんだよね。とにかくそんな大きな動きに、僕の技術で貢献できるっていうのがいいんだよ」

 健吾の目はキラキラと輝いている。純粋にSpiegelを信じているのだ。

 やはり中東のテロリストと同じだ。自分がまっすぐ信じているものが正しく、それ以外が目に入っていない。そのためなら友達すら裏切るのだ。

 誰が、健吾をこのように仕立ててしまったのだろう。

「俺は、いいことだとは思えない。同じソフトから生まれたキャラクターが構築する社会など、ただのコピーにすぎない。鏡の向こうの虚像の世界で生きることに何の意味がある? 少なくとも、裏側を知ってしまった俺がSpiegelに賛同することはあり得ない」

 一転して、健吾は悲しげな表情になる。

「希榛はやっぱり、難しいことばっかり言うんだね。希榛って現実世界が好きなの?」

 好きなのかと言われれば違うとしか言えない。

「愛着はない」

「だよねえ。もう一人のキハルも言ってたけど、希榛にとってこの世界って、生きづらいと思うんだ。僕よりも苦手なものが多いみたいだし、それを理解してくれる人もいない。好きになるわけないよ。それならさ、好きな世界になるように変えちゃえばいいんじゃない? そう思うでしょ?」

 現実には、希榛にとってストレスとなるものが多すぎる。今も、自分の中にある混乱と感情のうねりに流されないように立っていることに体力を消耗している。

「ここまで俺に話して、どうするつもりだ」

 健吾はくすりと笑う。

「そんなの、希榛なら気づいてると思うけど」



 笑顔で、希榛に左手を差し出してきた。

「仲間になってよ。希榛のデータを報告したら、ぜひ参入してほしいって声が上であがったんだってさ。僕も、そうなってくれれば嬉しいなって思うし」

 手と足の先が冷たくなってきた。体が震える。

「そんな誘い、俺が受けると思ってるのか」

「受けるよね。だって

 さも当然のように、健吾は言い放った。

「それ以外の選択肢、希榛にはないはずだよ。僕は親友で、僕以外の人とは接し方も分からない。それなら、僕と離れるなんてできないでしょ?」

 健吾と離れること。今までなぜかなかったことで、これからもあるとは思っていなかったことだ。

「僕は元来、希榛ほど鋭い人を騙し通せるほど器用じゃない。だけど、希榛はこの件に関して僕を疑わなかった。無意識に、疑いから外していた」

「お前は最初から、あの緻密なはずのSpiegelにハッキングし、モニタリングできるようにしたと言った」

「僕は何の問題もなくモニタリングを続け、希榛にうまくアドバイスを出した」

「何度も隠されているはずの空間をこじ開け、想定されていない方法で危機を脱した」

「複雑なシステムやプログラムに、ぶっつけ本番で簡単に入り込み、試行錯誤することなくトラブルを解決した」

「警察に事情聴取され、お前は少なくとも偽証して罪のない人の家宅に侵入し、負傷させたのに何の咎めも受けず、取調べは不自然に早く終わった」

「警察内部の人間がたかが参考人に事件の背景まで説明して、監視も付けず帰した」

「事がスムーズに進みすぎている。こんなことは普通できないんじゃないのか」

「その通り! それは僕がこのコンテンツのキーの一人だから!」

 健吾は指鉄砲で希榛を指した。

「整理すればこんなに簡単に分かる。まして、希榛の推理力なら最初の段階で気づくはずだよ。なのに気づかなかった。それは、自分の友達である直江健吾が、解決すべき謎の鍵を握る容疑者で、敵のはずがないと思い込んでいたから。希榛は他人の言動を分析して何件もトラブルを解決してきたっていうのに、僕の言葉は本質的に信じていたんだよ。僕を疑うなんてあり得ない。そう思ってきたんだ」

