1話 啼き叫ぶ鳥と笑う犯罪者
[1]
20××年-
小説や漫画でよく目にする年号だが、実際に今の年号がこれなのだから仕方がない。今となっては、毎年同じこの年号を口にする者はどこにもいなかった。
この年号になったのは確か二十年以上前。
地球全土で時が止まった。
時間という概念そのものがなくなったと言っても良いだろう。
人や生物の間では時は過ぎていても、地球、ひいては宇宙では時間は止まったままだった。
そもそも、"時間"というものは人が勝手に生み出したものに過ぎない。だが、時の流れというものは元より存在していた。その流れのなかで星が出来、新たな生物たちが生まれ、大陸が移動してきた。
しかし、時が止まった今、そんなことは起こらない。
星が出来ることも、新種の生物が生まれることも、大陸が移動することも、更には惑星が公転・自転することすらも。
この事態は全てのものに支障を来した。
世界全土で、時が止まったその日と同じ天候が今の今までずっと絶え間なく続いている。
それはこの国も例外ではない。
冬から春への季節の変わり目、曇り、生暖かい、しかし決して過ごしにくい訳ではないその気候と気温のまま。
四季は失われ、作物も育たなくなった。
…しかし、この国は世界で唯一、"もう1つの季節"を持っていた。
それは、"猛暑"。
年に1度だけ、1ヵ月程度あるその猛暑によって救われることなど無いに等しい。が、それでも人々は歓喜した。
公転しないこの惑星で何故この国だけが気候の変化を持つのかは分からない。そもそもの事態が科学的に説明できないのだから、このことを説明できるわけもなく。
人間は科学で、自分の知識で説明できないことを実在しないものの所為にしたがる。この国も、世間では"神の恩寵を受けし国"などと呼ばれているのだ。
そして、ある年の猛暑がすぐそこまで迫った1日から物語は始まる。
[2]首都J区において
灰色の空の下、コンクリートで出来た2つの建物の間。人目のまるで無いそこには、3人の男女がいた。成人でないことは確かだが、13も18も見分けることは難しい現代では正確な年齢までは把握できそうにない。
3人はただそこに立っているだけで言葉は交わさない。どういう関係なのか察しもつかないが、静寂に包まれた空気だけが彼等の他にそこに存在している。
女は白いシャツに黒いネクタイを緩く締め、上から薄汚れた白衣を着ている。年季の入ったものであることが伺える。黒い髪を左肩の前で一つにまとめたその姿は研究職の人間の様だ。
男のうち1人は短い茶髪で前髪をカラフルなピンで留めている。軽そうな印象を受けるが、黒いジャージのポケットからのぞくバタフライナイフのせいでその印象はぶち壊しだ。
もう1人は見るからに聡明そうな男。シルバーフレームの眼鏡越しにタブレット端末を操作している。他の2人とは違い高価そうなスーツに似た服をすらりと着こなしている。
言葉を交わすことなく数分が経過した頃、その空気が一瞬で壊される。
一般人では気付くことのない、気付くことの出来ない、蟻の足音と同等な程小さな音。
それを察知した彼等は同時に同じ方向を向く。その先に居た1人の男は飄々とした様子で片手を挙げた。
そして一言。
「やあ、生きてたんだね」
とだけ挨拶した。
それを聞いて1人は溜め息を吐き、1人は額に青筋を浮かべ、1人は変わらず動かなかった。
「…遅いぞ
「相変わらず細かいなあ、華ちゃんは」
「この場で射殺されたいか?」
四瀬という男は飄々とした態度を崩さずにこやかに告げる。
彼は3人とは違い一般的な服装をしている。お洒落、という言葉がよく似合う、そんな格好だ。時が止まってからというものファッションだのの娯楽は廃れていき、流行などは特にないが彼の格好は見た目の年齢には相応の服装だった。艶のある黒髪をなびかせにこりと笑う様は大抵の異性ならその気にできそうなものである。
まあ、それはあくまで異性なら、の話である。華ちゃんと呼ばれた男は、その呼び方が気に入らないのか、不愉快そうに眉間に皺を寄せていた。
