2話 堕落する人間、背反の思想

世界全土で時が止まった、という異常も異常、奇奇怪怪な事態は結果的に解決されなかった。世界中の科学者を初め各界の権威と呼ばれる人々が不眠不休でこの事態の解決と打開策を打ち出そうとしたが、それは不可能だった。打開策はおろか、原因すら突き止めることは叶わなかった。先人達が考えたどんな理論も数式も哲学も、この事態の解決には何の役にも立たなかった。最新の科学も何もかも、だ。

いつしかこの事態の解決は不可能、という考えが世間では一般化し、誰もこの事態をどうにかしようとは考えなくなった。諦め、という言葉で表すのが正しいだろう。

無論、世界には今でもこの事態について研究している人間は多くいる。しかし、二十年以上経った今でも何の進展も確認されていない。事態の解決は絶望的だ。

人々はこの事態を受け入れ、その上で生き永らえる術を模索し始めた。

故かこの国にだけ訪れる猛暑の原因も勿論解明されていない。だが、そんなことは関係なく猛暑はやってくる。

猛暑になれば、たまには普段と違う天候を楽しみたいと観光客は増え、貴重な金銭の流通が増える。経済は無論活性化する。

しかし、経済が活性化しようと猛暑は短すぎるため通常の作物は勿論のこと、高い温度でしか育たない植物も時間が足りずに結局は育たない。その上異常な気温のために家畜は死に逝き、食に関する事は通常時より悪いことが圧倒的だ。だが、人間と云うのは金銭の流通が何より嬉しいらしく、深刻な食糧不足を経験しながらもその対策などが講じられている様子はまるで無い。それが愚の骨頂であると理解していてもその繰り返しの環から脱却できないのが、人間が実に愚かしい生き物で4あるという良い例だろう。

時が止まりもう二十数年が経った。

その間に失ったものは数知れず、得たものはこの状況を受け入れ生きていく為の術。人が生きるこの星は、他の生物にとっては宗教で言う地獄の何十倍も苦しいものだった。自分達が星を滅亡へと追いやっている原因だというのに、被害者面をしながら今までの行為によって廃れた星を再生しようとする。実に愚かな生物だ。そして、彼等もまたその愚かな生物のうちの1人なのである。

探偵、情報屋、殺し屋・・・どれもが現代ではメジャー、表社会での仕事だった。時が止まり退廃した現代では、表社会は衰退し、裏社会がその勢力を増し、その立場は逆転した。表社会は地下へ、裏社会は表へ。彼等は現代で言う"表"の人間だった。

治安の悪い、裏社会が台頭する現代では裏社会を取り仕切る所謂"極道"に対して商売をし安定を図ろうとするのが一般的だ。以前より構成員の戦闘力のある彼等が力が重要視される世の中の中心となるのは自然の流れだった。そのため、探偵や情報屋と言った彼等に情報を提供する仕事や殺し屋など彼等の要望に応える仕事に就く者が急激に増加した。それが裏社会台頭を更に加速させ、表社会と呼ばれた綺麗な仕事は衰退の一途を辿ることとなった。

現代の表社会で有名な探偵事務所、情報屋、運送屋、殺し屋と裏社会で有名な国唯一の公式的組織・武装警察を構成するメンバーたちには全員に共通点があった。

それは、"増死系孤児"であること。読んで字の如く世界中で死者数が大幅に増加した時期に生まれ何らかの理由で孤児となった子供達のことだ。一言で増死系孤児と言っても4つの階級ランクが存在する。彼等は皆同じ階級だった。その階級には彼等しかいなかった。全員で17人。閏達4人と彪達3人、巽達3人の他の7人も同じく表社会で活動しているのである。


[1]首都K区α駅

平日の朝。昔は世界一の乗降客数を誇ったこの駅にも、今では人の姿は一人も見受けられない。国営であろうと私営であろうと、現代に鉄道会社など存在しない。交通手段は徒歩か自家用自転車、自動車が一般的だ。稀にタクシーも見かけるが、利用する者は殆どいない。