 その通りだった。希榛は今まで、健吾が希榛に嘘をつくという事態を想定していなかったのだ。

「だから一緒に行こうよ。僕のこと、そこまで信用してたんならさ」

 健吾はもう一度、左手を差し出した。

「……今は、違う。お前が俺を騙してたって分かった今は、もうお前を信じられない。ここまで来て、信じられるわけないだろう……」

 嘘が露見してからもなお、希榛を誘い続ける健吾の真意が、分からない。希榛は右の拳を握りしめた。

「そう? 希榛、泣いてるからさ。てっきり寂しいのかと思ったんだけど」

 言われて、初めて気づく。頬をぬるい液体が伝っていることに。

「泣くほど悲しいなら、離れなきゃいいんだよ。今まで通り一緒にいることだってできる。希榛がそう望みさえすれば、昨日までと同じ接し方で接するなんて簡単なんだから」

「何を、言ってるのか……分かってるのか」

「もちろん。僕は希榛が泣かなくていい方法を提示したんだよ」

 声も体も震える。喉の奥が詰まる。体は熱さと冷たさが波になって交互にやってくる。涙は、自覚してからその量が増えてきた。

「いやあ、でもこの短期間で、希榛のいろんな面が見られて嬉しかったなあ。気づいてた? 希榛、Spiegelじゃ比較的楽しそうな顔もできてたし、緊迫したときに短く叫ぶことだってできてた。さっきは自分でも把握しきれないほど怖い怒り顔をしてたし、今は泣いてる。そんな顔になるんだね、泣くと。散々言われてたし僕も言ったけど、感情表現って簡単でしょ? 冷静になろうと頑張らなければすぐできちゃうんだよ」

 悲しみというものを、これほどはっきりと感じたことはなかった。

 希榛に読書の楽しさやいろいろな知識を与えてくれた祖父が亡くなったときも、ただなんとなく寂しいと思う程度で涙も流れなかったというのに、今は流れる涙を止めることが、どうしてもできない。

「希榛の泣き顔は新鮮だけど、いつまでも見ていたいものじゃないね。友達が泣いてるのは、僕も嫌だな。ねえ、泣かないで、希榛」



 体が勝手に動き、気づけば両手で健吾の胸倉を掴んでいた。

「おっ、また新しい一面だね」

 対する健吾はなおも余裕だ。

 何か言わなければならない。声は喉まで上がってきている。だが口からは出ない。

「こういうときは普通、大きな声で僕を罵倒するもんだよ。そんな怖いこと、希榛にはできないかな。ここは音量調節もされてない。大きな声、出せないもんね」

 頭では分かっている。大きな音に対する恐怖感が、希榛に大声を出させまいとしていた。手の先が冷たい。希榛は健吾を離した。

「お前は俺を利用した……。俺に協力するふりをして、俺をただのデータとしか見ていなかった。今までも、そうだったのか? 何かメリットがあるから、俺といたのか?」

 健吾は希榛の左肩にそっと手を置いた。その手は温かい。

「《鏡》みたいなもんだと思ってたよ。初めて会ったとき、一発で面白い奴だと分かった――そう言ったけど、それはお互いがお互いの持っていないものを持ってるって気づいたからじゃないかな。僕の活発さと希榛の冷静さ。僕の直観と希榛の推理力。左右反転してる。それでいて、好奇心のベクトルは同じでお互いが考えてることもなんとなく分かる。ある意味似てるんだね。まさに合わせ鏡だ。そんな存在が近くにいると、パズルのピースが嵌ってるみたいで居心地がいい。だから一緒にいたんだよ。……ちょっと、何その顔。もしかして照れてる? なんて、そんなわけないよね」

 細かくは分からないが、目を見開き、大量の涙を流していることくらいは分かる。照れるなどとは対極の表情のはずだ。こんなときにも、健吾は冗談を言う。

「ついでにもっと照れるようなことを言うならね、僕、希榛のこと好きだったんだと思う。――ああ、変な意味じゃなくてさ、気に入ってたってこと」

 健吾はそこで、思い出し笑いをして吹き出した。

「あのさ、覚えてる? 高校に入ったばっかりのとき、一緒に居すぎてゲイなんじゃないかって疑われてたの。あのとき、僕は好きな女の子がいるって大きな声で言ったよね。でも本当は、好きな子なんていなかったんだ。あれは疑惑を晴らす方便だった。三年のときには彼女ができたけど、あのときも向こうから告白してきて、僕がOKしただけなんだよ。付き合ってみるってのも面白いかなって。あの子のこと、本当に好きだったわけじゃなかった。希榛ほどじゃないけど、僕も他人にはそれほど興味がないほうなんだ」

