桶の鯛
@flizvonx
第1話
人の気配がするので兵衛が玄関に赴いてみると娘のお初が小奇麗な格好で上がり框に腰を掛け下駄を履いていた。
脇には鯛が四尾入った桶が置かれている。
兵衛は微かに溜息をつくとお初に声を掛ける。
「お初、隣か?」
「はい、小鯛が安かったといってお春が無駄に求めてきましたので、お隣にお裾分けしに参ります。」
お春というのは家で使っている小間女中でお初とは仲が良い娘だった。
兵衛は桶の中の鯛をじっと見つめる。なかなか立派な鯛の鱗がてらてらと美しい光を放っている。
小鯛というには少し大きいのではなかろうか。
安いとはいえ、鯛がくれてやるほども安かろうはずがない。
兵衛の家は今はさる理由から家計が苦しかった。
「お初、今の家の状況はお前も判っているはずだ。
兵馬の家に行くのはいいが、そう高価な土産をいちいち下げていくこともあるまい。」
そう言うと、お初がたちまち顔を赤くし憮然として抗議する。
「父上、これは余った魚です。お隣からも時折いただきものをしているではありませぬか。
それに、兵馬殿に会いに行くわけではありませぬ。」
確かに隣の家も何を作りすぎただの、頂き物のお裾分けだのといって月に一、二度は何かしら持ってくる。
持ってくるはいいが、いつも持ってくるのは兵馬でそれを必ずお初が出迎え、
部屋に招じ入れ小一刻ほど何やら歓談するのが常であった。
こう言えば兵馬とお初の仲がいいと思えるかもしれないが、
傍から一見すると兵馬とお初は必ずしも仲が良いとも言い難かった。
というのは、歓談から兵馬が辞すまで二人が仲良くしているのは稀であったからだ。
最後まで仲良くしているのは十に三つぐらいで、三つぐらいは兵馬が席を蹴立てるように出ていき、
残りの四つはお初が血相を変えて兵馬を追い払うかのように退散させる。
見ていると、いざこざは大体お初の要らぬ一言から始まることが多いようだった。
そんなことを思いつつ、下駄を履き立ち上がろうとするお初に声を掛ける。
「わかったわい。お隣によろしくな。・・・それから、言葉に気をつけろ。」
「わかりましたッ。」
お初はプイっとそっぽを向いたまま憮然とした様子で応えるや桶を引っ掴み足早に出かけていく。
その様子を眺めつつ、そういえばここ最近は兵馬は来ていないようだったなと思う。
傍から一見すれば兵馬とお初は犬猿の仲にも見えるだろうが、その実、共に好意を抱いていることを兵衛は知っていた。
実際、お初が十六の頃、隣家とは縁談の機運のようなものが高まった節がある。
節があるというのは、確かな話であったという訳ではなく、家中において家内のお登勢が事ある毎に兵馬の話を出し
それとなく褒めて聞かせ、時には、お初もお年頃ですねと曰くありげに付け加えるなどしていたのみで
それ以上のはっきりした話は兵衛はなんら聞かされていなかったからだ。
ただ、その折には、偶に兵衛が隣家のものに出くわすとなにやら慇懃に挨拶をしたきたもので、
当時の兵衛にとってみれば何やら兵衛抜きの陰謀が進んでいるかのような薄気味悪さを覚えたものだった。
ある時、食事の最中にまたお登勢が兵馬の話を持ちだした。
「兵馬殿がついに細川道場で目録いただいたそうです。」
「ふむ、それは立派なことだ。細川道場といっても目録は目録だからな。」
藩内には良家の子弟が通う今泉道場とそうではなく比較的下級の侍の子弟が集う細川道場があった。
評判では、技の切れは今泉道場に冴えがあり、細川道場は一歩劣るというのが大方の見方であった。
「そんなことを仰って。あなただって細川道場で免状を得たのではありませんか。」
兵衛は時折家老職を排する藩内にあっては名家といっても差し支えない家柄であり、
実際、兵衛もその当時は家老職にあり藩政を取り仕切る立場であったが、
その名家の先代、つまり兵衛の父は変わり者で、何を思ったか渋る兵衛を細川道場に強いて通わせた。
これには、兵衛は大いに腹を立てたものであったが従う他なかった。
ところが、それが良くしたものか、兵衛は今泉道場に通えぬことから却って発奮し、めきめきと腕をあげていった。
やがて、道場主から免状を許されるまでの腕前に達すると兵衛の今泉道場に対する劣等感は完全に消え失せていた。
今でも内心は細川道場が今泉道場に劣ることはこれっぽっちもないと思っていたが、
兵衛はそんなことはおくびにも出さずに言う。
「確かにそうだが、その俺でも今泉の神岡には勝てなかった。」
神岡とは、今は藩主の剣術指南を務めるほどの腕前で、当時も今泉道場の首席を務めた俊才であった。
兵衛も免許を得た当時は細川道場の首席であったが、毎年開かれる御前試合で神岡と七度に亘って対戦したものの
