七人目【午前一一時半】


 夏だからその心配はないと思っていたが、インフルエンザではなかったのは幸いだった、と若井樹は思いながら楽屋に入った。もう同じ部屋の中川祐司が着替え始めているところだった。

「おはよう、遅かったな」

「おはよう、ちょっとな」

 荷物を起きながら笑いを浮かべる。

「もう開演一時間半前だぞ、珍しいな」

「あー……」

「寝坊したのか?」

「……まぁ」

 曖昧に言葉を濁す。鏡に向かって化粧をしていた祐司が、不思議そうな顔をして振り返った。

「…どうかしたの、いっちゃん?」

「いや別に。急いで準備しないとな」

 買ってきた飲み物や軽食の入ったコンビニの袋を脇に置き、服を着替える。本当ならストレッチをしたり、発声をしたいが、今日はもうあまり時間がない。それに薬が効いてくるまでは、むやみに動き回らない方がいいだろう。

「いっちゃん、やっぱなんかおかしいぜ」

「んなことないって、ゆーじ」

「いやだって、顔あかいじゃん。うわ、熱ある!」

 背後から伸びてきた手に気づかず、額に当てられた祐司の手を慌てて振り払った。

「大丈夫だって!」

「大丈夫じゃないだろそれ! ちょっと倉田さんに言ってくる!」

「やめろって!」

 楽屋を出ていこうとする祐司を止めようとするが、振り払われた。

 慌てて一緒に楽屋を出る。

「平気だって、ちゃんと薬も飲んだし」

「どうかしたの、ゆーじ?」

「あ、結さん……こいつ熱あるんですよ!」

 ちょうど通りかかった志水結が声をかけてきて、祐司が答える。

「いつき、熱あるの? 大丈夫?」

「や、別に大したことじゃ…」

 急いで何でもないという顔を作るが、ずい、と目の前に寄られてあっという間に額に手を当てられる。

「だめだよ寝てなきゃ!」

「いや………でも、……代役いませんし」

 樹の言葉に、あ、と言って結が動きを止めた。

「ほんと、大丈夫ですから、病院も行ったし、解熱剤も」

「どうしたんですか?」

 廊下で騒いでいると、ほかの役者やスタッフも足を止めて訊ねてくる。その一人一人になんでもない、と答えていると、大きく溜め息をついた結が樹の腕を掴んだ。

「ちょっとごめん、倉田先生今日来てるでしょ、呼んできてくれない、僕の部屋に」

 近くのスタッフを捕まえて頼むと、くるりと樹に顔を向けた。いつもは温厚な表情が、眉を怒らせている。

「僕の部屋ならソファーあるから、少しでも寝なさい」

「え、でもそれ……」

「いいから! ゆーじ、ごめんだけどいつきの荷物持ってきてくれる?」

「いいですよ、ちゃんと寝てるように見張っといてください」

 祐司が頷き楽屋に向かっていった。

 いくよ、と結が樹の二の腕を引っ張る。仕方なくついていった結の楽屋は、主役だけあって樹たちの楽屋よりもずっと広い。中央には一組のソファーがあり、一人掛けの方には結の鞄が無造作に置いてある。化粧台にはメイク道具と一緒に、彼が劇中でつける指輪や王冠などの装飾品が柔らかな布の上に置かれている。

 もともと冷房をつけず送風だけにしていたようで、室温は高めで、クーラーの冷気に余計寒気を感じていた樹は、ほっと息をついた。

「そこに寝て」

 クローゼットから大きなバスタオルを取り出した結が、きびきびと命じる。もう逆らわず、大人しくソファーに横になる。肩にバスタオルがかけられ、目を閉じ力を抜いた。ふわりとした酩酊感が身を包む。

 水音がしたあと、額に冷たいものが当てられた。

「……結さん、すみません」

「いいから、寝てなさい。倉田先生に、いつきの出番のこと相談してくるから」

 優しい声が遠くから聞こえる。返事をしたつもりだったが、声になったかどうか。とろとろと意識が沈んでいく。

 樹と祐司はともに結が演じるリチャードに仕える役だった。樹がケイツビー、祐司がバッキンガム公爵。彼を王位につけるために画策したバッキンガムがリチャードから離れるのと時を同じくして、交代するようにエドワード王の家臣だったケイツビーがリチャードの腹心の一人になる。 年齢も近く仲もいいので、よくカンパニーのメンバーからは「王様の腹心たち」だとか「腰巾着」だとか二人まとめて呼ばれたりもしていた。