「良いからとっとと殺しちまえよ、
「あれ、
「あ?」
横から口を挟んだのは夜久。会話の内容から察せるように、四瀬との相性は最悪だ。今だって、互いに溢れる殺気を抑えようともせず睨みつけあっている。
華海はさも面倒臭そうに、本日何度目か分からない溜め息を吐いた。
ただ1人立ち尽くしたまま微動だにしない女性-否、未だ少女と言った方が正しいのか-はその黒い瞳に灰色の世界を映していた。
「あまり喧嘩をしてくれるな。否、喧嘩だけならまだ良いが、この前みたいな事はもう御免だ」
心底うんざり、といった様子で話す華海とは反対に、彼等の間の雰囲気は悪くなるばかり。
「この間の件はどこをどう見ても絶対こいつが悪いでしょ」
「お前が避けるからだろうが。あの時ナイフが刺さってりゃ、
「はあ?そもそも吹っ掛けてきたのはそっちでしょ、自分の言動すら覚えてられないわけ?」
「お前との会話なんていちいち記憶する程の価値もねえよ」
口論は次第にその激しさを増していく。内容は徐々に過去の喧嘩の事へ移っていった。
つい先日のことである。彼等は天気と同じく今日の様に口論をしていた。そしてそれは取っ組み合いの喧嘩へ発展し、ナイフを投げ合ったり銃を撃ちあったりとそれはもう暴れに暴れた。
その時をなぞるように眼前の彼等は互いを罵倒しあっている。
喧嘩なんていつものことで、その終わりかたもいつも同じだ。
「いつになったらその犬も食わない論争は終わるんですか」
少女のあどけなさを欠片も感じさせない女性特有の高い声。建物の間の狭い路地にはよく通った。声を発したのは先程から微動だにしなかった少女。声を発した-動いたと言っても動かしたのは声を発するのに必要最低限の動きであり、口を動かしたたけだ。表情にも手足にも変化は見られない。
だが3人は感知していた。
「…閏ちゃん、怒ってる?」
先程までの威勢の良さはどこへいったのか、明らかに怯えた表情を見せる夜久と四瀬。吠えていた番犬が絞め殺されそうになっている様な表情の変化をその目に映しながら、閏は変わらず口だけを動かした。
「いいえ、怒ってなどいません。疑問を提起しただけです」
動きだけでなく、言葉までもが一昔前のロボットのようだ。それに慣れている華海と夜久は、自然とその頭で最良の答えを導き出していた。
いつの間にか物騒な言葉が飛び交う口論など見る影もなくなっており、1人の少女に怯えている3人の男、という何とも奇妙な図が出来上がっている。
夜彦と七瀬の不仲は今に始まったことではない、今回の様な喧嘩も然りだ。そして、それは少女‐閏が口を挟むまで、と決まっている。それは暗黙の了解だ。何故なら彼女が口を開くことなど滅多にない、そんな彼女が口を挟むということはイコールいい加減にしろということだ。つまりは怒っているのだ、といっても微々たるものだが。口では怒っていないと言っているが、本心をそのまま口にしないのは別段おかしなことではないし、彼女はそもそも感情が乏しい。怒りという感情がどの程度のものなのかを正確に理解できていないのだ。
とはいえ、彼女が怒りを顕にすれば一体どうなるのか3人は知っている‐その身をもって。
だから、彼等がとるべき行動は1つ。
「…ごめん、閏」
「俺も止められなかった、悪い」
謝罪、それのみだ。
夜久も華海もその身体をきれいに90度折り曲げている。
これこそが模範解答、100点満点の行動だ。
怒ってなどいない、と彼女は主張しているが、彼女が怒りを覚えているのは長年共にいる者が見れば明白だ。怒っている彼女に効くのはただ一つ、謝罪のみだった。他のどんな言葉も行動も意味を成さない。彼女が天才、と呼ばれるほど頭の回転が早く、戦闘技術も自分達と比にならない程であると彼等は知っているのだ。
「疑問に謝罪で返す、国語的に可笑しいと思いませんか?それとも、貴方達はこれまであの人に教えられた義務教育では補えない程に…阿呆なのですか?」
つらつらと淡々とすらすらと。
