第3話 シスタークロロホルムと春日の特殊能力

「クロちゃん……クロちゃん……」

 軽く肩を揺すられて、あたしが目を覚ますと、あろうことか至近距離に春日の顔。

「っわあぁ……」

 反射的にその手を振り払った途端に、斜面の際に腰かけていたあたしは、バランスを崩してそのまま斜面を転がり落ちそうになる。

「あわわっ……」

 その時咄嗟に掴んだのが、春日の差し伸べた手だった、というのは、これはもう、不運としか言い様がない。


「春日っ!お前、その手っわっ〜!!」

 あたしが掴んだ春日の、白い鑑識用手袋をした手には、黒い汚れが付着していた。それがただの泥汚れでないのは、触った瞬間に分った。だってあたしの体が、全身でそれを拒絶しているから……言わずもがな、それは血の……


 実はあたしにも、血に纏わる特殊な能力がある。まず、血を見ると意識を保っていられなくなる――つまり、気絶する。

 そして、それが見えない血の跡であっても、触れば同じ事が起きる。


「あ、しまったっ。しっかりして下さい、クロリンっ!」

 春日の間抜けな声に、クロリンは容赦なく気持ち悪いから止めろ〜!!と、心の中で毒づいた所で、あたしの意識は見事に吹き飛んだ。


『シスタークロロホルム』


 ちなみに、あたしは捜査現場では、そう呼ばれている。

 いつも血痕ハンターであるマダムにくっついて来るくせに、血をみれば気絶する。それが毎度、クロロホルムでも嗅いだ様な、見事な失神っぷりなので、いつの間にか、そんな不名誉なあだ名を付けられていた。


 弁解させてもらえば、あたしは一度だって、好きでマダムについてきた事なんかない。いつも、気がつけばマダムの仕事に付き合わされてしまっているだけなのだ。



 もう、それなのに……

 ああ、またこれだよ。……と思う。

 見ただけなら、失神「程度」で済む。

 でも、それに触れてしまったら――



 あたしは、暗闇の中で膝を抱えて小さくなっていた。

 嫌な気配をすぐ傍に感じたから。なるべく小さくなって身を竦めていれば、危険をやり過ごせる。そんな本能に縋る様に、精一杯、小さく小さく……


 ソンナコト シテモ ムダ


 否応なしに、耳に注ぎ込まれる嘲笑を帯びた言葉……

 咄嗟に、逃げた方がいいのかも知れないと思う。


 ――でも、どこへ?


 惑う心の底から、信じられないぐらいに強い思念が湧き上がってくる。


――逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、、、

 その思いに突き動かされる様に、慌てて立ちあがる。


 ニゲナキャ、


 ニゲナキャ、


 ニゲナキャ、


 ニゲナキャ、


 コロサレル……


 その思念に飲み込まれた途端に、もの凄い力で手首を掴まれた。

「ぃやっ……」

 そう叫んだ瞬間に、背中に刃物を突き立てられた。

 その衝撃に、呼吸が止まる気がした。その痛みを感じる間もなく、そこに引き倒されて、男に馬乗りにされる。掴まれた手首はそのまま、男の顔の前にまで引っ張り上げられる。


――ヤメテ……イタイ……

 心の中で、別の誰かが悲鳴を上げる。


『そんなに俺と切れたいんなら、望み通りに切り離してやるからさぁ……』


 狂気を帯びた男の目が、あたしの手首を捕える。

 そこに、ひやりとした刃物の感触を感じた。


――イヤ……ヤメテ……

 だが口が僅かに動くだけで、声は出ない。


――言わなきゃ、嫌だって、言わなきゃ、伝わらないのにっ!何で声が出ないのよっ!……


 声を出さなきゃ、手が切られちゃう。

 そう思っても、瀕死の魚みたいに口がパクパクと動くだけ。


 すうっと、いとも簡単に、刃物が肌の上を滑った。そして、水平に刻まれた傷痕から、トロリと血が流れ始める。その色に気が遠くなっていく。息が出来ない。

 浅く繰り返すばかりの呼吸の中で、赤い線がどんどん、どんどん……何本も何本も増えて行く。

 そこから流れ出した血液が腕を伝い下りて行く感覚に、あたしはついに堪え切れずに、最大級の音量で叫んだ。


「馬鹿野郎っ、春日っ!早く助けろっ!!!」






「……クロ……ちゃん……クロちゃん……クロちゃんっ!」

「かす……が……」

 気がつけば、あたしは春日に抱き寄せられていた。


「ホント済みません、大丈夫ですか?」

 背中から聞こえる春日の声に、あたしは呆然としながら、ただ、

「ああ……」と答える。


――戻った……ここ……ちゃんと現実だよね……


 まだゆらゆらと頼りない意識を現実に繋ぎ止める様に、あたしは手に触れていた何かをぎゅっとつねった。

「あだっ」

 耳元で春日が小さな悲鳴を上げた。


――ああ、これ、春日の贅肉だったか……


 そう思った途端、あたしは自分と春日がどういう体勢でいるのかをたちどころに理解した。

「酷いですよ、クロちゃ……」

 恨みがましそうに言い掛けた春日を、

「どさくさに紛れて、抱きついてんじゃねぇ」

 というセリフと共に、あたしは渾身の力を込めて突き飛ばした。


 春日の体は、「あ〜」という間抜けな悲鳴を伴いながら、斜面の下へと転がり落ちて行った。セクハラ野郎には当然の報いだ。

……と思う。


「もうっ。春日と関わると、ホント、ロクな事がない」

 あの男のあの間抜け面を見て、平穏無事に済んだ日はない。それなのに、あたしをあの「悪夢」から呼び戻す事が出来るのが、どういう訳か春日だけだというのだから、実に頭が痛い。


 ふと見ると、マダムは木陰で差し入れとおぼしき缶コーヒーを優雅に飲んでいた。

「マダムっ!」

「あら、シスター、お目覚め?いい夢は、見れまして?」

 分かってて、聞くなよっ。

「……最悪ですっ」

「それでは、仕事も終わった事だし、温泉にでも行って、浮世の穢れを洗い流しましょうか」

 そう言って、エセマダムは優雅ににっこりと微笑んだ。


 マダムの仕事に付き合わされる度、毎度毎度こんな怖い思いをさせられるあたしって、結構、不幸かもと思う。それでも――


「さあ、行くわよ、シスター」

「はい、マダム」

 条件反射の様にそう反応しまうあたしって、一体。


 これはもう、春日の餌に食いつかない様に、マダムにはきっちりとまともな作家になって貰わなくてはならない。


 それはとても前途多難ではあるけれど。

 頑張れあたし!

 てな感じで、あたしは決意も新たに、明るい未来を目指して力強く、一歩を踏み出したのだった。


――という所で、幕。





【 マダムルミノールの優雅な冒険 完 】

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箱入りお坊ちゃまの傲慢な戯言(たわごと) 抹茶かりんと @karintobooks

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