六人目【午前十一時】


「駅の中央改札を出たら、右に曲がります。階段を下りたら左に曲がって、横断歩道を渡って、あとはずっとまっすぐ来てください。先生が立っています」

 地図と一緒に渡された行き方の説明を読み上げながら、田所蒼伊は不安そうに辺りを見回した。電車に乗ったことはあるけど、一人で乗るのは初めてだ。

 お母さんが朝「一人で大丈夫?」と心配していたので、「平気だよ」と仕事に送り出したけど、本当はついてきてもらった方がよかったんじゃないかしら。そう考えてから、蒼伊はふるふると首を振った。小学五年生にもなって、お母さんに送ってもらうなんてかっこわるすぎる。

 楽譜とお財布とSuikaの入ったお母さんお手製の鞄の持ち手をぎゅっと握りしめて、蒼伊は改札を出た。

「おはよう、田所くん」

「あ、…おはよう、岩崎さん」

 きょろきょろしていた蒼伊に声をかけてきたのは、同じクラスの岩崎香澄さんだった。

「今日来れたんだね、よかった。田所くん道わかる?」

「えーと、たぶんこっち」

 地図を確認してから、蒼伊は右の出口を指さした。

 駅の上の方には案内表示があって、「シアターアクア」の文字の後には右への矢印もある。

「田所くんいてよかった」

「そ、そう?」

「たくさんの人の前で歌うの緊張するね」

「う…うん……」

 今日蒼伊が憂鬱なのもこのせいだった。

 二人の担任の牛山静香先生は音楽の先生で、クラスでは毎朝歌うのが日課になっている。蒼伊は歌はそんなに得意ではないけれど、毎朝歌うときは自分の歌はあまりみんなに聞こえないのでそれほど苦痛じゃない。でも、今日は何百人ものお客さんの前で歌わないといけない。それに蒼伊は、この何日か夏風邪を引いてしまって、練習にあまり出られなかった。きっとすごいへたくそだ、と心がどんどん落ち込んでいく。

 隣を歩く岩崎さんは、蒼伊の様子に気づいた様子もなく、取り留めもないことを話している。適当に相槌を打ちながら歩いていると、大きな建物の近くの広場のようなところに、見覚えのある顔をいくつも見つけた。

「田所くん、岩崎さん!」

 牛山先生が二人を見つけて手を振った。

「しずか先生おはようございます」

「おはようございます」

「田所くん、風邪はもう大丈夫?」

「…はい」

「よかったわぁ」

 牛山先生はまだ若い先生で、背が小さい。クラスで一番背の高いバレー部の佐久間さんに、このあいだ追い越されてしまった。

「あとは…」

 牛山先生が一人一人名前と顔を確認している。

「来たのかよ、あおい」

「あ…おはよう…森山くん、本田くん…」

「来なくてよかったのにな」

「そーそ、あおいヘタだもんなー」

 クラスメイトの森山くんと本田くんに言われて、蒼伊は顔をうつむけた。

「さ、全員揃ったわね。みんな、劇場に入ったら、しゃべっちゃ駄目ですからね!」

 はーい、と答えてぞろぞろと歩く。もう五年生だから言われなくたっておしゃべりなんかしないのに、と蒼伊はちょっとだけむっとした。

 建物の入り口では女の人が待っていて、牛山先生と紙を交換したりした後、一人一人に名前を書いたバッジが配られた。それを胸につけ、中に入った。

 階段を下りて分厚い扉を通り抜け、教室よりも広い部屋に入った。音楽室のように、壁には一面に子供たちの指先くらいの黒い穴が開いている。

 みんな同じTシャツに着替え、鞄を隅っこに置いた後、楽譜を持ってピアノの前に並んだ。入り口にいたお姉さんは、ピアノの近くに立って、蒼伊たちのことを見ている。

 「あかいめだまの さそり

  ひろげた鷲の  つばさ

  あおいめだまの 小いぬ、

  ひかりのへびの とぐろ。


  オリオンは高く うたい

  つゆとしもとを おとす、

  アンドロメダの くもは

  さかなのくちの かたち。


  大ぐまのあしを きたに

  五つのばした  ところ。

  小熊のひたいの うえは

  そらのめぐりの めあて。」

 先生が弾くピアノに合わせて歌う。

 蒼伊も最初は大きな声を出そうとするのだけれど、どうしても周りと音が違う気がして、どんどん小さくなっていってしまう。どうせ僕の声なんて聞こえないし、と心の中でいいわけをして、途中からは、自分にも聞こえないような小さな声でしか歌わなかった。