暗記した台詞を暗唱する様な彼女の口から出てくるのは熱のこもらない冷めた言葉たち。
それでも夜彦と華海は頭を上げようとはしないし、何か言おうともしない。そんな2人を横目に彼女はもう一度口を開いた。
「四瀬さん」
「は、はいッ」
四瀬もどうすべきなのかは知っていたが、彼は咄嗟に行動をおこすことが出来なかった。
未だに夜久と言い合っていた時と同じ姿勢でぼうっとしながら3人の会話-成立はしていないが-を聞いていた彼は、急に自分に話が振られびくっと肩を震わせた。
名を呼ばれ、利口な犬よろしく背筋を正す四瀬を頭を下げながら夜久は心中嘲笑していた。
「貴方も可笑しいと思いませんか」
二言前に言った時には確かに付いていた言葉の最後の疑問符が消えていた。イエス以外の解答は認めない、有無を言わさぬその言い方に四瀬はごくりと唾液を嚥下した。
冷や汗が背中を伝う、そして彼は少し後退りながらタイミングを逃したあの行動をおこした。
「ごめんなさいッ!」
黒目を動かさない閏はまだ一点を見続けている。視界を上から下へ過った顔を識別しながら心底呆れた、と再度口を開いた。
「これは一体どういう状況でしょう」
彼女は動いた。動いたと言っても矢張下げられた3人の頭に焦点を合わせただけで、身体は動かしていない。
「貴方達が私に謝っているというより、私が貴方達を謝らせている様ではないですか。誰かに見られたら誤解を生みそうですね。誤解というのは案外解くのが大変なのですよ、知りませんでしたか?最近…と言っても一月程前ですが誤解によって色々面倒があって困ったことになりましたよね。もしかして、わざとですか、3人揃って私を困らせようとしているのですか。確かにこの状況には困りものです。貴方達の計画は大成功ですよ。
それにしてもそこまで嫌われているとは思いませんでした」
卑屈で自虐的だ、赤の他人が見れば彼女にそんな感想を抱くだろう。
華海は閏の言葉を聞きながら確信した、もう怒りは治まったと。
決して機嫌が良いわけではないが、いつも通りの閏だ。
彼女は口数が極端に少ないが、無口な訳ではない。寧ろ一度口を開けば機関銃の様に捲し立てる様な話し方をよくする。
怒っている時は口数がやや増えるが、一回一回の言葉数は少ない。
頭を下げれば何でも許す訳ではないが彼女とて人だ、誠意が見え反省している様が伺えれば許してくれる。
頭を下げながら安堵の表情を見せる華海は端から見れば少々不気味だろう。
「…誰からも返答がありませんね。私とは会話すらしたくないということですか。そこまで嫌われているとは。…もう結構です。皆さんに嫌われていようと仕事に影響が出なければ私には関係ありませんから。…私は帰ります」
そう言うと、彼女は四瀬が来た方とは反対の方向へ歩き出す。事務所兼自宅に帰るのだ。
"私は"と言っているが、4人は同じ事務所に所属し一つ屋根の下で暮らしている。
許しているとは一言も言わなかったがもう彼女は自分達を許している。それを理解している3人は漸く頭を上げた。首を回すと骨が音を立てた。地面しか見えなかった目に変わらない灰色の空が映った。
「本当、閏ちゃんが怒ると怖いよね」
つくづく、といった様に四瀬は呟く。原因はお前にもあるだろうが、と華海は内心突っ込みながらも、閏と同じ方へ歩き出した。
夜久は走って閏の隣に並び、四瀬もゆっくりと3人の後を追った。
[3]首都L区
アスファルトを埋める靴、靴、靴。一般道を遮る真っ黒の集団。数百程度の個体からなるそれの一番前-唯一浮いた白。白いシャツと黒いスーツを着崩し、片手に拡声器を持った白い髪の男は一歩前に出た。しかし腰のホルスターには二丁拳銃が入れられ、武装はしている。対するのは5階建てコンクリートのビル。老朽化の影響で骨組みが見えている。ガラスが無くなった枠だけの窓から覗く黒光りした銃口。それらは一様に一歩前に出た男を狙っている。
「
男の真後ろの集団の先頭に一人の女が現れた。男と同じく真っ黒なパンツスタイルのスーツ、その上に羽織る全員共通の黒のローブ。黒い髪をバレッタでまとめた女-