 そんな扱いをされていたのと、実際に結がキャリアの上でもベテランで樹たちからすれば雲の上のような存在であることもあって、世話を焼かれるのはなんだかとても落ち着かない。結は面倒見がいいので、一人きりで落ち込んでいたり悩んでいたりするとさりげなく励ましの言葉をくれたり、何でもないふうでお菓子をくれたり、ご飯をおごってくれたりとしてくれる。そういうのは嬉しいが、熱を出したのは自分の責任なので正直申し訳ない。それでも、不調の肉体は容赦なく休みたいと訴えてきて、樹は抵抗を諦めて意識を手放した。

 眠っている間夢を見た。どれもはっきりした形も意味も見いだせないぼんやりした輪郭だけだったが、気がつくと不快さはなくなっていた。

「……じゃぁ、二幕一場と、三幕五場は登場せず、僕のせりふだけで」

 人の話し声が聞こえ、薄く目を開ける。プールポワン(上着)とホーズ(タイツ状のズボン)に短いマントを身につけた黒衣の人物の輪郭が見える。

「……陛下」

「目が覚めた?」

 引き締まった足が近づいてきて、目の前に無造作に髪をなでつけた顔が現れた。

「…あ、結さん」

「気分はどう? 体温計借りてきたから測ってみて」

「あ……さっきよりは、いいです」

「今演出家と話してたけど、三幕まで出なくていいからって」

 三幕のケイツビーの出番を思い浮かべる。エドワード王が病死し、その息子たちを迎えにいくリチャードに従っている場面だ。その前はといえば、二幕一場のエドワード王の家臣としての場面しかない。

「大丈夫です」

「三幕からなら、今からまだ一時間は寝てられるから」

「二幕でも三幕でも大した違いないです」

「僕じゃなくて倉田先生に言いな」

 結が苦笑して目を向けた先には、演出家の倉田竜馬が難しい顔をしていた。

「先生、お願いします」

「……駄目だ。ケイツビーが出ずに済むシーンはなるべく出るな」

「でも…」

「無理して本来の役割まで果たせなくなったらどうする。役者が無理に出たいというのは当然だが、それを止めるのも俺の役目だ」

 厳しい口調に黙り込む。

「……どうして熱なんか? いつき、いつもちゃんと体調管理してたのに」

 助け船を出すように、結が訊ねた。

「えーと…昨日帰りに電車の中に傘忘れて。俺の家の最寄り駅、コンビニとかなくて…」

「タクシーも?」

「なくて、それに自転車だからすぐだと思って……そしたら途中でチェーンがはずれて」

「まさかあの雨の中、チェーン直してたの?」

「……はい」

「自業自得だな」

「はい」

 演出家に言われ、ぐうの音も出ない。

 そのとき、結の楽屋の扉がノックされた。

「結さん、俺です、中川です」

 返事より前に扉が開いて祐司が顔を覗かせた。

「みんなから、これ、いっちゃんに」

 祐司がビニール袋を差し出した。

「えーと…これは柚木さんから葛根湯、こっちは神宮さんから栄養ドリンク、これは宜野湾さんから、なんか韓国のお茶、朝鮮人参が入ってるって。あと、和田さんからは栄養ゼリー」