 途中からもう一人女の人が入ってきた。お化粧をして、男の子みたいな服を着ている。

「カムパネルラ役の五十鈴詩織です。みんな、今日はよろしくお願いします」

 お姉さんが自己紹介したので、子供たちが「よろしくお願いします」と返す。蒼伊も少し遅れて慌てて頭を下げた。

 今度は、お姉さんも一緒に歌った。ときどき「口を大きく開けて」とか「もっと大きな声で」とか、一人一人の近くでお姉さんが言う。

 蒼伊はなるべく見つからないように、なにも言われないように、体を小さくして一生懸命歌ってみたけれど、やっぱり音がずれている気がしてすぐに声を小さくしてしまう。お姉さんが近くに来たときには、なんて言われるだろうとドキドキした。

 蒼伊のすぐ隣で、お姉さんが歌う。びっくりするくらい大きな声で、隣にいるとびりびりと蒼伊の体が震えた。それなのに、ちっとも怖くなかった。大きな声なのに、とても綺麗で、蒼伊は自分で歌うのも忘れてぽかんと見上げてしまった。

「ほら、君も」

 途中でお姉さんが、蒼伊の背中をぽんと叩いた。それで蒼伊も、慌ててまた口をぱくぱくさせて、なんとか歌った。

「牛山先生、そろそろ開演三十分前です」

 何度か歌った後、ピアノの隣で聞いていたお姉さんが、時計を見て先生に言った。

「荷物はおいたままでいいから、先生について来てくださいね。おしゃべりしちゃだめですよ!」

 先生がまた同じことを言った。でも蒼伊は、今度はそこまで気にならなかった。

 舞台の袖は床も天井もごちゃごちゃしていて、たくさんの人が忙しそうにしていた。床にはたくさんのケーブルが走っていて、薄暗いので転ばないように気をつけないといけない。天井はものすごく高くて、体育館の天井よりももっと上のところに何か丸いものがときどき見えた。天井からは何枚も長い黒い布が垂れていて、その向こうは明るい。

「あっちが舞台だけど、顔だしちゃだめだよ」

 Tシャツを着たお兄さんが、通り過ぎざまそんな声をかけていった。同じ柄のTシャツを着ている人が多くて、よく見ると蒼伊たちと同じ、夜空を列車が走っている絵のついたものを着ていた。

 ときどき、さっきのお姉さんのように、ちょっと変わった服を着ている人がいた。きっと舞台に出てる人なんだな、と蒼伊は思った。普通の服に見える人もいるけれど、羽根や毛皮をいっぱいつけている人もたくさんいて、サーカスのようでちょっとわくわくする。

 突然、壁で避難訓練のときのような音がじりりりりりと響いた。蒼伊がびっくりして飛び上がると、隣で岩崎さんが笑うのが聞こえた。

「…いきなりだったから」

 いいわけをするように呟く。

「開演五分前」

 誰かが言うのが聞こえる。

 ちょんちょん、と肩がつつかれた。

「ドキドキするね」

 岩崎さんに小さな声で囁かれて、蒼伊は頷いた。

 ざわざわしていた客席が、だんだん静かになる。

「幕あがります!」

 また誰かの声がして、蒼伊は胸のあたりで楽譜をぎゅっと抱きしめた。

「行きますよ」

 先生が小さく言って、先に歩いていく。分厚い布の横を抜けて、舞台の幕の前に出た。

 とても眩しい。真っ暗な客席から拍手が聞こえる。

 どきどきがどんどん大きくなっていって、耳の中でうるさい。

 音楽が始まったら歌う、最初の音はレ。

 頭の中で何度もそれだけを考えて、蒼伊は楽譜を開いた。

「あかーいめーだまーのさーそりー」

 聞こえてきた音楽に合わせて声を出す。歌っている途中で後ろの幕が開く。

 やっぱりなんだかおかしい、と蒼伊は思う。どうしてもちょっとずつずれてしまうし、音も高かったり低かったりする。やっぱり僕はヘタだから、大きな声で歌わない方がいいんだ。声がどんどん小さくなっていく。悲しくなってきたけれど、曲の終わりまではなんとか我慢した。