職員さえも居ない駅の改札口前に1人の男が立っていた。若い男だ。男は何をするわけでもなく、ぼうっと宙を眺めていた。洒落ているが動きやすさも充分に考えられた機能性ある服をすらりと着こなしている。色は白く、何処を見ているのか分からない瞳は実に穏やかだ。時折吹く少しの風にさらりとなびく黒髪は美しく、全体的に儚げな印象を受ける。

服装や容姿は一般人と何ら変わりない。ただし、彼には一般人とは異なる点があった。

右手に持たれた木の杖。日常生活で杖をつく人間など、怪我人かリハビリ中の人間かそれとも年をとった老人か。彼はどれでもない。彼は生まれたその時から全盲なのであった。

「ああ、いたいた。悪いねぇ、待たせちまって。」

彼以外誰も居ない駅に女の声が木霊する。声がするほうに振り向く。その動作も実に自然だ。目も閉じていないため、杖でも持っていなければ見ただけで彼が目の見えない人間だと判断するのは難しい。

女は軽く謝罪の言葉を述べながら男に近づいた。彼は彼女を待っていた。

「気にしなくて良いよ。紫月しづき、そっちも忙しいんでしょ?」

「お陰さんでね。・・・取り敢えず移動しよう、ここじゃ人が来る可能性もあるしね」

紫月はクスリと笑いながら答えると男-いみの腕を取った。成人男性にしては細い腕だ。それは過保護なある人物のせいなのだが。

ゆっくりと歩きながら斎を誘導する。真っ直ぐだよ、右に曲がって、足元気をつけて、と目的地までナビゲートする。斎はその声に従いながら杖をついてゆっくりと歩いている。紫月も速度をあわせた。

斎と紫月がこうして会うことはよくあった。それは仕事のことでも、それ以外でも。とは言え仕事以外で全盲の彼と外出する事は出来ないし何より"彼"の許可が下りないだろう。彼と仕事以外で会うとすればそれは彼の家でくらいだった。そのため最近はあまり会っていない。理由は自分の仕事が忙しくなったことが大きい。

10分程度歩いたところで昔は人が住んでいたであろう使われていないアパートに辿り着いた。足元へ注意を促しながら鉄骨階段を上がる。階段を上がって2番目のドアを開く。ドア横のネームプレートは何かが書かれていたようだが割れていて読むことは出来ない。

「どうぞ、汚いところだけど・・・ってアンタには分からないかね」

入ってすぐにある玄関。自身の靴を脱ぎ、彼の靴も脱がせる。しゃがんだ際に床に積もった埃に紫月は顔を顰めた。

「いや、なんとなく埃っぽい。本当に手入れしていないんだね」

「まあそう言ってくれなさんな」

頭上からふふ、と小さな笑い声が聞こえる。見ると手で口元を隠しながら楽しそうに笑う彼の姿があった。紫月が靴を脱がし終えるとありがとう、と言って見えないはずなのに下を向いた。紫月はそんな彼に微笑みかける。一生、見えることはないのだが。

玄関から一歩入ればそこはもう畳の部屋だ。この部屋は所謂ワンルーム、というやつである。

「それにしても、見えなくてもわかるくらい埃っぽいかい?私にはわからないんだけどねぇ」

部屋の中央に置かれたちゃぶ台と2枚の座布団。座布団に斎を座らせると、紫月は部屋の端に置かれたシンクに向かう。そしてやかんをさっと洗うと水を入れて火にかけた。

「生まれてからずっとこうだからね、鼻と耳に頼りっぱなしなのさ。だから人より少し敏感なだけだよ」

「ふぅん・・・そういうもんかね」

慣れた手つきで2つのカップにインスタントの豆と砂糖を入れる。1つはスプーン1杯、彼は甘めが好きだからもう1つは3杯。紫月の返答によって会話が途切れ、部屋にはコーヒーの準備をする音しかない。だがその空間は決して気まずいものではなく、寧ろ心地よいくらいだった。彼等はそれくらいに互いを信用している。

何の会話もないまま数分が経つとやかんから白い湯気が出始めた。火を止めカップに湯を注ぐとコーヒーの香りが漂う。それは上質なものではないが、紫月はこの埃っぽい部屋で彼と飲むこのコーヒーの味が好きだった。