「お前等の望み通り300人きっかり連れてきたぞー。人質解放しろよコラァ」
正面から数知れない銃口を向けられているにも関わらず、動じないのは彼の職業柄だろう。だが、余りにも緊張感が無さすぎると背後の緋翠は額に手を当てた。
「相手は過激派なんです、他の言い方はないんですか」
「えー…っていうかとっとと帰ってラーメン食いたいんだけど」
緋翠の声は兎も角、拡声器のスイッチはオンのままで彪の声は全て筒抜けだ。その様子を見ていた犯人グループの1人は眉間に皺を寄せながらこちらも拡声器を使い声を発した。
「お前が責任者か?」
マスクの下からのくぐもった声は小さかったが確かに彪の耳には届いていた。人と話すときくらいマスクとれよ、と愚痴を溢すと後ろの緋翠からの視線が鋭くなる。
「そう怒るなよ…っと、そうだ、俺が責任者だが?」
後ろを軽く振り向き苦笑しながら肩を竦める。そして再度犯人達の方を向きながら解答すると先程と同じ男が此方へ要求を告げた。
「そうか。…じゃあお前、その中から2人殺せ。勿論俺達も含め部下全員の前でな」
犯人はニヤリと下卑た笑みを浮かべた。こう言って本当に殺す奴などいる筈もない、他の要求に変えろと言ってくるだろう。それこそが狙いだった。
本当の要求は金と物資。今の要求はただの遊びのつもりだ、責任者という男の反応を窺うための。
しかし、男はいつまでたっても狼狽えない。それどころか、その背後の集団の300人も微動だにしていない。
「気に入らない後輩でも嫌いな奴でも誰でも良い、2人殺せ」
聞こえなかったのか、と今度はマスクを少し下げ声を大きくしながら再度要求を口にした。今度は直ぐに男から返答がきた。
「分かった、2人な」
「……!?」
間髪入れずに返ってきたなんの迷いもない答え。予想外の返答に動揺したのは犯人グループの方だった。後ろの人質数人も驚いているのだろうが、麻袋を被せているためその表情は窺えない。
一方集団の先頭の彪は拡声器をオフにしながら後ろを振り返った。
「
名を呼ばれた2人の男女が彪の前に出た。2人共スーツにローブを纏っている。
2人はローブを脱ぎ、携帯していた銃を含む武器全てを足元に並べ始める。彪は拡声器を緋翠に渡し、腰のホルスターから二丁拳銃を取り出した。
「ほ、本当に殺すのか……!?」
「何故?殺せと言ったのはそっちだろう」
思わず溢れた言葉が拡声器を通り彪の耳に届く。彪は面倒臭そうな表情から真面目な顔つきになっていた。
本気にするとは思わなかった、そんなことをする奴はいないと思っていた。暗にそう言う相手に構わず、彪は残弾を確かめ
カチリ、という音がいやに響く。
「お前ら、遺言は?」
二丁をそれぞれの後頭部に向けながら彼から発せられるのは場に合わない慈愛に満ちた声。武装を全て解除した2人は後頭部に銃の冷たさを感じながら互いに顔を見合せ、僅かに震えながら口を動かした。
「せめて生きてる間に彼女くらいほしかったな」
「彼氏、欲しかった」
下らない辞世の句だと罵る者もいるかもしれない。それでも2人の言葉は場にいた全員の胸を酷く痛めた。
そして、彪は口を開く。
「莞爾、お前はいつも俺を慕ってくれた。汉、お前もだ。2人ともよく働いてくれた。俺には勿体無い部下だったよ。…本当に、感謝している」
在り来たりな感謝の言葉、だが彪の表情と声音からその言葉に込められた深い感謝の念が感じられる。
彪が引き金に指をかける。彼の後ろにいる297人は静かに目を閉じ顔を僅かに俯かせる。
「彪、」
「隊長、」
慌てる犯人達。
「-ご苦労様」
引き金が引かれる。
「ありがとう」
「ありがとうございました」
重なる2発の銃声。
倒れる2つの身体。
地に落ちる2発の弾丸。
2人が起き上がることは二度となかった。
[3]首都L区
「あっれえ、また武警がなにかしてるー」
「おんしらちっくと落ち着け。あとめっそう走るな、ついていけないろうが」
