第3話 目撃

 よ。

 ――そう声が聞こえた気がして、君尋の意識が浮上する。

 真っ暗な室内。時計の秒針がチクタクと動く音、外でバイクが爆走しているエンジン音が聞こえる。自分の呼吸がひどく荒いことに気付くと同時に、耳の奥でバクバクと鳴り響く鼓動、じっとりと冷や汗で濡れた背中を自覚した。


「変な夢、見たな……」


 意識して深く息を吐き出してから、上体を起こす。どうにも身体が気だるく重い。心中になにかを無理やりつめ込まれたような気持ちになり、切ないのか怖かったのかすらわからなくなる。

 閉じられたカーテンの隙間から、月光が差し込んでいる。……まだまだ、遅い時間のようだ。

 未だにうるさく響く心の臓に手を置いて、服をぎゅっと握る。それからゆっくりとう数えた。すると徐々に鼓動は落ち着き、鼓膜の奥で響いていた音も静かになる。


「……ふぅ」


 腕を伸ばし頭上へ。手探りで枕元にある携帯を探し、見つける。ガラケーと言われるそれを開いて、画面を確認。煌々と輝く眩しいディスプレイには、〈AM 02:03〉と記されていた。草木も眠る丑三つ時……というやつである。

 明日――すでに今日と言ったほうが正しいだろうが――も平日だ。学校がある。もう一度意識を夢にむかって溶かす必要がある。

 次は楽しい夢が見られるようにと祈りながら、君尋は目を閉じる。

 ゆるやかに呼吸を繰り返し、落ち着く格好を探して寝返りをうち、なんとなく冷える足先を縮こまらせて、布団の端を強く掴んで――……。

 そしてぱちりと目を開ける。


「寝れない」


 緩慢かんまんな動作でベッドから起き上がり、目にかかる前髪をかきあげる。頭は完全に覚醒してしまったようだった。

 床に散らばったままの漫画雑誌マンガざっし、脱いだまま部屋の隅に集めてある洋服類、勉強机の上には埃がたまっており、教科書が乱雑に積み上げられている。


「片付けでもするか……?」


 ベッドから出て、冷ややかなフローリングの床に足裏がついたとき。

 君尋の耳が、なにかを捉えた。


「……?」


 低く、腹の底を揺らすように響く、大地が直接発したかのような音だった。

 今まで聞こえていた、バイクのエンジン音とは比べ物にならない

 ――君尋の好奇心がうずいた。

 一体なんの音なのか、なにが発しているのか、目的があるのか、何故この時間に聞こえるのか。気になってたまらなくなる。

 そろりと足音を忍ばせて、窓辺にむかう。ぴたりと閉じきられていた青いカーテンをほんの少しだけひらき、ちらと外を見る。月光か街灯かの白い光が部屋に差し込んで、君尋の目を刺激した。数度まばたきをし、君尋は目を慣らす。

 明るさに慣れた君尋の目が捉えたのは、たったひとりの男の姿。ピシッとスーツを着こなして、まっすぐに背筋が伸び堂々とした立ち姿の男のみ。眼下に伸びる道路の上、彼は頼りない足取りで歩み続けている。


(さっきの音ってまさか、あの人の声……?)


 まさか、と思った。そんなはずない、とも思った。と同時に、大地の音はあの男のものであるという、謎の確信もあった。

 そしてまた、腹の底を揺らす音――否、男の声があたりに響く。

 男は、なにかを探しているような様子だった。数歩歩いて足を止め周囲を見回し、また数歩歩いて周囲を見る。

 単調な行動の繰り返しに、君尋の背筋にぞっとしたものが走る。しかし同時に未だくすぶる好奇心を満たすため、窓に張り付き外を見つめ続けた。

 しばらく男を観察していると、彼の背後からひとつの人影が姿を現す。

 年の頃は君尋とそう変わりないように見える女だ。高校生……多く見積もっても、大学生になったばかりくらいの見目の女。タートルネックに動きやすそうなホットパンツ、膝まで覆いそうなほど長いロングブーツを履いて、揺れてはねる長い髪を高い位置で結んでいる。

 面白いくらい、女の全身は真っ黒だった。

 まるで夜の闇にまぎれるためのようなよそおいだ、と、君尋は思った。

 男は背後の彼女に気付いていないのか、未だに探し物を続けている。女も女で、彼の動作などお構いなしといった風に、ゆっくりと確実に、彼との距離を詰めていく。

 ――どうしようもないくらいの嫌な予感が、君尋の頭を駆けていく。


(なにをするつもりだ)


 よくよく見ようと、君尋は目をこらす。

 そして気付いた。女の手が、光るを握っていることに。

 不規則に光を反射しているは銀色に輝いており、授業で見慣れた三十センチ定規よりも長そうだ。反射している部分は異様に波打っているようで、その波が光を跳ね返しているようだった。

 棒、と呼ぶにはいささか鋭利。板、と呼ぶには長さがある。女はそれを握りなおすと、思い切り地面を踏み込んで駆け出した!