「はい、熱いから」

気をつけて、と言おうとすると斎の手が急に宙をさまよう。危うく差し出したカップに手が当るところだった。急いで手を引いたおかげでコーヒーがカップの中でゆらゆらと揺れている。

「ちょっと、いきなりどうしたんだい」

「何と無く掴めそうな気がしたんだけれどね・・・」

「はあ・・・ほら、気をつけてくれよ」

今度はいつもの様に大人しくしている斎の手をとり、カップの持ち手を持たせる。彼が持ったのを確認すると、向い側の座布団に腰掛ける。よいしょ、と言ったらおばさんくさいねと言われて少しむっとしたが、こんな軽口がきけるのも今だからこそだ。癪だが、斎がこんな風になったのも全てあの男のおかげだ。

「こぼさないよう気をつけな、畳が汚れても困るからね。それに、アンタも火傷しちまう」

「畳のほうが優先順位が上なの?」

「ああ、悪かったよ」

「ふふ、構わないよ」

本当に、この空間が心地いい。こんな世の中でも、彼は綺麗なままだ。あんな幼少期を過ごしたのに、彼はこんなにも純粋なままだ。それもこれも何もかもあの男のおかげである。そのことがどうしようもなく受け入れがたく、癪だ。

「・・・さて、そろそろお仕事の話でもしようか」

左手でちゃぶ台を触りその位置を確認してからカップを置く。見えるはずもないのに開いた瞳は紫月を見据えている。改めて姿勢を正した斎とは違い、紫月は頬杖をつきながらコーヒーの水面を眺めている。

「仕事の話、と言っても本当にただ話すだけなんだけれどね」

「そうさね、相手が相手だ。用心する事に越したことはないよ」

「・・・紫月」

「何だい?」

仕事の話を始めたかと思えば、不意に間を空けて名を呼ばれる。落としていた視線を上げると斎はぐちゃりと歪んだ表情を浮かべていた。目が見えないから、表情なんて分からない。だから顔を動かしても、それがどんな顔であるか自分で分からない。だから彼の表情はいつだって歪んでいる。そこから考えていることを読み取れるのは、やはりあの男しかいない。

「これは仕事じゃなくて、個人的な話なんだけれど・・・あまり、無茶はしないほうが良い」

歪んだ表情とは反対に、その言葉は優しいものだ。労わるような言葉に、紫月は目を細めた。

「・・・ま、こんな仕事だからさ。多少の無茶は仕方ないさ」

「それでも、友人が傷つくのはあまり見たくないからね。・・・見たくても見えないのだけれど、ね」

表情からは分からないがその言葉自嘲気味だった。思わず返答に困る紫月と斎の間に静寂が訪れる。それは先程のように心地良いものではない。

「ああ、黙り込まないでくれよ。振ったのは僕だ、気にしていないよ。それに、この目だって今に始まったことじゃない。生まれた頃からずっと付き合ってきてるんだ」

「・・・」

「もう慣れたさ。逆に何か見えるほうがどこか奇妙に感じるよ。と言っても見える、というのがどんなものか分からないんだけれどね」

見ただけでは分からなかったが、会わなかった間に彼に何かストレスが溜まるようなことがあったらしい。口では平気だ、慣れたなどと言っていても気にしないわけが無い。一般人ですらない自分達のなかでも人とは違う存在。彼はいつでも怯えている。いつか、自分が皆に取り残されてしまうのではないかと。

「悪かったね、自分で仕事の話をしようと言ったのに。さあ、今度こそ本当に仕事の話をしよう」

話の転換のために叩こうとした手はすれ違い音をならすことはなかった。そんな彼がひどく哀れに思えた。


[2]首都K区

時を同じくしてK区に建つ高層マンション。現代では珍しく美しい外装のまま保たれたそこのとある一室で、奇妙な男女の珍奇な会話が繰り広げられていた。

「あありょう様、今日もお美しい・・・」

感嘆の溜め息を吐き、恍惚とした表情を浮かべる女と

「煩い、黙ってろ」

広いリビングの窓辺で椅子にゆったりと腰掛け、手元の本に視線を落とす着流し姿の男。

関係がイマイチ理解しがたい2人は、増死系孤児であり閏や彪達と同じ階級に属する人間だった。今では表社会最大級の情報組織・信椿しんちんの第十二支部として活動していた。