 知らなかった。近くにいて、観察してきたはずなのに、分析してきたはずなのに、全く見えていなかった。

「だけど希榛だけは違った。痛感してたと思うけど、僕は希榛にすごく興味があった。そりゃあもう興味深々で、ずっと見ていたいと思ったよ。だけどガードが堅いから、かなり力技で押しちゃったけどね。そのうちに、希榛が僕にだけは心を開いてくれるまでになってさ。嬉しかったなあ」

 最初は鬱陶しいと思っていた。しかし、自分にこれほど積極的に接してくれる他人はいなかったので、全力で拒否するのも悪い気がして、ほとんどされるがままになっていた。

 そして、それはいつしか当たり前の状態になっていた。

 隣に健吾がいるだけで、楽しさや嬉しさを感じることができるようになった。それを表に出すのは下手なままだったが、明らかに一人のときとは違う感覚だった。

「どうして今になって、そんなことを言うんだ」

 せっかく分かったのに。せっかく理解できたのに。

「そうだね。こんなことになるなら、言わないほうがましだったかも」

 軽く、冗談のように突き飛ばされた。希榛は後ろによろける。

「絶望しちゃった? ごめんね、希榛のこと、こんなに追い詰めるつもりはなかったんだけど」

 軽い口調の中にも、寂しげな色が混じる。

 聞いていたくない声。大きな音とは違うが、耳を塞ぎたくなる。

 だが、今塞げばもう二度と聞けないような気がした。

「これから希榛がどう変わっていくか、すごく興味があったんだけど、もう一緒にはいられないか」

 そう言うと、健吾は背を向けて玄関のほうへ歩き出す。

「待て……!」

 このまま行かせるわけにはいかない。背中を向けた健吾の上着を掴むと、振り返りざまに健吾は内ポケットから何かを取り出して希榛に見せた。

 それは、小さな円錐形の黄色い紙でできた物体。円錐の頂点からは白い紐が垂れている。

 見ただけで、恐怖感が襲ってくる忌まわしい道具だった。

「やめっ……」

 思わず飛びのくように健吾から離れた。健吾は一瞬、意地悪な笑みを浮かべて、その紐を引っ張った。

 希榛が最も苦手とする音――火薬の炸裂音。

 パーティークラッカーだった。それも、リボンなどが入っていない音だけのタイプだ。

 聞いた瞬間、希榛の体は大きく痙攣し、叫びだしたくなるような不安感と混乱が濁流のように押し寄せた。意識が遠のき、後ろに倒れる。玄関のたたきで後頭部を打った。

「ごめんね。バイバイ!」

 健吾は舌を出して、倒れた希榛に手を振って玄関から出た。

 まだ恐怖感が去らない。体に力が入らない。希榛は立ち上がることができなかった。呼び止めることすらできず、閉まるドアを見ているしかなかった。

 健吾がこんな手を自分に使ったことが、どうしようもなく悲しかった。

 誰よりも希榛を守ってくれた健吾が、知り尽くしている致命的な弱点を突いてくるなんて。

 なんとか立てるようになると、外でスクーターのエンジン音がした。

 ドアを開けると、見慣れた健吾のスクーターがアパートの敷地から出ていくのが見えた。

 止めるべきだ。走っても追いつかないがせめて叫ぶべきだった。だが、胸が苦しくて声が出なかった。街中で大きな音を聞いてしまったときの苦しさとは、今回は違った。喪失感と混乱と屈辱、そして絶望。しばらく胸を押さえたままうずくまった。

