歩み
ささなみ
歩み
身を強張らせてうつむきながら、電車に揺られる。
行き場をなくした視線をひとしきり落ち着きなくさまよわせてから、あゆみはぎゅっと目を閉じて、目的の駅に着くまで眠ったふりをした。
母校を訪れるのは、卒業以来になる。五年ぶりだ。あゆみは懐かしい廊下を歩き、真っ直ぐに保健室へと向かう。入口の前でふう、と一つ息を吐いてから、気合いを入れてドアをガラッと開けた。
「……奥村先生」
窓際の机で何か書き物をしていた白衣の女性が顔を上げる。記憶にあるものとほとんど変わらない、丸顔で可愛らしい面差し。
「あゆみちゃん」
優しげな瞳をさらに細めて笑うその姿も、全然変わらない。懐かしさで胸がいっぱいになりながら、あゆみは奥村先生に駆け寄った。
在学中から身体が弱くて不登校気味だったあゆみは、しょっちゅう保健室のお世話になっていた。高校二年生の時に赴任してきた新任の奥村先生は、大学を卒業したてのほやほやで、年が近かったこともあってあゆみの良き話し相手だった。
「久し振りね、あゆみちゃん」
ちっとも変わらないその優しい声に、急に涙がこみ上げた。先生の机の上に置かれている黄色い薔薇の花束が、歪んだ視界の中で鮮やかに目を射る。
「あらあら、どうしたの」
先生は慌てた様子で席を立って、大丈夫?とあゆみの背中に手を添えた。あゆみは涙を拭き、急に泣いてしまったことを謝ると、ぽつぽつと話し始めた。
大学に入学してから、友だちと呼べるような相手が出来なかったこと。大学に行くのがつらくなって、休みがちになってしまったこと。運良く就職が決まり、何とか大学を卒業して就職したものの、毎日のようにミスをして上司に嫌味を言われること。高校時代の友だちとも予定が合わなかったりでだんだん疎遠になりつつあること。今まで誰にも相談出来なかったこと。
奥村先生は、しんどい、とこぼすあゆみの話にじっと耳を傾け、背中を撫で続けてくれた。
「急に遊びに来るって連絡くれたと思ったら、そういうことだったのね」
話し終えたあゆみの顔を見詰めて、先生は静かに呟いた。
「あゆみちゃんは、頑張らなきゃ、と思ってちょっと無理しちゃったんじゃないかしら。一番輝きを失ってしまったのは、周りではなくて、あなたの心だと思うわ。あなたとっても疲れ切った顔してるもの」
ゆっくりと言い聞かせるように言いながら、先生は机の上の花束から薔薇を一輪手に取った。
「焦らなくていいのよ。ゆっくりして、私とでもいいからおしゃべりして、綺麗なものを見て、そしたら少し元気になるかもしれないわ」
そして、その薔薇をあゆみに向かって差し出す。
「この花束ね、昨日卒業式だった子たちにもらったの。今から花瓶に活けようと思ってたのよ。あゆみちゃんにもあげるわ。お疲れ様のプレゼントよ」
差し出された薔薇を受け取って眺めると、暖かな黄色がじんわりと胸に染み入るような気がした。
「知ってる? 黄色い薔薇の花ことば」
ふっと笑みをこぼして顔を上げたあゆみに、先生が問いかける。泣いたばかりでまだ少しぼんやりした頭で考える。
「えーっと……別れ?」
確か嫉妬とか別れとか、そういうマイナスの意味の花ことばだったような気がする。こんなに暖かな色をしているのに。
「いいえ、良い意味の花ことばもあるのよ」
「えー……何ですか? 分かんない」
いたずらっぽく微笑んでみせる奥村先生に、答えを要求する。
「友情」
にっこりと笑った先生の顔が、また少し滲んだ。
「友だちなんて、何歳からでも作れるのよ」
ぽん、と叩かれた背筋が、しゃん、と伸びた。
どうしてだろう。あんなにどんよりとして、その重みに潰されてしまいそうだった気分が、今はとても軽い。
「今度ねえ、フラワーアレンジメントを習いに行こうと思うんだけど、あゆみちゃんも一緒に行かない?」
――行きたいです!
言葉が口からひとりでに滑り出た。そうこなくっちゃ、先生が薔薇のようにふんわり華やかに笑う。
「そうそう、そういえばね」
先生が、ふと思い出したように言った。
「その薔薇の名前ね、あゆみ、っていうのよ」
まさにあゆみちゃんにぴったりよね、と嬉しそうに手を合わせる先生を見て、あゆみの顔も自然とほころぶ。
「あゆみちゃんは、あゆみちゃんの速度で歩いて行けばいいのよ」
不思議だ。先生の言葉は、すとんと真っ直ぐ胸の中に落ちて行く。暗澹としていた気持ちに光が差し込み、ドキドキし始める。そうだ。何も無理しなくていい。私のことを見てくれる人は、まだいくらでもいる。疲れた時は立ち止まって、ゆっくり歩いて行けばいい。
帰りにお洒落な雑貨屋さんに寄って、この薔薇に似合う素敵な花瓶を買って帰ろう。そして、先生にメールして、フラワーアレンジメントの教室に通う予定を立てよう。
「先生、ありがとう」
帰りの電車は、顔を上げて乗れそうだ。
歩み ささなみ @kochimichiko
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