歩道を走っていたが突然立ち止まった2人の子供。年端もいかぬ2人の後ろから息をややきらしながら走ってくる男は標準語ではない訛りのある話し方をしている。2人の子供は非常に似た顔をしているところを見れば双子-最低でも兄弟であることは間違いない。双子は振り返り、追いかけてくる男を指差しながら表情もなく言った。
「「年じゃない?」」
「失礼な!未だわしゃ23じゃ」
「だいたい話しかたがおっさんなんだよ」
「わし、って言うのやめたら?」
「そーだそーだ」
「ぶっちゅう顔してゆうな!」
23歳、というにはやや大人びた顔つきかもしれないが、おっさんと呼ばれるには早すぎるだろう。尤も、8つ程の年齢の子供からすれば30歳も20歳も大人、というくくりでは同じなのかもしれないが。
揃いのパーカーを着て男を馬鹿にしていた双子はもう飽きたとでも言うように再度前を向いた。ぱっちりと開いた目の先には黒いローブを羽織った集団。国の直属武装警察-通称"武警"。それはあまり好かれたものではなかったが、そんなことは関係ないとでも言う様に双子は集団に向かって走っていった。男は額に手を当てながら2人を追いかけて再び走る羽目になるのだった。
護送車両に乗せられていく十数名の犯人グループのメンバー達。今回連れてきた護送車両は生憎小型のもので何台にも分けて乗せなければならず必要以上に時間がかかる。その間暇だと車両から離れた自身の乗る車-白のカラーリングがされた高級車ではあるが一般向けに販売されている一般車だ-に腕を置きながら欠伸していた彪の元に思わぬ人物が訪れた。
「「おーい彪」」
欠伸をした為に流れた涙を拭いながら声のする方を見れば、こちらに向かって走ってくる3人の人物。己の名を呼んだ2人を視界に入れた瞬間、彼の顔が綻ぶ。
「
それは先程の双子-夢と骸。2人は思い切り彪に向かってタックルするが、彼はびくともせず笑いながら2人を受け止めた。歓迎するように開いた両手に抱かれながら双子は彪を見上げる。
「顔ほころんでるぞ?」
「きもちわるいな!」
「元気してたかー?」
出会い頭に気持ち悪いと言われても彪は気にするどころか2人の頭を撫で回す。双子はやめろと言いながらも嬉しそうだ。会話が成立していないのはいつものことである。
「あ、相変わらず速いな……」
2人を追ってきた男は肩で息をしている。彼の体力が人並み以下な訳でも、ましてや彼が運動音痴な訳でもない。寧ろ彼は運動神経の良い人間だ。何故彼が子供である夢と盖に追い付けないのかと言えば、彼等の足が異常なまでに速いのだ。常人ならば追い付くことは絶対に不可能だろう。
「お、よう
双子の頭を撫でながら巽に声をかける。巽は笑顔で片手をあげる。その額のには大量の汗が浮かんでいる。カジュアルな服装だが、双子の異常な足の速さには追いつかないようだ。
「おお、彪、久し振りだなあ」
ようやく彪の腕の中から脱した双子を今度は擽り始める彪に巽は苦笑した。彼の子供好きは変わらないらしい。
3人が戯れていると、護送車両の方から緋翠がこちらへ歩いてきた。
「あと2人で完了します、出発の準備を」
「了解、指揮ありがとな緋翠」
「いえ、仕事ですので」
事務的な挨拶を交わすと緋翠は彪に擽られている双子に目を向けた。
「あ、緋翠久しぶりだな!」
双子のうちの片方-夢が緋翠の元へすりよっていく。すると骸も彪から逃げ出し、緋翠の方へ。
「あ、緋翠狡いぞお前!」
双子を取られて文句を言う彪に緋翠は溜め息を吐いた。
「いい加減にしてください。ショタコンですか貴方は」
だって、とぶつぶつ小声で何かを呟く彼の姿には先程までの真剣さは感じられない。緋翠はもう一度溜め息を吐きたい気持ちだったが、夢と骸から遊べと言わんばかりの眼差しで見られてしまえば相手をせざるを得ない。何をしようかと思いながら2人と視線を合わせるためにしゃがんだ時、頭上から声がした。
「ほら、2人とも離れや。緋翠さんがめぇっちゅうだろ」