「涼様と同じ生物であること、この春天あつあま、心より感謝いたします・・・!」

そう言いながら涼に向かって跪く女は名を春天といった。彼女はその生い立ちもさることながら、性癖も少し、いやかなり変わった人物だった。

彼女は先程から読書に耽る涼という男を心の底から愛していた。愛、というには少々語弊というか齟齬がある。言葉で表せるような感情ではないが、最も近い言葉はそう、崇拝だ。偶像崇拝。そんな言葉が彼女の感情を最もよく表せる言葉だろう。

彼女がいるのでは読書など出来やしない。跪く彼女を尻目に涼はリビングに隣接するキッチンへ足を運んだ。跪いていた春天も涼の後ろに付いて行く。涼の行く所が彼女の行く所でもあるからだ。シンクには今朝の朝食の後洗った食器が拭かれずに置いてあった。面倒だな、と思いながらも一番奥に置かれた冷蔵庫に向かう。

読書に夢中でもう小一時間ほど何も飲んですらいない。渇いた喉を潤そうと冷蔵庫を開くと彼はその中に入れられたものたちに顔を顰めた。

「・・・お前さ」

「なんでしょう!」

振り返ることもせず自分に付いてきた春天に声をかける。涼がただ一言声を発しただけで途端に顔を紅潮させながら息を荒げ返答する彼女を彼は一切気にしない。こんなことは今に始まったことではない。だが、彼女と2人きりというこの状況は好ましいことではない。早く帰ってこないか、と今は仕事で外出しているもう1人の同居人に念を送る。届く筈もないのだが。

「いい加減冷蔵庫にこういうの入れとくのやめてくんない」

こういうの、と彼が指差す先にはいくつものガラス製の容器。高さは500mLのペットボトルと同じくらいだが、横幅は20cm程度あり、容積は2Lのペットボトルと変わらないくらいだろう。そしてその中には一般人なら見る機会もないであろう、見たとしても心の弱い者なら卒倒でもしそうな代物。-ホルマリン漬けにされた目玉や臓物。勿論人間のものだ。

「何故です?」

「いや、衛生上よろしくないだろ」

「大丈夫です、完全に殺菌消毒しておりますので!」

春天-普通と云うにはやや歪んだ愛を持つ少女。彼女は薬学の権威と言っても良いほど薬剤に精通していた。本来ならその力を世のために活かすべきであろうが、彼女にとって世の中など価値のないもの。彼女の世界は涼と自分によって成り立っていた。だから涼が信椿の構成員になると言ったとき彼女もそれに付いたのだ。

しかし情報屋となった今も、彼女は個人的に薬学を学び実験を行っていた。その証拠に、彼女の部屋は本と実験道具が散乱している。散乱した使用済の実験道具は勿論消毒されているが何に使ったものかも分からない。

最近は人体に有毒な薬の開発にお熱らしいが、何故そんな薬を作ろうとしているのかは大体想像がつく。よくその話を1人で話しているがたまに拾える単語は薬学に精通している者でない自分にはよく分からないものだった。彼女の薬学に関する話を理解できるのは唯一閏くらいのことであろう。そして、その薬の開発の実験に知り合いから身元の分からない死体を貰ってきては解剖して薬の効果のほどを確かめているらしい。薬のためかそれとも死体のためかは分からないが、彼女はこうして度々パーツを何かの液体に漬けたガラス製の容器を冷蔵庫に大量に入れている。昔それをやめろと言って冷蔵庫を彼女の部屋に買い与えた。それはもう大きな業務用のものである。しかし、それでも足りないのか今でもこうして共用の冷蔵庫に大量の容器を保存している。