勝てたのは僅かに一度に過ぎなかった。
「それは神岡様は別でございますよ。なんといっても藩の師範・・・。」
そうお登勢が語を次ぐ内に兵衛の心中では当時の神岡に対する敵愾心がめらめらと蘇ってくる。
「別なことあるかっ!俺も剣の腕で藩の・・・」
思わず言いかけて兵衛は口ごもる。
「・・・藩の?」
「・・・いや、いい。兎に角、昔の話だ。細川が今泉に一歩劣るのは事実だ。」
そこで黙って話を聞いていたお初が口を挟む。
お初自身も女だてらに主に良家の子女が集う小野道場で首位争いに加わる程の腕前であった。
「父上、道場が劣っている訳ではございませぬ。人それぞれの腕前、でございましょう。」
その言葉が神岡の話でもやもやとしていた兵衛の勘に障る。
「何っ!」
その言葉をお登勢が封じるように割って入る。
「お初、口が過ぎますよ。あなたはいつもそう。誰に似たんでしょう。」
その言葉がまた兵衛の勘に障る。
「何っ!」
そこへお初がまた割って入る。
「申し訳ございませぬ。以後気をつけます。」
「・・・。」
藩内では切れ者として知られていた兵衛ではあったが、
私邸においては家内のお登勢と娘のお初がみせる連携の前には黙る他ないのが常であった。
だが、しかし、このときの兵衛はいつもとは違った。
手に持っていた椀を膳の上に置き、お登勢とお初を見やる。
するとお登勢とお初もそれに倣うようして椀を膳に置き神妙に兵衛を伺う。
兵衛が家の中ではめったに見せない重々しさで口を開く。
「この際、ひとつはっきり言っておこう。」
お登勢とお初が黙って聞き入る。
「兵馬は確かに立派な若者だが、お初の婿はこの家を継がねばならん。
隣家を侮るわけではないが、お初の婿にはいずれ然るべき良家の子弟を儂が迎え入れる。」
そこまで聞いてお初が声を挙げる。
「で、でもっ・・・」
それを兵衛は家長の威厳を込めて一喝する。
「この話は終わりだ!」
お初が顔を俯けるのを余所に兵衛は椀を取り上げ箸を動かし始める。
お初は黙って一礼すると席を辞し部屋から出て行く。
その様子を目の端に捉えつつ飯を食みながらそれとなくお登勢の様子を伺うと、
しばらくじっとしていたお登勢は無言でこれも椀を取り上げ箸を動かし始める。
この後、実に一月あまりにも亘ってお登勢もお初も最低限のことを除き兵衛に口を開かぬようになったのには、
兵衛は実に閉口した。
そんなことを思い起こしつつ、兵衛は思う。
当時は家老にあったものの藩主の怒りに触れ、表向きは加療のためのとされるが、
事実上の蟄居である身の俺が最早家格などを気にする必要があるのだろうか。
当時十六であったお初も今はもう二十一を数え、行かず後家との噂がちらほらと聞こえ始めていた。
別にお初の器量が悪いということはなく、寧ろ器量良しで街で行き交う若者の視線を集めるほどであったが、
気性が激しく一旦ヘソを枉げると、手に負えないことを知ってか知らずか、近づこうとする者はいなかった。
このお初の気性は兵馬との話を禁じた例の一件以来ますます悪化したように見えた。
現に、以降、兵衛がその都度苦心して見つけ出した十数人の縁談相手は、お初と話をした後に、
それぞれ体のいい言い訳で縁談破棄を申し出るのが常であった。
これは絶対大丈夫と鷹揚な性格を重視し、その他は随分妥協した上でお初にあてがった最後の縁談相手も
三回ほどお初と会うと腰痛が悪化したとかいう今迄でおそらく最も愚劣と思える言い訳話を持ち出し
縁談の取り消しを求めてきた。
随分な妥協を重ねていた兵衛はどうにも納得がいかず、
恥も外聞も捨て内々にその縁談相手に話を聞きに行くと、初め渋っていた男であったがついには口を開き、
「お初殿は縁を結ぶ気がありませぬ。わざと拙者を愚弄するかのような言辞を度々弄する。
この話はなかったこととさせていただきましょう。お断りいたします!」
ときっぱりと言い放った。
縁台に茶を運ばせ庭の風景を眺めつつ茶を啜っていると隣家から微かに兵馬のものと思しい笑い声が聞こえてくる。
事ここに至って、兵衛は兵馬に望みを託すより他ないかもしれぬと思い始めていた。
兵馬は既に数えきれぬほどお初の毒気にあてられているはずであったが、それでもあのように懲りることがない。
もし俺が兵馬であったなら、二、三度もお初の毒気にあてられたならば二度と話そうとは思うまい。
そう思うと兵馬が不思議と途方も無い大物のように思えてくるのであった。
「楽しそうなこと。」
いつの間に来たのか、お登勢が隣に座りつつ言う。
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