 歌が終わるとお辞儀をして、舞台袖に戻っていった。

 そこから案内のお姉さんについていって劇場の廊下に出て、客席に入ってお芝居を見るのだ。客席に座っても、蒼伊は落ち込んだままだった。

 舞台ではさっきのお姉さんが、カムパネルラとしてお芝居をしている。学校で先生に当てられて答えられなかったり、友達と遊びに行ったり。

 僕たちと同じだ、と蒼伊は思った。

 主人公はジョバンニで、家にはお母さんしかいない。お母さんが病気で、ジョバンニは学校が終わったら働かないといけない。お父さんは長いこと帰ってきていない。

 クラスメイトから嫌みを言われるのがイヤで、ジョバンニは逃げ出してしまう。

 一人きりになったらジョバンニは、空を見上げながら「星めぐりの歌」を歌う。ジョバンニのお姉さんが歌う「星めぐりの歌」は、なんだかものすごく悲しかった。

 蒼伊は胸がぎゅっと苦しくなる気がした。そして、同じ歌なのにどうしてさっきと違う気がするんだろう、と不思議に思った。

「あーんどーろーめーだーのくーもはー」

 ジョバンニが歌っていると、だんだん周りが変わっていった。ぐるぐると光が渦巻き、背景の空もちかちかとたくさんの星が瞬き始める。

 ジョバンニの周りの暗闇で何かがたくさん動き、あたりが明るくなると、いつの間にかジョバンニは列車の中にいた。

 蒼伊はパチパチと瞬きをした。さっきまで丘のてっぺんの草の上に座っていたのに、気がついたら列車の座席に座っているなんて。

 どこからか、がたんごとんとレールを走る音もする。ジョバンニが座る横に伸びた座席の向かいには、別な少年が窓の外を見ていた。

 カムパネルラだ、と蒼伊は思った。この不思議な中でも、カムパネルラがいれば安心だ、とも思った。あのお姉さんは、なんとなく優しそうだったから。

「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ」

 お姉さんが振り返って言った。顔はさっきのお姉さんと同じなのに、今はまったくの男の子に見えた。

「ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった」

「どこかで待っていようか」

「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎いにきたんだ」

 それからカムパネルラは窓の外を見て、急に元気な調子で歌い始めた。

「ああしまった、ぼく、水筒を忘れてきた。スケッチ帳も忘れてきた。けれど構わない。もうじき白鳥の停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを飛んでいたって、ぼくはきっと見える」

 その歌い方があんまり楽しそうで、蒼伊はさっきまでの悲しい気持ちを忘れてしまった。

 二人を取り巻く窓の外では、いくつもの美しい光が現れては消えていく。ときどきなにかの目印のようなものが現れては、後ろへと飛び去っていった。まるでプラネタリウムか夢の中の光景を見ているようで、蒼伊は何度も目をパチパチさせた。

 二人は白鳥の停車場で一度降りて、天の川の流れに手を浸してみたり、化石を掘っている人たちに会ったりした。それからまた列車に乗り込み、列車が動き出した。

 ゴトゴトいう車内には、いろんな人が乗り込んできた。赤茶けた髭の鳥を捕るというおじさん、大きな鍵を持ったおじいさん、ほかにも、蒼伊が見たことのない服を着た人たちも点々と椅子に座ったり、ときどきどこかへ行ってしまったりしていた。

 鳥を捕まえるのが仕事だというおじさんが、面白おかしくその様子を歌うと、蒼伊もなんだかワクワクして、音楽に合わせて一緒に手拍子をした。「銀河鉄道の夜」はずっと小さい頃に絵本で読んだ気がするけど、こんな面白い話だったかな、と蒼伊は思った。