 希榛にとって、本当に唯一の友達を失ってしまった。

 健吾は、失わなくていい方法を提示していた。仲間になれば、また一緒にいることもできた。

 だが、希榛は率先して手放したのだ。

 悲しそうだった。健吾は、希榛と一緒にいることを望んでいただろうし、その確信だってあったはずだ。

 その通りにはならなかった。その通りにしなかった。

 正しい。それが人間として正しいことは分かる。希榛は正しさを取った。

「どうしてだ……」

 正しいのに、どうしてこれほど苦しいのか。

 どうして、健吾も一緒に正しいほうへ進めなかったのか。

 虚像の自分――キハルの言葉が蘇る。

 ストレスが爆発するときの苦しみは大きな音を聞いたときの比ではなくなる――

 その通りだった。案外、虚像のほうが核心を突いていたらしい。

 未だかつて感じたことのない感情の波。とても対処しきれない。健吾なら助け起こして肩を貸してくれただろう。

 だが、今はもうそれを期待することは許されない。

 気を失っている場合ではない。


 やっとまともに呼吸ができるようになったころ、健吾の携帯に電話をかけてみる。電源が入っていないか電波の届かないところにいるとのメッセージ。何度かけても同じだった。メールはエラーで返ってきた。アドレスが変わっているのだ。

 自転車を飛ばして駅まで行き、タクシーで健吾の住む下宿へ向かう。掠れる声で自動運転AIに住所を告げる。下宿はすでにもぬけの殻だった。

 健吾の行きそうなところが分からない。バイトもしていないし、共通の友人などいない。健吾の知り合いの顔も知らない。健吾以外の人間とはとことん接してこなかった弊害が、こんなところで出た。

 携帯のアドレスを変えるということは、希榛からの連絡を絶つ意思があるということだ。もう健吾のほうから希榛の前に現れることはないと思ったほうがいいだろう。

 大学にも行ってみたが当然、健吾の姿はなかった。教務部で訊いてみると、退学届が出ていたそうだ。ちょうど一週間前に。

 これで手がかりはなくなった。少なくとも自分一人で集められる分は。

 あとは他人に訊いてみるしかない。教室で健吾と話していたところを見たことのある、知らない学生が何人かいる。自分から話しかけなければならない。いつもは隣に健吾がいて、誰かに用があれば健吾が話しかけてくれていた。しかしこれからは、全て一人でやらなければならない。案内人もおらず、何も思い通りにならない現実世界で。

 緊張しながら見覚えのある学生の肩を叩き、話しかけた。少し怯えたように学生は応えた。健吾の居場所を知らないかと尋ねる。何人かそうして尋ね回ってみたが、誰も心当たりはないという。

 健吾から希榛の話を聞いているという女子学生が話しかけてきた。彼女も連絡が取れず心配しているという。健吾がいなくなったという話はすぐに広がっていった。退学したことを知らない者も多かった。



 結局、どれだけ情報を集めても健吾は見つからなかった。そのまま卒業することになる。健吾は完全に失踪してしまったが、一緒に捜してくれる者は誰もいなかった。健吾のことはただの噂話になり、それもすぐに消えた。

 そして今、希榛は警察官になっている。体質から拳銃を一切扱えない希榛は、サイバー犯罪対策室に志願し、配属された。

 ここで、健吾たちが起こすであろう犯罪を追う目的もあった。だが同時に、警察や国家の上層部、あるいは街中に浸透したSpiegelと戦うことも当然、考えている。

 今、そのことを知っているオリジナルの人間はおそらく、希榛と開発者たちだけだ。入れ替わったキャラクターたちは、希榛の動きを邪魔してくるだろう。

 希榛とペアを組むことになった、新人の女性刑事にしても、同じ課のメンバーにしても、オリジナルかどうかは分からない。だが、戦うしかないのだ。

 ここにはもう、希榛を支えてくれる親友はいない。

 希榛は、弱く、一人では戦い続けられないのを自覚している。無口無表情に甘んじているわけにはいかない。

 自分を見つめ返してくれる鏡の役割を、他人に求めるのはもう、やめた。





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シュピーゲル 大槻亮 @rosso

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