第4話 邂逅

 ちちち。ちちち。――鳥の声が遠くのほうから響き聞こえてくる。

 君尋は、うすらと目を開けた。ほのかに差し込む日の光が、足下に四角い枠を作っているのを見つける。じぃと動かず耳をすませば、どこからか車のエンジンがかかる音が、断続的に聞こえてくる。張り詰めていた喉をほぐすように呼吸をすれば、ゆるく暖まった空気が肺に入ってくる。


「……朝、に、なった?」


 抱えていた膝を離して、床から腰を上げる。おそるおそる体を伸ばしてみれば、背中からばしりと、派手な音が鳴った。

 ゆっくりと慎重に立ち上がってから、君尋はカーテンをかすかにけて外を見る。

 青く透き通った空と、柔らかく気ままな白い雲。さんさんときらめく太陽が、「今日も良い日だ」とうたっているようだ。

 完全に、日が昇っていた。

 あの緊張の中で、いつの間にか眠っていたようだ。君尋は自分の神経が想像よりずっと太かったらしいことに、思わず苦笑がもれた。あれだけ怯えていたくせに、よく意識を手放すことができたものだ、と。

 思い切ってカーテンを全開にしたのち、君尋は大きく伸びをした。それから意識をして数度深呼吸をし、凝り固まった体を順々にほぐしていく。


「……よし、」


 気分は未だなにかを引きずっているように重苦しいが、悪い感じはしない。君尋は気合いを入れるため、もう一度「よし」と声を出す。なんとなく震えている気がしたが、それは体が冷え切っているせいだと思うことにした。

 今日は平日なので、もちろん学校がある。なにを見たとしても、なにを聞いたとしても、学校に行かねばならない。

 君尋は一瞬ちらりと窓のほうに目をむけたが、きつく目をつむったかと思うとすぐに視線をそらし制服に着替え登校の用意を始める。荷物の確認をしたのち、かばんを持って部屋を出る。

 階段を降りてリビングに。そこに君尋の母の姿はない。いつものことだった。

 部屋の中央にある杢目もくめの美しいテーブルの上には、一枚のメモ用紙と弁当箱。弁当箱は手に取れば重く、中身が入っているようだった。君尋はメモを手にとって、内容を確認する。

 それは母からの書き置きで、仕事が入ったためしばらく帰れないというものだった。


「……今日からひとりか、じゃあ」


 君尋の家は母子家庭だった。雑誌編集の仕事をしている母と、高校に通っている君尋の、二人暮らし。……とは形ばかりで、実際に毎日家に帰って生活らしい生活をしているのは君尋だけ。一人暮らしとあまり変わりがない。

 朝食の用意をしようとしてキッチンに立ち、包丁を取り出そうとしたとき。刃のきらめきを見た君尋は、瞬間的に吐き気を覚えた。

 ――昨晩の、あの殺傷沙汰が脳裏をよぎる。

 飛び散る黒の液体、響く男の悲鳴。楽しげに笑う女の表情。

 上がってくる胃液を飲み下し、水道をひねって口をすすぐ。完全に食欲が失せた。

 冷蔵庫の中に入っているもので、消費期限が近い足が早いものはなかったはずだ。今日は朝食を食べるのをやめよう。コップ一杯の水を一気に煽って飲み込んで、かばんの中に弁当箱を詰める。そして大きく伸びをして玄関先で靴を履く。

 道に黒い液体が散らばってはいないだろうか。扉を開けた瞬間に昨晩の少女がそこにいて、斬りかかってくるのではないか。

 嫌な想像を振り払うように短く息を吐き、君尋は扉に手をかけた。金属のヒヤリとした温度が、指先から伝わる。


「よし」


 気合を入れて、かばんをしっかりと持つ。


「いってきます」


 外は快晴。清々しいほどの青空。

 茶色のプードルを散歩させている女性は、眠そうに大きなあくびをしている。

 隣の家から出てきた男性はきっちりとスーツを着て、ゴミ袋片手に歩き出した。

 朝練があるらしい中学生の一団が、楽しそうに笑いながら歩いて行った。

 あまりにも普段と変わらない光景に、君尋は思わず足を止めた。背後でバタンと扉が閉まった音がして、慌てて鍵をかける。それから、少し歩いて、昨日の彼女がいたあたりに立つ。