ニッコリと告げる彼女に溜め息を吐きながらガラス容器の並ぶ棚の一番端に置かれた至って普通のペットボトルに手を伸ばす。中にはこれまた何の変哲もない緑茶が入っている。これ全部片付けとけよ、と言いながら緑茶を取り出して冷蔵庫を閉める。そして、読書を再会しようとリビングに戻ろうと振り返った涼の腹に何か冷たいものが当った。

「・・・」

冷たいものの正体はシンクの上に置かれていた洗った後拭かれていない包丁。それを涼に突きつけているのは無論後ろにいた春天だ。

理由は分かっている。彼が手に持ったペットボトル、正確に言えばその中に入った緑茶だ。これは昨日斎が涼に協力してもらいながら沸かしたものだった。

「それをお飲みになるのです?」

身長差のせいでこちらを見上げる形になった春天に何も魅力を感じはしない。彼女は笑顔のままだがそれは先程までとは違い瞳だけが笑っていない。

「そうだよ、いいから退け」

普通の会話をするように話す涼と、数段声の低い春天。涼は彼女のことを特に何とも思っていない。逆に彼女は彼をこの上なく愛している。熱の差だった。

「それは私の沸かしたものでも、まさか涼様ご自身で沸かされたものでもありませんよね・・・?」

「ああ、これは斎が沸かしてくれた茶だよ、お前も見てただろ」

「ええ見ていました、それはもうはっきりと。何ならそのときの涼様と私の会話を全て暗唱して差し上げましょうか」

「いらねえよ、いいから退けっての」

斎、と名前を出した瞬間腹に当てられた包丁に込められた力が強くなった。面倒な奴だ、と涼は額に手を当てる。いつも茶を沸かすのは春天だった。自分がやっても良い、寧ろ自分でやりたいくらいだが、何かしようとする度に彼女の妨害にあう。盲目の斎は無論茶など沸かしたことがなかった。しかし、それでは申し訳ないと斎は自分で茶を沸かしたいと言い始めた。目が見えない彼に1人で火を使わせる訳にはいかないが、彼は案外頑固だったりする。だから彼をサポートしたのだが。

「いいえ退きません。茶くらい私がいくらでもお作りいたします、なので斎の野郎が作ったものなど口になさらないで」

「お前ね・・・」

春天の斎への異常な嫉妬はいつものことだ。斎が絡むといつもこんな感じではあるのだが。

早く帰って来い、仕事に出た斎に再度そう願う涼。2人の日常は変わらない。


[3]首都H区

「ねーむーいー!ねむいねむいねむいねむいねむいねむい!」

「煩いよ」

ドラマや小説でよく見かけるような廃工場とそこに響く2つの声。長ランを着た女は俗に言うヤンキー座りで眠いと大声で嘆いている。素行のよくなさそうな女の隣には正反対に品の良い佇まいの男。

2人は運送屋を生業としていた。運送屋、と言っても運ぶのは普通の荷物ではない。非合法のものや犯罪に関わるようなもの、時には死体なども。

「ていうか遅くね?もう約束の時間2分も過ぎてんだけど」

「仕方ないだろ、良いから静かにしてろ」

「ちぇー・・・へいへい、わかりましたよっと」

格好こそヤンキーの様だがこう見えてはしたは真面目な性格だ。約束を破るようなことはない。彼女の兄の影響だろう。

2人が待っていたのは、一般的に"ヤクザ"と呼ばれるような組織に属する人物だ。しかも幹部クラスである。

「まぁ涼のクソヤローの言うことはビタイチ信用できねぇが、春天も言ってたし。今日の荷物は間違いねぇんだろーなー・・・運びたくねぇ」

「零、君も一応女の子なんだ。クソヤローとか言うんじゃないよ」

「るっせぇな・・・いいだろ別に。皆が皆テメェみたいに良い育ちだと思うなよ?」

「良いも何も育ちは殆ど同じだろ」

女のわりに言動が男っぽい零をたしなめる麗星いぶはさながら保護者といったところだろうか。全く違う性格の2人だが案外相性は良い。だからこうして同じ仕事をしているのだ。

約束時間を5分過ぎても待ち人は現れない。麗星も流石に顔を顰めた。

「いっつも気持ちわりぃくらい時間守るあのカマヤローが遅れるなんてどうしたんだか」

「御待たせ致しまして申し訳有りません」

胸元まで伸びた茶髪の毛先を弄びながら呟く彼女の問いに答えたのは、麗星でも待ち人の"カマヤロー"でもなくいつの間にか彼女の背後に立っていた女だった。

「のわっ」

その存在に驚き零と麗星は急いで距離をとる。

2人はこの廃工場の一つしかない入り口の方を見ていた。廃工場だが、入り口は一つしかない。住宅街から程よく離れ、人通りも0と言っていいほどないここには何度も来たことがある、入り口が1つしかないのは随分前に確認済みだ。だがこの女は何故か零の背後に立っていた。どこかを壊して入ってきた気配も無い。

「ちょっとおねーさん、何者?いつ入ってきたわけ?」

「つい先程です」

「どっから入ってきたのさ」

「入り口、ですが」

あそこの、と指差す先には確かに人1人なら通れそうな穴。しかし入り口、と言うよりはただの穴だ。あそこから入ってくるなら匍匐前進をする他ないだろうが、人が這うような音など一切しなかった。

零も麗星も運送屋と言えど、それなりに危険な場に遭遇してきた。それに、彼等は幼少期同じ男から戦闘の技術を学んでいる。そして彼等は永い間この社会にいる。それなりにそういうスキルを持っているのだ。特に零などは人の云百倍気配に敏感だ。その零に気付かれずに彼女の背後を取ることがどういうことなのか。麗星は唾を飲み込んだ。

「挨拶が遅れました。私、桜深会おうみかい聖総組せいそうぐみいずと申します。驚かせるつもりはなかったのですが、驚かせてしまったようですね。申し訳有りません」

軽く頭を下げる女。上質そうなスーツを身にまとい、触り心地の良さそうな柔らかな黒髪は短く切られている。その姿は事務職の女性と見まごうものだが、彼女の肩書きを聞けばそれがかえって不気味さを引き立てた。

「えっと、和勺かしゃくさんは・・・」

桜深会。表社会の全てを裏で取り仕切る最大の極道一家。もとはただの極道一家だったが、その強さで他を捻じ伏せ、時の止まった社会で最も手を出してはいけない集団と恐れられた。そして弱い組がその傘下となっていくうちに組織は巨大化し、桜深会という名のもと、更に組織を細分化した。その中核であり、大元の一家が聖総組だ。寧ろ、桜深会の全ては彼等聖総組であると言っても良い。それほどまでに強大な権力を持つ組なのである。そして、彼等の待っていた和勺はその聖総組の現若頭であり、組長が全く姿を見せない今の聖総組では実質そのトップと言って良い。

「和勺殿は急用のため代理で私が参りました。荷物も預っております」

急用は何かと尋ねる隙など一切なく、これ以上の深入りを牽制するかのような声音。荷物、と言って胸元から取り出したのは薄い茶封筒。

未だ距離をとったままの2人だったが、彼女はこちらに危害を加える気はないらしい。しかし相手が聖総組の構成員である限り気は抜けない。警戒を続けながら麗星は彼女から茶封筒を受け取る。

「確かにお預かりしました。伝票にサインを」

茶封筒の表に伝票を貼ると、サインを求める。ペンを胸元から取り出しサインすると、彼女は懐から財布を取り出した。

サインを確認すると麗星はそれを一歩後ろの零に渡す。サインは何が書かれているのかわからなかった。アルファベットでもない、ヒエログリフのような文字だった。

「代金です。額の確認を」

そう言って彼女は財布から数枚の紙幣を取り出した。非合法のものを運ぶ彼等の仕事には危険が付きまとう。過去に組同士のいざこざに巻き込まれた事もある。そのため、依頼料はそれなりに高額だ。貴重な紙幣を数枚受け取るとその額を確認する。和勺は昔からの客だが今でもこうしてそれなりの額を出してくれる。所謂上客だった。

