マダムルミノールの優雅な冒険

第1話 やる気の報酬

 大好きな深紅の薔薇をデコデコとネイルした重そうな指が、信じられない程の早さでキーボードを弾いて行く。その音が、静寂の支配する部屋に響くのを聞きながら、あたしは声を出さない様に注意して、欠伸を噛み殺した。

 気がつけば、カーテンの向こうはすでに明るくなっている。


――完徹だよ……信じらんない……


 お肌の曲がり角を過ぎたら、徹夜なんかしないのよ、と言っていた。そのマダムが珍しく徹夜をした。マダムは今まさに、あたしの目の前で、物凄く久しぶりに来た、50ページの短編を執筆中なのだ。その気になれば、そして書き始めてしまえば、マダムの仕事は早い。だが、自称繊細だというマダムは、中々「その気」を捉まえる事が出来ないのだ。


 マダムはSF作家である――

 しかし、その頭には「売れない」という冠が燦然と輝いている。


 新人賞一作目で、どうもつまずいた。受賞と同時期に結婚し、そのまま子供が出来て産休に入ってしまったからなのか、そのせいでリズムを崩したからなのか、それからずっと書けない時期が続いている。


 受賞第一作になるはずだった、マダム渾身の長編「深空みそらの彼方へ」は、端緒だけ書かれた状態で長らく放置されている。

 有難くも、完成したら持っておいでと編集者からは言われているらしいのだが、この三年全く進展を見ない。それでも、マダムの才能を信じている編集者が、時折こうして、短編の仕事を回してくれる。

 心底有難い話である。

 しかし、長編を書かない事には、本は出ない。これまでに書いた短編をかき集めれば、本一冊分ぐらいにはなるのだが、短編集などというものは、長編が売れた作家が、ご褒美的に出して貰えるものなので、マダムの作品は未だ本にならずじまいなのである。


 マダムの夫君は、これまたマダムの才能を愛してやまない人だった。

 だが、自分と結婚したせいで、マダムが書けなくなってしまった事を大いに気に病み、少しでもマダムが書ける環境を作ってやりたいと、別居という選択肢を選んだ。

 実に出来過ぎた夫なのである。挙句の果て、子供は夫側の親族に面倒を見て貰っているという。夫側にそこまでの犠牲を強いている事は、妻側の関係者からすれば、全く申し訳ないの極みだった。


 丁度、不景気のあおりを食って就職にあぶれてしまったあたしは、こちら側の親族代表として、マダムが立派に作家としてやっていける様にすべく、秘書という名目で、現在マダムと同居している。要するにお目付け役だ。周囲がそれほどに骨身を惜しまないマダムのきらめく才能とやらを、あたしもいつか拝める日が来るのだろうか。その辺は大いなる謎である。


――とか言ってるあたり、あたしも大概なんだよな……


 就活でボロボロになった。いったんボキボキに折られた心は、そう簡単には回復してくれなくて、夢も希望もない現実にひとり置き去りにされたみたいな気持ちを抱えていたあたしは、きっとマダムに夢を見せてもらいたいのだ。

 そう……あたしは傷ついた心を思い切り癒されたい。潤いが、癒しが欲しい。苦労は報われるって、見せつけて欲しいっっ!!


――ああ、いかんいかん。久しぶりの明るい兆しに、テンションがだいぶおかしくなってる……


 実際、家賃だけは、どうしてもという夫君の厚意に甘えているが、生活費その他までは固辞させていただいていて、主にあたしのバイト代で賄っているのだ。半分ニートのようなマダムの暮らしぶりに、贅沢は敵。その辺りは社会に対するケジメのようなモノだと思っている。あたしが勝手に。

 まあ、そのせいで、正直、生活はかなり苦しい。預金残高も、かなり寂しい事になって来ている。今回の仕事は、そんな状況で舞い込んだ、誠に有り難い仕事だったのだ。

 


 にもかかわらず、締め切りを翌日に控えても、マダムのやる気は、全くやって来る気配もなかった――



 間の悪い事に、中古ゲーム店で数百円で手に入れてきたソフトがクリア間近だとかで、原稿を書く為に机に向かった筈なのに、気がつけば、携帯ゲーム機をピコピコとやっている。それとなく、そろそろ始めないと間に合いませんよ的な事を、プレッシャーにならない様に気を遣いながら、遠まわしに言ってみたものの、マダムは一向にその気になってくれない。


 これはもう、心を鬼にして、自称繊細だとのたまうマダムを、

「お前、何様のつもりだ!」

 などと、どやしつけてやろうかと思っていた矢先のことである。


 マダムの携帯から、ターミネーターのテーマが鳴り響き、どうやらちょうど何度目かのステージクリアに失敗したらしいマダムが、不機嫌そうに舌打ちをして携帯を手に取った。と同時に、地獄の底から湧いてくるような声で、

「あぁ?」

 と、凄みを利かせたヤンキーの様な応対をする。


 きっと携帯の向こうの人は、電話したことを後悔しているに違いないと思いながら見ていると、どうにか会話は途切れずに繋がっている様だ。


 これは、相手が余程大人か、鈍いかのどちらかだろう。

「……ああ、分かった」

 そう言ってマダムは携帯を切ると、資料の山の上に追いやられていたキーボードを掴んで目の前に置き、徐にキーを叩き始めたのだ。


 それからキーボードの音は途切れることなく、あたしが淹れたコーヒーに口を付けることもなく、マダムは物凄い集中力で、執筆を続けている。よく神様が降りてくるという話を聞くが、これがまさにそういう状態なのではないかと思えるほど、神がかり的にマダムの指は滑らかに動いていた。


 そして、カーテンの隙間から、朝陽が差し込んでくるのと同じ頃に、マダムが最後のキーを軽快にポンと弾いて、見事に一つの作品が完成した。

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