 女はあっという間に男のすぐ後ろにたどり着く。そしてを高らかに振り上げて、男の背に思い切り振り下ろした。

 瞬間。あたりに飛び散る黒いインクのような液体と、大地が割れたかのような低く響く悲鳴。女はそのインクを全身に浴び、服や顔を湿らせる。

 背中をで殴られ液体を散らした男はその場に倒れこみ、コンクリートの上に這いつくばった。

 殴られた背中をかばうような不自然な体勢で地面に転がる男と、彼の様子を無感動に眺めながらを左右に払って液体を飛ばす女。

 ひゅっ、と。君尋の喉が音を立てた。背筋をムカデが這い回っているような感覚に、ようやく恐怖を自覚する。つかんだままだったカーテンを、しわがつくほど強く強く握りこむ。

 は、なにかなんていう優しいものではない。あれは短剣だ、凶器だ。人を傷つけて殺す武器だ。

 外では君尋のことなどお構いなしに、ことが進んでいく。

 女は、笑っていた。それはそれは楽しそうに、口元をゆがめて。頬に飛んでいた返り血を手の甲でぬぐう。それから、女の足元で未だ転がってもだえている男を見つめ、一層笑みを深める。まるで苦しんでいる男の様子を、面白がっているようだった。

 短剣を構えなおした女はまた大きく振りかぶり、男にトドメを刺そうとする。――が、それは叶わなかった。

 女が武器を振り上げたわずかな隙をつき、男は立ち上がりよたよたと逃げたのだ。

 その足取りはひどく頼りなくふらついていた。真っ直ぐ歩けていなかった。背中から黒い液体をぽたぽた垂らし、道路に斑点を残しながら、確実に着実に女から距離をとる。

 しかし女は、彼を追いかけなかった。

 短剣を振り上げた体勢のまま固まって、逃げく男の姿を見送っている。口角を持ち上げ笑ったまま、逃げる男を見送っているのだ。追いかければすぐに追いつくだろうに、とどめを刺すことなど造作もないだろうに。

 女は手負いの男を、なにも言わずに見送った。

 そして彼女は足元に視線を落とした。つられて君尋も、コンクリートの無機質な地面に目を落とす。

 そこには、男が残していった黒い黒いが、点々と残っていた。

 女はそのを踏みつけ高らかに足音を響かせて、男のあとを追い始める。堂々と、ゆったりとした足取りだった。握っている短剣をくるくると手の中でもてあそびながら男を追いかける姿は、狩りを楽しむ猛獣を彷彿ほうふつとさせる。

 そのまま女は、道を進んでいき、見えなくなる。――と、君尋は思っていた。

 突然女は歩みを止めた。そうしてゆぅるりと振り返り、君尋の家の方向を見る。

 ――否。女の視線はまだ動き続けている。

 君尋の家を見、玄関を見、出窓を見、壁を伝って二階を見、君尋がいる部屋の窓まで登って、視線の上昇がぴたりと止まる。

 女と視線が、かちあった。夜を閉じ込めたかのような真っ黒な目をしていた。

 君尋の背筋に、冷たいものが伝う。足は石膏で固められたように動かない。まばたきすらも忘れてしまうほどで、まるでなにか、見えない糸に縛られているみたいだ。

 どれほど時間が経っただだろうか。十秒だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。

 そうして二人が見つめ合っていると唐突に、女がふわりと微笑んだ。桜の蕾がほころぶような柔らかな笑みだった。

 そして彼女はあっさりと視線の糸を断ち切ると、また高らかに足音を響かせを踏みつけながら、男が消えた道の先へと歩き始める。

 道路を打つ足音が夜に響き、そして、遠ざかっていった。

 ――窓の外に、いつもの日常が戻ってくる。

 君尋はしばらく、動かなかった。

 動けなかったと言ったほうが正しいのかもしれない。何度も何度も窓の外を確認して、人が通らないことを確かめて、それからやっと、大きく息を吸って吐く。足から力が抜け崩れ落ちるように座り込みながら、それでも握りしめたカーテンを離せなかった。

 抑えきれない恐怖、湧き上がる不安。自分が今生きていることへの安堵と、斬りつけられた男の心配。そしてなにより、女の笑みが瞳に焼きついて脳裏をちらつく。

 しかりと目があったのにも関わらず、女は君尋に対して微笑んだのだ。真っ黒な、夜のような瞳をほころばせて、それはそれは美しく柔らかく。


「俺、殺されるのか……?」


 声に出してしまったが故に、ずしんと不安がのしかかってくる。

 壁に背を預け、力の入らない身体を縮こまらせ膝を抱え、寒気か不安かで震えながら、君尋はただ、ただただ必死に、早く夜が明けることを願った。

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