「はい、こちらも間違いなく。では又のご利用を」

「これからもよろしく」

営業用の笑みを浮かべる麗星と、封筒を手に仏頂面で告げる零。2人は用が済むと直ぐにバイクで何処かへ向かっていった。彼女といる空間はさぞかし居心地の悪いものだっただろう。

「・・・えぇ、よろしくお願いします」

2人の消えた廃工場で呟く焉。エンジン音が聞こえなくなる頃、彼女は今まで一度も変えなかった顔に微笑みを浮かべた。

「セキュリティはザルなもの。貴方が直接手を下すまでもありませんよ。

-とらつぐみ殿」


[4]首都L区

黒の革鞄を胸に抱く、くたびれたスーツのサラリーマン。現代では真っ当な企業や仕事は少ないが、全くないというわけではない。彼もその真っ当な職に就く人間の1人だった。つまりは裏の仕事に就く人間。

しかし、この社会で生きていくのに表の社会との関わりを全く持たないことは不可能だ。裏の仕事と表の仕事で連携している場合も多い。

そして今彼の眼前にある古びたアパート。他の部屋に住人などいないアパートの3階に表でそれなりに有名な探偵事務所があった。3階までは入り口右手のドアを上れば直ぐだ。ごくりと喉を鳴らし僅かに手を震わせながら男は入り口をくぐった。

永田ながた探偵事務所。彼が訪ねようとしている探偵の名前である。表で最も有名な探偵といえば宮倉みやくら探偵事務所だが、永田探偵事務所はその傘下だと専らの噂だ。前者はただの素行調査など請け負わない。荒事や特殊な技能を必要とする調査、一般人では手出し出来ないような案件、法に触れるような案件、そんなものを中心に動いている。それなりに報酬も高額で、政府や武警との繋がりもあると聞く。要するに一般人が関わるにはやや危険な組織だ。一方、後者である永田探偵事務所の主な活動は一般的な探偵業務。一般的、と言っても浮気の素行調査だとかそんなものではない。現代において探偵に依頼する一般的な仕事とは殺人や傷害事件の犯人探しと決まっている。国の公式的な組織は武装警察しかなく、彼等はテロや暴動を鎮圧するような組織だ。無論通常の警察業務も仕事のうちだが、税金制度が無くなった今、彼等の力を借りれば多額の金がかかる。そのため、何か事件が起これば探偵に解決を依頼するのが普通なのだ。

この男もつい先日、仕事から帰宅すると娘と妻が殺され家中の金品を奪われた。強盗殺人の被害者というわけだ。仕事はここ数日休んでいる。何をする気にもならなかった。そんな時、彼は昔風の噂で聞いた探偵事務所を思い出した。それが永田探偵事務所であったわけである。

階段を上がると3階に部屋は2つしかなかった。1つは窓ガラスがことごとく割られ、ドアはその役目を失っている。ともなれば事務所はもう1つの部屋だ。ドアの横のネームプレートには前住人の名前の上から乱雑な字で"永田"と書かれていた。インターホンはあったのだろうが剥がされた跡がある。とすればノックするしか手段はない。震えていた手を一層震えさせながらドアをノックしようとした彼の背に声がかかった。

「「おまえ、客かー?」」

子供特有の高い声。振り向けばそこにいたのは双子の子供-夢と骸だった。

突然声を掛けられ、驚いた男は胸に抱いていた鞄をその場に落とす。声の主が子供だとわかると、やや安堵したように胸をなでおろした。

「な、永田探偵事務所の人かな・・・?」

「おう、そうだ」

「はやく入れよー」

双子に背を押され、男は鞄を拾いながらドアをノックした。入れ、と言われたが普通はノックくらいするのが常識ではないだろうか。

「あーあ、ノックしちゃったな」

「ばかだなー」

そんな男に溜め息を吐く双子。何のことやらと思っているとドア越しにくぐもった声が聞こえた。

「おんし、客か?」

先程と全く同じことを聞かれた。ここにはそんなに客が来ないのだろうか。それとも来る度にこうしているのだろうか。

「そ、そうです。依頼があって・・・」

「哲学は好きか?」

「・・・はい?」

突然の質問に戸惑う男。探偵に依頼をしに来た客にする質問ではないだろう。いぶかしむ男に双子は再度溜め息を吐いた。

「ほーらなー」

「めんどーなことになったなー」

顔を見合わせる双子。男は質問の意図を探りながら質問に答えた。

「いえ、特別好きというわけでは・・・」

「そうかぁ、残念じゃなあ」

聞こえてきたのは心底残念そうな声。全く意味がわからない。一体何なのだ、と問うとした男よりも先に先程から溜め息ばかり吐いていた双子が口を開いた。

「その存在は石をつくった段階では"石をつくれる"」

「そしてその存在は全能であるからその石を後からいくらでも軽くすることができる」

急に話し始めた双子。男にはその内容は全く理解できない。哲学が好きか否か、好きではない、たったそれだけの会話から一体何を読み取りそんな話を始めたのか。戸惑う男を他所に双子はドアを小さな手で殴っている。

「はやくー」

「疲れたんだよー」

「「たーつーみー」」

親に菓子をねだるように言う双子に何がなにやら思考がついていかない。

「あーあー、おんし等そう答えをうなとぎっちり言うてるだろ・・・?」

呆れた声がしたと思えばガチャリ、と音がした。恐らく鍵の開いた音だ。

音を聞くや否や双子はドアを開けるとはしゃぎながら部屋に入っていった。男は自分だけ取り残された気がすると思いながら恐る恐る閉じかけているドアを開いた。中を覗くとあの双子がこちらを振り向いていた。

「おまえも入れよー」

「客だろー」

この探偵事務所にまつわる様々な噂を耳にしていれば、ここに近づきたいとは思わないだろう。そしてなるべく長居はしたくない。そんな男の考えなどわかるはずも無く、双子の無邪気な声が響く。子供がいれば滅多なことにはならないだろう、とやや安堵した思いでゆっくりと部屋の中に足を踏み入れる。

室内には照明と呼べるものはあるのにその役割を果たしているものは一つもない。雲の隙間からほんの僅かに差し込む光が部屋の一番奥に唯一ある窓から注いでいる。

光のない部屋など珍しくはないのに何故か背筋に悪寒が走った。そして後悔した。やはり、ここに来るべきではなかったと。

「まあ、ゆっくりしていくといい」

「「おまえ"客"だもんな」」

「・・・ひっ」

思わず声を漏らした男の背後にはいつの間にかあの双子がいた。閉めた覚えのない部屋のドアは施錠されていた。

男の前には、先程から全く動かない20代前半くらいの男。恐らく彼が先程ドア越しに問答していた人物だろう。窓から差し込む光を背に、事務机に行儀悪く足を乗せて組む男からは威厳は全く感じられない。それが更に恐怖を増長させた。

いつの間にか止まっていた震えがまた始まる。冷や汗のせいで濡れたシャツが背中に張り付いていて気分が悪い。後ろにいた双子がゆっくりと男の視界に入ってくる。2人の表情には先程の無邪気な雰囲気は全く感じられない。年齢にそぐわない大人びた表情だ。


「「「ようこそ、永田探偵事務所へ」」」


3人の声が響く。子供特有の声の高さは消え失せ、成人と同じような低い声が両の耳から身体の中へ染み込む。双子の声は眼前の男と同じほど低かった。バリトンとまではいかない、テノールボイス。彼等からは一般人である男には察知できないほど微々たる殺気が放たれていた。

「・・・それで、本日の依頼は?」

足を組む男が笑顔で問う頃には、彼の意識は既に闇の中だった。


[5]場所不明

もう飽きたと言わんばかりに頭を振った。薄暗い室内は昨日の今頃に居た空間と酷似している。その時の事を思い出せば、どうしても頭に浮かぶのは"あれ"の事である。

いつか、いつかと先延ばしにしていた結果がこれだと己の優柔不断さを嘲笑う。冷酷だ何だと言われることが多いが、人間の情というものまでもが失われてしまったわけではないようだ。その何よりの証拠が"あれ"である。彼等がそれに気付くのはいつになるだろうか。

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時止探偵 宜渡 知夏 @Ka28

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