 周囲を見回してみても、黒いシミを見つけることは出来なかった。そばにある電信柱は綺麗なものだし、ガムが吐き出されているコンクリートのうえにも、それらしきものはない。


(昨日のあれは、夢だった……とか?)


 いやそんなはずはないと、君尋は小さく自分の首を振った。あれだけリアルで、今でも鮮明に思い出せる光景が、夢であるはずがない。きっと自分が見落としているか、場所を勘違いしているかなのだろう。

 ――しかし。

 自分の家を見上げながら君尋は二階の窓を見る。そこは、己の部屋がある窓だ。

 彼女が立っていた場所はここで間違いないはずだし、あの惨劇が起こった場所もここで違いないはずなのに。

 首を捻り、もう一度黒いシミがないか確かめようとしたときだった。君尋の肩を誰かが叩く。驚いた君尋はすぐさま振り返り、その人物を確認する。


「よっ、おはよ。動きの怪しい石槻いしづきさん?」

「あ、ああ。おはよう」


 楽しそうな悠は、染め上げられた柔らかな金髪を陽光に透かしながらにやにやと笑みを浮かべている。君尋は派手に飛び上がった心臓を落ち着かせようと、静かに小さく、深呼吸をした。


「すっげー動きが怪しかったけど、なにしてたん?」

「いや、別に」

「別にぃ~? きょろきょろしてて変なやつだったけどぉ~?」

「探しものしてただけだよ」


 これでは、シミを探すどころではないか。

 名残惜しそうにきれいなままの電信柱に視線を送り、君尋は悠とともに学校にむかって歩き出した。

 道には、君尋たちと同じ制服に身を包んだ生徒たちでごった返している。みな同じ方向にむかって歩を進め、思い思いのことを話しながら、高校を目指しているのだ。

 君尋と悠は他愛ない会話をしながら――「昨日のドラマ見た?」「いや見てない」「見ろよー面白かったのにー」――人の波に乗っかって歩いて行く。その際中、君尋の目は周囲を落ち着きなく見回して、悠に対する返答もどこか上の空だった。


(確か、斬られた男性が逃げた方向……こっちだったよな)


 少しでもどこかに痕跡が残っていないか、昨日の出来事が夢ではないのだと証明できるなにかはないか。君尋はその痕跡を探した。夢ならば夢でいい、そっちのほうがずっと安心できるのだから。

 不意に、隣を歩いていた悠が足を止める。数歩進んだところで君尋がそれに気づき振り返る。周囲の学生たちは気にもとめず、二人のことをずんずんと追い抜かしていった。


「やっぱ変だぞ、君尋。なんかあったのか?」

「……ぇ」


 悠の目は、どこまでも真っ直ぐだった。ひたすらに君尋を見つめて、少しの機微も見逃すまいとしている。瞳の奥には君尋に対する不信感と、それよりもずっとずっと大きい暖かな優しさが見て取れた。