緋翠にくっつく夢と骸を引き剥がし、彼女からやや遠目の位置に置くと巽はそれとなく緋翠の近くに立った。その顔には下心が丸見えである。
彪はその様子を微笑まし気に眺めていた。その様子からはつい先程部下2人をその手で撃った男とは思えない。・・・まあそれが彼等の仕事の一貫でもあるのだが。
「何と無く近づこうとしてんじゃねぇよ色気違い」
「なっ!失敬なことを言うな!」
緋彗にくっつく双子はもう自分には構ってくれそうに無い。そう分かると半分八つ当たりで彪は巽をからかった。色気違い、聞きなれない単語ではあるが、簡単に言えば酷く好色な人の意である。他にも性欲の不満が昂じて起こる異常な精神状態のことなども差すが、この場合は前者の意が正しいだろう。
巽が緋彗のことを好いているのは自分達の仲間内では誰もが知っていることだ。それに緋彗と同じ職場にいる自分や
「わしは昔も今も、そしてこれからも緋翠さん一筋やきな」
「・・・それはどうも」
今度もこうして緋翠に軽くあしらわれているが、彼が諦めることはないのだろう。
「遠まわしにフられてるなー」
「だなー」
そしてその度に夢と骸に馬鹿にされるのもいつものことだった。
5人が和やかな雰囲気で歓談している頃、護送車両の方では問題が起きていた。犯罪者グループの1人が車両に乗らないのである。
その1人は車両の入り口付近で自分は唆されてグループに入り、こんなことをしたかった訳ではない、と喚いている。おまけに、それなりの大男である為隊員が何人かで押し込もうとしてもその場からなかなか動かない。
男の言っていることが真実なら彪や緋翠に話を出来るのだが、生憎この男が自分の意思でグループに入ったことも、その上こと男が幹部クラスの人間だということも調べがついている。
彪や緋翠は隊員達にいつも極力自分達に頼るな、と言っている。彼等が前線で動けば隊員などせいぜい見かけの数を多く見せるくらいの役にしか立たない。それほどまでに彼等は圧倒的に強く、賢く、隊員たちとはかけ離れた存在だった。
彪と緋翠にあと2人を加えた4人が武警の幹部となっている。1人は僚真、という男でいつもおどおどとしている。役職順に並ぶ時や今回のような最悪戦闘に発展するような場合を除くと、滅多に前に出るようなことはない。人見知りという言葉では足りないほど彼は人間が苦手で、隊員と話すことなど
全くない。もう1人は存在は知っているものの、名前も顔も知らない。創設当時から殆ど顔を見せていない男だ。彼の話をするのは武警の中では一つのタブーとされている。前にその男の話をした時の彪と緋翠、そして僚真の反応を誰もが知っているからだ。
そういうわけで、隊員達は自分達だけで男を車両に乗らせようとした。1人の犯罪者を車両に乗せることすら出来ない。それは非常に困るが、彼等が最も恐れていたのはその事実を3人に知られた場合自分達がどうなるか、ということだった。
だから彼等は男を車両に乗せようとしたが、男もなかなか粘り強い。そして男が運悪く歓談していた5人の姿を見つけてしまった。
自分の仲間を殺されたわけではない。だが、武警はこの国の治安を護る為の唯一の公式的な存在。だが先程のように武警はいとも簡単に仲間を殺す。それが許せなかった。
男は自身を抑えていた隊員のローブの内側に黒光りする銃を見つけた。そしてそれを奪うと、右腕を押さえる隊員を蹴り飛ばし、感情のままに引き金を引いた。
マズい、と慌てる隊員達が声をあげるまでの数秒と、男が引き金を引いてから弾が出るまでのコンマ数秒では結果は見えている。放たれた弾丸は軌道をなぞり、こちらに背を向ける緋翠の後頭部目掛けて飛んでいく。
「・・・危ねぇだろ?」
そのまま着弾、とはならなかった。男が撃ったコンマ秒後に聞こえた一発の銃声。その際放たれた弾丸は斜めの方向から着弾前の弾に当り、弾き飛ばす。
そして更にその数秒後にもう一度聞こえた銃声。車両入り口には先程まで喚いていた男が隊員の銃を片手に仰向けに倒れていた。
「・・・ありがとうございます、危ないところでした」
「気にすんな」