 それから鳥捕りのおじさんは、河原に降りて鷺を捕まえた。たくさんの羽をつけた人がおじさんの周りにばさばさとやってきて、何人かはおじさんに捕まった。捕まらなかった大半は、へたへたと低くなって、奥の方へと行ってしまった。

「ああせいせいした」

 おじさんが列車の中に戻ってきて、何羽かの鷺を座席に並べていった。

 それから車掌がやってきて、ジョバンニたちの切符を見ていった。ジョバンニは最初慌てていたけれど、ポケットから取り出した紙に、みんなが驚いていた。それがあると、どこにでも勝手に行けるのだということだった。

 ジョバンニが窓の外を見ながら、鳥捕りのことを歌った。

「この人のほんとうの幸いになるなら、ぼくはあの光る天の川の河原に立って、百年つづけて立って鳥をとってやってもいい」

 ジョバンニがそう歌うのを聞くと、蒼伊はなんだかたまらなく胸が苦しくなった。理由はよくわからない。

 ふいに、このあともう一度「星めぐりの歌」を歌うことを思い出した。先生は休憩があると言っていた。そのときに、さっきの練習室に行ってちょっとだけでも練習しよう、という考えがひらめいた。

 ジョバンニの歌が終わると舞台が暗くなった。それから劇場の中が明るくなり、「三十分の休憩です」というアナウンスが流れた。

 蒼伊は楽譜を胸に抱くと、そっとロビーに出て、さっきの扉を開けた。「関係者以外立ち入り禁止」と書いてあってドキドキしたけれど、中にいたおじさんが蒼伊のつけているバッジを見て「忘れ物かい」と声をかけてきた。

「あの……はい…」

「二幕が始まるまでには遅れないようにね」

 Tシャツを着て黒いズボンをはいたおじさんはそう言うと、どこかへ行ってしまった。

 ほかの大人に見つからないうちにと、蒼伊は急いで階段に向かった。さっき上ってきた階段はすぐに見つかった。急な階段を下りて廊下に出る。

 でもさっきの練習室がわからない。同じような扉がたくさんあるので試しに一つ引っ張ってみたが開かなかった。次の扉も試したみたけれど、やっぱり重い。

「……どうしよう」

 練習室に行けばいいと思っていたのに、扉は開かない。三十分しかないのに、と蒼伊は泣きたくなった。

「どうしたんだい?」

 急に声をかけられて、蒼伊はびっくりした。

 振り返ると、立派な毛皮のマントをつけた男の人が、にこにこして蒼伊を見下ろしていた。頭にはたくさんの宝石のついた王冠をつけている。

「道に迷った?」

 蒼伊がびっくりして返事できないでいると、その人はもう一度訊ねて腰を屈めた。顔が近くなると、お化粧のいい匂いがした。

「あの、僕……」

「ん?」

 優しく促されて、思い切って息を吸う。

「練習、しようと…」

「歌の? ああ、そういえば中ホールでは小学生の合唱があるって。君、熱心だね」

 えらいえらい、とその人が頭を撫でる。子供扱いされていつもならちょっと悔しくなるのに、その人の手はなんだか心地よくって、もっと撫でられたいな、なんて思ってしまった。

「そこは閉まってる? この先なら僕が自由に使えるとこあるよ。使う?」

「……いいの?」

「いいよ。僕もあんまり時間ないから、そんなにつき合えないけど。忘れ物しちゃってね」

 来る?と訊かれて、蒼伊は頷いた。

 王様の格好をした人が案内してくれた練習室は、さっきの部屋よりもずっと小さくて、ほんの何人かしか入れないような広さしかなかった。でもちゃんと四角いピアノが置いてあって、男の人はピアノの上のスマホを取ってから座った。

「それ楽譜? 貸して」

 王様に言われて、蒼伊は楽譜を差し出した。ふんふん、と軽く鼻歌を歌いながら王様がぽろぽろとピアノを弾く。すぐに聞き覚えのあるメロディーになった。

「こんな感じかな。君、名前は」

「……あおい」

「あおい君。どこが苦手?」

「えっと………なんか、すぐ早くなったりしちゃうし、あと、ときどき音がみんなとずれる」

「なるほど……すぐに直るかはわからないけど、ちょっとだけやってみようか。最初は、ドレミで歌ってごらん」

「え?」

「こんなふうに」

 王様がピアノを弾きながら歌い始める。

「れそーらしーれれーれみーれしー」

 その人の歌声は、さっきのカムパネルラのお姉さんよりも、もっともっとすごかった。大きい声なのに、全然怖くない、すごく優しい。体もビリビリしない、でも気がつくと頭の中でも同じ音が鳴っている気がする。聞いていると、体中から歌いたくてたまらなくなった。