 心配されていると瞬時に理解した君尋は「いや、」だの「えっと、」などと、意味のない音しか紡げない。悠の視線は、外れない。気まずくなり、君尋の視線が下に落ちる。


「なにか探してんのか?」

「い、いや……」


 ――昨日家の裏であった殺傷沙汰の証拠がないか探している。血痕くらい、残っていると思うんだ。


「んだよ、教えてくれりゃ手伝うぜ」

「なにも……なにも、探してないよ」


 左耳の裏をいじりながら、悠から視線を外したまま君尋が答える。悠の視線は未だ鋭く飛んできている。息が詰まるようだ。

 ふっと、ため息が聞こえた。ゆるりと君尋が顔を上げてみれば、諦めたように悠が笑っていた。彼が数度まばたきをすれば、瞳の奥に宿っていた色は霧散していた。


「わーったよ、なにもないんだな。分かった分かった」


 肩をすくめて、頭をがしがしとかき回す。金髪が陽光に透けて光る。


「困ったことがあったらちゃんと言えよ、できるだけ手伝うから」

「…………。そろそろ、歩こう」


 二人は制服の人並みの中に紛れ、また歩き出した。君尋のことを気遣ったのかなんなのか、それ以降悠は挙動不審の理由を聞いてくることはなかった。周囲の生徒の話し声に紛れるような何気ない話題を、「そういえばさあ」の言葉とともに、引っ張り出してくる。


(気を遣わせた……か、やっぱり)


 申し訳ないと思いはしたが、だからと言って伝えるかと言われれば、もちろん否。相槌を打ちながら、やはりあれは夢だったということにしようと決める。すっと君尋の内心が軽くなった気がした。

 そのときだ。

 嫌に耳につく足音が、二人の背後から迫ってくる。他の生徒と歩き方が違うのかなんだか知らないが、周囲に響いているようにすら感じる少々軽めの足音。その音が君尋の横を追い抜き通り過ぎていく。

 黒の長い髪だった。夜の空を溶かしこんだような髪をおろし、揺らしながら歩いている。紺色のプリーツスカートから伸びる足は堂々と真っ直ぐに歩を進め、背筋はしゃんと伸びていて、凛々しさすら感じる。

 君尋や悠、他のどの生徒とも比べ物にならない空気をまとった彼女。自然、君尋の目が彼女に引き寄せられる。

 と、不意に彼女の視線が君尋のほうに流れた。目が合う。――夜を思わせる、真っ黒で深い瞳の色だった。

 瞬間的に、背筋に寒気が走った。昨晩のあの女を、全く予想していなかったところで見つけてしまった! 悠への相槌が不自然に途切れ、「君尋~?」と声がかけられても反応ができない。ただただ、君尋の脳内では警報が鳴り響く。

 彼女は君尋に対して笑みを深めて見せ、しかしすぐに歩き去っていった。花がほころぶような、儚く美しき笑みだった。

 気がつけば目の前に校門があり、校庭を挟んだむこうにある校舎に、たくさんの生徒が吸い込まれていくようだった。すっかり人混みに紛れてしまった彼女の後ろ姿を見て、昨晩の記憶を引きずり出された君尋は、小さく震えた。見つかってしまったと思った。思考が端から、じわりじわりと恐怖が染めていく。


「なあなあなあなあ、キミちゃんキミちゃんキミキミちゃん!」


 もちろん君尋の変化に気づいていない悠は、興奮気味に肩を揺らしてくる。「なんだよ」とおざなりに返せば「あれって東藤とうどう先輩だよな、そうだよな!?」と、きらめくほどの笑顔をむけてきた。


東藤とうどう先輩……? 誰だ、それ」

「知らねえの!? 三年の、めっちゃ有名な東藤とうどう麗夏レイナ先輩! 噂に違わぬ美人さんだったぜ!」

「……ふぅん」


 東藤とうどう麗夏レイナ。脳裏にその名前を刻みながら、君尋は恐怖心を心から掃き出す。

 叫びだしたくてたまらなかった。どんな噂だかは知らないが、悠がはしゃぎ「会いてえ話してえお近づきになりてえ!」と騒ぐほどの価値ある女じゃないぞと。


(喜々として人を斬りつけていためつけるようなやつだぞ)


 あれは絶対、美人ですむような存在じゃない。

 心中でもう一度つぶやいた君尋は、そっとため息をついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼囃子 唯代終 @YuiTui

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