「緋翠さん、なんちゃーがやないか?怪我はないか?」
「「大丈夫かー?」」
彪は4人と話しながらもずっと護送車両の方に目をやっていた。そして一連の騒ぎを観察していた為、男が隊員の銃を手にした瞬間、自身も二丁拳銃の片割れを構えた。男の発砲を阻止することができないと悟った彪は、撃たれた弾に弾をぶつけ、着弾よりも先に撃ち落そうと考えた。そして軌道に対して斜めの位置から弾の速度や角度などを全て計算し、発砲。更にもう一発、今度は男の心臓にむけて一発。
考えたのではなく、身体が自然に動いた。それは、経験を積んでいるからこそ得た勘、などではない。彼の生まれ持った才能だった。
そして隊員たちが一連の行動に気付くのにはそう時間はかからなかった。
「僚真ぁ、いつもみたく後処理頼むわ」
「り、了解ですっ・・・」
彪がそう声を発すると、護送車両から少し離れた位置でタブレット端末を操作していた茶髪の気の弱そうな男が返事をした。彼が幹部の1人、僚真である。隊員の誰も彼の存在に気がついていなかった。彼は影が薄い。
そして彼はちょっとすみません、とおどおどしながら隊員たちに囲まれた男の死体に向かう。そしてそれを片手で車両の中に放り投げまた何事も無かったかのように端末を弄り始めた。
隊員たちはぼうっと呆気に取れられていたが、ややあってはっと我を取り戻し、彪の方に護送車両に全員を乗せたことを報告した。
「おう、ならとっとと帰るか」
「えー、帰るのか」
「つまんないなー」
「仕事だからな、また今度遊ぼうぜ」
銃口から上がっていた白煙を息で消し、ホルスターにしまうと彪は車の助手席に座った。
彪が車に乗ったのを合図に隊員達も皆それぞれの乗る車両に乗り込む。緋翠は全員が乗り込んだのを確認すると、足元の双子に目線を合わせた。
「では・・・またね」
素っ気無いながらも双子の頭を撫でる緋翠に巽は見とれている。そして彼女は運転席に乗り込んだ。僚真も護送車両のほうから走ってくると後部座席に乗り込んだ。双子はまたねと手を振っているが、巽は助手席の窓を軽く叩いた。
「おんしら、まだ緋翠さんに運転させてるのか!男なんやきおんしらどっちかが運転しろ!」
どうやら緋翠が運転し、彪が助手席に座っていることに文句を言っているようだが、緋翠はそれを取りあわずに車を発進させた。護送車両等も彪達の乗る車に繋がって発車する。
車の近くにいた巽は危うく轢かれそうになったが緋翠になら、と思案していたところを双子に顔が気持ち悪いなどと罵倒されてまた大人気なく喧嘩を始めたのだった。
[4]場所不明
灰色の雲の下、時間というものは無くなった今でも地球だけが自転と公転を繰り返しているお蔭で朝昼夜の区別はあった。しかし、空が曇っているのは変わらない。
外の様子から察するに今は昼。それも昔使われていた時間で言うなら14時頃かな、と推測する。
男は、明かりも何もないただ1つ時計だけがある部屋の窓辺から窓の外を見ていた。窓、と言ってもガラスは無く枠だけの窓に、窓としての仕事は果たせていない。
そして男は何かを窓の外へ放り投げた。次から次へと気が済むまでそれを放り投げる。
長方形の紙の束-札束。それも最も額が高いものだ。
時が止まって以後、国が機能しなくなり勿論造幣局も稼動しない現在、硬貨であろうと紙幣であろうと、金銭は非常に高い価値を持つ。元の価値の何十倍、何百倍という価値だ。
全く人の居なかった男のいるビルと隣のビルの間の裏路地に人だかりが出来るまで僅か数分。集まってきた人同士での奪い合い、終には殴り合い、取っ組み合いの喧嘩まで始まる。
男はその様子を実につまらなさそうに眺めていた。
すると、手元の携帯が振動した。どうせかけてきたのはあの女だ、と判断すると男は部屋を後にした。彼がばら撒いた札束がなくなる頃、4人の男女がそこで再会することになるのはまた別の話である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます