第2話 温泉へ行こう!

「よし、出来た♪」

 マダムは鼻歌交じりに、メールソフトを起動させると、書き上がったばかりの原稿ファイルを、たちまち送信してしまった。


――って、マダムっ!見直しとかっ……しないんですかっ!?……


「ちょ……」

 思わず声を上げたあたしに、

「ん?」

 と振り返ったマダムは、何か突き抜けた様なさわやかな顔で、満面の笑みを浮かべていた。


『何か文句でも?』


 マダムと長い付き合いのあたしには、その顔にはっきりとその文字が見えた。

「……いえ」

 有無を言わせない威圧感に、あたしはただ押し黙る。


――まあ、一応締切には間に合った訳だから、ま、いいのか……いいのか……な~


「お、お疲れさまでした」

「うん。疲れた。あ〜疲れた。めちゃめちゃ疲れた〜っ」

 そう言ってマダムは机に突っ伏す。

「少しベッドで休みます?それとも、朝ごはんにします?」

「疲れたから……」

「はい」

「温泉へ行こうっ!」

「はい?」


 そう言うと、あたしの要説明サインを無視して、マダムはいそいそと旅支度を始める。

「ちょっと待ってくださいよ。うちのどこに、そんな余裕があるんですかっ!?」

「大丈夫よ〜ん。御招待だからっ♪ちゃんとスポンサー付いてるし」

「スポンサー!?」

「んふふ〜あたしの熱烈なファンとか〜」

「いるんですか、そんなもんが」


 これが徹夜明けでなければ、マダムのこんな嘘臭い話になど、到底乗ったりはしなかったのだが、こちらも寝不足で集中力がぶっつり切れちゃっていたのが、どうも災いした。


 もしや、昨夜からのマダムの驚異的な集中力は、この温泉のせいだったのかとか、ああ、それじゃあ、あの携帯の主が招待してくれたのかとか、マダムを只で招待するなんて、気前のいい人だなあ、とかとか。


 色々ぐるぐる考えている内に、あたしはマダムに急かされる様にして、出掛ける支度をしていて、気がつけばマダムと二人、鬱蒼とした木々に囲まれた山道を歩いていた。




「も〜秘湯なんてどこにあんですか〜」

 引き籠もりのくせに、意外と健脚なマダムは、軽快にステップを踏みながら、鼻歌交じりに山道を歩いている。

「ああ、ごめん。温泉は、ちょっと仕事の後でね〜」

「仕事……って……?」

 あたしはこういう展開が以前にもあったのを思い出し、ふと嫌な予感を覚える。


『マダムが山奥でやる仕事』――といえば。


――いやいやいやいや……まさか、あんな事が、人生にそう何度もあってたまりますかっていうのよ……


 スタスタと歩くマダムに引っ張られる様に、これから起こるかも知れない現実を必死に否定し続けていたあたしは、道の先に大勢の人の気配を感じて、ガックリと肩を落とした。

「また、ですか」


 あたしたちの行く手を、立ち入り禁止の黄色いテープが遮っていた。警察が現場保存の為に周辺に張り巡らせる、あれ、である。


――タダで温泉なんて、話が上手過ぎると思ったのよ。あ〜もう、何で気付かない?あたしっ……


「やはっ!いらっしゃい♪」

 落ち込むあたしの頭の上から、人の神経を逆撫でする様な能天気な声が聞こえた。

「出たな小鳥コトリっ!昨日マダムの携帯に電話してきたのは、貴様か」

「ちっちっち!僕の姓は、小鳥と書いて、オドリって読むんですよ〜」


――ボケ、ワザと間違えてるんじゃい。いちいち訂正すなっ……


「分りづらかったら、ハ、ル、ヒ、って呼んでくれてもいいですよぅ〜」

「誰が、貴様のファーストネームなんか呼ぶか。気色悪い」

「酷いなあ。ははは。でも僕は、クロちゃんのそういうツンツンしたとこが好きさっ」

「やめっ……マジ鳥肌来た」

「ほら、春日カスガ、こっちは徹夜で仕事終わらせて来たのよ。さっさと要件をお言いなさいな」

 相変わらず、うにょ〜んとしている春日に、マダムが言う。

「っぷぷ。マダムったら、たまに作家っぽい事したからって、すっかり作家先生気取りぃ」

 春日は天然なのか鈍いのか、人の神経を逆撫ですることに掛けては天才的だ。

「あらあ、七三分け刑事デカには言われたくなくてよ」

 それを又、偽装セレブマダムキャラで返すマダムの方も相当なものだ。


 かつて、二人が竹馬の友なのだと聞いて、類は友を呼ぶという言葉の信憑性をしみじみと納得したなどとは、口が裂けても言えない事なんだけど。


 小鳥春日――本人曰く、オドリハルヒと読むらしいのだが、マダムはなぜだか、この男のことをカスガ、カスガ、と呼び捨てにしている。


 いわゆるあだ名という奴なのか。詳細は不明だ。ま、興味もないから、突っ込んだこともない、というのが本音なんだけど。


「あっはっはぁ、相変わらず、キツイっすねえ。ではマダム。こちらです、どうぞ」

 言いながら差し出された春日の手に、マダムが手を乗せる。

 二人はそのままダンスでもしそうな優雅な物腰で、手を取り合いながら急峻な斜面を下りて行く。それが微妙にツーステップに見えたのは、あたしの目の錯覚だろう。何しろ徹夜明けだしな――


「お〜いい、皆っ!マダムルミノール様がいらっしゃって下さったぞぉ〜」

 春日が斜面の下方にいる捜査員たちに、そう声を掛けると、そこに一斉に歓声が沸き上がった。

 あたしはそんな様子を見ながら、軽い溜息をついてその場に腰を下ろした。



 警察関係の人間に、マダムは敬意を込めて『マダムルミノール』という愛称で呼ばれている。


 それは、マダムの持つ特殊能力に由来するものだ。マダムには、血の気配を感じ取る能力があるのだ。前に、血の臭いがするのか?と聞いた事があるが、そういう訳ではないらしい。分かりやすく言えば、血痕探知能力とでも言えばいいのか。


 ルミノール液がそこに血痕を浮かび上がらせる様に、目に見える場所であれば、例え血痕が拭き取られていても、そのまま目に見えるし、目に見えない場所の場合は、何となくそこに血の流された気配を感じるのだという。そんな訳で、時折捜索が難航すると、その能力を知る春日からこうしてお呼びが掛かる事があるのだ。


 警察というプロ集団が、超能力持ちとはいえシロウトのマダムに手を借りたりして、もっとこう、プロの面子みたいなものはないのかと思うのだが、地味で手間のかかる遺体の捜索が、マダムの参加により、たちどころに早く終わる訳で、捜査員たちにしてみれば、願ったり叶ったりという事らしい。


 おまけにその報酬は、こちらは正真正銘のお坊ちゃまである春日のポケットマネーから払われているので、上の方からも黙認されているという話だ。


――でもさあ……遺体を掘って温泉に行こうって……どうよ?……


 そんな事を考えながら、遠目にマダムの遺体捜索を見ていたあたしは、寝不足のせいかいつの間にかうたた寝をしていたらしい――

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