「みんな心配してくれてるんだね」

 袋の中を覗き込んだ結が感心したように呟き、樹を見た。

 ぴぴぴ、と樹の脇の下で電子音がする。

「…三七度七分…」

 病院に行ったときは三八度を超えていたから、少しは下がったか。

「まだ無理はさせられんな」

 腕組みをした演出家が唸る。 結が困ったように笑った。

「じゃぁいつき、僕の衣装なんかはもう移したから、この部屋今日は好きに使って。お湯もそこのポットに沸いてるから」

「え、でも…」

「ほかは女性の使ってる楽屋だから移ってもらうの大変だし」

 慌てる樹のおでこをぽんと叩く。

「謝るくらいならちゃんと休んでね。みんな心配してるから」

「荷物はこれで全部だよな?」

 いつの間にか、ケイツビーの衣装も、樹の荷物も全部運び込まれている。

「出番の三十分前には、植山か安藤が呼びにくるから、それまでは寝てろ」

 倉田が言い残し、三人は楽屋を出ていった。

「…………自業自得かぁ…」

 大きく溜め息をつき、樹は起きあがった。額には濡れたタオルが乗っていて、その柄は以前結が稽古場で使っているのを見たことがあった。

 部屋を見回し、衣装やメイクを確認する。もう一ヶ月も公演しているので、準備には十五分もあればできるだろう。

 必要な時間を逆算し、時計を見上げる。開演まであと一時間弱。三幕が始まるのは二時半過ぎだから、それまで一時間半は休める。

「……よし」

 自分に言い聞かせ、まずは祐司が持ってきてくれた袋の中身を見た。それぞれに付箋やテープで留めたメモがついていて、ひとつひとつに違う字で「お大事に」「はやくよくなって」という言葉が書かれている。祐司が言ったほかにも、プリンやヨーグルト、チョコレートなどが入っている。きっとそれぞれが今日食べるつもりだったり、常備しているものなのだろう。一人一人の顔を思い浮かべて、ありがとう、と口にした。


 差し入れのいくつかに手をつけてからもう一度眠った樹は、セットしておいたアラームで目を覚ました。

 結の楽屋のソファーは少し大きめで寝やすい。熱のせいもあってか、夢も見ずに深く眠った。

 数秒ぼんやりしてから、もう一度体温を測ってみた。今度は三七度二分まで下がっていた。体もだいぶ軽くなっている。

 よかった、と呟いて起きあがった。額に乗っていたタオルは、まだ冷たかった。

「…結さん?」

 もしかしたらほかの誰かかもしれないけれど。誰かがこうしてタオルを替えてくれたのだろう、きっと。

 楽屋にあるモニターを見れば、二幕二場の、エドワード王とその弟クラレンス公ジョージの死を親族が悼む場面だった。本来の自分の出番はもう終わってしまっているが、次まではまだ時間がある。

 準備をしようと立ち上がったとき、控えめなノックがされた。

「若井さん? 起きてます?」

 声は床山の植山瞳のものだった。

「はい」

「大丈夫ですか?」

「はい、ありがとうございます」

 答えると、ほっとしたような声が聞こえた。

「まだ時間はありますから、ゆっくり来てください」

「はい」

 頷き、寝ている間にかいた汗を拭ってから着替え始めた。

 準備をして舞台袖に行くと、リチャードの格好をした結が樹を認め、すぐに笑顔を浮かべた。

「やぁわが分身、腹心、いとしいケイツビー。調子は?」

「だいぶよくなりました、ありがとうございます」

「本当に?」

 化粧がとれないよう注意しながら右手を樹の額に当てる。

「ああ、さっきよりはよくなってる。よかった、このあとケイツビーなしで舞台に立つことになるかもと思ったら、とても心細かったんだ」

「そんな、結さんならいまさら心細いもないでしょう」

「そんなことないよ、僕ほんと緊張しいなんだから。知ってるでしょ?」

 小さな声でこそこそと話し合う。

 三十年以上のキャリアがあるのに、結はよく「緊張する」「怖い」と口にする。たいていの役者はそんな様子は見せようとしないのに、彼は自分の中の恐怖を素直に表明する。でもそれで見くびると、彼の舞台上の姿に圧倒されてしまうのだ。恐れなど微塵も感じていないような、堂々たる演技に誰もが聞き入らずにはいられないほど見事な歌声。結のそういうところも、樹は尊敬せずにはいられない。

 舞台では、エドワード王妃エリザベスが、親類の投獄を知って身を守るため聖域であるウェストミンスター寺院へと逃げ込もうとしていた。

 もうすぐ3幕が始まる。

 素早く見落としはないかチェックし、舞台の方に意識を集中させた。

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楽屋口 @shigechi17

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