 劇場にいるから、きっとミュージカルの王様なんだ、だからこんなにすごいんだ、と蒼伊は思った。

「できるかい?」

 途中で手を止めた王様に訊かれて、蒼伊は大きく頷いた。

「じゃあ一緒に」

 王様がもう一度最初から弾き始める。ピアノに合わせて蒼伊も声を出す。最初は小さな声で、でも王様の声に引っ張られるように、だんだん大きくなっていく。吐く息が足りなくて、いっぱい胸に吸い込み、もっとたくさん息を吐き出す。

 音階で歌っているからなのか、その人と一緒だからなのか、音はほとんどずれない。

「………僕、こんなに歌ったのはじめて」

「そう? なかなか上手かったよ」

 王様がもう一度、と言って、また最初から歌った。今度はさっきよりももっと上手く歌えた気がした。

「……王様は、魔法が使えるの?」

 歌が終わってから思わず訊ねると、王様は少しの間きょとんとしたあと、口を大きく開けて笑った。

「王様か! そうだね、うん、王様だ」

「…違うの?」

「ううん、今は王様だよ。あおい君、周りとずれてるのはわかったんだろう? 君は耳がいいんだよ」

「…そうなの?」

「うん。だから、あとは正しい音を出す訓練をすればすぐに歌えるようになるんだ。音階で歌うと、その音の高さを意識するだろう?」

「……そうなんだ」

 そうだよ、と王様が力強く頷いた。それから壁の時計を見上げて、あ、と声をあげた。

「僕もう行かないと。王様の仕事があるからね」

 壁に掛かっている鏡をちらっと見ながら王冠の位置を直して、王様が蒼伊に向けてぱちんとウインクをした。

「僕も…」

「じゃぁ途中まで送るよ」

 王様と一緒に練習室を出て、階段のところまで送ってもらった。廊下を歩く間、王様が「星めぐりの歌」を口ずさんでいて、蒼伊も真似して一緒に歌った。

 階段のところで、王様がにやりとして、じゃぁねと言った。

「さっきのことを思い出すんだ。そうすればきっと歌えるよ」

「ありがとう、王様」

「がんばってね、あおい君」

 王様に手を振って、蒼伊は階段を駆け上った。

 客席に戻ったのは休憩が終わるぎりぎりで、隣の岩崎さんに「どこ行ってたの」と怒られた。

「ごめん。あのね、ミュージカルの王様に会ったんだ、僕」

「なぁに、それ」

「あのね…」

 説明しようとしたときブザーが鳴って、客席が暗くなったので、それ以上説明するのは諦めた。でもさっき歌っていたときのわくわくする感じは、お芝居が始まってもずっと蒼伊の胸のあたりに残っていた。

 ジョバンニが、元いた場所に戻ってきたところで、牛山先生がこっそりと「出ますよ」と言ったので、子供たちは急いで、でもなるべく音をたてないようにそーっと客席を出た。みんなでなるべくこそこそ進むのは、秘密の任務についているみたいで面白かった。

 また舞台袖に戻り、お話が終わるのを待つ。今度は幕の前ではなくて、舞台の奥で歌う。舞台の一番後ろの幕の前に並び、影絵のように赤や青の光が白い幕に映るのを見ながら、合図を待った。

「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ」

「どうして、いつ」

「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ」

 姿は見えないが、ジョバンニたちの声が聞こえる。

 カムパネルラは行ってしまったんだ、と蒼伊は思った。それはとてもとても悲しいことのような気がして、蒼伊は大きく息を吸った。

「もうすぐですよ」

 牛山先生が小さく囁いたのが聞こえた。

 蒼伊はさっきの王様の顔と声を思い出した。いつの間にか怖い気持ちはどこにもなくなっていた。


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